弐
黒い紅葉が――否、紅く染まっていないものを厳密には紅葉と言わないかもしれないが――ひらひらと重力に従いながら、幾重にも舞っている。
「燃やしちまえ。それァ、嬢ちゃんには悪いモンだからなァ」
「!灼、さん」
「俺ァ水より火の方が扱いに長けてンだァ。――そら!」
灼の左手から炎が爆ぜる。そのまま勢いをつけて手を振るうと、炎は朱音から生じた黒い紅葉に真っ直ぐ向かっていく。
紅葉の黒と炎の赤が混じって、幻想的ではあった。それが、邪気など関係ない普通のものであれば。
「さて、さて、やァっと落ち着いて話が出来るなァ!」
「……!そ、そう!私、聞きたいことがあるの!さっき言っていた紅月って誰のこと?!紅尾神社の用心棒って何?!あなたは何者なの!!?」
「案外勢いがいぃ〜いなァ……嬢ちゃん……」
やっと落ち着いて話が出来ると思うのは、どちらかといえば灼より朱音の方が妥当である。
先程まで見知らぬ男に尋常ではない力で肩を掴まれ、灼に助けを求めたはいいものの言葉で翻弄され続け、果てには斧で斬られ――実際には無傷ではあるが――さて、一般の女子高生にここまで非日常が降りかかるものだろうか。果ては、「厄介なものを抱えている」などと言われてしまえば、気にならない方がおかしい。
「ゆっくり答えてやッから落ち着いてくンなァ。俺の口も耳も一つずつしかねェんだからァ」
「?……いや、耳は二つでしょうよ」
「アッ、嬢ちゃん実はツッコミ派か?!いぃい〜ね!紅月とコンビ組めそうだァ!たァすかったァ!!俺だけじゃツッコミ不足なのよ!」
「そういうのいいから!とにかく紅月って人の事を聞きたいの!!!私は!!!!」
……ことごとく、灼の言動は自由だ。迷惑とまではいかないが、朱音の調子は狂わされてばかりいる。ボケ派だのツッコミ派だの、悠長に話している暇はないのだ、今は。
「ンッ、ン〜……説明するのは構わねェんだけど……どこから言ったモンかね」
「………………じゃあ、私から質問していい?灼に任せてたら日が暮れちゃう」
「アラッ、俺の気のせい??サラッと『さん』抜かされてねェ??別に気にしねェけど」
「あなたに『さん』までつける必要性を感じなくなったからよ!」
「嬢ちゃん、本当勢いがいぃ〜いなァ。俺ァ嫌いじゃあねェよ、そういうのさァ。」
灼はケラケラとよく笑う。
だが、朱音には、灼の笑みは『笑顔』という表情には感じられなかった。純粋な笑みではない気がしてゾワリと肌が粟立つ。敵意や害意などを感じる訳ではない。ただ、なんとなく、一ミリにも満たない程の不審と恐怖はあった。底が知れなくて、近寄りたくもないぐらいに。
――こんなの、勢いがなけりゃ相手してられない!
未だ体の不調は戻っていないけれど、なんとなく、度胸だけは戻ってきた。この勢いを失っては駄目だ、と胸の内から声がする。
「まず、どうして私が神社に行った時は姿を見せてくれなかったの?今朝、確かに行ったのに……」
「あァ、嬢ちゃんは惜しかったんだよなァ。作法も手順も良かったんだけどよォ、時間が違った。だから俺達ァ姿を現す事が出来なかったんだァ。案外近くに居たンだぜ?けど、時間が違ったら見えるモンも見えねぇママさ」
「時間……?」
「そ、時間。時刻。巡る針が定めてンのは、狂っちまったらいけねェのさァ。」
ガリガリ、と灼は思いついたように地面に文字を書いていく。……地面というか、道路に斧で直接文字を彫っていた。刃毀れするのではないか、と思ったが、斧は傷一つつけることなく灼の手にある。
よく見ると、武器とは思えないほど綺麗な斧だ。刃先に沿って紅葉の意匠が薄く施してあり、川に見立てているのだろうか、紅葉の傍には幾筋も細い溝が彫られている。綺麗というより、風流をその身に収めたような斧だった。攻撃……というよりはどこかに飾られているのが似合っているような、ある種の美術的うつくしさを備えている。
……そんな斧で、灼は一体何をしているのだろう――そう思うと、やはり『さん』は必要ないな、なんて朱音は思う。
助けてくれた事には感謝しているが、それとこれとでは話は別だ。……多分。
「マッ、単に口で言っても分かりにくいだろうからよ!これ見てくンな!」
「……?……『薬切り堂』と、『厄斬り堂』……??」
「そぉ、『ヤクキリドウ』!」
朱音が灼の書いた文字を覗き込むと、昼間、という欄に『薬切り堂』、夜間、という欄には『厄斬り堂』と書いてある。どちらも読み方は同じらしく、『ヤクキリドウ』と言うらしい。
「嬢ちゃん、昼間に来たろォ。それがいけねェのさァ!昼間は俺達ァ薬屋なんだァ」
「……ん?え?ちょ、ちょっと待って意味が分からないからもう少し噛み砕いて説明して!それに昼間というより今朝だから、朝なんだけど…?!」
「だァかァらァ〜……、朱音の嬢ちゃんは多分、俺達に邪気を祓ってもらいたかったんだろォ??でもなァ、ヤクキリ堂は時間によって形も姿も意味も変わるんだァ。あの時間はもう俺達にゃ『昼』なンだよ、昼間に厄祓い依頼されちまッても『えいぎょーじかんがい』?ッてこったなァ」
「え、営業時間外…………」
そんな事言われても、と朱音の脳裏に本音が浮かぶ。
「なァんだよ、現代人だッて時間にウルセェじゃあねェかァ。そんなん言ったらァよ、俺達なんて年中二十四時間休日無しの、『じゅーぎょーいん』?俺と紅月だけなンだぜェ??」
「ちなみに、じ、時給などは……?」
「もらえる訳ねェだろうがァ〜。『むちんぎんろーどー』の『しゃちく』で『ゆうきゅーゼロ』だァ」
「ぶ、ブラック企業だ……!!!!!!」
――さすがに灼が可哀想に思えてきた。そんな状態で常にあんな笑顔でいるのか、と思うと背筋が震える。いや、そもそも、灼の笑顔は笑顔であって笑顔ではないのだけれど……………。よく分からない会話の流れになりつつあるが、朱音は営業時間外、とやらに突っ込むのだけはやめておくことにした。
簡単なバイト以外で働いた経験のない朱音ではあるが、その労働条件がいかに厳しく不当であるかはさすがに理解出来る。
「……マッ、俺にはちゃあんと金銭以外の報酬があるケドな」
「え?」
「ン、こっちの話」
不意に、灼の口元が僅かに歪む。それは今までとは違う、明らかに楽しそうな笑みだった。くつくつと鳴る喉がやけに怖く感じてしまう。
すぐ元に戻ってしまったけれど、どういう意味を孕んでいるかは今の朱音には分からない。
「そ、それで?時間が合ってなかったのは、…………その、ごめんなさい。知らなかったものだから」
「謝るなよォ、俺ァ責めてる訳じゃあねェからサ。」
「知らなかったとは言え、確かに営業時間外に来られても迷惑よね……」
「理解が早くて結構結構」
朱音は深い溜息を吐いた。頭が重い。まさに石でも乗っているかのような重さだった。
「それで、その、……紅月、って人の事を聞いてもいい?」
「ア―……、それなんだけどさァ、今更かも知れねェんだけど紅月も俺も『人間の枠』には入らねェんだわ」
「灼は、なんとなくそうなのかな、って思ってた。あなた、明らかに普通じゃないもの。……服装とか、瞳の色とか、雰囲気とか、諸々普通じゃないし」
「オン、俺の扱いがだんだん酷くなってきたなァ。別に気にしねェけどさァ」
にたり、と灼の口の端が歪む。僅かに覗いた牙は鋭く尖って、人ならざる者としての存在を簡単に連想させた。灼熱のような色を宿した眼窩の中で、焔が踊る。
朱音の背筋に冷や汗が再び伝った。
人ならざるもの――通常ならば相見える事の無い筈の存在が、今は確かに朱音の目の前に佇んでいるのだ。
「……………あなたは、誰?」
何者、とは言わなかった。何者かと問うても、灼は素直に答えてくれない気がしたのだ。