一章 炎竜氷竜と侍従長 後半
「目隠し作戦」の第一段階は終了。僕が居なくても、僕が居ると思い込んだコウさんの反応を確かめるのが、一つ。僕がそこに居ても関与しない、或いは別の人間と摩り替わる等々、今後の楽しみーーではなく、有事に際しての備えをしておかなくてはならない。
然てこそあとはスナに楽しんでもらって(おまかせして)、執務室に戻ったのだがーー。
侍従長の執務室の真ん中で、闘う準備は完竜な侍従次長。
「三つ音の会議までに必要な仕事は、すべて終わらせました」
長椅子にーー清楚を右側に、厳格を左側に侍らせて、揺るぎない姿勢で待ち受けている〝目〟の少女。何故か卓の上に置いてある、僕の投げナイフ三本が、今すぐ窓の外に投げ捨ててしまいたくなるくらいの不吉さと不穏さを放っていた。
ーーこれで八回目である。投げナイフの存在に、やや驚いたが、兆したものを表すことなくカレンの向かいに座る。すでに戦いは始まっているとばかりに黒曜の瞳が僕を射抜く。
「前回負けた、カレンが先手だね」「くっ、そのようなこと、言われずともわかっています」「そうだね。一度も勝っていないのだから、確かめる必要なんてなかったね」「……ふっ、ふふ。そのような卑劣な策略に嵌まってばかりなどと、思わないことですっ!」
言葉遣いに余裕と優雅さががない。気負い過ぎである。然りとて、それを指摘して、自らを不利にするようなことはしない。正々堂々? そんなものは暗竜のお口に、ぽいっ、である。支配者の傲慢さを演出して、さて、どこまで耐えられるものか、カレンを煽る。
ーーとまれ、こんな感じで始まった竜棋の勝負なわけなのだが。
がちゃ。とエーリアさんが遣って来る頃には、悔しげに顔を赤らめているカレン。ここから形勢が悪くなるにつれて、頬を膨らませたり泣くのを我慢するような表情になったりと、普段見せない彼女の可愛らしい一面を堪能することが出来る。
「これはーー、リシェ君が優勢なようだけれど、カレンさんが弱いわけではない、のかな?」「ええ、その通りです。カレンは、竜棋は達者なもので、里の竜棋大会で二位でした。僕は運良く一回戦を勝っただけ。ーー兄さんは、こう言いました。『満遍なく負けるよりも、一部の人間に強くなったほうがいいね』と」「正しく強い、正道の指し手に対するーー、うん、さすがニーウ。リシェ君の能力を正しく引き出した、というわけか」
いや、そんな風に言われると、ちょっと心疚しい、もとい心苦しくなってくるのですが。
カレンが指すまで少し掛かるだろう、僕には不釣り合いなくらいに柔らかな背凭れに体を預けて、情報交換ーー小会議を始めてしまう。僕とオルエルさんとザーツネルさんのほうは、「悪巧み」などと呼ばれているが、〝目〟の三人のほうは、「封印」とか「首輪」とか呼ばれていたりする。つまり、邪竜であるらしい僕を押さえ込んでおいたり、縛り付けておいたりと、カレンとエーリアさんは周囲から謎称賛を受けているらしい。
「エーリアさんも、仕事は終わらせたんですか?」「一応は、ね。見所がある四人だから、仮に失敗しても、良い経験になるーーはず、……だと良いのだけれど」
いまいち晴れない顔の、若き竜官。七人目の竜官として正式に任命されたエーリアさんは、四人の部下を採用することになる。いずれも、上昇志向の強い、自身の能力に自信を持っている若者。カレンのときは僕が係わることで有耶無耶になったが、エーリアさんの就任時には〝サイカ〟を目指していることが人口に膾炙して、薫陶や恩恵に与ろうとする者が集まった。……え、泣いてなんていないですよ。僕のところには誰も来てくれないからって、エーリアさんやオルエルさんを恨んで、ではなく、羨ましがってなんていないですよ、ーー本当ですよ? って、ぅわっ⁉
たんっ。
小気味良い音が執務室に響いた。八連敗が濃厚になってきたカレンが左手で投げナイフを掴んで、切っ先を僕に向けたかと思うと、視線は盤に向けたまま彼女の腕が振られる。
見ると、いつの間にあんなものを用意したのか、三つの丸が描かれた板がーー的が椅子の上に置かれていた。カレンが投げたナイフは、一番小さな丸の内側の、やや左側に刺さっていた。……あ、いや、負けが込んで自棄を起こして凶行に走るなんて、そんなことカレンがするなんて、ほんのちょっとしか思って、いやいや、微塵も思っていませんから。驚いてしまったのは、カレンを信じていないとかそういうことじゃなくて、ほら、ね?
「ナイフ投げか。里にいた頃は得意だったけれど、そういえば、これもニーウには一度も勝つことが出来なかったなっ、と」
残り二本のナイフを取って、一本を僕に渡すと、右手で投擲。得意、と言うだけあって、投げる姿も様になっている。然し、的の中心に吸い込まれるように、とはいかず、刺さる直前でナイフが、転と回って、板に持ち手が、ごっ、と当たって床に落ちる。
「あれ? おかしいな、勘が狂ったか」
二度三度、手を振って、修正を試みるエーリアさん。無駄だとわかっているが、渡された手前、僕も投げてみるが、然ればこそ放った瞬間から回転して、一番大きな丸の線上に当たって、ばんっ、と弾かれる。
「あと、竜の国の外交を担ってくれる人材、志願者から八人を選抜して、送り出した」「予定通りに、同盟国と三寒国からですか?」「グリングロウ国は新興、周辺国から教えを請うくらいで丁度良い。彼らの自尊心を刺激し、恩を売ったと思わせておく。無論、そんな簡単な手合いではないけれど、特殊性はあれど、事実竜の国は未だ他国より劣っている。しばらくは僕らで外交を担当するしかないが、一周期ーーこの期間で問題なく機能させるようにすること。〝サイカ〟へと至る階梯の始まりというところか」
一周期で整えて、適切に三周期運営する、といったところか。気負い過ぎ、ということはない。〝サイカ〟を確かな目標と見据えた、自信と余裕ーーそれと、ほんの少しの野心が窺える。僕と同じく、兄さんを追う者として、或いは辿る者として、その眼差しは如何なるものを捉えているのだろう。と思惟の湖に落ちそうになったので、すぐに這い上がる。
「そこらのことは、基本的にはエーリアさんにお任せするので、お願いします」
エンさんとクーさん、それとカレンに、友好を育むことを目的に同盟国に赴いて貰ったが、当然その好機を利用しない手はない。親書という形で、人材育成の為の協力を請うて、
実益と信頼関係を築くことを最優先に。先ずは国として認めてもらうことから。周囲の国々からの承認と協力がなければ、平和裏に国と成すことは敵わない。
国と国、人と人が絡めば、容易にはいかない。一気にずばっと終わらせられたら、楽なことこの上ないが、その方法がないわけではないが、僕たちの目的にそぐわない。正道に悖る行いを許容するわけにはいかない。
ひとつひとつ取り付けていかないと。一足飛びにはいかない。条約や協定等の加盟、その為の根回しに、ーーそれに同盟国と三寒国、国はこの六つだけではない。不安の解消、それだけでなく、彼らからの干渉を防がなくてはならない。就中あの国ーー同盟国とユミファナトラ大河を挟んで向かい合う、大陸中央の雄ーーストーフグレフ国。
あー、その、ちょっと以前、やらかしてしまったので、ご機嫌伺、もとい機嫌気褄を取る、ではなくて、様子を探ろうと、個人的に手紙を送ったのだが。そろそろ返信が届いてもいい頃なのだが、ああ、でも、失敗したかなぁ。僕個人ではなく、竜の国としてのほうが……、ぐぅ、女々しいと思われるかもしれないが、大陸中央の覇者にして、みーが言うところの「へんなやつ」、アラン・クール・ストーフグレフ王とは、出来れば係わりたくないのだ。もし何かが起これば、絶対僕が前面に、矢面に立たされる。騒乱で、ドゥールナル卿との遣り取りで、己の未熟さを、これでもかと思い知らされた。恐らくは、能力的にドゥールナル卿と同等かそれ以上と思われる、僕に悪意を持っているかもしれない御仁とは、縁遠いお付き合いをお願いしたいところである。
すでに温かいのに、妙な寒々しさによる震えを誤魔化す為、目を閉じて、風竜を心象。何故か風竜と雷竜は思い描くのが容易いのでーー、ん~、魔力のない僕ではあるが、もしかしたら属性があって、そちらに傾いているのだろうか。まぁ、竜にも角にも、今回は圧倒的な風竜の息吹と暖かさで、想像と妄想の類いを頭から追い出してしまう。
「というわけで、僕が取ってきます、と、はい」「ーーきぃうっ」
僕が立ち上がろうとすると、カレンが予想通りに指してきたので、風竜の前に地竜を進める。風竜と水竜が絶体絶命、古風竜の前の仔炎竜となる。罠を張り巡らせたが、最大の陥穽に見事に嵌まってしまったカレンは、ギザマルの泣き声のような音を喉から発した。
投げナイフを拾って戻ってきて、卓の上に置いた途端に、エンさんを彷彿とさせる簡捷の投擲。今度は、ナイフを回転させて投げて、再び小さな丸の、右側に刺さる。エーリアさんは無言でナイフを取って、またも一本を僕に差し出してくるので、仕様がなく受け取る。カレンと同じく、回転させた彼の投擲は、一投目と同様の末路を辿るのだった。
そして僕も投げるが。……いや、もう僕のことは気にしないでください。
「んっ、……きゃんっ」
八つ当たり、というわけではないが、ミースガルタンシェアリの前に氷竜を飛び込ませて、情け容赦なく一気に詰ませてしまう。然て置きて、負けず嫌いぷらす僕が相手だからなのだろうか、妙に可愛らしい声を上げるカレンである。水竜が住まう澄明な湖のような清らかな容姿との懸隔と相俟って、もっと苛めたくなって……ごふんっごふんっ。ではなく、ちょっとだけ胸が高鳴ってしまったのは秘密である。
ふと心付いた少女の一面に見蕩れていると、侍従次長はミースガルタンシェアリを横に倒して、負けを認める。腕に力が入り過ぎて、駒が壊れそうになっ、ばきっ。
「「「…………」」」
……炎竜が真っ二つになりました。たぶん無意識にだと思うが、カレンが魔力を纏った際の、微かな圧迫感、というか温か味のようなものを肌で感じ取る。このままではやばい、と珍しく僕の直感が働いたので、竜にも角にも、エーリアさんに話し掛ける。
「今も、そんなに時間に余裕があるわけではないので、カレンが勝つか、十連敗するまでと決めています。今回で八連敗なので、あと二回ーーっ!」「…………」「……えっと、あと一回かもしれませんが、そんな感じでカレンと遊んでいます」「ーーーー」
うわ~、まだご機嫌斜めのカレンさん。只ならぬものを感取したのか、エーリアさんも空回りするような陽気さで話に乗ってくれる。
「カレンさんは、ニーウと指したことはあったかな」「ええ、一度だけありますよ。一回戦で当たったので、見ていたのは僕だけですがーー」「そうですね、ランル・リシェ。あなたに手本を見せると言って、嘗てないほどにこてんぱんにされてしまいました」「兄さんも一位は取れなかったんですよね。兄さんとエーリアさんが里を出るまでは、ご存命でしたから」「爺様ーー老師範は翌周期、身罷られたのだったか」「以降、毎回一位の方は変われど、ずっと二位だった私と比べられましても、困ってしまいます」「「…………」」
ゆくりなくカレンはすっくと立ち上がって、びくびくっとする男二人。
「そうだった、リシェ君。三つ音からの会議のことは何か聞いているかな?」「いえ、それなんですけど、フィア様と老師だけで進めているようで。僕だけでなく、エンさんやクーさんも何も知らされていないようです」「重要、なことなのかな?」「二人を見る限り、慎重ではあっても深刻ではないようです」「となると、新しい竜でも遣って来るのか」「え? そんなことが……、あ、えっと、でもーー」「え、いや、今のは、冗談だけれどーー」
不味い。男同士の会話が続かず、自然と音がする方向に顔が向いてしまう。
「「ーーーー」」
きっと気分転換の為だろう、そうに違いない、お茶を淹れにいく少女の、未だ魔力を纏ったままの後ろ姿から目が離せなくなる。ふと気付くと、視線がお尻にーー。お隣の、新しい兄貴分も引き寄せられたらしく。僕らは、お互いに顔を見合わせて、同時に首を振った。触らぬお尻、もとい尻尾に祟り無し。寝ている竜を起こしてはいけない。
三人分のお茶が乗った盆を卓に置くと、彼女はナイフを拾って持ってきた。長椅子に座る前に、器用に三本のナイフを左手の指で包むように握って、横薙ぎに放つ。
たんっ、と三本同時に刺さる。的を僕に見立てて投げていたら嫌だなぁ。と即死してしまった僕の分身に、ほんの少しだけ祈りを捧げる。
「凄いね。竜は道具を選ばず、ってところかな」「それは誤用、竜は道具を使わず、でしょう」「安物で、僕はまともに使えないし、カレンに譲ったほうがナイフも喜んでくれるかもしれない」「これはーー、使われている素材は安価かもしれませんが、この投げナイフを造った職人の腕は確かなものです」「え?」「エーリアさんが、失敗した理由です」
そう言って、カレンは左手を挙げる。ああ、そういうことか。両利きの彼女が、ずっと左手で投げていたのは、斯かる理由があったからか。的に刺さったナイフを取って戻って、カレンとエーリアさんに一本ずつ渡す。
「左利き用のナイフ? いや、だが……」「気付けなくとも無理はありません。偶然知ることが出来たのですが、これは魔法具です」「えっと、僕が持っていたんだけど、効果というか機能は大丈夫なのかな?」「これが魔具であったなら、哀しいことになっていたでしょう。ですが、このナイフは、内側に仕込んであるので、あなたの影響は及ばなかったようです。面白いことに、左手で魔力を込めないと、魔力が乱れる仕組みになっているようです」「うん、わかった。それはカレンにあげる」「只で、貰うわけにはいきません」
僕にとっては安物で運良く手に入れただけのものなので、譲るのに如くはないのだが。魔法具と判明した以上、カレンにとってはそう簡単に割り切れるものではないらしい。然らば彼女が甘心できるくらいの、代償として振り替えてしまったほうがいいだろう。
「ん~、じゃあ、今度料理作ってもらえる?」「っ⁉」
別に突飛なことを言ったわけでもないのに、予想以上に吃驚するカレン。見ると、何やらにんまりした訳知り顔のエーリアさんが同じてくれたので、理由を説明してしまう。
「手料理か、それは良い考えだね。仲良く二人でーー」「ええ、レイが今、料理に凝っていて。カレンは料理も上手だから、きっと喜んでくれると思うよ」「「…………」」
何だろう、エーリアさんは、あちゃ~、という感じで顔に手をやって。何故か半笑いのまま固まった表情のカレンが、何かを誤魔化したいのだろうか、グラスに入ったお茶を一気に飲み干す。釣られて、というか、間が持たず、僕らも茶色い液体が入ったグラスに手を伸ばす。朝の炎氷から始まって、話し合いにと、喉が渇いていたのでありがぁぐぶぅっ、
「ぶっふぅ⁉」
毒⁈ いやいや、それはないっ、カレンは同じ茶器から、ではなくて、あとから別に入れたのなら、って、それも無きにしも非ずの然もありなんで然に非ずんば然らしめる、って、混乱している場合ではなくっ。竜にも角にも、正常な思考を取り戻す為の時間稼ぎに、噴き出して汚してしまった卓を布で拭く。
「ふふっ、どうしたのかしら、ランル・リシェ。エーリアさんは嗜んでいるようですね」
カレンの半笑いが、為て遣ったり、そのまんまのしたり顔に、風も華やぐ透明なーーって、だからカレンに釘付けじゃなくて、ぐぅう……、まだ心を立て直せていないらしい。
朝から色々あって、心が吃驚、或いは惚けたままになっているのかもしれない。カレンがいつもより可愛く見えてしまうのは、その所為なのかもしれない。
然てしも有らず隠すことでもないので演技をしないでいると、先ずエーリアさんが気付いて、楽しげに僕の表情から読み取ってゆく。
「落ち着いた、それでいて、溜め息でも吐きそうなーー。どうやらリシェ君は、知らないわけではなく、いや、僕らよりも知っていそうだね。それでいて、土竜茶を飲んだことがないというのは、飲ませてもらえなかったということは、若しや、最初からーー?」
「ご明察。そうですね、良い機会なので、他のことも話してしまいましょう。その序でに土竜茶、始めは、どりゅうちゃ、でしたが、そのことにも言及するとしましょう」
さて、丁寧な言葉で仄めかすと、勝ち誇った分だけ、追い詰められるカレン。不利な状況での適切な対処こそ、〝サイカ〟に必須とされる資質の一つなわけだが。僕は興味津々で、エーリアさんは先達としての師範然とした態度で、彼女の言葉を待っていると。
「あなたが話したいというのであれば、聞いてあげないこともありません。別に聞きたいわけではありませんが、聞いてあげないとあなたが可哀想だから、仕方がなく聞くのです」
……これは、及第点、なのだろうか。煙に巻く、と言っていいのか。自らの瑕疵を他人に擦り付けようとする、効果的な方法の一つ、と捉えるべきか。多少の頑是無さを演出することで、カレンの魅力を転化することで、より効果を増そうとしているのだろう。
見ると、エーリアさんも判じられないのか、難しい顔をしていた。
う~む。カレンはこんな言い訳めいたことを言う娘じゃなかったんだけど。これは、僕の許で薫陶とやらを受けた結果なのだろうか。まぁ、とりあえず、何となく、僕が悪いような、漠然とした不安が込み上げてくるので。里長、ごめんなさいっ! と内心で真摯に謝っておくことで、心の健やかなるを願っての儀式は終了。
「カレンと、エーリアさんのお陰で、それなりの余裕もできました。なので、商売をしてみようかと一考しました」「商売? それは〝サイカ〟や〝目〟では普通のことだね。それを今やるとなると、目的は?」「はい。お金はーー持っていますが、それは竜の国の為に使うと決めています。自分で動かせる、ある程度の纏まったお金を得ようと、竜の国を造り始めてから知己を得た幾人かの商人に相談しようと思っていたのですが。そんなとき、一人の男性が侍従長を尋ねてきました。名前は、グラニエスさん」
順繰りに見て、二人の反応を確かめるが、やはり心当たりはないようだ。
「ふむ。流れからいくと、その、グラニエス、という方が、土竜茶の生産者ーーいや、発見者、と言うべきか」「ええ、先ずはその話からしましょう。虫除けの香のことは知っていますよね。彼は、廃業した薬師の一族の一人です。彼らは、一言で言うと、森の民です。精霊信仰という、珍しい慣習に依って生きてきた人々です。竜の国に来てからも、彼らは森に住みました。そして、彼らは森を巧みに利用し、識っていきました。その森ーー『深緑竜の森』と彼らが名付けた、西に広がる森には、虫除けの素材以外にも、彼らが『パデカ』と呼ぶ細長い芋が採れました。僕も知りませんでしたが、そのパデカという芋は珍味とされていて、一部では熱烈に歓迎されているそうです」「ーー一部。人口に膾炙していないということは、採れる量が少ないのですね。広まってしまえば、自分たちが食べられる機会が減り、そして需要と供給から高価になってしまう」「うん。このパデカ、採る為には人の身長くらい深く掘らないといけないそうなんだけど、問題はパデカが生息する場所。特定の樹木の近くに生育するんだけど、その樹の根っ子が凄いらしい。森の掟とかで、太い根っ子は伐ってはいけないそうで、掘るもの大変で、自然採れる量は少なくなる」
グラスに残った土竜茶を、ごくり、と一口。つんっ、と鼻の奥を刺激する、泥臭い味。いずれ味が変化すると知っていなければ、ただの嫌がらせとしか思わないだろう。
「ここからが土竜茶の話です。太い根っ子以外は、伐っていいので、土と一緒に掘り出して、あとで埋め戻すのですが。ここでグラニエスさん、このただ邪魔なだけの根っ子、何かの役に立たないかな、と思いました。先ずは食べてみましたがーー、様々な方法で食してみましたが、森の民ですら受け付けない味だったそうです。脆くて、時間が経つと粉のようになってしまうので、他の用途には向きません。そこで森守に相談に行きました。他に何か方法はないかと。その一つが、特殊な乾燥方法で、お茶にしてみるということ。
ただ、ここでグラニエスさんにとって、予想外のことが起きました。試作するとき、彼は少量だけしか用意しませんでした。なぜなら、理由なく森にあるものを捨てるのは、彼らにとって禁忌とされていたからです。なので、途轍もなく不味くても、作った料理は全部食べました、食べることが出来ました。ですが、森守の指導によって作り出された茶葉、ではなく茶根? は大量でした。実は彼、精神が精霊界に旅立った(ちょっとおかしくなられてしまった)ことから森守がすでに引退していることを知らなかったのです。そんなこんなで途方に暮れるグラニエスさん。ずっと飲み続けても半周期分はあります。然し、彼は森の民。体を壊すまで飲み続ければ、森の民たちも捨ててもいいということに納得してくれるだろう、と覚悟を決めました。
僕も、初めて飲みましたが、酷いですね。土の味がしました。でも、彼は飲み続けました。そして、ゆくりなく知ることになります。一巡りほど経ったとき、味が変わったのです。土の味は薄れて気にならなくなり、わずかに刺激のある馥郁たる香りが体の内まで染め上げるようなーー劇的な変化が齎されたのです。人間の感覚は、環境などによって変化する。ということは聞いたことがありましたが、これはわかり易い事例ですね。
で、グラニエスさん、さっそく森の民に勧めましたが、水に味をつけることを好んでいない彼らは、試してもくれませんでした。茶葉などを売るお店に持っていって説明しましたが、信じてもらえません。これ程の美味、他の人にも飲んでもらいたいと諦め切れない彼は、王様に相談しようかと考えましたが、こんなことで翠緑王を煩わせるのは不敬なことではないか、との結論に至りーー、このとき、彼は疲れていました、普段あまり使わない頭を使って、疲労していました。なので、彼は、こう思いました。『ああ、侍従長が居るじゃないか』と。天啓を得たらしい彼は、僕の居室に遣って来ました」
喉を潤わせる為、再度土竜茶を一口。ぐぅ、やっぱり不味いが、我慢して飲み下す。
「大空に風竜とはこのことか、と彼の提案に乗りました。……ん? 慥か、地竜って、飛ぶのが苦手とか噂、というか古事がありましたよね。あのとき聞いておけばーー、ん~、駄目かな、尋ねるのは失礼になるのかな?」「……ランル・リシェ。あなたは地竜の知り合いまでいるのですか?」「え? ……えっと、知り合い、というか、間に老師を挟んでですけど、一回会ったことがあるだけなんだけどーー」
藪蛇ならぬ薮竜、は語弊があるか、竜は大き過ぎて、藪には隠れられないので、いや、でも「人化」した竜なら問題ない、って、いやいや、それだと元の意味がーー。
「ま、追及はあとで、だね。今は土竜茶の話を聞こうか」
然てしも有らず、エーリアさんの提案を奇貨として、緩んだ頭を引き締める。
「えっと、初めてのことで、楽しくて、つい……遣り過ぎてしまいました。先ず、彼は読み書きができなかったので、僕が商品説明を。この頃、お茶を嗜む習慣が広まってきていたので、そういった人たちは、より新しいものの開拓だったり他者よりも特別なものを求めたりといった傾向が出てくると思ったので『一巡り飲み続けることで美味しくなる通のお茶』として売り出しました。先ずは、手に取ってもらう為、格安で販売しました」「なるほど。私は、ランル・リシェの浅知恵にまんまと引っ掛かったというわけですか。ーーそれは良いとして、遣り過ぎ、というのは、あの売り文句などのことを言っているのですか?」「売り文句? 僕が買ったときには、そのようなものはなかったけれど」「えっと、『地竜も大好き土竜茶』とか、どんどん売れ行きが伸びていくのが楽しくて、商道に反したことを少々……。機会があったら地竜に土竜茶を飲んでもらって、感想を聞いてみます」「そういえば、なぜ土竜茶なんだい? こちらも言い伝えみたいなものだけれど、地竜は土竜と呼ばれるのが大嫌いだと記憶しているが」「ああ、それはグラニエスさんがですね、地竜茶、と銘打つのは恐れ多い、然し土竜でも勘気を被るかもしれない、ということで竜の部分をちょっと暈かして。もぐらならぬどりゅう、そして、りゅう、の下を削って、どりちゃ、としたそうです」「それは配慮……なのか? 本末転倒な気がするが、そういうものなのか」
僕もどうかと思ったが、なぜか興奮気味のグラニエスさんが、自分で決めた名称を大変気に入ったようだったので、同じないわけにもいかず。もしかしたら、パデカと同様に、森の民に伝わる、特別な言葉だったのかもしれない。
「そんなこんなで、土竜茶が売れ始めた頃、モーガル商会のモーガルさんに会いに行きました。モーガルさんとは、竜書庫で出会って、『千竜賛歌』の噂を広める為に、一役買って頂きました」「モーガル商会って、あのモーガル商会かい?」「ーーあの? ですか?」「商人たちの間では有名だけれど、人口に膾炙は、していないね。彼、というか、彼らは、通常の商人のような利益で動くのではなく、良く言えば信念で、悪く言えば娯楽とか快楽とかで商売をする、食み出し者と認識されている」「モーガル商会とは、クラバリッタに居たときに関係があったんですか?」「はは、そうと言えばそうなんだけれど。ちょっと違うかな。ん~、あ~、まぁいいか。僕の失敗談、のようなものを話すとしようか」
天井を見上げて。後進の為にだろうか、小さくはない迷いを振り切って話し始める。
「ボルン様の弟子になって、一周期経った頃かな。ニーウに追い付こうと、寝食を忘れ、がむしゃらになって励んでいた。それを見兼ねたのか、ボルン様は、僕に休むようーー言って聞かないので、命令してきた。休日も自習に、研鑽に充てようとしていた僕だったが、ボルン様は、最低でも二巡り休むよう言ってきた。
『〝サイカ〟に至る為には、様々な経験を積まなくてはならない。自分で目的を決め、旅をして来なさい』と仰い、それならば、と血気逸っていた僕は、『マギルカラナーダ』を解き明かしてやろうとーー。あはは、今から思うと、何と言うか、どうしようもないね」
自虐的な言葉と違って、懐かしむような笑みを浮かべるエーリアさん。
「えっと、伝説、かもしれない、あの有名な『マギルカラナーダ』」「何一つ、存在を示す証拠は見つかっていないのに、名称ばかりが大きくなった、あの曰くつき、でしょうか」
微妙な評価になってしまうのも仕方がない。「マギルカラナーダ」とは、そういう類いのものなのだ。酒場での与太話よりも胡散臭く、聖語時代より前から伝わっているというのだから怪しさ大爆発である。みーのお臍で茶が沸かせ……あれ? みーは炎竜なので、お湯を沸かせ、あ、いや、違う、湯ではなく茶なので、みーのぽんぽんは良いぽんぽん、
「君たちの興味を引く為に、このような言い方をしておこうかな。僕はあの旅で、『マギルカラナーダ』を解き明かした。でも、彼らとの約束で、口外はしない。ボルン様にも、彼らとの接触はあったことは伝えたが、彼らに繋がる一切のものは報告していない」
あ、いや、……不真面目でごめんなさい。スナのぽんぽんの感触を思い出して、頭を冷や……ではなくて、いや、うん、もう何も考えずエーリアさんの話に集中するとしよう。
「旅立ちの前、ボルン様は僕が用意した旅費を半分になされた。『これで、苦労と工夫をしなければ、旅を完遂することは出来なくなった。この程度のことを成し得ないなら〝サイカ〟に至るのは諦めたほうが良い』とにんまり笑みを浮かべられ、可愛い弟子は竜に乗せろ、ということで執務室を追い出されてしまった。
若い、っていうのは怖いよね。怖いものなしだ。旅費の節約にと、乗合馬車を利用せず、若さに飽かして目的地まで徒歩で行こうと決めた。だが、一日目から、その計画とも言えない杜撰な旅程は崩れた。足を痛めた。でも、その程度のこと、どうとでもなると考えていた。痛めたのは、股関節か、その周辺だった。あのような痛みは、生まれて初めてだった。痛みで、体全体がまともに動かない。その独特な痛み方は、体だけでなく精神まで削り取っていった。気力だけで歩いていると、雨が降ってきたことに気付いて、何もやる気にならなくて、大きな樹の下で布を被ってぐったりとしていた。
そして、どれだけ経ったのか、馬車が通った。僕は恥も外聞もなく助けを求めた。馬車は止まって、男が降りて。僕は腹を蹴飛ばされた。僕を吹っ飛ばせるくらいだから、冒険者か盗賊か、それはさておき、金目のものは全部盗まれてしまった。殺されなかったのは、運が良かったのかな。覚えているのは、遠ざかってゆく背中だけ。残念なことに、顔は覚えていない。覚えていれば、竜に喰わせてやるものをーー。
さすがに、ここで死を予感したね。動けないし、体は冷えてゆくし、考えることも億劫になってゆく。そんなとき、足音が聞こえた。もう僕から奪えるものなんて何もないぞ、と最後の力で憎まれ口を叩いて、意識を失った。
馬車で揺られる振動で目を覚ましたとき、夫婦と娘の三人が居て、娘が僕の看病をしてくれたようだ。馬車で三日、どこかに着いてから四日ーー体を起こせるようになるまで一巡りも掛かってしまった。そこで知ったのだが、どうも僕は歓迎されていなかったらしい。折角助かったのに、幸運もここまでか、とエルシュテルに祈りを捧げたものさ」
土竜茶で喉を潤わせたエーリアさんは、残りの液体を見詰めたあと、ぐっと一気に飲み干した。勢いを借りなければ話せないことでもあるのだろうか。
「ですが、助かったのですよね。話の流れから、そこが『マギルカラナーダ』に連なる者たちの居住地となれば、如何にして窮地を乗り切ったのでしょう?」「……それは」「娘さんが、エーリアさんに一目惚れして、ずっと庇っていてくれたんですね」「っ! 何故それを知っているんだ⁉」「……えっと?」「……あ」「「…………」」
嘘から出た邪竜。いや、ごめんなさい、睨まないでください、エーリアさん。
「こほんっ。ーー助けられた僕は、当然恩返しをすべきと、〝目〟であることを明かして、役立とうとした。求められたのは、知恵、だった。彼らは困っていた。彼らが住む領地に隣接する辺境伯が、詳しくは聞かされなかったが、逆恨みで他の領地とも結託して、流通を阻害していたらしい。そして、ここで件の、モーガル商会が登場する。
商会は、何の得にもならないというのに、彼らの領地に物資を提供し続けたらしい。だが、当然辺境伯が阻止しようとしてくる。そこで、どうにかならないか、ということだった。他の領地は、辺境伯と敵対したくない、という理由だけで従っていたからね。これを崩すのは難しいことではなかった。それで、上手くいったわけなんだが、その……」
「エーリアさんを庇っていた、という娘さんのことでしょうか?」
カレンも女の子。恋愛事に興味があるのだろうか。然し、昔から彼女がそういうことに積極的である姿を見たことがない。そこら辺を誤解されない為だろうか、別に興味があるわけではありませんよ、という体を崩さず、土竜茶をごくりと一口。
「彼女はね、魔法使いだった。爆発魔法ーーそんな魔法があるのか知らないけれど、そうとしか呼べない魔法の使い手だった。うん、酷かったよ。女の子って、一途だよね。怖いよね。女の子は爆発で怖いよね、女の子は爆発だよね、爆発……、爆発、怖い、爆発は怖い、爆発怖い爆発怖い……爆発怖い爆発怖い爆発怖いっ」「エーリアさんっ!」
何やら呪術めいた言葉を発しながら、がたがたと震え始めたので、両肩に手をやって前後に揺さ振ると、はっと現実に帰還する若き竜官。竜の国に遣って来たとき、「爆焔の治癒術士」であるシャレンに怯えた様子を見せていたが、これが原因だったらしい。「爆発」と強調しているということは、「爆焔」や「爆裂」の魔法とは異なるものなのだろうか。
この話題は禁止、と目配せすると、ここからが楽しいのに(訳、ランル・リシェ)、と不満気なカレンのおめめ。なので、念押しの為に、じっと見詰めると、甘心してくれたのか、ふいっと目を逸らして、少女は土竜茶をごくごく。
「ふぅ、そういえば、モーガル商会は、何の得にもならないのに助けていた、とのことですが、本当にそうなのでしょうか。得にならないのだとしても、目的もなくそのようなことはしないはず」「……それは、わからない、かな。家から出るときは目隠しをされていたし、必要以上の情報は貰えなかった。一つ、わかるのは、辺境伯の野望なのか、彼が失墜したあと、領内ではモーガル商会を称える声で溢れていたそうだ。名声は金で買えない、と言うが、どうもモーガル商会がそれを求めていたとは思えないーー」「えっと、その答え、と思われることを知っているんですが、知りたい、ですか?」「え、本当に?」
二人とも、興味ありありな顔だったので、あと竜書庫に関しての知識も多少持っていて欲しいので、話してしまうことにした。
「『千竜賛歌』に関する、モーガルさんへの報酬は、竜書庫の、奥書庫に入る権利、です。無論、そこで得たものを外部に漏らさない、という誓約を立てて貰ったあとにですけど。そこで彼は、ある書物とご対面。がっくりと膝を突きました。
奥書庫にあったのは、原本……に近いものでした。そして、彼が手に入れた、領地を救うことと引き換えに譲り受けた写本は、酷いものでした。古語時代に写した、もとい書かれたものでしたが、これを行った人は、たぶん想像、若しくは妄想で書いたのでしょう、写本というより創作物と言ったほうが適当な代物でした」
モーガルさんは贋物を掴まされてしまったわけだが、彼に写本を譲った領主は贋作であるとは気付いていなかったようで、これはこれで価値があるさ、と精一杯の強がりを言って、過去のことはすべて水竜に洗い流してもらったようだった。こうした、からりとした性格が付き合い易く、また信頼も置けると判断して、商人を紹介してもらうことにした。
「その写本、というか創作物というのは、『マギルカラナーダ』に関するものなのかしら?」
「全然違うものだそうだよ。聖語時代後期の、伝説の商人の伝記らしい」
「聖語は失われた言語。古語時代の人々でも聖語を解することは出来なかったでしょうから。竜書庫にあるという写本についてはーー、教えてくれないのかしら」
まぁ、カレンが、それにエーリアさんも、気付かないはずがない。
「あ~、もう、絶対に秘密ですよ」
変に勘繰られるくらいなら正しい情報を、ということで。必要以上には求められないよう恩着せがましい物言いのあとで、世界の秘密の一端を披瀝する。
「フィア様は、過去、世界をーー正確には人類を救いました。この世界が不安定であると判じた老師は、『感知』の魔法などを使って、この大陸にあるすべての書物を写すことを許可しました。そういうわけで、実は竜書庫は、人類の叡智と真実が眠っている、すんごい場所だったりします。特に奥書庫、そして禁書庫は、管理できないなら燃やしてしまわなくてはならないくらいの、特異で特殊な場所になってしまいました」
「む? 慥か、書庫長の女性が、バーナス殿の娘だったと聞いたが、あの噂ーーとなると、若しや竜書庫の番人、ではないな、番竜は、件の氷竜様なのかな?」
スナのことを知っているエーリアさんが慮って、カレンに気取られないよう言葉を繰る。
スナのことを知る者は少ない。僕とコウさんとエルルさんーーと百竜もか、騒乱のあと同盟国を巡ったときにエーリアさん、エクリナスさんとドゥールナル卿。老師やエンさんはどうだろう。氷竜が竜の国に居ること、くらいなら勘付いているかもしれない。
カレンは、氷竜が居ることは以前伝えたので知っているが、レイが氷竜であることは気付いていない、はず。カレンは、スナのお気に入り(おもちゃ)の一つである。たぶん、二、三を争うくらいの。一、はまぁ、言わずもがなのことなので、察してください。
正体をばらして、スナの楽しみを奪ってしまったら、どんな目に遭わされるか。
寒い。凄く寒いです。僕とエーリアさんは、同時に想見して、悪寒に震えた。
「そうだった、言い忘れていた。リシェ君の、侍従長の許で働きたいという者が二人、今日の会議のあと、面接に来る。試用するかどうか、見てやってくれ」「唐突、ですね。何か裏があるんですか?」「はは、僕に裏はないよ。一人は、大路で頼まれたというか、相談されたというか、そんな感じで、僕が竜官だと知らなかったようだし。もう一人は、侍従長に直接持ち込めないからと、僕のところに遣って来て、推薦ということだけれどーー、その方が微妙な表情をしていたのが印象的だったね」「侍従は未だ僕とカレンだけですし、人が増えるのはいいことですけど。詳しく……は、いいです、言わないでください。侍従長のところで働きたいなんて人たちのことはーー、そのときまで忘れることにします」
嫌なことは後回しに、って、いやいや、もしかしたら、ひょっとしたら、よもやもしやけだしあるいは、げにまっこと、僕たちに裨益……はぁ、高望みは止めておこう。
「そうか。では、一応調べておいた資料は侍従次長に渡しておくこととしよう。ん? どうかしたのかい?」「いえ、その、投げナイフですが、魔力は少量込めるだけで良いのですが、もっと多量の魔力を込めたら、如何様なことになるのか試してみたくーーふっ!」
止める暇もあらばこそ、王様の薫陶まで受けなくていいのに、粗暴な、もとい余計な冒険心を発揮して、魔力を纏わせたらしいナイフが的の中心をーー。
ばきっ、ばんっ、ぐさっ。
あ、いや、実際には、もっと手酷く割れるような音だったり砕け散るような音だったりしたのだけど。自分の部屋ーーというか執務室であるがーーのものが壊れる音は、どうしてこんなにも、ささくれ立つように響くのだろう。
心に爪を立てるような不快さを伴って、耳朶を打つ。
「「「…………」」」
的を粉砕。資料や書類が纏められた棚の側面を剥ぐように弾き飛ばして、放ったままの軌道で真っ直ぐ。壁に根元まで、ずぶり。
「この部屋、執務室にも付与魔法とか魔力による強化とかしてあるんですけど、どうやらそのナイフは、魔力や魔法を突き破ってしまったようです。えっと、つまり、何が言いたいかというと。カレン、ちゃんと使えるようになるまで、投げナイフ禁止」「……はい」
これも、あれなんだろうか。けんからまりょく、すいとってる、そしてそれ、じょうたいかした、まけんになった。とシーソが言っていたが、折れない剣同様に、投げナイフにも悪影響(?)を及ぼすに至ったのだろうか。
「部屋は強化されているのか、まったくわからないな」
魔法はスナが行使したものなので、竜の国で見破ることができるのは、百竜と、勘が鋭いエンさんくらいだろうか。コウさんと、あとみーも、無理っぽい、かな。
「ええ、試しに剣ーーは持っていないようなので、魔法を行使してみてください」「僕が得意なのは、風系統の魔法だから、室内で放つのはーーいや、そうだね、何があるかわからない、知っておいてもらおうか」「ーー何か、特殊な魔法などでしょうか?」「里で習ったように、魔法が使えるのであれば、一つの手段として用い、奥の手を用意しておく。奥の手は必須ではないけれど、幸い僕は用意することが出来た。僕が得意なのは、『風刃』。これを三つ同時に放つことが出来る」「私は、風の魔法が不得意なのでわからないのですが、『風刃』三つと、『風牙』や『風爪』の違いはどこにあるのでしょう?」「一言で言うと、風の性質の違いだね。見た目ではわかり難いのだけれど、切る、と交差、と引っ掻く? ということで納得してくれるとありがたい。ここら辺が魔法の難しいところだね。ーーと、奥の手の話だったか。僕は『風刃』を全力で十回放つことが出来るのだけれど、不思議なことに、三つ同時だと、一回で魔力が底をついてしまう。これは何かあるのではないかと思って、様々な形で『風刃』を放ってみた。幾つか使えるものがあったけれど、その中でも一つ、貫通力に優れたものがあった」「えっと、貫通力と言うと、風の槍とか針みたいなものですか?」「実はね、風の魔法の弱点の一つは、硬い物、なんだ。魔法には心象が重要。風がすべてを穿つと確信し、心象を重ね、固める。もしかしたら、岩を砕けるほどの貫通力を得られるかもしれない。でもそこまで心象を固めるーー一途に思い込んでしまえば、風の柔軟さを発揮することは出来なくなるだろうね。魔法とは厄介で、面倒なものでもあるんだ。では、前置きはこれくらいにして、実際に見てもらおうか」
エーリアさんは、左手を顔の前まで上げて、掌を内側に向ける。次に、右手を左腕の肘の上に重ねて、同じく掌を内側に向ける。見様によっては、大きな丸いものを両手で持っているような姿勢。壁と対峙して、魔力を練り上げる。
半瞬。一瞬ですら長いと感じられる、素早い動作。
右手が右に動いて、即座に左斜め上に。同時に左手は左斜め下に、風を描く。
「はっ!」「ーーっ⁉」「…………」
……いや、まぁ、わかっていたんですけど。エーリアさんが手を動かして、余程凄い魔法だったのか、カレンが驚いて。そして僕には何も見えなかったとさ。
「えっと、魔法が見えない僕に、どなたか説明していただけるとありがたいのですが」
嘗ては、僕の特性のことを知らなかったカレンだが、まぁ、あれだけの出来事があれば、当然心付いて。洗い浚い白状させられたのだった。里で兄さんと行動することが多かったエーリアさんは、里に居た頃から知っていたようで、竜官就任後にその旨を告げてきた。
然ても、そんな二人は、何処飛ぶ風竜とばかりに、邪竜には目も呉れず。
「結構見栄えがする魔法だから、気に入っているんだ。壁はまったくの無傷だったけれど、貫通力だけでなく浸透力に近い威力も発揮する。何故そうなるのかは、本当にわからない。好い加減、と言ったら魔法に失礼なのかな」「途中で、何かが変化したようなものを感じました。三角を構成して、中心に吸い込まれるような風の流れは圧巻でした。この魔法の名称は?」「そういえば、決めていなかったか。『三刃』は、結果から見れば違うし、『貫穿』は、見た目からすればそうかもしれないが、恐らく性質としては異なるから……」
邪竜は、邪竜らしく行動することが求められているのなら、ーー了解しました。
「はっはっはっ、そのとっても凄いらしい魔法の名称を決めました。『風降』にしましょう、はっはっはっ。というわけで、コウさんに報告してきます!」
仲間外れを甚振る悪人なんて、王様の好奇心の餌食になってしまうがいい! ということで駆け出したら、扉に投げナイフが、ずぶり。
「……えっと、カレン。今回は見逃すけど、次は、サンとギッタに『おしおき』させるからね」「ぷっ。それは良い提案だね。到頭、あの国家機密の一つ、『おしおき』の内容が明らかになるのか。フラン姉妹は頑張っているようだから、褒美を与えるのは悪くないね」
さすがにカレンの行いを看過できなかったのか、エーリアさんが僕の味方になってくれる。ーーと、何だろうか、二人から責められてしょぼくれているカレンを見ていて。それからエーリアさんに視線を向けて、ある人物のことが頭に浮かんできたので、率直に聞いてみることにした。
〝サイカ〟、里長を目指すカレン、彼の弟子、と二人の弟ーーとなると。
「エーリアさん。ボルンさんの目的って、何なのでしょうか?」「は? 目的……?」
唐突であるという自覚は僕にもあったので、足りない言葉を補うことにする。
「目的、というか、目標でも良いのですが、〝サイカ〟に至ったボルンさんは、何を望んでいると思いますか?」「ん、んん? 何を、か。それは、聞いたことはなかった、かな。三国同盟を纏め上げ、ラカールラカ平原に渡りーー、地域の安定を築こうとした。然し、それが目的としても、目標となるとーー」「通常、〝サイカ〟は弟子をとりません。それに、〝サイカ〟同士はあまり協調しません。そこでボルンさんの言行から思ったのですが、彼はーー〝サイカ〟の『里長』を目標にしているのではないかと」「ん~、そうだね、それは有り得るか」「そっ、そのようなことっ……」「はい、カレン、落ち着いてね」
〝サイカ〟の里長になることを想望、というか所望しているカレンが腰を浮かし掛けたので、手を水平に小さく動かして、やんわりと抑える。嘗ては、希求や切望といった水準だったが、騒乱以後は何か想うことがあったのか、焦りのようなものは感じられなくなっていたのだが。
「『至高の〝サイカ〟』である現里長が纏め上げているから、〝サイカ〟の里長には力があると思われているけど、実際には裏方の役職なんですよね。重要な役ではあるけど、そこまで望まれるものでもない」「そうだね。〝サイカ〟に至った者は、表で活躍しようと思うだろうしーーというか、その為の称号でもある。僕が〝サイカ〟に至ったとして、里長になりたいとは、思わないかな。人生の晩周期にでもなれば、考えが変わるかもしれないけれど」「カレンが〝サイカ〟に至って、里長を継ぐ。以前はそれでもいいと思っていました。でも、実際そうなったとすると、経験も実績もない未熟な里長に、〝サイカ〟は耳を傾けるでしょうか。面従腹背、ということはないだろうけど、本当に裏方として管理するだけになり兼ねない。ボルンさんが実際にどう思っているかわからない。彼でなくとも、別の誰か、間に誰か一人挟んでからのほうがいいんじゃないかな。その間に相応の力をつけ、四十歳くらいでーー」「よっ、四十なんてっ、そ、そのような、困りますっ!」「えっと、……何で?」「ぅえっ⁉ それでは行き遅……ぃぎ、くっ、ランル・リシェっ! すべてはあなたが悪いのですっ‼」「え、えー?」「……っ、ーーっ!」
竜の民もそうだが、すべてを僕の所為にして事態を収拾するという遣り方は、いや、まぁ、僕もそれを利用していたわけだが、でも、そろそろ止めにすべきではないかと。
「……不思議だよね。リシェ君は、そこまで見えているというのに、どうしてそちら方面は暗竜に呑み込まれてしまっているのか」「なっ、ななっ、な、何を言っているのです、エーリアさんっ、私の目的のような目標はお爺様の後を継ぐことで、後のサイカの一族の、希望の一助となることですっ、それ以外のことなどこれっぽっちも考慮になど入れていません!」「……これはこれで、歯車が噛み合っていると考えるべきなのかーー」
少し、嫉妬してしまう。カレンとの付き合いは、エーリアさんのほうが短いはずなのに、彼女のことを理解している。はぁ、これ以上、カレンには嫌われたくないんだけどなぁ。自分の至らなさが嫌になりようが、こればかりは一朝一夕には如何はせむ。
然のみやは今は出来得ることからくる候はん。
「エクリナスさんとカレンなら、お似合いだと思っていたけど、エーリアさんとカレンも相性がいいみたいだね」「「…………」」
然も候ず、どういうことかわからないのだが、素直に感想を述べたら、執務室から追い出されることに相成ったのだった。
がちゃ、と開けて、同じく足音を立てて歩いてゆく。
そうして椅子に座ると、背中にスナをくっ付けて項垂れていた王様が、びくっとなって。
「ぅ……、ーーっぶぇっ⁉ ぅりぃ、リシェざんっ、いっ、今っ、外から来たのですっ、来ましたの、なのですっ⁈」「足音で誰かわかるでしょうに。魔法が使えないと、本当に普通の、いえ、普通以下の王様ですね」「そんなこと聞いてないのでっ……ぅゅ? はっ、ふぃ、じゃあっ、今までずっと居なかった、なのです⁇」「さすがスナ、上手くいったみたいだね」「半分は、ですわね。とりあえず、この娘は黙るですわ」「ふぎゅ……」
コウさんの頭の上に、スナが顎を乗せると、再び項垂れていく翠緑王。ふむ、氷竜にこっ酷くやられた(あそばれた)ようで、見るから疲弊している。
「半分、ということは、魔力放出には至らなかった?」「小さく二回、抜いてやったのですわ。これは、父様と違って、私が怖がられているから、効果が薄いと判断しますわ」「なるほど。スナの存在感が大き過ぎる、と。前提の部分で再考が必要か。でもーー、スナの戯れ(あそびすぎ)が原因だったりするのかな?」「ふふっ、そこは否定しないのですわ」「ふしゅぅ~、何か酷いことを言ってるのですっ、酷過ぎることを言ってるのですっ! ふぉ……?」
ずっと目隠しをしていたので、それ以外の感覚が鋭くなったのだろうか、二人で哀れな娘に目を向けると、魔法使いが軽く身を引く。そろそろ可哀想なので、席を立って、スナを回収する。感覚が鋭くなっているコウさんを圧迫する為に、近くから声を掛ける。
「竜にも角にも、思った以上に疲れているようですね。もしかして、また徹夜とかしましたか?」「徹夜……じゃないくらいには、寝たのです」「はぁ、それで、今は何の研究をしているんですか?」「…………」「どうやら、スナの準備は万端のようです」「ひゃふふのふっ」「ふぃっ、……そ、その、あれです、あれなのです、魔力炉のーーっ⁉」
ぺしんっ。
あ、スナがコウさんの頭を叩いた。平手で脳天を、手加減は勿論してるけど、小気味良い音が室内で反響する。言葉よりも前に手が出るとは、またコウさんが何かやらかしたのだろうか。魔力炉、なるものが、スナの逆鱗に触れたようだが。
「ぃっ⁉ ……っ、痛くないようで痛いのですっ、目隠しした女の子を叩くなんて、邪竜なのですっ。竜に百回抱き付かれて、あちあちのめろんめろんになるといいのです!」
ぺしっ。ぺしっ。ぺしっ。ぺしっ。ぺしっ。ぺしっ。ぺしっ。ぺしっ。
「っ! ふぅう~、っもう怒ったのです! リシェさんなんてーー」「えっと、勘違いしないように。コウさんを叩いているのは、僕の可愛い娘であるところの、スナです。尊き氷竜、根源たる魔力を綾なす、連峰の氷姫ヴァレイスナです」「…………」「「…………」」「……邪竜に十回褒められて、出来立てのほやほやになるといいのです」「「…………」」
ぺしんっ。ぺしんっ。ぺしんっ。ぺしんっ。ぺしんっ。ぺしんっ。ぺしんっ。ぺしんっ。
「ふぇ……」
あ、コウさんが泣きそうだ。邪竜と氷竜に睨まれては、魔法使い(さん)も形無しらしい。いや、彼女が苦手なのはスナで、僕はそれを助長している、といったところか。
さて、気は済んだだろうか、スナをコウさんから遠ざける。然し、あちあちとかほやほやとか、何でそんな狭い地点で氷竜を逆撫でするのだろうーーと、ああ、そういうことか。今の僕にとって、竜とは炎竜氷竜という心象だが、コウさんにとっては、みーと百竜という認識なのだろう。目隠しされた状態なので、本音というか迂闊さが大爆発していると。
「魔力炉ーーのことは、聞かないほうがいいのかな?」「そうですわね。魔……のことも知らないあの娘が、辿り着けるはずがないのですわ。精々炉の基礎の部分で、代用として自身の内側で捏ね繰り回す程度が関の山、地竜の『結界』ですわ」「よくわからないけど、……これって、老師の許可は得ているのかな。まさか、コウさんの独断?」「あの娘の師匠は人間にしては見るべき定見を持っていますわ。それでも、魔力の本質に迫るには、あと百歩以上足りないのですわ。まったく、監督と監視役でしょうに、無自覚に、あの娘に甘いのですわ」「とりあえず、危険はない、のかな?」「魔力を魔力としてしか扱えないあの娘なら、制御に失敗しても自爆で済みますから、危険はあっても問題はないのですわ」
然かし。僕の理解の範疇を超えているようだ。まぁ、スナと老師が、あと百竜が居てくれる間は、最悪の事態にはならないだろう、……たぶん、きっと、そうならいいな。
「…………」
目の前で僕らが話していても、へちゃむくれなコウさん。
小さく二回、では魔力放出としては不十分なので、「目隠し作戦」では趣旨が異なるので行わないつもりだったが、いずれやるつもりなのだからーー、って、くぅ、どうやら動揺しているらしい、つもり、を二回続けて言ってしまった。いや、別にそれくらいなら問題は……はぁ、もういいや、必要なことだと覚悟を決めて、前倒しでやってしまおう。
然あらば試してみようか。これまでよりも、もう一歩踏み込んだ言葉の使用に踏み切る。
「コウさん。これから僕は嘘を吐きます。これから言うことは嘘なので、信じないようお願いします」「……心配しなくても、リシェさんの言葉なんて、とっくの昔に信用なんてしてないのです」「くれぐれも言っておきますが、嘘ですので、絶対信じては駄目ですよ」
「ふぉ~、しつこいのですっ、竜に噛まれてあっかんりゅ~、なのですっ!」
まぁ、ここまで念押しをしておけば大丈夫だろう。
然てこそこれから口にすべき言葉を思い浮かべて、みーと百竜が同時に抱き付いてきて……と妄想で誤魔化してみたが、うぐっ、なんで体が、抑え切れない感じで熱くなって、って、こら、心臓は勝手にがなるなっ、ーーふぅ、いや、落ち着け、僕。落ち着かない僕は僕ではない、では何かというと、邪竜かもしれないと思い込んだほうが重畳。……と何だかよくわからないことになっているが僕自身が言ったようにこれから言うことは嘘なのだから、いやでも演技はしなければいけないのだからそれなりにはーー、って、もういいっ、こういうのは勢いが大切なのだ! もうっ、もうもうっさっさと言ってしまおうっ。
「早くしろ、なのです」「それでは、いきます。ーーこほんっ、……えっと、コウさん」「ぷぅ~」「初めて逢ったときから好きでした。結婚してください」「ぶぉ? ぷゃっ¿?」
どっっっっっつっ、かぁぁぁぁぁっっっんっっ~~~~。
「……父様、生きてますわ?」「あだっ、たたっ、な、何が起き……た?」
吹っ飛ばされて、顔を上げると、室内は滅茶苦茶だった。竜が通り過ぎてもこうはなるまい。って、いやいや、そんな場合じゃなくて、放源というか魔源というか、いやだからそんなことはどうでもよくてっ、今は大変なことになっているかもしれない女の子のことである。扉近くまで飛ばされたので、矢庭に立ち上がって、駆け寄ると。
「ご臨終ですわ」「…………」「冗談ですわ。意識を失っただけですので、とはいえ異常事態には違いないので、ここの娘の師匠を呼んでくるのが最善と判断しますわ」「……っ」
コウさんの頭の天辺を人差し指でぐりぐりしながら溜め息を吐く愛娘の姿に、ほのぼのしたのも束の間、いってらっしゃいですわ~、という深刻さの欠片もない氷竜の楽しげ(ひゃっこい)な言葉に後押しされて、這う這うの体で王様の執務室から飛び出していくのだった。
ああ、なんだろう、今日は逃げ出したり追い出されたり、そんなことばっかりしているような。それに、思考がおかしな方向に行ってしまいそうになると、古めかしい言葉を多用するようになるのだが、以前より余裕ができて自覚できるようになったからだろうか、或いはそれがいけないのだろうかーー。ふぅ、ちょっと落ち着け、僕。騒乱以後、過集中ーー竜の領域へと至らないよう気を付けていたが、それも影響を及ぼしているのだろうか。
「魔力を上手く放出できなかったようだね。通常の肉体と、魔力体を持つコウだけれど、精神は一つだけだからね、膨大な魔力を扱えることが逆に仇となることがある。とはいえ、コウがしくじるのは久し振り。どうしてこうなったんだい?」
魔力診断、だろうか、遣って来た老師が冷静に診ていたので、終わるまで手持ち無沙汰だったので、余計なことを考えていたのだが、それがいけなかったのかもしれない。
「『初めて逢ったときから好きでした。結婚してください』と言ったら、突然爆発したみたいに魔力を放出してしまって……あ」
嘘を吐かないのは人として正しいこと、或いは好ましいことなのかもしれない。ただ、それが必ずしも、事実を伝えることに繋がるかというと、そうではない、と僕は答えるだろう。と言葉がちょっとおかしくなっているかもしれないが、その原因は目の前のーー、「鋸はないかな? 人間の首を切り落とす為の、鋸はないかな?」
やけに穏やかな声音の老師が、不埒者を制裁する為の道具をご所望のようだった。然し、周囲を探ろうとも、そんな都合よく、断罪の鋸が転がっていようはずもなくーー、
「こんなこともあろうかと、用意しておいたのですわ。使うが良いですわ」
……のはずが、どこから取り出したのか、スナがひょいっと放り投げると。
老師が僕にゆっくりと近付いて、肩に手を置かれて、軽く引っ張られる。一瞬、視界に入った。彼は、僕の膝の裏に、足を斜めに、って、うわっ。
とすんっ。と意図せず力が抜けて、自分の体が勝手にしゃがんでしまった。驚いていると、肩が押されて仰向けになってしまう。……コウさんの技も見事だったが、老師のそれは群を抜いていた。それ、としか言い様がない。正直、何をされたのか、はっきりとはわからない。人間の構造ゆえなのだろうが、抵抗すらできず、転がされてしまった。
ん? 手に衝撃がーー、ああ、そうか、しゃがんで手を突こうとしたとき、足で払われたのか。だから意識と感覚に齟齬が生じてしまっている。
一連の動作が継ぎ目なく、ぐっ! ひぃぃっ⁉
「っひぃぃぃぃはぁぁぁぁっ、ふひゃひゃひゃひゃひゃははぁひゃひゃひゃひゃ~~っっ」
ふぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁっっ⁇ うぎゃっ、た、助けてくだひゃい⁈ ごめんなさいっ、千回謝るので、どうかっどうかっ、邪神様っ、許してくださいませ‼
お腹の上に、どんっ、と足を置かれて。仰け反ったら、首に鋸が。ぎざぎざのいかしたあんちくしょうが、前後に高速移動して。こわい、老師、こわい、こわわこいわい……ごふっ。竜に蹂躙されるギザマルって、こんな感じなのだろうか。生死の境で苦痛を感じないとするなら、それはきっと、人間に具わった優しい機能ーー、ぶふっ。
首をぎこぎこ(のこぎりびき)しても治まらなかったのか、最後に顔面をばちんっとされてしまいました。
「感謝するですわ。これは刃の先に魔力の刃を生成する、魔具ですわ」
見ると、スナが手を、すっと軽く動かしていた。
音もなく先程まで僕が座っていた椅子が動いて、老師の背後に。彼には珍しい、倒れるように、どすんっと座った。息が上がったのか、小さく体が上下している。
喉に手をやってみると、血の感触もなく、痛みもない。恐怖の為、呼吸が浅くなっていたのか、少し強張りはあるが、大丈夫、僕の首はちゃんと繋がったままです。はふぅ……。
いつまでも寝転がっているわけにもいかないので立ち上がると、老師の視線に違和感が。これは、レイではなくスナ、愛娘に正しく向けられている。
「老師は、スナのことを知っていたんですか?」
老師は、親友であったという治癒術士を挟んで地竜との繋がりがあった。レイのことだけでなく、僕のおかしな言行まで。竜の存在に思い至ったとしても不思議はないか。
息を整えているのだろうか、間が空くと、スナが言葉を挟んだ。
「ドゥールナルが勘付くのですから、私と接触が多かったそこの娘の師匠なら、類推できて当然ですわ。初めて見えたときも、魔力を探っていたことは承知していますわ」
「……お褒め頂き、恐悦至極。愛称を付けていることまでは予想していませんでしたが」
老師が恭しい態度をとる。竜に対してのものだとするなら、問題ないのだが。老境にある若い姿の老師が子供の形をしたスナにそうするのは、何故だろうか、違和感、いや、感情のささくれのような、不明瞭なものが僕の内に生じてくる。
そんな僕の姿を見たからだろうか、諭すように弟子に語り掛けてくる。
「リシェと初めて見えたとき、半周期くらいだと予想、いやさ、予期したのだけれど。すでに炭のようなもので、いくら燃やしても然して変わらない、と思っていたが、ーーふぅ、ここまで遠慮なく扱き使ってくれたからね、少しは短くなりそうだ。
山奥で、静かに余生を過ごすというのも悪くなかったが、ーーああ、そうだね、楽しかった、かな。それは感謝しているよ。惜しむらくは、コウが嫁ぐ……、ん~、実はリシェには期待していたのだけれど、君は思ったより有能で、コウとしっかりと距離感を持って接している。氷竜様と魂を結わえているように見える、それが、リシェの本質なのかな」
スナのことだけでなく、やはり「千竜王」のことまで心付いていたようだ。反発はしていたが、彼が良い師匠であることは、否定のしようがない。弟子のことをここまで考えてくれている。その反面、というか、その分、というか、付き合いの短かった僕でさえ、こうなのだ。エンさんやクーさん、そして師匠であり親代わりでもあったコウさんはーー。
あとどのくらいなのか、などと余命を尋ねる必要はない。そのときが近くなれば、老師は引き継ぎを始めるだろう。すでに兆候は現れている。ゆったりとした動きで誤魔化しているが、歩くことにも苦痛が伴っているのだろう。
「そうだね。最期、会議の場で若作りではない、本来の姿を晒す。その寂れた、情けない、だが、私以外の何ものでもない姿を見て、驚く皆の顔を見ながらーーというのも良いかもしれない。ーーああ、駄目だね、体が弱っていくと、心まで弱ってしまう。ーーさてと、スナ様、お願いできますかな」「魔力が乱れていますわ。そっちの娘の魔力をーー少しは頼ってやれば良いですわ。迷惑を掛けたくない、などというのは、愛情というものを勘違いした傲慢な人間の考え方ですわ。あそこの娘は疎くて鈍くて思い込みが激しいのですから、存分に思い知らせてやるが良いですわ」「はい。参考にさせていただきます」
はて、スナの言葉がどこまで届いているのか、疑わせるような返事ではあるが。
スナが「結界」で覆ったのだろう、コウさんが浮き上がって、老師の許へ。スナに一礼してから、「結界」を抱えているのだろう、僕から見たら少しおかしな格好で、ゆっくりと王様の執務室から出て行った。
ーー僕は人非人なのかもしれない。僕の人間の部分は、どこまでが僕なのだろう。然り乍ら、そこを否定しても始まらない。以前からそうではないかと思っていたが、今なら、はっきりとわかる。僕は、人間よりも竜に心を寄せているのだ。魂からの応え、そのすべてを拒むのは、間違いであるような気がする。人は、人一人では完全ではないのだから。
「何するですわ、父様」
スナを持ち上げて、人に見られたら言い訳ができないくらい、ぎゅっとする。竜の湖では、自身の不安を取り除く為に、愛娘を利用させてもらった。でも、今日は逆。スナは否定するだろうけど、スナ自身、もしかしたら気付いていない、その空白ごと抱き締める。
「僕は人間だよ。内に変なのが在るみたいだけど」「そんなこと、知ってますわ」「スナと百竜は違う。最初の出逢いの所為なのかな、スナは僕を見てくれる。僕を好きでいてくれる」「私の心を動かしたのは、父様ですわ。『千竜王』は、お負けみたいなものですわ」
僕はスナが大好きだから。たとえ愛娘に嫌がられようとも、僕の気持ちを伝えなければならない。その覚悟が伝わったのか、スナの指先が、服を揺らす微かな感触。
「僕は人間で、遠からず、竜の感覚では、一瞬かもしれない、そんな奇跡的な短い時間しかスナと一緒にいられない」「そんなこと、わかってますわ。それに、そうと決まったわけではないですわ」「うん、だから言っておこうと思ってね」「何をですわ」
僕の言葉に、間を空けず応えるスナ。あの氷竜が、自らを偽ることすら出来なくなっている。不謹慎なことだが、それを嬉しいと感じる心を、責めるつもりはない。
「嘗ての僕は、スナが嫌だと言うまで、一緒に居ようと思っていた。ーーでも、無理。もう、駄目。スナが嫌だと言っても、もう離してなんてあげない。僕が居なくなる、その瞬間まで、スナには一緒に居てもらう」「まったく……、父様はどれだけ娘が大好きですわ」
まるで告白みたいだな、と思ったが、縦んば誤解されても構わない。申し訳ないが、気持ちを伝えると決めた以上、赤裸々に、偽りなく騙らせて、もとい語らせてもらうので。
「僕はスナが大好き。それは本当のこと。でも、その大好き、という気持ちの中には、スナが竜だから、というものも含まれている。
これが、『千竜王』の所為なのかはわからない。僕は、竜を放っておけない。頼まれれば、望まれれば、断れないかもしれない。僕は、みー様が、百竜が、竜というだけで、好意を寄せてしまっている。一度しか逢っていない、地竜にすら、好い印象を抱いている」
酷いことを言っている自覚はあるが、余すことなく言葉にしてしまうと、本当に碌でもないことだが、少しだけ心が楽になる。大切な竜に、嘘を吐かないで済むこと。人に対して感じたことのない、この気持ちをどうしたらいいのか、胸が締め付けられる。
「私は、どこかおかしくなっているのですわ。堂々と浮気をすると言われているのに、妹弟を据えるかもしれないと言われているのに、父様と一緒に居られるのなら、それで構わないと思っているのですわーー」
背中にあったスナの手が、戸惑いを振り切るように、僕の頭を優しく掻き抱いて、
「……などと、言うとでも思ったですわ~~っ‼」
いだいっ、いだっ痛っ! やめっ、髪の毛引っ張らないで、左右に、前後にっ、抜けちゃうから、いや、父さんはふさふさだから、そういう面での心配はあまりないんだけど、って、そうじゃなくて、うぎゃっ、ほんとやめて、毟らないでっ、お願っ手加減をば……。
「…………」「ふんっ、ですわ……」
炎を纏う(ぷんぷんする)のに飽いてしまったのか、気が済んだーーということはなさそうだが、愛娘は氷の静寂に沈んでしまう。氷竜とはいえ、寒そうだったので、体を摩ってあげる。
慣れ親しんだ、そう言ってしまえる、スナの冷たさ(ぬくもり)。懐かしい、あの情景が僕を奏でて。竜の領域に迷い込まないよう気を散らしていると、古い言葉の羅列に辿り着いた。
ーーそれに言葉は必要なかった。言葉は、色褪せるものだったから。終わらないことが幸せだった。そして、終わってしまったから。あなたは、言葉を必要としてしまった。
へっぽこ詩人が、晩周期に綴ったとされている言葉。まだ十六周期しか生きていない僕にはわからない心情。僕はスナのことを、竜のことを、もっと知らなければーーん?
んん? あー、うん、扉が開いている。閉まっていない、少しだけ開いている。
老師が閉め忘れた、その可能性はある。だが、あえて閉めなかった、とするほうが、自然であるような気がする。そして、スナの様子から察するにーー。まぁ、間違いであったとしても問題ないので、というか僕が恥ずかしいだけなので、やってみるとするか。
「シャレン。出て来ないと、エンさんに、有ること有ること漏洩してしまうやも」
有ること、だけで十分。まぁ、それを聞いたとして、エンさんの見習い魔法使いへの評価が変わるとは思えないが、当人にとっては重大事であったらしい、竜に踏まれそうになったギザマルのような勢いで執務室に飛び込んできた。そう、言葉通り、魔法を使ったのか、飛び込んできて、体勢を崩して、床に落っこちて、ごろごろごろごろ、べたん。
「ぅぷゅんっ……」「「…………」」
……周期頃の娘さんなのだから、もう少し女の子らしい振る舞いというものを身に付けて欲しいものだが。この点に関しては、大人っぽい振る舞いも、やろうと思えば出来る王様のほうが上なのだけど。迂闊さに於いては、炎竜と氷竜、といったところか。
「『飛翔』の習得中ですか? それとも『浮遊』を拗らせましたか?」
「いえ、ちょっと焦って爆発しただけなので、気にしないでください」
すっくと立ち上がって、服の埃を叩いて、何事もなかったような、おしゃまな女の子。いや、そんなことよりも、聞き捨てならないことが。
「それは、通過儀礼のようなものですわ。ーーシャレン、こっちに来るですわ」
「浮遊」だろうか、スナが体を回転させようとしたので、腕を緩める。半回転して止まったので、手を放そうとしたら手の甲を、むぎゅっと抓られたので、ご要望通りに、お腹に手を回して、ぎゅっとする。スナは「浮遊」を解いていないので、風竜を抱いているような心地になってしまう。って、風竜を抱き締めたことなんてないんだけど。
「レイさんーーですか?」「あら、わかるのですわ?」「はい。その、魔力が同じなので、じゃなくて、あの、匂いというか触れた感じというか……」「無理に説明しようとしなくても大丈夫ですわ。魔法や魔力に関して、それがわかるというなら、それで良いのですわ」
魔法には心象が重要。理解することが心象を崩すことに繋がるのなら、知る必要はない。と言える程に単純なものではないと思うのだが、無知に因る思い込みはーーと、これはさすがに言葉が悪いか。何かを得るということは何かを失うということ。何かを知るということは、知らなかったということを失うこと。知ることで、世界は色彩を変える。
僕は識っている。子供の頃の情景を、塗り重ねられた、今の世界を。って、不味い不味い、思惟の湖の奥深くまで潜ってしまいそうになった。はぁ、ほんと、気を付けないと。
おっかなびっくり、それでも好奇心が隠し切れないといった体でスナの前まで遣って来た少女は、竜の魅力に、いやさ、スナの優しさに染められてしまう。
シャレンの乱れた髪を、時の狭間に埋もれた宝物に触れるように、愛しげに、繊細に整える氷竜。後ろからでは愛娘の顔は見えないが、シャレンの表情が教えてくれる。
紫晶の瞳に映った、愛娘に惹かれそうになったので、目を閉じる。
「油断していたとはいえ、私に気付かれずに潜んでいたシャレンには、ご褒美をあげますわ」「……ご褒美、ですか?」「あの娘でも知らないこと。人間に限らず、事物は魔力を受け容れたのですわ。して魔力をどのように吸収し、排出しているか、知ってますわ?」「呼吸や皮膚から、自然に循環しているとーー、習いました」「それも、間違いではないのですわ。ですが、それでは足りない。ここまで言えばわかったと思いますが、シャレンの母親は、魔力の吸収と排出が上手くいっていないのですわ。生物にとって、それは命に係わること。先に、あの娘が上手く魔力を排出できず、意識を失いましたが、それは『魔素』のことを、その概念がなかったからですわ」「魔素? 魔の、素? 魔法の素? ということは、ん~と、……魔力を作るのに、必要なもの、ですか?」
魔素。先にコウさんとの会話でスナが言い淀んでいたが、このことだったらしい。
シャレンは上手く落とし込むことが出来ないでいるようだ。魔法使いにとって、魔力とは、疑義を差し挟む必要すらない、明確なもの。体の中の血のようなもの。傷ができれば、赤い血が流れる。それは当たり前のことで、単純なことで、そこを揺るがせてはならない。
「この世界は、通常よりも魔力が多いのですわ。そうと知っているならーー魔法を使うことが容易である故、基礎をなおざりにしてきた歴史があるのですわ。
魔力とは何か。薄皮を一枚剥ぐだけで、魔法は洗練されるというのに、魔法という深遠に、魔力という根源に迫ろうともしない人間には、辟易しますわ」
竜の知恵と呼ぶべき世界の神秘を披瀝する氷竜に、刹那、縋るような眼差しが、
「ーーあの、スナ様ぁひっ⁉」
スナから手を離して、僕の特性を利用して、シャレンの背後に。彼女の両目を掌で覆って、引き寄せる。女の子が現況を理解するまで待ってから、ゆっくりと言葉にする。
「シャレン。その先は言葉にしてはいけない。なぜ駄目なのか、それは自分で考えてみて」
「っ、あたしは馬鹿だから、わかりませんっ! お願いしますっ、教えてください!」
清々しいまでに素直で率直な表明だが、僕の信念ーーと呼べるほどではないが、それとは相容れないので、お互い様、ということで、がっつんこ。
「ゅぴぎっ⁈」「ん……、コウさんより硬い感じだね」
脳天に頭突きは効いたらしい。口火を切ろうとした直後の、ゆくりない衝撃に、邪竜に頭を撫でられたギザマルのような鳴き声をあげるシャレン。
「はぁ~。今回だけだよ」「ーーっ、……」
目隠しはそのままに、前置きをしてから、然く岐路に立たされていたことを説明する。ふわふわと浮いたままのスナがちょっと不機嫌そうなのが父性を刺激しまくっているが、シャレンの背中の感触を味わうことで我慢……ではなく、邪竜は振り返らない、と。
「もしシャレンが、僕の思っている通りの言葉を口にしていたなら、スナは、シャレンを助けてあげない。それは、今だけでなく、未来も。この先の、有り得るかもしれない助力を、氷竜の祝福を、今この場で、永遠に失うことになる」「……っ、ーー」「ここからは、本当に、教えてあげない。自分で考えて、自分の行く先を見詰めてみてーー」「ーーーー」
うぐ……、愛娘同様に、僕も甘い、のかな。最後に助言めいた言葉を零してしまった。然こそ言え、スナのは、甘さ、というより、慈愛としたほうが相応しいのかもしれない。当の氷竜は、自分にそのようなものがあったと心付いて、戸惑っているのだろうか。
考えていると、大人しくなったシャレンの手が持ち上がって、僕の手の甲に触れたので、目隠ししている手を離そうとしたら、指の辺りを、がしっ、と掴まれて、ぶんっ。
「スナ様っ! ごめんなさい‼」
決然たる態度で、燃え立つような紫晶の光芒が氷竜に突き刺さる。頭を下げるでもなく、謝罪の意思さえ含まれていないような、言葉とは裏腹の、ーー母親と同じく柔らかさが感じられるその眦は、炎竜の炎に似た猛りのようで、決闘に臨む戦士のようで。
指から肘にかけて痛んでしまった僕のことなど眼中にないようだ。シャレンの、只管に、一途に、自身に向けられる、洪水のような想いに。変わらず竜の微笑みで応えて、氷竜が揶揄するように尋ねると、少女は全身全霊で叩き付ける。
「あら、何故謝るのですわ?」「あたしが間違ってました! 母様を治すのは、あたしです! 誰でもない、あたし自身が誓ったことなんです。スナ様は、母様を治せるかもしれない。……でもっ、でもっ、あたしは拒絶しますっ! どうしてかは、全部は、本当は、わかっていないけど、それが駄目だってことは、わからなくちゃいけないんですっ!」
血を吐くように、ただただ言葉を胸の内から溢れさせる少女。
「千竜賛歌」のあと、魔法使いになると、母親を救うと誓った女の子ーーと、今気付いたのだが。スナは治癒術士として騒乱に参戦、ではなく、参加してくれた。あのときスナは、僕の為だと言っていたが、本当は違うのかもしれない。いや、僕を助ける、というのも理由の一つだろう。だが、それだけで氷竜は動いただろうか、愛娘の心に響いただろうか。氷竜の氷を溶かしたのは、人の最中に、一歩目を踏み出させたのはーー。
「ーー魔法は心象が重要。厄介なことに、人間はそこから逃れられないのですわ。シャレンの母親を治すのは、シャレン、あなたですわ。私でも、あの娘でもない。誰かに頼って、委ねてしまった瞬間、積み上げた、築き上げた心象は脆くも崩れ去りますわ。
父様に感謝なさい、ですわ。私は竜ですわ。人間ごときの病など、治してやる理由なんてないのですわ。でも、竜にも気紛れというものはありますわ」
言い訳するスナは可愛いな、などと思っていたら、僕の心などお見通しな愛娘に睨まれたので、頭を撫でる振りをして、氷眼のひゃっこい視線をシャレンに戻す。
「あの娘は十周期、持たせると言いましたが、それは命を繋ぐという意味でですわ。私が診たところ、五周期経った頃から魔力の乱れが大きくなりますわ。魔力の毒が、シャレンの母親を蝕みますわ。
ですので、シャレン、十周期などとまどろっこしいことは言わず、五周期で母親を救ってみせなさい。これ以上の痛苦を見過ごしてはならないのですわ。それを誓えるのなら、この偉大にして絢爛たる氷竜ヴァレイスナと盟約を結ぶことを許してあげますわ」
「ーー盟約、ですか?」
戦士の双眸が、スナの申し出で、王様で魔法使いな感じの(ぼくがしっているなかでいちばんこどもっぽい)女の子のように、くるりと表情が変わって、きょとんとしたものになる。
「明瞭にして、簡単なこと。五周期で治せなかったら、シャレンの母親を、私に供物として差し出すのですわ。喰らって、魔力に還元してやりますわ。引き換えに、人の身では届かない、魔力の深奥の、おこぼれを呉れてやるのですわ。ありがたく思うのですわ」
氷竜の心の内は如何ばかりか。到頭シャレンを直視できなくなって、ぷいっと横を向いてしまう。僕は、邪魔しないように、愛娘から手を放して、軽く押し出してやる。
「ーーひゃふ?」
僕の行動を予測していなかったのか、氷竜の、凍り付いたような、美しくも儚い、寂しげな瞳が向けられて。
「……ひゃぶっ⁉」
こちらも予想なんてしていなかったのだろう、シャレンに、手加減など一切なく、ぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅ~~とされて、珍しく本当に本気でおったまげているようだった。
「ひゃっ、なっ、なにしやがるですわ⁉ っ、わしを抱いて良いのーー」「くぅーっ、ぎゃーっ、スナさまっスナ様っすなサマっ、スナのさま様っ、ヴァレイスナ様~~っ‼」
喜びが爆発したらしいシャレンに可愛がられて(?)大変そうな愛娘の姿を、父親らしく暖かな眼差しで見守ることにする。
「ひっ⁉ すりすりっ、撫でるなですわ! 口を付け……ひゃぅ、舐めるなですわ⁈」
感情が行動に直結しているのだろうか。目を逸らしたら愛娘が可哀想な気がして、シャレンの愛情表現(?)の一部始終を見届ける。みーで慣れているとはいえ、竜にここまで出来るシャレンを褒めるべきだろうか。スナは竜なので、逃げようと思えば、いつでも逃げられると思うのだが。
「ひゃーっ! 噛むっ、噛みますわ! 牙おったてて、噛み付いてやりますわっ⁉」
こんなときでも、いや、こんなときだからこそ、人を傷付けないよう手加減をしてくれているスナに、感謝と愛情が湧いてくる。でも、クーさんを彷彿とさせる、正気を失っているようなシャレンの痴態に鑑みて、これ以上はやばそうだったので愛娘を救出する。
「で、シャレン。スナとは盟約を結ぶのかな?」
氷竜の万周期の寝床よりは温かい感じで、どっちらけになってしまったが、氷髪をふわふわさせて少女を威嚇する愛娘を宥めながら、氷竜が翻意しない内にと、シャレンを促す。
「っ、シャレン・ザグレイアの名に於いて、結んでくっ付けてがっちがちの、ひゃっこいな花開きな感じでお願いしますっ‼」
……これは、無理くり表明するよりも、一旦考えてから発言するように指導したほうがいいのだろうか。でも、これがシャレンの持ち味のような気もするし、出来ればエンさん水準でいいので失言がなくなってくれればいいのだが。
「……そこの爆娘。魔法紋を出すが良いですわ」
おめでとう、シャレン。スナに愛称を付けてもらえるなんて、とても名誉なことだよ。などと冗談を言ったら、愛娘がご機嫌斜め(かっちかち)になってしまうかもしれないので自重する。
「出したら、魔力を注ぎ込むですわ」
さすがのシャレンも自分の置かれた状況は理解したらしく、無言でスナの指示に従う。母親から譲られた、或いは継承したザグケルンとシースライアの二つの魔法紋を、首に掛けるには彼女はまだ幼過ぎるのか、腰に括り付けた布袋から取り出して、魔力を籠めんと集中する。シャレンの魔力を感じ取れるか試してみたが、う~む、やっぱり魔力を放出するだけでは無理か。コウさんの魔力は、僕に影響を及ぼすことが出来る。然あれば機能自体はあるということ。僕の内のもののことを考えるに、歯車さえ噛み合えば、何とかなりそうな気はするのだが、まぁ、元々魔力云々は「千竜王」の所為でもあるのだが。
終わったのだろうか、隠しているようだが、シャレンの顔に疲労の色が窺える。次いで、スナが魔法紋に手を翳すと、何かを引っ張り上げるような動作で、掌を天井に向ける。
圧力だろうか、純粋な竜の魔力の波動をわずかに知覚する。シャレンにとっては波濤のようなものだったのか、退いてはならぬと踏ん張って、必死の形相で耐えていた。スナの手が振り下ろされて、魔法紋に。ーーそれで終わり。シャレンが吹き飛ばされそうな感じになっていたから、たぶん、凄いことがあったのだろう。
コウさんが付与魔法か何かで強化したのだろう、執務室に変化はない。
「ここの爆娘……、面倒ですわね。シャレンの魔力に、私の魔力を、炎竜も尻尾を見せて逃げ出す、至大至重なる魔の極限、氷竜ヴァレイスナの加護を授けたのですわ」「「…………」」「……媒介ですわ。正触媒という認識でも良いですわ。これは、あの娘でも作り出せない、魔法具のようなもの。如何様に使うかは、シャレンが決めるのですっ、わ……」
少女の感謝を、今度は静かに、柔らかに受け止める。
一頻り、降り積もっては解ける、氷竜の冷たさ(ぬくもり)。シャレンの温かさ(ぬくもり)は、愛娘の心と魂にどう響いたのか。涙の跡を残して退出していった少女の面影を追うように、閉じられた扉を見続けているスナの前に、膝を突いて、額を肩口に当てる。
「シャレンを見ていて、嫉妬してしまった。久し振りに、スナに甘えたくなったから。僕がスナのものだってこと、思い出させて」「……本当に、厚かましい父様ですわ」
今は、甘えさせるより、甘えられたほうがいいだろう。
僕の頭を両手で抱える竜娘。スナの内に芽生え始めているもの。きっと、僕にとっては好ましいもの。でも、氷竜にとってはどうだろう。それが愛娘を苦しめることになったとして。僕はこの手を、離すことが出来るだろうか。畢生の想いであると、先に明言したばかりだというのに、もう迷ってしまっている。揺らいでしまっている。
この瞬間を、永遠のものにしてしまいたいのか、氷竜の魔力が冷たく、熱く渦巻く。三つ音の会議が始まる、ぎりぎりまで、僕らは答えのない、願いのようなものを探し続けた。
「はーう、みーちゃんのどくだんとへんけんとえっへんで、りゅーのくにのほーしんはけっするのだー!」
ぼやんっ、と飛び上がって、「飛翔」を使ったのか、椅子の上に静かに着地する。
まぁ、それでも行儀は悪いので、コウさんに叱ってもらいたいところだが。みーの言葉から自明のことだが、王様代理がいるので、風竜の間に王様はいません。老師の判断で、夕刻までの安静が必要とのこと。他に出席していないのは、毎度のシーソと、外せない用事がある補佐三名、それと老師の後ろ、竜魔法団の隊長たちである。あと、顔見せの為に、出席を願った方が一名、シアの隣に座っている。
「おぉ~、みー様の、何と神々しいことか!」「炎色の長布がゆらゆらと、愛らしさ余って可愛さ千倍なり‼」「竜の中の竜、もはや竜王と称するべきか」「いや、この場合、炎王のほうが良いのでは?」「であるなら、百竜様を竜王、みー様を炎王と称えたほうが」
拍手喝采水竜氷竜かと思いきや、議論を始めてしまう竜の国の枢要たち。
「はいはい。主に遊牧民の方々、席に戻ってください。文句を言う方は、あとで個人的に面談しましょう。ーーさて、老師、最初にしますか? 最後にしますか?」
竜の魅力に遣られた人々を強制的に散らしてから、枢要を招集した目的ーー議題、或いは報告等を行う予定の老師に尋ねる。ある意味、彼も王様代理ーーではみーと被るので、王様代行、とでもしておこうか、って、そんなことはどうでも良くて。まったく、王様は皆に迷惑をかけてーー、……はい、ごめんなさい、全部僕が悪いんです。翠緑王は体調不良で欠席ということになっているので、うん、あとでコウさんには誠心誠意謝っておこう。
「侍従長に求婚された翠緑王が体調を崩したので、私が此度の一件を代行いたします。重要事項を含んでいるので、最後で構わないよ」
ぷすっ。ぶすっ。さくっ。
飛んできた魔法剣が三本、僕をちょっぴり傷付けるが、本命はそれではない。魔法剣を無視して、魔力を纏っていないかもしれないカレンの、全力以外の何ものでもない一撃を、ひょいっと躱ずぅごぶっ⁉
「りゅうのばっこん!」「ぃぎっ⁈」
押された⁉ 蹴られた⁇ 竜にも角にもっ、あと尻尾にもっ、吹っ飛ぶ途中にあった魔法剣を抱えて、ごろごろごろごろ……。またぞろみーに花咲く大喝采が始まるが、王様の兄と姉に丁重に剣をお返ししてから、物理的に痛そうな黒曜の瞳を見ないようにしながら席に戻る。疚しいことがないのなら堂々としていればいいのだが、「やわらかいところ」対策のことは言えないので、そう、王様の沽券を守る為にも、媚び諂うように……ではなくて。ふむ、こんなとき尻尾があれば便利なのに、とか思ってしまった僕は現実逃避をしているのだろうか。はぁ、然なきだに無駄が多いのだから、さっさと進めてしまおう。
「了解しました。それでは、何かある方は挙手をお願いします。みー様、指名をお願い致します」「「「「「っ!」」」」」「「「「「っ⁉」」」」」「「「「「っ⁈」」」」」「「「「「っ‼」」」」」「「「「「っ⁇」」」」」
僕の言い方も悪かったのだが、この挙って手を挙げる大人気ない皆さまをどうしたものか。あ~、はいはい、そこ、両手を挙げない、ああっ、そっちの仔竜が好き過ぎる人たち、立ち上がらないで、って、近付こうとしないでください!
「みー様に指名されたのに、まともな用件なり案件なりじゃなかったら、職務怠慢で地下送りにしてしまうかもしれません」「「「「「…………」」」」」
はい、素直でよろしい。手を下ろさなかったのは四人。遊牧民の長老であり、竜官でもあるカノンさんが挙手したままだが、真剣な表情から……たぶん、本当に何かあるようだ。
「それでは、みー様。ご指名をお願い致します」
全員の話を聞くつもりなので、詮ずるところ順番に意味はないのだが、まぁ、これも気分の問題ということで。みーに選ばれれば、やる気元気が漲るだろう。みーが居るだけで、暖かな雰囲気が漂っているので、多少騒がしいくらいが丁度良い。
「さーう、ん~、む~、~っ、じゃー、まほまほっ!」
腕を拱いて、むぐっむぐっと左右に二回首を振ってから、びしっとまほまほ、もといダニステイルの纏め役を指差した。一瞬怯んだ纏め役ーーではなく、まほまほに、嫉妬やら疑問やら殺意やら、何やら様々なものが乗せられた、すべての枢要の視線が向けられる。
「魔法団団長の意向によりまして、みー様の魔法の師範を仰せ付かりました」
さすがまほまほ、必要な情報だけを提示する。未だみーに愛称や渾名で呼んでもらえない僕は、恨めしいというか羨ましいというか、そんなとげとげしたものを感じながらも、彼は何も悪くないので、言葉にし難いだろう事情説明を引き受ける。
「皆さまも、すでにご存知だとは思いますが。その道に優れた人間が、必ずしも優れた師になるとは限りません。纏め役には、魔法の基礎の部分をーー主に魔力操作に重点を置いてーー」「まほまほ、とはやはりあれか、ふたふたの」「でしょうな。これまで言葉を重ねた愛称はフラン姉妹だけでしたが……、何と羨ましい」「ふむ、我もよりよき名で呼んで頂けるよう、精進せねば」「くっ、何という増長! お主もまた、珍らかな変化系ではないか!」「そうじゃそうじゃ、わし等だって、みー様に呼んで頂きたいんじゃ~っ」
……皆さん、僕の取り成しには興味がないようです。中断されたまほまほには悪いが、適時に紹介してしまおう。二十前半の細身の若者に視線をやって、立ち上がるよう促す。
「丁度良いので、紹介してしまいましょう。彼は、『探訪』の執筆者ーーいえ、探訪者としておきましょうか」「『探訪』とは、掲示板などに貼ってある、あの?」「ええ、あの催し物やお役立ち情報など、他に各地で回覧している冊子などの作成も彼の仕事です」
まだ「探訪」という正式名は広まっていないので、オルエルさんの確認に頷く。
「あ、初めまして、パーシェス・ラタトスクです。靴職人として働いていたんですが、余暇に趣味でやっていた情報集めが、侍従長の目に留まりまして。二巡り前から正式に雇っていただいて、日夜、竜の国の様々なことを探し回っています。よろしくお願いします」
このような場には慣れていないのだろう、多少早口で捲し立てる。気弱な印象だが、「探訪」と銘打った冊子を読んだことがある者なら、彼が見た目通りの、善良そうな若者でないことを知っている。彼を雇い入れた理由の一つは、野放しにしては危険だと判断したからである。偏執、と言っていいくらいの、情報収集への飽くなき欲望、もとい情熱。ときに、僕の悪評を面白おかしく広めて……いや、それだけじゃもちろんないんですけど。
「さて、まほまほ、ですが、皆さんの仰るように、スーラカイアの双子である、ふたふた以来の快挙と言えるでしょう。因みに、変化系であるデア殿の『でゃー』は、他には確認されておらず、これは恐らく、初対面時に於ける、印象に因っているのではないかと」
椅子の下に置いてある鞄から紙束を取り出すと、目に怪しい光を漂わせて卑陋な、ではなく、自説を披露するラタトスクさん。すると、彼の上役に当たるシアが立ち上がって、
「ラタトスクさんの紹介の序でに、報告いたします。以前から、みー様のお言葉におかしな傾向が見られて、良くない影響を及ぼしている者が居ると思われていたのですがーー」
ラタトスクさんを抑えるのを奇貨として、先に報告を終えてしまう腹積もりらしい。朝のことといい、着実に成長しているシア……って、何で皆さん、僕を見ているんですか。
「侍従長以外で、一人、該当する人物が浮かび上がってきました。未だ、確定には至っていませんが、その人物は、みー様から『みゃー』と呼ばれているようです」
みゃー、とはまた、可愛らしい呼び名である。然あれど、当該者はごついおっさんかもしれないので、猫のような愛嬌のある人物を連想するのは控えておこう。
「ーー、……ぅゅ」
皆の視線が自然とみーに集まるが、弱火、ではなく、鎮火中、じゃなくて、おねんねの真っ最中。ーー失敗した。今日は、コウさんの膝の上ではないし、適度にみーを話題に絡めて興味を持たせつつ、発言を求める必要があったのだが。円卓に顎を乗せて、すやすやである。七祝福の一つである「竜の寝顔」が、幸せの風を運んで、いやさ、もはやこれは、同「百味の風」とはまた違う「仔竜の夢風」とか「幸炎竜風」とか呼んでも差し支えないのではないかとーーごふんっごふんっ、いや、失敬。
「竜の都を探索していて、嘗ての親方から情報を得ました。あるとき、みー様が高い建物の屋根に下りられましたが、それ以後、飛び立つ姿は見られなかったそうです。それから数日後、みー様が森に行かれるのを見て、心配になった親方以下職人たちは、みー様を捜しに森に入りました。そこで、森の奥から、みー様の『みゃー』と誰かを呼ぶ声が聞こえたそうですが、声の発生源に近付いてみると、誰もいなかったそうです。そこそこの魔力感知ができる者がいたそうですが、どうやら『結界』を使っていたのではないかと」
魔法使いーーかもしれない、と。エルタスのことを思い出したのだろう、幾つか推論が述べられるが、情報の少なさとみーへの配慮から断定には至らない。
纏め役、いや、呼び易いので内心ではまほまほと呼ぶことに決定。またぞろまほまほには悪いが、この一件に託けて、用件を伝えてしまうことにする。
「みゃー、という怪しいかもしれない人物の他に、同じく正体の知れない、若い男が二人、竜の都に居ることがわかっています。直近の危険性ということでは、こちらへの対処を優先させたほうがいいでしょう。魔法量に於いては老師以上、勘の鋭さはエンさん以上と、レイは推量したようです。とはいえ、別に悪事を働いたわけでもないので、先ずは竜騎士と近衛隊で情報を共有して、ーーあとは、エーリアさん、お願いします」
円卓の、末席に位置する場所に座っている若き竜官に振る。彼も手を挙げていた一人で、そういう流れで、またまた申し訳ないが、まほまほを先送り、ではなく後回しで。
「先程、回報の話が出ましたが、地区の代表者やそれぞれの役割を持った者など、地域の結び付きを強化、推進いたしました。それにより、情報の伝達の速度も精度も上がりました。竜騎士と近衛だけで網羅するには、グリングロウ国は広過ぎます。国の体裁を整える一環として行ってまいりましたが、シア様とラタトスク殿を中心とした体系が成ったことを、ここにご報告させていただきます」
才気煥発という言葉がこれほど似合う人もいないだろう。その物腰、振る舞いは完璧だった。兄さんよりも野心が表に出るエーリアさんは、それも活用して演技しているようだ。枢要から、口々に感嘆の声が上がる。彼らも尽力したのだろう、エーリアさんの後ろの、補佐の二人も誇らしげである。侍従次長との関係が悩みの種である僕とは雲泥の差である。
「ふむ、それでは我の番ですかな。炎竜祭について、ご報告申し上げる」
あ、どうやら素で忘れられてしまったらしい、これでまほまほは最後に決定。カノンさんの穏やかな眼差しがゆくりなく、ぐぐぐっと一点に集中する。
「みー様っ、我は、グラ・カノンと申す者、カノン一族の大地のグラ、グラ・カノンで御座いっ、我の名を呼んでいただけるなら、もはやこの世に思い残すことーー」「長老っ!」「血迷いなさったか! カノンの名で呼ばれたなら、一族から排斥されかねぬぞ!」「むぅ、ではグラで、それなら問題なかろう!」「これには機と運がある。皆、落ち着かれよ」
あ、デアさんが炎竜に氷をぶつけた。いや、水竜を背負わせた、のほうがいいだろうか。竜にも角にも、遊牧民一同の殺伐とした眼光がデアさんにーー向かわなかった。
「……ゃぅ、ーーぅ」「「「っ⁉」」」
一旦目が明いた仔竜は、再び夢の世界へと旅立って、男共を地の国へと叩き落とす。
「遊牧民の方々が行っていた炎竜祭を、竜の国でも行おうと計画中です。収穫祭と併せたものとなるので、寒期の前を予定。炎竜様と古炎竜と仔炎竜様、それと作物への感謝を捧げる、大掛かりな儀式や仕掛けのようなものもあるとか」「……ですのじゃ」
打ちひしがれたカノンさんが同じてくれたので、やっとこまほまほの番である。言い難いことだったのか、最後に回されても機嫌を損ねた様子は見られない。まぁ、ダニステイルの良心、と僕が勝手に呼んでいる彼なら、この程度で悪感情を抱くことはないだろう。
「ダニステイルの民も、暗黒竜にて穏やかな日々の暮らしを享受しております。就きましては審査を経た者に、暗黒竜より外出の許可を与えました。竜の都や竜地で魔法使いや魔法使い風の格好をした者を見受けることになりますが、適宜の魔法使用の他は禁じております。よしなにお願い致します」「魔法使い風、と仰ったが、何か意味があるのですかな?」「若者の間での、流行といったところです。ご存知の通り、魔法使いは、一言で言ってしまえば、地味です。魔法使いとしての様相を崩さず、見栄えの良い服装を、ということですが、ーーこれも時代の流れなのでしょうか」
まだ三十路ほどだというのに、労苦を重ねているのだろうか、憂う姿が様になっている。自然な振る舞いが絵になるクーさんやザーツネルさんを羨ましく思ったことはあるが、彼の有様からは汲み取って留意すべき、教訓めいたものを感受してしまう。
寂れた風がまほまほから吹いてくるので、容姿からして胡散臭い老師に吹き払ってもらうことにしよう。然てこそコウさんと老師で内密に進めてきた、本題である。
「……、……ぉ」「それでは老師、お願いします」
コウさんに撫で撫でしてもらっている夢でも見ているのだろうか、円卓にすりすりしているみーから目が離せなくなるが、断腸の思いで……、いや、さすがにそれは言い過ぎだが、それなりに心血を注いで仔竜への視線を剥ぎ取る。然し、何たる炎竜氷竜、枢要の半分ほどの目ん玉は、みーにがっちり固定中。地竜でも動かない、といった風情である。
「枢要各位には、七つ音に再度参集していただきますが、強制ではありません。爾今は箝口令を敷くことになるので、それを良しとしない方、或いは口が軽い、軽佻浮薄との自覚のある方は、仕事に戻られて結構です」「ひぅぐっ……」
然のみやは老師の厳しい言辞に、……カノンさんとデアさん以外の枢要の注目が見目麗しい魔法使いに集まる。そして、情けない声を漏らしたのが誰かは、言を俟たない。
「エルネアの剣隊は全員不参加だな」「くっ、オルエル! この筆頭竜官めっ、事実っぽい言葉は、ときに人を傷付けるんだぞ!」「そうだ! 俺は自分が馬鹿だと知ってるから、隊長と一緒の扱いは止めてもらおう!」「面倒だ。竜騎士の参加は隊長三人にするか」「ぶーぶー、おーぼーだー、いじめ、良くない! 雷竜様も吃驚だーっ!」「一人、一発」
オルエルさんの言葉に即座に反応したのは、ギルースさんの腹心、エルネアの剣隊最強との呼び声が高い副隊長。雄偉な体躯を撓らせて、どかんっ。ぐげっ、とか言って吹き飛んだ隊長の背中を、炎竜隊の隊長であるサシスが前蹴りで、どごっ。
然なめり、友情という名の制裁は続いて。仲間外れは嫌なのか、フィヨルさんまでお尻を、ずごっ。竜騎士四隊、隊長に補佐で十一人、もとい十二人(駆け付けた団長含む)から肉体言語的な祝福を受けて、めでたく天の国へと旅立ちました。
「気絶したギルースさんは副ーー」「ところがどっこいっ、隊長さんは生きていたー‼」
治癒魔法を行使しているらしいギルースさんが現世に迷い出る、もとい舞い戻る。何とはなしに円卓の椅子に座った怪我人の隊長は何処吹く風竜。退出する気はないようである。
「ーー七つ音、炎竜の間にて、重要な来訪者を枢要で迎えます。然る後、最後の交渉、若しくは意思確認となりますが、お客の案内をそれなりの地位の者に、ーーオルエル殿にお任せしたい」「それは……構いませんが、宰相や団長でない理由をお聞きしても?」「エンとクーでは、来訪者に闘いを挑んでしまうかもしれないのでーー」「うしっ、じゃー、俺が客迎えんーー」「クー」「はい」「ぃひぎっ⁉」「うあ……、手加減無しですか……」
いつもの折檻ではなく、まともな魔法攻撃であったらしい。たぶん、老師に命令されたので、ただ遣り過ぎただけだとは思うのだが、こちらも絶賛治癒魔法中の団長は、寒さの為か、がたがた震えていた。これにより、この一件の重要度が皆に伝わって、一同沈黙。
「では、全員参加ということで決定ですね。気が変わって欠席するという方は、事前に申し出てください。ーー竜にも角にも、老師、そのお客様は、強いんですか?」「ん? そうだね、どれくらい強いのかはわからない。然し、弱いはずはない」「そうですか……」
散会ということで、エンさんが暖めて、クーさんが冷やした微妙な空気を引き摺ったまま、皆思い思いに風竜の間から退出してゆく。
老師は、全容を明らかにしなかった。箝口令を敷いた上で尚慎重を期す必要があると。
「ーー、……っ」
うぐぁあ、クーさんの魔法は僕には効かなかったのに、寒いっ、冷や汗と悪寒で、凍えてしまいそうです。スナの冷たさは心地良いだけなのに、この冷たさは心の内まで浸透して、えも言われぬ、ぴきぴき具合。って、いまいち表現し難い、この、何と言うか、気持ち悪さは、くぅっ、どうにかならないものか。
ーーアラン・クール・ストーフグレフ。
ストーフグレフ王。大陸中央の覇者。みー曰く、「へんなやつ」。
……考えないように、考えないように、などと思っていたら、彼の王の存在感が大き過ぎたのか、あっさり僕の頭の中を蹂躙する偉大なる王様。というか、二度も同じことを言ってしまった。つまりは、それくらい動揺しているということか、と自己分析を行って、色々なものを誤魔化してしまおうとするが、敢え無く失敗。
老師の話に、符合する人物が一人しか思い浮かばない。それなら事前に僕にーー、いや、然もありなん、老師は僕がやらかしてしまったことを知らない、はず。ストーフグレフ王に、無礼極まりない手紙を送ったことなど……。いや、あれは手紙ですらない、ただの書き殴っただけのーー、うごぉあぁ……。炎竜氷竜を心象、心身の回復を図るが、上手くいくはずもなく。もう、いっその事、風竜雷竜水竜地竜闇竜光竜なんでもござれそうござれってことで竜に埋もれてみると、不思議とほんわかしてくる自分がちょっと恥ずかしい。
「ぅ……、……ゅ」「「「「天、竜、地っ」」」」「ふっ、我の勝利なり!」「「「~っ!」」」
竜拳で勝利したデアさんが、みーが起きるまでの見守り役に決定したらしい。
然ても、どうしたものかと思うが、今は彼らに拘う余裕はない。ーー成る丈対策はしておくかな。溜め息に色んなものを詰め込んで、ゆっくりと吐き出す。然てしも有らず人が少なくなって寒々しさを感じる風竜の間から、そそくさと退散するのだった。
風竜の間から心持ち早足で通路に出ると、エーリアさんが居た。僕を待っていた、という風情ではなく、その顔には怪訝な、実見するに敵を射竦めるような鋭さがあった。
見ると、殺意さえ窺える彼の双眸の先には、見知った、というか、ただの知己、というか。あ、今僕に気付いたのに、知らん振りして立ち去ろうとしている。
「暫しっ! お待ちいただきたい!」
見た目だけならエーリアさんと同周期の男が背中を見せた瞬間、詰問するような調子で呼び掛ける。半瞬の停滞、そして、ちらりと見えた、これは紛う方なきーー。
三歩、出遅れたが、すぐさま駆け出したエーリアさんを追う。
エーリアさんの声に、冒険者組合の職員の制服を着た男が嫌そうに振り返って、僕らを見遣る。三十歳を超えている童顔の雷守、僕に恩義がある故、頭の上がらないコル・ファタが、現況がわかっているのだろうか、いつもの胡散臭い笑みを貼り付けた顔で僕らを待ち受けている。魔法か、剣を抜くのではないかと警戒していたが、相手を逃がさぬことに全神経を傾けていたのか、全力疾走のエーリアさんは、ファタの直前で急停止。
炎竜の如き猛々しさを宿したものの、すべてを焦がし尽くしたのだろうか、穏やかとさえ言える声音でファタに問い掛ける。
「初めましてーーではありませんね。過日、鼻っ柱を圧し折られまして、ーー適性がないのか治癒魔法は使えないので、苦労いたしました」「ああ、あのときの若者ですか。うっかり手が鼻に当たってしまい、鼻血が出たようですが、問題ないようで何よりです。大丈夫です。あのときの、あなたの無礼な振る舞いによる一連の、よろしくない記憶は、暗竜に食べさせてしまったので、咎め立てするつもりはありません」「…………」
ファタの表情から悪意は窺えないが、随分と際どい会話をするものである。慇懃無礼に、尻尾を見せているようで、捕まえさせる気はなく、どこまでわかっているのか、平然と立場を入れ替えている。いや、それはファタが暴漢であったとするならばーーだが。
「それでは、失礼いたします」「…………」
ファタの姿が通路の先に消えるまで、身動ぎせず見詰め続けるエーリアさん。
「マギルカラナーダ」を解き明かす旅の途上で、疲れ果て、有り金を奪われ、捨て置かれた。握り締められる両の拳が、彼の真情を伝えている。
「……リシェ君、彼は?」「コル・ファタ。元冒険者組合の幹部、氷焔の担当。組合のお金を横領したので、竜の国の保証で身柄を預かり、現在は竜地の雷竜で雷守の任に就いています」「ーー失敗した、かな。ちょっと、直裁的に過ぎたか」「ん~、そうですね、ファタを犯人であると断じて脅迫、余罪を捏造して、一部だけでも認めさせたほうが良かったかもしれませんね」「……あー、その、リシェ君。先達として前々から言おうと思っていたのだけれど。竜の国の侍従長という役に染まり過ぎていないか? 嘘が必要なときはある。だが、嘘を前提に物事を成り立たせてしまっては、嘘に慣れ過ぎてしまってはーー」
ーーリシェは嘘を吐くとき、まるで罪悪感がないんだね。
エーリアさんの姿に、逢ったばかりの兄さんのーー。どっ、と背中に壁が当たって、いや、正確には僕がふらついて、って、あれ? 記憶が、底無しの沼に嵌まったような……。
「リシェ殿っ!」「……ん?」
気付けば、倒れかけた僕をザーツネルさんが支えてくれていた。
「ーーふぅ、侍従長、また、なのかな?」「あはは……、また、の部分を強調しないでください。僕はいつも、振り回されているだけなんですから」「「…………」」
いや、二人とも、あっかんりゅうをした邪竜を見るような、そんな目を向けなくても、多少は、些少は、ほんの少しは、僕が原因の騒動があったかもしれないことを認めることに吝かではないというか、あー、いやいや、今は僕の行状を論っている場合ではない。
「忘れていたわけではありませんが、思い出したことがあります。聞いて貰えますか?」
竜にも角にも、ザーツネルさんの手を借りて立ち上がって、でも、まだ頭が濁っているので、壁に背中を預ける。すると、周期が上の二人の、何やらよくわからない遣り取り。
「竜官殿。目の前に居たのに間に合わないとは、少々体が鈍っているのでは?」
「いやさ、副隊長殿。副隊長殿が駆け寄る姿が見えたので、譲ったまでのこと」
睨み合っているわけではないが、炎竜氷竜な雰囲気を醸している御二人。
「二人とも、僕の特性のことは知っていますよね。今朝のことですが、炎竜と氷竜から、僕の内に『千竜王』なるものが在ると知らされました」「「……、ーー」」
二人の興味がこちらに向いたので、話を続ける。
「僕は幼い頃、一風変わった性向でした。これまで、それに疑問を抱くことはなかったのですが、『千竜王』のことを知った所為でしょうか、過去の、気にならなかった部分に、意識が向くようになりました。僕は、幼い時分、『千竜王』の差し響きを大きく受けていました。僕でありながら僕でない、そんな夢のような情景。そんな掠れたような僕を、見つけ出してくれたのは、引っ張り上げてくれたのは、兄さんなんです」
記憶が繋がってゆく。僕という存在が薄れるほどに、明確になってゆく。
「思い出した、というのも変ですが、やっぱり、思い出した、というのが適当なんでしょう。出逢った頃の兄さんは、酷く冷たい目をしていました。たぶん、僕に興味などなかったでしょう。でも、『千竜王』と僕に気付いてから、……どうやったのかは見当も付きませんが、僕が僕になって……、『千竜王』のことを自覚することがなくなっていきました」
冷える、冷える、冷える……、兄さんの冷たい目、ただの興味だけで僕を見る、氷竜の冷たさとは違った、底無しの、暗く、どこまでも落ちていくようなーー。
「リシェ君! これだけは断言する! 君のいない場所でも、ニーウと長く過ごしたから知っている。ニーウの、君に向けた愛情は、本物だ。友情では勝てないと、嫉妬した僕が言うのだから、本当だ! ニーウは君を変えた、そして、ニーウを変えたのも君なんだ。そこに偽りなどない、今に繋がるもので、肯定してしまって良いんだ!」
がっと両肩を掴まれる。炎竜の息吹のような熱い言葉がぶつけられる。最後はもう、エーリアさん自身、何を言っているのかわかっていないかもしれない。だけど、十分。吹き払ってくれる。然てまた溢れる。兄さんとの、冷たさを押し遣る暖かな記憶が。
然う、あれも兄さんで、忌避する必要などない、本当の兄さんの姿なのだ。色は塗り重ねられる。本当に美しいものは、綺麗なものだけでは作れない。いや、見目良く、着飾らせても意味はない。僕と兄さんの間にあるものは、そんなものじゃない。
「ーーありがとうございます、エーリアさん」「うっ、ああ、落ち着いたようだね……」
素直に感謝すると、自身の言行に忸怩たる思いがあったのか、すすすっと下がっていく若き竜官。嘗てエーリアさんは、怒りなどの感情を制御する必要がある、と言っていたが。
そういうところも好感が持てるので、ああ、きっと兄さんも同じように思って、彼を数少ない友人として認めていたのだろう。
然ても、照れ隠しだろうか、そっぽを向いて、誤魔化すように言葉を零すと。
「里に居た頃のニーウからすると、いまいち想像できないけれどね」「そうかな? 俺は昔、考えたことがある。もし自分が最強だったら、とかな。自分に勝てる奴なんて一人もいない。初めは愉快な気分になったものさ。だが、考え続けているとだ、すぐに詰まんなくなった。誰も勝てないってことは、自分と同じ場所に誰もいないってことだ。ははっ、どうやら俺は最強ってやつを楽しめない狭量な奴だったらしい。聞く限り、リシェ殿の兄は天才の、更に一握りなんだろう。世界が色褪せて見えてたって不思議じゃないだろうさ」
応じて、兄さんの少年時代を斟酌して、言外にエーリアさんを否定する黄金の秤隊の副隊長。ん? ……あれ? エーリアさんもザーツネルさんも、お互い若くして枢要の地位に就いているのだし、相性は良さそうなものだが。何だろう、百竜とスナ(ひゃっこい)が混ざって汗と冷や汗が同時に噴き出すような、この緊張感は。
「……、ーー」「ーー、……」「……?」
二人とも、にまっ、て感じで笑って、同時に背を向けて。記憶を整理する為に、もう少し話に付き合って欲しかったのだが。振り返ったほうが負け、みたいな勝負でもしているのだろうか、枢要の二人は、兄貴分たちは、すたすたと立ち去っていくのだった。
そのときまで忘れることにします。そう言って、すっかり忘れていられた僕も大概碌でもないが。そうだった、エーリアさんが言っていた、面接に遣って来るという二人。
侍従長の執務室に戻ると、カレンは資料の整理中。そして部屋の中央の長椅子に、青年と少年、というか、子供、とさえ言える周期の、シアやシーソと同周期の男の子が、若干以上に緊張した様子で座っていた。それに比して、青年のほうは落ち着いたものである。
優男、というか少し頼りない印象の、然し体はそれなりに鍛えてあるのか、力強さも感じるという、奇妙な魅力を持った青年。然しもやは見間違いではない。柔和な笑みを浮かべる好青年は、遊牧民だった。カノンさんやデアさんの衣装に比べると質素なもので、実際使っている生地が違うのだろう、とはいえこの様相は紛れもなくアディステルの民。
僕が長椅子に座ると、数枚の紙を持ったカレンが遣って来て、右側の椅子に腰掛ける。﨟長けた所作に、醸される気品。そこに居るだけで、カレンの席のほうが上座に見えてしまうから不思議ーーではないか。不思議、と言うなら、彼らの反応。カレンが近付くと、彼女に見蕩れたりあからさまに目を逸らしたり、といった行動を大抵の男たちは取るのだが、彼らはどちらでもなかった。
「風聞されている中にあるかもしれませんが、侍従という本来の役目以外も熟しているこの部署は、慢性的に人手不足です。余程のことがない限り、採用の運びとなるので、今日から働くという心積もりでお願いします」
少年を安心させる意図を込めて。それとこちらが本命だが、堅い物言いで二人の見識や才覚といったものを見極めるよう努める。特に少年。子供も労働力と見做される世相では、学ぶ機会が得られない子供のほうが多数を占める。悪名高き、と自分で言ってれば世話ないが、侍従長のところに来るくらいだから、相応のものはあると思うのだが。
身形にはあまり気を使っていないのだろうか、野性味を覚えるがシアと同じく目には知性の輝きがある。然し乍らより強い、シアとは異なる光も看守できる。服は、竜の国に移住した際に支給されたもの。となると、光竜の、竜の家の子供の一人なのかもしれない。
青年を見ると、即座に了解して、自己紹介を始める。
「お初にお目に掛かります。シス・イスと申します。採用の運び、とのことですが、是非に任じていただきたいので、胸襟を開かせていただきます」
第一声、前のめりの感が否めなかったので、確認がてら、或いは答え合わせの序でに、遠回竜……ではなく、はぐらかすことにする。ぐっ、朝から色々あったから、心身ともに疲れているのだろうか。今日はまだ、七つ音の召集に、重大な懸念もあるというのに。
「遊牧民の皆さんは、僕に対してささくれ立った気分になることが間々、往々? いえ、頻々(ひんぴん)とあるようなので、彼らのことを調べました。先ずは、ですが、シスさん、ではなく、イスさんと呼ぶのが正しいのですよね?」「呼び捨てで結構。と言いたいところですが、竜の国の流儀に則って自由にお呼びください。仰る通り、我らは、他の一族を、一族の姓で呼びます。一族の内では、名で呼び合います。何故かと言うと、仕来り、と言ってしまうのが簡単なのですが、基本的に他の一族と混じり合うことはなく、必要に応じて、というところでしょうか」「それでは、イスさんの一族の方が複数いた場合、他の一族の方は、どのようにされているのでしょう」「はい、次長。我らには、銘々(めいめい)に渾名のようなものが付けられます。例えば、私は、雷のイス、と他の一族から呼ばれます。私が生まれたとき、雷が落ちたことから付けられました。これは功績、または罪過などによって変わることがあります。イスの一族内では、私のことを『双雷』の字とする向きがあるようです」
カレンが手元の紙に目を落としてーー、ああ、そうか、エーリアさんが被面接者の資料を渡すと言っていたが、あれがそうなのか。顔を上げると、イスさんに質す。
「長老の候補、アディステルの戦士の候補を五名選出し、後継を決めるそうですが、イスさんは両方、選出されていますね。畢竟するに、これが双雷の謂われなのかしら」「そう、なります。イスの一族は弱小……ととっ、数が少ないので、過大な評価を受けています」「最大の一族は、カノン一族で、長老を多く輩出。デア一族は、数は少ないものの、多くの戦士を。有力一族は四つ、カノン、アタ、キヤス、テウ。ーーところで、イスさんは、遊牧民らしからぬ物言いをされていますが、それも志望した理由の一つなのでしょうか?」
うわぁ、遠慮なくぐいぐいいくなぁ。そういえば、カレンは部下を持ったことがなかったっけ。まさか気負っているわけではないだろうし、気に掛かることでもあるのかな。
「ふぅ~、……では、話させて頂きます。アディステルの民は、竜を信仰していますが、私は、あそこまで傾倒しているわけではありません。正直ーー、嫌なんですっ、無理なんです! 何であの人たちはあんななんですかっ! っ、と、失礼しました。それ故、私は子供の頃から、いつか一族を抜けて、見知らぬ国へ旅立とうと決めていました」
溜まりに溜まったものが激発し掛けたシスさんだが、既に理性の力で抑え込む。
「私には婚約者ーーではないのですが、周りも相手もそうなることを望んでいる、そんな幼馴染みの女性がいます」「結婚してしまえば旅立てない。然し、今以て実行に移していないということは、気の置けない相手だからでしょうか?」「彼女はーークルは、あっ、違います、その、宰相のことではなく、彼女の名は、クル・エスタで、幼い頃からクルと呼ぶよう言われていたので、ついうっかり……」「ーークル・エスタ。仄聞したところでは、クル様の、近衛隊の事務を担当。そちら方面が苦手な方が多い近衛隊の中では重宝、重用されているとか」「彼女は宰相に憧れたのではなく、共感したようなのです。意外でしたが、彼女は美人で気立てが良く、才知に優れ、料理は美味しいし編み物も得意、優しい笑顔が魅力的な女性なので、外に出て、それが知られるのは良いことです」
……聞いていると、何だか殴りたくなってくるような、って、いやいや、別に羨ましいわけではないですよ? 幼馴染みどころか友達さえいなかった僕の悲惨な子供時代……、いやさ、そうではなく。彼の言い様では、何だか惚気られた気分になってくるのだが。
「今は、竜の民なのですから、えっと、エスタさんを娶ったとしても問題ないのでは?」
ここは直接聞いたほうが早いだろうと判断して、正面から尋ねると、痛いところを突かれたという格好のシスさんは、搾り出すようにして、言葉を吐き出した。
「うっ、うぅ、その……、クルは、ーーデアさん並みなんです」「「…………」」「そうっ、あれさえ! あれさえなければっ! 彼女以上の女性なんていないかもしれないっ、でもでもでもでもでもっ、どうしても駄目なんです! 本能の部分で否定してくるんですっ!」
思ったよりも感情が豊かなようだ。炎竜を背負ったかと思うと、氷竜に抱き付かれて、
「……私は、普通の女性と結ばれたいのです。目立たなくても良い、ときどき笑い掛けてくれて、ーーそんな姿が可愛らしいと思えるような、穏やかな生活を望んでいるのです。その願望を成就する為、まことに非礼ながら、アディステルの民の天敵である侍従長を利用ーー、味方に付けるのが最良であると判断した次第です」
淡々と吐露してゆく。あー、うん、それについてはもはや何も言うまい。竜の国に裨益するのなら、大抵のことには目を瞑ろう。その代わり、別のことを尋ねよう。
「然し、よくあの方々が、天敵のところに来ることを許してくれましたね。『双雷』と呼ばれ、嘱望されているなら、尚の事生贄を差し出すような真似をするなんて」「そこは先ず、炎竜祭を俎上に載せました。侍従長の下で、炎竜祭の運営を担当するよう仕向けると。それと『竜の寝床計画』、『竜の安眠計画』に続き、『竜の逗留計画』が動いています。侍従長から信任を得ることで、彼らの悲願である『竜の移住計画』を実現できるかもしれないと、唆しました」「そういえば『竜の逗留計画』の稟議書が上がってきてましたっけ。今のところ実害はないので、この一件はイスさんにお任せします」「感謝いたします」
どっちらけ、ということはないが、空を飛ぶ地竜を見た気分である。然はあれ即戦力となってくれるだろうことは間違いないようだ。そして、僕らの会話の最中も、気を緩めることなく耳を傾けていた少年。それとなく気色を窺っていたが、幼馴染みのくだりで切歯扼腕、とまではいかないが、奥歯に力が入ったのを確認。同じくカレンも、イスさんが伴侶の理想像を語ったところで、思うところがあるのか惟るような仕草が見られた。まぁ、皆周期頃で若いし、多感であるのは当然。などと達観できる立場ではない。僕もスナ、みーや百竜、竜全般のことで悩んでいるので、人のことを言えた義理ではないのだけど。
「では、次は君の番だね。先ずは、自己紹介からお願いしようかな」
思惟の湖に潜りそうになったので、慌てて浮上して、風竜の加護を心象、少年の緊張が解けるよう柔らかな言葉使いを心掛ける。周期が下の子供たちに慕われることが無いのは、ここら辺に原因があるかもしれないので、練習の意味も込めてやってみる。
「俺はギザマルにまけたくない。だから、ここにきた」
自己紹介、というよりは、決意表明。その眼差しには、子供らしい純粋さと、凄惨なものを見せられてきたのだろうか、傷跡のような澱んだものが同居していた。
然ても、ギザマル、か。ギザマルとは、魔物との混血とも言われる害獣であり、嘗てのシアの名前である。少年が発した、ギザマル、がシアを指してのものであろうことは疑いないが。シアが王弟になった経緯を知らないイスさんが、少年の言葉にぎょっとする。確かに、彼からしたら意味不明だろう。
「姓は、捨てたのかしら、ガルーーという名も、渾名か偽名か、何かあるようね。シア様と同じく、クラバリッタの城街地出身。同様に、子供たちを率いていた。その数は、シア様たちの数倍の規模で、犠牲を厭わない強引な遣り方で大人たちの反感を買い、終には捕らえられますが、城街地に赴いた際に通り掛かったクル様によって事なきを得たようです」
クラバリッタに奉じていたボルンさんの弟子であったエーリアさんは、当然城街地のことも調べていたのだろう。大路で頼まれたそうだが、城街地で接触したことがあったのだろうか。竜にも角にも、カレンが先を読み上げようとして、口を閉ざして、由有り気な視線をガルに向ける。自分で言わなければ私が言いますよ(訳、ランル・リシェ)、ということらしい。観念したわけではないだろうが、少年の重たい口が開かれる。
「ーー親父は没落貴族で、俺に望みをかけた。物心ついたころから厳しく育てられたけど、酒ににげた親父は、身をもち崩して、城街地にきておっちんだ。すかんぴん親父とつながる名前なんていらない。でも、名前いがいに俺がもってるものはなかったから、ガルフィーリスの、ガルだけは残すことにした。ーー竜の国につれてこられて、穏やかにくらしてると、これまでのことが夢のように思えることがある。でも、ちがう、俺は独りだ。最後に失敗した俺から、皆離れた。あいつらは誰も俺をせめなかった。もとに戻りたいわけじゃない。じゃあ、どうしたいのかって考えた。そんで、きづいた。そうだった、俺は、ギザマルより強くならなきゃいけないんだって、あいつより上じゃないと、シーソ……っ!」
未熟で、いや、半熟と言っておこう、ぶっきら棒な口の利き方だが、この周期で自身を省みて、思いを口に出来るというのは、中々できることではない。見所はあるということか。言葉遣いから始まって、色々と矯正してやる必要はあるが、彼はすでに重要なものを身に付けている。となると、僕のようにならないよう涵養するのがいいだろうか。
「ん? シーソのような相棒が欲しかったということかな?」
僕が所見を述べると、当たったのだろうか、ガルの表情に安堵の色が広がる。
「……ランル・リシェ。どうしてあなたは、そう休眠期の竜のように感受性が眠りに就いているのですか。炎竜を見るより明らかでしょう、彼はシーソさんにーー」「次長。そこまでにしておきましょう。氷竜に見られるのは、ーーあなただって、お嫌でしょう?」
周期の差だろうか、これまでの立場が逆転して、イスさんに窘められる侍従次長。よくわからないが、複雑な感情を持て余しているらしい少女の黒曜の瞳が、あっちへ行ったりこっちへ言ったり、僕とがっちんこすると、何故だろう、凄い勢いで睨まれた。あれ? 僕が悪いのだろうか、それともらしくなく八つ当たりとかだろうか。
カレンが立ち上がって、びくっとする僕に一瞥もくれず、すたすたすた。また、然かと思えば、すたすたすたと戻ってきて、卓の上に冊子や紙の束を置く。見ると、これは先程カレンが整理していた資料だろうか、一番上の冊子は、名簿ーーのようだが。
「御二人の前にあるのは、ここで働くのに必要な手引書のようなものです。明日の始業時までに目を通しておいてください」「いつの間にこんなものをーー」「何を言っているのです。『必要になるかもしれない』と言っていたのは、ランル・リシェ、あなたでしょう。時間が空いているときに作ったものを、あなたが戻って来るまでの間に纏めておきました」
以前にも思ったけど、優秀過ぎる部下って怖いですね。
「そういうわけですので、翠緑宮に居室を用意しましょう。肩書きは、侍従ということになるけど、居室は一階になるのかな?」「侍従としての仕事以外のほうが多いので、そのほうが無難かと」「ではーー」「今日から働く、ということですので、手配などは自分たちで行っておきます。今日はこれで手一杯ですが、職員の方々に挨拶をしておきます」
僕が椅子に手を掛けると、逸早く資料を手に立ち上がって、苦笑いのイスさん。この資料の量は、カレンならどうということはないのだろうが、彼の手には余るようだ。イスさんに倣い、遅れて起立するガル。二人とも、色々事情はあるようだが、問題はない(僕らの部署が問題だらけなので)だろう。それでもまだ、カレンと同時に休みが取れるほどではないが、そう遠くない内に、それも可能になるかもしれない。
二人が退室して、そんなことを考えていたら、再びすたすたすた、すたすたすた。この度も、その歩みに、迷いは一切ない。あと二回、今日の内に戦ってしまうようだ。
「大丈夫です。仕事も序でに熟します」「…………」
そこは建前でもいいので、仕事の序でに、と言って欲しかった。
正直なことは美点ではあるが、いや、僕の薫陶を受けるとしても、こういうカレンらしい部分を失うのはもったいないか。
ぴしっ。
小気味良い音が響く。ファタを脅したときのようにカレンに頬を打たれたわけではなく、前回も負けたので、先手のカレンが地竜を動かした音である。
「ちょっと待ってね。執務室で作業できる分を持ってくるから」「私の分も頼みます」
戦略を練っているのだろうか、竜棋の盤を見詰めて、竜でも動かない、といった様子のカレンさん。真剣な彼女は、触れたら斬れそうで、ちょっと苦手なので、早々に追い詰めて、柔らかくしてあげるのが最適解か。
然てこそ定石破りに、炎竜から動かす。
「きぃぅ、……姑息な。ですが、以前までの私と同じだなどと、思わないことですっ」
言葉通り、カレンは粘りに粘って。どろどろどろん娘になって。侍従長の執務室に謎悲鳴が上がり続けて、良からぬ噂を撒き散らすことになるのだが、それはまた別の話である。