七章 東域と侍従長 前半
「フィン。もしかして、ゆっくり飛んでる?」「んーだー」「え? リンちゃんが首謀者?」「さらりと、罪を擦り付けられてしまいました」「ということは、共犯ではないってこと?」「形式美、というものがあることを知りました」
形式美、というよりお約束の類だと思うが、開き直って誤魔化そうと試みているリンの言行が、僕の心をむずむずと擽ってくるので、追及は止めて、追究に替えることにする。
「早く到着して待機しているよりも、時機良く駆け付けて、ではなく、飛び付けて……という言葉はないので、飛び込む? 踊り込む? ん……、翔け付ける……辺りが無難かな」「話が脱線しています」「はい。時機良く翔け付けて、無駄なく定番を成すことが、竜式美に適っているというわけですね」「せーかー」
うぐっ、造語の出来に関して、フィンから散々な評価をもらってしまった。氷竜は本心を隠すのが上手いので、僕に企みがばれたから罵倒も二倍増しになっているーーのかどうかは定かではない。見ると、リンのほうは問題ないようだ。始めはリンに合わせて丁寧な言葉遣いにしていたが、親しく接してみても地竜が機嫌を損ねるような様子は見られない。
「ーーーー」
然てしも有らず、小さいほうの疑問は解消したので、大きいほうの疑問に取り掛かるとしよう。ただ、その前に、夕暮れ時の、竜の景色を一望する。
「…………」
向かう先と、振り返った空が、混じり合っていても、一つとして同じ色彩はないのだと教えてくれる、いや、語り掛けてくれる、のほうが適切だろうか。沈みゆく太陽から目を逸らして、北に、これから氷竜と地竜に魂を捧げんとする、血と惨劇の予感に酔っているだろう湿地帯に目を向ける。
みーの寝顔。空の、染まり始めた曖昧な、優しい炎色は、刻一刻と、百の不貞腐れた顔に近付いていって……いや、ごめん、百。でも、もうちょっと、僕に笑顔を向けてくれても、罰は当たらないと思うんだけど。はぁ、それに百の笑顔は、純粋に僕だけに向けられている、というわけでもないので、「千竜王」に嫉妬するなんて事態にはなりたくないので、運命の綾は、竜のみぞ知る、ってことで。
「湿地帯ーーを含めた、周辺の魔力がおかしなことになっているんだけど、これはーー竜?」「湿地帯を囲うように、地竜モルゲルガス、地竜ゼーレインバス、……そして、地竜ユピフルクシュナーー」「可愛い感じの地竜の名前が、羨ましいんですか?」「大丈夫です。『千竜王』が、魂のすべてを懸けて、リン、という愛称を付けてくれたのですから、嫉妬などという感情を持ち合わせる理由など微塵も存在しません」
フィンと違って、素直でわかり易いリン。言葉が硬くなった後半の物言いが、答えを教えてくれる。角を曲げてしまった地竜ではなく、氷竜の竜頭にぽんっと手を当てて、「フィーの秘宝」改め「フィンの秘宝」が関係しているのだろうか、物知竜のフィンに尋ねる。
「フィンは、何か知っているかな?」「いーはー」「う…わ、フィン、ちょっと情報量…多過ぎ……」「『千竜王』、大丈夫でしょうか?」「ああ、うん。心配してくれてありがとう、リンちゃん」「……心配などしていません。機能に問題がないか尋ねただけです」
おっ、ちょこっとだけ頬が膨らんだ。ふぅ、どうしたものか、リンが益々可愛くなってきているのだが。うん、そうだ、そうしよう、然なり然ななり然なきだに、序でに然なめりも、ここは地竜が自身の変化に気付かないよう生暖かく見守るのが最適解だろう。
「ちょっと負荷が掛かっただけで、少し拾い損ねてしまったけど、問題はない、かな。それで、えっと、先ずは、というか、目的地に近付いたから、最後の質問になりそうだけど、この感覚と言うか感触はーー湿地帯にも竜が居るのかな?」「古竜の、水竜パルファスナルメディカ。恐らく、ですが、能力的にエタルキアに匹敵すると思います」「え? それって、フィンやリンちゃんより強いってこと?」「いーっまーっ」「ちょっ、まっ、ごめっ、謝るからっ! 味を占めて、情報量を増やすのは止めてっ!?」「東域の竜は、そこまで気にしていないようです。三王の時代までは、三つの地域に分かれていました。先に言いましたが、竜の名には、ただの名前以上の意味があります。それだけでなく、これは役割の違いと言ってーー」
リンが言葉を切る。ああ、見なくてもわかる。声は聞こえずとも、空気が震えた。命が軋む前触れだろうか、魔力まで変質の兆しを見せて。眼下に見ると、グラムブル国とムーセリン国の軍勢が、今まさに魂を散らさんと、槍を持った軽装歩兵同士の全力でのぶつかり合いがーーきりきりもみもみきゅーこーかー。いや、別にふざけているわけじゃないんだけど、これもまた事実というか世界の真理というか竜はお楽しみ中というか。
歩兵の後ろ、グラムブル国は騎兵を多く配置している。湿地帯では機動を殺がれるだろうに、何か策があるのだろうか、彼の国の騎兵からは、ドゥールナル卿の部隊に似た、精強な部隊が発する、畏怖の念を抱かせるような濃厚な気配が放たれていた。対するムーセリン国は、明らかに騎兵の突撃を警戒した陣形。こちらも何か策を用意しているのだろうか、槍衾といった有効な手段を採らずーーあれは魔法部隊だろうかーー一撃必殺の、竜撃に懸けているように見受けられるがーー。
「たーっいーっ!!」「ゲルブスリンクである!!」
と、呑気に状況分析をしていられるのもここまで。あー、これは結構、怪我人が出ただろうなぁ。フィンが配慮してくれているはずだから、死人は出てない、といいな。
ずっご~んっ、と定番が気に入ったらしい二竜は、前回よりも激しい着地。糅てて加えて、魔力放出も半端なく、……はっはっはっ、人間が塵のようだ! などと実際にそう思ったとしても、心の裡に留めておかなくてはならない言葉というものはあるもので。
「フィフォノ様とゲルブスリンク様の御前である! 代表者以下三名、疾く馳せ参じよ!」
便利竜のフィンが、僕の声を大きくしてくれたようだ、両軍合わせて、その勢五万余騎の将兵に叩き付けるように命じるが。竜と比べてあんまり威厳がない感じのーーと、自分で言っていて哀しくなってくるが、毎度の如く竜と一緒にいるので、それなりの補整は効くだろう。
「えー」
思わず声に出してしまったが、竜にも角にも、成り行きを見守ることにする。
「わかるだろう。そちらも合わせよ」
「事情は察するがな。然し、竜の勘気はすべて、其方が引き受けるが良い」
僕を越えて、というか、竜を越えて、両軍の交渉が纏まる。いや、そんな大層なものではなく、暗黙の了解なのか予定調和なのか、人数合わせが終わる。そう、以下三名、と言ったのに、グラムブル国は四名で遣って来たのだ。そして、事情、とやらを察したらしいムーセリン国も、一人足して、四名で駆け付けてくる。
様相や振る舞いからして、先に言葉を交わした二人は、王と見受けられる。グラムブル王の後ろには、騎兵を率いていたらしい三隊長。それぞれに、特徴的な全身鎧を纏っている。ムーセリン王は、将官一人と、文官二人を伴っている。竜の介入という只ならぬ事態に、武よりも智が必要と、優先させた結果なのだろう。
「竜の国の侍従長、ランル・リシェです。この度は二竜の要請により……」「それは良いが、先ず、やってもらわねばならぬことがある」「そうだな。守護竜様の位置が逆だ。これは由々しき事態である」「…………」
……それくらい我慢してください。と竜の傲慢さで押し通したいところではあるが、序でなのでリン、だけでなく、拗ねてしまうかもしれないので、フィンにもお願いする。
「フィフォノ様。ゲルブスリンク様。お願いいたします」「「「「「っ!?」」」」」
フィンの魔法だろうか、嘗てみーが竜の国の大広場で、ぐるりと一回転したときのような、いや、もっと速いだろうか、ゆっくりと瞬きしたら気付かないくらいの早業で、立ち位置が入れ替わった。フィンはグラムブル側に、リンはムーセリン側になる。
「ムーセリン国並びにグラムブル国の将兵に告げる。地竜ゲルブスリンクと氷竜フィフォノが仲裁を行います。代表者以外は、速やかに湿地帯より退きなさい」「へーんーっ!」
リンが宣言すると、応じてフィンは、翼を広げて、再度の魔力放出を行う。
偶々なのか空気を読んでくれたのか、リンは、及び、ではなく、並びに、を使ってくれる。二竜は守護竜となっていて、双方の守護竜が顕現しているのだから、それぞれの陣営に味方するよう振る舞ってくれたほうが面倒が少なくて済むだろう。
「守護竜様が! 我らの守護竜様が!」「ゲルブスリンク様……、何と威厳に満ちた御姿か……」「正に! 冷厳たる、との言葉が相応しきかな、フィフォノ様!」「そっ、そうだ! 我が家の家宝を守護竜様にお供えを……」「こらっ! 気持ちはわかるが、個人で守護竜様に接触するのは、法で禁じられているのを知っているだろう!」
撤退にはもうしばらく掛かりそうなので、本題に入る前に、間を持たす為に、序でに疑問解消の為にも、四方山話なのか四方竜話なのかに興じるとしよう。
「はは、両王が命じずとも、両軍とも自発的に撤退してくれるのですね」
「確かにな。反省しなくてはならないか。ゲルブスリンク様と縁があるとはいえ、寄り掛かり過ぎは、不徳の致すところ」
敬意と誇りを胸に、リンに一礼するムーセリン王ーーと臣下たち。切れ者。四十に届かないくらいの周期の、有能な官吏然とした王からは、油断ならない懐の深さが感じられる。彼の後ろに控える将官も、武人というよりは軍師といった体だ。
彼らの、地竜への忠誠ーーというのは違うか、感謝を含んだ愛慕は本物のようで。てっきりリンの、竜の名を、守護を、権勢の為に利用しているかと思っていたが、ムーセリン王の表情からは、嘘、ではなく、彼の竜との結び付きを物語る、確固たる自信が窺えた。う~ん? リンは五百周期以上、眠っていたので、それ以前に係わりがあったのだろうか。そうなると、聖語時代まで遡ることになるが。
「三名を随行したのは、騎馬隊の三将に謂われがあるのですか?」
「ああ、三魔将と謳われる故、一人残してゆくわけにもゆくまい」
初老の、柔和な顔だが、風格のあるグラムブル王。然し、フィンも嫌がりそうな、盛竜な(どでっかい)溜め息を吐いた王様は、その穏やかな笑顔を隠すように手を当てて。背後からのーー三魔将なる騎兵隊長たちの圧迫に屈したのか、渋々のじゅくじゅくな感じで手を振って、許可を出す。
「良い良い、もう好きにせよ」
温い空気だったが、一瞬、凍えるような緊張が走る。まさか、守護竜の眼前にある、この状況で仕掛けるつもりなのかーーと二竜の魔力を集めたところで。
「我ら!」「氷に聞こえし!」「三魔将!」
下馬して出張った三魔将は、かんっ、と槍のけら首を絡めるように打ち鳴らすと。
「西に東に!」「南に北に!」「序でに竜に!」
胸に手を当てながら、こっこっこっ、と器用に後ろに下がりながら地面を爪先で打つ。転と円を描いて、石突きで地竜を穿つが如く大地を突くと、跳び上がって、足の裏をーー同じく跳び上がった二人と片方ずつ、ぱんっ。器用なものでスプールを避けて、というか、全身鎧でよくもまぁ、そんな一糸乱れぬ挙動が出来るものである。
「いつでも参上!」「即参上!」「お呼びでなくても今参上!」
ああ、何だかもう語りたくないが、三魔将は、終末の獣もそっぽを向くくらいの勢いで、大詰め(フィナーレ)に向かって、かっかっかっかっかっ、と槍を乱打する。
「世界の!」「果てまで!」「三魔将!」
びしっ、と恰好良く(彼らの心象では)決める三魔将。……えー。いや、別に期待してたわけじゃないけど、最後はどんな言葉で締め括るのかと思ったら、ふぅ、ちょっとフィンとリン、この三魔将に息吹を浴びせちゃってください。
「左側。爪先での打ち鳴らしが、ずれていました。真ん中。足裏を合わせるとき、しっかりと膝が伸びていませんでした。ーー遣り直しなさい」「は?」「ほ?」「へ?」
どうやら三魔将は、息吹よりも恐ろしい、地竜の逆鱗に触れてしまったようである。
「聞こえなかったのですか。遣り直しなさい」「「「ふぁい!!」」」
静かな怒りを内包した、リンの魔力が直撃。息ぴったりの三魔将は、自国ではなく他国の守護竜だというのに、完全服従でさっそく準備完竜。
「我ら!」「氷に聞こえし!」「三魔将!」「声の高さと調子を合わせなさい」「「「ふぇい!!」」」「返事もずれています。気を抜かずに合わせなさい」「我ら!」「槍の打ち鳴らしの、力の配分があっていません」「「「ふぉい!!」」」
ーー、……っ。……、ーーっ。……っ。
まぁ、こんな状況なので、会話を続けることも出来ず、拷問、もとい厳格な地竜の指導を眺めていると、終に芸術監督の秋審、いやさ、竜審がーー。
「世界の!」「果てまで!」「三魔将!」「ーーーー」「「「…………」」」「ーーぎりぎりですが、合格としましょう」「「「っ!!」」」
地竜の御眼鏡に適った喜びに身を震わせながら、どった~ん、と倒れる三魔将。いや、ほんと、彼らは頑張った。全身鎧で三十回くらい、あの激しい動きを繰り返したのだから。
辺りが暗くなってきたので、フィンにお願いして「光球」を放ってもらう。フィンの魔法には、美しさがある、とリンが言っていたが、確かに熟練の、自然光に似た優しい光が僕たちを包み込んでくれている。
「ムーセリン王。その呆れるような、それでいて、哀しみが籠もった表情はーー。彼ら、三魔将の本性を知らなかったということでしょうか?」「おおっ!」「さすがは、なんとか国の侍従長!」「我らの本質を一見して見破るとは!」「……まだ息が整っていないんですから、三魔将の皆さん、無理しないほうがいいですよ」
精強な部隊ーーと看取したが、率いる隊長も、性格に難はあっても伊達や酔狂で務めているわけではないらしく、鍛え上げられた魔将の体力は、魔力を用いた際の竜騎士並みであるようだ。
「戦場でーー突撃を行う前に馬上で、三魔将は兵を鼓舞させる、儀式めいた名乗りを上げるのだが、ーーそれは畏怖を、畏敬を抱くほどの、戦場の華と言うべき、見事なものであった……」「すまぬ、と言うのは違うか。戦場での、こ奴らの名乗りと槍舞は、わしが施したものだ。人前では魔将を演じさせていたが、そろそろこ奴らが限界に達する故、好きに振る舞うことを許しはしたが。……まさか斯様に珍妙な槍舞を用意していようとは」
別々の理由から意気消沈する二王。地の国での仲裁は御免被りたいので、然もあれ、竜の魅力に期待するとしよう。
「フィフォノ様。ゲルブスリンク様。『人化』をお願いいたします」「なーこーっ」「わかりました」「…………」「「「「「っ!?」」」」」
ああ、更なる過剰演出が。フィンの魔法なのか魔力なのか、七色の光が左右対称のーーリンも協力したらしいーー幾何学的な牢獄を創り上げて、雛鳥が世界へ飛び立つように、祝福を奏でる氷竜と地竜。空へと還っていく七光の残滓を見た面々が、僕とは違った意味での溜め息を吐く。見届けると、三魔将以外も下馬して、それぞれの守護竜の前に片膝を突く。
「「「……っ」」」「と…に…っ」
まだ立ち上がれないのか、ずりずりと必死になって這い寄ってくる三魔将を見て、気色悪い、もとい気持ち悪さからだろうか、たじろぐフィン。
「おおっ!」「世界のすべては!」「氷竜様に……」「あー、フィフォノ様。彼らを、ぺしんっ、してください」「なーつー?」「……はい、それでいいので、お願いします」「「「っ!?」」」
ぺしんっ。ぺしんっ。ぺしんっ。
屈んだフィンは、感極まって暴走気味な三魔将を嫌そうに叩く(しゅくふくする)。手加減が少なかったので、ずぼっ、と泥濘んだ地面と熱烈な接吻をしてしまい、あれだと面頬の中に泥が入ってしまったかもしれない。守護竜に気を取られていたのか、僕の言行に面食らった二王だが、即座に立て直してーー問う暇もあらばこそ、彼らに背を向けて、厳然、という言葉さえ温く感じる、竜然たる事実を告げる。
「竜が飛来します。フィフォノ様、ゲルブスリンク様、彼らを護ってあげてください」「てーいー?」「ーー見えました。あれは、水竜パルファスナルメディカ」
ーー湿地帯の竜。ゆっくりと、呼吸一回分、半分を勘に任せて選択する。
「リンちゃん。地竜モルゲルガス、地竜ゼーレインバス、地竜ユピフルクシュナに、動かないように伝えてもらえるかな」
「この距離ならば、問題ないでしょう。『共鳴』を用いて、威圧します」
火急、いや、水急の折に、三魔将が立ち上がろうとして、
「良い。竜相手では、お主らでも、どうにもなるまいて。そのまま休んでおれ」
グラムブル王は、命じた後、フィンの背後に、いつでも手助けできる位置に立つ。たとえ護られる立場にあろうと、怯えて後ろに隠れる、などという行為は、王の矜持に懸けて、許されるものではないのだろう。
「其方らもだ。我を護るような、恥ずかしい真似をしてくれるな」
忠誠心故か、自然と体が動いてしまったらしい臣下を、ムーセリン王は笑顔で叱責する。こちらも、リンの背後で、威風堂々と空を見上げる。ふぅ、どうやら問題ないようだ。水竜の出方しだいによっては、彼らにまで気を回す余裕はなかったが。退避させるよりは、僕の後ろにいたほうが危険性は少ないーーはず。
「さすがは竜。速いーー」「「「「「…………」」」」」
闇に染まり掛けた空の、一部を削り取るかのように膨らんでいく気配に、竜影に、グラムブル王が複雑な感情の混じった声を発するが、応じる者は誰もなく。肉眼でも見えるようになった、優々たる、 窈窕たる偉容に、嘗て竜の国の大広場で本能を剥き出しにした炎竜に慄然としたーーあの、何もかもが奪われるかのような圧倒的な存在に、魔力に穿たれる。
「ーーっ」
これは、判断が付かない。戦意なのか「欲求」による影響なのか、一心竜乱に、僕なのか「千竜王」なのか、ああ、わかる、わかってしまう、パルファスナルメディカは、「千竜王」だけを見ている、求めている。理解した、その瞬間に、冷たいのに熱い、苦しい空気が体に纏わり付いた。……竜だ、竜なのに、何故僕は、魂を軋ませて、全身に汗など掻いているのか。
「う…わ……」
有り得ない巨躯が、高速で迫ってくる。巨大な建物が移動しているような、非現実的な、然し、現実以外の何物でもない、何より、あれは生命なのだ、生き物なのだ、意志を持って、目的を持って、行動している。ぐうぅ、思考が乱れているのがわかっているのに、呼吸が浅くなっているのが、余計に苦痛を増やしているのに、心が、魂が邪魔をする。スナたちと接して、慣れている、などと、勘違いしていた。見縊っていたわけじゃない。人種の中で、僕ほど竜のことをーーうぐっ、怖じ気付いている場合じゃない! これまでだって、どうにかしてきたじゃないか! 刹那。ひたり、と事実が這い寄る。然あらじ、僕自身が竜と戦ったことなんて……いや、ベルさんに操られたラカとナトラ様に向かっていった、あのときのような……、だから、そうじゃなくて……そうだ! フィンとリンが居てくれるんだから、立て直せ! 今までだって、どうにかしてきたじゃないか!
「ぃぎ……」
何かが違う。そう思ったら、空っぽのような、答えのようなものが降ってきて。ーースナが居ない、ラカも居ない、百も居なくて、……コウさんも居ない。……竜が居るのなら、竜が在るのなら、やらないなんて、出来ないなんて、そんなことあるはずないのに。「千竜王」に近付いたが故に、僕が浮かび上がってしまったのだろうか。本来の自分と、見逃していた弱さと、向き合うことになったのだろうか。わからない、思い知らされる、自らの存在の薄さに困惑する、心から何かが零れてゆく、ああ、あんな竜、僕にどうにか出来るわけ……。
「……っ!?」
感情、いや、存在が激発する(にえたぎる)。来た……、繋がっていた……、ガーナを取り込もうとした魔力が、喰らって、僕の内に在った魔力が、呼び寄せようとしている。ーー「千竜王」とは違う、この魔力を使えば、底なしの力を使えばーー、
「っ!!」
ふざけるな!! 僕はいったい何に頼ろうと、縋ろうとしたのか。魔力には善悪などないのかもしれない。……それでも、それでも! 繋がってしまった少年の、彼の想いを踏み躙ろうとした魔力を許容することなんて出来るはずがない!
「ーーっ」
僕を阻害する何もかも、すべてを振り切って。もはや恐れはない、竜だろうと平伏させてやるーーそんな衝動に身を委ねて、頑然として顔を上げるとーー、
ぽんっ。
……竜水が入った瓶から栓を抜くときのような、陽気で軽快な音がした。
「ーーはい?」「『せーんっりゅ~っ』ぶぎっ、ぼぎゃっ、でべっ、うびっ、だばっ、どべべっ、うぼぅげばどむぐぅがががっもにぺらどぶらっぷしゃ~~っっ」「…………」
……、ーー。ーー、……。……、ーーああ、うん、空前竜後な事態に、呆けている場合じゃなくて、でも、何か駄々洩れな、水竜だけに漏れ漏れの濡れ濡れなので、そうだ、事実だけを語るとしよう、そうしよう。
「ーーふぅ」
然う、全裸だった。みーでも襤褸を纏っていたのに、到頭現れてしまった(ゆめがげんじつになった?)。直前で「人化」した水竜は、全裸で、真っ裸で、生まれたままの生竜の姿で、って、竜なんだから何か違くて、リンの石玉が、涎を垂らしそうな、っていうか、唾液が飛んでた感じの水竜を、どごっ、どがっ、どごっ、どがっ、と容赦など山の向こうでこんにちはってことで、上空まで跳ね上げて。るーっかーっ!! と叫んだフィンの、全属性っぽい魔法が次々に炸裂して、氷山のこちらでもこんばんはってことで、どんっ、と地面に落ちた水竜は、うつ伏せだったので、仰向けでないのが残念とか微塵も思っていないので、ぷすぷすと焼けてるんだか魔力が漏れているんだかしてる、あー、何だっけ、然う然う、水竜さんでしたね、然てまたパルファスナルメディカの柔らかそうなお尻を凝視だか堪能だかする。
「…………」
……ごぷっ。ーーごめんなさい、嘘を吐きました。余りと言えば余りの出来事に、事実だけを語ることが出来ず、おかしな物言いをしてしまいました。
ああ、何だろう、僕の決意というか竜意のようなものを返して欲しい。水竜が、ぽんっ、とするまで、露呈してしまった僕の弱さと向き合って、克服したと思ったのに。何だか、純然とか決然とかした魂が、汚されてしまった気分である。
「三魔将の皆さん、外衣を買い取らせてもらえませんか?」「何と!」「失敬な!」「我らの誇り……」「『せーっ』ぶぽんっ」「大人しくしていなさい」「らーっもーっ」
がばっ。がっちん。かっちん。
三魔将の拒絶の言葉を、三竜が奪い去る。あー、何だかもう、しっちゃかめっちゃかである。竜に踏まれたギザマル状態だった水竜は、もぞもぞしたかと思うと、間欠泉のように立ち上がろうとして、首から下を地竜に石漬けにされる。更に氷竜が、水石竜を氷漬けにして水石氷竜、って、いや、わかり難いので、「フィリン漬け」とでもしておこうか。
んごーっ、んぎーっ、んがーっ。と「フィリン漬け」から抜け出そうとするパルファスナルメディカだが、石氷に取り込まれなかった長い水髪が、ぶんぶんと振られるだけだった。奮闘空しく、激流が、水溜まりみたいになって。瑞々しい、あどけない顔が、水分を失っていくように。ああ、どうしたものか、透き通るような水瞳が濁って、しょぼくれてしまっている。スナに似た大きさの角だが、氷竜より青味、というより水味ーーと造語を作りたくなるくらいの滑々の潤々で。みーほどではないが、反り返っているのは、水の抵抗を減らす為だろうか。
「~っ、ーっ、…っ」「…………」
僕に飛び込んでこようとした、先の勢いは何処へやら、じっと我慢する子供のような、いじらしい様子で、ちらりちらりとこちらを窺ってくる。何だか庇護欲を掻き立てられるが、まぁ、順序を間違えてはいけない。芽生えの季節の、小川の流れのような潤った花色の髪を撫でてあげたい、というか、撫で回して堪能したいところだが……げふんっげふんっ。脅威は去ったようなので、詮索は後、というか、ここは流れに任せるとしよう。
「それ、持ってゆくが良い」
僕の意図を察してくれたグラムブル王は、三魔将の外衣を手早く取り外すと、一枚を僕に、二枚を持って、地面にどかっと座る。何事かと思ったら、木箱をーーどうやら裁縫箱のようだ、随分と年季が入った道具を取り出して、外衣を縫い合わせてゆく。
「持ち歩いているのですか?」「完成するまで、竜の方々が退屈なさらぬよう、御慰みにグラムブルの恥を晒しましょう。ムーセリンの王よ、わしが何番目か知っておるか?」「当然だ。隣国の情勢を調べないなど有り得ない。二十八番目で、善くも王位を手にしたと感心するがな」「感心? 呆れ、の間違いであろう」
話しながら、手元はまったく狂っていない。裁縫箱よりも、二十八番目、という言葉のほうが想像を掻き立てるが、僕の予想通りなら、かなり凄惨なことになっただろうから、飛び立とうとする竜の翼は折り畳んでおこう。
「前王ーーわしの父、かもしれない王は、政略結婚ではあったが、王妃に一目惚れ。また王妃のほうも、そんな一途な父に絆されたのか、幸せ、という言葉が素足で逃げ出すほど、仲が良かったそうだ。魔法使いの『結界』を用いようと、出産に伴う危険性は、半分程度にしか減じないようだ。産後の肥立ちが悪く、王妃は亡くなり、待望の男児も、跡を追うように天の国へと旅立った。
王は悲嘆に暮れた。それを持て余したのか、紛らわす為だったのか、手当たり次第に手を出すようになっていった。幸い、と言っていいのか、無理やりに、ということはなかったようだ。氷の美貌と謳われていた王だった故、断られることのほうが少なかったようだ。病気をもらって死ぬまでに、三十五人の男子を遺した」
作業をすることで心安らぐのか、或いは追憶に揺れているのか、柔らかな口振りで語るグラムブル王。「フィリン漬け」がいつ解けてもいいように、パルファスナルメディカの石氷の上に、外衣を掛ける。
「王は、手近な者から口説いていった。確実に、王の子であると言えるのは、十番目までだった。王は終ぞ、新たな王妃を娶ることはなかった故、この十人で王位を巡って争うこととなった。
そして、全員、死んだ。貴族共が、それぞれの王子を擁立し、然し、国を乱れさせてはなるまいと、まだ周期浅い若者たちを、合意の下に、坩堝に投げ入れたのだ。
王族としての地位を失っていたーーというのは違うか、王族として認められなかった、残りの二十五人にお鉢が回ってくることになる。あとで知ったのだが、わしに関する資料が散逸していたようで、職人の弟子だったわしのところに貴族の使いっ走りが現れたのは、若い、だけでなく、幼い命まで、二十も散ってしまったあとだった。
若気の至り、というやつだ。使い走りの男をぶん殴って、貴族共が会合をやっている場所まで案内させてーー、あのときは夢中だった故、如何な放言をしたか覚えていないが。
……確実に、間違えてしまった。押し付けられてしまった。やってみたら、資質でもあったのか、上手くいってしまったが、明らかに人生を誤ってしまった。好きなことが出来ず、好きでもないことを四十周期も続けてしまった」
自らの人生を顧みて、背中が丸まっていくグラムブル王。然あれど、目を瞑って溜め息を吐いているのに、逆に針仕事は加速していった。王と職人、彼にとって、どちらが天職だったのだろう。侍従長なんかを遣っていなければ、僕は今頃、何をしていたのだろうーーと王の姿に、自らを重ねてしまったことに、罪悪感めいたものを感じていると。三魔将が口々に補足説明、なのかどうか、王の物語、或いは空想物語を語ってゆく。
「そういえば、その会合に出席していたという父から聞きましたぞ。『三十人も子供を殺して、お前たちは満足したか!』と氷竜様もかくやという凍て付くような声で糾弾して」「『わかるか? お前たちが殺したのは、王子たちだけではない。子供を、自分たちの欲の為に殺したーーそれは、自分たちの息子や娘に手を掛けるのと同義なのだ』と吟遊詩人が言ってましたな」「『自分がそれをするということは、相手にもされるということだ。これからお前たちは夜毎、夢を見るだろう。王子の、子供の首を絞めている夢だ。そして、ふと気付く。お前が絞めていた首は、王子などではなく、自分の子の首だったと。そんな悪夢を、死ぬまで見続けるといい』と、知り合いの劇作家が演出で付け足してました」
うん、きっと、グラムブル王は、民から慕われているのだろう。然ても、生きている間に自分の物語を他人に語られる、上演されるというのは、どんな気分なのだろう。
「覚えていない故、否定も出来ず、皆、好き勝手に言いよる。ただ、正当性なのか正統性なのか、権威付けには都合が良かった故、流布するに任せた」
完成したのだろうか、素知らぬ風に所見を述べながら、各部をーーん? 玉止めをしていないので不思議に思っていたが、針から魔力を感じる。もしかして、魔法具なのだろうか。見ると、裁縫箱からも魔力が。三魔将や将兵の振る舞いから、グラムブル王は、良き王であると拝察したが、趣味に浪費するくらいは目を瞑ってもいいーーと不遜にも思ったところで、王様の膨れっ面が頭を過った。あの女の子、裏で結構色々やってるから、国庫支出金、もといお小遣いとか経費とかの管理をしっかりやっておかないと。本来なら財政に係わらせたいところだが、変な抜け道を見付けそうなので、クーさんに、いや、宰相もうっかりさんなので、そろそろ金にがめついくらいの、適材を配置しないといけないかもしれない。
「フィンも言っていましたが、昔から似たようなことをしていたのですね」
いけないいけない。今は、魔法使いのことを思い出して、ほっこりしている……げふんっげふんっ、国の運営を心配している場合ではなく、仲裁に集中しなくては。
「百周期前、湿地帯の魔物を全滅させてしまったのは、三つの派閥に分かれて争った所為、だそうですね。そういえば、風土病の薬となる魔物がいなくなってからも湿地帯を領有していたようですが、何か理由があったのでしょうか?」「それは……」「つーとー」「え? 水竜の呪い? フィン、本当に?」「事実かどうかはわからぬ。ただ、そう伝え聞いているのは確かだ」「我が国の、湿地帯に近い地域で、風土病が流行の兆しを見せているのだが、何か関係がーーあるのだろうか」
ちらり、とムーセリン王がパルファスナルメディカを見ると、皆の視線が、諸悪の根源かもしれない竜に集まってしまうのは仕方がないことで。心付いた水竜は、眠そうだった眼を、ぱちんっと真ん丸に開いて、別の意味で、皆の視線を釘付けにする。これまでは、しっかりと水竜の顔を見ていなかったが、見開いた水竜の瞳が、白目ーー強膜が圧迫されるように、水目が大きくなって、然し、魔物めいた竜眼に恐れや嫌悪といったものは、まったく湧かず。侵してはならない、森の奥の、清澄な泉を見つけたときのような、神秘に触れた高揚感が胸を焦がして、いや、魂を洗い流して、のほうがいいだろうか。水の、綺麗な部分だけを集めたような、見えない大河が僕たちの心に潤いと清らかなーー。
ぺしんっ。べちんっ。ごちんっ。
ーー圧倒的な魔力の流れ、だったのだろうか、魔源となっていたパルファスナルメディカの竜瞳が、フィンに三度、頭を叩かれて、というか、三回目は鉄拳ならぬ竜拳水準で殴られて、水竜は下を向いてしまった。
「『せーんっ』ぐぷんっ」「たーっいーっ」「パルファスナルメディカ。竜以外に魔眼を向ければどうなるのか、自覚しなさい。ただでさえ、竜以外の心を揺らすというのに、魔力を籠めれば、下手をすれば人種など、魂が呑まれ、操り人形になってしまいます」
何やら、危ない状況だったらしい。う~ん、さて、どうしたものか。ここまで水竜を見てきたが、意図して危害を加えるようなことはないとは思うが。古竜である故なのだろうか、ラカやフィンとは違った、子供っぽさがあるような。然もあれ、こちらから相手を信じて動かなければ始まらない。何故だか反発が大きい二竜に断ってから、水竜を「フィリン漬け」から自由にする。
「フィン、リンちゃん。『欲求』の影響かもしれないから、少しくらいなら、大目に見てあげてね」「へーんー」「努力します」
グラムブル王から受け取って、パルファスナルメディカの首に通してから、「フィリン漬け」に触れて、水竜を解放する。ぱさっ、と縫い合わせた外衣が、眩しい肌色を隠す。
「我ながら、即興で作った割には、中々の出来であろう」
満足気に自賛するグラムブル王だが、それに異を唱える者はいなかった。外衣で作った服だから、どうなることかと思ったが、丈の長い部分を折り返して、波のように縫い付けて。ゆったりとした祭服めいた趣は、足下まで届きそうな長い水髪と相俟って、水竜の魅力を飾り立てているようで。
「『せーんっりゅ~お~う』」
がばっと飛び掛かってきたので、水竜の魔力をもらって、「甘噛」対策を行うと。ラカの名残を消し去るくらいに、僕の胸の中で、密着して、両手だけでなく両足も、もう放さないとばかりに、ぐるりと回して締め上げて。見ると、グラムブル王は、落ちた外衣を拾って、何をするのかと思ったら。水竜の股の間に、ぐいっ、と通して、外衣の両端を結んでゆく。……ああ、簡易的な下着のようだ。うん、本当に器用な王様だ。
「『せーんりゅっ』! 『せーりゅっ』!! ぎゅ~ぎゅ~なんだよ?」
どうやら僕以外のことにはまったく興味がないようで、全力で求めてくる水竜を、要望、いや、希う、のほうが正確だろうか、ぎゅ~~としてあげる。微温湯のような声が漏れてきたので見てみると、うわぁ、蕩け捲って、幸せの海で遭難してしまった水竜のような顔だった。って、何かおかしな譬えをしてしまうくらい、ぽわぽわのもわもわで。うん、この竜は、パルだ。始めは、ルファやルファスなどの愛称を考えていたが、パル、と決めてしまうと、もうこれ以外の愛称なんてしっくりこなくて。
「パル、と呼んでもいいかな?」「かまわないよ?」
これは、わかってもらえたのだろうか、不思議そうに首を傾げるパル。懐いてもらえた、と判断して、潤った水髪や、背中をさすりさすりしながら尋ねる。
「皆は、水竜の呪い、と言っているけど、パルは何かしたの?」「パル? パルっ! パルっっ!! パルはパル? ーーうん、パルはね、おてつだいしたんだよ?」「お手伝い?」「うん。みっつのくに。ぐらがびょうきけんきゅうして、むーとありが、そのためのしきんだしたんだよ?」「えっと、グラムブル国が湿地帯を買い取った、とかではなくて?」「ちがうよ? ちゃんとけいやくかわしたよ? パルはだいまんぞくなんだよ?」
ん~? これは……。フィンが言っていたことと、だいぶ食い違いがある。然りとて、水源の、湧き出したばかりの透明な水のように、パルの顔は、嘘を吐いているのではないかと疑うのが馬鹿らしくなるくらいに、その笑顔は純粋で無防備で明け透けで。では、フィンが嘘を吐いているかというと、それもまた違うのだろう。氷竜と水竜の、情報の質の違いからして、ーー「フィンの秘宝」の正体が見えてきた。そうなると、奇を衒うことなく、正面切って尋ねたほうが良さそうだ。
「パルは、三国の、調停を行ったんだね。つまり、合意を結んだ、その場に立ち会ったってことだよね」「そうだよ? パルはね、がんばったよ? がんばったんだよ? みんなほめてくれたんだよ?」
あー。パルが出張ることになった経緯はわからないが、これは……、三国は遣ってしまったようだ。フィンやリンが調停役だったなら、こんなことにはならなかっただろう。守護竜ではない竜とはいえ、竜を蔑ろにするとは、裏切るとは、竜の果てまで度し難い(さいあくさいていだ)。
「グラムブル王。弁明を聞きましょうか」「然様に、邪竜顔をするでない。都合よく捻じ曲げたのであろうが、すべてが明かされたわけでもあるまい。先ずはそちらからだろう」
資質があった、と自分で言っていたが、確かに、王としての器は具えているようだ。パルの話の本質を見抜いて、僕の怒りを受け流してしまう。竜にも角にも、そこら辺のごちゃごちゃとしたものは打っ棄って、この問題の根本から解き明かしていこうか。
「空から確認しましたが、湿地帯を囲うように、地竜モルゲルガス、地竜ゼーレインバス、地竜ユピフルクシュナの塒がありました。更に、湿地帯ーーヴァリシュタには、水竜パルファスナルメディカが居ました。一言で言ってしまうとーー多過ぎです。皆さんは、竜の役割をご存知ですか?」
竜について、何処まで知っているのか。人種は、思った以上に竜のことを知らない。幻想と憧憬の彼方に追い遣ってしまった竜。情報が集まるであろう国の頂点に会える機会は少ない。これには興味があったので、二王に尋ねてみる。
「竜に役割、などというものがあるなどと、耳にしたこともないがーーいや、物語の中でなら、幾つか語られているが、どれも眉唾物であろう」
「以前読んだ物語には、人間が増長しないように、などと書かれていたがな。ただ、それらは、余りにも人間に偏する考え方で、竜の本質とは相容れないように思える」
やはり、この程度かーーなどと思っては、失望してはいけない。ただ、不思議に思う。何故、正しく伝わっていないのだろう。ーーん? 今、これまでに得た情報が、離れていた欠片が近付いた。届いてはいない。だが、今だけはくっ付けてみる。ーーいや、里長が、……〝サイカ〟? そして、フィスキアもーー。これらはもしかして、根っ子が繋がっているのか? 可能性としては、ファルワールが源流。或いは、ファルワール・ランティノール……、いやさ、僕は知っている、ラン・ティノは地竜のイオラングリディアと今も共に在る。彼の者は、この世界と一切係わりを持たず、懇ろに、或いは琴瑟相和すーーというのは僕の願望だが、二つの魂だけで完結しているのだろうか。僕ならどうだろう。この世界を住み良くできるのなら、骨を折るくらいのことはーー。ああ、それに「最強の三竜」と名高いイオラングリディアなら、魔竜王マースグリナダ、延いては幻竜王ミースガルタンシェアリとも協力関係を結ぶこともーー。
「なーこー」「『せーり』! 『せ~り』?」
どぷんっ、と二竜が思惟の湖から僕を引っ張り上げてくれる。ああ、仕舞った。世界の真相なのか陰謀なのか、妄想が捗りそうな事案に、心が浮き浮きしてしまったようだ(もうそうはしょうねんのえいようげんです)。あと、「千竜王」の名をちゃんと呼べたあと、逆にどんどん省略されていって、生理……げぷんっげぷんっ、いやいやっ、整理整頓は大事なので、リンもフィンの寝床で整理しまくりなので……ふぅ、そうだった、少年の純情めいたものを拗らせている場合じゃなかった。
「リンちゃん。竜の役割のこと、話しても問題ないかな?」「問題があったとしても、それが『千竜王』の口から出たものであるなら、問題など一切ありません」
うぐ、竜問答の(しんりをおいもとめる)ような答えが返ってきてしまったのだが。三竜とも、僕に優しいようで、何だか優しくないような気もしてしまうのだが。心がうぐうぐ、若しくは、ひくひくするので、ぽやんぽやんに戻す為に、ひとつひとつ丁寧に話していこうかと思ったが、うん、そうだ、八つ当たりをして、気を紛らわそう。
「風土病は、四竜が御座すことによって生じる、過剰な魔力と、地の属性に偏っていたことが原因だと思われます。地の属性で、風土病に罹った方をご存知ですか?」「どう、だったか。属性までは調べていなかったーーか?」「罹患者の魔力は調べました。原因不明の魔力異常が多く、ーー統計ではなく、これは私の経験からの見地ですが、確かに、地の属性の罹患者は、他属性よりも少なかったかと」「ーーそうか。そうなると……」
ムーセリン王が質すと、文官の、僕よりひ弱そうな青年が答える。二十前半と、若く見えるが、もしかしたらファタのように、もっと周期が上なのかもしれない。すると、もう一人の、実直を絵に描いたような文官が、二王があえて口にしなかったことを平然と指摘してしまう。むぅ、もう少し困らせた上で、解決策を提示したかったのだが、ここは誠実に答えないといけないだろう。
「侍従長殿のお言葉通りであるのなら、原因は四竜、或いは三竜。三竜の地竜に、巣穴を移していただければ、問題は解決するでしょう」「その通りです。ですが、僕はまだ語っていないことがあります」「と仰ると、先程のーー竜の役割?」「はい。竜の役割とは、この世界の、魔力の調整です。竜は、この地の、魔力の調整役を担っているのです」「それは……、解決が、困難ではないかと……」
残念ながら、彼は言葉を濁してしまった。出来れば、事実と問題と展望を語ってもらって、それに応えようと思っていたのだが、やることが増えてしまった。でも、まぁ、僕も氷焔から世界の真実や秘密、真相を聞いたときは、かなり頭を悩ませたのだから、期待通りでなかったからといって、彼を責めるのは筋違いというものだろう。
「四竜は魔力の調整を行っています。そう、それは、それだけ、この地の魔力が乱れているということに相違ありません。つまり、四竜が居なかったのなら、この地は魔境の如くとなり、人跡まれな地域となっていたかもしれません」
四竜が居ることで、風土病が発生する。然し、四竜が居なければ、もっと酷いことになる。大きな怪我をしない為に、小さな怪我を容認する。然し、それは国家にとってーーであって、民からすれば、犠牲、或いは生贄に等しいもので。
「「「「「…………」」」」」
皆、表情は様々である。諦めてしまった顔。それでも解決策はないかと、思案を巡らせる者。場合によっては、非情な決断をしなければならないと、痛苦に歪む顔。そんな氷竜と雷竜が暴れ回る中、守護竜は氷竜の癖に、風竜と天竜と日向ぼっこなグラムブル王が、のほほんと言って退ける。
「栓ずるところ、解決策はない、と絶望を抱えたくなるがーー竜の国の侍従長よ、いやさ、『千竜王』なら、見事仲裁役を果たしてくれると、信じておこう」
うぐぁ、こんのっ、こんちくしょうのこんこんちきめ! 人の弱みに付け込んで、丸投げしやがった。四十周期近く王位にあるのだから当然なんだろうけど、まったくもって侮れない。僕と竜の関係を見抜いてきた。僕たちが、ここに来た意味、理由。僕が竜を裏切れないってこと。はぁ、変魔さんとは大違いである。いっその事、「裁縫王」と褒め称えてやろうか。
「事は、実は単純なんです。皆さんは、人種の視点から考えて、語っているでしょう。では、それを竜の視点に変えてみてください。竜は、魔力の調整を行っています。ーーそう、それだけなんです」
謎掛け、というほどでもないが、謎を最初に解いた(りゅうときょうかんできた)のはムーセリン王だった。
「ーーそういうことか。竜は魔力の調整を行っている。然し、竜からすれば当然と言うべきか、我らのーーそこに住まう人々のことなど考慮して、いや、存在自体、認識していただけていないのかもしれないな」「周期に対する観念が異なる故、致し方あるまい。国の興亡ですら、竜からすれば、泡沫の夢の如し。こうして守護竜様に逢えたも、また奇跡」
答えを求めて、二王の視線が僕にーー。毎度のことながら、竜を引っ付けているので、様にならないことこの上ないが、期待を裏切らない程度には、仔炎竜が跳ね回るような皆の熱視線に応えるとしよう。
「簡単なことです。竜に頼めばいいのです。人種に差し響きがないようにしてもらえばいいのです。僕たちは、ここに仲裁をしに来ました。ですので、当事国が求めるのであれば、多少の労は厭わないと、そんな風に思っています」
くいっくいっ、と背中に回された手で服を引っ張られたので、下を向くと。僕に魔眼は効かないと思っているのか、魂ごと引き寄せられるかのようなーー。
水面に揺られていたのは小さなものだった。それより細やかだった、自分の心は見なかったことにして。この腕で包んでしまえるくらいの大きさが、あなたが優しくなれる、触れれば壊れてしまう、世界のすべてだった。
ーーへっぽこ詩人の、日常の、何気ない言葉が浮かんできた。水底などなく、何処までも透き通った水瞳で、脇目も振らず僕を一途に見詰めてくる。こうして見ると、大きな瞳は幼さを助長して、十歳よりも下の周期に……って、いやいや、パルは古竜なのだから、自重しろ、僕。愛玩動物みたいに可愛がってどうする。愛でてどうする。いや、愛でる、のはいいような? って、そうじゃなくなくてっ、
「パルはね、できるよ? がんばるよ? パルはまんなかいるから、ちりゅうのおもおもなまりょくも、なんとかするんだよ?」
……パルの健気な提案に、僕の内の邪竜さんがしおしお~になってしまいました。くぅ~、こんないい竜を怖がっていたなんて、僕の馬鹿野郎! こうなったら、パルを思いっ切りーー、
がすっ、がすっ。
「…………」
遣って来た氷竜は、無言で水竜に、手加減してないっぽい竜拳をお見舞いすると。
げしっ。げしっ。
「ーーーー」
遣って来た地竜は、無言で水竜に、手加減してないっぽい竜蹴りをお見舞いすると。……って、竜の謎行為に心を乱して、似たような文章を続けている場合ではなぁびぃ!?
どっぱぁ~~っ。
「ふごぁっ!?」「ぼびぃっ!?」「ぅぎょっ!?」「あ…っと、っと、と…あ、わぁあ~っ!!」
あー、うん、凄かった。何故だか氷竜地竜から攻撃された水竜は、ぷるぷると震えると、体から、ちょっと有り得ないくらい大量の水を一気に放出した。初老の割には軽快な動作で跳躍したグラムブル王は、第一波を見事にやり過ごす。将官と、文官の一人が、咄嗟にムーセリン王を庇い、出遅れたひ弱そうな文官は、見た目通りに虚弱だったらしく、踏ん張ることさえ出来ずに流されてゆく。ーーそして三魔将は。もう回復していただろうに、そのまま寝転がっていたのでーー水没した。
「『せ~り』~っ! 『せ~り』~っ!」
「あ~、よしよし、もう大丈夫だからね~、泣いちゃ駄目だよ~」
う~む、まさか竜をあやす日が来ようとは。でも、彼女ほど上手くは出来ないか。みーをあやす魔法使いを思い出して、あっさりと敗北を受け容れる。然のみやは、命令ーーしようと思ったけど、二竜の竜眼が怖かったので、竜の手も借りたくなるくらいに下手に出る。
「えっと、フィンとリンちゃん。二竜は守護竜なことになっているみたいなので、放っておいたら、やばやばな感じの人たちを、助けていただけるとありがたいのですが」「とーっにーっ!」「言われなくとも、すでに対処は済んでいます」
頭から下が氷漬けの文官が、ごろりっ、と転がって、水面から顔を出す。……変な恰好で固まっているが、ぷぷっ、いや、命辛々だったのだから、笑ってはいけない。三魔将のほうは、普通に、と言うのも何か変だが、地面が隆起して打ち上げられる、というか、押し上げられる。
「げぼぉっ」「おげぇ~」「ぶぁはあっ」
鎧の隙間から水が流れ出ていく様は、気の毒に思う気持ちも一緒に流してしまったのか、申し訳ないが、いまいち同情を寄せることは出来なかった。
じゃばぁ~、と水が地面に落ちて。最後に残っていた涙を、指で拭ってあげる。気になったので嘗めてみると、しょっぱいなんてことはなくて。やっぱり、怒っていたわけではなく、二竜に攻撃されて哀しんでいたようで。
じゃばじゃばじゃばじゃば。
「ぷっしゃあぁ~~」「…………」
しゅわしゅわしゅわしゅわ。
水を溢れさせたと思ったら、十体の炎竜に囲まれたパルは、大丈夫かと思うほど体を真っ赤にして、水蒸気をもわもわと噴き出した。あ、なんか気絶しそうなんだけど、これ、どうしよう。フィンとリンは洞窟にいて、「欲求」の影響が少なかったようだから度忘れしていたが、そうだった、千回分の粘膜接触に相応するの(ぜつりゅうてきなやばばー)だった。
「グラムブル王。しばらく預かっていてください」
このまま僕にくっ付いていると、本当に気絶しそうだったので、パルの魔力を借りて、水竜を引き剥がして、服の製作者で(ゆえんの)ある王様に委ねることにする。
「くぉお! 水竜様はっ、凄く熱いが何のその! 四十八人の我が子を等しく愛してきた父親の沽券に懸けて、穏やかな水面に戻してあげますぞっ!」「……は?」「グラムブル王が、前王の子であるとの保証はないがな。今やそれを疑う者は、国の内外に一人もいない」「……でしょうね」
まぁ、前王を教訓としたのか、愛情を注いで育てたようなので、うん、それについては何も言うまい。というか、パルは熱かったのか。全然気付かなかった。これは、また一歩、竜に近付いたことの証左なのだろうか。
「というわけで、パルは頑張ってくれるので、今度はちゃんと水竜を褒めてあげてください。ーーあ、えっと、そうなると、パルは連れていけない……のかな?」「パルはね、きめたんだよ? やるって、がんばるって、『せーり』といっしょがいいけど、パルはね、パルはね、りゅうだから、たいせつなものがなにかってこと、ちゃんとしってるんだよ?」
今すぐ元気な感じの老人から水竜を取り返して、ぎゅぎゅぎゅのぎゅ~~っっ、としてやらないと邪竜だって全力疾走で天の国を走破してしまう……ごふんっごふんっ。ふぅ、実は、子供にあんまり好かれないので、ちょっとだけ苦手意識を持っていたのだが、そんな感情は地の国へさようならである。父親として、スナへ向ける愛情とはまた違った、庇護欲と言うべきか、って、いやいや、だからパルは竜だって何度言えばーー。
「でしたら、水竜様の無聊を慰める為に、一星巡り交代で、人を派遣しましょう。我が王家の者も伺候しますので、相談に乗っていただければと……」「ムーセリン王よ。見参する王族とは、お主のことであろう。仄聞したところ、ーー子と上手くいっていないのか?」「ぐっ!」「ああ、そういうことですか」
竜を利用、或いは篭絡しようと画策しているのかと警戒したが、然してその実態はーー悩める父親の現実逃避だった。まぁ、竜を可愛がろうとする、その魂胆には同じないわけにはいかないが、我が子の代わり、などという邪な理由では到底認めらない。
「ムーセリン王は、王族として相応しくあるよう厳しく教育したのだ。然し、子供というのは、毅然と対応するだけでは、親のことなど理解してはくれないぞ? 子供というは未熟な、良く言って半熟な、愛しい生き物なのだ。厳しいのは構わないが、その分、優しさや甘さを、子供がわかる形で差し出してやらないと、ーー父親が大嫌いな、優秀な子供に育ってしまうぞ?」「ふっ、ふふ、もう手遅れ……」「一応、言っておくと。王位を継ぐ目がない子には、程々に学ばせ、他に好きなことをさせる。そうすれば、わかり易い形での、情、は向けてくれるぞ」「そっ、そうか!?」「まぁ、その代わり、王位を継ぐ目のある子からは、これまで以上に嫌われることになるが、くくっ、簒奪には重々気を付けよ」「…………」
がくりっ、と膝を突いてしまったムーセリン王。王の情けない姿を見ても、忠誠はまったく揺らがないようで、実直さん、だけでなく、虚弱さんも王様を庇う。
「言われるほどに、親と子の仲は悪くないと思われます。私にも経験がありますが、子というものは、親に反発してしまうものです」「ええ、特に親が優れていると、周囲からも色々言われてしまいますし、期待も大きくて、……本当に、大変なのです」
二人の実感の籠もったーー特に虚弱さんのほうは、実感が籠もり過ぎて、溜め息を吐くと、抜けた空気の分だけ、体まで小さくなっているように見えてしまった。まだ若いようだし、親も王も優れていてーームーセリン王が無能を侍らすことはないだろうから、彼も優秀さでは劣らないのだろうけど。ーー経験を積ませる意味でも、引き抜いて……。などと虚弱さんを見て企んでいたら、復活したムーセリン王ーーだけでなく、青年にも断られてしまった。
「やらんからな」「三周期くらいなら、良い経験になるかと」「それが魅力的な提案であることは認める。だが、水が、酒が、食べ物が合わないだけで、体を壊す。一周期と経たず、死体を返されても困る」「……王の仰る通りで。御誘いは、嬉しいです。ですが、ムーセリンの、決まった食材しか体が受け付けないので、ーー何より、仕えるべき王は、ただ一人と、そう決めていますので、お断りさせていただきます」
子に嫌われているのとは裏腹に、君主としては本当に優れているのだろう、虚弱さん以外の二人も、当然のように優しい、誇りと熱の籠もった笑みを浮かべる。
すたすたすた。ぎゅっ。
「どっ、どど、どうされましたかっ、守護竜様!?」「中身は違いますが、体は子供と同じようなものです。長く子に触れていないようですので、感触を思い出すと良いでしょう」「そ、そうでございますか? それでは、失礼をば」
リンの優しさに絆されたっぽいムーセリン王は、心付くことが出来なかったようだ。地竜が積極的に動くだけの、事情、があるということ。心当たりは、一つある。それとなくムーセリン王に近付くと、実直さんが動こうとして、虚弱さんに止められていた。やっぱり欲しいなぁ、と彼を見ていたら、にっこり(おいたはいけませんよ)と笑顔を返されて(くぎをさされて)しまった。
「メイガースを知っていますか?」「勿論でございます! ムーセリンを興したケルイット・メイガース。ゲルブスリンク様と盟約を結びし、ムーセリン王家の、初代の王でございます!」「ケルイット? 誰でしょう、それは?」「はっ? あ、いえ、なっ、何を仰って……」「聞いているのは、メイルシル・メイガースのことです」「……メイルシル。ーー逆賊のことでございま……」「はい。駄目だよ、リンちゃん。うっかりで人を殺したら」「……わからない、ものです」「え? は?」
リンの魔力を借りて、いや、奪い取って、地竜を縛り上げる。塒の前に本を置いていった、裕福そうな女性ーー恐らくそれが、メイルシルという人なのだろう。竜とて、必要としなくなったものは、穏やかに、柔らかに周期の重みによって摩耗させられてゆく。リンは、何気ないことのように、大したことのないように、メイルシルさんとの思い出を話してくれたが、地竜は彼女の名前を憶えていた、約束を忘れないでいた。五百周期。眠っていたとはいえ、いや、休眠期でもないのに、それだけの周期、眠っていたのはーー。
「どうやら、ケルイットという人は、いえ、ケルイットという人も、遣ってしまったようですね」「わっ、我が国の英雄が……」「ほほう? それはゲルブスリンク様がーーリンちゃんが、嘘を吐いていると、そう解釈してよろしいのですね?」「うっ……」「すべてが嘘、というわけではないでしょう。ムーセリン国を建国したというのは間違いないと思われます。ケルイット王は、嘘を吐いた。ただ、それは、誰の為に吐かれたものだったのか。ーー知る勇気はおありですか?」「ーーそれは」
子の愛情に飢えているというのは本当のようで、リンに殺されそうになったというのに、いや、それもあるが、大切なものが何であるか見失うことなく、リンを抱いたまま、ムーセリン王は黙考する。ただ、それだけでは判断するに足る情報が心許ないので、僕からも差し出しておかなくてはならない。
「リンちゃんは、聖語時代の言葉は読めますか?」「いえ、読めません」「ということは、もう、メイルシルさんの本ーーもしかしたら、彼女が記した言葉なども、読むことは出来ないということですね」「ーーそうです」
楽しみ、などと思っては失礼になるが、必要な欠片を手に入れたムーセリン王が、どのように過去と、竜と向き合うのか。リンの為にも、良き結果になるように、と感興をそそられていると。決意を焦がす、王の言葉が発せられる。
「竜の国の侍従長。貴殿は聖語をーーその時代の言葉を読み解くことが出来るだろうか」「いえ、僕には無理です。然し、それが能う人を、一人、知っています」「では、ゲルブスリンク様。彼の人物に、メイルシルーー殿の遺した品を、訳してもらおうと、僭越ながら愚考しておりますが、許可を頂けますでしょうか」「そう……なのでしょう。知りたい、と思っている心を、否定することが出来ません。失ったものを、残念に思う気持ちに、縛り付けられてしまいます」「ーー我が国にも、読み解くことが敵わない、三十冊ほどの古書がある。古書は、報酬として差し上げる。その代わり、メイルシル殿が遺したもの……」「それは、大丈夫です。解読するのは、〝サイカ〟の里長になります。古書の内容は、確とムーセリン国に送達いたします。メイルシルさんの遺したものは、内容も含め、そのすべてをゲルブスリンク様にお返しいたします。当然、その際に知った彼女に関する事柄の、一切を処分いたします」
首肯したムーセリン王は、リンの肩に手を当てて隙間を作って、正面から、対等な立場として、申し出る。
「ゲルブスリンク様。どうか、償いの機会を頂けないでしょうか」「ーーわかりました。これよりは、正式にムーセリン国の守護竜となりましょう。但しーー」「はい。承知いたしております。戦いに、助力を乞うたりはいたしません。また、我が国に訪れることをーー望みはしますが、強要したりなどいたしません。ただ、我が国の行く末を、見守っていただけるなら、それだけで十分でございます」「それは、もったいないでしょう。折角できた縁です。もう少し欲張ってくれたほうが見守る、甲斐、があるというものです」
必要以上に特別扱いするな、というリンの我が儘。ムーセリン王から、ふっと笑みが零れるーーその顔が、見る見るうちに、情けない父親の表情へと変化していった。
とてとてとてとて。
再び、腕を伸ばして、リンを抱き締めようとしたムーセリン王だが。王の心竜知らず、或いは人の心竜知らず、と竜の傲慢さで、僕の許まで戻ってきてしまう地竜。いや、そんな顔で見られても。王様は、ねちっこい視線を向けてくるが、まぁ、王の臣下の三人が苦笑を浮かべているので、放置で問題ないだろう。
「…………」
失敗、はしたが、信頼を得る為には仕方がなかった。と諦めることにする。里長が聖語時代の言葉を解せるーーこんな情報、表に出していいわけがないので、未来の、いつかの機会に、里長に叱られるとしよう。何故だか、里長は僕に厳しい傾向にあるので、うぐっ、そのときは覚悟しておかなくては。
「というわけで、残るは、ヴァリシュタの帰属問題なのですが。その前に、ムーセリン王、アリスバッハ国のことを教えていただけますか」
「ああ、貴殿が知りたいことを話すとしよう。この場に、アリスバッハが居ない理由だな?」
拗ねているわけではない、然りとて、怒っているのでも哀しんでいるのでもない、由ありげな表情を浮かべて、言葉を継ぐムーセリン王。
「アリスバッハ王は、自身が王の器でないことを自覚している。それ故か、臣下の意見をよく聞く。そう言うと、聞こえが良いが、実際には責任回避の為なのか、自身の考えで決定することは一切なく、臣下の意見の中から選んで、決めているのだ。
ここで厄介となるのが、アリスバッハの貴族だ。彼らは、相争ってはいるが、我が国と同程度の歴史と伝統があるからか、愛国心だけは本物で、王への具申も、国の為ならぬと他の貴族に判断されたなら、貴族の主流とは成り得ないのだ。船頭多くして船山に上る、と言うが、船頭が同じ方向を見て、それなりに優秀なので、……くっくっくっ、それに何より、って、くっ、お前たち! 放さぁむぐぅ!」
虚弱さんの合図で、実直さんと将官が王様を拘束する。この見事な手際、初めての癇癪ということではないらしい。
「お見苦しいところをお見せしまして、お恥ずかしい限りです。ですが、察していただけると思いますが、現アリスバッハ王になってからというもの、朝令暮改、ならまだ増しで、朝令昼改、更には朝令朝改も。貴族たちの悪い部分が、アリスバッハ国ではなく他国に押し付けられてしまって。特に、仲立ちに優れている我が王は、他国からも信頼され、アリスバッハとの係わりの、最前線に。
王ではなく、たくさんの貴族を相手にしているようなもので、微妙に意思統一もされていないので。然も、アリスバッハ王は、そんな我が王の労苦に、まるで気付いていないので、私たちも難儀しているところなのです」
まぁ、あれだ、得たい情報は十分に得た。コウさんもそうだが、こうした人間味も、ムーセリン王の魅力なのだろう。すべてが解決したわけではないが、時間が解きほぐしてくれるものも含めて、今回はここまでに。最後の提案を行う。
「ヴァリシュタですが、グラムブル国とムーセリン国の共同管理地としましょう。互いの守護竜が認めたとなれば、紛れ込んでいるであろうアリスバッハ国の間者も二竜を見たのであれば、これを覆すことはできないでしょう」「隔たりはなくなったで、問題はあるまいが、どうする? ムーセリン王」「異存はない。アリスバッハを教育する良い機会でもある。ーーそうだな、どうせなら、二国の友好ということで、地氷祭でも……」「何を言うておるか、氷地祭であろう?」「えっと……」「「…………」」「あのーー」「「ーーーー」」「いえ、その、普通に、友竜祭とか二竜祭とか、……いえ、何でもありません」
二国の仲裁を、と思ったが、守護竜が大好きになってしまったらしい二人の王をどうにかするのは無理だと、竜も投げ出す勢いで、諦めることにする。
「地域が別ですので、あまり近付き過ぎず、程好く嫌い合いながら付き合っていくのは、悪いことではないと思われます」
虚弱さんが慰めてくれる。ないとは思うが、またこの地を訪れることがあったときの為に、名を聞いておこうと思ったが。そうだった、二王にも名乗って貰っていなかった。
「それでは!」「合意を祝して!」「三魔将がぁひっ!?」「しーってーっ!」
これが、守護竜に気に入られた三魔将の末路であった。で、終わらせてしまいたいが、そういうわけにもいかず、首から下が氷漬けの三魔将を助けて、魔将の頭をぺしぺししていたフィンを回収する。安心したのか、パルは眠っていたので、どうしようか迷ったが。外衣の服の上からなら丁度いいかな、ということで、僕の制服の予備(そう! そうなんです! 二着も、愛娘が作ってくれたん(スナのおてせいなん)です!!)を水竜の背中に贈り物。パルのことを話せば、スナも許してくれるだろう。最後に、グラムブル王に託ける。
「東域を訪れることがあれば、必ず逢いに来るーーそのように、パルに伝えてください」「了解した。あとは、ムーセリン王が過剰な接触をしないよう監視しておこう」「仕方がない。我が国だけで、と思ったが、交代制を受け容れよう」
まぁ、ときどき様子を見るようリンに頼んでおけば、問題はないだろう。
「それでは、フィフォノ様とゲルブスリンク様。両国の将兵たちに飛び立つのが見えるよう……」「わかっています。あれ、をやるのでしょう」「やーっろーっ」
よくわからないけど、よくわかったのだー。とかみーの言葉を思い出してしまったが、竜のお願いを断るなど、僕に出来るはずもなく。
どどんっ。
フィンの「光球」、というより「光球」群が先に打ち上がって、皆が見ているだろう夜空の舞台に向かって、地上から二竜が羽搏くことなく舞い上がって、空の高みで、リンのほうが合わせたのだろう、同時にばっと翼を開く。そこから二竜は、それぞれの国側に旋回して、存分に雄偉な姿を見せ付けて、合流すると。
「うーとーっ」「「「っ!?」」」
どうやら本当に気に入った(?)らしい、お別れの謎舞踊中だった三魔将を息吹で吹き飛ばしてから、悠々と湿地帯から飛び去るのだった。
ヴァリシュタから十分に離れると、リンは「人化」して、フィンの竜頭に。地竜は飛ぶのが苦手なので、ここまでフィンに速度を抑えてもらっていたが、竜頭を撫でながらお願いする。
「それじゃあ、フィン。南に向かってもらえるかな」「かーおーっ」
ラカと比べれば、いや、これが地竜を除いた竜の平均的な速度なのだろう、フィンが魔力を発すると、百より少し速いだろうか、そしてスナより安定していない感じで。七つ音と半分くらいだろうか、星空が近くなったような竜の景色を暫し堪能する。
「時間があるようですので、『共鳴』が成されるまで石玉を作り込むとしましょう」「先に見たときは、完成間近かと思っていたけど、石玉の魔力が同質に近付いている所為か、逆に違和感というか、魔力の違いが際立ってきたようなーー?」「はい。ここからが難しいので、フィフォノが邪魔をしないように、見張っておいてください」「もーつー」「はは、フィンより僕のほうが悪戯するだろうと、フィンは正しく認識しているようなので、竜頭に横になって、大人しく考え事をすることにします」
然てこそ、リンから離れて、竜頭に、ごろり。何となく、頭の上に手を伸ばして、フィンの角を、さわさわ。氷竜の魔力からして、嫌そうではなかったので、滑々な感触を楽しみながら、このまま湖に潜ることにする。
ーーフィンとリンと行動を共にするようになってから、大きな失敗をしていない。これまでも幾度か感じたことがあるが、失敗しないことを不安に思うとか、ほんと、どうにかならないものか。まぁ、僕の性格上、過信に繋がらないことはいいことなのかもしれないけど。演技以外での、自信、ってやつを身に付けたいんだけど、まだまだ先になりそうだ。
「ーーふぅ~」
さて、心を静めて、湖の底へと。目を、思考を逸らさないよう触れてゆく。ーー竜が僕を傷付けるはずがない。フィンとリンとの出逢いのとき、僕は確信に近い思いで、それを理解したはずだった。だが、どうだ、パルが近付いてくる、それだけで、僕の心は恐怖に染まってしまった。そう、一貫していない。と言いたいところだが、今の僕に、そこまで確固としたものがあるのか疑わしい。
「千竜王」に近付いている。そう思っていたが、証拠があるわけでもない。ただ、以前と同じではない以上、その影響に思いを致さないわけにはいかない。ある意味、一番考えたくなかったこと。「千竜王」に近付けば、僕、という存在が薄まると思っていた。然し、逆なのかもしれない。近付く、或いは深く潜ることで、僕、が際立っていっているーー可能性がある。竜を恐れる、というのは、人の本能に近いものだと思える。僕という存在が濃くなったので、僕の人としての部分が表出して、竜をーーパルを恐れてしまったのではないか。竜に恐れを、畏れを抱くことは悪いことではない。それは人として自然なことで、僕がそこから逸脱してしまっただけのこと。
細かな変化も多く、僕自身、把握し切れていないものもあるだろう。考えが間違った方向に進みそうになったとき、古めかしい言葉を使う傾向にあったが、最近、それを自覚したことがない。気付けないだけなのか、そうした言葉遣いをしなくなったのか、それ自体がわからない。違和感すら認識できないとしたらーー、何か対策を考えておく必要があるのだが。下手に決めてかかると、逆に弊害となるかもしれないので、兼ね合いが難しい。
そして、嫌なものに、触れる心象。「千竜王」は、僕とは別の存在であるとの認識に変わりはない。だが、そうでなかったとしたら。「千竜王」に近付くことは、僕を、僕という存在を取り戻していっているーーそんな可能性、いや、蓋然性があるのだ。明確ではない。今の僕と、昔の僕を、正しく比較できるだけのものが僕にはない。はぁ、本当に、面倒でややこしいことこの上ない。ーー以前から考えて、最後のところだけ、透明にしていた。僕が「千竜王」に触れて、染まって、消し飛んで、或いは取り込まれて、同化して、失われて。僕が消えて、消滅して、ーーそれは、きっと、死という状態に限りなく近い状態で。怖い、そう、怖い……けど、それより怖い、いや、嫌なことがある。竜と共に在ることが出来ない。僕でない僕が、竜と在る。ああ、何故だろう、その根源から這い上がってくるような感情、いやさ、衝動に比べたら、ギザマルの頭を撫でるような、そんな、おかしな心象を抱いてしまうくらいに、僕の命なんて、……幾らでも天秤に掛けてやる。
僕は、気付くと気付かれざるに係わらず、変わり続けている。であれば、いずれ何処かに辿り着くはず。僕の望みに懸けて、そこで載せてやろう。必要なら、天秤の片方に僕の命を。もう片方に、何もない、空しい行為だったとしても構わない。人と竜と「千竜王」と、関係なく刻み込め。多くは無理だ。だから一つだけでも、失われないものを。
何かが足りないような気がして、いつ以来だろう、空に向かって手を伸ばす。
「ーーーー」
何だかなぁ。このときばかりは、満天の星を疎ましく思う。たくさんの明かり。どれが特別か、なんて選べない。多過ぎて、多過ぎて、それはもう、一つのものとして……。
伸ばした手が、僕の意思とは関係なく、ぱたりと落ちて。ああ、やばい、眠ってしまう。そう思っても止めることが出来なくて。今日も一日、色々あったことと、竜と共に在ることが出来た幸せに身を浸しながら、一日を終えたのだった。
ところがどっこい、まだ一日は終わっていなかった。……いや、思惟の湖に潜って、すっかり目的を忘れていたが、二竜にまだ方針を話していなかった。というか、二竜は何も言わず、僕の言葉に従ってくれたが、何処に行くのか宿はどうするのか……。
ぐりぐりぐり。ぐりぐりぐり。
「もう少し、空寝をしたほうがいいですか?」
うつ伏せにされて、やっぱり気に入っていたのだろうか、背中を短い角でぐりぐりされたので、地竜に尋ねてみる。
「てーなー」「その必要はありません。ただ、中途半端はいけないので、もう一度、やらないわけにはいきません」
ぐりぐりぐり。ぐりぐりぐり。
「竜のぐりぐり」。「竜の祝福」の一つとするかは、悩みどころである。リンは、気付いているのかいないのか、実は、血が出たり、痣になったりしているのだけど。魔力誘導に失敗して、百に強かにやられたときも、翌日には治ってしまっていた。もしかしたら、僕の命ーー寿命とかを使って、自然治癒力が高まっているーーなんてことだったら、う~ん、どうだろう。さすがに、老人になった自分を想見するのは難しい。老後のことよりも今を優先してしまうのは、まぁ、仕方がないことだろう。などと取り留めもなく考えていると、「竜のぐりぐり」が終わったので、仰向けになって、それからゆっくりと立ち上がる。
「ふぁあ~、……ちょっと眠い…かな。深つ音まで、あと半時ってところかな。今、どこら辺なのかな」「んーてー」「ああ、ごめんごめん、フィン。ちゃんと、しゃっきりするから。えっと、地上に明かりがないってことは、東域の中心点が近いってことかな?」「三つの交点から、正しい中心点の場所を割り出したところです。竜には問題ありませんが、夜を渡るのは『千竜王』には良くないかもしれないので、エタルキアが居るかもしれない洞窟を優先すべきかと思いましたが、目的地を変更しました」「うん、ありがとう、リンちゃん」
頭を撫でたいところだが、スナやラカと違って、二竜との距離感は適切に保ったまま、ゆるゆるじわじわと詰めていったほうがいいかと、笑顔で応えることにする。
「話に聞いた通り、中心点の近くには、国はーー人は住んでいない、ように見えるけど、近くに人の、魔力があるかないかとか、わかったりするかな?」「何故、そのようなことを気にするのでしょう?」「えっと、もしかしたら、中心点で何かあるかもしれないから、そのとき、ちょっとどんぱちやっても被害がないか、確認しておきたかったんだけど」「ーー人種に迷惑を掛けることが被害だと、『千竜王』と一緒にいて、思えるようになってきました。これは、『千竜王』の望みなのでしょうか」「ーーどう、かな。今の僕は、人より竜のほうが大切だけど、どちらかを選べと言われれば、竜を選ぶけど。人と竜が、仲良く在って欲しいとは、思っている、かな」「いーなー」「はは、手厳しいね、フィンは」
でも、今は、フィンの罵倒は心地好い。フィンの言葉は、「千竜王」には向けられていないから。……言わずもがなのことだけど、そんな趣味嗜好に目覚めたとか、少し……ではなく、微塵も、竜が逆立ちしたってないので、勘違いしないように。って、天のお星様に言い訳している場合ではなく。
「到着しました」
リンの声で、フィンから魔力を貰って、竜頭の端から眼下に望むと、今日は月明かりもないので、真っ暗で何も見えなかった。ととっ、違った。先に空を見たときに気付けなかったが、星空がなくなっていた。ああ、曇り空だったのか。フィンの周囲の「光球」以外に光源はないので、ここが空であることを忘れてしまいそうになる。
「いーんー?」「そうだね。何かあったとしても、そのときはそのとき、ってことで、『光球』をお願いね」「だーよーっ」
遺跡でコウさんが三つの「光球」を行使したことに驚いていたのが、懐かしく思えてしまうほど、「光球」を奮発するフィン。見ると、リンは真剣な顔で、緻密な魔力操作を行っているようだった。あー、「光球」の位置が、左右対称だ。そういえば、リンと逢った頃、世界が居心地悪く感じる、みたいなことを言っていたが、整っていない世界に違和感があったのか。無駄とか無意味とか、そんなことを言ってはいけない、細かな調整をしているリンの拘りもまた、意地っ張りで可愛い……ごふんっごふんっ。……ああ、そうだった、この竜へと向ける、この至高、もとい嗜好のようなものが、「千竜王」の影響なのかどうか、いずれ見極める必要があるだろう。いや、そんなどうでもよくないかもしれないことは、竜にも角にも、脇に置いておいて。
「…………」
闇に浮かぶ、山々の姿が、まるで空に浮かんでいるかのようで、幻想的、というよりも、ちょっと怖いくらいの美しさと儚さで、言葉を失ってしまう。意識が光に吸い寄せられると、同時に、違和感が。不自然、というか、出来過ぎ、というか、まぁ、空から見ることで、際立って、強調されているのかもしれないけど。
「周囲の山々は、そこまで標高は高くないけどーー。光の真ん中の、あの山だけ、周囲より低くなっているんだけど、フィンとリンは、何か感じるかな?」
子供でも簡単に登れそうな高さの山。そう、山ーーではある。ただ、そこに無理やり配置したかのような、いや、どうだろう、周囲の山々から独立しているわけでもなく、不自然さはないような。不自然ではないことが不自然? ……あー、駄目だ。これ以上は、変に考えるよりも、二竜の答えを聞いてからのほうがいいだろう。
「おかしな気もしますが、注視して、でなければ、見逃してしまうくらいのものでしょう」「注視? ということは、魔力的には問題ないってこと?」「でーもー」「魔力的にも、何かおかしい、気はすると。フィンとリンちゃんを、態々洞窟に移動させたことからしても、何もないほうがおかしいとは思うけど。はてさて、どうしたものか」
安全を期するなら、先ずエタルキアが居るかもしれない南の洞窟に行って、氷竜地竜に確認してもらって。皆と合流してから、調査にスナとナトラ様、あと感覚の鋭さで、ラカも役に立つだろう、ーー百も、たぶん、きっと、竜の魂として、ーーん? あれ? 百は竜の魂なのに、この一件に関して、無知、ではなく、情報の質、だけでなく、量も少ないような……。まさか、隠してる? いや、フィンやリンは、自分が塒ではなく洞窟に居ることに気付いていなかった、……って、あれれ? リンは気付かなかったとして、フィンはずっと眠っていたなんてことはーー?
「フィンは、塒ではなくて、洞窟に居たことを知ったのは、何時なのかな?」「ねーでー?」「え、移動させられた、翌日? 寝る場所が一つ増えたから、適当に行き来していた? あー、うん、それ、初めて聞いたよ」「てっきり、フィフォノも『千竜賛歌』のときに気付いたのかと思っていましたが、騙されました、ではなく、勘違いしていたようです」「あはは、でも伝える手段がーー、手段?」「どうかしましたか、『千竜王』」「いえ、今、気付いてしまったというか、結果は変わらないかもしれないというか、えっと、何が言いたいかというと、筆談、という手段はあったのかな、と」「あ……、まったく、いえ、そのときは紙もペンも……、今は安価であると知ってはいましたが……」「竜にも角にも、聞いてみましょう。フィン、リンちゃんと筆談して、ってお願いしたら、やってくれる?」「もーねー」「…………」「フィフォノは、何と言っていましたか?」「……リンちゃん。筆談は、諦めてください」「『千竜王』は、何故そのような、竜と接触禁止を言い渡されたかのような、苦い顔をしているのでしょう?」「……っ」
……どうしよう。物凄いことを要求されてしまった。フィンは、本心を隠すのが上手い。だから、僕を困らせることが目的で、いや、もしかして僕は試されているのでは? あ~、いやいや、どちらにせよ、竜と接触禁止は無理なので(むりなんだいりゅうだいすぎるので)、色んなものを誤魔化さなくては。
「多数決といきましょう。中心点の、あの山ーー名前がないのは面倒なので、竜山、とでもしておきましょうか。竜山に降りるか降りないか、決を採りましょう」「誤魔化しました」「はい。お願いします。今の僕には、色々と無理なので。どうかどうか邪竜も赦すような、広い竜心で誤魔化されてくださいませ」「りーしー」「よくわかりませんが、よくわかりました。と言っておきます」「……フィンは答えましたが、リンちゃんは、どちらにしますか?」「ーー以前であれば、慎重を期していたでしょう。ですが、『千竜王』やフィフォノと行動するのが、楽しいと、今は感じています」「はい。では、皆の答えが同じだったということで。フィン、ゆっくりと降下をお願い」「えーはーっ」
過敏になっているからだろうか、確かに、二竜が言っていたように、何かがおかしいような気がする。気の所為、で片付けてしまえるくらいの、魔力の流れ、なのか、濃度? 何もわからず、何も起こらず、ーー竜山の天辺に、とすんっ。
どすどす。がつがつ。
フィンは、足踏みをして、近くの樹木を竜脚で小突く。
「これは……、本当に何もない、のかな?」「今のところ、そのようです」「まーだー」「いえ、二竜の息吹で山を吹き飛ばすのは、最後の手段としましょう。では、次の一手として、フィンは竜のまま、周囲の警戒をお願い。リンちゃんは僕と一緒に、山の表層と、内部も調べてみましょう」
リンと一緒に、竜頭から飛び降りる。あのとき、白いものが見えたが、ミニスさんから目を逸らさなくて良かった。彼女のロープ捌きが参考になる。何度か繰り返しているので、そろそろ綺麗に着地したい。ぎりぎりまで速度を落とさず、不可視の縄を握って減速、リンの魔力を貰って、とすっ、と片足で、小気味良い音を立てて地面にーー。
すかっ。
……って、そんな音はしなかったんだけど。ぐっ、予想外の事態に、体がぶれた!
「っ!?」
階段を踏み外したような感覚に、すぐさま逆の足を伸ばすが。それが無意味であると反応してくれた僕の手が、地面に手を突こうとするも、視界は闇にーーっ!
「んぎっ!」「『千竜王』!」「しーっらーっ!」
落下しながら、体を捻って、リンの魔力をーー、良しっ、届いた!
ぷつっ。
……届いた、はずだったのに。切れた、というより、解けたような感じで。手を伸ばした先で、氷竜地竜と「光球」が離れていってーー。
「フィン! リンちゃん! どちらか残って!!」「「っ!!」」
遅かった! だが、まだどう転ぶかわからない。二竜の行動が正しいと信じて、冷静になるのは無理だが、強制的に頭を回転させる。
「っ!」
フィンの「光球」が消えたのか、竜山があった場所は闇に包まれている。直後に、フィンとリンの姿も見えなくなる。圧倒的な闇に順応が追い付かず、咫尺を弁ぜず。だが、おかしい。二竜は近くに居るはずなのに、魔力を感じることが出来ない。逆に、フィンもリンも、竜の能力からして、僕を助けて余りある時間が経過しているというのに、未だ二竜をこの手に感じることが出来ずにいる。
ーーとなると。魔力を感じられないということは、魔力を無効化している? と考えたが、フィンの言葉が指針となって、然もあれ、確証はないが指示を出す。
「なーっいーっ!!」「っ! リンちゃんっ! 『結界』で遮断してみて! それが駄目なら、魔力をしこたま籠めて!」「ーーっ」
返事の代わりに光が灯った。壊れ掛けの外灯のような、弱々しかった光が、僕に近付くに連れて明るくなって。こんなときだというのに、心がほっと温かくなって。リンの、次いで僕の姿を浮かび上がらせる。
「魔力の効きがーー」「うぐっ……」
「飛翔」なのかどうか、上手く制御できないのか、勢いよく僕の胸に飛び込んできて。見上げた地竜が声を張り上げる。
「フィフォノ!! 魔力を使わず羽搏きなさい!!」「ひぃうっ!?」「んーっだーっ!!」
う…わ……。ーーぎりぎりだった。「光球」の拡がった明かりの中に、ゆくりなく飛び込んできた氷竜に、情けない悲鳴を上げてしまったが。触れられる距離に、フィンの背中ーーだろうか、まだ照らされている部分が少ないので、もしかしたらお腹かもしれない。
「『千竜王』。フィフォノの竜頭に移動します」「えっと、はい、お願いします」「ふーたー」「うわっ」
周囲が真昼のように一気に明るくなった。くぅ、いきなりだったので、順応するまでしばらく掛かりそうだ。そうしている間に、足が竜頭に。接触しているので、二竜の魔力を感じ取ることが出来る。くっはぁ~、この安心感はやばい。竜の魔力って、こんなにも心地好かったのか。って、いやいや、和んでいる場合じゃない! 先ずは現況の把握からだ。
「フィン。リンちゃん。情報の共有を。わかったことがあったら、教えてください」「魔力が吸い取られています。無効化ではないので、魔力を通常より多く用いることで、魔法を使うことは出来ます。竜であれば問題ありませんが、人種が長く留まれば、魔力を吸い尽くされて、恐らく助からないでしょう」「ごーじー」「……フィンによると、馬鹿みたいな馬鹿魔力のお尻の青いぺんぺんだから、痔……ではなくて、何も生えないから大丈夫。みたいなことを言われたんだけど、リンちゃんも同意見かな?」「フィン語は、訳してから伝えてください。ただ、言いたいことは、凡そ見当が付きます。この場所に居るからなのか、『千竜王』の魔力を体感することが出来ます。竜は半日、ここに居られるでしょうが、『千竜王』なら、永遠にーーと言ってしまいたくなるくらいに、馬鹿みたいな馬鹿魔力です」
どう譬えたらいいかわからなかったらしく、フィンの言葉を借用するリン。照れ隠しに、むっつりしているのが、って、いやいや、だから今は、そんな場合じゃないって!
「ーーすぅ~、はぁ~」
竜は半日持つそうなので、竜にも角にも深呼吸。澄明な湖を心象、序でに、パルが泳いでいる姿も想見してから、見澄ます。フィンも真似して、ぶっふぅ~と鼻息。もしかして、僕を気遣ってくれたのだろうか、竜の心配りに、頭の雑念だけでなく、心音も静かになって。先ずは全体を、そのままの印象で捉える。
ーー円錐形? いや、山の下にあったから、そう思ったが、これは円筒形のようだ。要は、でっかい、丸い穴。然し、穴の大きさは尋常ではない。円の直径はーー、翠緑宮、いや、竜の国の大広場が三つ、四つ分? ……もっとだろうか。竜山は低かったとはいえ、山だけあって、人工物と比べるのは難しい。壁面は、通常の岩肌に見える。それが、何故だか安心できて。もし綺麗に壁面が削られていたなら、斯かる巨大な人工物が存在することに、感嘆するより前に戦慄していただろう。
「竜山の、三山分くらい落ちたはずだけど、う~ん、底は、まったく見えないね」
魔力を吸い取られている、という感覚はない。リン曰く、「千竜王」の魔力なら永遠ーー無尽蔵のようなので、現在問題ないのなら、恐らく今後も問題ない、はず。
「何も起こらない。誰かが接触してくるわけでもない。フィンとリンちゃんは、どうしたい……って、聞くまでもなかったね。それじゃあ、フィン。とてもでっかい『光球』を下に向かって放ってもらえるかな」「やーっなーっ!」
竜、というだけでなく、見てわかるほど好奇心が駄々洩れな二竜が、ここで退くはずもなく。本当はいけないんだけどなぁ。と思いつつも、竜の頼みや願いを断れない僕。ただ、それでも。ぎりぎり、これ以上は不味い、と思ったら、二竜の内、どちらかを篭絡、もとい説得して、一旦仕切り直さないと。
太陽のような、と言いたいところだが、実際にはーーって、うわっ、これは駄目だ、直視どころか、背を向けても無理だ。観測は二竜に任せて、両手を重ねて目を塞ぐ。
「……どうでしたか?」「『光球』の魔力が吸い取られたようで、竜山で、十山分くらいまで確認できましたが、底は見えませんでした」「くーてー」「うん、わかったよ、フィン。面倒なことはしないで、このまま降りていくんだね」
リンにも異存はないようなので、魔力を使わずに羽搏いてーーあ、そうか、風の影響がないのは、リンのお陰だったのか。……うぐ、やばいな、常軌を逸した事態に、理知を超えたかのような光景に、知らず知らず呑まれていたのかもしれない。然あれど、常識を反転させたような、驚天動地ならぬ天竜地竜もびっくりな……ああ、いや、これは、一人で考えていたら、散漫に、冗漫になるばかりだ。二竜に話し掛けて、心を竜々(いいかんじ)にしなければならない。
「この穴ーーえっと、こっちも竜穴ってことにしておこうか。竜穴を造ったのは、誰だと思う?」「竜でないのであれば、ーー神、だと思います」「神、神、神……というと。神々は、この世界には干渉してきていないようだから。つまり、創世神ではない神が、すでにこの世界には居ないらしい神様が、この世界を創ったときには、この竜穴、ではなく神穴は、すでに存在していたかもしれないと?」「みーつー」「ああ、うん、さすがにそんな昔からなら、気付かないはずないよね。百も何も言ってなかったし、やっぱり聖語時代の後期頃なのかな」「そう、なのでしょう。神の所業と、思ってしまいましたが、よく見てみれば、これは、ただ大きいだけの穴。時間を掛ければ、聖語を用いれば、可能なのかもしれません」「…………」
リンが言うように、自然現象、ただの穴である可能性はある。然し、二竜を洞窟に移動させた、だけでなく、エタルキアも係わっている、かもしれないとなると。何より、魔力を吸い取っている、この異質な場所に、何もないのだとしたら、拍子抜けも甚だしい。というか、期待を裏切りやがって! と苦情を入れてもいい水準である。まぁ、今のところ、誰に文句を言えばいいのかはわからないのだけど。
何事にも可能性はある。神だろうと竜だろうと、造っていて、技術的な、魔力的な問題で完成させることが出来なかったり、途中で飽きたりーーは、さすがにないか。
聖語使いーーはどうだろう。聖語使いが二百人で作り上げたという大聖語なるものでさえ、「竜殺し」ーーいや、ナトラ様の言行からして、彼らの大聖語は脅威ではなかったのだろう。大聖語を打っ壊したのは、彼らの謎合唱が煩かったからだし、そうでなければナトラ様は、人種の行いなど見向きもせず、そのまま放っておいたはず。まぁ、栓ずるところ、聖語の威力とは、その程度だったということだ。聖語が、何を素に力を発現していたのかはわからないが、仮に、穴掘りに特化した聖語があったとしても、大聖語に鑑みるに、この規模のものを造り上げるのは不可能なように思える。
「フィンやリンちゃんなら、この大きさの穴は、掘れますか? 若しくは、エタルキア様なら、暗竜なら、そういう能力を持っているとか、何か知っていますか?」「ごーなー」「どうでしょう。竜の魂から離れた、古竜が得た特性なら、ーーいえ、魔力吸引からして、複数のぉっ?」「っ! フィン!」「んーっだーっ!」
フィンの魔力を貰って、竜頭にしゃがむと。リンは、魔力の制御に失敗したのだろうか、大風が僕を攫おうとする。ぐっ、ぐぅ~、両手もべったりと竜頭に付けて、ぐるりと回転するフィンにへばり付く。
「……今の、は?」「突然、上下が逆様になったようです。予兆を感じ取ることは出来ませんでした。空間への作用ーーなのかどうか、感覚器官への干渉かもしれません」「左右はどうでしたか?」「左右、ですか?」「鏡のような作用だったのなら、前後が逆になるので。僕の感覚では、把握できませんでしたが」
警戒するも、何事も起こらず、これは、う~ん。ここらが潮時だろうか。
「察するに、ここから先は、侵入禁止のようだね。あと、上下が逆様か、反転したのは、何らかの現象ーー或いは『転送』のようなことが起こったかもしれないので、一旦外に出て、確認しようか」「だーかー」「残念ですが、『千竜王』の言葉に従いましょう」
ーー良かった。二竜が駄々を捏ねるようなら、ちょっとラカ水準のあれなことをしようとか考えていたんだけど、いや、出来なかったことを残念とか思って……ごぷんっ。
「凡そでいいので、深度を、お願いします」
「わかりました。魔力的には難しいので、壁面の二点間で距離を算定していきます」
フィンの風が届かなくなったので、余裕はあるようだ。何も起こらないと思うが、警戒を緩めず、周囲を探るが。同じような景色が続くだけなので、「光球」とその先の薄闇で、凝視していると目が痛くなってきた。
「らーたー」
「ありがとう、フィン。じゃあ、目を閉じて、魔力的なものだけ探ることにするね」
確かに、フィンの言う通り、五感で竜の感覚に及ぶはずもないので、「千竜王」が何かに反応するかもしれないので、潜り過ぎないように、思惟の湖にゆっくりと体を沈める。
「ーーーー」
空気が変わったのがわかった。匂い、なのか、体が、感覚が、世界の広さを感じ取ったのか、どうやら地上に戻ったようだ。目を開けると、そこにはフィンの「光球」に照らし出される竜山があった。
とすんっ、とフィンが慎重に降りると、どすどす、がつがつ。うん、僕の勘違いだったようだ。氷竜は、いつも通りに大胆不敵である。このままだと二竜が息吹を吐いてしまいそうなので、フィンにも「人化」してもらうことにする。
「フィン、『人化』して。ああ、あと、リンちゃん。竜山の樹々と、竜山以外の樹々か何かに、……そうだった、穴に降りる、というか潜る、のほうがいいかな、潜る前に、目印とか手紙とか残しておけば良かった」「成り行き、というものがあるので、そこは次回に活かしましょう。それでは、石玉で樹を……」「えっと、枝を折る、くらいでお願いします」「……わかりました」
竜にも角にも、二本の樹の命を救ったわけだがーー合っ体っ! むっふー、と大満足な鼻息が聞こえてくる。みーも一等賞な感じの肩のようなので、いや、早合点してはいけないので、竜にとって実際にはどうなのか、リンを肩車して、地竜のもちもち肌を堪能……ではなく、ーーあ。やばい、自然破壊を終えた地竜の石瞳が、昼寝をする邪竜を見る目になっている。
「『千竜王』とフィフォノは、不自然でもなく違和感もなく、仲が良いのは、とても良いことなのでしょう。もう、いっその事、番いに……」
リンの心情を表しているのか、良い、を二回ぃいっ、
ぱんっ。ぱんっ。ぱんっ。
僕のことなどお構いなしに、「飛翔」でリンの前まで移動すると。フィンは、称賛するかのように、激励するかのように、地竜の肩を両手で叩く。
「いーっへーっ!!」「あ……」「な……」
振り返ったフィンが僕の胸に飛び込んできて、リンが遠ざかって、もとい僕たちのほうが離れていったんだけど。一人と一竜で手を伸ばし合っている、何だか間抜けな光景の中、
「んーっなーっ!!」
ご機嫌な氷竜が、塒に向かって一直線だった。
「…………」
……後頭部が堪らない感触を伝えてくるので、寝惚けた頭が氷竜だけど、柔らかいのはきっと美味しいから、もにもにもにもに、……いや、もう三日目なんだから、とち狂っている場合ではなく。そぉ~と、お腹から腰にかけて、もにもにしてしまった手を引く。まぁ、何というか、先ず、この匂いが不味い。いやいや、説明が先だった。フィンは、肩車した状態で眠ることを強要してきた。そうすると、当然僕の頭は、氷竜のお股の……ごにょごにょなので、天の国さんも地の国さんとは絶交だから、幸せが流れる河のように、あっぷあっぷ……うん、駄目だ、流されたら、慣れたら駄目駄目だ、しっかりしろ、僕。人間失格かもしれないが、竜も失格になったら、スナに合わせる顔がない。あー、手遅れとか、そんなこと、そんなこと……。
「ーーーー」
ーー先に言った通り、番い生活、三日目の朝である。ここはフィンの塒で、リンが整理整頓したので、今も概ね綺麗な状態を保っている。フィンは、片付けというものをしない。というより、在りのまま、を尊重しているのか、カレンが来るまでの僕の執務室と似たような感じというか、まぁ、何だか落ち着く場所ということである。
さすがに三日目なので、二回で済んだ。死ぬんじゃないかと思うほど激しかったが、優しくあしらう方法を覚えたので、氷竜の安眠を妨げることなく一夜を過ごすことが出来た。あれ? 何だかまだ頭があれな感じなので言い直すと、就寝中、二回、熟睡なフィンの足で、首を絞められたのだ。でも、一日目は十回だったので、この傾向からして、明日辺り、いや、ほんと、苦痛とともに目を覚ますというのは、精神的に結構くるので。はぁ、今日こそ、死の恐怖を味わうことなく、ぐっすりと眠りたい。
昨日街で買った食材で、さっそく料理である。とと、その前に。今日も肌色を大奮発しているフィンの乱れ捲った服を整えて、手にフィンの魔力を纏わせる。今は、出来ることを増やしている最中である。魔力の扱いに関しては、「氷焔」を見てきたので、というか、頭に刻み込まれているので、上達の早さは中々のものであると自負している。
「ナイフと、同程度には切れるようになってきたかな」
夕食は、便利竜のフィンがいるので、凝ったものが作れるが、朝食は火を熾すのも大変なので、夕食を多目に作って、パンに挟んだり、味を変えたり。料理が上手い人って、食材の使い道とかちゃんと考えた上で作ってたんだなぁ。などと仔竜然と考えていると、コウさんではなく、何故だか父さんの後ろ姿が。……そういえば、僕の家って裕福じゃなかったけど、ひもじい思いをした記憶はない。というか、終ぞ、父さんの仕事が何なのか、知ることが出来なかった。父さんは何も言わなかったし、友人はいなかったし……、周囲の大人たちからも煙たがられていた、というか、腫れ物に触れるような扱い? まぁ、何にせよ、兄さんと出逢うまでは、随分と小さな世界で生きていて、それが当たり前だとーーいや、何を当たり前のように記憶の捏造をしようとしているのか。山々に囲まれていることに苛立っていたし、それ以外にも色々と酷かったし、どうだろう、兄さんと逢わなければ、三寒国から、耐え切れず故郷から、飛び出していただろうか。
匂いに釣られて、もぞもぞとし始めたので、冷気ももあもあなので、そろそろ頃合いかと、寝坊助竜に話し掛ける。
「昨日の余りだけど、エックさんのところの野菜と、フィンの大好きな、マルガリット老の魔法使いチーズーー略して……略して……、ううっ、上手く略せない」「こ…と…」「えっと、フィンの大好きな魔法使いチーズ、ということで、大魔チーズ? 若しくは、好魔チーズ……」「にーなー」「はは、駄目だよ。自分で言ったのに、上手く略せなかったからって、僕の所為にしちゃ」
何でもかんでも先回りしてやってあげると、何もできない子供に育つというので。いや、フィンの場合は、本当に何もしなくなってしまうので、「氷竜と上手く暮らす為の十か条」の一つ、「氷竜は食事の賜物」を発動する。ああ、いや、ごめんなさい、ちょっと調子に乗ってしまいました。まぁ、あれです、フィンは食べることが大好きなので、有効活用しようという、至極当たり前のことです。
ばくばくばくばく。がつがつがつがつ。
今に至るも、味わって食べてくれないフィン。嫌いな場合は、手も付けてくれないので、健啖家どころか竜啖家な氷竜は、これはこれで作り甲斐があるし、嬉しいのだけど。将来、僕に子供ができたらーー、……うぎぁ、っ~、ふぅー、……僕ももう十六周期なんだから、こんな羞恥心なのかおっぺけぺーなのかわからないことで動揺するなんて、未熟なじゅくじゅくを脱しなければ。んー、僕は竜に傾いていて、「千竜王」にも近付いているようなのに、どうしてこんなにも、こっち方面がふあふあ、というか不安定なのだろう。
朝の、合っ体っ。
日課となりつつある、先に食べ終えたフィンが、僕が食べ終わるまで肩車でまったりな、冷え冷え~(るんるん)な一時。なので、氷竜が満足するよう、ゆっくりと食べる。肩車も、もう何十回目かなので、慣れたーーと言いたいところだが。今は、座り心地に拘っているようで、最高の座位を見つけ出すまでは、もぞもぞがぐいぐいでぞもぞもなので、一生食事中……ごぷんっ。
次は、朝のすりすり。片付けを手伝ってくれるご褒美に、フィンが差し出す部位に、魔力を擦り込んであげる。スナやラカと違って、ひとつひとつ触れて、開いていく必要がある。素直じゃないフィンは、氷膜を幾重にも纏っているので、丁寧に馴染ませて、剥がしていかなくてはならない。その度に氷竜は、ふるふると悶えそうになるのを我慢しているのだが、淡い白い気配と一緒に(もれてしまったフィンのまりょくには)、彼方へと旅立たせる(きづかないふり)。
「……ふぅ」
食べ終えてしまったので、立ち上がって、塒から出る。ーーフィフォノ高原。巣穴は高地にあるので風は冷たいが、フィンの魔力で包まれているので、御大が居た木陰のように、涼やかで心地好い。空が近い場所で見上げる、この不思議な感覚、というか感触だろうか、心に迫ってくる感じを表現するのは難しい。
さて、のんびりなのはここまで。体が熱くなるまで、魔力の濃度を調節する。
「るーんー」
ぐでんっ、となったフィンの足から手を放して、くるんっとフィンが僕の背後で着地。その刹那に、氷竜は消える。人間の目で追えない速さで移動しているのだ。先ずは慣らしから。音は聞こえるし、気配も偽装していない。正面から来たので、左手の外側に回るように、魔力の小さな塊を置く。魔力塊にフィンの肘が当たったので、竜頭に手を伸ばす。勿論、それは牽制で、足を引っ掛けようとしたのだが、逆に、ぎゅむっ、と踏まれてしまった。魔力で痛みを麻痺させて、踏み込んで、背後からくるフィンの前に、魔力壁を配置。僕が作った薄い壁など、氷竜の妨げにはならないが。何かあるように見せ付けつつ、両手に魔力を集中。然して違いはないが、僕が作ったのは、壁ではなく膜。同様に、あっさりと破られてしまうのだが、その瞬間に、膜を握って引き寄せる。
どごっ。
……痛い。アランの、終の一撃と同じくらいぶっ飛ばされる。
「フィ~ン~、ちょっと、本気を出すのが早いよ~」「だーけー」「僕が卑怯なのは、そうなんだけど。そもそも、真っ正面から闘って勝てないんだから。それに、フィンだってわかってるでしょ。約束したんだから、兄さんから教えてもらった『狡い卑怯は敗者の戯言』の、意表技と偽装技は今日の内に覚えてもらうからね」「どーりー」
竜にも角にも、動けないのでーーとてとてとて、どすんっ。寝転がって、立ち上がれない僕のお腹の上に、跳躍したフィンがお尻から落っこちてくる。弾くのは簡単だけど、過不足なく、勢いを殺せるだけの魔力を見極めてーー、ふぅ、今日は上手くいったようだ。
「それじゃあ、体が回復するまで、魔力操作の鍛錬をするから、昨日できなかった三つの魔法からやってね」「しーえー」
フィンは美しい、完成された魔法を使う。それは、技術と感性が優れている、と判断して、僕が頭の中で考えた魔法を、実践してもらっている。今は、五種類の偽装を鍛錬中である。フィンは、全属性の魔法が使える。然も、等量で。僕がさっきやったような単純な膜ではなく、属性が異なる膜を五枚重ねれば、面白いことになりそうなので。然ても然ても、次はどんな魔法を覚えてもらおう。
「やっぱり、フィンは物覚えが早いよね。色々と覚えてもらったけど、基本、踏み外してない魔法ばかりだから、そろそろ駄目っぽい魔法もやってみて欲しいんだけどーー?」「なーらーっ」「……それは、ちょっと、早いんじゃないかと。僕にも、心の準備ってものが」「きーつー?」「ぐふっ、そこまで酷くは……、でも、たぶん食み出ちゃいそうだし」
魔力をぐるぐるさせて、誤魔化す。竜の魔力を借りられるようになったからと、好奇心がうずうずだからと、偏重してはならない。借り物を主軸に据えてはいけない。僕の特性を、いや、こちらのほうも「千竜王」からの零れ物かもしれないけど、鱗にも尻尾にも、組み立てを、土台作りを誤ってはならない。ぐ~るぐる、ぐるぐ~る、と魔力を操作して、僕の特性との相性を確かめる。コウさんやスナなら、あっさりと助言を、正解を教えてくれるかもしれないが、たぶん、それは僕には合わない。何だかんだで、失敗して学んでいくのが、僕に合っている、もとい適していると思われる。失敗……蹉跌……緩怠……。う~む、最近大きな失敗をしてない感じなので、胸がうぐうぐな気持ち悪さがあるのだが、どうしたものか。態と失敗ーーは、そんな器用なこと僕にはできそうにない。いや、失敗の演技なら、って、それじゃ意味がないだろう。
「さーて、フィンがあと一つ魔法を覚えたら、街の探索に出掛けようか。三つ音までに二つ覚えたら、そうだね、好魔チーズをたんまり買って、鍋で溶かして、色々な食材をチーズにどぼんっ。チーズが滴る、熱々のものを、口にーー」「とーっやーっ!」
「氷竜は食事の賜物」の切り札を切る。そろそろ切っておかないと、使わずに終わってしまうかもしれないので、頃合いだろう。僕のほうも追い込みである。フィンも頑張ってくれているので、太陽が昇ってきて、心地好過ぎる天気に逆らうように、魔力の渦に身を投じるのだった。
合っ体っ。「人化」したフィンを、地上に降りると同時に肩車。手を繋いで、という妥協はしてくれないので、街では仲良し兄弟、或いは兄妹で、そこそこ話題になっているようだ。フィンの魔力の流れを感じ取る。「隠蔽」や「幻影」だろうか、魔法を使ったようだ。ーーあ、やばい、見つかった。
どたどたどたどたっ。がしがしがしがしっ。
「フィ~ン! おっはよ~ん」「り~と~」「おはよう、ミリア」
僕たちを見つけたミリアは、全力疾走で遣って来て、遠慮など氷竜に氷漬けにされてしまったのか、僕を攀じ登って、肩に立つと。フィンの肩に座って、超っ合っ体っ! フィンが真ん中で調整してくれるので、魔力を貰わなくても何とかなるのだが、ミリアは大人しくしてくれないので油断ならない。然ても、街の人々の視線は暖かなものなので。とはいえ、見世物になるのは御免被りたいので、とっととお店に行くことにする。
「あはは、悪いねぇ、ミリアと遊んでもらって」「いえいえ。然し、この周期で、見事な魔力操作ですから。魔法使いには、弟子入りさせないんですか?」
僕と親父さんの会話などそっちのけ、フィンを引き摺ったミリアがお店の中に入ってゆく。男の子顔負けだが、まだ五歳なので親父さんも自由にさせているのだろう。
「魔法使い、魔法使いねぇ。東域の北西じゃ魔法使いはあんまり居ないから。北東に知り合いはいないし、ミリアを一人でやるなんて……うっうっ、そっ、そんなことぉ~っ!」
頭を抱えてしまう、娘が大好き過ぎる親父さん。愛娘が大好き過ぎる僕と意気投合した、とかそんなことはないけど。竜にも角にも、親父さんとミリアが望むのなら、ということで、竜の国で学ぶ、という選択肢を提示しておいた。今は問題ないようだが、これから先、魔力がミリアにとって弊害となるようなら竜の国を頼るように、との付言も。
お店の中に入ると、がぶがぶがぶがぶ。この竜が遠慮なんてするわけないので、でっかい肉の塊が、ずんどこ減っていっている。まだ三つ音で、僕は竜の胃袋を持っていないので、相伴することは出来ない。なので、不味くない、程度の葡萄酒を注文する。フィンが普通の子供じゃないのは一目竜然なのだが、ミリアは気にしていないし、親父さんも、ミリアの友達に悪い奴なんていない! と断言していたので、まぁ、そういうことである。
「あ、そうだ、親父さん。フフスルラニード国で串焼きを食べたんですが、通常の肉以外だと、どんな肉だかわかりますか?」「肉に関することなら任せな! と言いたいところだけど、まったくリシェ君は、怖いことを聞いてくるねぇ」「大丈夫ですよ。そっち方面のことではなくて、元猟師が食べるようなお肉のことです」「仕方がないねぇ。じゃあ、ちょこっとだけだよ」
フィンのお皿に、切り分けたお肉を、どすんっ。店の奥に行くと、小さなお皿を持って戻ってくる。
「はい。食べてみて」「では、頂きます」
……弾力があるのに、柔らかい。串焼きの肉とは違う、こちらも食べたことのない味と食感。お世辞にも美味しいとは言えない。少し、ではないくらいに苦みもある。
「リシェ君なら大丈夫だと思うけど、他の人に言ったら駄目だよ」「はい。別の風竜に関することなので、それ以外では、だんまりだまだま、なので竜でも知りません」「先ず、小鬼だねぇ。一番手に入り易いけど、残念ながら不味いんだよねぇ。狙うなら、獣型。ああ、でも、ギザマルは駄目だよ。飼育して……って、今のはなしっ、聞かなかったことにして!」
なるほど。ギザマルも餌か環境を整えることで、食べられるようになるらしい。でも、串焼きの肉の大きさからして、あと元猟師ということも勘案すると、ギザマルは外れだろう。
「因みに一番美味しいお肉って、何ですか?」「え? そりゃあ、勿論、竜の……ひぃっ!!」「ーーあ、すみません。今のは何でもないので、記憶から抹消してください」「だだだだだだだだっ大丈夫っ! 何も覚えてないから!」「がぁー! りっしぇー、おとーしゃんいじめたら、めーっ!」「あ~、ごめんごめん、ミリア。僕と親父さんは仲良しだから、すぐに仲直りで竜々だから大丈夫だよ~」「げーらー」
いや、フィン。そんな嘲笑わなくても。昨日買った飴を、ミリアのお口に、ぽいっ。泣いた竜が笑った、ってくらいに、ご機嫌な幼女から顔を逸らして、追究追及追究。
「ーーで、竜のお肉は美味しいんですか?」「ちょっと、リシェ君っ、苛めないで! ……そういう伝説があるだけだからねぇ。本音を言うと、食べてみたいけど、でも、人間じゃ耐えられないと思うよ」「耐えられない、ですか?」「これは魔獣もそうだと言われてるけど、竜の魔力って、普通の、人間とかの魔力とは違うみたいでねぇ。得も言われぬ美味さに、そのまま地の国へと旅立ってしまうとも、不老不死が得られるとも、眉唾な話なら幾らでもあるよ」「不老不死ーー?」
有り得ないーーと言えないのが、何とも。竜の魔力を貰って、色々と試していたが、現在の肉体を維持することくらいなら、出来そうな気がするのだが。他にも、ラン・ティノは、イオラングリディアと愛し合っているというーーつまり、竜と交わることで……ことで? 交わる……目合い……交合? じゃなくて、交尾な性向、もとい成功で生硬な性交、って、だからっ、そうじゃなくて! そういうことでもなくなくてっ! ……もし、「分化」した竜と、触れ合ったら、僕は……ごぷっ。
「…………」
世界の果てでも地の果てでも空の果てでも魔力の果てでも生命の果てでも竜の果てでも何でもいいので竜にも角にも鱗にも尻尾にも彼方にほっぽってしまうのが解決竜も幸せになってしまうくらいの有り触れた日常に回帰する為の竜のお肌が……ごぶっ。
「……挙動不審という言葉が、裸足で逃げ出しそうな感じだけど、大丈夫? 手遅れじゃないよね?」「……大丈夫です。ちゃんと帰ってこれました。まだまだ余力はあります」
炎竜にも氷竜にも、金貨を二枚、親父さんに渡す。この等級の肉は、出回る量が限られているので、明日からは肉塊ではなく、調理されたものを食べさせるとしよう。
「ほ~ら! フィ~ン、おくちふかないとだめーっ!」「れ~る~」
五歳の子供に世話を焼かれる竜というのも、何だか絵になる光景である。お別れの際に時間が取れるなら、正体をーーいや、それは野暮というものだろう。一人と一竜は、種族なんて関係なく、今を楽しんでいる。それ以上に重要なことは、大切なことはない。
「フィンフィ~ン、まったね~」「と~し~っ」
もしかしたら、ミリアはフィン語を理解しているのかもしれない。言葉以上のもの、というのは確かにあるのだ。フィンは、フィン語以外の、身体表現が淡泊なので、肩車した氷竜の手を取って、ぶんぶん振る。氷竜は嫌がっていないので、角を曲がるまで、ぶんぶんぶんぶんっ。ミリアが見えなくなって、ちらっと見てみると、フィンの不機嫌な顔にちょっとだけ、変化の兆しが。何も言わず、膝から下に魔力を擦り込んであげる。
「んーじー」「うん。角から尻尾まで、ぜんぶ僕が悪かったから、次に行こう」
然てまた食べ歩き、継続である。あれだけ竜喰いしても、体重に変化はない。まぁ、あっても困るのだが。妙な噂が広まらないように、他のお店では少しずつ摘んでゆく。
「やーい、リシェ様とフィン様が来たぞ~」「今日こそ、フィンちゃんの遊び相手は、あたしがするからね!」「ほ~れほれ、御二人だけに任せず、お前らも働け~」「フィンちゃ~ん。ほら、お菓子だよ~、美味しいよ~」
僕が魔法を使えるということになっているので、五つ音からは、壊れた橋の修復のお手伝い。まぁ、お手伝い、という領分を超えて、百人力どころか竜人力な活躍なので、この歓迎ぶりというわけである。七つ音に、マルガリット老から好魔チーズをたんまり買い込んで、二つどころか三つの魔法を覚えたフィンへのご褒美である。最後に、フィンが気に入った本を一冊購入。氷竜に乗って、塒へ帰宅である。
「てーるーっ」
ごくごくごくごく、と鍋の好魔チーズは、余さずフィンのお腹の中へ。ぷっはぁ~、と大満足な氷竜。食後のまったりのあと、便利竜のフィンが食器等のお片付け。僕は「フィンの秘宝」の整理となるわけだが、今日は遣っておかねばならないことがあった。
「んーだー?」「これは、竜酒ーー今周期のものはまだ出来ていないから、暫定で、竜の国で今、一番美味しいお酒なんだけどね。はい、先ずはこれ、舐めてみて」
お皿にちょびっと垂らして、フィンの前に差し出すと、べろり。
「な…ん…っ」
お子ちゃまにはわからない味だったか。と言えればいいのだけど、僕も違いのわからない少年なので、偉そうなことは言えない。然ても、もう一度である。同じくお皿に、ぽたり。竜酒に指を付けて、フィンの前に差し出す。
「だーよーっ」「まぁまぁ、そう言わずに、騙されたと思って、というか、騙されて、舐めてみて」「なーんー」
本当に騙された場合に、物凄いことを要求されてしまったが、いや、さすがにあれを舐めたり飲んだりするのは無理じゃないかと。
「だ~よ~っ!」
ぺろっ、とした氷竜は、冷気をもうもうと、もっと呉れ呉れと催促してくる。ぐっ、布袋の中身をぜんぶフィンのお口に投入したくなってくるが、我慢我慢で竜も我慢。予想通りの効果ーー僕を介することで竜に影響があるーーが確認できたので、仕込みをしつつ、竜笛を見てもらう。
「まーだー?」「って、駄目駄目っ! 吹いちゃっ!? ……大陸の全竜に聞こえるらしいから、こんな近くだと、たぶん凄く煩いんじゃないかな」
咄嗟に魔力で奪い取って、スナから貰った竜笛を手元に置く。このあとは、戦略戦術、というより戦法と言ったほうが近いのか、色々とやるんだけど。基本的なものは、昨日の時点で終えている。立ち位置の確認に、魔法の時機。それから、近くの湖に何十回も跳ね飛ばされたり、股の間を潜るのにフィンが失敗したりして、昨日は蟹股だったとか、いや、ほんと、これらのことが役に立たなかったら、枕を涙で濡らしてしまうかもしれない。
フィンが片付けを終えたので、今日買った本を持って、初日に街で購入した毛布の上に座る。ペルンギーの宝石ほどではないが、中々の手触りである。なので、フィンがお眠になるまでは、肩車ではなく、膝枕である。ゆっくりと動かして、氷竜の氷髪の感触を味わいながら、読み聞かせの開始。
今日の物語は、……有名な竜退治の話なのだが、まぁ、フィンは気にしていないようなので、魔獣使いである主人公の波乱万丈な冒険譚を語ってゆく。
「は~な~っ」「はは、そうだね。魔獣百匹で襲い掛かるのは酷いよねぇ。途中からは、主人公が強くなり過ぎちゃって、読み手を選ぶ物語になっちゃったから。それに、竜がちょっと可哀想。幾ら主人公の策略とはいえ、仲間の竜が誰も助けに来てくれなかったからね」「さーなー」「そこは、まぁ、ご都合主義ってことで、作者は竜の能力の本当のところは知らないわけだから。はい、じゃあ、次だね」
ここからは、フィンが満足するまで、或いは僕が限界を迎えるまで、古き知識に、物語に触れてゆく。昨日運んできた分が残っているので、積み重なった「フィンの秘宝」の、一番上の本を手に取る。
「へ~、これは聖語時代の逸話を集めたものらしいね。さすがに聖語使いではなく、下位語を用いていた人々の、ん? 民間伝承もあるのか」「く~ち~っ」
せがまれ捲りなので、さっそく読んでゆく。「フィンの秘宝」の多くが、竜語で記されていた。今は埋まってしまっているらしい「竜図書」から写したものだそうだ。そう、フィンは狡っ娘な魔法使いと違って、きちんとひとつひとつ手書きで写していったのだ。つまり、「フィンの秘宝」の蔵書は、現存するすべての書を写した竜書庫の劣化版ーーなどと言ってはいけない。たとえ事実であろうと、別の側面から見れば、お宝、ということなら「フィンの秘宝」のほうに軍配が上がるだろう。竜書庫の本と異なって、一言で言うと、味が、重みがあるのだ。周期を閲した、匂いや感触。匂いーーというのは、まぁ、本好きが感じる、におい、というやつである。
必要がなくなった、使わなくなったものは、周期の優しさと厳しさに磨り潰されるのは、人も竜も変わりがなく。いつの間にか、フィンは竜語を解することが出来なくなっていた。日常的に、或いは記憶を刺激し続ければ、覚えていられると。そんなことをスナが言っていたような。過去に覚えていたはずの、失われてしまった、いや、忘れてしまった、人の言葉を、周期が降り積もって尚在り続ける、宝箱に仕舞っていくように。
ふと、思い出す。スナと、一人と一竜で完結していた物語。今は、フィンと、一人と一竜で完結していない物語。そう、あのときとは明確に違うことがある。
静かで、僕の声以外には、優しいものしかないから、ゆったりと漂ってしまう。フィンの不機嫌な顔の向こうに、膨れっ面の女の子の姿がーー。
「ーーーー」
ーーコウさんは、これだけの蔵書を有するフィンに逢いに来ることはなかった。それはフィンに限ったことではなく、すべての竜に対しても。当然、魔法使いは大陸の、いやさ、世界の全竜の居場所を把握していたはず。あの、好奇心だらだらの娘が、竜と接触しなかったのは、……う~ん、老師でもコウさんを止めることは出来なかっただろうから、はぁ、あの娘っ子、まだ何か隠し事をしているのかもしれない。すべてが解決して、魔法使いが願った通りの結末に、みーは大好きな女の子の胸に飛び込んでいって、それを見詰めている僕の顔がーー、
「もう、フィフォノは眠っています」
思惟の湖に潜り過ぎた所為か、竜の気配だというのに、まったく気付かなかった。
「何を考えていたのでしょう。『千竜王』は、とても優しい顔をしていました」「……っ」
え、あ、うっ、……ぐぅ、心の内を見られていたわけでもないのに、何だろう、この竜も寝転がってお腹を見せたい感じの、服従的な羞恥心の集まりみたいなものは。見ると、服が捲れて、竜のお腹が丸出しだったので、直してあげる。然しも無し、リンが遣って来るのは、予想より些か早かったが、大丈夫、間に合った。
「……フィフォノは、何をしているのでしょう?」
見ると、ふわりと浮き上がったフィンが、その場でくるりくるりと横回転して、僕の膝に、顔、というか頭全体を擦り付けていた。
「もう少し、みたいですね。ぐりぐりも、ずりずりも、さわさわもいまいちだったようで、今日はくるくる、かな? 魔力の感じからして、もう一歩、というところみたいです。……あー、えっと、リンちゃん、どうしたの?」
「知らないのでしょうか。地竜は大地の魔力を享け易くする為、うつ伏せで眠るのです」
ゆくりなく地面に膝を突いたリンは、そのまま、ぽふんっ、と前に倒れて、僕の膝に顔面を乗せる。これもまぁ、膝枕なのかな? そういえば、ボーデンさんのお店では、リンより先に寝て、地竜より後に起きたんだったっけ。でも、翡翠亭でナトラ様は、仰向けで眠っていたから、うん、深く突っ込んで聞いてはいけないようだ。ふむ、膝枕の前、リンはフィンの竜頭を見ていたから、問題ないだろう。
「……っ」
ぴくり、と地竜が微震。すぐに治まったので、撫で撫で、継続。でも、このままだと、地竜が大地震を起こしてしまうかもしれないので、炎竜氷竜風竜地竜にする。
「皆は、ーーどうだった」「『千竜王』は、どこまで邪竜なのでしょう。モルゲルガス、ゼーレインバス、ユピフルクシュナに助力を乞うて。ユミファナトラとーーこのようなこと、大陸では初めてでしょう。五地竜結界で、……本当は、六地竜結界にしたかったのですが、炎氷風を閉じ込めました」「皆は、明日の朝には遣って来るのかな」「実際に、やってみないとわからない、ということがあると知りました」「ごめんなさい。リンちゃんにまだやって欲しいことがあります」
フィンの願いを断れなかったとはいえ、リンには迷惑を掛けてしまったので、心づからこれ以上ないくらいに繊細に、柔らかに地髪を梳る。
「あのとき、止められなかった責任もあります。あとは、何をすれば良いのでしょう」「あとで規則を記した紙を渡すので、スナに届けてください。そうすれば、スナたちは、その範囲内で僕をぎったんぎったんにしてくれると思うので」「難儀なことです。『千竜王』は自分が悪いことをしたとわかっているのに、後悔はしていないようです」「……そういうわけで、ルエルとレイとーー、ユピフルクシュナは、ナトラ様と同じで、強そうな愛称のほうがいいかな?」「そんなことはありません。可愛い愛称にしてあげたほうがユピフルクシュナは喜びます。……たぶん、きっと、そんな感じが、あるかもしれません」
言い切ってはみたものの、素直なリンは、嘘を吐き通すことが出来なくて。地竜のお願いを聞いてあげたいところだけど、実際にそうしてしまったら、きっとリンは自分を責めてしまうだろうから。でも、正当化の為に、僕を悪者にもできないだろうから、そうだなぁ、パルの愛称を付けたときのように、響いた言葉を拾い上げてみるとしよう。
「ジュナーーにしようかな」「ユピフルクシュナも喜ぶと思います」
即座に反応が返ってきたので、何だか地竜が可愛くて、悪戯したいところだったけど。竜の願いと竜の願いが重なったとき、僕はどうするのか、それに答えを出しておかないといけないので。感謝の意味を込めて、角を軽ぅ~く擦るに留めておくのだった。