陸
※段落修正致しました。
「戯れるのも大概にしておけ、そろそろ『影』が落ちてしまう」
紅月の発した一言で、朱音は瞬時に意識を目の前に戻す。
「そうだ、それ、もしかしてずっと私の影の中に居た……!?」
「……?いや、待て赤土の子。これはなにも、お前の影の中だけに潜むモノではないぞ。」
「え?」
「聞いた事ぐらいあるだろォ?さッきも言ったけどさァ、そいつァ『影法師』。厳密に言えば妖になる一歩手前の、嬢ちゃんの『影』に過ぎない」
「……妖になる一歩手前の、『影』……?」
影法師、とは確かに言葉だけなら知っている。だが明確な姿、形をこの目で捉えたことはない。影法師と聞いて、一定の個体を思い描ける人がいるのだろうか。
朱音とて言葉や、その意味は知っている。しかし、『影法師の正体』自体を把握していない、と表現するのが妥当なのかもしれなかった。
「灼の言う通り、影法師は妖怪ではない。単なる影、影が生み出した現象の別名だ。本来ならば『人の影』としての役割しか持たん、可愛らしい存在……の筈なのだが。」
「そいつァ、嬢ちゃんの飼う厄に引き寄せられて力を得てる。影法師は単なる影だが、そこから一歩はみ出して――妖に成りかけてンだよォ。」
「わ、私の影が?!妖怪に?!成りかけてる?!はみ出す、って何?!」
「…………ふむ。そこのところ、事情を此奴に聞きたいが、あまりに不完全だな。このまま祓ってやろうと思っていたのだが……………不憫、……いや、不透明が過ぎるか……」
紅月の言葉が、中途半端に止まる。嫌な予感が、朱音の背を伝った。これも今日、何度目だろう。横目で見える灼が、楽しそうにしているのもその予感を加速させる。
「さて――…………灼、お前に仕事をやろう」
「ンン?!」
「何だ、その意外そうな声は。言っておくが却下も拒否も、お前に権利はないぞ。」
「いッ、いや、待て紅月、アンタが俺の予測の外を歩いてンのは知ってるけどさァ、さすがにこの流れで仕事寄越すッて」
「だからな、赤土の子に憑け。」
「だからな、の意味が!わっかンねェんだなァア!!?」
「え、待って、待って下さい、それ私にも聞き捨てならない言葉なんですけど?!」
「うん。灼がお前に取り憑くのだ、赤土の子。」
「うん、の意味が分からないんですけどぉ?!」
騒ぎ立てる灼と朱音を不思議そうに見つめながら、紅月は小首を傾げる。何が問題なのか分かっていないような表情で。
「……………………………お前達、存外仲が良いだろう?ちょうどよくはないか?」
なんて、さらに爆弾を落として涼し気な目元を瞬かせた。銀にも碧にも見える相貌だけが、純粋に真っ直ぐな光を帯びている。些細な動作ですら瞳の色が変わるようで、万華鏡のようだ。
「良くないです!!見れば分かるでしょう?!それにどうして取り憑かれなきゃならないんです、私は厄を祓ってもらおうとしてるのに……!」
「そうなのか?私には、そうは見えなんだが」
「紅月ィ、アンタも絶対ェ人の事言えねェよ、説明しろォ説明!」
「ふむ、一理あるか。だが、先も言ったぞ、説明はするが撤回はしない。それでいいな?」
「うッ、……ぐうぅ……」
だんだんと、灼の「紅月に対する突っ込みが足りない」という言葉の真意が掴めてきた。性根が恐らく真っ直ぐ過ぎて、横道に反れないのだ、紅月は。……悪く言えば、融通が利かない……の、かもしれない。
「出来ることなら私が憑いてやりたいのだが……」
「わ、私だって灼より紅月さんの方がいい!!」
「俺の扱い本当に雑だなァおい?!別に気にしねェけどさァ?!」
「今の私では、出来る範囲が少ないのでな。灼の方が小回りが利くから便利に使ってやってくれ。……それよりも、――やはり、落ちたな」
「!影が……!」
紅月の指先にくっついていた筈の影法師が、いなくなっている。いや、紅月は繰り返し、『落ちる』と言っていた。
指から離れた影法師が、どこに向かう、或いは、どこへかえるのか。
「……うぅっ……!」
途端、朱音はその場に崩れてしまう。ずるずると何かが肌を這う、気持ちの悪い感覚。今までで一番強い感覚に耐えられない。
視界が回る。吐いてしまいそうな程、不快感が胸を圧迫する。息苦しい。辛い。……なのに、決して吐き出せない嫌悪感。
「赤土の子。……お前にとっては残酷な事かもしれないが」
澄んだ冬の、柔らかな雪を思わせる声音が朱音に降り注ぐ。夜に足跡を刻むみたいに、ゆっくりと、だが確実に。
「お前の厄は、全て祓えない。お前が思っている日常は、既に我等にとっての日常だ。この意味が分かるか?……人間の子としての日常は既になく、お前は非日常を常に無自覚で歩いている。」
「っは……、……っ……」
「先の影法師とて、なにもお前を苦しめている元凶ではない。むしろ、……恐らくだが、お前を守ろうとしている」
「………、え……」
「我等、妖には力を発揮出来る場所、即ち『領域』がある。影法師ともなれば、その領域がどこにあるかなど簡単に分かるだろう。」
さらさら、と紅月は朱音の頭を撫でながら言葉を続ける。指先が冷たくて、今の朱音にはちょうどよかった。……指先に、水晶が宿っているというからそのせいだろうか。かたいのにやわらかくて、つめたいのにあたたかい。相反する意味を持つ掌が、ただひたすらに優しいのだ。
「影は影を作る為の存在がなければ成立しない。まさか、自身を形作る本体を滅ぼそうとはしない筈だ」
パキパキと小さな音がする。朱音の視界に、黒い紅葉が凍った状態で紅月の指から零れる光景が映った。幻想的、或いは、神秘的で綺麗な筈なのに――朱音の心には一つとして響かない。
「だから、その影法師は生かしておやり。今は苦しいだろう、辛いだろう。だが影法師が妖に成れば、辛さも軽くなる。お前が無意識に飼っている厄を糧として、蠢くのは許しておあげ」
「…………わ、私……」
「私の『領域』は、神社の敷地内だけだ。常にお前を見守るならば、灼の方が良い。いいか、赤土の子。お前を見捨てた訳ではない。……泣くな、泣くな。辛いな、苦しいな。代わってやれなくてすまないとは思うが……」
喚く子供を宥めるように、紅月は朱音の頭を撫で続ける。時折頬に伝う涙さえ掬ってやりながら。
「私、ずっと、これからもこんな風、なんですか?」
「こんな風?」
「厄除けのお守りや、お祓いも、とにかく目につくものは全部、全部やって、でも、駄目でっ……、でも、紅月さんのこと聞いて、とにかくなんでも、この厄が消えるなら、って」
「…………私が一番気になっているのはそこだ、赤土の子。どうか泣き止んで、私に教えておくれ。」
――空気が張り詰める。一種の鋭い緊張感を纏い、紅月は朱音の眼差しを正面から受けた。
「この神社、………否、『紅い狐』の事を、誰から聞いたのだ?」
朱音の瞳から、涙が止まる。思考が一気に停止した。
――誰。
誰から、という音だけが脳内に木霊する。
記憶の海を探っても、見当たらない。喉が乾いて、息を呑む。だが、何度そうしても気管が潤うことはなかった。
柊の枝を一振り持って――
銀色の鈴を二つ揺らして――
鳥居の下で足音を三つ響かせる――
紅い月の狐さんが邪気を祓ってくれる――
――こんなこと、知らずに行える範囲ではない。
それこそ誰かに手順を聞いたか、教わらなければ。
「…………思い至らないか?」
「……は、……はい…………」
「ふむ。…………灼、どう思う?」
「どう思う、と言われてもなァ」
成り行きを見守っていた灼が、紅月に促されて口を開く。
「そもそもさァ、嬢ちゃんの厄が厄介過ぎるンだよなァ」
「幾ら祓っても薄まらないな、たしかに。」
ちら、と紅月が地面に落ちたままの紅葉を見る。黒く染まった紅葉は朱音から生じたものに間違いなく、本来の色とはかけ離れた成れの果てが塵の如く溜まっている。
「やはり、少し調べる必要がありそうだ。このままでは埒が明かん……」
「……で、俺ァ嬢ちゃんに憑け、ッてのは変わらないワケだァ?」
「言っておくが灼。赤土の子に怪我などさせようものなら私が黙っていないぞ」
「…………なンかさァ、アンタ等この短時間で仲良くなり過ぎじゃねェかァ??それとも女ッてこんなモン??」
「……あ、あの、ちょっと質問なんですけど」
「うん?落ち着いたか?」
おずおず、と朱音が小さく右手をあげる。恥ずかしげもなく人前で泣いてしまった――しかも慰められながら。
今まで背中に乗せ続けているしかなかった重りが一気に落ちたからか、気分自体は悪くない。だが、ちょっと、……いや、大分、肩身が狭い。
「その、私から出て来る?この紅葉、一体なんなんです?私を襲って来た人の紅葉は紅かったのに……」
「紅葉は邪気を祓う力がある。……そうさな、ものはついでか。そろそろ茶でも煎れよう、風も冷たくなってきた」
紅月はそう言うと、朱音の方へと手を差し出した。
「?」
訳もわからず、とりあえず差し出された手を素直に取ると――。
「ようこそ、ヤクキリ堂へ。歓待しよう、赤土の子」
紅月の足元から、季節外れの花や草木が生い茂っていく――違う。
正確には、季節に統一性がないのだ。向日葵があれば百合があり、桜の花弁と共に薔薇が躍る。牡丹に椿、水仙、菖蒲、名も知らぬ花すら芽吹き、笑うように咲き誇って。
凪いだ水面に突如波紋が生じ、広がっていくみらいに次々と景色が変わった。境内の中が緑に溢れ、社殿にまで色素が届くと、その建築様式すら作り替えてしまう。
「ア。今は『厄斬り堂』だからなァ、間違えるなよ嬢ちゃん」
「…………、…………」
呆気にとられている朱音の耳に、脳天気な灼の声音が右から左へ通り過ぎていった。
瓦屋根の、旧い一軒家のような風貌の建物が草木に愛でられながら、あっという間に出来上がってしまった。
紅尾神社には寂れているとはいえ……もちろん社殿があって、小さい社務所があって、狛犬も、手水舎もあったのだが――そのどれもが、今は影も形もない。
大きな立て看板には筆で丁寧に『厄斬り堂』と書いてあった。
夢だろうか、とも思うが、朱音はもう十分に、これは現実なのだと理解していた。紅月曰く、……既に非日常を歩いているのだから。
「さぁ、おいで。――――ヤクキリ堂の開店時間だ」
序章といえばいいのか、ようやく一段落ついた心地です