伍
「灼、落ち着け。まだ大丈夫だ」
「…………俺は誰の前でも、アンタを優先する。それはアンタも承知の筈だぞ」
「分かっている。とにかく落ち着け。お前の眼差しは一つだけで人間すら焼いてしまいかねん」
「……………………………」
灼はそれきり瞼を閉じて、黙ってしまった。
あの灼熱が瞼の向こうへいった、今はそれだけで、朱音は胸を撫で下ろした。会話の意味は分からないが、灼が纏っていた雰囲気すら一瞬で変わってしまって恐ろしかった。どんなに天邪鬼な性格をしていたとしても、急にあの飄々とした態度を変えられると対応に困る。
「それにしても、お前は不思議な子だな」
「ひぇっ?」
「少し、そのまま………………」
朱音がホッとしたのも束の間、気づけば紅月がすぐ傍に立っていた。そんなに身長差がある訳でもないらしく、紅月の方が数センチ高い程の差である。
ペタペタと顔や頬に掌を押し当てながら、紅月は何か考え事をしているようだった。
…………何だか、擽ったい。それに、恥ずかしい!
「微かに……懐かしさすら覚える」
「え?しょ、初対面ですよね?」
「お前とは確かに初対面だが、お前とは異なる赤土の子とは、縁があるのかもしれんな」
「私とは異なる……?」
分かるような、分からないような。困惑した朱音の表情が、紅月の瞳に如実に映し出されていた。瞳が澄みきっているからか、向き合っているとまるで鏡のように姿も顔の様子も、何もかもが分かる。
どこまでも綺麗で、触れ難い。今、朱音に触れているのは紅月の方だが、朱音の方から紅月に触れる場面というのは想像出来ない。
「一つ断っておくが」
「は、はい?」
「私はお前と同性だぞ?」
「は……、……はい??」
「だからそんなに緊張するな、力を抜いておけ」
――……………………………同性。
同性なのは、朱音からしたって見れば分かるのだが。
思わず、横目で灼を見る。どうやらいつの間にやらいつもの灼に戻っていたらしく、目は開いているし明らかに腹を抱えて笑っていた。
そして、口よりも何よりも態度が示していた――だから言ったのだ、自分だけでは紅月に対する突っ込みが足りないのだ、と。
「あの、あ……紅月、さん?」
「?なんだ」
「い、いつまでこうしていればいいんでしょう……」
「ふむ、私が飽きるまで、と言いたいところだが」
「飽きっ……!?っ……!」
「…………それではお前の『影』に叱られような」
――するり。
頬から首へと伝った紅月の掌が、氷のような冷たさへと変わっていく。
「嬢ちゃん、ちっくと我慢してくんなァ〜」
「が、我慢、っ……て」
「おん、紅月の指先は水晶が混じってっからさァ、今の嬢ちゃんには沁みるンじゃあねぇかなァ」
「し、しみる、って言うか……!」
冷た過ぎて死にそうだ、なんて冗談が言えたら良かったのに。首から冷気が伝って喉まで影響が出ている。上手く呼吸が出来ないし、声も出せない。
「随分と厄を溜め込んでいるな。……成程、居るかも分からん私に頼るのも頷ける」
「紅月、そういえば俺嬢ちゃん一回斬ッたら紅葉の色、黒だったぜェ」
「そうか。それはそれとして……、どうせ断りもなく斬ったのだろう。全く……お前はいつも説明が足りん」
「エッ、多分それ、アンタ人の事言えねェだろォ」
特に今は。
随分と調子を取り戻した灼が、いかにも楽しそうな笑みを浮かべる。
本当にいい性格をしている、と思う。そしてやっぱり天邪鬼だ、絶対に元なんかじゃない――恨みすら込めて、朱音は灼を睨む。
ヒラヒラと優雅さすら湛えて手を振る灼が憎らしい!
「赤土の子。お前の影に住まう者の正体を知りたいか」
「……?」
「なに、別に悪いものではない。だが、他の人間の子よりも自我が強いだけだ。それがお前の飼う厄に引き寄せられて力を得た。言うなれば一種の妖、私の同類だな。」
「うっ……!!」
「妖は正体を暴かれるのを忌み嫌う。光の下に出されるなど以ての外だろう。何せ此奴らは基本的には誰にもに正体を隠し、恐怖を与え、畏怖の対象でなければならぬ。そら、こうして名を紡がれるなど――焦らずにはいられまい」
「あ、ぐっ……!」
紅月の指先が更に温度を下げる。朱音の吐息すら白く染まって、身体が震えていた。
「『影法師』。そろそろ苦しいだろう――さっさと『領域』から出ろ!」
朱音の首から、漸く指先が離れていく。氷の結晶だろうか、それとも紅月の指先に混じっているという水晶の欠片だろうか――幾筋の小さな粒と、黒い影を纏って。
「ほぉ。こいつは見事な法師だなァ。」
「ゲホッ、っ……!」
「大丈夫かァ、呼吸が整ったら見てみなァ嬢ちゃん」
「――っ……、――……え」
まだ冷たい喉を押さえながら、朱音は紅月の方へと視線を向ける。
紅月の指先にくっついている、或いは引っかかっている黒い影――のような、ものに。
「ふむ、私と同類、とは言ったが……まだ影の中以外では自身の姿を保てないか」
指にぶら下がっている影のようなものをしげしげと見つめながら、紅月は納得したように頷いている。
「そ、それ……、っゲホッ」
「おん、嬢ちゃん、ちょッと動かねェでくれなァ??」
「っ……!」
背後に迫る灼の声音が朱音の耳朶に届く頃――それは既に振り下ろされていた。
凍てついたままの喉では悲鳴も非難もあげる暇すらなく、朱音は視界を彩る黒い紅葉に埋もれる。
一つ、二つ、紅葉が地面に落ちた頃、漸く自由が利くようになった身体を反転させると、やはり。
「ちッたァ楽になったろォ??」
いつの間に出したのか、あの綺麗な斧を悠々と持ち上げて笑う、灼の姿があった。
「…………確かに楽にはなったけど……そうやっていきなり斬るの、やめてくれない?」
「あァ?俺が斬ってるのは嬢ちゃんの『厄』だけだぜ?」
「それが驚く、って言ってるのよ!もう、一日に二回も斧振り下ろされて平気な人がそうそういてたまるか!!!」
「おん、そンだけ喚けりゃ重畳、重畳ォ」
……天邪鬼だ。
断言しよう、絶対に天野邪喰、と呼称する頻度の方が少ない。
捻くれ者め、とまた恨みを込めて、朱音は灼を睨みつける。
……朱音には、どうにも灼が受け入れられない。嫌いな訳ではないのだが、いまいち好感が持てるタイプの存在ではなかった。……普段、ここまであからさまな嫌悪感を持つことはないのだが――。