五章 竜竜竜と侍従長 後半
「ひゅるるんひゅるるんひゅるるんるん」
目を開けたら、そこはラカでした。
「ぴゅー」
僕の上に寝そべって、顔の横にある両手は僕の服をぎゅっと掴んで、ぽやぽやの風竜は半眼だった。そんなお顔も胸に、魂にずぎゅんっと来てしまう、ではなくて。見るべきところはラカの表情で。眠たいわけではなく、抗議の意思が込められているようだった。
竜にも角にも、手持ち無沙汰だったので、覆い(フード)を被せて、垂れ耳風竜にしてしまう。それと手に、腕に違和感がないので確認してみると、甘い匂いも、冷たい(やわらかな)感触もなくてーー。
「びゅー。りえ、意地悪は、めっ、なお」「んー、許してくれないのかな? 昨日は仕事に忙殺されていて、寝床としては不十分だっただろうから。エクリナスさんたちを歓待する役目をお願いしたかったんだけど」「……くうとえうに可愛がられあ」「あ……」
仕舞った。クーさんの、あれな感じのあれれ(ちょーやばばー)、を忘れていた。妹の代替として、スナは役立ったのだろうけど、完全に心の隙間を埋める(まんぞくさせる)ことなど出来ようはずもなく、エルナースさんも含めて、いや、だばだばな宰相にどやどやな王妹という、何ともいえない二人の相乗効果と相俟って、風竜は大変お疲れのようです。
「未来の風をこの手に」作戦の為とはいえ、少し可哀想だったかも。ラカは、エルナースさんに「ルカ」と呼ばれて、拒絶しようとした。でも、自身の変化に心付いて、直ぐに許可した。
ーー空を吹いている。風を忘れている。そこは自由だったから。見えないものは大切だった。そんな心も捨ててしまって。風を許していたからこそ、吹かれていられたのだと。
風を追い求めたへっぽこ詩人の言葉が、ゆくりなく浮かび上がってくる。ラカの心が靡いている。それに気付いた風竜は、いずこへと吹いていくのか。
「ひゅるる~。わえは、不貞寝すう」
ふよふよ~と浮かんでいって、天井にぴとっ。然ても、天井の寝心地の順位はどのくらいなのだろうか。ラカ箱もちゃんと用意していたのに、角磨きもさせてくれないらしい。そうだった、時間が取れれば新たに、スナ箱と百箱も誂えておくか。
「ひゅー」「…………」
う~む、これは不味いかもしれない。あまり遣り過ぎると、風はこの手から逃れて、何処かに吹いていってしまうかもしれない。ラカの魔力を借りれば、引き寄せられるかもしれないが、慎重に風の匂いを吟味した結果、ここは風竜に不貞寝の心地を味わってもらうことにする。まぁ、栓ずるところ、風任せ、というやつである。
がちゃ。ぱたり。りーん。
居室の扉を閉めたのと、一つ音の鈴が鳴ったのは同時だった。昨日の激務によって疲労した体を解そうと、のんびり歩いていると、
りぃーん。
小宰相は転ばなかったようなので、撫で撫でしてあげると、わっしゃわっしゃとしてしまうので、りんっりんっりんっりんっと鳴ってしまい、本日も失敗してしまうわけだが。
「竜は何処に居るかな?」
ミクに尋ねることで、魔法人形が過失に気付かないようにーーというか、そんなこと出来るのかと思ったが。失敗? 何それ美味しいの(訳、ランル・リシェ)? ちょっと僕の願望が混じっているかもしれないが、今日も元気でめげないミクは、両腕を真っ直ぐ横に伸ばして、く~るくるっく~るくるっ、と回転すると、びしっと上を指差した。
「そうなんだ、ありがとう」「ーー魔法団団長は見た!」「ーー王様も見た」
振り返ってみると、曲がり角の向こうから、にょきっと顔が二つ。僕と遊ぶ、もとい僕で遊ぶのは楽しいのか、魔法使いに倣う王様。あまりアランに学習させると、帰国したあとに自分に降り掛かってくるかもしれないというのに、呑気な変魔さんである。
りんっりんっりんっりんっりんっりんっりんっりんっ。
あ~、これは朝から不味いのではないかと思ったが、さすがは王様の魔法使い、「結界」を張ってくれたようだ。
「ふむ。ここが一番良いらしい」
ミクの角ばった頭の角をアランが指でぐりぐりすると、これは喜んでいるのだろうか、王様に体ごとすりすりする魔法人形。……この調子だと、アランが帰国する際には、幾体かの魔法人形が一緒に付いて行ってしまうかもしれない。たぶん、シャレンが許可を与えたら、「六形騎」もドゥールナル卿に付いて行ってしまいそうだが。う~む、彼のほうで拒否するだろうが、そこを説き伏せて随行させたほうが「六形騎」にとって幸せなのかもしれない。「騒乱」では遣られっ放しだったし、ドゥールナル卿を翻意させるというのは、演習という観点から見ても非常に有効かもしれない。
「えっと、アラン、遣り過ぎです」
ミクの惨状に、思惟の湖に潜ろうとしたところで、湖岸に引っ張り上げられてしまう。「王様のぐりぐり」は格別だったのか、魔法人形は停止して(とろけて)いた。まぁ、じきに動き始めるだろうと、壁に凭れ掛からせる。王様が、加減を間違えてしまった理由。そろそろどうにかしないといけないわけだが。アラン自身で解決してもらうのが、一番いいわけなのだが。ーー焦らず、もう少し様子を見たほうが……。などと惟ていると、毎度の如く、僕が先頭で、当然のように付いてくる御二人。
たしっ。
「ここに居ったか、主」
ミクの導きに遵って屋上に上がると、僕を探していたのだろうか、外套を翻して飛んできて、軽やかに着地する百とーースナとナトラ様。
ごとっ。ごとっ。
百が首根っこから手を放すと、竜精も竜根も尽き果てたのか、痛そうな音とともに落っこちて、床にうつ伏せになって、ぴくりともしない氷竜と地竜。然し、見回すと、幾人かいる竜の民は僕らに気付いていないので、「結界」か「隠蔽」を使ってくれているようだ。
「百は、大丈夫なんだね」「我は、『結界』の最初の構築を手伝うたあとは、北の洞窟にて『竜の残り香』を。ほっかほ風に問題あらば、我が後詰めとして加わる予定であったが、竜の矜持というやつか、我の出番はなく、ゆるりと休めた」「二竜がここまで消耗するってことは、深刻なのかどうなのか、何かあったのかな?」「何かあった、は他人行儀に過ぎよう。馬風の遣らかしに、主も荷担しようからには、今少し責任と、あとは危機感を持つべきであろう」「…………」「何があったかは、此奴らに聞くが良い。『結界』で竜の民は気付かなんだが、『結界』の外までは及ばぬ。竜共が集ってきた理由をーーまたぞろ適当な噂を捏ち上げる必要があるであろうよ」
僕が仕事に感けている間に、色々と大変なことになっていたらしい。これは認識が甘かったのかもしれない。未だ、うつ伏せのままの氷竜地竜。二竜に深刻な負担を強いてしまったようだ。と思っていたら、火が付いたように、と言うと怒るかもしれないので、氷にお湯を掛けたように、というのも何か違う気がするが、まぁ、突発的に手足をばたばた、じたばたじたばたじたんっばたんっし始めた愛娘。もうもうと冷気を噴出しているところが、何だか可愛い。
「竜が集ってくるのは予想していたですわっ、何の問題もなかったですわっ、十分に対策は施したですわっ、なのにっ、あの雷っころ! 他竜が居なくなると遣って来てっ、雷竜の魔力で『結界』をずたずたにしてっ、だったら父様のところまでくればいいのにっ、行こうかな? やっぱり止めようかな? って感じで迷って! 結局去っていって! 何度も何度もっ、竜が居なくなる度に遣って来て! それから気紛れに水っころが息吹を吐いてくるのですわっ、然もっ、息吹の水が『結界』を溶かすとかっ、越境魔法か何なのかっ、水竜戯んじゃないですわっ! 雷水戯んじゃないですわっ!? もーっ、もーっ、もーっ、これから来た竜はっ、『結界』の外でけちょんけちょんにしてやるですわっ!!」
雷竜と水竜というと、古竜のリグレッテシェルナとストリチナだろうか。然てしも同じ言葉を二度言ってしまうくらい、氷竜様はお怒りのようです。と言っても、純粋に怒っているというわけではないので。スナの前に、僕は両膝を突いて、両手を腋窩ーー脇の下に、頭を氷竜の肩に、それから愛娘の頭に僕の頭を、こつん。両手を背中に回すようにしながら、密着したまま竜娘の体を引き上げてーー人に、竜に見られても言い訳するつもりがないくらいに、ぎゅっとする。
「…………」「ーーーー」
顔が同じ高さにあるので、スナの顔は見えない。でも、それで構わない。こうして繋がった魂の感触以上に、互いの心地を伝えるものなどありはしない。スナは抵抗しない。力ない腕の行き場に迷っていない。「浮遊」も使わず、僕に身を任せている。
ーー世界の終わりは、果てに在るのではないと。ここに在るのだと知ったのは、腕の内の、自分自身の在り処を識ったから。一つではない二つの、物語が響き合っているのだと。
がしっ。
へっぽこ詩人の詩に浸っていると、魔法というより属性の能力だろうか、屋上の床にずぶずぶと潜っていこうとしたナトラ様の服をアランが掴む。
「ーーーー」「…………」
ずぶずぶ。ぷかぷか。ずぶずぶ。ぷかぷか。……ぷかぷか。
駆け引き、というよりナトラ様の心情を表した浮沈劇は、諦めなかったアランの勝利によって幕を下ろす。また、然かと思えば氷竜と一塊の僕を見遣るアランだが、地竜を転と引っ繰り返すと、軽々とお姫様抱っこ。
「魔力や体力に問題はない。『結界』は氷岩が修復したで、今しばらくは持つであろうよ。精神のほうが疲弊しておる故、どこぞで休ませてやるが良い」「ふむ。昨夜、翠緑宮の森を散策していて、ナトラが気に入りそうな場所を見つけた。そこへ向かうとしよう」
すぅ、と走り出すアラン。何か変だな、と思って見てみると、上体が上下していない。踵からではなく爪先から下りているようだ。ナトラ様に負担を掛けない水平移動で、そのまま硝子の欄干を越えてーー、スナの魔力を貰って耳を澄ましてみるが、着地等の音は聞こえなかった。う~む、、やっぱり意識してだと、まだまだ上手くいかないようだ。
「ぽつん」「いえ、ユルシャールさん。置いていかれたからといって、そんな自虐をしなくても」「ぽつねん」「我を見たところで、其方の望みなど叶わぬぞ」「それじゃあ、望みがあるかもしれない竜を呼んでみようか、リーズ」「ーーお呼びにより参上いたしました」
ふぉんっ、と上空から瞬時に移動してくる風竜。
「あれ? 百はリーズのこと、気付いてなかった?」「…………」「風は紛れるのが得意ですので、我に気付かなくても致し方ないでしょう」「それで、主よ。比較的真面なほうの風を呼んで、如何にしようというのだ」「うん、それはスナ次第かな」「…………」
直ぐには答えないようなので、待ち切れずに欄干の覆硝子から角を覗かせている天竜に、手招きしながら声を掛ける。
「イリア、おいでおいで~」「っ、『千竜王』のぶぃぎっ!?」
ずがんっ。
「我と異なり、氷筍は容赦がない故、気を付けるが良い」
「……そ、その言葉、確と受け止めよう」
でっかい氷塊の下で、真摯に反省する天竜。まぁ、イリアは面倒を起こすかもしれないので、そのままで居てもらおう。
「で、スナはどうするのかな?」「……二竜を引き入れたのは、風っころですわ?」「ええ、エイリアルファルステの魔力がある程度回復したので、東域に戻ろうとしたところ、ラカールラカの、あの、『拷問のような欲求』を叩き込まれたので、エイリアルファルスが『辛抱堪らん状態』で駄々を捏ね始めまして。そうこうしていると、我でも抗えないほどの突風が吹いて、気付けば『結界』の内側に居ました」「イリアを抑えてくれたリーズの頭を撫でてあげたいけど、今は不味い?」「ーーヴァレイスナ。お願い致します」
リーズがスナを見ると、がきょんっ、と頭部を残して氷漬けの風竜。まぁ、そこまでしてくれたのだから、リーズの魔力を僕の魂と混ぜ合わせる感じで循環させてから、撫で撫で撫で撫で撫でーー。
「っ、っ、っ、っ、っ……」
何やら風竜は大変なようだが、嫌そうではないので、ぐったりとしてしまうまで撫で撫で続行。ご褒美を見た天竜は、氷塊の下でじたばたし始めて、
「くっ、ランドリーズめ! 羨ま怪しからんぞ! 我もぅばっ??」
極炎が追加されて、大人しく、というか、もしかしたら瀕死かもしれないイリア。
「氷柱よ。話を逸らしておらんで、此奴らが面倒を起こさぬ内に、早々に主の要求に応えよ」「相も変わらず、炎竜はせっかちで、情緒を解さないのですわ。風っころに乗っかるようで嫌ですが、父様が炎風塗れで臭くなるのは御免ですので、私も付いていくのですわ」
スナに変化はない。隠してしまった氷竜は、言葉ほどには素直でないらしい。そんなところも愛らしい、とか言ったら、照れ隠しに氷漬けにされそうなので、何も言わずに背中を優しく撫ぜる。イリアとリーズを「結界」の間隙から取り込んだ、というか吹き込んだのは、ラカなりの、スナへの恩返しだったのかもしれない。二竜が竜の国に居てくれれば、スナは心置きなく前言を翻すことが出来る。僕の氷竜は、有言実行のひゃっこい娘だから、代理竜が居なければグリングロウ国から離れることはしなかっただろう。
「というわけで、早ければ明日中に、竜たちの『欲求』が落ち着くそうだから、東域に行っている間、二竜に竜の国の守護を任せたいんだけど、引き受けてくれるかな?」
「「…………」」
氷漬けと炎氷の二竜の頭が少しだけ動いたので、了承してくれたようだ。
「リーズ。この近くで、風が一番気持ちいい場所を教えてもらえるかな」「…………」
返事はなかったが、ぽふっ、と泡のような、触れたら簡単に割れそうな球体が出現して、ふよふよ~と先導してくれる。アランとナトラ様のように、僕もスナを休ませてあげないと。百がめらめらのあっちっちで、割を食ったイリアがぼうぼうでびくんびくんしているが、炎竜が耐えている内に消えたほうがーーあ。愛娘が、あっかん竜、をしたようなので、泡球を引っ掴んで、迫ってくる炎から逃れて、アランの静かな走法とは逆の、どたどた具合で背中から落ちるように階段へと飛び込んだのだった。
二つ音の鐘が鳴るまで、「風の庵」とでも呼べそうな程好い空間で、風と光に抱かれて。空寝中の僕の腕の中から、痕跡すら氷に包んで、静かに飛び去っていった。仕事したくないなぁ、とスナの感触の余韻と甘い残り香にどっぷりと浸かりながら思ったが、カレンの黒曜の瞳を想見すると、動き出すだけの諦めを投げ込んできてくれる。
昨日やり残した緊急性の低いものと、今日の分の仕事と、四つ音までには終わらせて、体と、何より心を休めようと思っていたのだが。あともうちょっとで終わる、というところで、お空で風竜がふよんふよんだった。大広場で、侍従長を遠巻きにしている竜の民は気付いていないので、以前と同じように風に乗って漂っているときは、「隠蔽」を行使しているのだろう。然しもやは僕の視線は風竜ではなく、別のところに向けられていた。
「ーーーー」
人の視線には力がある。と言う人もいるが、じぃ~と見ていると、背中を向けていたのに、竜に願いが届いた(ひごろのおこないがよい)のか、不意に振り返って、僕に気付く。気付いて、逃げ出そうとしたので。
「ラカ! 捕まえて!」「……ぴゅ? ふあこっ、ふあこ?」
僕にもラカの「隠蔽」が及んだようなので、竜の民を避けつつ追い掛ける。
「ラカちゃんは捕まえたから、逃走継続ぅ~」「ぴゅ~?」
人捕る竜が人に捕られる、という状況が正に展開されて、双子の片割れに捕獲された風竜は、僕への蟠りもあるのだろうか、抵抗することなく連れ去られる。くっくっくっ、良いでしょう、良いでしょう、遁走の専門家である「神遁」の僕から逃れられると思っているなら、是非にも遣ってみるがいい。というわけで、竜の一咆哮ならぬ氷竜の一魔法。
「スナ! 捕まえて!」「びゅ!? あこっ、あこっ!」「駄目よ、ラカちゃん! 諦めたらそこで竜生終了よ!」「風~竜~捕~まえ~た!」「ひゅ~、りえに捕まっあ」「ひっ、どこから!? くぉ~、なんのっ、ラカちゃん、分離!!」「あこっ、わえを捨てるの、めっ、なお」「そろそろ諦めないと、邪竜が触るよ~、邪悪竜が触っちゃうよ~?」
とまれ、ちょっと遊び過ぎたと反省。女の子が壁に寄り掛かって息を乱していたので、風竜を贈り物。自らを守るようにラカを抱き締めて、上目遣いで見てくるので、風竜共々もっと苛め(あそび)たくなって……げふんっげふんっ。ふぅ、そろそろ真面目にやろうか。
「ラカ。あこ、ということは、ギッタなのかな? そうすると、サンは、ふこ?」「ひゅ~。ふことあこで、ふあこなのあ」「そういえば、何で、ふあこ、なの?」「ふあこの風は、ふあふあだから、ふあこなのあ」「そうなんだ。双子から変じたのかと思ってたけど、風の状態から来てたのか」「ふあふあでふかふかのこんもりだから、ちょっと迷っあ」
なるほど。場合によっては、ふかこ、になっていたかもしれないと。
「む~」「ん~? こうして見ると、エスタさんにちょっと似ているかな? ギッタも大きくなったら、あんな感じの美人さんになるのかな?」「う~」「竜にも角にも、勝負は僕の勝ちだから、付いてきてね」「んべ~」「びゃ~」
ギッタに倣って、ラカも一緒に、あっかん竜。……ぐふっ、これはやばい、可愛さ余らず、風満杯である。鼻血が出そうなので、もとい体中から魔力が溢れ出しそうなので、ーーいや、暫し、然し、待たれたし、ギッタから小憎らしさを学んだラカが、堪らんのはどうしたものか。……うん、落ち着け、僕。ちゃんと言葉にして、お願いしたのは僕なのだから、「発生源の双子」の為にも、フラン姉妹の選択を無碍にはできない。
「あ、あった、ここか。カレンが言っていた、隠れた名店」「ぴゅ~?」
竜区のーー竜の肺の商店街の奥まったところ。外観は、そのまま通り過ぎてしまいそうな、何処にでもある一軒家なのだが、見上げると、扉の上に愛嬌のある黒猫の看板が取り付けられていて、「黒猫屋」と小さく刻まれていた。こういった隠れ家的な場所にわくわくしてしまうのは、少年の性なのだろうか。いや、わくわくなのは、少年の特権ではなく、少女を飾り立てて、魅力的にしている。子供っぽさが勝っていなければ、見惚れていたかもしれない。これまでは、いつも二人一緒だったので、片翼に注目することはなかったが。ととっ、この言い方は良くなかった。片翼ではなく、サンもギッタも双翼で、二人は四翼で羽搏いているのだ。お互いに、片翼であろうとした双子。然ても、翼が増えたことで何が起こるのか、楽しみーーと言ったら失礼になるかもしれないが、わくわくがどきどきである。扉に手を当てて、須臾も迷わず、ラカにお願いをする。
「ラカ。このお店の中でだけ、『隠蔽』を使わないでもらえるかな」「ぴゅ~? 何え?」
風竜の風が滞って(まだねにもって)いるようだ。でも、僕の言うことに唯々諾々として、風を吹かせるだけでなく、疑問を持って風を調整してくれるのなら、良い傾向と言っていいだろう。
「それは勿論。ラカを自慢したいから」「ラカちゃん、気を付けて。あれは嘘吐きさんも逃げ出す顔よ。極悪人さんも自分が悪かったと謝る顔よ」「酷いなぁ、嘘じゃないのに。勿論、別の思惑もあるわけだけど」「ひゅ~?」「竜と接したら、竜の民がどんな反応をするのか、ラカに知ってもらうこと。あとは、侍従長がお店に行くと警戒されるので、竜で緩和ーーというだけでなく、優遇もしてもらえるかもしれない。ラカにはそれだけの魅力があるので、いつも通りにしていてくれればいいよ」「ラカちゃん、甘い言葉には毒があるのよ。じじゅーちょーの猛毒は、竜だって蝕んじゃう、やばいやつなのよ」
何故だろう。いまいちギッタの言葉に反論する気が起きないのは。まぁ、扉の前で、いつまでも非生産的なことをしていても仕方がない。扉を開けると、にゃ~、と本物の猫が鳴いたような、というか、紛う方なき黒猫のお出迎えで、全員店内に入ると、気紛れな黒い獣が、ぴょんっと風竜の頭に飛び乗った。通常、動物などは竜の力か気配なのか、恐れて近付かないものだが、ラカはその範疇にはなかったらしい。或いは、風竜の頭上で寛いでいる、この黒猫が特別なのだろうか。
「実は、魔猫だったりするのでしょうか?」
黒猫と仲良しらしい、上から下まで真っ黒黒の衣装のお婆さんに尋ねてみる。
「そいつぁあたしも知らなかったねぇ。風竜様を従えるなんて、魔猫様の御飯には、明日から小魚一匹追加しないといけないさね」
にゃ~っ、と嬉しそうな鳴き声。まるでお婆さんの言葉を理解しているかのようである。寝床を追求する風竜を寝床にしてしまう手際といい、侮れない黒猫さんである。
「ところで、何故ラカが風竜だと知っているんですか?」「おやおや、怖いねぇ、凄むんじゃないよ。なんだい、知っていて来たんじゃないのかい? ここは情報も売っているんだよ」「それはーー、あっさりとばらしてしまっていいんですか?」「構わないさね。あんた、侍従長だろ? 竜も懐く相手を敵に回す気なんて更々ないねぇ」「ってことは、カレンは気付いていない?」「ああ、あの嬢ちゃんかい。お嬢ちゃんは、もう少し柔らかくならないと、そっち側のお客さんにはできないねぇ」「何を言ってるお婆ちゃん! カレン様ほど程好い弾力の稀に見る奇跡的な天の国にましますしっとりもちもちなねっとりはこの世界に二つとない……」「ラカのお尻と、どっちが上?」「ふゅごっ!? ……き、僅差で……、カレン様…が上……かも?」「ふぇっ、ふぇっ、ふぇっ、風竜様より上質とは、それはそれは良い情報を入手できたから、お買い求めの際は、お安くしてあげるさね」
広くはない店内。いや、そもそも店の体裁を成していない。簡素な机が幾つか置いてあって、机上には値段がわからない様々な品が転がっていて。片付けがあまり得意でないお婆さんの自室、と言っても通ってしまいそうだ。黒猫にとって居心地が良いようにラカにとってもーーというか風竜としての矜持なのか、魔猫より先に、すでにお眠である。
「これらの品は、僕は触らないほうがいいですか?」「そうさね。うちの売り物は、全部魔法具か魔具だから、商品を台無しにされたら堪らないねぇ」「というわけで、ギッタ。こちらの貴婦人が、詳し過ぎることについてだけど、どうしてかわかるかな?」
店内の商品を見回していて、一所に視線が釘付けになっていたギッタに尋ねる。
「え? ん~、内通者?」「考える手順として、身近な者を疑うのは基本だけど……」「おやおや、本人の前であたしの正体を暴こうたぁ良い度胸をしてるねぇ」「情報屋はすでに引退して、今は趣味のようなものでしょうから、周期若い者の教材になってください」「ほっ! 怖いっ、怖いねぇ。色々言われてるけど、やっぱあんたは面白いよ」
て感じで、ギッタが考えている間、お婆さんとの会話を楽しんでいたのだが。今は二人一緒でない所為か、「痴話喧嘩」のときのような明敏さは発揮されないようだ。
「ギッタ。このお店の売り物は、魔法具と魔具だよ」「……だから、何?」「ギッタも知っている通り、僕は竜の雫を持っている。これだけの貴重な品がごろごろと、全部買い取るのが当然なんだけど、僕はそんなことをしない」「……売りなくない? ん……、売るつもりがない?」「まったく売らないわけではないと思うけど。引退したとはいえ、こちらの黒猫のお姫様は、情報収集を趣味としていらっしゃいます」「さっきから貴婦人とかお姫様とか……って、まさか! この黒猫ちゃんは、魔猫ちゃん!?」
さすがに助言が過ぎただろうか。貴婦人も「黒猫」のお姫様も、お婆さんへのお世辞というかおべんちゃらではなく、魔猫に対してのものだったと。
「あらあらまぁまぁ、ティティスの正体を見抜いたのは、貴方が初めてですのよ!」「はは、さすがにお婆さんのほうが魔法具だったら、仰天していただろうけどね」「ミニレムを拵えたあんた達が何言ってるさね。うちの王様が暴走しないように、ちゃんと目を光らせておくんだよ」「そこで提案なんだけど、ティティス姫。お婆さんが天の国に行ったら、僕のところに来ないかい?」「あら! 求婚されちゃったわ! どうしましょっ、どうしましょっ!」「はっ! あたしゃあと百周期は生きるつもりだからねぇ、あんたのほうが先にくたばってるんじゃないのかねぇ」「僕のところ、と言っても、ラカが一緒に居てくれれば、ラカの親友になってくれてもいいし、魔法王の愛猫というのも悪くないと思うよ」「何よ何よっ! 『千竜王』の愛人にはしてくれないって言うの!」「……愛人、のほうを姫は希望するの?」「ティティスだって、いつまでも夢見勝ちの少女じゃないですのよ。あの氷姫には、ティティスだって尻尾を振っちゃうわ」
ティティスがちらっと見ると、お婆さんは机の引き出しの一つを開けて、壊れているのだろうか、かちかちと欠片が触れ合ったような音のする、布袋を取り出して机の上に置いた。袋を開けると、水晶らしきものの残骸が。話の流れからして、これは覗き見の代償だったらしい。余程貴重な品だったのか、お婆さんが真顔で聞いてくる。
「これ、氷竜様に頼んだら、直してくれると思うかい?」「頼み方によっては、この魔法具よりも高性能のものを造ってくれると思いますよ」「……水晶玉で見ていたらねぇ、氷竜様はこっちを見て、にこりと、いや、違うねぇ、ひやりと笑ったのさね」「それはそれは、嘸や肝が冷えたことでしょう」「ふぅ、寿命が五十周期は縮まったよ」「ティティスもティティスも~、氷姫の魔力を感じただけで、冷え冷えですのよ~」「ってか、ってか、ティティスちゃん普通に喋ってるしっ! 何でこの人たち普通に会話してるの!」
会話に交ざれなかった少女が、ついに爆発する。然し、ティティスは冷静に、腱で引っ張ったのだろうか、にょきっと爪が出て、指差す、というか爪差す? 若しくは球指す? 見ると、ちゃんと指球もある。本物と見分けがつかないくらい精巧に造られたのか、或いは死体をーーと考えるのはちょっと精神的にあれなので、寿命を延ばしたか不死化させたのか。
「魔猫が存在することよりも、風竜を抱えていることのほうが、よっぽど突飛ですのよ」
「うぐぅ……」
ぐうの音が出たギッタ。猫に負けた少女に鑑みると、或いは人間の意識を移植乃至、いや、複製という可能性もあるのか。魔法、魔力が介在するなら、単純で効果的な方法が採られると見たほうがーー。
「これはあんたに渡しておくさね。愛用の宝物だからねぇ、直してくれたら、最高級の媚薬を差し上げる、と言っておいておくれ」
「はぁ、また、微妙にスナの興味を刺激するところをーー」
布袋を差し出されて、思考が中断させられる。有意義な時間であったが、そろそろお暇する頃合いだろう。然に非ず、無理かもしれないが交渉はしてみよう。
「この髪留めの二つの筒、譲っていただけますか? 確か、お安くしていただけるのでしたよね?」「嫌なことを覚えてるもんさね。あんたが言った通り、もう引退してるから、すべて必要なわじゃないからねぇ。それに、その魔法具は、古き良き、ってやつでねぇ、魔法で言葉を届けられるようになった今じゃ、そこまでの価値はないのさね。それに、うちの王様の『遠見』を見せられたら、時代の流れってもんをしみじみと感じてしまうよ」
素朴だが、好ましい色合いの髪留めの筒は、先にギッタが物欲しそうに見詰めていた商品である。サンとギッタの愛用の簡素な三つの筒に比べると、控え目な女の子が手にしそうな装飾品ではあるが。ティティスは机に移動して、筒の片方を銜えると、ラカの頭に舞い戻る。ラカは「浮遊」を使っているので、ギッタが筒を受け取ると。お婆さんが筒を、こんっこんっと軽く叩く。すると、少女が驚いたので、恐らくは筒が振動したか、筒の魔力に何か変化があったのだろう。
「連絡手段がなかった昔であれば、重宝したでしょうね。同時に攻撃したり、撤退の合図だったり……」「なよっちくても、あんたもやっぱり男なんだねぇ。そんな物騒なこと考えてないで、恋人同士がお互いの存在を近くに感じる為のものとか、そういう発想はできないもんさね」「…………」「売り物とは言ったが、値段は付けられないからねぇ。直らなくてもいいから、氷竜様に頼んでおくれ。あと、謝っていたと伝えておくれ。それと引き換えでいいさね」「というわけで、ギッタ。片方を自分に、そしてもう片方をーーラカに付けてあげてくれるかな」「え……?」「駄目?」「っ……」
これがギッタを連れてきた理由である。黒猫屋に来たのは偶然だが、目的に合致する品があったのは助かった。サンとギッタは、別々に行動してくれている。二人の間で、どんな経緯があったのかわからないが、「発生源の双子」の為に、スーラカイアの双子が二人一緒にいなかったらどうなるのか、試してくれている。髪飾りの数が、サンは三つ、ギッタが四つとなれば、皆が二人を見分けられるようになる。そして、それは二人もお互いに、「共振」や「同調」の影響で曖昧だった自我が分かたれて、明確に自分が何者であるのかを知ることとなる。詮ずるところ、双子の魔力は減じるかもしれない。スーラカイア国の双子の話に鑑みて、「共振」と「同調」が成されないのであれば、当然、その可能性も視野に入れる必要がある。そのことは百が伝えてくれたはずなので、フラン姉妹の選択は、決して軽いものではない。
「ーーーー」
僕の頼みに揺らいだ少女だったが。然し、一度決めてしまえば、風の行方に迷うことはなかった。姉の髪に触れるように、慣れた手付きで風髪に髪留めを、それから自分に、四つ目の髪留めを。
「あら、もしかしたら、貴女がティティスの未来のご主人様になるのかしら?」
ティティスは、風竜の竜頭から、少女の肩に飛び移る。そう、ラカに普通に接触していたのも、魔猫の正体を看破する手助けになったのだが。
「ふぇっ、ふぇっ、ふぇっ、それならあたしの二つ名の『魔女』でもくれてやるかねぇ」「『魔女』って、ーー実在したんですね」「『正体不明の魔法使いの美女』ってことらしいけどねぇ。あたしゃ魔法使いじゃなくて、言うなれば道具使いだったってわけさね」「それも隠れ蓑になったってわけですか」
「魔女」とは、都市伝説の類である。知りたいことを教えてくれる魔性の女。見た者を虜にすることから、魔物ではないかとの噂もあったが、然してその正体たるやーー。
「今、すごく失礼なこと考えたさね」「ーー何のことやらさっぱり」
顔に出てしまったらしい。然ても、今度こそ用件は済んだことだし、特別な魔法具かもしれないので、お姫様を撫でることは出来ないし、魔法使いだけでなく魔具の天敵でもある僕は、不測の事態で損害を出さない内に遁走こきたいのだが。
「お嬢ちゃんは、またおいで。侍従長は心臓に悪いから、用があるなら代わりの者を寄こしな」「そんな言い方すると、次は王様を寄こしますよ」「まったく、どっちの王様も御免だねぇ」
どっちの、ということは、三人目の王様のことは知らないのだろうか。いや、知らない、ということはないだろう。ってことで、三人目の王様が誰かは、暗竜のお口に、ぽいっ。ん~、暗竜といえば、エタルキアだけど、僕たちに接触してくることはなかった。気付かなかった、などということはないから、警戒されているのだろうかーー。
「むあむあむあ……。むあむあむあ……」
黒猫屋を辞すと、ギッタがぐりぐりされていた。
「なっ、むぅ、ラカちゃ……」「むあむあむあ……。むあむあむあ……」「…………」
ギッタには無理そうだったので、代わりに風をラカに注ぎ込んであげる。
「ひゅるるんっひゅるるんっひゅるるんるんっ!」
それからぎゅ~としてくるラカの腕も風で緩めてあげる。
「あこっ、あこっ、あこっ! ……ぴゅ?」
あ、風を注いでいたのが僕だと気付いたらしい。風間違いした風竜は、色付いた風を振り撒きながら、ぽふっとギッタの肩口に顔を埋めてしまう。丁度良いので、ギッタにも提案する、というか、事実確認を行う。
「それじゃあ、ギッタ。逢引の続きをしようか」「っ??」
第三者から見たら、そのような結論に至るかもしれないという事実に、余程応えたのか、憎まれ口も捨て台詞もなく、ラカを抱えたまま逃げ去っていく少女。ーー失敗した。五つ音くらいから、主に心の健康の為に、何処かで休息を取る予定だったので、スナはまだ忙しいだろうから、添い寝竜が欲しかったんだけど。いや、リーズは良い竜だけど、絵面的にちょっと。となると、百はーーそれとなく伝わっているらしい仔竜との間に致命的な断裂が生じるかもしれないので、これも選択肢から消えるーーと。何となく見上げてみると、「結界」の向こう側だろうか、遠くに雷竜の姿が。ーー目が合った? いやいや、何で僕は、竜としか認識できない遠さなのに、雷竜であると確信したのか。
「あ……」
僕と眼差しが繋がって、油断したからだろうか、リグレッテシェルナはとてもでっかい氷の直撃を受けて。あと、無数の岩の追撃に、北の方角へと。
ぴりぴり。ぴりぴり……。
寂しそうなリグレッテシェルナの、雷の余韻が遠ざかっていったのだった。
これは珍しい。寝苦しいときでなければ、僕は横寝をすることはないのだが。腕の中の風竜が「もゆもゆ」の新たな寝心地を確かめる為に、僕を横臥させたの、べりっ、ぶんっ。
「ゅ~?」「…………」
……どうしましょう。黎明のお空に向かって、風竜が飛んで行って(おほしさまになって)しまいましたとさ。
「…………」「ーーーー」
ごそごそと、いや、実際には、掛けているのは昨日スナから貰った(?)魔布なので、するするという感じだったのだけど。間違えようのない冷たさが、僕の背中を通して、心から魂までのすべてを温めて(やさしくして)くれる。
「ーーーー」「…………」
安心感が、愛しさが体を、手足の先まで拡がってーー。自然と、目を閉じてしまったのがいけなかった。
「……、ーー?」
ぽかぽかぽかぽか。ぽかぽかぽかぽか。
これは別に、直射日光を浴びて心地好くなっているから、とかではなく、いや、心地好いのは本当なのだけど、「風竜のぽかぽか」をもっと味わっていたい気分にさせられるのだけど。僕をぽかぽかと叩いている、不満一杯のラカを風満杯にして、風竜を奏でる。
「ゆぅー」
あー、これは我慢している。目一杯というか、もう竜一杯という感じで、我慢し過ぎてぷるぷるしている。まだ時間は大丈夫なようなので、起き上がりながら、ラカを風で包んで僕の膝の上に。ラカ箱を取って、準備完竜。
「ラカの機嫌を取る為に、角磨きをして色々と誤魔化そうとしているのだけど、遣ってもいいかな?」「……りえは、わえを弄んで、楽しんでいるのあ?」「僕は、ラカが大好きだよ。スナも大好きで、百も大好き、ナトラ様もリーズもイリアも、一度逢ったことがあるだけの地竜も、まだ話したことのないリグレッテシェルナも、好意を抱いているし、何かしてあげたいと思う」「りえは、わえの風を乱う。でも、嫌じゃなー」「うん。僕のことを考えてくれて嬉しいよ。僕だけが、一方的にラカを想っているのは不公平かもしれないからね」「りえは『もゆもゆ』で『千』なのあ。三の内の一で我慢できない欲張りなのあ」「そうだね。僕は欲張りだよ。だからラカも、欲張りになってみるのはどうかな?」「ぴゅ~?」「三の内の一なら、それぞれを三倍にしてみるのはどう? ラカは竜の中で一番感覚が鋭いから、『千竜王』のこともわかってしまうのかもね。『千竜王』と僕が同じなんて、嫉妬してしまうけど、ラカがそうしてくれるなら、それを選んでくれるのなら、頑張って我慢するよ」「ひゅー」
許可を貰えたようなので、さっそく角磨きの開始である。
「ぴゅ~~っ」「「「ーーーー」」」
にょきっと、開け放たれた窓から二つの竜頭が生えて、あと一つは、体隠して角隠さず、である。見慣れた青白磁が、氷竜の心胆の表明なのか、こりこりと窓枠を擦っている。三竜の魔力は感知していたので、話し掛けながら角磨きを続ける。
「まだ簡易だけど、スナ箱も百箱もあるから、ラカのあとで遣ってみる?」
専用の道具は、竜の国の職人に頼んであるので、東域から帰ってくるまでには仕上がっているだろう。ラカは風を象徴した色、スナは氷の色で百は炎の色と、大切な竜の為の道具だからこそ、色彩や形状にまで拘りたい。
「角磨きのお返しに、何かをするなら、何が良いです?」「ん? 人間でいうなら、耳掻きかなぁ。耳掻きをされるというのは、ある意味、凄く無防備になっているということだからね。僕だったら、心を許している相手以外にはして欲しくないかな」「そうなのです? では、リシェ殿は、あとでヴァレイスナに耳掻きをしてもらうです。百竜は、不器用で鼓膜を破りそうなので、エルタス殿で練習してからです」「ぴゅ~ぴゅ~ぴゅ~ぴゅ~」
何気に酷いことを言うナトラ様。でも、たとえ鼓膜を破られようと、エルタスは喜ぶ、もとい悦ぶだろうから、地竜の提案は悪いものでもないのか……な?
「やっぱり、竜は耳垢は溜まらないのかな?」「実は、そこは結構曖昧です。『人化』がどこまで依存しているのか、研究が必要です」「ぴゃ…、ぴゃ…、ぴゃ…、ぴゃあ……」
それは確かに。「人化」した竜は、人間の耳と同じ形状をしている。であるのに、聴覚認知能力は人間を遥かに凌駕している。先ず疑うのは、魔力の介在だろう。コウさんやエンさんは、魔力で普通に強化していたようだが、スナに苛められた、ではなく、諭されたカレンからすると、彼女の才能からすると、根本的な耐性や魔力操作、感受性に違いがあるのかもしれない。思惟の湖に潜りそうになるに、然てまた失言だと理性の部分ではわかりようものの止めるに能わず、求知心の赴くままに口から零れ出づ。
「ーー鼻糞は?」「百竜。でっかい炎をぶつけてやるです」「主よ。地の国で燃えておるという獄炎より激しい炎熱で焼かれるが良い」「ふひゅふひゅふひゅふひゅふひゅふひゅふひゅふひゅ?」「父様も風っころも涼しい顔をしていますわ。火力に自信があるのなら、私が施した『結界』と付与魔法を破るくらいの根性を見せるのですわ」「然し、リシェ殿もおかしな方向に成長しているです。歪と言うか何というか……」「元々父様はそんな感じですわ。叔父が父様を矯正していなければ、今頃竜たち(わたしたち)は父様に美味しく凌辱さ(たべら)れてしまってますわ」「見境のないリシェ殿です? 今とあまり変わらない気もするです」「ゅ~、ゅ~、ゅ~、ゅ~っ」
世間話な感じな氷竜地竜。居室だけでなく、部屋の中の物まで燃えていないとなると、空間それ自体に魔法が掛けられているのかもしれない。
「二竜がほのぼのとしているということは、竜の『欲求』はだいぶ治まったのかな?」「天風を扱き使ったのですわ。あとで風だけでなく天のほうも、頭でも撫でてやると良いですわ」「あとは百竜が、リシェ殿が竜の国から旅立ったと竜たちに知らせれば、エイリアルファルステとランドリーズの二竜で問題ないです」「ゃ~、ゃ~、ゃ~、ゃ~っ」
やっと角だけでなく、顔を見せてくれる氷竜。そろそろ真っ赤っ赤な部屋をどうにかしようと、意地になっているらしい炎竜の炎熱を、魔力を、むしゃむしゃと食べる心象で身の内に取り込むと、不貞腐れたお顔も可愛い百。
「ん~、じゃあ夕刻、或いは昼過ぎに発つと、皆に伝えたほうがいいかな」「それです。なるべく早くして欲しいと言っていたです」「ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴっ!」「誰が言っていたんですか?」「…………」「可哀想なので、序でに、彼も結構頑張っているので、名前くらい呼んであげましょう」「……鋭意努力するです」「早く、ということは、ストーフグレフ国に寄って欲しいということですか?」「そうみたいです。叛乱が起こりそう、というか、起こっているようです」「ふゆふゆふゆふゆふゆふゆふゆふゆ……ぷひゅ~~」
……うわぁ。頭を抱えたくなってしまった。アランに求められて提案したわけだが。アランの不在の、本当の意味を民に知らしめる、という目的は十分以上に達成されたわけだが。何というか、僕の所為なんだけど、僕の所為にされそうだ。いや、何を言っているのかと思われるかもしれないが、この微妙な違い(ニュアンス)をご理解いただけるでしょうか。などと天の国に住人に話し掛けている場合ではなく。これは時間限界まで仕事をして、早々に準備を整えなければならない。
「父様、遣り過ぎですわ。風っころの風が抜けていますわ」「ーーえ?」
見ると、無風な風竜。話しながら手は勝手に動いていて、いつの間にやら、過剰角磨き(ぴっかぴかです)。……これは、気絶しているのだろうか。
「風っころには良い薬ですわ。親の甘茶が毒になる、父様の欲望が毒になる、毒々しくて毳々(けばけば)しい父様のことをもっと知るが良いですわ」「毒々しいって……」「言うておくが、霜柱が譬えようは、主の魂のことだ。誤用ではない」「……ナトラ様。僕の魂って、そんなにやばいんですか?」「……目立つのは確かです。それ以外は『竜の秘密』です」「それ、主よ。すっかす風は我が預かって(しつけて)おくで、早々に支度に仕掛かるが良い」
ふぅ、と内心で溜め息。然し、その溜め息は殊の外軽いものだった。これからの慌ただしさを思って、大変さは目白押しどころか竜押しな予感しかしないのだが。また皆で旅ができると思うと、不思議と足取りも軽くなるのだった。
と。そんなことを考えていた時期もありました。などと言いたくなっても仕方がないと思う、今日この頃です。
「リシェは、私と一緒に行く」
そうして僕にくっ付いてきたのは、貧相な少年が大好きらしい「ハイエルフ」。密着した序でに、息を乱しながら僕の体を弄るのは止めて欲しい。あと、イリアは羨ましそうな顔で見てないで、助けてくれてもいいんだけど、何故だかリーズが止めている。まぁ、二次災害を懸念してのことだろう。何にせよ、百の躾の効果なのか、目覚めたラカが各地を回ってくれたので、二つ音と半分には集合完竜。翠緑宮の屋上から望むと、西に雨雲が見える。竜なら追い付かれないだろうから、降り出す前に出発したいところだが。
「我より二百周期ほど若いその者は、アレニスエルサナイデ。本来なら、精霊魔法に長けたアレの姉が代表の一人となっているのだが、風邪で臥せっているので、アレは代理だ。そのアレの首根っこを掴んで持ち上げたのが、長老衆の代表、ロンデギヌスだ。三千周期を超えているが、未だに世界に還る素振りを見せていない」
「我とて、そろそろ最愛の伴侶が待つ、精霊の御許に行きたいのだがな。若い者をどうにかしないと、おちおち還っておれんわ」
小動物よろしくアレさんがわたわたと暴れると、顔を隠していた覆い(フード)が、ぱさっ。見送りに来ていた竜の国の枢要たちが、アレさんの素顔を見て息を呑む。「エルフ」は容姿が整った者が多いと教えられたが、それにしてもこれは……。
「こやつは『エルフ』の中でも、容姿と精霊魔法に、だけ、は優れておるのだが、未だに伴侶を見付けられん。見ての通り、『神すら逃げ出す』ほどの美貌の持ち主だ。竜の国の侍従長、正妻でなくとも構わん、こやつを貰ってくれないか」「……ぽっ」
だけ、を強調するロンデギヌスさんと、態々声に出して照れているアレさん。炎氷の機嫌とかサーミスールの人々の冷たい視線(エルナースさんを除く)とか枢要の妬みとかカレン以外の部下の諦めた表情とか、うん、もう、どうにでもしてください。と投げやりな気分になってしまうが、このままだとなし崩しに同行者が増えて、それはそれで嬉しいんだけど。絶対面倒になりそうな予感しかしないので、アレさんまで付いてきてしまうかもしれないので、しっかりと対応することにしよう。
「ほれ、帰るぞ。皆様、こやつらの矯正が終わるまでは世界に還らぬ故、今しばらく長い目で見ていただきたい」「りーしぇー、お布団温めて待ってるの~~」
先ずはロンデギヌスさんを、目線で行動するよう促して、騒動の種に消えてもらう。出発してからのほうが良いと思っていたが、どうやら彼は、即座に実行するようだ。
「族長ではなく、一人の『エルフ』としてお詫びする。我の独断故、我の命で、一族には累が及ばないよう、どうかお許し願いたい」
どこで知ったのか、土下寝をするベルさん。周囲がざわつく中、がさがさがさと器用に体の向きを変えると、今回の「痴話喧嘩」の最大の被害者の一人に謝罪する。
「エルタス殿。貴殿は、我の軽率な行いで、魔法が、呪術が使えなくなったと聞く。旅の間、貴殿には世話になったというのに、恩を仇で返してしまった。誹りは免れない、如何様な罰であろうが受け容れる、どうか我を罰していただけないだろうか」
矛先を転じる、という言葉は正しくないだろうが、エルタスにとっては同様の効果があったらしい。自分にお鉢が回ってくるとは思っていなかったようで、きょとんとした顔をしていたが、状況を飲み込むと、いつもと変わらない調子で話す。
「呪術や魔法が使えなくなっても、私は私だ、何も変わらない。私は呪術を使っていたのであって、呪術に使われていたわけではない。何より、御方様は、呪術など関係なく、私を認めてくださった。百味の信徒としてあるに、問題など何もない」「…………」「それに、聞いたところによると、翠緑王が私に術を施しているかもしれないという。ベルモットスタイナー殿には申し訳ないが、私は今、とても困っている。私にとって呪術とは、あれば便利なもの、という程度のものでしかない。であるのに、過剰に謝罪されたら、まるで私のほうが悪者のように見られてしまう」「……だが、然しーー」「ベルモットスタイナー殿。私は、東域での、あの店が気に入っている。そこで奢ってくれれば、それで十分だ」「……それが貴殿の望みとあらば、喜んで奢らせてもらおう」
エンさんとは違った方向で、自分を持っているーーと嘗てエルタスを評したが、いやはや何というか、一貫した人物である。呪術は、生涯を懸けて学んだ、学んでいくべきものであったろうに、想いに引き摺られてもおかしくないだろうに、自分にとって大切なものが何かを見失っていない。百が苦い顔をしているように、多少価値観がおかしかったとしても、彼の姿勢には見習わなくてはならないところがーー、
「御方様にお認めいただけましたのでございますからには、生涯を懸けて尽くそうとする所存でございます。どうか末永く、履き古した靴のようになっても存分に踏まれます故、どうぞどうぞ御贔屓のほどをよろしくお願い奉りございます」
ーーない。と今は断言したい気分である。百の前に跪いたエルタスの、するすると出てくる割には怪しさ満天の言葉には、宝石の振りをした汚泥が散りばめられていた。
「…………」「っ! ありがとうございますです!!」
ああ、もう、見たくないなぁ。エルタスに謝ったベルさんが不憫に思えてくるほど、百に踏まれて悦んでいる青年の痴態は、見られたものではなかった。竜にも角にも、この問題はこれで終わり、ということで、ラカの風を借りて、ベルさんを無理やり立たせる。
「ドゥールナル卿。お願いいたします」
がしっ。がしっ。ばっ。
エルナースさんの左肩をドゥールナル卿が、右肩をエクリナスさんが、背後には従者の少年が。確実に密航するであろう女性の企てを事前に阻止する。
「酷いっ、酷いよっ、皆! でもでもっ、竜にも角にもっ、ルカちゃんだけは最後にぎゅ~とさせて~っ!」
まぁ、それくらいで諦めてくれるなら。ということで、「もゆもゆ」で安らかに眠っていたラカを起こさないように、ふよふよ~と送り出す。さて、風竜はこの試練に耐えられるだろうか。などと安楽な妄想に浸りたくなってしまうが、まだまだ油断はできないので、次に行くとしよう。だが、その前に。王様の機嫌を取っておこう。
「エクリナス様にも旅の同行者となって頂きたかったのですが……」
「ふっ、そこまで君が望むのであれば仕方が……」
がしっ。がしっ。
「……残念だが、サーミスールは長く不在にしておけるほど安定はしていない。今回は、グリングロウ国への旅だけで満足するとしよう」
エルナースさんとドゥールナル卿に肩を掴まれて、泣く泣く諦める王様だったとさ。
「ランル・リシェっ! だったら僕がサーミスールの名代としでぇぼおぉぐぅおっ~~」
はぁ、そして予想通りに出しゃばってきた従者の少年には、ドゥールナル卿が、ごすっと鉄拳をお見舞いする。床を転げ回っている少年は無視して、
「エンさ~ん、デアさ~ん、隠れていても無駄ですよ~」
階段で密航の機会を窺っていた二人に声を掛ける。
「ちっ、ばれてやがったか」「我は百竜様の第一の竜騎士なり。団長の言故、仕方がなく従ったが、斯様な謀などせず、正面から頼むことこそ……」「連れて行きませんよ」「むぅっ、侍従長めっ! またしても我らアディステルの邪魔するか!」「問題を、個人から一族に拡げても無駄です。イスさんが実行中の『竜の移住計画』をーー潰しますよ」「ぅぐっ!?」「こぞー、俺ぁ全快……」「竜の国は、イリアとリーズに守護をお願いすることになりますが、スナのように王様代理になって、統治してくれるわけではありません。ですので、団長と宰相は要として残ってもらわないといけません。ただ、エンさんの実力に鑑みて、同行して欲しいとも思っています。なので、その場合は竜の国に、スナを残さなくてはならなくなります。どうぞ、エンさん。スナを説得してみてください」「ふふりふふり」「ひぎっ、こぞー、ずっけぇぞ!」「ひゃふっ、ひゃふっ、ひゃふっ、ひゃふっ」
相変わらず焔は極寒が苦手のようである。「薄氷」は大丈夫でも、「連峰の氷姫」とあっては「火焔」も縮み上がってしまうようだ。あー、スナ、可哀想だから、あと一応怪我から復調したばかりなのだから、「氷球」と「吹雪」で苛めるのは程々に。然てこそ後ろから愛娘を持ち上げてーーこれで無事飛び立てるだろうか。
「くそ~、また侍従長かよ、神はいないのか!」「俺だって、中々の男前のはずなのに、何で出逢いがないんだ!?」「…………」「はっ! お前っ、その勝ち誇った顔は!?」「皆、すまんな。ーー俺、次の魔物討伐から帰ったら結婚するんだ」「うぎぎっ、裏切り者め! おい、皆! ここに裏切り者がいるぞ!!」「よっしゃー! 隊長さんが許す! お前ら~、裏切り者なんて、お祝いに捨ててやれ~~っ!!」「「「「「はーい」」」」」「ぎゃ~っ!」
お祝いに、屋上から、ぽいっ、とされました。これ見よがしに、初代スナちゃんソードを掲げて指揮を執るギルースさん。はぁ、毎度のことながら、何をやっているのやら。見ている皆が苦笑を浮かべるか、生暖かい視線を向けているだけなので、まぁ、そちら方面の問題はないということで。そうすると、残りは別の方向の問題だが。
「あれは、大丈夫なんですか?」「今の竜騎士に、あれくらいで死ぬ奴はいないさ」「ですよね。でも、それだと別の問題が出てくるんですけど」「問題?」
ザーツネルさんは心付いていないようだ、普通に聞き返してくる。どうするか迷ったが、いずれ誰かが気付くだろうと、話してしまうことにした。
「嫌な言い方をしますが、竜の国を造った当初、竜騎士という名称に比して皆さんでは役不足でした。ですが今は、とうか今も、役不足ではありますが、力不足というほどではなくなっています。それだけの力を持ってしまった、持つことが出来てしまった」
エンさんの所為ーーではない。気付かず止めなかった僕の所為ーーかというと、それも微妙である。残念ながら、すべてが納得できる答えというものはないようだ。
「ああ、そういうことか」
「副団長として、団員を差配していたオルエルさんなら、一発でわかるでしょうね」
他にまだわからない人はいませんよね。という顔でぐるっと見回すと、幾人かが目を逸らすか都合の悪そうな顔をしていた。ここでもう少し楽しみたいところだが、悠長にしていると、叛乱を軽視していると思われ兼ねないので、早々に答えを言ってしまう。
「強くなってしまった竜騎士に対する一番の懸念は、流出です。一人や二人、であれば問題ありませんが、隊が丸ごと竜の国から出て行ってしまうと、他国にとって危険であると同時に魅力的な存在となります」「ふむ。私も、竜の国の隊長格の騎士は欲しい。何より、リシェの近くにいる為か、私と普通に接することが出来る筆頭竜官と黄金の秤隊の副団長は欲しい」「いや、今度は冗談ではないのでしょうが、勘弁してください」「以前にも言いましたが、オルエル殿のように、きちんと受け答えできるだけでも、ストーフグレフ国では貴重なのです。諸侯の手前、いきなり宰相というのは反発や不和を招くかもしれないので、現実的ではありませんが、爵位をーー伯爵辺りが妥当でしょうか、大臣として引き抜きたいというのは本当のところなのです。……私の負担も減るでしょうし」
あ、最後に変魔さんの本音というか本心が漏れた。
「……は、伯爵?」「ふむ。宰相に任命するときは、功績あってのことだろうから侯爵ということになるだろう」「……っ!?」「ぷっ、オルエル侯爵様、これで将来は安泰……」「何を他人事のように仰っているのですかザーツネル殿。貴殿もアラン様が狙っている一人です。男爵か子爵くらいなら、うちの王様なら、ぽんっと差し上げますよ。もう一度言いますが、アラン様の言葉を正面から真面に聞くことが出来る人材は、喉から竜が出るほど切望しているのです」「ふむ。ユルシャールとパープットが居る故、大きな問題とはなっていないが、これを放置することが良いことではないというのは私もわかっている。二人以外にも過不及なく臣下として接してくれる者があらば、皆の意識も変わるやもしれん」
アランは自覚がないようだが、アラン自身も変わり始めている。一度出来てしまった、或いは放置してしまった溝を、いずれアランなら埋める、いや、飛び越えていくことも出来るのではないかと僕は思っているのだが。たぶん、きっと、この不器用な王様の背中を最後に押すのは、僕ではないだろう。
「こ、こほんっ。竜にも角にも、荷物を括り付けるなどの準備が必要だろう。元気が有り余っているらしい竜騎士にやらせるが」
「いえ、それには及びません。今回はスナとーー」
未来の侯爵(?)が空咳一つ、内心の動揺を誤魔化そうとするも。にんまりと笑って、僕の可愛い愛娘を自慢すると、
「ーーナトラが居る」
僕と同じように、両脇の下に手を差し入れて持ち上げると、無表情でナトラ様を見せ付けるアラン。親友の僕は見分けられるようになったが、侯爵候補と子爵候補には苦かった、もとい荷が勝ったようで、アランの重圧にやられてしまっている。
「今回は急ぎなので、ラカールラカが全速力で向かうです」
「ナトラが『結界』を、私がそれ以外の補助と配慮とやらをしてやるのですわ」
いまいち元気がない二竜。竜の「欲求」への対処で、精神的な疲労がまだ残っているのだろうか。さて、聞かなくてもいいような気がするが、一応聞いておこう。
「クーさんは、どうしたんですか?」
エルナースさんは、別れの熱烈抱擁でラカの眠りを妨げてーーあ、到頭風竜に逃げられてしまったようだ。視線を戻すと、ほろ苦い顔をしたザーツネルさんが答えてくれる。
「……宰相様は、ヴァレイスナ様とラカールラカ様が旅立たれてしまうので、居室に引き篭もられてしまわれました。魔法団団長様が近衛に、添い寝の許可、を与えたところですので、そう遠くない内に強制復帰させられるでしょう」
うん、やっぱり聞かなくても良かったようだ。
「ルカちゃ~ん、最後に一撫でっ、うりうりさせるのさ~っ!」「ぴゃ~っ! ふあこっ、ふあこっ!」「は~い、ラカちゃん、お帰り~」「ほ~い、ラカちゃん、お戻り~」「ぶみ~~っ! みんなっ、は~な~す~の~さ~っ!」「ラカ。先ずは二人を乗せて、翼を風に馴染ませておいてくれるかな」「ひゅ~。わかっあ」「ぁ~」「ぃ~」
二人と一竜が一塊になって、空へと舞い上がっていった。もう少し翼加減、いや、「人化」しているので「飛翔」加減だろうか、まぁ、そんな感じでサンとギッタの悲鳴の欠片を残して、竜速で雲まで達すると、風竜速ならぬラカ速で飛び回り始める。ふぅ、思ったより出発までに時間が掛かってしまった。次こそ本当に最後にして、旅立つとしよう。
ナトラ様にスナを、ぺとっ(あずける)。二竜の許に歩いていって。頭を撫でるだけでは足りないと思ったので。首に手を回して引き寄せて、ぎゅっとして、両手に竜。
「イリア、リーズ。竜の国を頼むね」「っ、っ、っ!」「エイリアルファルステ。我とて我慢しているのです。これ以上は竜の沽券に関わりそうなので、耐えなくてはなりません」
「いやっ、だがっ、然しっ、そんなっ、これはっ、殺生なっ、竜の生殺しとはこのことか!!」
愛娘のひゃっこい視線と炎竜のあっちっちな火柱も手伝って、耐えに耐えて耐え抜いて、終には凌ぎ切る天竜。実は、耐え切れなかった風竜が僕の服の内側に手を入れて、すりすりしていたのだが、皆からは見えない位置だったので、リーズの耳を強めにこりこりして、めっ、である。
然ればこそ、旅立った初っ端から、穏やかならざる状況に突入することになるのだが、僕たちは呑気に、舞い戻ってきたラカの竜頭に乗るのだった。
「ぴゃぴゃぴゃぴゃぴゃぴゃぴゃぴゃぴゃ~~~~っっ!!」「ひゃきゃあ~~っ!!」
全速力で、風を振り絞って舞う風竜はご機嫌である。
「ぴゅぴゅぴゅぴゅぴゅぴゅぴゅぴゅぴゅ~~~~っっ!!」「ひゃ~ぎぃ~~っ!!」
雨雲など、まるで地竜のようにーーなどと比喩に用いてしまったら、ナトラ様に怒られるだろうか。空の雲など、ずんどこずんどこ後方に飛び去ってゆく。
「音の速さの二倍を超えているです。魔鏡を以てしても正確に測ることは出来ないです」
落ち着いた声で結果を伝えたナトラ様の視線は斜め上に、「結界」の向こう側に固定されて。水蒸気を纏ったかのような歪な球体を魔鏡に捉えようとして、諦めたように首を左右に振った。球体から止め処なく、爆発的に溢れ出す白い冷気が、刹那にも彼方の空に吹き流されて、いや、吹き飛ばされてゆく。もはや、綺麗とか不思議とか、そういうものを超越した光景である。
「「「「「…………」」」」」
旅の仲間も皆、もごもごしているっぽい真白球を見上げて、成り行きを見守っている。
「ぴゃ~ぴゃぴゃ~ぴゃぴゃ~ぴゃぴゃ~ぴゃぴゃ~っ!」「くぉのっ! 風っごろぐわぁ~! 陽気びぃ謎唄っでんじゃぁあないでぇずば~~!!」「びゅ~!」「不満ぞぉな声なんぼ、でぎなぁ私がぁ悪いみだぁな、許ざぁないでずわ~~!!」「「「「「ーーーー」」」」」
まぁ、そういうわけで、愛娘が壮絶な体験の真っ最中(ひゃっこいひゃっこいひゃこひゃこひゃっこい)なので、経緯を説明しよう。今回はナトラ様の「結界」のお陰で、余剰人員は竜頭に張られた「結界」に寄り掛かっている。僕は「結界」に触れないよう竜頭の真ん中である。荷物も「結界」に包まれて、竜首の後ろ辺りを、ぷかぷかと漂っている。よくわからないが、百は「結界」を固定というか接着しているらしい。ラカの魔力量、というか、発散される魔力が膨大過ぎて、ナトラ様一竜では維持が難しいのだそうだ。そして、全体の補助と配慮なのだが。「結界」の内側からでは無理だと悟ったスナは、瞬時に「結界」の外へと飛び出していったのだった。
大気の暴虐から、冷気で身を護っているのだろうか、僕の愛娘は悪い風に唆されてしまったのか、空の魔物、もとい真白な雪の妖精になってしまいました。
「スナ~、大丈夫~? 辛いようなら~、ラカに速度を落としてもらうけど~」
「物ぼ飛ばぁすだげなら、音ぉの六倍の速ざでだて飛ばしぃたでずわ。けぇど、だぁけど、ごんなでっかぁい竜が音超べて飛ぶとか、物理法則ぅ舐めんじゃあないですわっ!!」
さすがスナ。もう改善してきているようだ。竜娘の声が聞き取り易くなってきた。
「ぴゅっぴゅぴゅっぴゅぴゅ~っ、ぴゅっぴゅぴゅっぴゅぴゅ~っ!」「ひゃぶぅ~っ!」
竜にも角にも、スナは大丈夫そうなので、後方の竜について提案してみる。
「後ろから追ってきている雷竜なんだけど、一緒に連れて行ってあげても……」
「嫌です。駄目です」
「雷竜戯んじゃなびですわ~! 序でにっ、風雷戯んじゃないでずわ~!」
即刻、却下されてしまった。雷竜には相当手を焼かせられたみたいで、竜でも動かない、では竜相手にはおかしな譬えになってしまうので、邪竜でも動かない、いや、「千竜王」でも動かない、のほうがいいだろうか、って、そんなことで迷っている場合ではなく。
……ぴり。ぴ……。
「百。いずれ僕たちのほうから声を掛けるから、それまで待っているように伝えてくれるかな」「……我も、集中が必要、ではあるが、それくらいなら……。後ろの、未練たらた雷竜……、主の言だ、呼ばれるまで……、伏せ、でもして待って……」「リシェ殿の言葉として伝えたら、本当に、伏せ、をして待つことになるです」「……塒で不貞寝しておれ」
……。…。
わかってくれたのだろうか、雷竜の気配を感じ取れなくなる。感興をそそられたのだろうか、雷竜への蟠りを踏み付けて、ナトラ様が質してくる。
「リシェ殿は、雷竜にご執心ーーというのも、少し違う気がするです。リグレッテシェルナの、何がそんなに気になるです?」「ーーそうですね。魂、というものを比喩で使わせてもらえるなら、埋め尽くしているのが、氷竜。一番奥まで届いているのが、雷竜。すべてを包み込んでいるのが、風竜ーー」「……我は?」「……炎竜は、百は……えっと……、一番繋がっているのが、炎竜……かな?」「主よ、何だその取って付けたような……」「ふむ。満ち足りているのが、地竜ーーか」「…………」
僕の不誠実(?)な回答に百の眉が険しい形になったところで。自身の胸に手を当てて、王様は赤裸々に地竜に言葉を贈る。竜頭の一番前で、皆に背を向けていたことを此れ幸いと「結界」を調整している風に、わたわたと手を動かしていた。
「ーーーー」「「…………」」
当意即妙とはいかなかったので、百に睨まれるのは仕方がないとして、何故か極寒の魔物が僕を呪い殺そうと、悪意を溜め込んでいるような気配が、ぷんぷんと漂ってくるのですが。二竜とも、ラカを見習って、すべてを風に流してーーいや、ごめんなさい、何が悪かったのかよくわからないけど、許してもらえるなら千回謝るので、悪炎と悪氷を僕にぶつけてくるのは、どうか止めて、もとい程々で満足してくださいませ。
「竜の国の山脈を越えそうなので、そろそろ皆さんに、状況の説明をしたいと思います」
然てしも有らず、どうにもならなそうなので全力で話を逸らすことにした。炎氷が協調というか同じ方向を見ていると、何故だか魂が震え上がってしまうのだが、竜に悪戯をしたことがあるわけでもないのに「竜の呪い」にやられて……いや、あれ? 竜に悪戯というか遊戯というか、省察すると、あれやこれやと僕の罪咎が……ごほんっごほんっ。うん、きっと、気の所為に違いない。そう、そういうことにして、炎氷風雷天地は仲良し(みんなのことがだいすきだ)。
「ナトラ様によると、ラカは、一つ時の半分で、国一つを翔けてしまうそうです。つまり、四つ音にはストーフグレフ国の王都に到着してしまうようです」「ラカちゃん、超風竜!」「ラカちゃん、風竜王!」「ぴゅ?」「すでに聞き及んでいるかと思いますが、ユルシャールさんが魔法部隊から連絡を受け、ストーフグレフ国で反乱が起こったことを知りました。ということなのですが、実は、急いで鎮圧に向かう必要はないのです」
先ずは、謎を一つ提示。安堵させてから、必要なら危機感をぱっぱっと振り掛ける流れでいこうかと頭の中で組み立てていたら、ベルさんが正竜の振りをした誤竜を見るような目を向けてくる。
「これまで幾度も侍従長の説明を聞いてきたが、毎度そのような話術を弄して、疲れないのか?」「それは……、皆さんに正しく理解していただくことを最優先としていますので、疲れるか疲れないというか、慣れというか」「いや、話の腰を折ってしまってすまない。我も族長という立場故、侍従長から学ぼうとはしているのだがーー」
ベルさんの表情が雄弁に物語っているのだが、落ち込みたくないので今回は訳さないことにする。皆の視線がこれ以上ひゃっこくならない内に、先に進んでしまおう。
「アランは休暇を取っている、ということになっていたのですが、その後、病で臥せっているのではないかとの流言が飛び交い、数日前には、崩御したのではないかとの噂が、まことしやかに広まっていったそうです。……というか皆さん、何故そんな目で僕を見ているんですか?」「ふむ。私の喪失を、ストーフグレフの民に疑似体験させる為に、リシェが流布したと思っていたのだが、違うのか?」「……止めてください。どこまで僕は極悪人なんですか。ですから皆さん、そんな目で見ないでください。ーーそうですね、民は不安を覚えたのかもしれません。アランの不在が、少しずつ少しずつ、民の心を浸食していって、誰かが口にした、ただの憶測が、初めは否定していても、信じたいものを信じる人の特性が、幾度も耳にする内に、やがて誰かが無責任な断定を行って、渦を巻いたそれは、行くとこまで行ってしまったのではないでしょうか」
これは、僕の話し方が悪いのだろうか、スナが作った氷上のように、つるつると進めていきたいのに、百が炎で氷を凸凹にしてしまったので、手間取ってしまっている。この場合、ラカに風の後押しをもらっても、逆効果になるかもしれない。
「皆さんは、ストーフグレフ国の成り立ち、現状を心得ていると思います。それではお聞きしますが、皆さんが叛乱の首謀者なら、敵対者を無差別に殺したり民を抑圧したりと、それが有効であったとしても、そのような選択をしますか?」「う~ん? ストーフグレフの皆は現状で満足してるから、放っておいたほーがいい?」「む~う? 下手に手を出したら、反発されて邪魔されそーだし、叛乱の仲間になってくれる人も少なそーだし?」「王を打倒するのは当然として、然し、それでは不十分だろう。だが、或いは、安寧を享受しているなら、何もせずとも民は受け容れるやもしれん」「ーーエルタスさん?」「ーー上が思うほど、下は上に興味などない。生活が脅かされないのなら、現状維持を望む。態々手を出す必要はない」「はい。皆さん、ありがとうございます。だいたいそんな感じですね。数的不利から民に手を出すのは悪手であるし、王都で叛乱が起こったから鎮圧に行く、とでも言って、兵を確保するのではないでしょうか。そしてマルス様を廃して、既成事実化するか、カール様を傀儡とするか」
竜の国に戻ってきたことを一回と数える(カウントする)なら、二回目の旅なので、当事者と竜以外の皆に発言してもらう。エルタスに振る前に、百を一瞥したので、彼も渋々答えてくれる。然ても、僕が中心になって話すような流れは、御免被りたいのだが、あ~、見られてる見られてる、って感じで、王様が許してくれそうにないので、親友に愛想を尽かされないよう字面も魅力的な怠惰さんを打擲して勤勉さんを撫で撫でしてあげよう。あ、勤勉さんが嫌がって逃げてしまったが、大丈夫! 怠惰さんだって、遣るときは遣ってくれるはず!
「急がなくていい、というのは、この一件をマルス様に解決してもらおうかと考えていたからです。犠牲が出る、ぎりぎりのところまで静観して、最後には『遠見』でアランが姿を現す。必要なら、四竜が顕現して、完膚なきまでに叛乱者の心を挫くことになります。そうなるまで、最低でも二、三日の猶予があるでしょうが、とある事情によって超風竜王の爆誕となったわけです」「ぴゅー」
どうやら合体させた二つ名はお気に召さなかったようである。はぁ、それと、何だか頭が妄想過多というか、おかしくなっているような気がするのだが。それはいつものことだ。と幻聴が聞こえてしまったが、真面に休めたのは二日目の午後だけだったので、まだ心労というか疲労が抜け切っていないのかもしれない。
「というわけで、ここからの説明は、ユルシャールさんにお願いします」
やっとこ、とある事情さん、の登場である。当事者なのだから、もう少し手伝ってくれても、と思わなくもないが、事情が事情だけに仕方がないだろう。心に余裕がないと、一目でわかる変魔さんだが、それでも無理やりに精神を立て直して、語り始める。
「私事となってしまい恐縮なのですが、この度の叛乱の首謀者は、私の幼馴染みなのです。名は、フレイ・フルナスフル。彼もまた、ファルワールの系譜なのです」
ユルシャールさんが、ファルワール・ランティノールーー聖語時代の一人目の天才の、親族の子孫であることは、僕とアラン、それと執務室の外で聞いていたスナしか知らないことなのだが、そこまで気が回らないのか、言葉を継いでゆく。
「彼は、大袈裟に言ってしまうと、〝サイカ〟を目指せる人物でした。フルナスフル家の、魔法の家系の当主というだけでなく、あらゆる分野で成功するのではないかと、そう思わせる豊かな才能の持ち主でした。ですが、彼が志したものは魔法使いで、当然そこでも彼は力を発揮するのですが、フレイの前には、いつも私がいました。
彼に勝てる唯一のものが魔法でした。これだけは負けまいと、私も努力を重ねました。魔法でも負けてしまうと、フレイの友人を名乗れなくなってしまうのではないか、との恐怖と劣等感があったのだと思います。私は気付きませんでした。どれだけ才能を有していようとも、最も大切と思うもので、一度も勝つことが出来なかったフレイの気持ちをーー。
フレイは、私のことを天才だと言いました。私には勝てないと。私は正直に言いました。魔法以外なら勝てるだろうと。そのときに浮かべたフレイの表情を見て、私は初めて、自身の愚かさに気付きました。
それからホルス様が崩御なされ、アラン様が王位を継がれ、父は家族ぐるみの親交があったフルナスフルにも声を掛けましたが、ストーフグレフ国の状況に鑑み、様子見をしたことが後に格差を生むことになります。二家は叙爵され、ファーブニルは伯爵位を、フルナスフルは男爵位を賜ることとなります。ファーブニルは、アラン様と親交があり、フルナスフルは、マルス様と繋がりがあったことも明暗を分ける結果となりました。
負け続けることで、フレイは私に勝てないと思い込んでしまったようなのです。私の言葉に耳を傾けることはありませんでした。彼は、政治にも軍事にも優れた手腕を発揮し、頭角を現すことになりますが、ここでも彼は誤解してしまうことになります……」
言い辛そうなので、合いの手を入れることにする。アランも当事者の一人なのだが、どうも僕に任せてしまっているように看取できるのは、気の所為ではないだろう。
「ユルシャールさんは、アランの補佐をしていました。それが出来るだけでも凄いことですが、フレイさんは、自分より優れたユルシャールさんが、アランを傀儡にしていると勘違いしてしまったのですね」「ええ」「また諸侯からの信頼も厚く、アランとの橋渡しをーー自分の都合のいいように捏造や改竄ーーして、魔法部隊の長を、ファーブニルの長を、伯爵位まで継いで、後の侯爵位は確実視され、女性たちからは黄色い声がーー本性を知れば千周期の恋もーー鳴り止まず、それでいて性格は温厚で寛大、孤児たちへ注ぐ愛情、慈愛には底がなく。良かったですね、ユルシャールさん。フレイさんから、完璧ーーぷぷぷっーーな人物だと再認識されているようです」「……そういうわけですので、リシェ殿ではなく、侍従長にお知恵を拝借できれば幸甚です」
あ、仕舞った。容姿が十人並みで竜の民から疎んじられ毛嫌いされていることを思い起こして、貴公子然とした魔法使いへの嫉妬が竜並みに膨らんでしまったのだが、遣り過ぎてしまったようだ。一縷の望みに懸けて、アランに託そうとするも、
「ふむ。私にも策はある。だが、リシェのほうが私より上手くやるだろう」
うぐっ、やっぱりこういう展開になってしまった。まだ本調子ではないのか、変魔さんに遣り込められてしまうとは。竜の国の侍従長として、アランを上回る解決策を提示しなくてはならないとはーー、はぁ、嘆いていても仕方がない。邪竜さんが笑うような方策は一応用意してあるので、というか、今はそれ以外に思い付かないので、卑陋、ではなく、披露するとしよう。
「先ず、今回の叛乱を演習とします。竜の国の侍従長である僕が提案し、アランが了承したということになります。フレイさんの、脅し乃至口車に乗って叛乱に乗じようとした、若しくは荷担しようとした残りの四人の代官は、これで口を噤んでくれるでしょう。ですが、ユルシャールさんの話を聞く限り、フレイさんはこれに納得しないでしょうね」「ええ、彼は無責任でもなければ、逃げ出すような人物でもありません。……私に勝つには、いえ、私が以前抱いたように、彼もまた、思い詰めた果てに、対等の友人であろうと王の座を狙ってしまったのでしょう。このままではフレイが……」
後悔が、掌から零れ落ちないように、きつく、きつく握り締められる。何一つ、失わないようにと、見失わないようにと、場合によっては立場が逆だったかもしれない友人の為に、すべてを懸けようとしている。無力な自分を受け容れて、他人を巻き込むことを呑み込んで、それでも僕に求めた。他国の、地位も周期も下の少年に。
「ユルシャールさん。もしフレイさんに何かあれば、叛乱が演習ではないと、ばれてしまうことになり兼ねません。そうすると、アランが嘘を吐いていた、ということになってしまいます」「……それは、そうですが、それだけでは彼は……」「でしょうね。それでは、竜の国の侍従長の言葉として、こう伝えてください」
ならば僕は、全力で演技するとしよう。あー、それと、一応言っておきますが、……これは演技ですので、勘違いしないでくださいね。
「今回、僕はあなたたちが叛乱を起こすよう仕向けました。程好く踊ってくれたようで感謝いたします。僕の思い通り、すべてが上手くいきました。ですが、ユルシャールさんに聞いたところ、何やら完璧な僕の策略に傷を付けようとする者がいるとか。
くっくっくっ、ああ、それは気に食わないなぁ。完成したものを崩されることほど不愉快なことはない。そうだなぁ、そんなことされたら、報いを呉れてやらなければならなくなってしまう。そうそう、気紛れに、ストーフグレフ国でも滅ぼしてみようか。最近、翠緑王も従順になって飽いていたので、暇潰しくらいにはなってくれるでしょうか、ね?」
歪竜と言えるほどに、大上段に笑顔を軋ませて、妄想のフレイさん(代役、ユルシャールさん)を見下す。
「邪竜も逃げ出す、超邪竜」「邪竜も泣き出す邪竜王」「邪竜も自裁する超邪竜王」「いえ、ベルモットスタイナー殿。無理してフラン姉妹に便乗しなくても大丈夫です」
エルタスまで何か言おうとしていたので、先手を打って、
「邪竜も聖竜になる超邪悪竜王」
止められれば良かったんだけど。ああ、そういえば、竜の民も枢要も、侍従長苛めが大好きでしたっけ。ぎろり、と変魔さんまで揶揄しようとしてきたので、言ったら超邪悪魔竜王になるぞ、と睨め付ける。
「その上で、最後に、ユルシャールさんの言葉として、こう言ってください」
変魔さんは、魔法使いにしては聞き分けが良く、こくこくと頷いて理解してくれたようなので、最後の、説得の言葉を伝える。
「失敗は失敗だ。それは償わなければならない。でも、それは、誰に対しての償いだ。幸いにして、今回は間に合ったのだ、まだ間に合うのだ、フレイのしたことが罪だというのなら、その何倍もの利益をストーフグレフに齎せば良い。相手が、『もう良い、止めてくれ』というまで恩を返せば良い。ーーアラン様もそれを望んでおられる」「ふむ。私もそれを望んでいる」「あとはそうですね。アランが一任したのに、事態を解決できずにフレイさんに何かあったとしたら、当然ユルシャールさんは処刑、ではなく、良くて謹慎処分となる。とでも伝えれば駄目押しになるかと」「ふむ。それが効果あるのなら、ユルシャールの代わりに、フレイを補佐にしてみるか」「ああ、それはいいかもね、アラン。畢竟、言ってもわからないのなら、真実を知ってもらう為に体験してもらうのが一番だろうから」「いえ、もう良いです、十分です! これ以上は、フレイだけでなく私の心胆も持ちません!」
変魔さんは納得してくれたようだ。そして、アランも。感心なのか歓心なのか、いや、僕の心臓に悪そうなので、甘心としておこう、表情が柔らかくなっている。
「さて、そうなると、問題はあと一つですね」「まだ、あるのですか……?」「いえ、そんなに警戒しないでください、ユルシャールさん。問題というか、選択というか……」「嫌です。お断りです」「ナトラ様。まだ何も言っていないのですが」「一番遅い僕ではなく、一番速いラカールラカにすれば良いです」「あの……、御二人とも、何の話をなさっているのでしょうか?」「それは勿論、ユルシャールさんを乗せて、フレイさんのところまで運んでくれる竜の選定です」「ーーっ!?」「一番の候補は勿論ラカなんだけど。でも、ユルシャールさん、『げごげご』の九十六番でしたよね。ラカの機嫌によっては、飛行中に護ってくれない可能性があるので……」「びゅ~。全力で飛んだら、『もゆもゆ』で休ませてくれるって、りえが言っあ。わえの風が聞いてたから、間違いなー」
……言ってないような気がするんだけど、もしかして風竜は、嘘を吐く、ということを僕から学んでしまったのだろうか。何だろう、凄く悪いことをしてしまった気分だ。いや、ちょっと待て。ラカは、わえの風、と言っていた。つまり、僕の心の声を聞いた、ということだろうか。まぁ、どちらにせよ、搦め手を使ってまで僕を、「もゆもゆ」を求めてくれるというのは、良い兆候と言えるだろう。「未来の風をこの手に」作戦は、このまま継続していいようだ。
「主の魂胆はわかっておる。そうして逃げ道を潰しようて、我が受けざるを得ない状況にしようと画策しておるのだろう」「うん、そんなことはあるかな」「……エルタス。王の腹心と二人になるは、ちと不安なのでな、其方も同行せよ」「…………」「御意。天地がこむら返っても、常にお傍にべったり貼り付きます」「可能性として、武力が必要となることもあろう。我も同行する。それと、精霊を時々身の内から解き放ってやらねばならぬのでな」
ああ、そういえば、ベルさんは、体に大精霊を宿しているのだった。僕やコウさんの影響で精霊は近付けないが、大精霊ほどの精霊力があれば、体内に潜むくらいのことは出来る。といったことを、風が一番気持ちいい場所、に向かっているときにスナが教えてくれた。沈黙を厭うたのか間が持たなかったのか、目的地に辿り着くまで、多弁になった竜娘を愛しく感じてしまったので、氷髪を梳りながら耳元の甘い声に蕩けることになった。
「百竜様、御二方、感謝いたします」「あたしたちも、ゆるゆるに付いていく? 付いていくいく?」「でもでも、氷王様がこっちを見てる気がするのは、気の所為? 気の所為所為?」「氷王、が気に入らないみたい? みたいな?」「氷竜王? 氷姫様? 至極氷? 純氷様? へ……ぅひっ!?」「ひゃわっ、ひゃわわっ!?」
三者の助勢を重く受け止め過ぎていたユルシャールさんを慮ったのか、場を和ませようとした双子だが。スナを出しに使ったらどうなるか、そろそろ学んでもいい頃だろうに、「結界」の外側の氷竜から降ってきた、きらきらした細かい粒に取り巻かれると、氷竜舞踊で愛娘を称えるサンとギッタ。あの粒ひとつひとつが、きっと、とても、ひんやりするのだろう。魔力なのか、或いは「現象」なのかもしれない。
謎舞踊は、「同調」と言っていいくらい、まったく同じ動きをしている。然し、出発してからここまでは、「同調」を感じさせるような動きはなかった。三つ、と、四つ。髪飾りの数が違うことで、僕たちと、そして双子自身も意識することで、言行に差し響きがあったということだがーー。
「ひっ?? じじゅーちょーが見てる! 物色されてる!?」「ぴっ?? あれは野獣の目よ! 魔獣の目よ! 美味しく食べられちゃう!?」「いえ、二人はいつも、というか、今も、山岳民族の衣装を着ていますよね。ストーフグレフ国に着いたら、ユルシャールさんから連絡が来るまでは自由行動になるので、服を買いませんか?」「服? 服~は、興味はあるけど、カレン様が無駄遣いはいけないって」「給金~は、旅から帰ってきたら、あたしたちが大丈夫か試すって」「ああ、そこは必要経費ってことで問題ない、ということにしておきます。そういうわけで、ラカと一緒に……」「ぴゅ~?」「『もゆもゆ』するので、今回は風竜はお預けなので、よろしければ、ナトラ様とアランが同行してあげてくれませんか?」「ふむ。今は大っぴらに動かないほうが良いだろうから、それも悪くない。久しく城下を視察していなかった故、民の有様を見たい」「『結界』は僕が担当するです。アランの国を見て回るのは、楽しみです」
問題ないようなので、あとはスナぁあばぅっ!?
どばどばどばどばどばどばどばどば。
「「「「「…………」」」」」
僕が見上げると、皆も見上げて。スナがどばどばだった。うん、邪竜も引っ繰り返るくらい、もの凄いどっばどばだった。
「……安定したですわ」「ひゅ~。真っ直ぐ飛べるようになっあ」
どばどばどばどばどばどばどばどば。
「「「「「ーーーー」」」」」
ああ、愛娘が、空の魔物どころか空の魔王になってしまった。然し、その二つ名に悲嘆に暮れることになろうとは露知らず、見様によっては心安らぐ光景に魂を潤わせながら。
「ぴゃぴゃぴゃぴゃぴゃぴゃぴゃぴゃぴゃ~~っっ!!」「ちくしょーっ! ですわーっっ!!」
スナのお陰で最高速が出せるようになったらしいラカと、「結界」の内側には戻ってこられないことが決定したらしいスナに、どんな言葉を掛けるか、僕は熟考するのだった。
「二人、並ぶが良い。あとは、其方の膂力なら、引き剥がされることもあるまい。我の肩に掴まっておれ」「「「ーー?」」」
百の前に、背中を向けたユルシャールさんとエルタスが立って。二人と同じく、よくわかっていないらしいベルさんが、百の両肩に手を置いて。僕の予測が実現しないことを願っていたが、残念ながら、背後の竜であるというのに、魔法使いと呪術師には危機感がなくて。実行される直前ーー英雄王と呼ばれただけあって、直感が働いたベルさんは全力で、握り潰すほどに力を籠めて、百の肩を掴む。
「ユミファナトラ、『結界』を解くが良い。では、行くぞーー」
炎竜は、二人の青年の股座に手を突っ込んで、ぐいっ、とすると、
「「っ!!」」
そのまま空に「飛翔」で舞い上がっていって。風竜から十分に離れたところで、「人化」を解いたのだった。ええ、そうです。今頃二人は大変なことになっているでしょう。
「百は、竜の魂だけど、知識は豊富だけど、現世での経験値はみーより少ない、零歳なんですよね」「んー、あれって、やっぱり痛いの?」「さー、じじゅーちょーで試してみよう」「いえ、二人とも、本当に洒落にならないので、淑女としての振る舞いを覚えてください、サンお嬢様、ギッタお嬢様」「ふひっ??」「ふみっ?!」
蹴られたら堪らないので、手も使ってしっかりと急所を防御する。反撃ということで、ご令嬢のはしたない行為を窘めてから、空を仰いで。然しも無し、とは言えない状況なので、悶絶しているだろう二人に、百はちゃんと謝っているだろうか。などと考えていると、補助と配慮の役目を終えたスナが先んじて、ぽふんっ。
「ぴゅっ!? こんっこんっこんっ、狡いのあ!!」「暴風竜いですわ。地上に降りるまでにしてやるから、風っころは黙っていますわ」「そうか。では、ナトラ、頼む」
スナは「浮遊」か「飛翔」を使ったらしく、僕の体がふわりと浮く。見ると、恐らく「結界」なのだろう、微妙な距離の二人が浮いていた。そして、「人化」した風竜が、まだ「浮遊」を行使していなかった双子の胸に飛び込んでゆく。
「ぴゃ~っ! ふあこっ、ふあこっ!」「ちょっ、とまっ、何か落ちそう!? ラカちゃんっ、もっと風ちょうだい! 風大盛り!」「これっ、やばっ、上手く使えない!? ラカちゃんっ、『浮遊』の邪魔してる!? してるの!?」
ナトラ様が「結界」を張ってくれているだろうから、どれだけ騒いでも問題ないのだけど。ーーん? あれはーー? あの優男風の青年は、慥か。
「スナ。停まって。アランに近付けて」
「『結界』が邪魔ですわ。岩っころも『浮遊』を使うですわ」
言うが早いかナトラ様の「結界」を壊したらしいスナは、どげしっと地竜を蹴り飛ばす。地竜は防御が優れているとはいえ、さすがにこれは酷いので、「おしおき」で愛娘の額に僕の額をくっ付けて、何が起こったのかわかっていないらしい氷娘を、ぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐり。序でに、角に擦り付ける感じで、ぐりっぐりっぐりっぐりっ。
「ひぁ…ふ……!? ひゃひゃっ、こい??」「ぐりぐりぐりぐり、うりうりうりうり」「ふむ。私も、ぐりぐりうりうりしたほうが良いか?」「止めるです。あれと同水準になるのは、地竜の沽券に関わるです」「って、そうだった、こんなことをしている場合じゃなくて。アラン、あそこ、あの青年に見覚えはある?」「……ひゃふんっ!?」
最後にちょっと強く擦ってしまい、愛娘が可愛くなっているが、魂を引き剥がす勢いで。これ以上やると、アランにまで呆れられてしまうかもしれないので、話を逸らす、ではなく、情報収集に最適であろう人物を指差す。
「ふむ。竜の国の情報を齎してくれた者だな。私に、初めての敗北を刻んでくれたリシェの行いには、感謝しかない」「…………」
皮肉にしか聞こえないが、心からの感謝であることが、親友である僕にはわかる。冷や汗が流れているかもしれないけど、僕の胸の中には、もっとひゃっこいなのが冷え冷えなので、何も問題ない、ということで。
「名はーー、ファング・エールサライ、だったか」
「もてなし作戦」のときと同様に、商人といった風情の青年は、紙に名を記したはずだったが。その後の怒涛のような出来事の情報量が多過ぎたのか、記憶から拾ってくることが出来ない。ストーフグレフへの帰還は叶い、目的は達成されたはずだが。やはり帰還は目的であって、目標ではなかったらしい。あのとき、青年から陰りのようなものを看取したが、彼の様子を見る限り、解決はしていないということだろうか。
「スナ、彼に言葉を届けてーー、いえ、どうやったところで驚かせることになりそうなので。ナトラ様、彼の上から降りて、『結界』に取り込んでください」
「見たところ、冷静そうな青年なので、問題ないとーー良いです」
僕らを見回すナトラ様。王様に侍従長にスーラカイアの双子、糅てて加えて氷竜に風竜に地竜ーーと、盛り沢山の竜沢山の(てんちがひっくりかえりそうな)七者である。まぁ、でも、うん、きっとどうにかなるだろう。と楽観的に考えて、「結界」に取り込みつつ、皆で青年の前に降り立つと。
「っ!? なっ、まっ、『魔王』!! いっ、あ…え? ストーフグレフ王っ?! ぅり…竜が……三体……?」
驚き過ぎたのか、三竜の存在を認識すると、昂った精神が沈静化して絶句する青年。本来なら、彼を落ち着かせる為に、適切な対応を取るべきではあるのだが、聞き捨てならない単語が彼ーーエールサライさんの口からぶっ放されたので、先ずはそちらの確認からである。
「『魔王』とは、何のことでしょうか?」「……はっ あ、ああ……、ま、『魔王』というのは、竜の国の侍従長の二つ名で……、他に、『魔毒の繰り手』……などがあ…ります」「おー、じじゅーちょーの本性がストーフグレフ国にまで鳴り響いてしまうとは」「ここからじじゅーちょーの『魔王』伝説が、って、ラカちゃん!?」「ひゅー」
何気ない風を装って、ラカが双子の腕の中からするりと抜け出そうとするが、「魔王」の生贄に風竜を捧げてなるものかと、必死の抵抗を試みる。
「ぴゅ~」「風をっ、ひゃうっ、溜めに溜め捲ったラカちゃんがっ」「やぁうっ、我慢できなくてっ、どぴゅっ、て発射しちゃうっ」「…………」
二人は、特に自覚はないようである。ただ、にたり、と氷竜が笑ったので、双子に同情した。あらゆる万難を排して、風竜が発射されると、僕から発射される竜娘。
「ぴゃ~っ」「ひっ、氷姫…っ、くっ付いて!? ぃひぅっ、入ってきてるっ、何か入ってきてるっ」「あぅ、熱くて凍るみたい……なっ、きぃうっ」「あらあら、魔力注入程度で喘いでいる(ねをあげる)なんて。ひゃふ、お楽しみはこれからですわ」「ひぃやっ、そんなぶっといの、入らないからっ、入らないからっ!」「はぁう、そこはっ、そこは違っ、入れる場所じゃないからぁっ!」「ぁあ…、ひぁあ…もう、……もうっ?!」「あぁ、駄目っ、ほんと…に、きひぃぐっーーそ、そんなぶっとい氷柱を服の中に入れるのはぁっ??」
ペルンギーの宝石と風竜の心地と相俟って、そのまま、僕の想いを返そうと、ふわりとラカを包み込む。強過ぎず弱過ぎず、風を交えて、僕らは奏で合う。
「ゆぅ~~~~っ!」「……その、周囲は気付いていないようですが、道の真ん中ではーーあれなので、端に移動しませんか……?」
エールサライさんが水竜を差し向けてきたので、いや、この譬えは竜沢山なこの状況では誤解を招きかねないか。ナトラ様とアランは、ぐったりとなった女の子を抱えて、裏道へと続いていそうな隘路の近くに移動したので、僕たちも無言で付いてゆく。すると、隘路から三人の男が現れて。僕らの気配か「結界」を気取ったのだろうか、先頭の、奇妙な気配を醸した初老の男性が、後ろの二人を制する。市井の民ではない。雰囲気としては冒険者ーーかと思ったが、それもまた、何かが違うような。ナトラ様の「結界」か「隠蔽」か、違和感を抱いているらしい初老の男性は警戒を緩めていないので、地竜にお願いする。
「「「っ!?」」」
三人は即座に、というか、自然な動作といえるほど巧みに、短剣や、隠し持っていたナイフを構えるが。初老の男性は直ぐ様手品のようにナイフを袖に戻して、恐らく部下だろうか、三十代の二人の男性に鋭く命令する。
「仕舞え」「っ、だが頭……」「俺は、仕舞え、と言った」「「…………」」
状況判断も早い。部下らしき二人は、命令の真意ーーどうやったところで竜には敵わないーーを呑み込んで、納得の下に従う。
「僕は、竜の国の侍従長、ランル・リシェです。驚かせてしまったようで、申し訳ございません」
非は、というか、配慮が足りなかった、というか、原因を作ったのは僕たちなので、こちらから緩怠を詫びる。相手の正体は不明なので、アランの存在感から無理かもしれないが、王様に注意が向かないよう大袈裟な振る舞いで、過剰に演技をする。
「竜の国の侍従長? 確かに、竜の国に居るとき『遠見』で見た少年のようだがーー」
エールサライさんと違って、いや、世界中の殆どの人たち、と言っていいだろう、彼らと違って、動揺を兆すことなく、穏やかな湖面のように静かに僕たちを見極めようとする。
「俺は、新月の鎌団の団長、ラーズだ」「新月の鎌ーーというと……」「さすが竜の国の侍従長、知っているか。そうだ、『人喰い』だ」
「人喰い」ーー対人専門の冒険者。闘技場でフィヨルさんが話してくれた、黄金の秤と搗ち合ったという団。然あらばエールサライさんには悪いが、竜の国の事情を優先させてもらう。ベルさんに言われたが、すぐに変えることは難しいので、これが僕の遣り方の一つなので、またぞろ相手の反応を窺う一手から始めることにする。
「そうですか。では、ラーズ殿。引退なさいませんか?」「「ーーっ」」
部下が激高する前に、ラーズさんは一睨で黙らせる。そして、肝が冷える。「人喰い」の団員ですら言葉を奪われるほどの眼光を向けられるが、寝入った風竜がすやすやでぽやんぽやんなので、凍えるまでに至らず、善人っぽい笑顔を維持することが出来た。然し、これ以上は不味い、と直感に頼るまでもなく感取できたので早々に本題に入ることにする。
「ーーふぅ、五十を越えれば、人は衰えていくと聞くが。確かに、以前と同じ動きができないことは認めなくてはならない。それに、息子も一端の冒険者になった。それは、お前たちも認めるだろう?」「確かに、若なら、俺たちは認めるがーー」「頭ぁ現場に出なくなっても俺たちゃ……」「まぁ、そういうことだが。そういうことなんだが、ただ、俺も人間が出来てないのでな、他人から言われると不愉快になることもある」「事情は了解しました。では、改めて要請いたします」「「「ーーーー」」」「ラーズ殿に、八竜官の内の、空位の一席ーー最後の竜官になっていただきたい」「……は?」「はい。竜官というのは、他国の大臣に相応するもので……」「いや、そんなことは知っている! 何故、初対面の俺にそんな分不相応のことを求める!?」「ーーとラーズ殿は仰っていますが、御二人は、ラーズ殿が竜官の器ではないと思われますか?」「そんなわけねぇ。役不足だ。頭ぁ、大臣じゃなくて王にだってなれる器だ」「頭が誰かの下になるなんて認められんが、魔法王の重臣としてなら、譲歩しなくもない」「って、お前ら! 何言ってやがる!?」
経験豊富で冷静沈着と思しきラーズさんを取り乱させることに成功したので、これで満足。などということは勿論ないが、彼が慌てている様子に、何だかほっこりしてしまう。
「……あんたの言い分はわかった。竜にも角にも、少し時間を……」「いえ、今ここで決してください。ラーズ殿が決め兼ねている間に、他に竜官の候補が現れたなら、僕は不実な対応をしてしまうことになるかもしれません。というか、この程度のことを即決できないというのなら、この話はなかったということにーー」「あ~、この侍従長め! 本当に噂通りだな! 後悔するなよっ、一旦団に戻ったらすぐに行ってやるから、角洗って待ってやがれ!!」「はい。僕たちはこれから、東域に向かうので、グリングロウ国に行ったら、侍従次長のカレン・ファスファールに事情を説明して、この竜札を渡して下さい」
ラーズさんは、どかどかと踏み荒らしながら隘路に戻っていったので、部下の一人に竜札を手渡す。それから、受け取った団員が、物言いたげな様子で僕を見ていたので、言葉を継ぐ。
「新月の鎌の団員を竜騎士に取り立ててもいいのですが、そう簡単な、単純なものではないです、よね?」「そう、だな。仕方がなく、って奴もいるが、好き好んで『人喰い』にいる奴もいる。俺たちは血に塗れた、割り切れない奴もーー俺も今更……」「ですが、機会はあっても良いと思います。ラーズ殿だけでは大変でしょうから、数名。そのくらいなら減ったとしても、団に影響はないと思います」「ーーそうか。わかった、伝えよう」
遠くを見るような眼差しを残して、部下の男はラーズさんを追っていった。ふぅ、竜にも角にも、悪くない成果である。国の運営は綺麗事だけでは済まない。治安は、エンさんとクーさんに依るところが大きいが、この先も上手くいくとは限らない。というか、このままだと、いずれ破綻してしまう。役割、というのは重要なもので、それを整える必要がある。エーリアさんが最優先で実行してくれていることの一つだ。人の世には、どうやったところで、裏、と呼べるものが生じる。竜の国に生じる前に、こちらから入り込んで、取り仕切る人材をーーと思っていたところに、竜の尻尾はぶんぶんっ(てきざいをのがしてなるものか)。
「そういうわけで、エールサライ殿。情報を搾り取ってもいいですか?」「……何がそういうわけなのかは知らないが、王と侍従長の恩に報いるのは吝かではない。ーー私が故国に帰還したかった理由をお見せするので、行き掛けに情報を提供いたします」「ふむ。任せる」
アランが許可すると、一行を先導しながら、やはり諜報に関係した人間なのか、市井人とは異なる見地から語ってくれる。
「真偽不明な噂とはいえ、王が崩御したのではないと知り、安堵いたしました。然し、情報は錯綜していて、民は何を信じて良いのかわからず、不安に陥り、それ故に叛乱に気付く余裕はないようです」「ふむ。兄上が動いていないはずはないが」「はい。当然『解毒者』……ととっ、失礼いたしました。マルス様は対策を講じられましたが、不安は民だけの所有物とはならず、重臣たちまで手に入れてしまったようで、後手に回らざるを得ないようです」「そうか。だが兄上であれば、重要な部分では外すまい」
「解毒者」というのは流布したものではなく、彼個人か彼が所属する場所での、マルス様の新たな二つ名、若しくは符丁か何かの可能性があるが。「もてなし作戦」のとき、ストーフグレフの国名に他の者は気圧されていたが。些細な振る舞いから滲み出る才気の欠片に、油断ならないと警戒したが、正解だったようだ。話術だけでなく、胆力も相当なものだ。先程は「侍従長と天晴れな仲間たち」の登場に偉く動揺したようだが、今はもう完全に立て直して、「解毒者」の二つ名を匂わせるなど、駆け引きをしているようにも見える、のだが。アランに取り立ててもらおうと躍起になっているわけではなく、どちらかというと、彼の関心は僕に、延いては三竜にあるようだ。
「現状、王が身を隠されているのには理由があると拝察いたしますが。侍従長ーーリシェ殿も、ストーフグレフ国では慎重に行動することをお勧めします」「もしかしなくても、『魔王』とか呼ばれていることと関係していますか?」「はい。竜の国の侍従長に勝ったと、熱闘に勝利したと、さすがは我らの英雄王と、初めは民も素直に喜んでいたのですが。高揚が収まるにつれ、人々は、隠されてはーーいませんでしたが、隠された事実に怖気立つこととなります。そもそもリシェ殿は攻撃をしていなかった。そうであるのに、王は薄氷の勝利、尚且つ魔法剣の直撃で吹き飛ばされたのに無傷とあっては、普通の人間が恐れを抱いたとて仕方がないことかと」
まぁ、周りの人が誤解してしまうのは仕様がない。アランの手前、重傷を押して平然を装っていたが、そのまま起き上がらず、運ばれたほうが良かっただろうか。いや、アランには看破されるだろうからーーそれに、それだと途中でげろげ~ろだっただろうしーー何より今更嘆いたところで始まらない。気分を変えようと見回すと、貧民街ではないが些か寂れた場所に差し掛かる。実は彼は、叛乱者の側で、僕たちを嵌めようとしているーーなんてことは考え過ぎだろう。僕とアラン、それに三竜を相手に策を弄するなど、邪竜と聖竜だって肩組んで一緒に大笑いである。
「隔離、ではないのでしょうが、乏しい地域に居を構えているのは、身内に病臥する者が居るからですわ?」「っ! ……氷竜様の慧眼、恐れ入ります」「なら、ナトラの慧眼にも恐れ入るが良いですわ」「慧眼も何もないです。地竜の治癒能力が望まれていることくらいわかるです。でも、慧眼を期待されているなら、予見しておくです。僕の出番はーー少ししかないです」「それ、風っころも何か言うですわ」
すやんすやんな風竜に「氷球」を投げ付けてきたので、僕が見えるということは、純粋に魔法ではないかもしれないので、「氷球」を意識して取り込んでみる。
「スナ。そろそろ可哀想だから、サンとギッタを放してあげて」「なんのなんの~、あたしたちは氷竜様が大好きなのさ~」「なんなのなんなの~、あたしたちはじじゅーちょーが大嫌いなのさ~」「……スナ、父親命令、継続」「ふふりふふり、父様が大好きな娘は、逆らえないのですわ」「面倒です。僕の背中にでもくっ付いているです」「仕方がないですわ。肩車で許してやるですわ」「もう、それで良いです」
然てこそ合っ体っ! 氷地の出来上がりである。いや、無限大と言うからには、風も加えて、風氷地にし(せかいのしんりをときあかさ)なくてはならない。くっ、炎が欠けているのが悔やまれる。
ちりんっ。
侵入者を警戒してのことだろうか、地域と同じく寂れた家の扉を開けると、内側に設けられた鈴が鳴る。何ら特徴のない、簡素な平屋。必要最低限の物しかなく、奥にもう一部屋あるようだ。みすぼらしくしているのは、周囲から浮かない為と、狙われないようにする為なのかもしれない。
「ーーお兄…様?」「ああ、サリフラ、夕刻に戻る予定だったが、会わせたい方々がいるのでお連れした」「……それは、嬉しい。でも、私の病はうつるかもしれません。いらしていただいて恐縮ですが、お引き取りいただいたほうが……」「間怠っこしいのは地竜だけで十分ですわ。ナトラ、突貫ですわ」「他竜に言えた義理ではないです。でも、竜は傲慢なので、人間の事情など解さないです」「エールサライ殿。竜には逆らえないので、僕らも続いて構いませんか?」「ーーはい。お願いいたします」
ずんずかずんずかと扉を開けて、正に竜の歩みで入っていく氷地竜を追って、寝室、といった感じの部屋に足を踏み入れて。シャレンの母親を想起させられた。同時に、魔力の吸収と排出が上手くいっていない、というスナの言葉も思い出す。それと、シャレンの決意と覚悟のーーその姿がエールサライさんに重なる。シャレンにはコウさんとスナという希望があった。然し、彼には竜の恵み(うんめい)が齎される(みかた)ことはなかったーーこれまでは。
「サリフラ!? 体を起こしては……」「お兄様。お客様が来てくださったのです。これくらいの我が儘、許してください」「そうか……、そうだな、好きにしなさい」「はい」
紛う方なくお互いを想っている兄妹。サリフラさんの言葉遣いや振る舞い、配慮からして、過去には貴族階級にあったのかもしれない。
「薬師の見立てはどうですわ?」
スナは、エールサライさんではなく、サリフラさんに尋ねる。妹、ということは、彼より周期が下ということになるが、シャレンの母親同様に、三十を越えていても不思議ではないと思える、老けて見える容姿。手足は細く、肌は土気色、窪んだ眼は身近に迫った死を予感させる。もう運命を受け容れているのか、それでも笑っている彼女が不憫でならない。死の間際にあるからか、肩車した竜の登場というのっぴきならない事態にも係わらず、わずかに驚いただけでスナの問い掛けに答える。
「もう長くないと、告げられた期間を過ぎて、二巡り頑張りましたが、体から何かが、命の欠片でしょうか、零れ落ちてゆくのが、感じられてしまいます」「死ぬのは怖いですわ?」「……どうでしょう。私はずっと、お兄様の負担になっていました。正直に言うと、これでお兄様は私という枷を取り外して、自由に羽搏けるのではないかと、安堵している部分もあります」「っ、サリフラ! 私は……」「煩いですわ、そこの兄っころ。黙って風竜でも苛めてろ、ですわ」「苛めますか?」「いいや、取り乱して、失礼した」
ラカの寝顔で少しでも気が晴れればと思ったが、竜すら目に入らず、妹を気遣っている。
「死を克服する。死の間際に、恐怖が軽減される。そういった能力や機能が人種にあることは知っていますわ。ですが、このヴァレイスナの目を誤魔化そうなどと不遜なことを考えているのなら、改めたほうが良いですわ」「…………」「ーーっ!」「エールサライ殿。お気持ちは察しますがーーなどと言うつもりはありません。僕と、愛娘であるスナを敵に回したくなければ、竜に追い詰められたギザマルのように丸まっていて下さい」「なっ!」「ふふっ、あまりお兄様を苛めないでください。お兄様は、心に余裕がありません。それに冗談が得意ではないので、ヴァレイスナ様のお言葉や、御父上ですか? あなた様のお言葉を本心から出たものだと、受け取ってしまいます」
自分の為に怒ってくれる兄を見て、穏やかに微笑む。最後の炎を灯している。気丈に振る舞っているサリフラさん。彼女のこれまでの苦闘を垣間見るようで、胸が痞える。
眼窩から、スナが望んでいたかもしれないものが流れ落ちる。ぽたりと、落ちたことを知って、彼女は目を閉じるが、それは無駄な抵抗で、氷竜が穿った穴は大き過ぎて。
「……ヴァレイスナ様は、酷いです。苦しくないなんて、怖くないなんて、そんなこと……、あるはず…ないじゃないですか。私はずっと、何もできませんでした。生まれてきたことの意味を、見つけられませんでした。ーー私はただ、誰かの迷惑になる為だけに、生まれてきてしまった……」
ここまで、かな。彼女の姿に、魔法使いの女の子の面影が重なる。氷竜を動かすだけの、いや、スナが自らを糊塗するだけの、捏ち上げるだけの理由としては十分だろう。
「スナ、どうする?」「私が、と言いたいところですが、私が暴走すると止められないでしょうから、今回は風っころを実見して、次に役立てるのですわ」
然もあれ、風竜を覚醒させる勢いで、風を集めて、どっずんっ。
「ゆゆんっゆゆんっゆゆんっゆゆんっゆゆんっゆゆんっゆゆんっゆゆんっ!」
これは、ちょっと遣り過ぎた、もとい間違えただろうか、目を開けた途端、壊れた玩具のように、びちびちと前後に体を振る風竜。ラカが嫌そうではないのが救いだが、ちょっとじゃない罪悪感が。
「ゆゆんっゆゆんっゆゆんっゆゆんっゆゆんっゆゆんっゆゆんっゆゆんっ!」
まぁ、何にせよ、アラン以外の、ナトラ様まで面食らっているので、意地悪な愛娘も大好きなことを……ではなく、氷竜の真意を仄かに醸しながら説明することにする。
「サリフラ殿ーーというと堅苦しいので、サリフラさん、と呼ばせてもらいます」「え? あ、はい、……どうぞ」「では、サリフラさん。僕の愛娘がご迷惑をお掛けしたようですので、選択肢を一つ、追加したいと思います」「……?」「その為に、先ずは見ていただきたいものがあります」
ここでナトラ様が心付いて、スナに確認する。
「ヴァレイスナ。相手はラカールラカです。僕はこちらで、リシェ殿以外を護るです」「って、おーさまが無言で迫ってくる!?」「ほらっ、そこのぼさっと立ってる兄っころさんもっ」「おーさまの餌食になる前に、とんずらこいてっ」「すたこらさっさーっ!」
これは、アランとフラン姉妹が楽しく遊んでいると解釈すればいいのだろうか。竜にも角にも、双子やエールサライさんが何処までわかっているのかは、まぁ、この際どうでもいい。サリフラさんの寝床の近くに皆が退避すると、ナトラ様は「結界」を張る。
どがんっ。
でっかい「氷柱」が、天井に大穴を開けて、準備完竜。もう、何が何やら、と思えるような展開かもしれないが、ここまでやってしまったのだから、続行あるのみ。
「ラカに噛み付かれるのは、ちょっとあれなので、スナ、お願いできるかな」「ぴゅ~?」「酷いですわ、父様。可憐で繊細な娘に、父様を傷付けなければならない、そんな酷な仕打ちを強いるなんて、どれだけ邪竜ですわ」「……その割には、楽しそうだよね、スナ」「ひゃふっ! 父様は、これまで娘にどんなことをしてきたか、思い出すが良いですわ」
心当たりが多過ぎて、どれのことだかさっぱり。スナをどれだけ可愛がったか、可愛がり過ぎたか、氷竜から報復を受けたとして、それも当然のことだろう。なので、魔力に干渉しない心象を行うと、直後に、時間を掛けなかったのは愛娘の優しさだろうか、ラカの竜眼の前に、赤い一筋の流れが、
「ぴぃやぁあ~~っっ!!」
煌々と風瞳を閃かせるや、傷口に吸い付いて。見ると、ごくごくと喉が動いていた。もういいのではないかとスナを見るが、愛娘は悪い魔法使いのように、じぃ~と僕とラカを観察していた。いつもふあふあな、風のように軽くて柔らかい風竜なのに、鋼でも仕込んでいるのではないかと疑ってしまうくらい微塵も揺るがず、びくともしない。
百のときと同じく、失われているという感じはしない。酩酊に似て、仄かな多幸感すら、ぢゅるぢゅるぢゅるぢゅるぢゅる。うん、でも、まぁ、そろそろやばいんじゃないかと、これ以上放置されたら愛娘への愛情を拗らせて、「おしおき」竜捲り(訳、ランル・リシェ)、との必死の視線を感じ取ってくれたのか、スナは徐に掌を天に向ける。
「残念ですが、『雷絶』は使えないので、『雷霆』を喰らうが良いですわ」
一瞬のことだったのではっきりとはわからなかったが、「雷霆」に打たれる間際に、ラカからも雷が漏れ出ていたような、
どっご~んっ。
いや、実際にはもっと、世界を引き裂くような壮絶な音だったのだがーーというか、魔法が効かないとはいえ、雷の直撃なんてものは、心臓に悪いというか心臓が止まるというか、というか、「というか」を使い過ぎである。つまりは、それだけとんでもない魔法だったということでーー。
「り~え~」
ぴがっ!? というラカの悲鳴さえ散り散りにした一撃だったが、然しもの風竜も目を回したようだ。体はふらふら、頭がくるくると円を描いて、風の可愛さに我慢できず抱き締めようとするも、
ぺりっ。ぽいっ。ぽすんっ。
「結界」を解いて遣って来たナトラ様の蛮行によって、ラカはエールサライさんの胸に。ああ、いや、ナトラ様のいみじくも行われたラカの強制排除によって、風竜が僕の血によって再び暴走するという事態を防いだわけだが。何というか、氷竜も地竜も、本当に風竜には情け容赦もなくなってしまったというか。
「ぱんぱん」「五十四番です」「…………」
まぁ、当の風竜は、そんな些細なことは気に掛けない、というか興味自体なさそうだが。次の風竜の行く先はサリフラさんということになるのだが、選択肢の一つを提案するまで待っていてもらわなくてはならない。
「エールサライ殿。しばらく風竜の心地をお楽しみください。サリフラさん。そんな羨ましそうな目で見なくても、事が済めば、風竜を存分にお楽しみいただけます」「あ、はいっ」「リシェ殿。今のは余興というわけではないようですが、真意は那辺にあるのでしょう?」「はい。選択肢とは、ーー人体実験です」「なっ!? そんなこと……」「お兄様。落ち着いてください。当事者は私です。いつもの冷静さは何処へやってしまったのですか。あまり醜態をお見せになると、サリフラはお兄様を嫌いになってしまいます」「っ!!」
妹の言葉に絶句する兄。コウさんたちもそうだったが、こういうところでは兄のほうが弱いらしい。ただ、サリフラさんも、控えめではあるが芯の強い女性であるようだ。
「さて、実験の内容ですが。それは、竜も大好きな僕の血を摂取することです」
大好き、という範疇で括っていいのかは自信がないが。上手く呑み込めていない人たちに向かって、具体的な、ある意味生々しい説明をする。
「やることは単純です。傷はまだ治っていないので、べろりと、僕の血を舐めてもらいます。そうして体に取り込むことで、何かが起こるかもしれません。勿論、何も起こらないこともあるし、何かが起こったとしても、利ではなく害として発現するかもしべっ!?」
ぐりっ、と僕の長話に付き合っていられなかったのがぁっ、ぐりっ、……不意打ち気味にもう一回、父親を苛めた娘が、僕の血が付着した左手の人差し指をサリフラさんの口元に差し出して、右の人差し指は自分の口にーー刹那、氷瞳が異様な光を湛えて、獲物を視界に捉える。
「……これほどとは、思わなかったですわ。これまで、摂取するのは、汗や唾液までにしておいて、正解だったですわ」「スナ。誤解を招くような発言は、控えていただけるとありがたいのですが」「ふんっ、ですわ。千回も体内を魔力で凌辱されながら、ぐ~すかと呑気に眠りこけていた父様に反駁する権利なんてなぁひっ!?」
こちらも不意打ちになってしまったようで、スナは人差し指を舐められて、びくびくっと身震いすると、即座にサリフラさんの口腔から指を引き抜く。
「くふふ、氷竜に精神的損傷を負わせるとは、中々やるです。人体実験と銘打っているので、僕も魔鏡で視させてもらうです」「っ、はいっ、お願いします」「…………」
すなすなすな(ぶっす~)と無言で不愛想な愛娘が歩いてきたので、捕獲して抱っこしてしまう。
「そこの兄っころ。そっちの妹っころに風竜を渡すが良いですわ」「え、は?」「エールサライ殿。そうは見えないかもしれませんが、風竜ラカールラカは、『最強の三竜』の一角で、竜の中で最も優れた感覚を有しています。それは、魔力操作にも長けている、ということです」「ひゅー」「『もゆもゆ』が占領されているからと、不満そうな声を出していないで、さっさと移動するです」「ぴゃー」
ぺりっ。ぽっすんっ。
便利に使われ過ぎて、角を曲げてしまった風竜だが、寝床の査定には手を抜かないようで、我慢できなかったらしいサリフラさんに撫で撫でされながら、いつも通りに、結果をぽそっと述べる。
「かんかん」「四十八番です。平均の近くで、兄妹は、至って普通です」「駄目です、ラカールラカ様。査定を遣り直してください」「ぴゅっ?」
とても気に入ったらしい、風竜のお尻を撫で撫でしながら、再査定を要求する。というか、自らの病状は気にならないのだろうか。ナトラ様が結果を伝えたくて、うずうずしているのですが。
「さっ、サリフラっ! 風竜様に何と失礼なことを! ラカールラカ様っ、どうか角を曲げず、尻尾はふりふりでお願い出来ないでしょうか!?」
サリフラさんが言っていた通り、エールサライさんは冷静さを欠いているらしい。ラカの風の尻尾を握って、ぶんぶん振っている。
「ぴゅー、ぴゅ~、ぴゅ~、ぴゅー、ぴゅー、ぴゅ~」「ぅ……、あ…ゃ」
ラカの風が、魔力が、細やかな風となって、サリフラさんを奏でている。その効果は、劇的だった。血色が良くなり、死に神は尻尾を巻いて、もとい鎌を投げ捨てて退散したようで、濃厚だった死の気配がラカによって薙ぎ払われて、日向の風竜。
「魔力は、生命活動に不可欠です。通常、何巡りも掛けて、ゆっくりと馴染ませていくものを、ラカールラカは大きな負担を掛けずに整えてしまったです。百竜が居ないので、僕が言ってやるです。のんべんだら竜、どんよ竜、おかんむ竜、べっしょ竜、のらりくら竜」
思い付くままに言っているだけのようで、褒めているのか貶しているのか、まぁ、当竜もどうでもいい、投げ遣りな感じなのだが。地竜がそうなってしまうくらい、風竜は凄いことをしたのだろうが、スナに専有された僕を一瞥したラカは、サリフラさんで不貞寝を決め込んだようだ。
「そこの妹っころ。そろそろ炎っころも到着した頃でしょうから、話を端折ってやるですわ。妹っころは、とっとと快復させて、竜の国に来るですわ」「あ、はい。ヴァレイスナ様のお望みとあれば喜んで伺いますが……」「で、父様の部署で働くですわ。今も人手不足で、このままだと私が父様で(・・・)遊べないのですわ」「ちょっとお待ちを! 妹は快復しそうだというのに、過労で殺そうというのですか!」「お兄様っ!!」「ぃひっ、は、はい!」「もう好い加減に、妹離れをしてください! 私は恩返しがしたいのです! 私が唯一、お母様から教わった、決して破ってはならない大事なことです!」「……わ、わかったから、まだ治り切っているかわからないのだから、サリフラ、落ち着いて、な?」
ぷんぷんな妹に、たじたじでおろおろな兄。スナが端折ったように、時間は有限なので、僕も愛娘に倣うことにする。
「というわけで、アラン。いずれ、というか、まだまだ先になりそうだけど、ガルを上げるから、エールサライ殿を頂戴」「ふむ。目を掛けていた者を引き抜かれるのは辛いが、彼以上に育てるとリシェが確約してくれるのだから、楽しみに待つとしよう」「あ、あの、御二方は何の話をしているのでしょう?」「エールサライ殿、いえ、ファングさん。あなたは妹さんを一人で、竜の国へ送り出すおつもりですか?」「だ、だが、……いや、然し、今の役目……」「妹のことで動揺しているのはわかるが、冷静になれ、エールサライ。私がリシェとした会話を思い出せ」「……ぅく、そ、その、王は私に目を掛けてくださっていたのですか?」
未だ冷静さを取り戻せていないらしく、直接アランに尋ねてしまうファングさん。ここは口を挟んだほうが良いと判じて、溜め息一つで、彼の注意を引き付ける。
「ファングさん。ストーフグレフ国に戻ってから、難しい仕事を任されることが多くなかったですか?」「何故、それをっ! いえ、それは上司に気に入られていなかったから……」「違います。アランがそうさせていたのです。そこで功績を挙げさせて、ユルシャールさんやパープットさんのように、側近や腹心として重用しようと画策していたのでしょう」「ふむ。さすがリシェだ。あからさまではあるが、私をあまり恐れない若い者を登用しようと、ユルシャールやパープットにも動いてもらっている」「…………」「それでは、サリフラさん。一緒に働ける日を楽しみにしています」「あの、ちょっとお待ちをっ!」
寝床から出て、立ち上がろうとして、病み上がりでは敵わず、ファングさんが支えようとするも。風竜の風の助けを借りて、ゆらりゆらりと、確固たる意志を籠めて、自分の足で歩いてくるサリフラさん。僕の許に遣って来た彼女は、両手を伸ばして頭を掴むと、ぐいっと自分のほうに向けさせて、額に親愛の接吻。
「ひゃふっ!?」
どうやら角に唇が少し触れてしまったようで、あと、自分がするのは良くても、他人にされるのは意想外だったらしく、驚きの声を上げてしまう氷娘。
「ヴァレイスナ様。サリフラは、絶対に、元気になって、あなたに逢いにゆきます」
正しく恋する乙女の表情で、スナを見詰めるサリフラさん。さて、ここは父親として、娘を祝福するべきだろうか。うんうん、スナの魅力がわかるなんて、サリフラさんとは仲良くなれそうだ。
べりっ。ひゅー。とすっ。
サリフラさんからラカを剥ぎ取ったスナは、魔法で彼女を寝床に、ぽいっ、とすると、同じく魔法でゆっくりと下ろす。愛しい者を想う、悲痛な声を背後に、すたこらさっさー(しんとんのむすめもなかなかさ)。僕を引っ張るスナを先頭に扉から出ると、
「はっはー、変な気配だったから見に来たら、正解だったよー」
四女のクリシュテナ様が僕に飛び掛かってくるが、既にスナがラカで防御、見えない風竜でわたわたでばたばたなお姫様。
「何かあるー。何か居るー。おっおっおー?」「びゅ~」
ラカのお尻を撫で撫で。風の感触を楽しむクリシュテナ様。う~む、ミニスさんのときといい今回といい、もしかして、でっぱったぽよぽよのお尻の辺りは、風の操作が難しいのだろうか。ラカの意外な弱点である。などと考えていたのがいけなかった。
「何これー、貰ったー、返さないー」「ぴよぴよ」「二十六番です」
いや、ラカもナトラ様も、査定や順位の発表を冷静に熟している場合ではなく。べりっ、と剥がして、ぴゅ~、と脱竜の勢いで遠ざかっていきましたとさ。
「あれ? もしかしてクリシュテナ様を捕捉できてない?」「出来ない、わけではないですわ。ただ、あの娘、ややこしいですわ」「父上が言っていた。クリシュテナは、私の次に才能があると。男として生まれれば良かったのに、とも言っていた。クリシュテナは『現象』を用いている。クリシュテナを捕まえられるのは、これまで私だけだった」
うわ、まさかこんなところで「現象」のことを聞くことになるとは。
「げんしょう?」「でげしょ?」「リシェ。説明を」「あー、もー、行き掛けに話しますので、皆で王城に向かいますよ」「リシェ殿とヴァレイスナが居ると落ち着かないです」
いや、アランとナトラ様だけには言われたくないのですが。といったことを、自分で言えないのでスナの放言を期待したのだが、僕の魂胆を見透かした氷竜は、極上の笑顔で。愛娘の命令を断ることの出来ない僕は、お姫様よろしく竜娘を抱っこしたまま、王城までの道行きを楽しむのだった(よわねははきません)。
やばい、腕が死にそうだ。幾らスナが軽いとはいえ、さすがに距離があり過ぎた。いや、竜騎士なら普通に運べただろうから、僕がひ弱なだけか。スナの魔力を借りれば何とかなっただろうが、当然スナはそれを望んでいないだろうから、愛娘の期待に応える為、自身の力だけで最後まで遣り遂げた。その代償は筋肉痛だろうが、治癒能力が高まっている今の僕なら、そうした症状は現れないかもしれない。
「…………」
そして、僕の眼前にも、死にそうな感じで、がっくりと肩を落とす王兄が一人。顔を上げて、椅子に凭れ掛かると、徹夜したのだろうか、マルス様は疲労を隠し切れない様子で言葉を零した。
「……北の二人の代官は、通りすがりのパープットに説得されて、恭順の意を示してきた」「マルス様。パープットの糞野郎は何処にいますか?」「……何でも、周期若き者に、新たなる天才が現れたそうだ。二人の天才で雌雄を決する為、ペルポプーウに戻っていった。ただ、パープットが侍従長としての力を見せ付けた為、遠からず選出会議を終えて、アランの補佐として戻ってくるだろう」「アラン様っ! あのギザマルの糞を拾ってから、東域に向かいましょう!」「ふむ。それは構わないが、ユルシャールの責任で、ということになる。ペルポプーウにとっては神聖な儀式と同義。私は彼らからの反感を買うつもりはない」「リシェ殿! お知恵を!」「素直に諦めましょう」「ぅぎぎっ!!」
歯軋りだけでなく地団駄まで、青年貴族としての振る舞いは何処へやら。フレイさんの一件が片付いたというのに、僕同様に心の休まらない魔法使いである。
「準備が終わったです。二回目で、ヴァレイスナも居るので、思ったより余裕があるです」「それは良かった。ナトラ様の御披露目ができますね」「……何の話です?」「いえ、ただ、僕だけが晒し者になるなんて、何だか不公平な気がするので、出来る限り巻き込んでしまおうとか考えている次第です。因みに、スナは僕に協力してくれます」「私は、まだ何も言って……」「ごめん、スナ。聞こえなかったから、もう一度言ってくれるかな?」「ナトラ。父様は病気ですわ。逆らわないほうが身の為ですわ」「……わかったです」
病気かと問われると、そうでない、と答えたいところだが。これから遣らなければいけないことと、ストーフグレフの民へと向かう感情と相俟って、少々やさぐれてしまっているかもしれない。
「……疲れた。こんなに大変だとは思わなかった。もうたくさんだ。愛しい息子を王になどするべきでないと、はっきりと悟った。誰も彼も言うことを聞かず理解もしない無能だと思ったが、理解した、そうだ、私が無能だから何もかも上手くいかないのだ。徒労、という言葉を私は愛していた。対策をして、それが必要なかったのなら、それは喜ばしきことだからだ。それ故、徒労、を厭うことなく、親友としてきたが、ああ、もう駄目だ、絶交だ、金輪際、徒労の顔なんて見たくもない。ああ、そうだ、牢屋に入れて餓死させよう」
……僕よりやさぐれている人がいたので、ちょっとだけ冷静になれた。アランが玉座に座ったので、ナトラ様の魔力を借りて、脇に手を入れて、地竜を持ち上げて。
すたすたすた。ぽふっ。
完成である。王様の膝の上の地竜。うん、絵になる光景である。
「ふむ。ナトラが嫌だったら、無理強いするつもりはない」
アランの、本心からの言葉だろうが、それはちょっと卑怯だろう。確実に、ナトラ様の逃げ道を塞いでしまった。無自覚な王様は地竜よりも怖い、とか格言にしたいところだが、地竜が角を曲げてしまうので、暗竜のお口に、ぽいっである。
「それ、遊んでおらんで、始めよ」
玉座がある謁見の間にーー民の間では英雄の間と呼ばれているらしいーー無数の「窓」が開かれる。スナとナトラ様は平然としているが、百には負担なのか言行がぎこちない。
「ラカは、結局戻ってこなかったね」「…………」
話し掛けないほうがいいか。風竜への愚痴を零す余裕もないようだ。百の背中に手を添えて、用意された席へと歩いてゆく。ああ、外野はいいなぁ。フラン姉妹は楽し気に、ベルさんとエルタスは無表情だが、きっと内心では僕を嘲笑っているだろう。いやいや、またおかしな妄想なんてしてないで、もう一つの玉座、などと言いたくなってくる、何だか妙に豪勢な椅子に腰掛ける。氷竜の然らしめるところ、僕の膝にぴょんっと飛び乗る。肩車しようか、と百に提案しようとしたが、玉座、もとい豪奢な椅子の横に立って、僕の腕に手を置いてきたので、冗談は邪竜だけにして、受け容れることにする。
「ふむ。皆には心配を掛けたようだが、見ての通り、私はぴんぴんしている。では、紹介しよう、ナトラだ」
うわぁ、いきなりか。子供にもわかるよう平易な言葉で語り掛けたアランは、ナトラ様の脇に手を入れて、自慢の宝物を見せ付けるように捧げ持つ。思いも寄らない竜の登場に、「窓」から見えるストーフグレフの人々の顔が面白いことになっている。見ている分には楽しいが、この後は僕の番なので、純粋に楽しめないのが辛いところ。
「地竜ユミファナトラです。ナトラ、はアランが付けてくれた愛称です。僕はとても気に入っているので、皆もそう呼んでくれたら嬉しいです。今は、アランの守護竜となっているので、皆と触れ合う機会を楽しみにしているのです」
どっわぁああぁ、と竜の自己紹介にストーフグレフの民は爆発した。人口の違いだろうか、竜の民よりも歓声が激しい。まぁ、侍従長を罵倒するときの竜の民とはどっこいどっこいかもしれないが。
「きゃーっ! ナトラ様っ、愛ら凛々しいわ!」「おおっ、守護竜様に乾杯! ストーフグレフ国に栄光あれ!!」「アラン様~っ、信じてました~、ご無事で良かった~」「千周期王国の始まりだ!!」「「「「「っ!」」」」」「「「「「!!」」」」」「「「「「っ!!」」」」」
沸きに沸くストーフグレフの民だが、アランが宝竜を膝に戻して前を向くと、王の威厳に打たれて、まるで「結界」が張られたのではないかと思えるほど、静寂に傅くことになる。
「詳細は話せないが、私は今、ナトラと、ミースガルタンシェアリ様、ヴァレイスナ様、ラカールラカ様、スタイナーベルツ様の五竜。それと親友であるリシェを始めとした、グリングロウ国の方々と共に、この世界の危機に当たっている。危難は去っていない故、私たちは再び旅立つこととなる。兄上と共に、皆の国でもあるストーフグレフを、どうか護って欲しい」
アランは、頭を下げる。王が頭を下げる。それは許されざることかもしれない。だが、「窓」の向こうの誰一人として、責め立てる者などいない。逆に、恥じ入るべきなのだ。王にここまでさせたことを。誰の所為でこうなっているのかを。
「「「「「!?」」」」」
然ても、この時機は、悪戯好きのスナの仕業だろうか。ストーフグレフの民が、アランに声を上げようとしたところで、「窓」に僕の姿が映し出される。殆どは初見であろうから、何十万もの民が、噂通りの「魔王」の登場に慄くこととなる。然あれど、今の僕には炎竜氷竜が侍って、ではなく、ともに在ってくれる。邪竜も平伏すほどの可愛さに、竜の魅力に、ストーフグレフの民もめろめろに違いない。
「おい、噂は本当だったのか。竜の国の侍従長は、二股掛けてるってよ」「お可哀想に。二竜とも騙されているんだわ」「侍従長の『魔毒』に遣られる前に、ラカールラカ様とスタイナーベルツ様をお救いしなければ」「ラカールラカ様はどこ? お姿を拝見したいのに」「きゃーっ、人でなしよ!」「いや、あれ、竜人だから」
噂って怖いですよね。炎竜と氷竜に二股を掛けているだなんて、……なんて? ああ、いや、風竜もいるので、そういう意味では二股ではないので、噂は間違っているということになる、……なる? いやさ、これ以上悪化する前に、さっさと始めてしまおう。
「ストーフグレフ国の皆さん、こんにちは。竜の国の侍従長、ランル・リシェです。アラン様は早々に終えられたので、僕も倣うとしましょう。
この度のアラン様の不在に生じた一連のことは、すべて僕の仕業です。叛乱も、各種の流言も、何もかも、僕が仕込んだことです。皆様におかれましては、大変に不安な日々を過ごされたかと心苦しく思っております」
「窓」の向こうには何十万もの人間がいるのに、いつも通りに嘘を吐いている自分がおかしく感じられてしまう。僕が浮かべた笑みを勘違いして、炎竜の息吹が吐かれる(ばくれつする)、その直前に言葉を滑り込ませる。
「はは、何故そんなことをしたのか、理由くらいは聞いてください。ーー皆さんもご存知の通り、今在るものは永遠ではありません。大切なものも、大切な人も、気付いたら失っていた、そんな日が来ないと、誰が言えるでしょう。
ーー朝、喧嘩をしました。些細なことです。明日には笑い話にできる、そんな他愛のないこと。でも、その日は、その日だけは、『いってらっしゃい』という言葉を掛けませんでした。ーーそして夕刻、知り合いが遣って来て、告げられました。あなたの大切な人には、世界で一番大事な人には、もう二度と会うことが出来ないと。
後悔しました。どうしてあのとき、『いってらっしゃい』と、たった一言、声を掛けられなかったのかと。もしかしたら、あのとき声を掛けていれば、大切な人を失わずに済んだかもしれない。でも、そんな考えは無意味です。もうすでに、大事な人は、この世界に居ないのですから。それが事実で、それ以外のものなど何の意味もありません。
ーー失って初めて気付く。そんな言葉があります。この度のことで、皆さんは何を失いましたか? 何を失ったと思いましたか? それは大切なものでしたか? 失ってはならない大事なものでしたか?
ストーフグレフ国は今、安定に向かっています。ですがそれは、誰かの努力と献身によって支えられているものなのです。皆さんは、何をしていましたか? 何をしましたか? 国という大きなものに、日々の生活という大きなものに、どれだけ寄与しましたか? 自分以外の人々のことを考えましたか? 与えられるのが当然だと、勘違いをしたことはありませんでしたか? たった五周期で、忘れてしまったものはありませんか?
この国にはアラン様がおられ、僕の国には翠緑王がおられます。
大きく寄り掛かってしまっています。王様が居なければ、国が成り立たないほどに。王様が大切に想うのと同じくらい、いえ、それ以上に皆さんは王様を大切に想っている。王様を一人になんてさせません。皆が支えています。何故なら、この国の民であることを自分自身で決めたからです。
ーーさて、皆さんにお聞きします。今、僕が言った王様とは、アラン様でしょうか、それとも翠緑王でしょうか。僕は、はっきりと答えることが出来ます。皆さんは答えることが出来ますか。胸を張って、自分たちの王様に答えることが出来ますか。
どうでしょう? 答えを持っていないのなら、今、自分の手の内にある、小さなものから大切に想ってみませんか。その大切さを、知って、思い出してみませんか。皆さんの日々を輝かせているものの存在に、目を、耳を、心を、少しだけでもいい、寄り添わせてみませんか」
当たり前のものは当たり前じゃない。何気ないものも奇跡の集まりであると。大切さに気付かないことは幸せなことなのか。民に、真摯に問い掛ける。
静かである。皆、自分の中の何かと向き合っているのかもしれない。大団円として、ややもすれば納得しそうになるが、ちろりちろりと炎竜の炎が体から漏れ出す。ひたりひたりと氷竜の極寒で、心が凍っている。そう、彼らに言いたいことがあるのだ。感情が抑えられない。抑える必要もない。僕はアランの親友だから、言ってやらなければならないのだ。まぁ、僕は竜の国の侍従長だし、「魔王」とやらがこんなんじゃ拍子抜けかもしれないし、本性を曝け出したところで問題ないだろう。
「まぁ、そうなんだけど、そうなんですけどね。でも、言いたいことは他にもあるんです。というわけで、耳かっぽじってよ~く聞きやがれ」
横柄に足を組むと、ふわりと浮かんだ愛娘も足を組んで、とすっと横になって僕の膝の上に座って、首に手を回して、父娘一緒に、にんまりと笑って(さげすんで)やる。自分は関係ないとばかりに、腕に置かれていた手を離して、百はすたすたすた(あきれてものもいえない)、或いはたすたすたす(もうかってにしやがれ)。
僕の豹変ならぬ竜変に、間抜け面を晒している何十万もの人間に、大放言開始である(ブレスをあびせてやる)。
「まったく、アランが今回のことで、どれだけ心を痛めたか、わかってるんですか? それなのにのうのうと、何もしないで怯えるだけで、誰かが何とかしてくれると巣穴に篭もって、はっ、必死に生きてるギザマルのほうが随分と増しに思えてくるじゃないですか。
もったいない、ああ、もったいない、あなたたちにアランはもったいない。あなたたちは親離れできない子供ですか? 子供ならまだ可愛げがありますが、いい周期をしたあなたたちは子供なんですか? アランは今、世界の危機と向き合っています。死と隣り合わせの危難に身を投じています。はてさて、それは何の為に、誰の為にでしょう。
遣り甲斐がないですよねぇ。王様って割に合わないですよねぇ。真面目にやればやるほど、それを当たり前だと勘違いした人から忘れられてゆく」
ひとりぼっちのおうさま。
コウさんはなりなくてもなれないが、そうなろうとして逆に苦しんでいたが、アランはきっと、辿り着けてしまう。僕という友人を作るまでは、一人だった。周りに、ユルシャールさんやパープットさんが居たかもしれないが、いずれ独りになったアランは、自分のほうから遠ざけることになったかもしれない。
竜の民は魔法を使って、魔法使いの女の子を救ったーーのかもしれない。未だに明確にできない想いは、僕の内にそのまま、大切な場所に残っていて。
「はっはっはっ、何もわかっていないあなたたちに、寛大な僕が教えてあげまぁじょ!?」
ずばっ。
逃げるっ、遁走っ、逸走っ、「神遁」を舐めちゃあいけませんっ! 僕が座っていた玉座めいた椅子が真っ二つ。スナはちゃっかり退避で、ご観戦。手加減しないから、床とか壁だけじゃなくて、ああ、高価そうな装飾品まで……。
「ごめんっ、アランっ!! ストーフグレフの民を、アランの大切な人たちを馬鹿にしたのは謝るからっ! 手足の一本くらいなら我慢するから、真っ二つは止めてっ!?」
ちくしょう! 侍従長は畜生! ストーフグレフの民を暴発させる予定だったのに、短気な王様のほうが先に爆裂してしまうとは。くそぅ、甘く見てたっ、まったくの予想外だった! やっぱりうちの王様とどっこいどっこいか!!
「ふむ。こんなに早く、リシェとの再戦の機会が巡ってこようとは、ーー私は、恵まれているな」
幸いなことに、手足を失うこともなく、また「魔のこ」ちゃんの出番もなく、王様とか衛兵とか使用人とか、何から何まですべてから逃げ捲って。誰も居ない暗く狭い場所に身を隠して、騒動が収まるまで、じっと侍従長の新たな巣穴に篭もっているのだった。