第32話
「どうしました?」
しかしエスリナはきょとんとした顔で首をかしげる。本当に何がなんだか分かっていないらしい。
「いや、何この猫の名前?」
「ネオグランデポデフチェンコですけど何か?」
「読み難いし、言い難いことこの上ないんだが!?何で猫の名前がこんな長いんだよ!そしてなんで若干ロシアっぽいんだよ!!」
物語冒頭にもかかわらず、泰志は声を荒げる。
しかし、ここで泰志は気付く。泰志はこの読者の4人目だ。つまり泰志より先にこれを読んだ人物が3人いる。じゃあその3人はこの名前に何の疑問を感じなかったのか、と。
「なぁ……泰志」
その3人のうちの一人目、一番物語を読み進めていた京一郎が呟く。
「何だ、どうし―」
京一郎の方に振り向いた泰志はそこで思わず息を呑んだ。
泰志の目の前には両目に大量の涙を溜め、鼻水を流す京一郎の姿があったのだ。
「ちょっと自分涙いいっすか?」
「ガチ泣き!?」
泰志はドン引きしながらも、何とかギリギリの理性を保ち京一郎にティッシュを渡す。
「え、お前なんで泣いてんの?」
「お前、馬鹿ヤロウ。これを読んで泣かないやつがいるかってんだ」
チーンと鼻をかみながら京一郎はフッといったように笑う。
「全くボキュムボーリンボチョムカラリッジ、お前は男の中の男だぜ」
「…………はい?」
「だからボキュムボーリンボチョムカラリッジだ。危うく排水溝に落ちそうなネオグランデポデフチェンコを身を挺して助けるシーンなんか胸が熱くなるぜ」
何を言ってるんだこいつは?という心情を泰志は隠しきれない。
「やっぱりボキュムボーリンボチョムカラリッジが一番」
「待ちな、当然一番はカターリナカッタカルトだろ?」
突然纏が立ち上がり、京一郎を射殺さんばかりに睨んだ。
「おいおいそっちこそ待てよ。確かに不良猫どもからネオグランデポデフチェンコを救ったカターリナカッタカルトも悪くは無い。だが、やっぱりボキュムボーリンボチョムカラッジの方が何倍もかっこいいだろ」
「馬鹿だねあんた、そっちはただ助けただけ。こっちはその後ネオグランデポデフチェンコにちゃんと進む道を提示して忍び込める遠距離トラックまで調べてるんだ。愛が違うんだよ愛が。分からないのか、この違いが?」
「落ち着いてください2人とも」
一触即発の空気が場を支配しそうなところで、その流れを今宵がせき止めた。そして2人の目線が自分に向けられたのを確認し、口を開く。
「一番はワフェナジェアンカクヘンカに決まってるでしょ?」
「お前ら何語喋ってんだよ」
彼らが語っているのは、主人公であるネオグランデポデフチェンコが家に帰る際に、世話になる猫たちの名前だ。
都道府県に一匹ずついる計算―帰路は最短距離を進むものではないらしい―で、その場所ごとに様々な猫ドラマが設定されている。
確かにぶっ飛んだ名前が目を引いてしまうが、内容に関しては非常に緻密になっており、都道府県をまたいでの伏線も張り巡らされていたりと、本格的な物語になっている。
そして感動のラスト、ネオグランデポデフチェンコが悪の帝王(猫)であるルッチャーナハッフミッチを今まで自分を助けてくれたみんな(猫)の力を借りることで退け、見事加奈ちゃんの家にたどり着くシーンは読者にとって100%涙無しでは語れない―後にこのクラスで泰志とイリス以外は号泣―シーンである。
完全に取り残された感がある泰志だったが、特に悲しい気持ちにはならなかった。
逆に『ダメだこいつら』という気持ちが心の大半を占めていた。
「おいイリスこれはどういうことだ?」
1人避難するように離れて弁当に舌鼓を打っているイリスに問いかける。
「あぁ、それはですね」
イリスは興味なさそうに半目で泰志を見る。
「姫様は人界から流れ来る本を沢山読んでいましたので、想像力が豊かになられまして、その影響からご自分でもよく物語をお書きになっているのです。それが中々好評でして、魔界でもそれなりの人気を誇っていたのですよ。まぁ私には毛ほども理解しかねる内容ですが」
「ラストフレーズにかなり力が入っているような気がするんだが?」
「聞き間違いでしょう。まぁ姫様があのようになられたのも、もとを辿れば人界の影響ということです。魔界の名だたる名家のご子息が姫様の容姿にノコノコ釣られ、性格に圧倒されてボコボコになって帰っていく光景を私は幾度となく見ています。もしかしなくても共感出来るのではありませんか?」
「言うな、今ものすごくそいつらに感情移入しちまったんだから」
思わず未だ見ぬ魔界のお坊ちゃまを泣いて慰めてやりたいと願ったのは秘密だった。
そしてこの物語がそう遠く無い未来に人界の絵本界に旋風を巻き起こすのは、泰志にはとてもではないが想像も出来なかった。




