他人の基準で生きる問題
日本語練習用で書いたエッセイです!:D
運動したことのない私の友達は言う、運動したらなんか周りが変に思わないか?友達は一人だけでなく、ほぼ皆そういうから多分これは一般的なことかもしれない。運動したいけれど変な目で見られるかもしれないと言う発想は、他人のことを心配して自分のことを忘れる。
運動って自分のためだし、変な目で見られても別にいいんじゃない?私はそういうふうに考え、人を構わずに雨が降っても走って真夜中だって運動する。運動には数多くのメリットがあってしないとバカでしか自分のことを考えられないほどだよ。ここで箇条書きでメリットを書くと面倒なほど多いから少しだけ教えてあげる。
皆当たり前に知ってるメリット以外は、
脳細胞を増やすメリットがあるんだ。コアラはあまり動かない動物というのは常識だと思うけれど、昔のコアラはよく動くんだ。昔っていつ?かわからないけれど遠く昔のことで、あのときのコアラの脳は大きく、今は小さいサイズである。人間にも適するみたいで、よく動く人とあまり動かない人に比べたらよく動く人のほうが頭がいい。どこで聞いたか今んとこ忘れたが確かにユーチューブで聞いたことがある。
他のよく知らない知識なら、運動した後に言葉の学習は早くなるって話。20%ぐらい効果的であるって聞いたこともある(自分で確認してもいい)新しい言語を学ぶなら運動したらいいと思うね、私だってよく運動してるし日本語も勉強してる。個人的に言うと運動はめっちゃ効く。
んでも、それを皆に教えたってところやる気はすこしだけ湧くけどやはり他人のことは気にしている。他に見られたらジャッジされるのを恐れているようだが、ここは私だって他人なんじゃないの?むしろこっちは経験が山ほどあるしそれでもジャッジせず運動に誘っているのにどうしても運動しない。普通ならこれを「この人、単に運動したくないだけで運動したいと言うのはただふざけてるだけ」で考えればおいておく。
しかし、なんで他人が気になるのを嘘にしたんだろう?本当の話ならやりたくないだけだし。本当にやりたかったら何が問題だろうとやるんだってはずなのに。他人に嫌われ嫌なことで言われるのは勿論嫌だと私も分かるけれど、そっちの何もしないよりマシだから黙っとけばいい。
「運動ばかりするだけの頭だ」
と友達に「バカにされているよ、後ろから」と言われたことがある。
私は笑ってバカを言い返して、「はいはい、六年かけただけの努力です。」
いじめをした人の方がもっと下の立場にいるのに良くも言ったねと思って、これが「周りの人に見られたらちょっと変と思わないか?」の話か?バカバカしい。
あなたを嫌うのはきっと上にいる人じゃない。初めて運動している人を見てると尊敬しかないよ、心には。もちろんこれはより上の皆に対して適する訳では無いけれど、多くの場合はこうだと思う。
他人を満足させるために行動を取るのは自分がないのと同じじゃないか?他人が思ういい生き方だって「良い」という形容詞は主観的であり、正しいのではない。「正しい」のほうが客観的なんだ。皆は別々の「黒白」を持ってるけど、これは自分で考えなければならない。もしくは、宗教を信じている人であればあまり考えなくてもいい。
それにもまして、自分を生きたいなら他人の基準で生きるより自分の夢とか野望の基準で生きた方がいいと思う。他人の基準に満足するより夢を叶えることに満足するほうが自分らしさを感じさせるんだと思う。