第一話 転生
――あのお話の聖女様なら……
痛みはなかった。けれど、それが逆に、現実味を奪っていた。
倒れた視界の先には赤く染まったアスファルト、耳には誰かの悲鳴。遠くでサイレンが鳴り響いている。
ああ、これで終わりなんだ。
不思議と恐怖はなかった。ただ、もう少し普通の人生を送りたかったな、という漠然とした後悔だけが胸を満たしていた。
私は、ごく普通の学生だった。
特技もなければ、際立った才能もない。成績は平均よりは少し良い方。友達は少ないけれど、それなりに楽しい日常を送っていた。
唯一の趣味は本を読むこと。図書館で借りた本を部屋で読みふける時間が、私にとって何よりも幸せな時間だった。
目立たず、平凡に、それでも楽しく生きていきたかった。
意識が遠のく中、私の脳裏に浮かんだのは、つい最近読み終えた物語だった。
『聖女クラリスの軌跡』
銀髪の聖女が仲間とともに魔王討伐の旅に出る。
そこまではよくある話なのだけれど、その物語の聖女は何度も何度も傷つき、時には魔物に捕らわれ、辱めを受けながらも、決して諦めずに立ち上がり、最後には魔王を倒すという内容の大人向けのファンタジー小説。
どうして今、あの話を思い出したのだろう。
そんなことを考えながら、私の意識は闇に沈んでいった。
* * *
「……――……―」
暖かい。何かに包まれている。柔らかくてふわふわした絹の感触。
誰かの声が聞こえる。
重たい瞼を必死に開けると、知らない人たちが私を囲んでいた。見下ろすようにこちらを見つめている。男性と女性、そしてその周りにも数人。
――……え、だれ!?
「……ぁ、あっ、ぅ……」
「あなたたちは誰ですか!?」と聞いてみようとしたが、出てきた言葉は情けない音で、うまく言葉にならない。
――もしかして、命は助かったけど重症なのかな……あれ?でも、意識はあるのよね。
ひとまず状況を確認しようと思い私は体を起こそうとしたが、思うように動かない。やっと動いた手は、小さくてぷにぷにしていた。
――何、この赤ちゃんみたいな手……
もう一度、今度は「はっ」と勢いをつけて、起き上がろうとする。
「ぁー」という音とともに、その小さな手が少し動く。
――……
小さく開いた手をギュッと握ってみると、指の一本一本がぷるぷると震えながら少し動いた。
――……私の手だ。
――赤ちゃんになったの!?
状況が理解できずおろおろと困惑する私。
周りの人たちが何か言っているようだけど、言葉もよくわからない。
けれど、その声は優しくて、嬉しそうで、愛おしそうな声だった。
幸せそうな顔。みんなが私を見て笑っている。
いつの間にか、私はこの暖かさに包まれて安心していた。
――あれ?何だろうこれ……
私の瞳には、幻想的な光景が映っていた。
目の前の人たちの周りを、優しく包み込むような光。いや、光というより、うっすらと色づいた『靄』のようなものだった。
男性の周りには茶色っぽい靄が、女性の周りには青い靄が、それぞれ揺らめいている。
――きれい。
そう思いながら、私は再び眠りに落ちていった。
* * *
私の名前はユミナ・エルデガルドとなった。
レガリア聖王国のノックス辺境領を治める、エルデガルド男爵家の一人娘として生まれたらしい。
六歳になった私の銀色の髪は肩まで伸び、母と同じ翡翠色の瞳を持っている。
父の名はマグナ・エルデガルド。がっしりとした体格で、茶色の髪に優しい瞳を持つ人だ。
貴族というよりは頼れる村長といった雰囲気で、領民からも慕われている。
赤ちゃんの時に見えた茶色の靄、それは地属性の魔力だと後に知ることになる。
母の名はエミリア・エルデガルド。翡翠色の瞳が美しい、優しい女性だ。
元は教会のシスターだったそうで、治癒魔術や薬草の知識を持ち、この領地では医者のような役割も果たしている。
母の周りに見えた青い靄は、水属性の魔力だった。
そして私、ユミナの周りには風属性の緑の靄が揺らめいていた。
* * *
「それじゃあ、お勉強を始めましょうか」
一緒に昼食の後片付けをした後。母が優しく微笑みながら声をかけてくる。
私は自室から使い込まれた学習道具を持ってきた。
「ユミナも六歳になったことだし、お勉強の前に、ちょっと魔力についてお話ししましょうか」
母がそう言って、自分の手のひらをかざした。そこには青い靄、水属性の魔力が揺らめいている。
「魔力というのはね、目には見えないものなの」
――やっぱりそうなのね。
薄々と感じていたことだった。
「でも、感じることはできるわ。ほら」
母が目を閉じて、深く息を吸う。
「自分の周りに、温かいもやのようなものが漂っているでしょう?それが魔力よ」
「ユミナも、目を閉じて感じてみて」
言われるままに目を閉じる。
確かに、温かい感覚がある。でも、目を開ければちゃんと緑色の靄が見える。
「……感じます」
嘘は言っていない。感じるし、見えるのだから。
「そう、よくできたわ。魔力を感じられるということは、ユミナにも魔術の才能があるということね」
母は目尻を下げて、愛おしそうに顔をほころばせた。
――見えるって、やっぱり言わない方がいいかな。
――目立ちたくないし……これは私だけの秘密にしておこう。
「さあ、今日はこの文字を覚えましょうね。魔力のことも少しずつ教えてあげるわね」
「はいっ」
母が紙に文字を書いていく。
私は真剣な顔でそれを見て、自分の紙に書き、覚えていく。
本が好きだった前世の記憶もあって、私は文字を覚えるのが楽しくてたまらなかった。この世界のことを知りたい。どんな魔術があって、どんな魔物がいて、どんな歴史があるのか。
そして何より、あの光……いや、魔力のことを知りたかった。
魔力。
この世界には魔力というものが存在し、人々はそれぞれ固有の属性を持っているらしい。
火、水、風、地、雷、氷、これらが一般的な属性。そして稀に闇や光という属性を持つ者もいるという。
母との勉強を終えた私は人気のない村の近くの森の中にいた。
私は一人、地面に座り込んで『遊んで』いた。
周りには、誰もいない。母には「散歩に行ってくる」と伝えてある。
母と一緒に薬草を取りに来る場所で、何かあればすぐ戻れる距離だ。
「ふぅ……」
深呼吸をして、集中する。
自分の体を包んでいる透明な、でも私には緑色に見える靄。これが私の魔力だ。
赤ちゃんの頃から見えていたこの光は、魔力だった。人や生物を包み込むように漂っている不思議なエネルギー。
この六年間、私はずっとこの魔力で遊んできた。
魔力は体内から生み出されて、体を包むように広がる。
そして、魔力には意思が宿る。いや、正確には私の意思が魔力に反映される。
強く念じれば集まり、形を保つ。だが、集中が途切れれば霧散してしまう。
最初は何もわからなかった。ただ、自分の周りに揺らめく緑の靄を、なんとなく動かしてみようとした。
――これ、動かせるのかな。
掌に集まるように意識してみる。
特に変化したように思えなかった。
――う~ん、ダメなのかな……それならっ。
もっと強く、集まれえぇぇと意識してみる。
少し、ほんの少し動いたような気がした。
――あ!今、動いた……よね?
何度も挑戦してみる。魔力はすぐに霧散してしまうし、思った通りに動いてくれない。
――う~ん、さっきはできたのに……
一歳半くらいの頃、私はよく一人で庭の隅に座り込んで、両手をパタパタさせていた。
傍から見れば、赤ちゃんが手遊びをしているようにしか見えなかっただろう。
でも私は必死だった。この不思議な力を、どうにか制御したくて。
何度も何度も試して、ようやく少しずつコツを掴んでいった。
ある程度自分自身の意志で集められるようになると、今度は形を変えてみた。
――丸く、丸く……あっ。
形にならずパフッと霧散する緑の靄。
――もう一回!丸く、丸く……
またパフッ。
――……集中、集中。丸く、丸く……
三度目でようやく、小さな緑の球ができた。
「やったっ」
喜んだ瞬間、集中が途切れて消えてしまう。
複雑な形は無理でも、丸や四角といったシンプルな形ならその形に動かすことができた。
そして、ようやく魔力を飛ばすことに成功した。
最初は、集めた魔力の球を手から離そうとしただけだった。
――えいっ。
ポフッと手から離れた緑の球は、三十センチほど飛んで霧散した。
――ぁっ!でも、飛んだ!
何度も練習して、少しずつ飛距離を伸ばしていった。
そして……
――集まれ。
私の周りを漂う緑色の魔力が、ゆっくりと右手の方へ集まっていく。
――もっと……もっと濃く。
集中を高める。魔力が圧縮されていく感覚。それを感じながら、私は手を前に突き出し鋭い刃をイメージする。
「やっ!」
掛け声とともに銀色の髪がふわりと舞い上がり、圧縮された魔力が前方に放たれる。それはイメージされた形になり……
シュパッ!
目の前の細い木の枝がすっぱりと切れ、パサリと地面に落ちる。
放たれた風の刃は、枝を切りすぐに霧散してしまった。
「……やった」
思わず、にっこりと笑みがこぼれる。
詠唱なしで魔法が使えた。
母が村の人の治療に魔術を使っている様子を何度も見ていた私は、言葉に魔力を込めて詠唱することで魔術を扱えると知った。でも、私は詠唱をしなくても、魔力を直接操作することで似たようなことができたのだ。
「じゃあ、次は……」
母の姿を、その周りに漂う青い靄、水属性の魔力をイメージする。
私の体内で生成される魔力は、基本的には風属性。でも、この六年間の試行錯誤で、他人の、あるいは周りの魔力の色を見て、それを真似することができることに気が付いた。
意識を集中させて、自分の魔力の性質を変化させる。緑色だった私の魔力が、ゆっくりと青色に変わっていく。
そして、その魔力を手のひらの上に集める。
「……できた」
手のひらの上に、小さな水の球が浮かんでいた。
小さく呟く。ホッとした気持ちになると同時に水の球は霧のように消えてしまう。
「今はまだ一つ一つ意識しないとできないけれど、もっと練習すれば自然にできるようになる……かな?」
水の球が消えた手のひらをギュッと握る。
「ただ、このことは秘密にしておかなくちゃ」
人は一つの属性を持つというのが一般的で、稀に複数の属性を持った人が現れる。
魔術を使う際、その属性と術者の属性が一致しているのが最適であり、別属性の魔術も発動こそ可能だが魔力の効率が悪くなってしまう。
つまり……
複数の属性を持つということは『目立つ』のだ。
もう一つ、この六年間でわかったことがある。
魔力は筋肉のように、人の動作にも作用している。
意識的に魔力で筋肉を補助すれば、子供の体でも大人並みの力が出せる。疲れるのは早いけれど。
「あまり遅くなる前に帰らなくちゃ」
秘密の訓練を終えて私は立ち上がった。
* * *
「ユミナ、この本を読んでごらん」
母が一冊の古い本を差し出してくれた。
「魔物図鑑……?」
「ええ。この世界の脅威を知ることも、大切な勉強よ」
翡翠色の瞳が、少し悲しそうに細められる。
私は本を受け取り、ページをめくる。
そこには、様々な魔物の絵と説明が書かれていた。
巨大な牙を持つ狼。炎を吐くトカゲ。空を飛ぶ蝙蝠の化け物。
「……本当にいるんだ」
前世では、こんな生き物はファンタジーの中にしかいなかった。でも、この世界では現実。
「やっぱり危険な世界なのね……」
小さく溜息をつく。
でも、知識は力だ。魔物の特性を知っておけば、いざという時に役立つかもしれない。
私はページをめくる。
そこに描かれていたのは、スライム。
「スライム、粘液で獲物を包み込みゆっくりと消化する……」
――出たわね、ファンタジーの定番。
さらにページをめくると、また別の魔物が。
「オーク、力が強く特に若い女性を……」
――もういい!読むのやめよう!
パタンと本を閉じる。
でも気になってまた開いてしまう。
――い、いや、敵を知らないと対策できないし……
そう思って、私はページをめくり続けた。
そして……
「えっ?」
手が止まる。
そこに描かれていたのは、触手のような器官をいくつも生やした、おぞましい形状の魔物だった。
説明文を読む。
「テンタクラー。女性を捕らえ、苗床として利用する習性を持つ。特に魔力を持つ女性を好む傾向がある」
――これって、もしかして……
前世で読んだ、あの小説を思い出す。
聖女が、何度も襲われていたあの魔物。
まさか、本当にこの世界に存在するなんて……
「おや、ユミナ。そんな本を読んでいるのか」
背後から父の声がして、私は飛び上がった。
「そいつは女性を捕える怖い魔物だぞ~」
父がわざと怖がらせるように言ってくる。
「マグナったら、そんな脅かし方しないの」
母は父を軽く叩いた。そして、柔らかに目を細め、不安を溶かすような穏やかな笑みを投げかけ、私の頭を優しく撫でた。
「大丈夫よ、ユミナ。私が教会にいた頃には、もうほとんど聞かなくなっていたわ。討伐されたか、数が減ったかしたんでしょうね」
母の言葉は優しかったけれど、私の頭の中には別の考えが浮かんでいた。
――世界にはまだ、そういう魔物がいる可能性がある。
――そして、ノックス領では魔物が変異している。
――ということは……
この世界には、五百年前に魔王を倒した金髪の聖女の伝説がある。おとぎ話として語り継がれているけど、詳しい記録は失われている。
「そういうこと!?」
思わず声に出してしまった。
「ユミナ?どうしたの?」
母が心配そうに覗き込んでくる。
「あ、いえ……何でもないですっ」
慌てて首を振る。
でも、頭の中では確信が固まっていく。
――魔力の存在するファンタジーな世界、触手、捕らえる、苗床とそういうジャンルのお約束……
「ユミナ?どうしたの、顔が赤いわよ」
母が私の額に手を当てる。
「だ、大丈夫です!ちょっと暑いだけで!」
慌てて答える私。
父と母は顔を見合わせて、くすりと笑った。
これからどうなるんだろう……
私は魔物図鑑のページをそっと閉じて、深呼吸をした。
――大丈夫。怖いことはたくさんあるけど、私は私なりにできることを頑張ればいい。
――マイペースに、無理せず、それなりに諦めずに。
――何より、目立たず、安全に、平穏に暮らす。それが一番大事。
「ユミナ、夕食の準備を手伝ってくれる?」
「はい、お母様!」
母の呼びかけに、私は元気よく返事をして部屋を後にした。




