第1話
あれから、どうやって帰ってきたのだろうか。気が付けば自分の部屋にいた。
どうやらあの衝撃的な日から丸2日も経っていたようだ。
泣きながら寝たせいか、顔はパリパリしているし瞼も腫れぼったく重たい。ただでさえ大きくない目が更に小さくなってしまっている。その証拠にいつもより視界が狭いのだ。ドレスも着たままベッドで団子になったせいで、しわくちゃになってしまった。あんなにお気に入りだったドレスなのに、今は目にするだけで悲しい思いが込み上げてきてどうしようもなくなる。
「お嬢様?」
ドアの向こうから私を呼ぶ声がした。それと同時に扉が開きメアリが顔を覗かせた。まだ物心つく前から私についてくれている10歳年上のメイドだ。
「お加減は…と聞くまでもないですね」
夜会で何があったのか把握しているのだろう。
遠慮なく部屋に入ってきて、丸まっている布団の中の私をポンポンとした。我慢していたのに嗚咽が零れる。
「うぇ…っ…ぇ」
「あーもう、そんなに泣いては体中の水分が無くなっちゃいますよ」
そう言われて毛布からほんの少し顔を出すと、腫れぼったい顔に冷たいタオルを当ててくれた。冷たいタオルが涙を吸い取ってくれると共に火照った顔を癒してくれる。
「はい、お水も飲んでくださいな。メアリはしわしわのおばあちゃんになったお嬢様のお世話なんてしたくないですよ」
「うっ…ぇえぇぇえ…ぇっく」
そんな言い方ないでしょ!って言い返したいのに、嗚咽が邪魔をする。
あんなに泣いたのにまだ涙が出てくるなんて、メアリが言うようにしわしわになってしまうのではないかと、ほんの少し心配になったけれど涙は止まってくれない。素直に差し出されるままにストローから水を飲むと、また更に涙が出てきた。悪循環じゃない、これ。と思ったけれど、体は水分を欲していたようで水は見る見る間にすっからかんだ。さらにもう一杯差し出されて、それも飲み干した。
「これでしばらくは干からびませんね」
いい仕事した、と言わんばかりに大きく頷くメアリ。
「もう、すこし、っ、やさしくして…ぇ!」
傷心している主人に対しての態度じゃないでしょう、これ。
メアリはいつもこうだ。どこかおちゃらけて主人である私に接してくる。絶対これは普通の主従関係ではないと思う。まぁ、それを咎めない私も私だが、そんなふざけた態度をやめないメアリもメアリだ。他所でそれをやったら良くて解雇。悪かったら不敬罪で首ちょんぱだ。ちょっとは感謝をして貰いたい。
「もう、わがままなお嬢様ですね。これ以上優しくされたいなんて」
絶対優しくされてない。
タオルと水はメイドの仕事の内でしょう。当たり前の行為だ。今、私が欲しいのは、慰めとか労りとか、そう、もっと精神的なものだ。
それなのに、おもむろに鼻を摘んで顔を顰めるメアリが次に放った言葉は、
「っていうか、お嬢様匂います」
である。優しさの欠片もない。
「うわ、くっさ、マジでくっさ!」
「言い方ぁぁ!」
メアリは嘆く私からひょいっと布団を取りあげた。
「ご入浴のご用意ができていますので行きましょうか、お嬢様」
有無を言わさぬ笑顔でメアリは言うと、後はもう彼女の独壇場だった。
抵抗する隙も無くあっという間に脱がされ、頭から指先まで念入りに洗われオイルで揉まれ、合間には水分補給も欠かさず、気が付けばつやつやに磨かれた状態で鏡台の前にいた。もしかしたら夜会前より磨かれたかもしれない。このメアリ、態度に問題有りだが仕事はすこぶる出来るのだ。
「さぁ、お嬢様キレイになりましたね。すっきりしたでしょう?」
「…むぅ」
確かにすっきりはしたけれど、素直に頷くには釈然としないものがある。
「メアリが心を込めて丹念に磨き上げちゃいましたからね。お嬢様に付いたアレ菌は一つも残っていませんよ。全部、このメアリが洗い流しましたからっ!」
「……あれきん?」
きょとんとメアリを見た。
「ええ、アレです。アレの分際でお嬢様のエスコートかつダンスまで踊ってくれちゃった分不相応なアレの菌ですよ。うん、アレの匂いもしないですし、いい香りです」
「アレって、菌って、…ラウル様の事?」
「え、何言ってるんです。アレの名前って『クズ』じゃなかったですか?」
いい笑顔で言い放つメアリだけれど目が笑ってない。
つまりあれだ。メアリ曰く、ラウルはばい菌扱いで、エスコートやダンスで触れた個所は全て洗い流したと。しかも「くっさっ」と言っていた匂いはラウル臭のことで、それすらも残ってないと、そう彼女は言いたいのだ。
「お嬢様の頭の中まで洗えるものならキレイさっぱりにして差し上げられるんですけどね!」
残念です、とわざとらしく肩を落とす。
もし本当に洗えるとしたら、メアリなら本気で洗うだろう。きっと思い出の一つ残らない。
とどのつまり、メアリは名前を呼ぶのも厭わしいくらい相当怒っているらしい。なにせメイドの身分で、伯爵子息を「アレの分際」だの「アレ菌」だの、更には「クズ」呼ばわりだ。
「ぶふっ……ありがと、メアリ」
「どういたしまして」
そしてこれが、これがメアリの優しさなのだろう。とっても分かりにくく、斜めすぎる行動だけれど。
メアリの優しさという名の力業的入浴で、身体的スッキリ感も得られたが、それ以上に落ち着きを取り戻している私がいた。悲しみはまだまだ襲ってくるけれど、ホンの少しだけ状況を顧みられる余裕が出てきた。
「…ねぇ、ラウル様…来た?」
こんなことになってしまった以上、婚約は続けられない。
そう思って聞くと、メアリは首を横に振った。
「アレからは連絡もございませんよ」
「コールデン伯爵家からも?」
「伯爵家からは文が届いたと聞いていますが、内容までは…」
きっと婚約解消の申し出だろう。
留学する2年前までは頻繁に交流のあったコールデン家だ。人柄の良いご夫妻で、将来、お義父様、お義母様と呼ばれるのが楽しみだと言ってくれていたのに、なんでこんな事になったのか。
「お父様は何か言ってる?」
優しくて、頼りがいのある大好きな父。母を亡くしてから再婚もせず、兄と私を育ててくれた。今回のことで父を落胆させていないだろうか、と心配になる。
「旦那様は大変お怒りでございます。もちろんお嬢様にではなくアレにですよ。抗議の文を出されたと聞いております」
父の様子にホッとしたものの、ラウルから何の連絡もないことに落胆が隠せなかった。
「言い訳も謝罪もないのね…、そんなに嫌われていたかなぁ…私…」
そう思うと涙がまた込み上げてきた。
思い出すのは、庭園で見た二人の姿。
ピンク色の髪の令嬢はとても可愛らしい大人の女性だった。身長が高めのラウルと並ぶと一対の人形のようで、とてもお似合いに見えたのだ。それに比べ私といえば、3歳も年下で、金髪の彼と並ぶと、明るめの栗色をした髪のせいもあってか兄妹のように見られることが多かった。この2年でだいぶ成長したとはいえ、ラウルにとっては妹のような存在だったのかもしれない。
確かにラウルとの婚約は家同士での決め事だったけれど、少なくとも私は彼が好きだった。
ラウルとの出会いは私が11歳の頃。丁度、母が亡くなった年の事だ。
3歳年上で兄の同級生だったラウルが、王立学院の夏休みのバカンスにご両親と共に避暑へ我が領内に遊びに来たのがきっかけだった。
その頃の私はかなりの内弁慶で、けれど兄の友人だというラウルの存在が気になって、兄の後ろからのぞき見しているような子供だった。そんな私を兄はうっとうしそうにしていたけれど、ラウルは慣れないながらも優しくしてくれて、休みが終わりに近づく頃にはすっかり懐くようになっていた。婚約が決まったのもこの時だ。
隣国との交換留学生に選ばれた際も、本当は心細かったし、家族も友人もいない異国での生活は慣れるまで辛いものだった。けれど、ラウルは名誉な事だと応援してくれた。私なら大丈夫だって、そう言ってくれたから必死に頑張ってこれたのだ。
会えない2年間も手紙を欠かすことなく交わしていたというのに、一体いつの間に好きな女性ができていたのだろう。手紙ではそんな様子は見られなかった。ずっとそのことを隠しながら、どういう気持ちで私への手紙を彼は書いていたのだろうか。
せっかくメアリがほんの少し立て直してくれた心がまた凹んでしまう。
「…メアリ…」
ん、と無言で手を伸ばすと、その仕草で察してくれたメアリはベッドの端に腰を掛け、私の頭を抱え込んだ。メイドとしては失格の行動。けれどそんなの今更だ。
「お嬢様はまだまだお子様ですね」
慣れた手つきで撫でてくれるメアリを力一杯抱きしめ返す。
「いいの。悲しいときはこうやって泣くのが一番良いって教えてもらったもの…」
それを私に教えてくれたのは幼き日のラウルで、それを実行するのはいつもメアリの役目なのだから。