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第1話 異世界移転

 エアコンの煩い音とキーボードを叩く音だけが聞こえる事務所の片隅にいる。

「おい、ちょっと頼まれてくれないか?」

 俺の上司でもある総務部長の井浦さんがパーテーションの上から顔を覗かせている。効きの悪いエアコンのせいで広い額には汗が浮き出ている。

「えっと……、月曜日で良かったら。」

「今日は無理か。」

 俺はすみませんと謝って、またPCに向かってキーボードを打ち始めた。

 今日は大事な予定があるので、部長の依頼でも受ける訳にはいかないのだ。

 

 部署では一番下っ端だし、普段はフットワークも軽いので何でも屋の状態だ。先に言っておくけどパシリじゃないよ!

 昨日はご近所へのお中元を手配したし、今日の午前中は営業事務に中途入社した女性にお茶とコーヒーの淹れ方を教えた。ここは俺にも拘りがあるところなので志願したんだけどね。

 そんな何でも屋の総務の仕事は俺にとっての天職だ。色々な事を経験できるし、比較的自由に自分の考えやペースで仕事をさせてもらっているから、楽しみながら働くことができている。


 ふぅ……疲れた。

 

 切りの良いところまで資料を作り終えて、背もたれに体重を預けると、安い椅子が嫌なきしみ音を立てた。ふと時計を見ると、もう定時の6時を過ぎていた。集中していてチャイムが鳴ったことにも気付かなかった。

 慌ててPCをシャットダウンし、机の上の書類を引き出しにしまった。


 鞄を持って席を立ちあがると、近くで雑談をしているグループに声をかけられた。

「神津さんも一緒にどうですか?」

 ジョッキを持つしぐさをするのは経理部の田口だった。

「悪い。金曜日は妻との約束があって。前もって分かってれば行けるんだけど……。」

 歓送迎会、忘年会や暑気払いなど事前に分かるイベントには参加している。でも普段の金曜日は早く帰って妻とのコーヒータイムを楽しむことにしている。そして今日はコーヒー豆を買って帰らないといけないので余計に早く帰りたいのだ。

 ケーキに合うホットコーヒーにするか、それとも初夏とはいえ猛暑が続いているのでアイスコーヒーにするか。両方買うという選択肢もある。でもそれは帰りながら考える事にしよう。

 

 事務所を見回すとフロアの半分くらいは帰っていて、残りの半分はまだ仕事を続けている。残業するのは大体いつも同じメンバーだ。金曜日くらい早く帰れば良いのにと思う。だけど仕事のスタイルは人それぞれ。俺も自分の仕事のスタイルを認めて貰ってるから楽しく仕事ができている。

 俺はあまり残業はしない。たまに気づいたら残業になっていたということはあるけど、好き好んではやらないことにしている。

 

「おつかれ様です!」

 誰にともなく声をかけると、お疲れ様とまばらに返事がある。そしてすれ違った人からは「早いな、これか?」と酒を飲む仕草をされた。

「ははは、こっちです。」

 俺はコーヒーを飲む仕草で返した。その仕草が伝わったかは分からないが、その人は軽く微笑んで「そうか、お疲れ。」と言って席へと戻っていった。

 

 会社を出ると、自宅の最寄り駅近くにある行きつけのコーヒー豆専門店に向かうため、駅に向かって急いだ。

 6月に入ってくるとこのくらいの時間ではまだ陽は沈まない。そして何より蒸し暑い。汗が背中を伝って落ちていくがその途中でシャツに吸い取られていく。

 駅までに着くまで5分くらいなのだが、それでも汗は噴き出てきている。

 ほんっっとに暑い。今から秋が待ち遠しい……。

 汗拭きシートで顔や首筋や腕を拭きながら電車を待った。そして斜め前にも俺と同じ様にきっと暑さに文句を抱きつつハンカチで汗を拭いているサラリーマンがいた。


 電車に乗っても、そこはエアコンの冷気と周囲のサラリーマンたちの熱気が入り混じって生ぬるい空間になっている。俺はなるべく人と距離を取りながら今夜のケーキに思いを馳せた。

 ケーキは妻が毎週違う店で季節ごとのケーキや、新作など食べたことが無いものを選んで用意してくれるので、何が出てくるのかも楽しみの一つだ。

 俺自身もケーキバイキングにも行ったりすることがあるくらいの甘党なので、和洋問わずどんなスイーツでも美味しくいただける。たまに自分でも簡単なスイーツは作ったりする。フレンチトーストやパンケーキが多い。簡単だけど奥が深くて何度作っても楽しいし美味しいので飽きない。

 そしてコーヒーを淹れるのは俺の仕事。ハンドミルで粉にして、ハンドドリップで淹れるこだわりの一杯だ。

 

―――

 

 駅から出ると暑さにくじけそうになりながら、目的地であるコーヒー豆の専門店を目指した。駅前の大通りから1本入ると、コーヒーを焙煎している独特な匂いがふんわりと届いてくる。

 到着した店には軒先まで所狭しとコーヒーの器具や生豆が並んでいる。看板には「豆専門店 コーヒーロースター」とある。

 しかし、それらには目もくれずにまっすぐ店の中に入ると、所狭しと並んでいるコーヒー豆を順番に見ていく。俺はブレンドされていない特定の銘柄だけのストレートというものを好んでいる。世の中には様々なコーヒー豆があり産地や焼き方によっても味が違うので、それだけで十分に楽しめるからだ。

 今回はホットコーヒー用だけ買う事にして「コロンビア スプレモ」というものを選んだ。マイルドな口当たりと甘い香りが特徴だそうだ。

 この店では豆を選んでから焙煎してくれるので、焼き上がりまで15分程度の時間がある。その間に様々なコーヒー器具を見ながら過ごす時間も楽しいものだ。俺は会社で飲むためのドリップコーヒーを2パックほどカゴに入れた。そして、その隣に無造作に置かれた、見たこともない文字で書かれた木のパッケージに気が付いた。

 何だこれ?

 俺は興味を惹かれて、木のパッケージに手を伸ばした。しかしその手は木のパッケージを掴めずにすり抜けていった。

 驚いて慌てて手を引っ張り抜こうとしたが、それよりも強い力で吸い込まれ始めた。

 まじか!?ヤベッ

「た、助……!」

 声を上げようとした時には俺の体は、箱の中に吸い込まれてしまっていた。周りは暗くて何も見えない。ただ吸い込まれた時の感覚のままにどんどんと進んでいる。本当のところは方向感覚が失われていて、進んでいるのが前なのか後ろなのか、はたまた上なのか下なのかもわからなかった。

 

 どのくらい進んだだろうか。ふっと目の前が明るくなったと思ったら勢い良く飛び出した。

 俺の体はどこかの地面に投げ出されて勢いそのままに転がっていった。そして何か柔らかいものに当たってやっと止まった。その弾みで手に持っていたカゴやコーヒーのドリップパックが散らばった。

「いっったぁーーい!いきなり何するの?」

 ひっくり返って頭や腰を打ち付けた俺も痛いのは一緒だったのだが、痛む頭をさすりながら「ごめんなさい。」と反射的に謝った。

 その声の主の女性は目の前で尻もちをついていた。

 女性は金髪で少しウエーブ掛かった長髪と全身黒づくめのローブをまとっている。

 この季節にもコーヒー豆屋にも似つかわしくない格好をした不思議な女性だと思った。

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