三章 風竜地竜と侍従長 前半
三章 風竜地竜と侍従長
実際にやってみなければわからない、ということは意外に多い。スナですらそうだったのだから、百竜に一つ二つ、三つ四つ、五つ六つ、いや、このくらいで止めておこう。
荷物は尻尾に括り付けた。均衡を保ったり転舵、ではなく転竜、いや、転翼? あー、もう普通でいいや、方向転換の際にも、こちらは無意識のようだが、勢いを付ける為などに振られたりする。なので、尻尾から両腕に変更された。
実は、竜に乗るのは大変だった。スナは自分で、みーはコウさんが、「結界」を始め、様々な魔法で配慮を行っていた。翼を羽ばたく際の上下動、吹き付ける風、竜の姿であるが為の属性の発露の抑制、重力、急な動作ーーなどなど、一つ一つ問題点を潰して、やっとこ普通に飛ぶことが出来るようになったのであった。これは百竜を責めるのは可哀想か。自分の頭の上に、小人が乗っているところを想像して欲しい。これで普段通りに動ける人間なんてそうはいないだろう。魔法や魔力で補うとしても、常に気を配っていなければならない。然てこそ竜の国を囲う山脈を越えてしまったが、必要な措置であったと諦める。
「竜の絶景は如何ですか?」
進行方向に静かな眼差しを投げ掛けるベルさんの右側に、角に手を当てながら並ぶ。左側にはアランが。後ろでは、まだ百竜が信用できないのか、フラン姉妹ががっちりと角に掴まっている。ユルシャールさんとエルタスの姿はない。七人では手狭だったので、変魔さんは王の配下であることを理由に、エルタスは百竜の命で、荷物と一緒に竜腕に括り付けられることに相成ったのであった。今頃、魔法談義に花を咲かせている……といいな。
「…………」「…………」
何だろう、まだ何もしていないはずなのに、みーのおやつをスナに渡した犯人を目撃したかのような、悪感情の籠もった目を向けられているのだが。いや、初見での僕の、侍従長の印象はといえば、ああ、上から目線で語ったり心情を吐露させたりと、決していいものではなかった、ような気も。
「絶大なる魔力と気配ーー翠緑王がいた故、竜の国に精霊は近付けなかった。今も、我らに、精霊たちは近寄ろうとしない」「……それは、僕の所為であると?」「そなたからは魔力を一切感じない。然し、精霊が近付かないとするなら、それだけではないのだろう。精霊への呼び掛けは届かず、従って精霊魔法も行使できない」「…………」
精霊は「千竜王」の所為で近付けないだけで、嫌われているわけではない、と信じたい。東域で精霊魔法が必要になったときには、遠くまで離れなければいけないようだ。精霊魔法がどういうものか見てみたかったのだが、いや、たぶん見えないんだろうけど、まぁ、残念ではある。殆どの人間は精霊が見えないらしいから、反応を確かめたかったのだが。
「人の国には、『奴隷』は居ないのだな」
同盟国の上空ーークラバリッタ国とサーミスール国の国境付近だろうか。まだ気温は高く、水蒸気の量が関係しているのだろうか、未だユミファナトラ大河は見えてこない。
人が席巻した地を眼下に望んで、ベルさんは独り言のように、微風に問いを乗せる。
「ふむ。『どれい』とは聞いたことのない言葉だ。リシェはーー知っているようだ」「これも『亜人戦争』に関連したことですね。奴隷とは、如何様にもできる私有財産、と言ったところでしょうか。すべての権利を奪われ、主に労働に従事させられ、所有者に反抗すれば当然命は、と言いたいところですが、先に言ったように奴隷は財産です」「自由には扱えたが、一定の規則や慣習などがあったということか」「はい。『亜人戦争』で奴隷は戦いに駆り出されました。勝利後の自由を約束された彼らは、劣勢を跳ね返す為の起爆剤となったようです。然し、戦いで彼らがどう扱われたのかは言わずもがなのことでしょう。生き残った者はいなかったようです。人類はそこから反攻に転じますが、慢性的に人手不足でした。要は、奴隷のような判断能力がない人々を所有する余裕がなかった、ということです。戦争が終結したあとも、人手不足は続き、やがて聖語時代を迎えることになりますが。下位語を用いる人々は、聖語使いの恩恵、おこぼれを与えられ、それなりに余裕があった彼らが、奴隷制を復活させることはありませんでした」
聖語時代以前に廃れた制度だけに、アランが知らなくても無理からぬこと。現在でも似たような境遇に置かれる者はあるが、それが国単位で行われることはない。実を言うと、これには〝サイカ〟が係わっている。里で奴隷について教えられ、そのような兆候があった場合には然るべき対処を行う、ことを推奨されている。まぁ、僕が知っていたのも、斯かる理由に因るわけだが。うぐぐっ、アランの信用というか信頼が心にずしりとくる。
見ると、やはり本筋ではなかったようだ、先程までとは違って、表情に重く苦いものが重ねられる。これが本命なのだろうか、ベルさんが質してくる。
「ーー我らは敗北した。それが事実だ。然し、あの状態から何故敗北するに至ったのか、未だにわからぬ。やはり、裏切りがあったのだろうか……」
人の世界から空へと向かった双眸。星霜を纏おうとも失われることのなかった後悔と疑念が乗せられていた。永い周期を経た想いは、薄れるのか、変質するのか、こびり付くのか、周期の忘却を得られないのなら、想いは何処へと行くのだろう。
「人類の側に、生き残りを纏め上げられる指導者はいませんでした。中級指揮官がそれぞれの部隊を率いて戦っていた、と想定してください。では、アラン。アランがその指揮官の一人だとしたら、どうするかな?」「人類が劣勢なれば、当然、頭を潰す。そうでなくとも、相手を知る為に、一当て、というところか」「はは、アランらしいけど。アランも、もうわかっていると思うけど、それは悪手となるだろうね。ですよね、ベルモットスタイナー殿」「我ら『ハイエルフ』は、亜人を率いていた。数多の亜人と共闘することが出来た、その理由の一つは、我らが亜人の中で最も強かったからだ。頭を潰しに来る? 結構。鏖殺の機会を提供してくれるのだから、ありがたく殲滅しよう」
然ればこそ、彼は戦士なのだろう、戦いの中でこそ輝く人種。力、という、わかり易い指標。アランとはまた異なる、異質な気配を感じる。戦士ではない、その資質もありそうにない僕では、一鱗を見て全竜を卜す、とはいかない。あとでアランに聞いてみよう。
「正面から戦って勝てないのであれば、当然真っ当な戦い方などしません。僕だったら、『英雄王』は放っておきます。そして亜人の、特定の種族を、徹底的に、残忍に、見るから戦慄し、自失するような、惨たらしい光景を現出させます。『ハイエルフ』や他の種族は狙われていないのに、なぜ我らだけが。と横の繋がりが緩いだろう亜人たちの、緒戦で大勝した彼らの、油断と甘さを衝きます。その後、人手が足りないでしょうから、並行して行うのは、嫌がらせですね。次の殲滅対象はお前たちだ、と趣意を込めて、毎日夜襲です。他に、毒や罠も有効活用します。言葉が通じないだろう彼らと共通するのは、生命、だけでしょうから。わかり易い形で、生命を傷付け、踏み躙る必要があるでしょう。
指導者がいないので、ある程度、共通認識を持たせたあとは、自由にやってもらいます。本来なら各個撃破される危うい状況ですが、浮き足だった亜人たち相手には、この戦略はがっちりと嵌まるかもしれません。亜人側は、攻めようにも纏まった敵軍はなく、混乱を収めようにも、収める前から更に混乱が生まれてくるような状況に、四苦八苦することになるかもしれません。亜人たちの幾つかが退いたときが、人類の勝機といえるでしょう」
過ぎ去った過去の戦争の話なので、妄想全開で語ってみたのだが。
「……然かし、我の認識が甘かったようだ。……人種とは、これほどまでに卑劣な種族であったか。これで、あの戦争での、おかしな出来事にも、合点がいく」
あれ? 何故か心の底から納得していらっしゃる「英雄王」さん。ああ、この目には、見覚えがたんまりある。邪竜侍従長を見るときの竜の民と同じである。
「失礼ですよ。じじゅーちょーを人類に交ぜてはいけません」「失敬ですよ。じじゅーちょーは、すべての存在の、共通の天敵です。とギッタが言ってます」
酷いことを言われているが、反論できないのが哀しいところ。僕の内に在るらしい「千竜王」のことを識らない間は、未だ是非を問うている現況では、甘んじて受け容れる他ない。などという殊勝な性格ではないので、双子に向かって、邪竜さんもにっこり。
ひぃぃ、と全力で気持ち悪がっている姉妹だが。もう少し、僕への対応というか態度がどうにかならないかと、帰ったらカレンに相談してみよう。
フラン姉妹との遣り取り、或いは芳醇ならぬ発酵しそうな応酬の間、惟るような風付きのベルさんだったが、古い記憶から拾ってきた一幕について開陳する。
「……覚えている。あの冷静なマギがーーマギルカラナーダが、立て直しに躍起になっていた。『竜にも角にも、人種の、部隊でも何でも良いから、見つけて殲滅してこい』と八つ当たりをされてしまった」「ああ、いえ、それは八つ当たりではなく、重要なことだったと思うんですけど」「は? なん……だと?」「ふむ。『ハイエルフ』だけが被害がないのは不味い。その疑念を払拭する為にも、人種の犠牲が必要だったのだろう」「…………」「えっと、マギルカラナーダ殿の言葉を真剣に受け止めず、周囲の警戒だけに留めてしまった、とかですか」「ーーくっ、マギめ、もっとわかり易く言わんか!」
今更悪態を吐いても遅いわけだが、まぁ、千周期目の真実ということで大目に見ないといけないだろう。然ても、因果、などとは言いたくないが、世界を救うことになるかもしれない旅の道連れとして、気心が知れる、とまではいかなくても、誤解が生じない程度には意思疎通、共通理解が得られるようにしておかないといけない。
「マギルカラナーダ殿とは友人だったのですか?」「友人、ではあるが、頭の上がらない存在だった。マギの妹が我の妻なのでな、目に入れても痛くないほどに、竜すら近付けないほどに妹を可愛がっていたマギには、幾度となくこてんぱんにされてしまった」
古き民の昔語りに、僕らは耳を傾ける。一時物思いに沈んだベルさんだったが、止んだ風が再び吹き始めるように、穏やかだった頃の日々の情景を思い浮かべる。
「『精霊種のエルフ』は、八百歳頃から想いを交わし始める。千~千二百歳ほどで添い遂げるのが一般的だ」「ん? ベルモットスタイナー殿は、現在千三百歳と言っておられましたがーー」「我は、『ハイエルフ』の中では異端だった。三百など、まだ子供、幼子と言って良い周期。然し、我が熱情は、今から振り返ろうとも真実の輝きを失わせることはない、畢生のもの。千歳と妙齢だったメイに、『森の歌姫』と謳われた女性に、愛を囁き続けた。彼女に相応しき男にならんと、努力に努力を重ねた。『ハイエルフ』というは、長寿な所為か、生来のんびりとした種族で、一気に駆け抜けた為か、一族最怖と恐れられていたマギよりも強くなった。気付けば族長などという地位に就いていた」「んー、三百歳で族長になれたのは、『森の歌姫』さんを娶ったからですか?」「……そうなるな。嘗ての族長も、メイに思いを寄せていた一人で、最も有力な相手と目されていた。族長の後継は、族長の指名で決まる。無論、長老衆で覆すことは可能だが、そういったこともなく、恐らくはメイに想いが届かなかった前族長の、未練とか嫌がらせとか、そういうものだったのだろう」
二日前、ベルさんが炎竜の間で見せた、筆舌に尽くし難い、罅が入って、もう二度と元通りにはならなくなってしまった、魂から発せられるような熱く凍えるような情動。あのとき彼は、伴侶のことには言及しなかったが。
「気にせずとも良い。炎竜の間で、久方振りに吐き出した。世界に還るまで、この棘は抜けることがない。いや、抜くことはしない。我は、魂の半分、永遠の伴侶と、精霊界で再会するまでの、別離にあるということだ」
顔に出ていたようだ。結婚、千周期、戦争ーーそういったものを受け止めるには、僕は若過ぎる。無表情であったことで、逆に見抜かれてしまったようだ。今はここまでかな、と多くを語ってくれたベルさんの、語り過ぎたことを後悔しているような表情から、一人にしようと退こうとしたところで。ベルさんも含めてのことだろう、アランが僕らに諮る。
「リシェに聞きたいことがある。『千竜王』のことだ」
あー、それはまぁ、聞かれてもいまいち答え難かったりするんだけど。如何様に応えたものかと思案を巡らせていると、僕の逡巡をどう捉えたのか、アランは言葉を継いで、些か以上に予想とは離れた内容を口にした。
「ふむ。ストーフグレフを建国した初代の王から伝わっていることなのだが、王族は『千竜王』の血を引いているそうだ」「えっと、『千竜王』の……血?」
ぶふ~、とここで百竜の鼻息。竜の介入に、僕らの視線が下に向けられる。
「千竜王」に執着しているらしい炎竜の言は気になるので、二人にも了承いただけたので、竜の叡智の言葉が降り注ぐのを翹望することにした。
「『千竜王』の系譜だと宣うが、断じて斯様なことなど有り得ぬ」
怒気を孕んだ竜声が、属性か魔力が影響しているのだろうか、大気を震わせる。空間ごと軋んでいるのではないかと危惧してしまうくらいの、聞く者の耳を苛む、竜の桎梏。
「ゆれる~ゆれる~、ゆれゆれなのよ~~」「『炎竜賛歌』を踊るから~、ゆるしてなのよ~~。とギッタが言ってるのよ~~」「ほのおやっほのおっ、ほのおやっほのおっ」
あ、本当に謎舞踊の開始である。百竜の魔力を受けて、恐慌を来したのだろうか。
「大丈夫。百竜は本気で怒っているわけじゃないからね」
お為ごかし、だとは思いたくないが、僕がこう言えば、百竜の怒りを鎮められるはず。
ぶ~、と百竜の鼻息。それが拗ねているようにも聞こえて、口から転び出ようとした笑いの欠片を、必死になって呑み込む。気付かれていない、と信じたいところだが、竜の感覚から逃れることは出来ないだろう。然り乍ら百竜の勘気は回避できたようで、
「今一度言うが、有り得ぬ。ーー然し、『千竜王』の名を知っていようものなら、何かしらあったとしても不思議ではないのであろうよ」
認めたくはないが、認めてやらぬでもない(訳、ランル・リシェ)。と一応の決着を見たしだい。然ても、スナと同じように、角をさわさわしてみるが、効果はあるだろうか。
「…………」
反応はない。なので、そろそろ頃合いかと、腰に括り付けておいた革袋を手に取る。中に入っていた白い欠片の一つを、ぽいっ、と投げ落とす。説明するよりも見せたほうが、魔力を感じてもらったほうが早いかと、革袋を二人の前に持ってゆく。
「ふむ。これはスナ様の鱗を砕いたものか」「はい。スナが魔力を届かせることが出来るのが、ここら辺りまでなので、中継の為に一定区間ごとに落としていきます」「上手くすれば、エタルキアからでも連絡が取れると。さすが竜、いや、ヴァレイスナ様の御力か」「これは実験なので、確実なものではないですけどね。成る丈遠くまで届くように、スナには頑張ってもらいましょう」
出発間際に、スナから革袋と一抱えもある箱を手渡された。徹夜だったのだろうか、ぶっ倒れたクーさんをほっぽって、険悪な炎竜氷竜が魔力と、序でに言葉を投げ付け合っていた。どうやら、箱の中身の説明をしていたらしい。僕ではなく百竜にしたということは、魔法や魔力が関係している物なのかもしれない。
空にある、少ない雲が太陽を隠す。見ると、蛇行するユミファナトラ大河と、周辺五国の山河襟帯まで続く平原。竜の国よりも、いや、比べものにならないくらいの漠々(ばくばく)とした印象。ここが世界の中心だと言われても納得し兼ねない、天竜の庭先、風竜の遊び場。
山々に囲われて幼周期を過ごした僕には、目に痛い光景だ。広過ぎて、大き過ぎて、頭が処理し切れていないのだろうか。然てまた鱗の欠片を、ぽいっ。
「ふむ。これなら日が高い内にストーフグレフに着けるだろう。ーー楽しみだ」
ん? と、アランが何か言っていたようだが、聞き漏らしてしまった。
アランから何かを感じ取ったらしいベルさんの表情を、確認しておけば良かったと、後悔する羽目になるのだが。大空に風竜がいないか探していた僕は、世界の一幕に見惚れたまま、脳天気に死地へと赴くことになるのだった。
「どうしてこんなことになってしまったのだろう」
薄暗い通路で独り言ちると、望んでいないのに返答があった。
「なぜもへちまもあるまい。主は、王の友人なのだろう。自分と同等かそれ以上の相手。思うに、自明のこと。主が望むなら、自業自得、氷業炎得の言葉を呉れてやろう」
百竜が言ったように、考えてみれば当然のことだった。
これまで、この通路を通った人たちは、僕と同じ心持ちになったのだろうか。滞りなく準備は整っている。と変魔さんの部下の魔法使いなのだろう、伝達があった。彼の目が、これから駆除されるギザマルを見るような、哀れんだものだったのが、うん、さっさと忘れよう。邪竜のお口に、ぽいっ、である。あれ? それでは意味がないような……。
竜の国のものより規模が大きく、施設は充実している。まぁ、国力や人口からして異なるのだから、比べるのは間違いなのだが。竜の国がまだ若い国だということを思い知らされる。運営する側も観客も、風景に馴染んでいるのがわかる。
歓声、だけでなく喚声も、ここまで響いてくる。光在る場所へ歩を進めると、
「「「「「ーーーー」」」」」「「「「「…………」」」」」「「「「「っ」」」」」「「「「「!」」」」」「「「「「⁉」」」」」
然ても然ても、主役ならぬ脇役の登場である。まぁ、脇役というか、敵役、やられ役、やられ竜、もといやられりゅー、って、正気に戻れ、僕っ! みーのほわんほわんなお顔を思い出して悦に入っている場合ではない! 八竜の加護を心象、それでも足りず、炎を求めると、にこやかに手を振っている百竜が。くぅっ、心にぽっと炎が色付いてしまった自分がちょっと情けない。然あれど、今は有らん限り、すべてを投入しなければならない。
「あれが噂の、竜の国の侍従長か」「本物か? 只の餓鬼じゃねぇか」「おいおい、さっきの変な気配、やばすぎだろ」「竜人だそうだ。千人からの人間を拷問したらしい」「でも、ちょっと可愛くない?」「駄目だって。見た目は貧相でも、中身は邪竜だってよ」
僕の特性によって、初見の人々が押し黙るも、観客席という安全地帯にいる所為か、早々にざわつき始める。はぁ、悪事竜を飛ばす、ということだろうか、ストーフグレフ国にまで侍従長のやらかしたことがーー、ああ、いや、もう考えないことにしよう、お耳汚しで、お目汚しで、邪竜汚しで申し訳ございません。
然も候ず、なんというかかんというか、現実を見詰めよう。先に百竜が言った、アランの父であるホルス様の言葉だったか、「自分と同等かそれ以上の相手」ーーと。そうでないと壊れるらしい。何が? そう、僕が。でも、アランは僕が壊れるとは思っていない。
「ーーーー」
竜の国には持参しなかったアランの長剣は、魔法剣らしい。僕には好都合であるが、色々と面倒であるかもしれない。エンさんやクーさんと同様に、魔力で体を覆うのだろう、鎧は着けていない。王都だから当然だが、彼の服装が華やかなものになっている。
闘技場は満員である。もはや惰性で動く足は、中央に佇んでいるアランの許へと僕を運ぶ。僕がアランと同じかそれ以上に強いとか誰が信じてくれるんだ。おかしいなぁ、何で王様は信じちゃったんだろう。ユルシャールさんも気付いてくれても良さそうなものだが。
「…………」
実はこれまではアランの演技で、その目的は、侍従長の公開処刑にあったのではないだろうか。僕の不躾な手紙を受け取ったアランは、怒り心頭に発して此度の策を弄するに至ったと。間抜けな僕は、舞い上がってほいほい罠に飛び込んでいきましたとさーーごふっ。
「さぁ~、楽しみな一戦がやって参りました~っ! 我らが英雄っ、アラン・クール・ストーフグレフ王っ‼ 対しますは、竜の国の邪竜と名高き、竜人侍従長っ、ランル・リシェっ! 実況は私、ストーフグレフ国の徒花、カリンがお送りいたします! さてさて、解説のユルシャール様っ、この頂上対決、どうご覧になりますか?」「『清狂』や『邪聖の繰り手』などの二つ名があるリシェ殿です。実際、行動を共にして、アラン様にも引けを取らぬ御仁であると確信しました。勝負は、紙一重の差で決するかもしれません」
ちょっとそこの変魔さん! 何ですか、その微妙な二つ名は。というか、凄い楽しそうですね、変魔さんっ。大人気の変魔さんが一般席の観客に向かって手を振ると、黄色い悲鳴が上がる。恋する乙女風味な実況のカリンさんが邪魔をすると、ああ、もう、しっちゃかめっちゃかである。二十前半の、美人といっていい彼女は、自分で言っていたように、徒花さんと仲良しだという自覚があるのだろう。自分に正直な女性である。
彼らは正面の貴賓席に陣取っている。実況や解説だけでなく、判定役も務めるようだ。
「ところで、あの声を大きくしているらしい魔法球は、ストーフグレフ製ですか?」「ふむ。あれは百竜様から提供を受けた魔法球だ。恐らく、スナ様の製作の品だろう」
ですよねー。顧みると、通路に百竜の姿はなかった。
折れない剣。壊れない盾。そして、竜鱗鎧。どれ一つとして真っ当な代物ではない、というか、逸物、或いは竜物を恃みに、生還しなければならない。然う、目的は生きて戻ることで、勝つことではない。というか勝ったらやばい、いやいや、どうやったところで勝てないのはわかり切ってるんだけど。それでも、ただ負けるだけじゃいけない。
善戦しながらも負ける必要がありました。「新月の鎌」の団長と闘ったフィヨルさんの言葉だ。何が幸いするかわからない。迷う必要はない。彼のお陰で、指針は定まっている。
誰が操作しているのだろうか、魔法球がふよふよ~と僕らの真中に遣って来る。
「ふむ。皆、よく集まってくれた。このように言うと、自惚れに聞こえるかもしれないが、私はこれまで全力で闘える相手がいなかった。王としてでなく、一人の戦士として、己の力を試してみたく思う」
アランの吐露に、どわあぁ、と闘技場が沸く。民からの信頼が厚いというのは本当だったようだ。悪い言い方をすれば、即物的な民衆は、安寧と繁栄を齎してくれた君主の、細かいところなど気にしないのだ。……あれ? あはは、涙なんて出てませんよ。竜の民は、僕の細かいところを凄く気にしているような気がするけど、いや、だって、ほら、ねぇ?
「ーー、……」
このまま闘っても、双方にとっていいことなんて一つもない。はずなので、企まなければならない。別に嘘を吐くわけではない、わけではないけど……、いやいや、お互いの利益になると信じて、全力で演技をしよう(うそをつきとおせばうそじゃない?)。いや、ほんと、沽券とかそういうもの以前に、命が危うそうなので。アランの武器は魔法剣なので、僕の特性を考慮するなら危険はないはずなのだが、何故だろう、コウさんの魔法が僕に差し響きがあるように、アランにも彼女と同質の慮外な何かを感じるのだ。
「アラン様が全力を望まれるということであれば規則を変更したほうがよろしいでしょう」
「おぉ~と、せこいっ、何かほざいてますよ~。いきなり心理戦か~っ⁉」「まぁまぁ、闘いを面白くするというのであれば、竜にも角にも、リシェ殿の提案を聞いてみましょう」「はいっ、その通りです! ユルシャール様ぁ~~」
カリンさんは、女性陣ーー特に適齢期の女性からは嫌われているようだが、一部の男性以外には総じて受けがいいようだ。竜の国にも、表に出る広報の人材を育成すべきだろうか。シアやラタトスクさんは渋い顔をしそうなので、そうなると適材は、カレン、かな?
「ただ闘うだけでは、強いほうが勝つだけです。もう少し、遊びの要素を取り入れたほうが楽しめるでしょう。ーーそういうわけで、僕は攻撃をしません」
如何にも僕が勝つような物言いだが、言葉自体は間違っていない。普通に闘えば、強いアランが勝つ。なので、遊びの要素を入れない(しこたまつめこまない)と楽しめない(すぐにおわってしまう)のだ。
「んんんん~? あらあら侍従長さ~ん、攻撃しないで、どうやって勝つんでしょう~?」
あー、カリンさん、今、アランが喋ろうとしたのを邪魔しちゃったんだけどいいんだろうか。まぁ、仕方がないので、勝利条件について説明する。
「簡単なことです。アラン様が攻撃をして。もうどうやっても僕を倒せないーーそう思ったら、僕の勝ちです」「こっ、こっ、こぉっ、こんのっ、どぐされもんが~~っ‼ アラン様! やっちゃってください! 潰しちゃってください! 埋めちゃってください! むきぃ~~っ‼」「「「「「っ‼」」」」」「「「「「っ⁉」」」」」「「「「「っ⁇」」」」」「「「「「っ⁈」」」」」
カリンさんに乗せられたのか、ストーフグレフの民が爆発する。然し、すべての風が呑み込まれたかのように、静寂に傅くことになる。アランが、すっと、水平に手を振った、いや、吹き払った、とすべきだろうか、彼の王の言葉がそのまま、開始の宣言となる。
「ふむ。では、始めようか」
鐘が鳴らされるのと僕らが剣を抜いたのは同時だった。エンさんやクーさんの魔法剣もそうだったが、アランの剣も余計な装飾は施されておらず、無骨な、悪く言えば安物のような、良く言えばただ人を斬る為だけに造られたような、異様な気配を漂わせていた。
闘いの前に、剣を合わせるかと思ったが、甘かった。アランは全力で、実戦のつもりで仕掛けてくる。僕がそう仕向けた。直後に切り替えて、エンさん並みの一撃を、魔法剣であることを考慮して、齟齬が生じないよう小盾で軽く受けようとし、てぇべっっ⁇
「ーーっ⁈」
咄嗟に剣の軌道から体を外した。空と大地がこんがらがる。妙に視界が晴れたような景色がぐるぐると、……な、あ、え? よくわからないが、足が地面に着いて、剣を持った右手を地面に突いて、体勢を立て直す。って、今、僕、何回転したんだ⁉ 竜にも角にも、一回転じゃないのはわかった。二回か三回ーーがっ!
「ぐっ」
悠長に考える暇など与えてくれない。今度は、正面から剣で、アランの渾身の一撃を受け止める。ぎぃっ、痛ぅ、……これは、初っ端から酷いなぁ。
嫌な予感は的中した。獲物は魔法剣。体だけでなく剣も、魔力で覆っていることがわかる。だのに、体を突き抜けるような、ずたずたに引き裂くような衝撃。様子見なんてしていられない、足を止めず、普段通りの防御を心掛ける。
「おお~~っと、苛烈な一撃を放ったアラン様~っ、ですが……、あれれ? これはどういうことでしょう、アラン様の攻撃が単調というか何というかーー」「遠くからではわからないでしょうが、リシェ殿は、周囲の魔力を乱しているのです。アラン様でなかったら、普通に打ち合うことすら出来ず、地に這い蹲ることになるでしょう」「なっ、何とっ、た、確かに、魔力を乱すのは、攻撃には当たらないかもですが、汚いっ、何か遣り方が意地汚いぞ、ずるいぞっ、卑怯だっ、ずるずる侍従~長ぉ~~っ‼」「まぁまぁ、落ち着いてください。リシェ殿は先に、遊びの要素、と言いました。攻撃をする、それだけのことが難しい。それでも、攻撃しないと相手は倒せない。きっと、アラン様は今、楽しんでいらっしゃるでしょう。ーー見て下さい。アラン様が対応し始めました」
そう、対応され始めました。エンさんやクーさんでも一巡り掛かったというのに。然てこそ完全に慣れてしまう前に、転っ。
「っ」
転ばないどころか、剣はそのまま、小盾に当ててくる。
「くぅお~~っ! 余裕かっ、余裕綽々(しゃくしゃく)なのかっ、くるくるぱっぱな侍従長め! 回り過ぎて鼻から息吹を吐いちまえ~~っ‼」
う~む、然し、ずいぶん口が悪いなぁ。カレンと一字違いなのに、性格はだいぶ異なる。などと、そろそろ余計なことを考えていられなくなる。
ザーツネルさんとフィヨルさんに感謝である。魔力無しでの、通常戦闘で勘を取り戻していなければ、早々に終わっていたかもしれない。
ーー手が痺れてきた。それより不味いのが、腕の痛み。受ける度に、血が沸騰したのではないかと思えるような衝撃が、灼いて、掻き毟って、溢れ出す。
これは、確実にエンさんより速い。クーさんより威力がある。だが、夜の鍛錬で二人を相手にしている僕には、通じないはずなのだが。腕の痛みを無視すれば付いていけないはずはないのだがーー。
「ーーっ」
アランが折れない剣の切っ先から、半歩以上空けて、僕の剣を躱す。然なきだに余裕なんてないというのに、半歩しか稼げないのかと暗澹たる気分になる。
「くぉお~らっ、そこの邪竜っ! 何を攻撃してやがるっ、そこになおれぇっえぇっ⁉」
アランが構わず攻撃を再開したので、カリンさんが素っ頓狂な声を上げる。
「そうですね。当たれば、攻撃になります。ですから、牽制で済むように、アラン様は躱さざるを得なくなります。何せ、当たってしまったら、自分の勝ちで勝負が終わってしまう。そんな消化不良、アラン様が望むはずがありません」
ユルシャールさんの的確な解説に、カリンさんを筆頭にストーフグレフの民が大爆発。なれど、それも長くは続かなかった。
もう、とっくに使っている。スナが体を張って教えてくれた、攻撃。足を止めず、剣も盾も、可能な限り、不規則な動きを。然し、一つずつ、出来なくなってゆく。
攻撃をする隙はなくなった。アランの手数が増えて、足を使う余裕はなく。剣よりも盾で、受けるだけになってゆく。ああ、底無しの沼に嵌まってしまった気分だ。
なお速くなる、なお重くなる、ーーなんだろうなぁ、なんで僕はこんな痛くて苦しくて大変なことをしているんだろう。腕だけではなかったようだ、その衝撃は頭まで……。
「…………」
ん? と、あれ、もう終わった?
見ると、アランが目を閉じていた。
何事もなく、目を開けたアラン。そのはずなのに、背中に乗った氷竜がくすくすと笑う。
然しもやは、ほんの少し前の彼と、一つだけ、違いがあった。
「全力を出していると思っていた。だが、違った。リシェと剣を合わせて気付いた。自惚れていた。私には、まだ底があった。そうではない、底は見えない、わからない、何処までも潜って行けそうだ。確かめさせてくれ」
淡々と言葉にしていくアラン。然し、言葉の裏にあるものに底冷えする。
逃げ出していただろう。前の僕なら。でも僕はアランの友人だから、彼のことが好きだから。偶には逃げ道を塞いでみたっていいだろう。これまでも退路を断ったことはある。でも、それは前へ進む為のものだった。勝算があると思ってのことだった。
「ははっ、まだまだ足りないよ、アラン。全力だと言った、その言葉、確かめさせてくれ」 アランに応えて、呼び捨てにする。戦士の相貌に、歓喜が閃いてーー。
刹那、弾けた。
最初の一合で、無理だとわかった。
覚悟を決めた。
「ーーぃっ」
剣は重い。だから、こんなものを持っていては間に合わない。
盾は狭い。だから、こんなものでいちいち受けていられない。
だから、僕は折れない剣と壊れない盾を、ーー捨てた。
「ぅなっ、なぁあっ、あーっ、あほか~~っ⁉ こぉんの竜人侍従長めっ、剣を腕で受けるとか、ちょっとは人間の常識を守りやがれぇ~~~っっ‼」
酷い言われようである。こっちはもう、感覚もなくなって、それでもなぜか動いてくれる腕で、必死に、死に物狂いで、アランの力に付いていこうとしているのに。
魔法剣と魔力は僕を傷付けない。アランの力の正体はわからない。でも、一つだけわかったことがある。彼の力は、竜の、「千竜王」の力ではない。
ずくり、と僕の内が疼く。
アランの力に呼応したらしい「千竜王」に構っている暇などない。
ーー最後まで持ってくれ。終わりは近い、もう勘だけで合わせている、限界、ここしかない、不思議なことに、焦りが窺えた、アランの連撃の終の一撃に。
奥の手というわけではないけど。僕が最初に覚えた、攻撃の手段。
剣を受けた左腕に、右の掌を叩き付ける。肘を前に出すと同時に、体が弾かれる。この近距離なら避けられない。これで、攻撃が当たって、ーー僕の負け。のはずが、僕の意思とは無関係に、攻撃の為に繰り出した右手が下ろされて、
どんっ。
おかしい。僕は前に進んだはずなのに、後ろに飛ばされていて。今のは、背中を地面に打った音のようだ。転がって、転がって、転がって。うつ伏せになって止まる直前に、右足を引き寄せて、お腹の辺りに空間を作る。
「…………」
……間に合わなかった。下ろされた右手の下を、もう見ることすら敵わなかった魔法剣が、僕の体を上下に真っ二つにする勢いで、叩き付けられた。竜鱗鎧は無事なようだが、怖気だろうか、冷たい風が迷い込んで、腹にやろうとした手を横腹から背中に回して。取り出した物を頭の横まで持っていって、ひらひら~と振る。
「白旗ですね。リシェ殿が負けを認めたので。勝者、アラン・クール・ストーフグレフ王」
ユルシャールさんが冷静な声で、勝ち名乗りを上げると、アランの勝利を称えて、拍手喝采炎竜氷竜、って、あー、これは不味い、あまりの悪寒の酷さに、思考力まで低下しているようだ。然し、ここまでやっておいて、最後の最後で対応を間違えるとか、そんなわけにはいかない。これだけ苦労、なんて言葉じゃ足りな過ぎる、命を張った結果がお粗末なものでは笑うに笑えない。
腕どころか足も、もう考えるのも馬鹿らしい、体全体がよくわからないことになっている。たとえ、精神を引き裂くような痛みであろうと、短時間なら我慢することが出来る。これまでの人生、実際に何度か行ったことがある。まぁ、今の状態は、それらとは比べものにならないくらい酷いのだろうけど。
「よっと」
何事もなかったように立ち上がる。
うわぁ、凄い。全身に疾走った。まるで新しく作られた、ぶっとい神経を小さな刃で切り刻んでいるかのようだ。
何事もなかったように歩き出す。
兄さんに感謝である。昔、酷い筋肉痛になったとき、まともに動かない体を動かすにはどうしたらいいのか、実践して骨を教えてもらった。
何故だか、アランが僕に近付いてきてくれないので、近くて遠きは友人の仲、って、二重に間違ってるじゃないか。とか気を逸らしていると、実は満身創痍だった仲良し二人組。
「ふむ。最後の一撃。体のほうが持たなかったようだ。もうまともに動けない。リシェが負けを認めず、立ち上がれば、私が負けを宣言していただろう。ストーフグレフの民の眼前だからと、気遣わずとも良かったのだが」
はい? えー? と、もしかして勝つことが、って、いやいや、妙な功名心を芽生えさせている場合ではなく、引っこ抜いて切り刻んで邪竜の餌である。
「はは、そんなわけにはいきません。あれだけの一撃を、防御が間に合わず食らったというのに、勝者になってしまったら、カリンさんやストーフグレフの民に何を言われるやら」
喉から下は麻痺して、もう感覚もわからなくなっているが、口から言葉は出てくれた。
「でも、さすがに疲れました。夜に、声が掛かるまで休んでいてもいいですか?」「ふむ。了解した。そのまま控え室を使ってくれて構わない。人はーー、百竜様がいらっしゃるから必要ないか。となると、残された問題は、あそこまで歩いて行かねばならぬということか」「肩を貸したいところですが、そうなるとばれるかもしれないので、民に応えてあげて下さい。僕は先に下がりますね」「仕方があるまい。王の務めを果たそう」
魔法球が僕と擦れ違って、ふよふよ~とアランの許へ。
「……っ」
もう、アランを気遣っている余裕なんてない。民に応えているらしい彼や、彼らのことなど感覚は拾ってこない。僕がすることは単純だ。決まっている。だから難しい。
「ぃっ‼」
気を抜いたら駄目だ。わかっていたのに、通路に入って気が緩んだ瞬間に、猛烈な衝動が襲ってくる。
尿意を催したあと、まだ大丈夫だと思っても、憚りとの距離が近付くほどに、尿意は強まってゆく。人の意識が関係しているのだろう。然し、そうとわかっていても、その制御は中々に難しい。いや、人によっては簡単なのかもしれないがーー、扉が見えてきた。
最大級のものが襲撃。もはや、内から生じる衝動だけに突き動かされている。あとは、扉を開けなければならないが、それはたぶん致命的なーー。
扉が勝手に開かれる。僕が入ると、扉は閉まる。そこには百竜がいて、手には桶をもっている。そして、かたんっ、と床に置いた。
目にした瞬間、一気に迫り上がってくるが。間に合うっ! と口をぎゅっと塞いでーー。
ぶっぱぁっ。
「「「…………」」」
……どうしよう。百竜にぶっ掛けてしまった。然て置きて、多少冷静になった頭が、次の行動を的確に指示してくれたので、倒れ込むように第二波を桶に嘔吐、げろげ~ろ。
……失礼。お耳汚しでしょうから、僕の擬声語だけで勘弁して下さい。
一気に来たときは間に合わないから気を付けろ。変な助言(?)が多い父さんの言葉が、今頃のこのこと記憶から這い出してくるが、時すでに遅し。百竜がどうなったか確認したいが、今は見た目も普通な桶さんと大親友なので、彼をがっちり掴まえて、げろげろろ~。
「ーーっ」
何も見えなくなる。と言っても、死期が迫ったというわけじゃ……ない、はずである。
目隠しをされたようだ。四つん這いの僕の近くで、かさかさと音がする。
これは、百竜が僕の下に潜り込んだーーん? なんだ…ろう、お腹の辺り、左右の二カ所が熱を発する。すでにおかしくなってしまった感覚が、それでも伝えてくるということは。というか、なんか体が揺れているというか、引っ張られているというか……。
「えっと、百竜様、何をしていらっしゃるのでございましょうや」
直感というやつだろうか、何だか妙に空恐ろしいので、言葉だけは面白楽しくして(まちがいだらけで)尋ねてみる。すると、火照ったような百竜の言葉が返ってくる。
「我は竜の叡智のようなもの。人種の体についても一廉の知識を有しておる。最後の一撃。あれや内部への浸透。わかり易う言うなら、内側で、ぎゅるんっ、となった」
それは、また、確かにわかり難いようでわかり易いですね。おげぇ~~。
酸っぱい。吐くものがなくなって、胃液なのだろう、それでも吐き気が治まらず、体の内側から掻き回されているような、って、もしかしてこれは比喩とかじゃなくて……。
「主の内臓が絡まった故、そのままでは魂が還ってしまうでな、腹から両手を差し込みて、臓物の位置を直しておるのだ。ーーこれで、吐き気は治まったであろう」
百竜の言う通り、気持ち悪さは残っているものの、楽にはなった。ただ、その代わりというか、先程より腹の内の異物感が凄いのだけど。耐えていると、何故か百竜の手が止まったままなので、何か重大な異変が生じたのではないかと呼び掛ける。
「百竜ーー?」「……主の内は、温いのでな。少う抜き難いのだ」「お願いです。即行で抜いて下さい」「まったく、いけずだのう、主は」「…………」
百竜の声色が艶を含んだように生暖かいので、真剣にお断りをする。
しゅぽんっ。
いや、実際には小さな、ぴちゃ、という生々しい音が聞こえただけだったのだが。
「主よ。我はこれから、炎で傷口を焼く。我が炎を享けよ」
百竜の炎、スナの氷。暑いと、寒いと思えるほどに、彼らの属性を享けられるようになった。であるなら、もっと強く、もっと激しく、自分から求めてーー。
「ーーっ」
熱い。熱過ぎる。百竜の熱情が僕を焦が(とろか)す。ゆっくりと動いている。灼かれていることがわかる。なのに、酷く心地良い。まるで百竜を胸に、髪を梳るような……。
「主よ。そちらの椅子に座るが良い。背中は付けず、なるべく体は真っ直ぐにせよ」
目隠しが外される。両腕を片方ずつ支えられて椅子に座らされる。ーーん? 片方ずつ?
色々あり過ぎて、ぼーっとしながら視線を向けると、あに図らんや、筆頭竜官がいた。
「オルエルさん。何故こんなところにーー」「俺は、オルエルとかいう御仁ではないぞ。名は、グットロー・ベルンスト。薬師のようなものだと思ってくれ」
四十がらみの恰幅のいい男性。雰囲気も似ていて間違えてしまったが、髪と髭がぼうぼうで、序でにぼさぼさなので、きちんと見れば間違いようがない。
「主が持ってきた薬では足りぬと思ったのでな、連れてきた。心配いらん、口止めはしてある」「炎竜様から、過分なる品を頂いた。ここで起こった一切合切、墓場まで持っていく」「えっと、それ、断罪の鋸のような気がするんだけど」「氷が持たせたものの一つだ。主の為に役立てよと。然し、持って行くにしても、これはどうなのだ」「あはは、でも、物は使いよう、だよ」「主よ、どういうことだ?」「その魔具の鋸は、たぶん、岩とか金属とかも切れると思うよ。使う職人によっては至宝ともーー」「とんでもないっ‼」
ぶんっ、と鋸を振って僕の言葉を遮ったベルンストさんは熱の籠もった口調で力説する。
「この『魔のこ』ちゃんは、人間の手足を切る為の物! 岩とか金属とか、断じてそのような物、切らせるわけにはいかんぞ‼ 『魔のこ』ちゃんが汚れる!」「「…………」」
人選を間違えたのではないか。そんな思いを乗せて、じっと百竜を見ると、気付かない振りをした炎竜は、僕の服を脱がせ始める。氷鱗には触れ難かったらしく、分厚い手袋を嵌めたベルンストさんが代わりに。上半身裸になって、百竜が最後の一枚に手を掛けたので、死守する。「騒乱」の前にスナに見られてしまったが、それ以後に愛娘に見せたことはないので、いや、別に百竜に見られたからといって何かがあるというわけでは……。
べっちゃり。
肩口から指の先まで、半透明のどろっとしたものが塗りたくられる。
「両腕、どう見たって手遅れなんだが、炎竜様が言うには、あんたは普通よりも回復が早いらしいな。そうだってんなら、夜までには感覚が戻るはずだぞ」
ベルンストさんの言葉に釣られて、見てしまった。これまで見ないようにしてたのに。
「…………」
魔物の腕。第一印象はそれだった。里に居たときに解剖した小鬼の、死体の腕がこんな感じだっただろうか。いや、色合いでいえば、それより酷い。
「腕に力を入れ、動かしてみよ。ゆっくり、軽くで良い」
感覚は、……何とか指の先まで届く。そう表現してしまうくらい、当たり前に動いていた腕は、鈍く、覚束ない。然し、動いてくれる。全体が痛んで痺れているが、一所から、繋がりを断つような致命的なものは感じない。
腕ほどではないが、お腹も中々やばい色である。その中にある、二本の短い傷痕。細いので、火傷というより切り傷が治った痕といったところか。ここから百竜の手が入っていたのか、と考えた瞬間、スナと、途中で合流した雷竜も一緒に背中に乗っかってきたので、うん、こんなの、もう二度と体験したくないと、去っていく二竜に吐露する。
「やっぱり、切るか? 『魔のこ』ちゃんの準備は万全に整ってるぞ」
ベルンストさんは、僕の両腕を切りたそうな目で見ていた。
なんだかなぁ。僕を人体実験したそうな顔で見ていた魔法使いと、同じ輝きを瞳に宿している。なので、僕はそっと目を逸らした。
ふぅ。回復が早い、と彼は百竜から聞いた。竜の魂である百竜にはお見通しだったか。治癒魔法があるので、これまで注目されることはなかった。そう、殆どの人は、治癒を使わないとどのくらいで治るのか、明確な物差しを持っていないのだ。「騒乱」以後、「千竜王」の存在を自覚するようになったからか、回復力に拍車が掛かって。百竜から「千竜王」の正体を知らされたあとは、切り傷くらいなら翌日には治るようになってしまった。
「薬師のようなもの、と仰っていましたが、差し支えなければ教えて頂けますか」
疲れの所為か、何もせずにいると瞼が重くなってくるので、話し掛ける。
「ああ、構わんぞ、隠すことでもない。それに、あんたは王の友人らしいからな」
腕が終わって、次はお腹に薬草らしきもの挟んで包帯で巻いてゆく。
「戦場で五人傷付いた。大怪我は一人、放っておいたら死ぬ。でも、大怪我の人間を治したら、治癒術士の魔力はすっからかん。一人を復帰させて、四人を後方へ下げるか、はたまた四人を復帰させて、一人を見殺しにするか。それらは治癒術士の、国の判断だからどうでもいい。王が考えたのは別のことだ。この大怪我で死ぬ人間を、治癒術士がいないときにも死なせないように出来るだろうか、ということだ。
そこで俺の出番だぞ。国の支援を受けて研究だ。あっちこっちの戦場を駆け回って、切り捲ってきた。百人以上は死なせなかった自負はある。って言ってもな、世間様は理解してくれなくて、大っぴらには出来んのだ」
「そういえば、聞いたことがあります。まだ効果も薄く、今ほど治癒魔法が有効じゃなかった時代に、そのような治療方法があったとか」
「俺も含めて、何人か、そういう人間を雇って、研究させてるみたいだぞ。くっくっくっ、この『魔のこ』ちゃんは素晴らしい! さっそく切ったんだが、傷口を魔力で覆って、感染を防ぐだけでなく、回復まで早めるみたいなんだ! うおーっ、竜信仰に鞍替えだ‼」
いや、それは止めて下さい。と言おうとしたが、やっぱ切るか、とか返されそうなのでがっちりと口を閉じる。それから、開けた口で、別のことを百竜に尋ねる。
「断罪の鋸、上げちゃっていいの?」「ベルンストが引退するまでは所有者と認める。その類いでの条件なら貸しても良い、と氷は言うておった。竜からすれば一瞬なのでな、必要なら、人手に渡ったあと回収するであろうよ」「ところで、その手に持った桶だけど」
百竜が持っている桶には、僕の吐瀉物が入っている。というか、僕がぶっ放したわけだが、百竜も床も汚れていない。良かった、魔法か魔力で桶に入るようにしてくれたのだろう。控え室にある窓は開けられているが、二人に申し訳ないと思ってしまうくらいには、臭う。然し、今は警告というか忠告、或いは勧告のようなものを優先しなくてはならない。
「駄目だよ」「…………」
危険な兆候である。
百竜が物欲しそうな顔をして。更には上気しているようにも見えるので。
「…………」「ここは主の臭いで満たされているのだ。我だって我慢しておるのだ。この桶の中の物は『浄化』しよう。気体なら、体を満たしたとしても文句はあるまい」「僕に文句はありません。でも、慥かそれとなくみー様に伝わっているんでしたよね。あとでみー様に文句を言われる、だけでなく、嫌われてしまっても僕は知りませんよ」「くっ……」
とぼとぼと窓まで歩いて行って「浄化」を行うと、口から十個ほどの炎の球を吐く。
髪の毛が揺れるくらいの、弱くはない風が吹く。見えないが、魔力で壁を作っているのだろうか、部屋の空気が循環して、胃液も含んだつんっとした臭いを一掃してくれる。
「炎竜様、人間って美味しいんですか?」「さてな。竜には元々『味覚』がない上、基本は丸呑み故、竜の魂としての我の記憶にも残っておらん」「…………」
試してみたい(訳、ランル・リシェ)。百竜さん、そんなお顔で僕を見るのは止めて下さいませ。けちんぼ(訳、ランル・リシェ)。いや、そんな魅力的な……くうぅ、不味い! このままでは百竜のお口に飛び込んでいってしまいそうだ、って、いやいや、待てっ、百竜の唇を見て、スナとの情事ではなく接触を思い出している場合ではない!
「ーーふぅ」
以前、みーは僕の血を飲んだ。一心竜乱で飲んでいたので、美味しかったのかもしれない。もしかして、みーの内にいた百竜も味わっていたのだろうか。まぁ、死んでしまうので僕を食べさせてあげるわけにはいかないが、血を飲むくらいなら、別に問題ないかな。と結論を得たことで、何やら込み上げてきたものを完全無視、知らぬが竜、この問題はこれで終わりである。未だ僕の心で吹き荒れているが、百竜を凝視して、念押ししておく。
「暗くなったら、また来る。そのとき駄目そうなら、ーーすちゃっ」
よっぽど「魔のこ」ちゃんが気に入ったらしい。決め姿勢まで取ってから辞してゆく。
ーー治癒魔法で救える人を、治癒魔法以外で救う方法。治癒魔法で救えない人を、救おうとする、それならばわかる。薬師がわかり易い例だろう。こういったことを、治癒魔法が効かない僕が、考えたことすらなかったなんて……、くはぁ~。
「ほんと、アランは凄いなぁ」「悲観することはなかろう。見ているものが異なるということだ。主が同じ視点を望みようものなら、王になってみるが良いぃゆぅわっ⁉」
然ても、慣れていないだけだと信じたい。どういうつもりなのか、まぁ、冗談なんだろうけど、簒奪を仄めかした百竜の頭を撫でると、あからさまに慌てて炎に染まる竜顔。
ベルンストさんが遣って来るまでの目標が決定。百竜の「撫で慣れ」作戦の開始である。
然てまたベルンストさんは残念そうな顔で帰っていった。「魔のこ」ちゃんに出番がなくて何よりである。竜にも角にも、百竜に手伝って貰って、制服を着る。治りが早くなるからと、本当かどうかはわからないが、息吹を百回ほど吐いてくれた百竜には感謝である。
作戦は大失敗。警戒した百竜は、僕の言葉に惑わされない為に、耳栓をしてしまった。
「あれ? 態々(わざわざ)ユルシャールさんが足を運んでくれたんですか」
扉を開けて控え室に入ってきたのは、盛装の変魔さんだった。いや、さすがに貴公子然とした彼に、変魔、なんて言葉は使えないか。こういった服も着熟せる青年が、素直に羨ましい。盛大にしないように、と伝えてあるので、僕たちは普段の格好のままである。百竜を着飾らせたい、との欲求は竜並みにあるわけだが、炎竜は受け容れてくれないだろう。
「百竜様は、ミースガルタンシェアリ様ということになっていますし、況して竜の国の侍従長の同伴ともなれば、他の人間に任せるわけにはいきません」「僕たちは旅の途上なので、小規模で。というお願いは、アランは聞いてくれましたか?」「友人を紹介、若しくは自慢したかったのでしょうが、大丈夫です、マルス様と私で、国中の有力者を集めようとしたアラン様の画策は頓挫させました。事前にわかっていて、手を打っていたにも係わらず、ぎりぎりでした。パープットの奴は、延長戦だとか言ってきたし、はぁ」
お疲れさまです。ユルシャールさんの負担を減らす為にも、パープットというストーフグレフ国の侍従長を旅の道連れにしたかったのだが。でも、彼の言い様から、居たら居たで大変そうな予感がするので、エルシュテルの巡り合わせ(うんめいはそれをおもうもののもとへおとずれる)、ということにしておこう。
ベルさんは、「隠蔽」を行使できるエルタスと行動を共にしている。彼の正体を明かすわけにはいかないので、彼らは参加しない。美味しい物が食べられるよ、とフラン姉妹を誘ってみたが、別室でも食事が饗されると知って、あっかんりゅう、をされてしまった。
王宮の一室。琥珀の間、と言うらしい。これでも狭いほうだと言うのだから、いや、ほんと、勘弁して下さい。翠緑宮も規模が大きいほうだが、通常の城の役割や様々な施設、竜官や職員の居室まで含んでいるので、勝ち目、なんて言うのも烏滸がましいが、比べようもない。老師は頑張って設計や意匠をしてくれたのだろうけど、こうして細部の装飾や全体としての統一感を見ると、やっぱり本職には敵わないんだなぁ、と実感してしまう。
「ふむ。リシェ、誰が良い」
ああ、ユルシャールさんが頭を抱えている。僕も一緒になって、頭をぶんぶん振りたい気分である。王妹の三人。コウさんと同周期くらいの、いや、シャレンと同周期くらいの、と言っておこう。僕と同周期のお姫様。もう一人は、エンさんやクーさんと同周期。
「お兄様と互角に闘ってたんだよー、凄かったんだよー」
僕の腕に組み付くようにくっ付いているのは、自分本意な四女、クリシュテナ様である。痛みでぼろが出ないように耐え捲っているというのに、あんまりな仕打ちである。周期の割には大きな胸が押し付けられているが、感触を楽しんでいる余裕なんてない。
「それは残念ね。こんなに可愛い方だと知っていたら、駆け付けましたのに」
僕に顔を近付けて、銀の月の笑顔を浮かべているのが三女、フレイカティナ様である。
「銀月」というのは、彼女の髪の美しさを称えた異称らしい。カレンと二人並んだら、何だか凄いことになりそうだ。
「ほらほら二人とも。珍しいのはわかるけど、そのくらいにしておきなさい」
キュナレイテ様は、男装の麗人。何でもユルシャールさんの次に、女性に人気があるらしい。彼女が結婚すると、ストーフグレフに百万の涙が降り注ぐだろう、と言われているそうだ。本人は、独身を貫くと公言しているようだが、王族の身でそれは叶うのだろうか。
「アラン様。御自身で仰ったことを忘れないで下さい。『ストーフグレフは大国となった。政略婚を行うつもりはない。伴侶は自身で見つけるが良い』と諸侯の前で宣言なされたでしょう」「はは、それと、もしもの話ですが、僕が結ばれたとすると、アラン様の弟ということになります。そうなると、それはもう、純粋な友人同士の関係とは言えなくなってしまいます」「ふむ。そうか、そういうことなら無しにしよう」
ユルシャールさんの諫める言葉に乗っかって、翻意を促すと、朝令暮改な王様。
長女のエスティナーダ様は、一歩離れた場所から妹たちを柔らかな笑顔で見守っている。病弱な夫は、こういった場所には姿を現さないと噂で聞いた。
こんなことを思うのは失礼かもしれないが、息子の名前と違って、娘たちには凝った、というか真剣に悩んだだろう、と思われる名が付けられている。彼女たちの性格を見るに、娘たちが大好きな前王様だったのかもしれない。
百竜は、宰相や大臣、諸将の席を巡っている。世界に冠たる竜と話せるとあって、百竜は引っ張りだこである。炎竜は、ときどき僕に殺意の視線を向けてくるので、どう言い訳したものやら。姫様たちには、あとで百竜と接する、別の機会を設けるそうなので、今は僕に構ってくれて(おもちゃにされて)いる、という次第。
「ほう、君が竜の国の侍従長ーーか。アランの友人になれる人物は、どんな化け物かと思っていたが、案外普通が一番怖いのかもしれないな」
そこに傑物が遣って来る。アランが怪傑なら、彼は俊傑と言ったところだろうか。僕とアランを見比べて、何やら深く深く納得していらっしゃる。
「こんなことなら仕事を後回しにして、闘技場に行けば良かった」「くくっ、ご冗談を。兄様が仕事をほっぽり出して、遊興に耽ることなど出来ますまい」「ふん。キュナレイテこそ侮るなよ。昔の私ならいざ知らず、今なら努力すれば、後ろ髪を引かれる程度の罪悪感で実行は可能だ」「はっはー、お兄様ー、『中毒者』の二つ名、返上失敗だよー」
「中毒者」とは彼の二つ名で、誉め言葉でもあり皮肉でもあり、そして畏敬であり恐怖を体現した言葉でもある。お優しくなられた。とは事前に聞いたユルシャールさんの評。子を成してから、魔獣が竜になったと。つまり、能力はそのまま、或いは向上したが、他者に与える害は薄れたと、そういうことらしい。
「兄上。次は東域へ行ってくる」「話はユルシャールから聞いたがね。世界の危機かもしれず、そも、すでに世界は救われていたとか。許可せぬわけにはいくまいが」「ふむ。リシェ、名案を」「ーー次の大臣の候補、或いは見所のある若手の手腕を試す為、嘗てのストーフグレフ国と四国に、代官という形で派遣します。地域の統治を任せ、五地域をマルス様が纏めます。アラン様は、そうですね、休暇を取っているということにしましょう」
うぐぅ、アランの信頼が重い。規模は違えど、グリングロウ国とストーフグレフ国には似たところがある。同時に、最も異なるのが、マルス様の存在。王の不在に際して、ストーフグレフとその民は、知っておく必要があるーーのだが。名案かと問われれば、首を傾げざるを得ない。マルス様が渋い顔をすると、忽ちクリシュテナ様が竜の尻尾を振る(いいたいほうだい)。
「おー、お兄様ー、見抜かれてるっぽいよー。お兄様は一回、王様やっとくんだよー」
「まったく、野心など疾うに捨て去ったはずだというのに。他人に言われねばわからぬ、未練などというものが残っていようとは。儘ならぬものだ」
王位を継ぐはずだった。それは当然の、既定のことだった。然し、そうはならなかった。そして、見せ付けられた。自分ができないことを、遣られてしまった。否、本当に自分ではできないことだったのか。異なる方法で、自分もまた、切り抜けることが出来たのではないか。認めているのに、認められない部分がある。わかっているのに、わかっていないことがある。ーーそこまで意図したものではなかったのだけど。自分に優しくない「中毒者」は、起因するものが、アランではなく、別のものであることに心付いてしまう。
はぁ、丸投げのアランは、満足気なお顔でいらっしゃぅぐぅっ、って、腕っ! いきなりぎゅっとしないで、お願いしまっ、優しくしてくださいっ!
「決定だよー。じゃー、侍従長ー、クリシュテナが貰ったんだよー」「甘いですわね。周期からして、私のほうがお似合いですのよ。何より、外と内の懸隔、そそられますの」
うぎぃぁっ、反対の腕にっ! 頬を染めた顔が近く、って、そんな嗜好がぁあっ、っ次は、背中から⁉ やめっ、お腹に手を回さないでぇ、弄らないでぇえんっ!
「他人が欲しがっているのを見ると、どうしてこうも欲求が湧いてくるのだろうな」
あががががぁ~~⁈ や、やばい……、体から感覚がなくなってきたんですけど……。
三姫にくっ付かれて、嬉しいけど嬉しくなくて、百竜は炎がぼうぼうで大童。
「ふむ。リシェが女だったら、面倒がなくて済んだのかもしれない」「ーーーー」
アランの述懐に対するユルシャールさんの返答が、あんまりなものだったので、聞こえなかったことにして下さい、お願いしまーーげふっ。
おかしい。異性からあんなに積極的になられる理由がわからない。まぁ、彼女たちは僕を玩具にしてただけなんだろうけど。それでも、異性と密着するなんてことは殆どなかったので、体がおかしくなっていなければ妙な優越感に浸ることに……なんてことは僕にはないか。そこまでの男としての自信、或いは勘違いができるなら、いや、止めよう、もう少し有意義なことを考えよう。
あれからすぐに解放されるはずもなく、三姫と舞踊。百竜は、「浮遊」を行使して、器用に枢要たちと代わる代わる踊っていた。竜の魅力に遣られたらしい彼らの、でれでれ~、とした顔を見れば、外交的には満足がいくものだったのだが。炎竜が盗られて、もとい炎竜に触れられて、僕の胸中がむかむかしてしまったのは秘密である。
ある意味、アランの本旨である僕の紹介。まぁ、この辺になると、ちょっと記憶があやふやだったりするのだけど。この頃には、部屋に戻って休むことしか考えていなかった。肉体と精神がずたぼろで、宛がわれた客室に入った僕は、スナの竜鱗鎧を寝床に置いて、うつ伏せに、お腹を乗せて、全身から力を抜いた。
気絶するように寝入って。そして気付いたら真夜中で。いや、そこは問題ではなく、では何が重要なのかというと、体がまったく動かない、ということである。然てこそ色々と思い出していたのだが、この如何ともし難い状態をどうしたものか。
しくじった。ベルンストさんは、二回分の薬を渡してくれたのだが。実は、あの半透明のどろどろや薬草は、効果の高いものだったらしく、治療を行わずに寝てしまった僕は今、こんな有様である。出来れば薬を塗って、ぐっすりといきたいところだが、地竜に乗っかられたような絶望的な状況では、地竜と同衾、もとい添い寝するしかないということかーーごふっ。あー、いやいや、不味いな、変な妄想で眠気がなくなってきた。
かちゃ。
ーー扉が少しだけ開いた。もしかして暗殺? と心臓が跳ねたが、真っ暗な中で感じた炎の気配に安堵する。う~ん、これは眠った振りをしていたほうがいいだろうか。
里では、眠っている演技をする為、二人一組になって、実際に眠っている相手の特徴を伝えて。演技との齟齬がないか確かめるということをしたのだが、僕の相手はエクだったので。寝ているとき、ときどき呼吸が止まってたぞ。という彼の言葉を信じて、周囲から笑われてーー果たせるかな、別の同期とやり直す羽目になってしまった。
ごそごそ。ごそごそ。ーーべちゃ。ぬりぬり。べちゃ。ぬりぬり。べちゃ。ぬりぬり。
両手が終わったので、ゆっくりと引っ繰り返される。
「…………」
氷鱗が、ぽいっ、と床に捨てられる。
ぺた。ぺた。ぺた。くるくるくる。ぐるぐるぐる。ーーとす。
「…………」「ぅ~」
巻かれた包帯の上辺りに、跨いだ百竜が体重を掛けないよう軽く座る。空寝継続中だが、んー、ここはお礼を言ったほうがいいだろうか。いや、でも、どうしよう。
「…………」「ゅ~」
竜の感覚に察知されてしまうので、薄目を開けることも出来ない。じっと見られて、百竜の気配が近付いたような。…………(どきどきそわそわ)。ではなくて、心音の変化も捉えられてしまうだろうから、竜心を心掛けてーーも無理そうなので、ばれるならばれるがいい、と諦めることにした。開き直っていると、胸に温かなものーー百竜の手が触れて、首へ、頬へ、その度にさわさわと。額と、恐らく額だろう、触れ合って、手は僕の頭を抱えるように。
「…………」「っ~」
……、ーー。ーー、……。かちゃ。
あ、あー、ととっ、いや、その、何もありませんでしたよ。何だか随分と、厳かな感じの炎竜に、気付いたら時間が結構経っていたような気がしないでもないわけでもないような感じがしないでもなくもないがーー、うん、駄目だ、寝よう。それ以外に、僕の色んなものがてんぱった状態の、これらの解決方法はない。
畢竟、僕は解決までに、悶々(もんもん)とした長い時間を必要とするのだった。
「草の海が見えてきたね」
周辺五国の、草の海側の国境は小高い丘になっているので、緑の絨毯を一望できるようになったのは、だいぶ近付いてからのことだった。然てしも有らず、フラン姉妹を始めとして東域に詳しくないだろう人たちへ、情報を刷り込まなくてはならない。
「僕が持つと、たぶん割れてしまうから。アラン、お願い」「ふむ。心得た」
竜腕に括り付けられているエルタスとユルシャールさんにも聞こえるように、アランに魔法球を持ってもらう。こういうことは、周期が下のサンやギッタに率先してやって貰いたいのだが。ベルさんだけでなく双子も、何処か他人事といった風情である。
「現在、東域は四つの地域に分かれています。これまで僕は、北方、西方、南方、といった呼び方ではなく、東域と呼んできました。それぞれの地域は、地域内での結び付きが強く、彼らは、エタルキア、と一括りに、他の地域と一緒くたにされることを好んでいません。東域で、エタルキアと口にすると、殴られたりはしませんが、ぎろり、と睨み付けられる程度のことはされるので、控えてください。
東域も安全というわけではありません。どこかしらで戦争は起こっています。ただ、これらの戦争は地域内でしか行われません。先に言ったように、地域内での結び付き、同胞意識が強いので、地域外から越境してくる国があれば、それまで争っていた国同士であろうと、協力して外敵に当たることになります」
皆に浸透するのを待つ間に、スナの鱗の欠片を、ぽいっ。
「情報量が多いと混乱するかもしれないので、各地域のことは必要があればその都度開示していきます。というわけで、百竜。国境沿いに、戦士像か賢者像は見えるかな?」
頭を動かさず、竜眼をぎょろっと下に向けて。僕たちに配慮してくれる。
「戦士像は発見しようが、賢者は此処からでは見えんな」「ありがとう。じゃあ、戦士像の上を、ゆっくりと滑空して貰えるかな」「ちと面倒ではあるが、してやらぬでもない」
すぅ~と体が下がっていく感覚。日常では体感することのない、擽ったいような、少しばかり尿意を催すような、ーーこれは体の反応、緊張感からだろうか。
百竜に別段の変化はない。昨夜、薬を塗ってくれたので、出発前にお礼を言っておいた。百竜の様子から、僕の空寝には心付いていない、と当たりを付けるが、僕に執着しているらしい炎竜がさばさばとし過ぎているような気もして、判断は保留ということで。
「ーーっ」
地面が迫ってきて。上から見る分には小さいが、然に非ず、竜の国の大広場の炎竜像より大きな、戦士像の後ろ姿がーー直後に振り返って、剣を振り上げている壮年の男性の雄姿を目に焼き付ける。ととっ、高度を上げ始めた百竜への対応が遅れて、未だ満身創痍と言っていい体に、ミニ雷竜がわさわさと集ってくる。捕まえて、全竜を撫で撫でしてあげたいところだが、百竜に睨まれそうなので、飽きて帰るまで好きにさせることにした(いたみもいっしょにもっていってね)。
「なーんか、かっちょいーおっさんだったけどー」「なーんか、美化されてる感じがぷんぷんするんだけどー。とギッタが言ってます」「はは、正解です。没したあとに造られたので、願望や感謝などが混ざって、あのような雄姿の像となったのでしょう。文献に依ると、人食い巨人ですら逃げ出す怪異の風貌、とあるので、推して知るべし、ってことで」
視界の果てまで続く、一面の野っ原。清々しいと同時に寒々しくもある光景。
「戦士像と同じく、賢者像も東を望んで、いや、威嚇しているのだろうか」
像が母国に背を向けている理由。ベルさんの王としての、いやさ、戦士としての直感が働いたようだ。出発してからずっと無言だったので、会話に加わってきてくれて一安心。
「はい。二人の英雄について語るには、東域の英雄に言及する必要があります。彼の者は、英雄エルク、と称していました。古語時代の末期、技術や魔法の進歩など活気があった時代です。英雄エルクは、大国間の角逐にあった混乱期を収めました。えっと、諸説ありますが、英雄エルクは稀代の色男で、各国の姫を篭絡して手懐けていた、というのが有力な見方です。彼は大国からの支持を得ました。反発する国はあっても、表立って動くわけにはいきません。英雄という立場を手に入れたエルクですが、その地位は、とても危ういものでもありました。何もしなければ、英雄ではなくなってしまう。では、英雄で居続けるにはどうしたらいいのか。さて、もし英雄エルクの立場だったら、二人はどうするかな?」
ただ聞くだけでは頭に入らないと思うので、姉妹に振ってみる。
「む。あたしたちを馬鹿にし過ぎー」「そ。あたしたちは、望んでない勉強をしこたまやらされてきたー。とギッタが言ってます」「お。評価を改めて、改心しろー」
失敗した。拗ねてしまった。う~む、質問の仕方が悪かったかな。まぁ、こうなっては仕方がない。結末の見えた物語を、語ってしまうとしよう。
「答えは難しくありません。中央の脅威を喧伝、大衆を扇動して、国々を動かしました。兵数は二十万。当時の中央にとっては、全土が蹂躙される恐れさえある大軍でした。ストーフグレフ国が無理をすれば出せる兵数と同等のもの、と言えば脅威のほどが窺えるでしょう」「ふむ。二十万は集められるだろうが、後の面倒ごとまで考えれば、本当の危機以外では動員したくはない」「はは、そうですね。英雄エルクを中心とした東域は、それを遣ってしまいました。それに対したのは、草の海と接する、現在の周辺五国の二国です。『狂戦士』と『大賢者』との二つ名を冠されていた二王は、互いに自らの役割を理解していました。『大賢者』が戦略を練り、『狂戦士』は戦場で武威を振るいました。二国は、背後の竜。自分たちが倒されれば大切な者たちが、故国が蹂躙される。と不退転の決意で臨みました」「翻って、東域軍は軍紀が緩んだだろう」「はい。今も昔も関係の薄い中央からすれば、まさに晴天に地竜、沼地に風竜、唐突な侵攻でした。迎え撃つ二国は、二万を掻き集めるのがやっと。然し、二王は理解していました。消耗戦になれば勝ち目はない。初戦で勝利を決定付けなければならない。緩んだ大軍と決死の軍の衝突。降伏するか籠城するかと侮っていたーー東域軍の前線は崩壊しました。策の一つが、敵を潰走させること。そして、混乱を助長、全軍に波及する為の、二つ目が、英雄エルクを討つこと」「ふむ。それが敵わなければ、中央からの援軍を待つしかない。然し、それも悪手。中央の他の国々から、捨て石として使われる可能性が高い」「『狂戦士』は、死の矢となりました。己の命を燃べました。真っ直ぐに、悪鬼となって、眼前の命を刈り取っていきました。ですが『狂戦士』はーー矢は、英雄エルクまでは届きませんでした。そう、届かなかった。であるのに、矢は、貫きました。英雄の心を射抜きました。英雄エルクは、親衛隊とともに逃げ出しました。そうして安全圏まで下がったあと、親衛隊に動揺が走ります。英雄エルクの姿がないのです。混成軍である東域軍は、英雄エルクが在ってこそのものでした。彼がいなくなったことで、目的も失ってしまった東域軍は我先にと遁走することになります」
戦争は終結。然し、双方に大きな傷を残すことになる。
「『狂戦士』は、見届けることが出来ませんでした。馬に跨がったまま、潰走する東域軍を悪鬼の形相で睨み付けたまま、命数を散らしました。同じ頃、『大賢者』も。病を押して前線で指揮を執っていた老王は、静かに息を引き取ったそうです。二王が東を向いているのは、そういった理由に因るものです。
民は、今でも彼らに花を捧げます。『大賢者』には書物を、『狂戦士』には酒を、命日には多くの人が集まって、弔いという名のお祭りをやっているそうです。あなたたちのお陰で、私たちは楽しく過ごせています。その様子を、天の国にいる二人に見せる為にーー」
最後に、半ば消化不良に終わって、思いの行き所を見つけられなかった東域の人々について。それと、エルクに関する警告をしなくてはならない。
「今に至るも、英雄エルクの消息は不明なままです。落馬して死んだ、とか、姫と駆け落ちした、とか、他にも、村で老人となったエルクに会った、などなど、枚挙に暇がありません。ただ、一つはっきりとしているのは、エルク、の名は禁句だということです。特に外部の人間には。こちらのほうは、エタルキア、と異なり、エルク、を不用意に用いると、殴られることもあるので注意してください。
お前、エルクみたいな奴だな。エルクの末裔どもよ、我らが軍門に下るが良い。と、そんな感じで東域の人たちは、相手を罵倒する、相手を下に見る、といった比喩としてエルクを用いますが。立ち会った場合は、中立を保ってください。彼らは、中央からの干渉を嫌います。侵攻して、忽ち逃げ帰ったことが、抜けない棘となっているのです」
ん? 話し終わるのを待ってーーからだろうか、百竜が旋回し始めた。
「何かあった?」「……氷の魔力が届かなくなったでな、ここらに鱗を撒いておくが良かろう」「ここら辺が限界なのかな? それとも草の海に何かあるのかーー」
革袋から欠片を五、六個取り出して、一つ目を落とすと、百竜から応えがあった。
「一定以上の生命が居る場所には、魔力が吹き溜まり、生命にとって良い影響を与える。この地の魔力は素通りしておる。魔力量が多いこの世界では、様々な現象として表に出よう。木々が生えず、草地となっているは、斯様な理由からであろう」「草の海では、竜巻が多く発生するそうだけど、それも?」「そうさな。悪循環になっておるようだ。荒れておる故、小動物くらいしか住まず、気象にまで影響がある。斯様な環境であれば、人も魔物も寄って来ぬ。そうしてこの地は維持されることに相成った」「さて、と。これで駄目なら諦めるしかないね。スナには頑張ってもらおう」
中継点として円形になるように撒くと、ぶふー、との賛同なのか呆れなのか、鼻息を一つ、東に進路を戻す。ととっ、そうだった。これから行く、目的地について。こちらの情報も皆と共有しておかなければいけないのだった。
「では、目的地について、想定をしておきましょう」
僕は地図を取り出して、周囲の地形から地図の向きを確定させる。ベルさんにも見えるようにすると、興味があるのか双子も、僕を回避してアランとベルさんの間に首を突っ込む。はぁ、僕に触れるのは嫌がっているのに、二人に触れるのは気にしていないようだ。
「進路は、こう。このまま行くと、南の二国の、中央寄りを通っていくことになりますね。あ、えっと、そうでした。この地図は、翠緑王が僕の要請で以前に作製したもので、精確な地図になります」「ふむ。空から見たか、地形を魔力で測ったか、それを転写したということか。術が確立しさえすれば、いずれ叶いそうだ」「…………」
うわぁ、そんなつもりで見せたわけじゃなかったんだけど。ああ、本当に怖い王様だ。そんなことは噯にも出さず、またぞろ遣って来た雷竜を抱き締めて、大人しくさせる。
「魔力の発生源は、移動せず、そのままなのか?」「ーーっ」
うっ、アランだけでなく、ベルさんにまで。ああ、それについてはまったく考えていなかった。対象が移動するということは、条件が変わるということで、結構な大事だというのに。そんな内側の動揺とは裏腹に、外面は冷静に、彼の懸念に頷きながら問い掛ける。
「アランと、百竜は、わかるかな。発生源が移動するということは、それが出来るだけの存在が居るということで、警戒しなくてはならなくなります」「ふむ。揺らぎはーー移動したという形跡は感じられない」「それと、老師は、『甚大な魔力があれば、しばらく水や食料がなくとも生きてゆける』と言っていましたが、発生源の双子ーー赤子に、何か変化はありますか?」「我が友が世界の魔力を安定させておる故、すぐに乱れることはーーない、としておこう」「……そうですね。そうあって欲しいですね」
うっかりな王様を、完全に信じるのは恐ろしい、もとい難しい。
今回の一件に関して、王様の是非を論じるのは難しい。コウさんのお陰で、発生源の魔力は安定しているらしい。発生源が都や街中であったなら、被害を減らすことが出来たはずである。コウさんが魔法を行使して、世界の機能の一部とならなければ、被害は広がっていただろう、と老師は言っていた。つまり、通常状態では、実は大雑把らしいコウさんの魔法では、初期の被害は防げなかったと。そして、彼女が世界の部品となってしまったことで、竜の国は王様を欠くことになって、僕らを派遣することになった。
どちらにも一長一短がある。ただ、今のところ、迂闊で、一途な王様の行動は、彼女の願いに沿っている。このまま僕たちが何事もなく終わらせれば、想定される中で、最も被害を少なくすることが出来る。まぁ、コウさんはそこまで考えて行動したわけではない。それでも、短慮ではあっても純粋に、おっちょこちょいでも一生懸命に、問題をどうにかしたいと、誰かを助けたいと、そう想って使われた魔法を、無駄なものにはしたくない。
振り返って、もう見えないだろう竜の国に、眼差しを送りたかった。然し、草の海の向こうに、見えてしまった。然のみやは、後ろ髪を引かれながらも、氷竜の笑顔に胸を焦がしながらも、僕はしっかりと前を見据えた。
「これは、そういうことになるのかなぁ」
上空を旋回しながら、眼下に広がる都と、その中心にある王城を見下ろして嘆息する。
「ふむ。そういうことになるな」
アランが返すと、フラン姉妹が噛み付く。
「ふぉー、二人だけで通じ合ってないで、説明しろーっ!」「ぐぉー、仲良しかっ? 兄弟なのかっ⁉ 一心同体かっ⁈ とギッタが言ってます」「ふむ。私とリシェは、兄弟ではなく友人だ」「って、そんなこと聞いてないー」「って、そげなことどうでもいいがさー。とギッタが言ってげす」「そこの竜人ども、余計な口から、さっさと吐き出せー」
物怖じしない双子は、きっとアランを大層喜ばせているはず。僕よりは増しな扱いとはいえ、アランにここまでずけずけと物を言えるのだから、大物というか僕たちの側というか。見ると、ベルさんもわかっていなさそうだったので、ああ、あと変魔さんもたぶん理解は覚束ないだろうから、なるべく噛み砕いて説明するよう心掛ける。
「皆さんも感じるでしょうが、発生源は眼下に見ゆる城です。生まれたのは、恐らくスーラカイアの双子です。それでは、何故双子は王城で生まれたのでしょう。早い話が、不自然なんです。城で出産したということは、王族の子と考えられますが、それなら王宮か相応の施設で行うはずです。可能性としては、突然産気付いてその場で、不義密通を隠す為に、などが思い浮かびますが、一番よろしくないのが、魔法的な実験を行った、ということです」「ふむ。これは最悪を想定してだが、魔力量が多い子を成す術を確立しているかもしれん。そして、更なる成果を得ようと、今回の事態に至った」「それはない、と信じたいところですね。国が関与しているとなると容易にはいかないでしょうから」
シャレンと、彼女の母親の姿が思い起こされる。凋落した二家の魔法使いの一族が、秘宝を持ち寄って、それで何とか成功ーーと言いたくないような、彼らにとってはお粗末な結果に終わった。何にせよ、これで国を通さなければいけないことが、ほぼ決定した。
発生源が山奥の村とかで、すぐに対処に取り掛かれる。などといった甘い願望は、粉みじんに砕け散ってしまった。まぁ、変わらない事実を嘆いていても仕方がない。
然ても、凄い魔力である。コウさんと同等というのも頷ける。皮膚にぴりぴりとくる。腕や腹が痛むので近付きたくないが、そのくらいで済んでいる僕は、まだ増しなほうである。ベルさんはよくわからないが、他の皆は魔力量が多いので大変そうだ。アランの表情でさえ、引き締まっている、ーーように見えなくもない。
「では、これから降りますが。ベルモットスタイナー殿は覆い(フード)を。基本的には、エルタスさんと行動を共にし、必要があれば彼の魔法を頼ってください。サンとギッタは、別行動の際には、なるべくユルシャールさんを頼ってください。交渉は、僕とアランで行います。何か気になった、気付いた場合は、随時僕らに知らせてください。最後に、周囲への配慮は、全員で行動する際には、百竜に任せても問題ないかな?」
「何があるかわからぬ故、魔力量からして、我が行うが都合が良いとはわかっておるが。炎竜がそういった類の魔法を得意としていないことは覚えておくが良い」
ぶぶーん。と面倒に面倒を重ねたような、荒い鼻息。
百竜の魔力量は、人間とは比較にならないくらい多い(コウさんを除いて)。然し、成竜に比べると見劣りがする、と百竜は言っていた。
「百竜の、魔力量はどうなのかな?」「ーー主に、煮詰めたような濃い炎を百回浴びせたでな、二日の休息が必要な程度まで目減りしておる。魔力の回復が期待できよう我が友の紅玉は、残り二つ。成る丈、温存したいところではあるが」
「騒乱」でも絶えず頭にちらついていた可能性。竜の干渉があるのか、ということ。それさえなければ、百竜は無敵。敵う存在はない。僕らの身の危険について考慮する必要がなくなれば、だいぶ動き易くなるのだが。そうなると、唯一の気掛かりは、発生源の双子、ということになる。コウさんと同等の魔力量となると、百竜の手にも余る。
「城の正門前に降りるのがいいかな」「であろうな」
アランが同じてくれたので、百竜が下降を始める。
王城の一部は壊れているが、それ以外に損傷は見られない。外壁の内側には人の姿はない。そして、外壁の外側の、城下の人々に変わった様子はない。普段通りの、然し、地に降りて確認してみれば、不安や焦慮といった薄い膜を被せたような暗さを看取することが出来る。見ると、エルタスとユルシャールさんが自分たちを縛っていたロープを片していた。二人の魔法だろうか、荷物は一所に纏めてある。
正門は閉じられていて、槍を持った兵が二人と、年嵩の男性。雰囲気や装備からして、警備の責任者だろう。ーーん? どう接触するか頭の中で組み立てていると、皆の視線が左に向かっていた。恐らく「結界」だろう、青年はばしばしと両の掌で叩いていた。
「……エク」
東域での初接触が悪友とは、運がいいのか悪いのか。だらしのない総髪は別れたときのまま。顔の造形は良く、身形も整っているので、見様によっては遣り手の商人に見えなくもない。でっかい溜め息を吐きたい気分だが、いや、彼がどういった人間であるか理解してもらう為に、実際に、地の国から持ってきたような、どでっかい溜め息を吐く。
「百竜。城下の人々にだけ気付かれないようにお願い。エクは『結界』の内側にいれてあげて。あとは予定通り、ミースガルタンシェアリの代役をお願い」「「「っ‼」」」「ーーっ!」
百竜が『結界』を解いたようで、エクと三人の兵士が吃驚する。と言っても、エクのほうは、突然現れたことにではなく、僕が居ることに驚いたようだ。竜にも角にも、エクは放っておいていい。何をしなくても、勝手に状況を理解するだろうから。
「何…者か」
見るから戦士といった風貌の、四十格好の男性からの誰何。彼の視線が僕からアランへ、そして百竜に至って。それでも冷静さを保っているということは、中々の強者のようだ。って、なんか酷い言い様になってしまったが、彼に同情している場合ではない。アランは僕に一任しているようなので、始めるとしよう。
「こちらは、ミースガルタンシェアリ様です」「「「っ⁈」」」「ほう」「僕は、竜の国、グリングロウ国の侍従長、ランル・リシェと申します」「竜の国の侍従長⁉ ……『魔人』や『魔性の繰り手』などの二つ名がある、あの……」「…………」
僕はエクを見た。悪友は知らん振りをした。
こんちくしょう。交渉中は無視する予定だったのに、彼を見てしまった。悪友とはいえ、一応友人なら、もう少しまともな二つ名を流布してくれてもいいだろうに。はぁ、何だか負けた気分で、いや、気を取り直して、責任者らしい男性に要求する。
「僕らが求めるのは、二つ。王への謁見。もう一つは、城に立ち入ったことを報告してください」「城に、入れるのですか?」「ミースガルタンシェアリ様と僕で、確認に向かうつもりです。後に、この地の王と協議ということになるでしょう」「…………」
百竜がーーミースガルタンシェアリが居るので、同格ではなく上位者として振る舞う。この国の王が、それで靡いてくれるなら、話は簡単だが。とりあえずは、この路線で行くとしよう。下手に下手にでると、って、何か変な言い方になったような気がするが、ーー勘ぐられてしまうかもしれない。まぁ、竜と見えるのは初めてであろう人々が、竜の気配を発する百竜から何かを汲み取れるとは思えないけど、警戒はしておこう。
あに図らんや対応に苦慮していたらしい男性は、その場にずどんっと座り込んだ。そして掌を上に、膝に置いて頭を下げた。どうやら、衷心からの頼み事があるらしい。
「……城内に、亡き妻の、形見がございます。どうか……、どうかっ、取ってきて頂けないでしょうか!」「了解しました。ですので、立ち上がって下さい」「あっ、はい! あの、場所はーー」「問題ありません。あなたの魔力は覚えました。伝達をお願いします」
即座に立ち上がった男性が部下に指示を出すのを確認してから、僕はエクに向き直る。
「よぉ、リシェ、久し振りだな、会いに来たぞ」「嘘吐け。僕に会ったことは偶然だろう。もしエクが兄さんと同水準のことが出来るなら、僕はエクへの対応を変えなければならない」「ひゃひゃっ、変わってねぇなぁ、いんや、変わったか、竜の国の侍従長なんてもんをやって、少しは増しになったみてぇだな」「言ってろ」
兵士の一人が走ってゆく。責任者、いや、もう暫定で隊長と呼んでしまおう。隊長が戻ってきたのでエクに頼む。
「エク」「『唐草模様』でいいんじゃねぇか」「問題ありませんか?」「え……?」「僕たちが滞在する宿です。何かありましたら、そちらへ」「あっ、はい、『翡翠亭』ですね」
情報収集をアランたちにお願いしようと思っていたのだが、エクが居るなら必要ない。
「エク。今、何か仕事してる?」「おう、俺が居なくなったら大変だぜ」「そう。じゃあ、こっちのほうが面白いから、そっちは辞めて。ここに居る間は、僕がエクを雇う」「ほうほう、了解したぜ」「じゃあ、これを渡しておく。余ったら、ちゃんと返すように」
スナから貰った竜の雫を、エクに五個渡す。まぁ、余ることはないだろう。エクはそれだけのことをやってくれる。場合によっては、追加で渡す必要があるかもしれない。
僕たちの遣り取りを、隊長がぽかんとした顔で見ている。見ると、アランとエルタス以外の顔には、様々な感情が乗せられているようだった。ああ、仕舞った。いつもの調子でやってしまった。う~ん、でもエクと改まった会話をするっていうのも変な感じだし。
「エクに案内してもらって、ご飯と散策でも。僕たちが遅くなるようだったら、先に宿に向かって下さい。アランが居るから大丈夫だと思うけど。エクの口から出た言葉は、すべて信じないようにして下さい。彼は治癒魔法が使えるので、必要があれば、手足を折るくらいのことをしてくれて構いません」「おう。ストーフグレフ王か、よろしく頼むぜ」「ふむ。こちらこそよろしく頼む」「…………」「「っ⁇」」
はぁ、アランの正体は、手札の一枚として隠しておきたかったのに。エクは、あっさりとばらしてしまう。当然態とである。まぁ、彼はこんな程度ではないので、いちいち気にしていられない。彼は味方ではない、が、今回はエクを使っても問題ないーーはず。
皆と別れて、これまで無言の百竜を伴って、いや、正確には炎竜に傅くように、巨大な正門の両開きの扉まで歩いてゆく。
「見たところ、警備の数は少ないようですね」「はい。当初こそ厳重に守っておりましたが、この途轍もない魔力で、近付ける者などおりません。現在は、正門に少ない人数を配置しているだけです」「入るのは、正門からですか?」「っ、そうでした、閂は掛かっていませんが、開けるには人手が、今すぐ呼んでーー」「問題ない」
一応、見上げて城壁や出窓の位置を確認する。そうして視線を元に戻すと、十人で押しても開きそうにない扉が、ぎっぎっぎっ、と不平不満を述べるような音を立てながら、人が通れるくらいの隙間ができる。平然と扉を開けた張本人ならぬ張本竜は、ミースガルタンシェアリの演技だろうか、人の反応など歯牙にも掛けず、すたすたと入ってゆく。
「閉めていったほうがいいですか?」「……うっ いえっ、他に立ち入る者などいないでしょうから、戻ってきた際に閉めて頂ければ」「そうですか、では行ってきます」「よろしくお願いいたします!」
随分と彼の心胆に負担を掛けてしまったようである。後の交渉に影響があるかもしれないので、彼が切望する、形見の探索を頑張るとしよう。
「というわけで、はい」
後ろから覗かれるようなことはされていないので、「あっちっち作戦」の開始である。あ、いや、ごめんなさい。百竜と二人っきりだったので、ちょっと調子に乗ってしまいました。と、ーー何だ? 前方で小さな影が動いていたので見上げてみると。
「スナ箱?」「妙ちくりんな名を付けるでない。持って行き難くなるであろうが」「魔法具か魔具が必要になると?」「その可能性もなくはないが、もう一つ、クーのほうの案件だ」「そういえばスナと何かして、いえ、企んでいた、のかな? まさか、百竜も一枚噛んでいるとか?」「いずれわかる。あの氷筍にしては真っ当故、もう聞いてくれるな」「うん、わかった。それについてはもう聞かないから。というわけで、はい」「…………」
これは作戦遂行中なので、二回繰り返しても恥ずかしくはない。
「ーーーー」「…………」「ーーーー」「…………」「ーーーー」「…………」「ーーーー」
あえて、僕は足を止める。ちらりと見たり、ふいっと目を逸らしたり、手がちょっと揺れたり、ぎゅっと握られたり。それでも、そわそわ~と伸びてきて、ぴとっ。擦るように動いてきて、やっと重なる。不意を衝いて、離せないよう指を絡めてしまう。
「っゅ」「…………」
じっと見詰めやると、身を縮めるに、軽く下唇を噛みて、炎竜故の熱の操作をしようものを、うっかり耳のことは忘れているらしく、淡炎に色めかし。
「なんだろう、この可愛い生き物は」「ゅっ!」
うっかり本音が口から零れてしまった。逃げようとする百竜の、絡めた手をぎゅっと握って先手を打つ。くぅぅ、と口惜しげな声を漏らすと、諦めたのだろうか、炎竜は大人しくなった。余計なことは言わないほうがいいだろうと、無言で歩き始める。
「千竜賛歌」のあと、百竜は僕の頬に口付けをした。やはり衝動的な言行だったのだろう。主よ、我を孕ませよ。と僕を惑わせた炎竜と、手を繋いだだけで、天の国で迷子になりそうなほど、あわあわな百竜との相違もまた格別……げふんっげふんっ。あー、いや、別に、普段凜々しい百竜が、弱々な感じだから、より魅力的に感じるとか、いやいやっ、ちょっと待て、僕! 炎竜と炎竜が居たら、それはやっぱり炎竜だからって、百竜にみーの面影を重ねておかしくなっている場合ではない! って、あれ、これはーー?
「そちらは後で良い。先ずは双子であろう子らに会いに行こうか」
魔力が吹き荒れるような、波動のような圧迫感の隙間に、気配が入り込んできたのだが。百竜がそう言うのなら、それが正しいのだろう。何事にも順序というものがある。
「怪我の所為か、僕にもそれなりに障りになっているんだけど、百竜はどう?」「魔力それ自体が竜の妨げとなろうことはない。竜は魔力寄りの生命故、魔法耐性も人のそれとは比べものにならん。主の、その出鱈目な特性とは、比べものにはならんがな」
慣れてきたようなので、じぃっと見詰めて、手をにぎにぎする。
「っ、ぬぅ、主はっ! なっ、何がしたいのだ!」
そう言われると困る。「あっちっち作戦」の目的は、より仲良くなること、ではあるんだけど。作戦が上手くいき過ぎて、ある意味、すでに終了しているようなもので、僕自身迷走しているような感もある。それでも手を離さないでいてくれる百竜が、
「主。ここで止まれ」
正面に、愁いを含んだ透明な眼差しを投げ掛ける。
謁見の間を過ぎて、控え室のような部屋。調度品の豪華さから、王族が使用している部屋なのだろう。扉は手前に、僕らの側に向かって倒れている。奥の部屋は竜が暴れたような有様で、壁には大きな裂傷が。それでも閑散として見えるのは、床が抜けているからだ。
内側から破裂したかのような惨状。実際にそうなのだろう。この下にいる、スーラカイアの双子ーーかもしれない生命が引き起こした。
「主には見えぬだろうが三歩先から、不完全、いやさ、独特な『結界』が張られておるな」
「『結界』ということは、僕が触れたら不味いよね」「そうさな。この『結界』は内側から張られておる。斯かる被害で済んだは、済んでいるは、其奴の命懸けの、灯火であったのだろう」「……この内のこと、わかる?」「魔力が乱れておる故、はっきりとはわからぬ。然れど、我は炎竜。内にあろう熱が二つと、熱を失った一つ、あることが知れる」
被害が王城だけで済んだのは、「結界」の内側にいる誰かの、命を懸けた最後の魔法のお陰だったのだろう。独特、というのは恐らく、この状況に特化した、という意味だろう。
「『結界』を壊し、より良き『結界』を我が張ることも出来るが、如何にする」
百竜に張り直させるほうが正しい。城下の人々だけでなく、内にいる双子も、命の危険に晒される確率が減る。それでもーー。
「『結界』はそのままにしておこう。行こう、百竜」
僕たちは引き返した。
「ーーふぅ」
体の奥に溜まった何かと一緒に、心の澱を払おうとするも、上手くいかなかった。
仕方がなく、別に意識を向ける。
ーーフフスルラニード国。地図に記されていたこの国の名である。国土は周辺国の三倍。大国の王城に相応しい規模。王家や城勤めの人間にとっては業腹かもしれないが、城が使えなくなるだけで済んだのは不幸中の幸いかもしれない。王宮は無事なようなので、執務はそちらで行えば良いし、城の役割も別のものに割り振ることができる。
「ーーーー」「ーーっと」
すっと引っ張られる。正門は、謁見の間から真っ直ぐ歩いて行った場所にあるのだが、百竜は右折する。そちらは、先程感じた気配のした方向。
がこっ。と後ろから音がしたので振り返ってみると。
「スナ箱。僕が手で運んでいこうか?」
「苦手だと言うたであろう。ここまで持ってきたのだ、最後まで我が完遂する」
意外に意固地な百竜さん。まぁ、箱はスナが魔法で強化してあるだろうから、多少ぶつかった程度でどうにかなるものでもないだろう。
この先は厨房だろうか、それとーーこれはお茶の香り?
がしっ。ばっ。
「……そんなに無理やり引き剥がさなくても」「……知らぬ」
空いた手で僕の手首を掴んで、熱くなった掌に風を迷い込ませる。刹那に、開いた扉から、大風が僕の、古くて新しい、憧憬を焦がして止まない情景を紛れ込ませる。
ーー風が心地を失って、しばらく経った頃。人の子らは、風になった。世界に吹き荒れた人の子らは、夢の名残を持ち帰って。やがて古き風の御許に、季節を運んで来るのだ。
溢れた風が僕を透明にする。不意に生じたへっぽこ詩人の言葉も、吹かれて情景に変わって、遙かな追憶へと。窓から光と風が、楽しげに揺れながら、静謐と優しさが同居する柔らかい場所で、精霊たちが誘っている。
パン焼き窯や食器棚、奥の扉は食糧倉庫に続いているのだろう。中央の細長い卓の奥の席に、直感というより本能的に悟る、風竜が微睡んでいた。その横には、灰白色の、花崗岩を思わせる短い髪の、こちらは地竜なのだろうか、子供がお茶を嗜んでいた。二竜とも、簡素な白の貫頭衣を着ていた。みーが着ていたのと違って、こちらは新品のようである。って、いやいや、それが残念とか思ってないですよ、本当ですよ?
「ーーーー」
僕と百竜を見遣って、地竜がにこりと微笑む。ーー人の子ではない。スナに似た、星霜を纏った、閲する周期を磨り潰しても失われることのなかった、竜の微笑み。
凛々しい少年のような顔立ち。然し、中性的な成分も含んでいて、女の子の恰好をさせれば、疑う者はいないだろう。やや眉が濃く、知性を感じさせる土色の瞳には、穏やかな光が揺蕩い、風景に溶け込むような居住まいには、賢者の風格がある。
百竜が歩いていったので、自然と僕の足も動いて。炎竜は、地竜の斜向かいに座ったので、僕は地竜の正面、風竜の隣に座った。
と、二竜に心を囚われていたのか、匂いに誘われて下を見ると、僕と百竜の前にカップが置いてあることに気付く。百竜が手を付けたので、地竜は気にしていないようだったので、僕も倣う。ーーこれは、美味い。
「竜の国に来るより東域に向かえと、ヴァレイスナから連絡があったです。『あの熾火は、どうせ良からぬことを企んでいるから、邪魔してやるですわ』と氷竜の要請です」「…………」「手を繋ぐことは、『良からぬこと』には該当しないでしょうから、ヴァレイスナには伝えないです」「ユミファナトラ。氷に買収でもされおったか」「そのほうが楽しめる、と唆されはしたです。それで『千竜王』、お茶は如何です? 僕たちは昨日着いたので、ラカールラカに二百十三杯飲ませて、やっと合格点を貰ったです」
みーやコウさんよりも柔らかそうな、ぽよんぽよんでぼはんっな風竜の審査は、結構辛かったようだ。ーーあ、ちょっと言葉が、いや、だいぶ足りなかった。
卓に顔を乗っけて、すやすやな風竜は、ぽよんぽよんだった。頬を手で突きたくなる衝動に駆られるが、のっけから無作法な真似をしたい、もとい、したい、が我慢我慢。
蕩けていた。見ているこちらまで幸せになるような、竜の祝福。みーとはまた違った、至福の寝顔。寝るのが大好きなんだなぁ、と自然と思えてくる、風の温もり(ふんいき)。
一目して風髪との心象を抱く、若草色の長い髪。髪の先端が白くなっている。そして、ぼはんっ。風髪は、後方に爆発するように広がっていた。
耳を隠すように角が、羊のように渦巻き状に丸まっている。ぽやぽやなお顔と相俟って、小動物のような愛らしさと可愛さ無限大ーーごふんっごふんっ。って、何だ、この胸のどきどきは⁉ 今すぐ撫で回して、可愛がらなければいけないような使命感が湧いてくる。
「そんなにも風竜にご執心だと、百竜の眉の角度が危険領域に突入するです」「あ、えっと、ごめん、百竜」「っ、主よ、何故そこで謝るのだ」「そろそろ、答えが欲しいです」
地竜がーーユミファナトラ様が仲裁に入ってくれる。ととっ、そうだった感想を求められているのだった。居住まいを正して、正面を向く。額の上、岩髪の中に短い角が二本生えている。見ると、その外側に一本ずつ、更に短い角が二本、合計四本、確認できた。
「美味しいです。翠緑王の淹れてくれたものよりも、一段上です」「そうなの、です?」
ユミファナトラ様は、灰色の岩眼の片方を閉じて、僕の心中を見透かす。
「美味しい、と言ってくれた言葉に嘘はないです。でも、最上というわけではないです。僕より美味しく淹れられる方がいるです?」「お見それいたしました。スナのーーヴァレイスナの同僚に、エルルという女性が居るのですが、彼女の域には達していないかと」「『千竜王』や百竜の味覚まで考慮したというのに、その上をいく人がいるのは、面白いです」
う~む、竜の感覚すら超えてしまっているらしいエルルさん、恐るべし。逆に、一日で茶師の水準まで達したユミファナトラ様も相当なものである。地竜が、自分のカップにお茶を注いだので、僕は気になっていたことを尋ねた。
「『人化』した竜は、子供の姿なのですか? みー様とスナ……は」「気にせず、スナ、と呼ぶと良いです」「あ、はい。二竜は、十歳くらいの容姿をしています。スナがみー様に合わせて、子供の姿を取っているかと思っていましたが、ユミファナトラ様とラカールラカ様も同周期の風姿となると、何か理由があるのかな、と。以前お目に掛かった地竜様は、十三、四歳ほどのお姿でした」「そこら辺は、ヴァレイスナから聞いていないです?」「必要があればその都度、教えてもらっています。僕には黙っていますが、何か考えがあるようには、見受けられます」「くふふっ、それでは先ず、当竜から語ってもらうです」
当竜は気が進まないようだったので、カップにお茶を注いで、にっこり。
「……竜は、竜の魂である我の影響を受けておる。『人化』は、人にとって活動し易い、青年期の姿を取る。実際、中古竜と新古竜は、二十歳前後の容姿をしておる」「ということは、やはりユミファナトラ様とラカールラカ様は、古竜なのですね」「氷なら、然様な選択をするであろうよ。然らずとも選択は限られよう。ーー話が逸れたが、中古竜と新古竜は、未だ我の影響を受けておる。然し、古竜はすでにその軛にない」「竜の魂の影響を受けていないということは、本来の性質が表に出る、ということかな?」「斯様な認識で大凡間違っておらん。何故十歳くらいの容姿なのかは、ーー明言はせぬが、みーを見ていればわかりもしよう」「『分化』に都合が良い周期頃、というのはありそうです。人種は、そのくらいの周期から、男女の性差が出てくるです」「……主が会うたという地竜は、人と接していたのであろう。人交わりをすることで、成長ーーと言うが正しいかは知らぬが、青年期の姿まで育ってゆこう」「それと、『人化』、とするのは、正式には間違いです。正しくは、『神化』です」「『神化』?」「人種は、神の姿を模して創られた。要は、竜は人種が存在しよう前から、人の姿に化けることが出来たということだ」
然かし。神は地上に影響を及ぼしていないと聞いている。居ない者より居る者が優先されるのは当然か。さて、謎の一つは解けた。育ってゆく、と百竜は言ったが、それはどのくらいの成長速度なのだろう。老師の知竜である地竜に鑑みると、って、別に態とじゃないですよ、いや、そうではなく、百周期や二百周期くらい掛かっても不思議はない。
みーにも深く関わる事柄だけに、詳しく聞こうとしたところーー。
「…………」
ふわり、と浮いていた。ふわふわである。いや、ちょっと鎮まれ、僕の頭。
ぼんやりとした風眼は僕に向けられていて。若草色の、コウさんの引き込まれそうな翠緑の瞳とは異なる、触れた先から風に解けていくような、無垢な瞳。
仔犬のようで、仔猫のようにも見える、優しく甘やかな輪郭。幼さが風に吹かれて、色付くような不可思議な魅力。捕まえようと手にしても、するりと逃れる、悪戯好きな風。
まだ寝惚けているのだろうか、手足をばたばたしながら、ふわりふわりと遣って来て、
ぽふんっ。
僕の左の肩口に顔を埋めると、足を畳んで、まるで重さのない、風の心地でくっ付いて。ゆくりなく上げられた風瞳が、遙かな場所で失ってしまった、大切な宝物が戻ってきたかのように、こよなき風に染まって僕を、情景を奏でる。
「『もゆもゆ』」
ぱりんっ。
風に囚われていた僕は、目覚めても尚、風竜の情景に取り巻かれていた。
「ーーこれは、したり…です」「……いつまでも見つめ合っているでない」「っぐ!」
がつっと百竜の嫉妬なのか呆れなのか、拳の形をした制裁(やつあたり?)が僕の横っ腹に。
痛みに耐えている僕を尻目に、百竜はユミファナトラ様が落として割ってしまったカップの、液体を炎で気化させて、すぅ~と吸い込んだ。残ったカップを、掌で押し潰したユミファナトラ様は、粉々になった残骸を吸い込む。
「えっと、ユミファナトラ様、何に驚かれたのですか?」
竜の蹉跌という珍しい事態に、風竜の心地を振り切って、地竜に尋ねる。
「待っている間、ラカールラカから色々聞いたです。ラカールラカは、気に入った寝床を探しているです。『もゆもゆ』は、一番です」「えっと、十段階評価で、ですか?」「違うです。百段階評価です。四十番から六十番が殆どで、そこから離れるにつれて、数が少なくなっていくです。同族である竜の具合は良いらしく、僕は十九番の『ぺのぺの』です」
ぺりっ。
「もゆもゆ」である僕を傷付けない為だろうか、風のようにふあふあな風竜を両手で抱えて、何事かと見遣っている百竜に、ぺとっ。
「主、何をすーー」「『まなまな』」「十七番です」「……其方より上か」「地竜と炎竜では、仕方がないです。それでも、『千竜王』の順位には驚いたです」「主がぁぅっ⁉」
あ、ラカールラカ様の肘が、百竜の顎に当たった。
「りえっ、りえっ、りえっ!」
「もゆもゆ」の寝床に無我夢中で戻ってくる風竜。「りえ」というのは僕のことだろうか、ひしと抱き付いてきたラカールラカ様から風が溢れる。それは、ただの風ではなく、僕の体に、心に入り込んでくるようで、想いを、意識を包んで風の在り処を教えてくれる。
風の流れを読んで、風を集めるように、風竜の頭の後ろを軽く押さえて、背中を少し強めに引き寄せると、遊び回っていた風が安定する。
「ゆぅ~~~~っ!」
僕の肩口にぎゅっと顔を埋めて、これは喜んでいるのだろうか、可愛らしい声を上げる。
「さすが『もゆもゆ』です。自分のほうから最良の寝床を創るとは、です」「…………」「何なのだ。この、頭ぽっかぽ風は」「びゅ~。ほのは煩いのあ」「ラカールラカは、始めに力を込めて、最後まで続かない、といった喋り方をするです。すぐ慣れるです」
う~む、何だか収拾が付かないことに。「ほの」というのは、百竜のことだろう。最後の「あ」は、「だ」なのかな? 竜にも角にも、僕は贈り物にしようと持ってきていた布を取り出して、ラカールラカ様の横で、ひらひら~。
「髪を纏めて、この布で結わえても構いませんか?」「ひゅ~? いいお」
先ず三角に折って、コウさんにした目隠しと違って、裏、表と交互に折る。風髪を集めて、頭の高い位置で、布が重なる場所で二回くるくると通して。これで風の尻尾の出来上がり。ではないので、最後の仕上げをお願いする。
「ユミファナトラ様。どうにかなりますか?」「引き付ける力を応用した魔法と、『凍結』を行使するです」「ほう。地竜は『凍結』が使えるか」「炎竜は使えないです?」「ふんっ」
風の尻尾に布が絡み付くように巻かれて、ふよふよ~と漂っていた。スナから聞いているとは思うが、恐らく僕への対策は施されていないだろう。魔法が無効化されてしまうかもしれないので、触らないように気を付けないと。
「百竜への贈り物にしようと思ってたんだけど、考えてみれば、みー様にリボンを贈ったし、それは百竜に贈ったも同然だから。ラカールラカ様へ贈り物です」「なっ、まっ、待つのだ、主!」「ほのは、これ欲しー?」「べ、別に、強請ってなどおらん!」
贈り物、ということであれば、東域で時間があるときに探すつもりである。竜の国に残った愛娘に、感謝と愛情を籠めて。出来れば氷竜が喜んでくれるものを。
風のように、というか、風そのもののような風竜。首を傾げて揺れる若草色の、先端の淡雪のような純白を見ていて、気になったので尋ねてみる。
「ラカールラカ様は、もしかして白かったりしますか?」
言葉が足りないと気付いたが、訂正する前にユミファナトラ様が答えてくれる。
「ラカールラカは、ときどき巣穴に戻ってきますが、多くは空を漂っているです。風の塒に居るか、ふよふよ浮いているかです。『千竜王』に魔法は効かないので、これまでに見掛けていたとしても不思議ではないです。通常、古竜は、中古竜や新古竜から敬意は払われますが、それだけです。でも、ラカールラカは違うです。ラカールラカは、全身を白い毛で覆われているです。風竜にとって、それは理想の風姿です。風竜から、敬意以上のものが向けられているです」「まさか、斯様な頭すっかす風だとは、思いも寄らなんだ」
ユミファナトラ様の話を聞きながらラカールラカ様の頭を撫で撫ですると、掌に風が吸い込まれるような感触。やはり間違いではない。この風の心地には覚えがある。
「翠緑王に掴まって空を飛んだとき、このまま掴まっているのは危険と判断して。木々の中に、風の蟠りのようなものを見付けて、そこに飛び込みました。ラカールラカ様は、何かご存知ではないでしょうか」「ぴゅ~。木に髪が絡まってたら、りえが落っこってきあ」
然なり、間違いではなかった。あの高さから落っこちて、痣や打撲程度で済んだのは、ラカールラカ様の風溜まりのお陰だったようだ。
「ラカールラカ様。ラカ、と愛称で呼んでも構いませんか?」
風瞳の、解けた風が僕を包み込む。暖かいような、僕の根幹を揺らすような、この風は、属性なのか魔力なのか、百竜とユミファナトラ様は何も感じていないようだけど。
「いいお。……でも、ほのはだえ。いわいわは、許してあげなくもなー」
ラカールラカ様改めラカ、というわけで、ラカの喋り方がわかってきた。百竜は駄目で、いわいわ、という何やらめでたそうな愛称のユミファナトラ様は、許してあげなくもない、ということで、問題ないようだ。
「ラカは、僕にくっ付いていても、『隠蔽』で見えなくなっているのかな?」「ひゅ~。できう」「見えなくなったです。勘の鋭い者か、魔力感知に優れた者でないと、居るとわからないです」「ああ、そういえば、御二人は『甘噛』や『味覚』、それと属性を抑えることなどをーースナから聞いていたのですか?」「事前に連絡があったです。ヴァレイスナの課題を終えたので、……僕が二巡り掛かってしまったので、遅れてしまったです」「ぴゅ~。わえは全部、一回でできあ」「言われておるぞ、頭でっか地竜」「……竜の魂の影響を受けなくなって、個性や特徴が現れるです。僕は、分析が得意です。魔力の質や差異を、他の竜より見抜くことが出来るです。そして、ラカールラカは、他の竜より感覚が優れているです」「ん? 感覚が優れているって、それは凄いことなのかな?」「竜の感覚は、人種とは比べものにならないくらい鋭敏です。風竜は、竜の中で最も速く、多彩な攻撃を仕掛けるです。通常の竜より優れた感覚でこれを行うラカールラカは、『最強の三竜』の一角とされているです」「『最強の三竜』ーーというと、ミースガルタンシェアリも入るのかな」「そうです。ミースガルタンシェアリは頂点の一角で、ラカールラカは右の一角です。ミースガルタンシェアリは世界に還ったので、百竜が代役となるです」「言わずもがなのことではあるが、これは実際に戦うて決まったのではない。戦えば恐らく彼の竜が勝つ、との予測で成り立っておる」「そうなると、左の一角は、ユミファナトラ様ですか?」「…………」「苛めてやるな、主」「えっと、何か不味かった?」「ユミファナトラは竜の中で最も固い、と認識されておるが、敵を倒すことを主眼としよう竜には評価されておらなんだ。左の一角は、あの霜柱だ。竜の魔法は、竜には効かぬ。然れど、氷柱の魔法は竜に効く。魔法をそこまで高めよう奇矯な竜、それがあの氷筍だ、あのぺちゃん氷だ」
さすが僕の愛娘。コウさんにも勝ったので、現状世界一と言っていい至高の存在。と言いたいところだが、二竜相手だと勝てないとスナは言っていた。またそれだけでなく、竜の干渉も視野に入れて、質さなくてはならない。
「東域の竜、というだけでなく、魔獣種の竜がいる大陸から渡ってくる、なんてこともあるのかな?」「東域で『最強の三竜』を選出するなら、頂点の一角は暗竜エタルキアです。残りの二角は、氷竜フィフォノと地竜ゲルブスリンクです。魔獣種が遣って来るか、ということなら、可能性としてはありますが、蓋然性はないと言って良いです」「『千竜賛歌』での飛檄に、魔竜王マースグリナダは応え、右の炎竜エーレアリステシアゥナは無視しよった。左の地竜イオラングリディアは反応自体ありはせなんだ」「あれ? あちらの大陸では、三竜に地竜が入ってる?」「イオラングリディアは防御が固いというだけでなく、頭まで固うて他の竜から恐れられているようでな、幻想種の竜より活発とされよう魔獣種どもには煙たい存在なのであろう」「あとは大陸の間に、海竜王アグスキュラレゾンが居ますが、そもそもあれは動けるのかどうかです」「う…んと、ミースガルタンシェアリは、幻竜王なのかな?」「扱い的にはそうです。『千竜王』が気になっているのは、リグレッテシェルナのことです?」「この大陸の名称、リグレッテシェルナが、竜の名前だとするなら、世界の名称であるミースガルタンシェアリーー世界との兼ね合いはどうなっているのかな、と」「リグレッテシェルナは、幻想種の大陸で唯一の雷竜ということで、名称となっておる。ストリチナと同様にようわからん奴でな、三竜の候補にはなっておらん」
あー、そろそろ頭がこんがらがってきた。
この世界ーーミースに住まう人々の活動範囲は狭い。精々が隣の街で、他国へ赴く、赴ける者は多くない。村から一度も出たことがない、という人もざらだ。必要がないので、市井人は大陸の名も、世界の名も知らない。そして、それで何も問題はないのだ。
「これは、聞いていいことなのかわからないのですが、ユミファナトラ様に肖って付けられたであろうユミファナトラ大河は、河ーー水竜を連想するのですが、地竜のユミファナトラ様の名が付いているのには、何か由来があるのですか?」
何だか回りくどい言い方をしてしまったが、もしかしたらのっぴきならない理由があるかもしれないので、慎重を期して尋ねる。
「…………」「くはは、主が所望しておる。答えぬのなら、我が言うてしまうぞ」「……ユミファナトラは、元は大河の上流にある地域に付いていたです。でも、聖語時代に入ったら、何故か大河の名になってたです」「我の、竜の魂としての記憶にあるな。その時代にいた渡し守たちの多くがユミファナトラ出身であった。亜人戦争後の混乱期に、ユミファナトラから流れてくる河、ということで、ユミファナトラ大河の名称が定着したようだ」
戦争当時は、亜人との意思疎通は敵わなかったが、終結する頃には幾つかの種族の言葉を解していたらしい。その際、地名を引き継ぐことになったが、すべてが恙無く移行したわけではなかったようだ。
「これを、渡しておくです」「手鏡、ですか?」
よろしくない流れを変えたかったのか、隣の席に置いておいたらしい、細工が施された女物の手鏡を差し出してくる。あ、そうだった、二竜と逢って、すっかり頭の中から追い出されてしまっていたが、隊長から形見を取ってくるよう頼まれていたのだった。
「探して下さっていたのですね、ありがとうございます」「ラカールラカが外での会話を聞いて、拾ってきたです。武具の下敷きになって壊れていたので、僕が直して、『凍結』を施したです」「高価ではないが周期が感じられる。代々伝わってきた品なのやもしれん」
手鏡を受け取ると、ぴくんっ、とラカが動いた。会話に参加してこないと思ったら、いつの間にやら眠っていたらしい。気に入った寝床を探している、とユミファナトラ様は聞き出したようだが、寝床を求めるということは、寝るのも大好きなのだろうか。
「むあむあむあ……、むあむあむあ……」
寝惚け眼の風竜は、僕の体を這うように移動してきて、僕の顔に頭をぐりぐりと擦り付けてきた。首の後ろに手を回されて、って、あの、ちょっとぐりぐりが痛いんですけど。百竜とユミファナトラ様に、目で助けを求めたが、知らん振りをされてしまった。
「むあむあむあ……、むあむあむあ……」
痛い、痛い、これは地味に痛いので、ちゃんと起きてもらう必要がある、のだが。然てしも有らず、僕に懐いてくれている風竜に快適な寝覚めを用意しなくてはならない。今後の関係も考慮して、最善を尽くさねばならない。……本当にそうなのか自信はないが。
以前、僕の優位属性は、風か雷ではないかと思ったことがあるが、当たりだったのかもしれない。ラカの風は、僕を奏でる。ふと、心付く。逆は、どうだろう。僕の風で、ラカを奏でてみよう。受け取った風を、想いを籠めて返すと、見開かれた風眼が僕を捉えて、
「ひゅるるんっ、ひゅるるんっ、ひゅるるんっるんっ!」
って、首っ⁉ ちょっ、首に回した手で、「甘噛」なしでっ、ぎりぎりと、ぽきって感じで、ああ、もう……、ーーあれ? 天の国へとご招待、と覚悟を決めたところで、僕の首は生還を果たした。いやいや、何か言葉がおかしくなっているが、竜にも角にも、二竜を見ると、両竜とも首を振っていた。ーーそうなると、今の危機は、僕自身で回避したのだろうか。ラカの風ーー竜の魔力に干渉した? んー、感覚的に何かあったというわけではないので、いまいち掴めない。まぁ、仕方がない、今後の課題としよう。
「起きたなら、渡しておこうか」「あ、スナ箱」「主よ、その名は止めい」
ふよふよ~と一抱えもある箱が漂ってきて、百竜の後ろに、ごとっ、と落ちる。
「「「…………」」」
然しも無し、と何もなかったことにして椅子から降りると、スナ箱の中から箱を取り出した。この箱は、見覚えがある。竜の国の完成後、挨拶回りに行く前のことだ。僕たちの、侍従長や王様の衣装が入っていた、翠緑宮で使うと言っていた、作りのしっかりとした箱。
「竜の国の宰相が、クーが突貫で仕上げたものだ」「一晩、じゃ無理だよね?」「クー、一人だけならな。エルテナのところに持ち込んだようだ」「それはーー、大変だったでしょうね」「壊れよったクーを止めよう者は、今回はおらんかったからな」
百竜が箱を開けると、ラカも興味があるのか、顔が横を向く。たぶん僕から、寝床から離れたくないようなので、席を立って、見える位置に移動する。
ぺりっ。
百竜は、僕からラカを引き剥がすと、ていっ、とユミファナトラ様に投げ付けた。ぱしっ、と受け取った地竜。炎竜は、構わず卓に服を並べる。というわけで、転。
「竜の国へ行ったら、クーにお礼を言うが良い。気を許すと、可愛がられるかも知れぬ故、気を付けるが良い。そちらの、ほんわ風は好物であろうし、特にな」「『千竜王』は何をしてるです?」「人種の、礼儀のようなものだと思えば良い。主は、竜の裸を見ると興奮する質なのでな、其方らも気を付けよ」「興奮? というと、欲情、のことです?」
何やら微妙な会話が交わされている。男でも女でもない、普段は全裸の竜からすると、人間の常識を理解するのに、多少時間が必要なようだ。
スナとの同居生活に、百竜は思うところがあったらしい。言い掛かりや邪推は止めて頂きたい。と言いたくても言えない、情けない僕なのであった。僕は竜に惹かれているが、子供の形に欲情、もとい執着、というか嗜好、って、ちょっと待て、落ち着け、僕。大人の形をした竜に逢っていないから、まだ確定したわけではないのだからーー。
ぱきっ。
乾いた音に、振り返りそうになったが、全精力を注ぎ込んで、不埒者の誹りを免れる為に、スナが一竜、スナが二竜、スナが三竜、スナが四竜ーーごふっ。うぐぅ、これはやばい。ごそごそとした音とか、衣擦れの音とか、なんでこう、僕の良心という名の竜心のようなものを誘惑して止まないのか。氷竜で頭を満たして、冷え冷え~、冷え冷え~。
「何を葛藤しておる、主。終わったで、さっさとこっちを見よ」「り~~え~~っ!」
ぽふっとご帰還の風竜。
もこもこである。純白の、ふわっとした服。袖やケープに、紐で繋がれた二つのふあふあな玉がくっ付いていて、胸元に一際大きな白玉が。そして、何より、この触り心地は。
「これって、もしかして、ペルンギーの宝石?」
「の、ようだな。我が友であれば、入手は可能であろう」
触れているのに、触れていないかのような繊細な手触り。百万頭に一頭と言われる、生きた宝石。金と、ときに金より高値で取り引きされる羊毛。歴史上、最初に発見されたとされる場所がペルンギーだったので、その名が定着した。
風髪には、みーのような若草色が似合うかと思っていたが、白も映える。益々(ますます)小動物っぽさが増して、可愛さ有頂天ーーって、好い加減にしろ、僕っ。ん? 覆い(フード)があるのか。
覆い(フード)を手にすると、ユミファナトラ様の魔法だろうか、風の尻尾がふよふよ~と縮まって、覆いの内側に収まった。然てこそ被せてみると……ぐふんっっ。
「……っ、ーーっ」
これはやばい。なにがやばいかって、本気でやばい。
左右の渦巻き状の角がある部分が、犬の垂れ耳のように、というか、クーさん、明らかに狙ってやってますよね。クーさんの熱情は、ときに奇跡を起こすのか。
何がおかしい、僕がおかしい、魂ががつがつと削られて、見るからーー、
ばさっ。ふよふよ~。
「…………」「ーーーー」
百竜がラカの覆いを外してしまったので、僕の内に生じた爆発的な熱風が消失してしまった。風の尻尾は楽しげにゆらゆらと、ラカはすやんすやんで。
「ユミファナトラ様も、とても似合っていますが、どうやって着たのかわからない構造の服ですね」「仕様書が添付されていたです。突貫、というのは間違いではないです。人種の可動域では着られないものになってるです。着る為に、腕を折ったら、痛かった……です。凄く……痛かったです」「地竜の『治癒』は別格、一瞬で治るであろうに」「くふふ、では百竜もやってみるです。巣穴が崩落しても痛みがなかった僕が、初めて感じた痛みを、涙がちょちょぎれるような激痛を、味わうと良いです」「悪かった。それ、謝っておるのだから、止めんか、うすらとんか地竜」「良い経験だったと、思うことにするです」
服の上に服、というか、布の上に布、だろうか、ちょっと人の目を引きそうだが、賢者の風情のあるユミファナトラ様なら、そこまでの違和感はない。腰回りの布がスカートのようにも見えて、可愛さを引き立てている。然し、何というか、隙間というかゆったりとした空間が多い服である。僕の視線に気付いたのか、ユミファナトラ様が僕の手を取る。
「この隙間の奥の布地は、色が異なっているです。目を楽しませる要素があって、更に奥、そこに手を入れると、素肌まで届くようになってるです」
遠慮呵責なく引っ張られて、隙間からお腹の辺りに、ちょっとどきどき、って、そうじゃなくて、柔らかくて固い、不思議な感触。皮膚の下に、岩でも詰まっているかのようなーー、それでも不快ではない、優しい弾力。
「っ、擽ったいです」「っ!」「…………」
無意識の内に、さわさわしていた手を、ゆっくりと引き抜く。これは不味いなぁ。「あっちっち作戦」で近付いたような気がしていた僕と百竜の心が、音を立てるように、ずぎゃずぎゃと離れていっている。無言で無炎の炎竜が怖くて堪りません。
然ても、ラカの服もユミファナトラ様の服も、クーさんの願望と欲望と、その他色んなものを詰め込んだ見事な(やばい)一品です。うん、竜の国に帰ったら、報奨を考えないと。
「あと、付属でこんなものがあったです」
ユミファナトラ様は、円い形の、硝子のような透明なものを指で挟んで、左目の前まで持っていった。指を離すと、魔法具なのだろうか、その場所で固定される。ユミファナトラ様が左右に首を振ると、一緒になって動いて、適切な距離を保っている。
「それって、スナが造った物?」「そうではない。その魔具は、我が友の失敗作だ」「失敗作?」「魔具の性能は優れたものだ。魔具を通さば、魔力の性質を一目で識別可能。分析が得意だというユミファナトラには打って付けであろう」「で、コウさんは何をやらかしたのかな?」「……危険はない。と言いたいところではあるが、人種には使えん代物になっておる。魔力消費量が、桁違いなのだ。恐らく、人種が使うたら、忽ち天の国行きであろうよ」「うーわー、それってもう、新種の攻撃方法みたいなものだね。相手にぶつけたら、魔力を吸い取って無力化してしまう。相変わらず、うちの王様は……」
今頃、のこのこ(こんこん)と眠っているであろう王様の顔を想見して、頬をぐりぐりしてやる。
「使い続けたら、半日で魔力は空っぽです。もはや、兵器の水準です。今は、任意で使うとき以外は、魔力を吸い取られないように試行錯誤しているところです。もう少しで何とかなりそうです」「それは良かった。それにしても、膨大な竜の魔力を半日で空にするとは。申し訳ございませんが、品が品なので、ユミファナトラ様の責任に於いて管理して頂けますか」「心得たです。僕の魔力から一定距離に達したら、壊れるようにしておくです」
百竜が箱をスナ箱に戻したので、ユミファナトラ様に尋ねる。
「荷物などは持ってきておられますか?」「持ってきてないです。ヴァレイスナから言われた通り、竜の雫を持ってきたです。必要があれば、それを換金しろ、と言ってたです。ラカールラカは、たぶん『千竜王』ーーいえ、これから外に出るのなら、リシェ殿と呼ぶです。風竜は、寝床とリシェ殿以外には、興味がないと思うです」「あはは、じゃあ、行きましょうか。そうですね、同行者と、この手鏡の持ち主には姿が見えるようにーー、えっと、百竜は魔力は大丈夫?」「炎竜故にな、細々した魔法は疲れる。斯かる魔法は得意であろう、代わってくれユミファナトラ」「ヴァレイスナを揶揄するくらいなら、併行できる程度には魔法に熟れたほうが良いです」「一言多いな、もちも地竜ぅ…ぎゃんっ‼」
ずごっ。ーーずごずごずごずごずごずずごごずずっごごごっずごずごずごずずごごっ。
「がーーっ! がーーーっっ! がーーーーっっっ!」
毛を逆立てた仔猫よりも酷い、って、まぁ、竜なので猫とは危険度がだんちなんだけど。
穏やかそうな性格に見えたが、実は沸点が低かったらしい。たぶん、もちもち、が地竜の逆鱗に触れたのだと思われるが、一瞬で「半竜化」したユミファナトラ様は、床をぼこぼこに、ではなく弁償は、どうだろう、しなくていいと思うが、いや、そうではなく。しばらく百竜は、大量の「土槍」の上で謎舞踊を披露することに相成ったのであった。