一章 炎竜氷竜と侍従長 前半
おうさまがあまりにもおろかなので
おうさまがひどくかわいそうだったので
おうさまは、さいごまでふりかえらなかったので
おうさまのこころがきずだらけなので
しょうねんは、たすけてあげようとおもいました
おうさまがいつもわらっていたので
おうさまがとてもしあわせそうだったので
おうさまは、いちどもなかなかったので
おうさまのきれいなひとみがうらやましかったので
しょうねんは、おわらせてあげようとおもいました
しょうねんは、おうさまとやくそくしました
でも、いずれやぶってしまうだろうと
だれよりもしょうねんがそのことをしっていました
ですが、しょうねんは、それほどじゅんしんでもなく
こおりのおもかげをうっすらとひきずっていたので
おひめさまにあえたらいいなと
かぜにたくすくらいには、ちいさくのぞんでいました
一章 炎竜氷竜と侍従長
嫌いかと問われれば、そうでないと答える。掌から零れ落ちていく感触。引っ掛かって、残ったものを、揺れるように仄かに楽しむ。今日は懐かしい記憶に触れて、形として浮上して、風竜が優しく崩してくれて、真白な羽状にて、飛び去る情景。
ーー夢を見た。ような気がする。境目は希薄で、そこまで確固としたものではない。子供の頃のことで、羞恥心から幾重にも、氷の温かさも風の心地も利用して、降り積もらせて、届かないようにしていた。それは、疾うに過ぎ去ったもので、今から、一区切りついたあとに遣って来るものなのだと。何かを糊塗したいのだろうか、まるで人目を気にするかのように、予感に震えている。
はぁ、然ても、朝っぱらから何を腑抜けているのかと思われるかもしれないが。起きしなに行うことが言い訳だったことに、落胆、というか、僕自身に失望する。竜にも角にも、目は覚めて、瘧が落ちたように傅いていた感触を、夢の名残を手放す。
この時季はまだ、一つ音の前に日が昇っているので、居室の真ん中より上の層辺りが早朝の光を蓄えて、千の色彩を閉じ込めたような演舞に、未だ夢の中にいるのではないかと錯覚してしまいそうになる。とはいえ、二巡りも同じ光景を目にしているので、慣れる。そう、慣れてしまう。人間に具わったその機能は、昨日就寝間際に俎上に載せた竜の資質についての考察を思い起こさせるが、百竜なみー(えんりゅう)、いや、みーな百竜、のほうがいいだろうか。とどうでもいいようで、実は重要かもしれないことに、しばし頭を悩ませる。
りーん。
清澄な空気に溶け込むような鈴の音。西の山脈を越えてきた風は、ヴァレイスナ連峰で魔力を漂白された為か、或いは永く在り続けた竜の魔力の恩恵か、柔らかで心地良いとの令聞が諸国にも届いているようで、竜の国の、脅威の緩和に一役買ってくれている。
「みー様の笑顔のような」「百竜様が見守ってくださっているんだ」
竜の民の口の端に上って、どういう経緯を辿ったのかは不明だが、「百味の風」や「竜の百味」と呼ばれて、親しまれ、好まれているようだ。窓から吹き込んだ百味が、居室の色彩を掻き回して、粒子を光に散らしてゆく。
翠緑宮は手付かずの森に囲われている。何の対策もせず窓を全開にしておくと、小さな侵入者に手を焼くことになる。始めは、コウさんが虫除けの魔法球を作って、竜の民に配ろうとしたらしいのだが、にべなく老師に却下された。恐らくは、何かしらの余計な機能まで付けてしまったのだと推察する。薬師としての知識なのか、老師が虫除けの香となる素材を見つけ出して、然る仔細があって廃業したという薬師の一族が、彼の取り成しによって、再起か、再出発なのか、製造と販売を行っているらしい。相変わらず奇妙なところで役立ってくれる老師、もとい師匠である。……いや、何かこう、心の中に認めたらいけないような成分が今以て混じっているので、これまで通り、老師と呼ぶことにしよう。
りぃーん。がごんっ。りりっ……。
……ああ、また転んだようだ。竜の国の、縁の下の力持ち、竜が乗ってもへっちゃらほいっ、のミニレムであるが、周期を経るにつれて個性のようなものが芽生えて、それぞれの特徴というか持ち味が際立つようになって。今のところ、竜の民に受け容れられて、悪い兆候はないようだが、様々な観点から、注視しておく必要があるだろう。
仕事は二つ音と半分から始めれば誰にも文句は言われないのだが、寝惚け眼で執務室になど行ったら、開始時刻とは仕事に取り掛かれるよう準備が整った状態のことである、とばかりに完全な臨戦態勢のカレンにどやされるので、一つ音の起床が習慣になるよう心掛けている。然あれど、ここ二巡りの間で意味合いが少し変わって、ーー朝の日課になったのだった。然てこそ右腕が動かし難いので、左手で毛布をお腹の辺りまで捲る。
ずもっ。
今日も今日とて、ずもっ、である。
然も候ず、愛娘に、ずもっ、はないだろう、ずもっ、は。
そうだなぁ。もぐりん竜、若しくは、もぐりん娘、なんてどうだろう。ん~、みーなら、もぐりゅー、とか、もぐもぐりゅー、とかコウさんと……、あ~、いやいや、飛び立とうとする竜の翼は折り畳んでおいて。今は、可愛い寝息のスナのことである。
「~~、~~ぅ」
就寝時は腕枕でひゃっこい(るんるん)な氷竜なのだが、朝起きたときには裏返って、僕の脇の下に潜り込むような体勢で、角が突っ掛かって止まっている、という按配なのである。
竜には、狭いところに潜り込む習性でもあるのだろうか。スナが僕の居室に押し掛けてきてから、もとい父娘で過ごすようになってから二巡り、欠かさず、ずもっ、である。外気に触れて、スナからもあもあ~と濃い、というより密度が高い、と表現したほうが的確だろうか、繊細さを纏った冷気が立ち昇って、部屋の真中の色付いた薄白の層に紛れ込む。
僕の居室は、スナの魔力で満たされているようなので、虫除けは必要ない。聡い娘に聞いたところによると、居室自体を強化してあるので氷竜の属性を最大限発揮しても壊れない、のだそうな。僕の特性の然らしめるところ、魔法を無効化してしまうので壁には触れないよう厳命されている。床にはまた別の魔法が仕込まれているそうだが。
「スナ~、朝だよ~」
背中から腰の辺りをさわさわと優しく撫ぜてあげると、ねぼすけさんのスナが、わかったのですわ~(訳、ランル・リシェ)、という感じで体をもぞもぞさせる。
布一枚下の、冷たいようで暖かい、スナの肌触り。感触というか匂い、だろうか、甘くて、沁み込むような不思議な心地。触れるごとに増してゆく、愛しい娘への情感。
僕の服を強奪、もとい接収して寝巻きにしている愛娘。ーーあれ? おかしいな、僕は父親なのに、娘に支配されていることを暗に認めてしまっているような……。いや、まぁ、そんな悩ましな氷竜との関係は措くとして、そろそろ日課を開始するとしよう。
軽く体を傾けて、左手はスナの右の腰に、右腕をスナの体の左側に沿って動かないよう固定する。次いで、左手を固定しつつ更に体を傾けて、もぐりん竜を脇の下から、ぽんっ、と抜いて、「人化」したスナの、十歳くらいのか弱くも見える肢体を、僕の腕の中に納める。ふわりと、魂が繋がった感触に身を焦がしそうに、いやさ、身が凍えそうになるが、振り切って、抱き竦めたまま仰向けになる。さて、この時点では、おねぼうなスナさん。
「ぅ~ゅ~ゃ~ぇ~」
謎言語とともに起床。まだ目は開いておらず、スナの手が酔っ払ったギザマルのようなたどたどしさで、もぞもぞと上がってきて、僕の肩へ。胸にあったスナの頭が、人間の姿をしていても、そこはさすがに竜、竜腕ですい~と僕の首元まで遣って来て。ぐりぐりと、もぐりゅー。然こそ言え、そんな場所には潜れないので、スナの振り撒かれる氷髪の甘さと、痺れを伴うような心地と感触を堪能する暇もあらばこそ、居場所に甘心したらしい愛くるしい娘が深呼吸。
「ゅ~~、ぅ~~」
僕の臭い、あ、いや、匂い……ではなく、ここは曖昧に「におい」としておこうか。
竜を誑し込む清々しいにおいですわ。と以前に名状し難い比喩で、いや、スナは断言しているのだからこの言葉には語弊があるか、いやいや、そんな細部に拘っている場合ではなく。僕を困惑させる、というか、誘惑してくるスナは、むふふー、と笑顔で誤魔化して(?)いた。まぁ、詮ずるところ、目を覚ますのに丁度良い刺激的なにおいである。とこのくらいの心持ちでいたほうが、僕の軟弱な精神にも都合が良さそうだ。
ーー竜はいつでも好きなときに目覚められる。言葉通りに、竜書庫で再会したスナは、氷の優しさで最高の寝覚めを祝福して(あたえて)くれたのだが。甘えさせるよりも、甘えるほうに天秤は傾いたらしい。同棲……ではなく、同居生活の初日こそちゃんと起きたものの、一巡りかけて段々とねぼすけ具合が酷くなって、今に至ると。不思議なもので、人は甘えられる環境にあると、簡単に堕落する。堕落、という言い方はあれなので、怠惰、ずぼら、ものぐさ、ぐうたらーーと、まぁ、言い換えてもそんなに変わらないか。
グランク家で、世話係というか下働きとして働いていた頃、日の出とともに目を覚ましていた兄さんでさえ、僕が起こしてあげるようになると、おねぼうさんになった。〝サイカ〟の里では、元通り起床するようになったそうだから、やはり精神的なものが影響しているのだろう。それは竜でも変わらないようで、いや、竜は魔力寄りの生命である、人よりも大きく作用するのかもしれない。と思惟の湖の浅瀬で漂っていたら、どうやら満足したらしい、ゆぅ~くぅ~りぃ~と転がって、僕の右側にこてっと落ちて、背中を向ける。
非常に困ったことに、スナは上一枚で下には何も着いていないので、肌色で柔らかそうなものが僕の目と体と、何もかもを軽やかに揺らして、心を擽って広がった刺激が、魂に焼べた憧憬を焦がさんとばかりに際限なく……げふんっげふんっ、いや、何でもありません。ふぅ、自然と向かいそうになってしまった視線を引っぺがして、横臥しているスナの背中に身を寄せながら毛布を肩まで引き上げる。
竜の国の、目覚めの頃合いは、多少肌寒くはあるものの、毛布を必要とするほどではない。通常の魔法や魔力は、魔力がない、もとい魔力を失い続けているらしい(コウさんの見立てなので何かしら誤謬があるかも?)僕に影響を及ぼすことはないが、竜の魔力は、程好い、と言っていいくらいの差し響きで、毛布の中で生じた熱を冷ましてくれるスナは、堪らない心地良さで僕を誘ってくれる。
「おえあ…いぃい……まうわ、おーさぁ……」
普段の涼やかな竜声と異なる、舌足らずな様子は、父性を喚起させて、多少なりとも冷静さを取り戻させてくれる。然なきだに触れるごとに深まる愛情と、よくわからない温かくて熱いものを、気付かない振りをして。スナの反応があったので始めるとしよう。
「ひゃ…ぅ」
スナの氷髪を掻き分けて、後頚部ーー首の付け根の少し下辺り、触れるか触れないかの曖昧なところに額を、おでこをくっ付けると、スナがみーの炎でも浴びたかのように、ぴくんっ、と全身を震わせた。治まるのを待ってから、再開する。動かす範囲を拡げながら、ゆっくりと擦り付けて、少しずつ、少しずつ領域に侵入してゆく。ここで重要なのは、慌てないことだ。周囲から刮ぎ取るように高めてあげるのが効果的なのだ。
「ひゃぁ…ぃ、ひぃう……ひぃ…ん、ひゃ…ぅ…ん……ゅっ…あ…、ゃぁ……ひゃんっ」
軽く仰け反ったスナの、色付いた吐息。ここまで辿り着くのに、一巡りの試行錯誤が必要だった。さて、ここからが本番である。スナの、「氷竜のいいところ」を直に刺激して、隅々まで撹拌させる。下から上へ、首の付け根から後れ毛まで、額で優しく撫ぜてゆく。
「ひゅぎゅ…っはぁ……、ひゃにゅ…ん……ひゃふ、ひゃぁ…んっ、ぁんっ…ひゃふっ…」
竜心、という言葉についての解釈には、幾つかの謂われがある。……あれ、何かおかしな言い様をしたやもしれぬが、冷静という言葉が捩れ返った今の僕には思ひ兼ぬ。
「ひゃひゃ…ひゃぅ…ひゃうっ……、ぎゅっ…ひぃぎゅ…ん……ひふ…ぁひぃひゃんぅっ」 いや、羞恥心のような形をした破廉恥でおっぺけぺーな感じなものに囚われている場合ではなく、行為に集中しなければ。今日こそは至るのだ、と魂を打擲しまくる。
「っ…ひゃぁあぁぅんっ」
スナが堪え切れずに身を捩る。二巡りの成果に鑑みて、ここからが追い込みである。右手をスナの肩に、左手はスナの脇を通して掴んで、引き寄せて逃げられないようにする。
「~~っ、~~ぁ~~っ、ぃ~~ぅ~~っ、~~ゃ~~、ゅ~~、~~ぇぅ~~ぁ~~っ」
一旦刺激で声が出難くなるが、その分、本能なのだろうか、悶えながらも僕から身を遠ざけようとする。当然、逃しなどしない、泣かれようとも喚かれようとも、「氷竜のいいところ」を額で擦り続けて、放出へ至らんと、一心竜乱に速度と威力を高めてゆく。
「~~っ、ひゃふ……?」「今日はもう少し、スナの、奥に入る(ふれる)からね」「っ……、ーー?」
だが、このままでは辿り着けないことを、昨日までの愛娘との行為で学んでいる。ここから緩急をつけて、芯には触れないように、周辺から幾度も幾度も、溜め込むようにーー。
「とう…ひゃまぁ⁉ ……ふぅぎ、だめ…っじゃ、ない…ですわぁっ、すみずみまでっ、かきまわ…されてぇ……ますぅわ…、はが…されて…ぅん、と…さまっ、とおひゃまっ」
スナが自覚できるほどにーーここまで至ったのは初めてだった。
今日こそは、と。逸る心を抑えて、最後に、触れずに溜め込んだ芯の部分を、「氷竜のいいところ」を柔らかに緩やかに、愛娘を労わるように慈しむように、魔力がない僕にしか出来ないという竜との触れ合いの、一つの帰結を求めんと、ひゅるんっと撫ぜ上げる。
「ぁ……ひゃん⁈ …ぁあひゃあぁぎゅ~~っ‼」「ーーっ⁉」
どばんっ。
爆発、と言ってもいいのだろうか、スナの魔力が、視界を染め上げる濃白の冷気が、僕の精神さえ氷の優しさで包み込んだのか、陶然たる心地で純氷に塗れようとして。灯ったーー、いやさ、ちらついた、それでいて確かな刺激を伴った炎が僕を現に回帰させる。
「今日もひゃっこく冷え冷えですわ~~っっ‼」
ばさっ、と跳ね起きたスナは、竜の咆哮の如き大喝采で翠緑宮を震わせて、いや、そこはスナの魔法で抑制効果があるはず。というか、昨日までは、放出後はぐったりとなっていたのだが、二巡り掛けて「『氷竜のいいところ』は好いところ」作戦は成功したようだ。いや、あ~、その、始めは「酔い処」にしていたのは秘密なので、皆さん、記憶からの抹消をお願いします。ではなく、今は元気冷え冷え~な愛娘のことである。
薄れる白さの中で、魔力に依るものなのだろうか、すぽーん、と僕の服を脱いで全裸になるあけっぴろげな竜娘。……その、態とじゃないですよ、愛娘に背を向けるのが遅れたのは、ちょっと、と表現するにはそれなりに永いではなく短い時間だったかもしれないが可愛いお尻から目を外すのに苦痛を伴ったとかそんなこと有り得ないとか言い訳……を?
ぐるりっ。
「…………」
正確には、一瞬でがばっと反転すると。スナはいつもの、エルルさんから貰った(彼女が子供のときに着ていたものらしい)という、お気に入りの、ひらひらした服を着ているところで。はぁ、やっぱり着いてくれないんだなぁ。竜はもともと全裸ですわ、と不思議そうに、からかうように微笑むスナに、言葉を失ってしまった僕が悪いのかもしれないが。着ていた服が腰の辺りで引っ掛かったらしく、下半身がーーって、そうではなくてっ!
「みー様⁉ いつからそこに‼」
ぐぁっ、氷竜の塒の万周期氷くらいに冷静にと自らを偽っていた僕の演技なようなものが、完膚なきまでに粉微塵に吹っ飛んだ。
見られた? 見られました⁉ 見られてしまいました⁇
ぎゃふんっ、何だこの、僕の中でよくわからない感じで鬩ぎ合っているものは。いやいや、今は動転した僕の欲望の発露、もとい愛欲、って、ちっがーう! 違わないかもだけどすべてを違うことにしておかないと後々厄介なことになるかもしれないので……。
「あら、みー、おはようですわ」「はーう、こーりがこりこり、ひゃっ……ふぁはぁ⁉」
スナの挨拶にきちんと応じなかった不心得者のみーに、古竜が楽しげに微笑む(だんざいする)と、仔竜は引っ繰り返りそうになるくらい仰天した。後ろに倒れそうになるが、全方位すべてが死地であると知って、その場で直立不動の体勢になって、元気っ子が竜妙っ子になった。
居室に数十本の、がりがりと荒く削ったような巨大な氷柱が現出して、体に大穴が空いてしまう感じの、いまいち感覚が追い付かない狂気の、もとい凶器の矛先が、氷柱の尖った先っぽがすべて、みーに向けられる。然しもやは氷竜の稚気、ではなく、茶目っ気がこの程度で済むはずもなく。磨き抜かれた氷で作った針、刺さったら痛いだろうなと思わせる、絶妙な大きさの数百本の氷針が、氷柱の間の寒々しい空間を埋めてゆく。
うわー、これは酷い。何と言えばいいのかわからないけど、やっぱり酷い。焚き火に大寒波、いや、「火球」に「氷絶」のほうが正確だろうか。幸い、と言っていいのか、傍観者の立場の僕は適度に冷え冷えで、理性とか悟性とか人間にとって重要かもしれないものを取り戻すことに成功したのだった。
「ふふっ、そこのちょろ火は、あの娘から礼儀というものを習っていないのですわ?」
スナの氷眼が深みを湛えて、竜眼と譬えるしかない鮮やかな瞳に。牙が、爪が伸びて鋭さを増して、尻尾が生える。肢体に氷の紋様が浮かび上がって、寂れた白い角が倍加したような大きさに。ーースナの「半竜化」を見るのは初めてだった。属性を抑えていないのか、生粋の冷気がスナを彩って、愛娘に近付こうと腰を浮かし掛けたところで。
「みゃーう、やうやうやうやうやうっ、こーたすけ……」
炎でさえ縮み上がる氷の微笑を向けられて、大好きで頼りになる(?)魔法使い(おんなのこ)に助けを求めようとして、がくんっ、とまるで事切れたかのように頭だけが前に倒れた。……って、いやいや、異常な事態に放心している場合ではなくっ、早急に氷柱氷針を消、ひっ⁉
「はっ、お出ましですわ? 熾火」
燃えた⁉ って、あの、その、何が燃えたかというと、スナの氷柱と氷針が突如として、まるで瞋恚を体現したかのような真炎を纏ったのだ。紅き炎の内で、浸食されるように、みるみる氷が溶けてゆく。あー、というか、これ大丈夫なのかな。猛炎というか極炎で部屋が凄いことになってるんだけど。スナの施した強化とか付与魔法が効果を発揮しているはずなので、たぶん、きっと、問題ない、といいな。
「仔竜を苛めて悦に入るとは、見下げ果てたものよな、氷」
「ふんっ、黙るが良いですわ、この、真っ黒くろ~な、炭」
顔を上げたみーの顔には理知的な、威厳すら醸すほどのーー百竜の、敵愾心を極限まで焦がし尽くした末の、笑み(のこりび)が揺れていた。魔獣すら尻尾を巻いて逃げ出しかねない凄絶な笑み(ざらめ)を散らしたスナが、ぱちんっ、と指を鳴らすと。
揺らめく炎が、その形を保ったままーー凍った。須臾の間、静寂に沈んで、床に落ちた炎な氷が、若しくは氷な炎が砕け散る。いや、砕けるなんて水準ではなく、魔力にまで還元されたのか、軟風に吹かれた薄靄のように、儚く世界に還っていった。
「黙れ、氷柱」「煩いですわ、木炭」
一触即発ならぬ魔触竜発だろうか。お互い笑みの形を崩さない、紳士的でない遣り取り。
う~む、「千竜賛歌」のあと、見えた炎竜氷竜は、お互いを認め合ったかのような態度を取っていたと記憶しているが。うわぁ、何だろう、この混ぜたら世界崩壊な炎竜氷竜は。
二竜は、属性をまったく抑えていないのか、寝床に座った僕の右半分があっちっちで、左半分がひゃっこいです。たぶん、これ、普通の人間なら即死なんだろうなぁ。
「そも、丸出しで騒ぐでないわ。さすがは竜の尊厳さえ凍り付かせ亡き者にしよう霜柱と言ったところか」「ふふっ、負け竜の遠吠えは、いつ聞いても心地良いのですわ。それだけ肌を露出して、父様の心に火の粉の一片たりとも擦り付けることが出来ないなんて、哀れを通り越して、滑稽ですわ。ふふりふふり、何より、熾火の痕跡は、物理的にも魔法的にも消毒して、消し去って遣ったのですわ」「……然かし、主に触れられ、然しもの氷も背中に冷や汗を掻いたと見える」「…………」「…………」「えっと」「「……、ーー」」
スナが自らの頬を指で擦ってみせると、激発し掛けた百竜が一瞬で「半竜化」するが、僕を一瞥して炎を内に籠めると、負けじと角を怒らして遣り返す。
まぁ、色々大変ではあるけど、竜にも角にも、最優先必須事項であるところの。そちらを見ないようにしながら、スナの後ろに回って、腰に引っ掛かった布を解いて丸出しっ娘の肌色過多な艶めかしいというか、いや、子供の姿だけど、スナの周期はずっと上だから……ぐぅ。ああ、もうっ、寝起きからいったいどれだけ僕の心とか精神とかを炎氷してくれるのか。あ~、なんかくらくらする。ーーふぅ、ちょっと疲れてきたので、二竜の間に立って。余裕のない、僕に頓着しなくなったっぽい両竜の頭の後ろに手を遣って。
二竜とも仲良くね~、って感じで、ぐいっと近付けた。
「えいっ」「ぬあっ⁉」「ひゃっこいっ⁉」
何事かと静観していた百竜とスナが、顔が近付いて、もう少しで唇も、というところで、がしりとお互いの顔やら肩やらに手を当てて、分離。「結界」も張っていたようで不自然な衝突も起きる。炎と氷の相反、或いは相克する魔力の所為なのか、二竜がばっと弾ける。
「ひゃぎっ⁉ ちょっ、冗談じゃないですわっ、初めては父様に上げるのですわ! 炎になんか呉れてやったなんてことになったら、末竜までの恥ですわ!」「くっ、我こそだ、大概にせい! それとなくみーにも伝わっておるのだ、嫌われてしまうではないか!」
これは慮外。両竜とも本気で動揺しているらしく、本音が駄々漏れになっている。
「ひゃぐぅ、とりあえずそこの阿炎は、草葉の陰でひゃっこくなっているが良いですわ」
指を、びしっ、と突き付けて、頑是無い氷竜が言葉を投げ付けると、
「ふんっ、うっかり火山の中に落っこちて、雑氷はほんのりのあっちっちになっておれ」
炎竜は、頑是無い、というより、幼稚な言葉を投げ返して、炎と氷ががっちんこ。
「……駄炎」「……野氷」「…………」「…………」「みあずまの発生源でちろちろ燃えているが良いですわ」「踏まれ過ぎて、薄汚れた霜柱はどろどろになるが定め」「ーーーー」「ーーーー」「霜焼けになって、ひーひー啼いていると良いですわ」「うっかり冷え過ぎて、低温火傷になって、あっぷあっぷしているが良い」「ーー、……っ」「……、ーーっ」
「そういえば、ひーちゃん、とか呼ばれていますわ? でしたら、ひゃーちゃん、にするが良いのですわ。ひゃっこくて好い感じですわ」「ーーヴァーさん。ふむ、婆さん。悪くない響きではないか」「……、ーーっ」「ーー、……っ」「……はぁ」「「っ‼」」
あ~、百竜は炎を、スナは冷気を口から漏らして、一歩も退かない気配である。ここまで来ると、相手を口撃する為の内容はどうでもいいらしい。いや、どうでもいいということはないのだろうが、見ている側からすれば、然したる違いはない。
一応〝目〟として論評するなら、性格ゆえの、或いは慣れの差だろうか、百竜のほうに切れがなく、劣勢の感は否めない。
「まさか主の褥にまで迷い込むとは。躾がなっておらんな、この、恥竜めが」
ああ、やっぱり。百竜は口喧嘩なんてしたことなかったんだろう。
然ても、これは不味い。炎の籠め過ぎで、百竜が一線を越えてしまった。あと、地竜が可哀想だから、恥竜とか破廉恥竜とかの悪口は止めてあげて下さいませ。などと考えつつ、これ以上ないくらいに冷え切って、極寒の冷気を吐き出そうとしたスナの後ろに回って。
「羨ま」「あむっ」「しぃ…ひゃんっ⁈」
脇に手を入れて、すっと持ち上げて、「氷竜のいいところ」をーー噛んだ。
ぼふっと体から冷気を噴出したスナは、びくっびくっと全身を震わせたあと、脱力してぐんにゃりとなる。見ると、百竜は両手で自分の体を抱き締めて、引き攣った顔で後ずさっていた。刺激が強過ぎたのか、百竜の「半竜化」が解けて元の凛々(りり)しく可愛らしい姿に。
「ひゃにゅ~、……父様っ、何てことするのですわっ、まだ放出したばかりでそこは敏感なのですわ!」「ん~、スナがおいたをしたとき、父親として、どんな『おしおき』をすればいいかと考えていたんだけど、これなら効果がありそうだね」「…………」「ちょっ、何ですわ、馬火炎、その哀れんだ顔は! もぅ怒ったのですわっ、『炎竜のいいところ』をばら」「あぐっ」「しぃ…ひゃふんっっ⁇」
ぽふっと体から冷気を漏らす愛娘。「半竜化」が解けて、ぴくぴく痙攣して、身動きできないスナを抱えて移動。スナが無断で造った隣の部屋(侍従長は嫌厭されているので隣は空室)に通じている扉を開いて、室内に入って壁に凭れ掛からせる。
「それじゃあ、今日もお願いね、スナ」「……とーはま、あおでおほえへふおいーでふわ」
父様、大好きですわ(訳、ランル・リシェ)。うん、僕もスナが大好きです。
然てこそ、ぱたり、と扉を閉める。然ななり、巧まずして斯かる仕儀と相成ったからには、「炎氷作戦」とでも命名しておこうか。作戦を継続、百竜と二人っきりである。
「不憫なのか、充足しておるのかわからん。あの氷なら、どちらであろうと楽しむのであろうが」「スナは料理が気に入ったみたいで、ああ、みー様みたいに食べるほうではなくて、作るほうだけど、ここ二巡りでかなり上達して、普通に作れば美味しいものが食べられるから、百竜も食べていってね」「湾曲せずとも、主の望みなど疾うに承知しておる」
まだ薄暗い室内に、ふぅ~と百竜が炎を吐くと、生き物のように、いや、精霊のように、と表現したほうがいいだろうか、四方に散って、みーの寝顔のような穏やかな火が灯る。
「えっと、百竜は、竜の『いいところ』のことは知っているのかな」
肝要に触れようとして、いきなり腰砕けになってしまったが幻滅することなかれ。と自分に言い聞かせて、浮気の証拠を掴んで愛想を尽かした……ではなく、言い訳しても許してくれなそうな百竜の半眼に怯えつつ、寝床に座っている僕の隣を勧めようとして。慌てて皺を伸ばして、座っていただけるよう整える。
「…………」「ーーーー」「……、ーーっ」「ーーーー」「ーー、……っ」「ーーーー」
視線で僕を存分に嬲った百竜は、海容、いや、ここは御炎容と阿って、ではなく、神妙ならぬ竜妙ーーって、いやいや、よくわからない罪悪感から逃避しようと言葉遊びをしている場合ではなく。ーー無言で背を向けた百竜に手を伸ばし掛けて、向かう先を知って。追憶めいたものが胸の奥から言葉となって既に転び出そうになったところで閉じ込める。
「我が知らぬはずがあるまい。竜の『いいところ』なぞの小戯れた形容は耳慣れぬがな。魔力の調整器官を斯様に用いようとは、氷の廃退を受容しよう主を、はてどうしたもやら」
冷たい炎、と表現したくなるような熱の籠もらない声音で話しながら、部屋の隅に置いてある椅子に真っ直ぐ歩いていって、魔法や魔力などは使っていないようだ、手で持って運んできて、僕から三歩離れた場所に置いた。
警戒心を示すであろうその距離に、凍えそうになった心が、見るから熱せられた体中の粟立つような衝動で、苦悶への階梯を駆け上がる。
「ーーっ! ……っ⁉」
椅子に馬乗りになって、笠木に腕を重ねると、ちょこんと顎を乗せる。
然ればこそ、斯かる座り方をすれば、自然律に遵って若草色の外套が押し退けられて、そんなにじっくりと見る機会なんてないので、何故か眩しく見えてしまう胸と腰のひらひらした布の、足を開いて座っているので、クーさんが施した効果、隠して隠すことで云々の部分が、駘蕩たる肌色が光を燻らせたような緑の風に揺られて、幼い肢体を……ごふんっごふんっ。……ぐっ、うぐぅぁ、頑張れ、僕っ、がんばりゅー、僕っ。魂よ焦がれろ、とばかりに視線やら意識やら何やらなにヤラを吸い寄せられてはならない。然う、視線は不貞腐れた感じの表情も魅惑的な百竜の顔に。あとは、ぼ~と何となくそっちを見ればいいだけだ。って、そうではなくてっ。まったき竜心を飛び越えた心竜を身に宿して、百竜に自分があられもない座位をーーと、そこで通りすがりの雷竜の閃きが僕を打ち据える。
然なめりと思い做す。百竜は落ち度を自覚しておらぬゆえ、蓋しここで指摘しやると、百竜の機嫌を損ねてしまうやも。それは得策ではなかろう。知らぬが竜。
「……、ーー」
ふぅ、すべての問題は取り払われたようなので、引き続き百竜との縺れの解消に邁進するとしよう。頭が茹だっているかもしれないが、他が沸騰しているかもしれないので丁度良い。なぜなら、そうであるなら、あとはゆっくり醒めて、もとい冷めていくだけ。
「えっと、ああやって刺激して、内部に溜まっていたり循環から外れていたりする魔力を排出することで、隅々まで行き渡るようになって、魔力の運用効率が上がったり、魔力を吸収ーー享け易くなったり熟れたりと、いい感じにひゃこくなったりするらしいんだけどーー、百竜も抜いて(やって)みりゅー?」「ーーぼはぁ」
おちゃらけた感じで、途中で気付いたものの止めることは敵わず、明らかに間違った方向に鼻息を窺うと、竜鼻をひくつかせた百竜が徐に息吹を吐いた。純粋な炎のような赤の世界で、微温湯に浸かっているような心地良さに揺られながら。そんな状況じゃないんだけどなぁ、と百竜に内心で謝ってから、僕は先程感じた違和感に意識を向ける。
右があっちっちで左がひゃっこいーーいや、ふざけているわけではなく。僕は百竜とスナの属性乃至竜の魔力を浴びて、斯くの如く感受した。暑い、と、寒い。そう表現するくらいに竜の魔力を体感していたのだ。ここ二巡りのスナとの触れ合いで、スナの冷た(あたたか)さをより深く感じるような心地に至ることがあったが。炎と氷がどのように作用したのか、恐らくは僕の意思や心持ち、心胆に因るものだと思われるが。これまで些少な、吹き退る風の応え程度にしか知覚できなかった竜の魔力を、程好く感じられるーー蓋然性がある。となるべく言葉を慎重に用いようとするが、高揚、いや、正しくは興奮だろうか、心臓を手で押さえて、逸る心を抑えるよう努める。
ーー良いこと、のような気がする、のだが、実際にはどうなのだろう。通常の魔力は、エンさんやクーさんとの鍛錬を始めてから、ある程度の魔力量であれば、魔力を纏っているかどうか、何となく、ではあるがわかるようになった。魔法として発現した場合はまったくで、未だにコウさん以外の魔法が僕に影響を及ぼしたことはない。
然てしも有らず百竜の息吹を、微温湯のように感じていた心地は、僕の側の変化の所為だろう、今や南方の熱波の如く肌を焦がす炎竜の、真炎の終息とともに一息で切り替える。
ーー炎は人と戯れる。熱が解けるほどに炎の求めに焦がれて。見詰めていたものは炎だったのか君だったのか。行く末は焼いてしまったから、君の瞳に世界の果てを見よう。
古のへっぽこ詩人の詩句を、炎に炙られた風の吐息の儚さで散らしてゆく。名残に触れて、僕が贈った若草色のリボンも炎風から解放されて、するりと垂れる。
「答え合わせといこうか」
炎を吐いて、わずかでも溜飲を下げてくれたのか、百竜の炎眼に理性の色合いが加わる。竜にも角にも、頭は凍え(やけ)て雑念が逃げ出してくれたので、百竜の求めに応じよう。これ以上不味いところを見せると、百竜に気に入られているらしい僕の評価がだだ下がりになって、主、との呼び名が、下郎とか下種とかに換わってしまうかもしれない。
「始めは、ミースガルタンシェアリかと思った。一竜になってしまうみーの為に、魂の縁として残ったのかもしれないと」「ほう。なら、我はミースガルタンシェアリではないと、主は然う見遣るか?」「うん、百竜の言う通り、視野を拡げる必要があった。そこで先ず思い至ったのがーー竜の叡智」「そうさな。人間は、永い星霜を在り続けよう竜には相応のものが宿っていると、斯様に思いたがる」「はは、それは仕方がないよ。人間からすれば、竜とは想像と憧憬を預けることでしか辿り着けない、そんな存在でもあるのだから。ーーでも、特別扱いをすると同時に、その生命や能力には限界、ではなく、在るべき形があるのではないかと考えた。竜は叡智を持っている。であるなら、竜はどうやって、叡智を手に入れたのか。永い周期を経れば、自然にそれは手に入るのだろうか」「無理、であろうな。身に享ける魔力から、それなりのものは得られようが、他者との触れ合いなく、己を見詰めるにも限度があるゆえ」「そう、だから、竜は初めから叡智を具えて生じてくるのではないかと仮定して。それに相反する、みー様に思いを致した。みー様は、贔屓目に見ても叡智を具えているようには拝察できない。そうであるなら、みー様は竜の叡智をどうしてしまったのだろう。また、竜の叡智を具えていないのなら、どのような影響があるのだろう。人間らしい受け止め方になってしまうかもしれないけど、生まれながらに竜の叡智を、知識や経験を持っていたとしたなら、果てなき僥倖であると思える。ーーでも、それは滑稽で、酷く詰まらないもののように思えた」「主は、竜を哀れな生き物と見るのか?」「ーー家の扉を開けたら、雪が降り積もっていた。足跡のない、まっさらな雪面。白く、純粋なような雪の原に、足を踏み出す高揚感と期待。踏み締めたときの感触、そして足跡を付けてしまった、美しいもの、完成されたものを壊した、踏み躙ったことによる罪悪感と、それを自分が成したことの楽しさや心地良さ。ーー竜の叡智は、それを与えてくれない。雪の感触は、触れる前から、踏み出す前から識っており、それに伴う心の応えさえ、経験する前から実感していたとするなら。扉を開けたときに見えるものは、跡形なく踏まれて、泥に塗れてしまった、成れの果てではないかと。それは、祝福であり、呪いでもあるように僕には思える」「我は呪いか。否やはないが。然れど、主よ、如何ばかりかは傷付いたぞ。我を慰めよ」「……そういうわけで、百竜は竜に叡智を齎す、竜の知恵ーーいえ、竜の魂と呼ぶべき存在なのかな、と。そして、みー様は、どうやったのかわかりませんが、というか、そもそもそんなことが可能なのか、竜の尻尾を掴まえるような感じだけど。ーー真っ新なこの世界に触れる為に、竜の魂である百竜を切り放す、いえ、切り離したのだと思う」「ーー正解、ということにしておこうか」
百竜の竜眼が優しくなった。竜の微笑みが僕の心を蕩かす。
「我のことをそれほどにも思うてくれた主の魂で、溺れてしまいそうだ」
「千竜賛歌」から二星巡り。カレンやエーリアさん、それにスナのお陰で思惟の湖に潜る時間は十分にあった。スナとの邂逅、みーと出逢い、百竜と出逢った。自分でも不思議なことだが、僕は竜に対して常ならぬほど好意的だった。魂からの応えなのか、その気持ちを完全に排除して惟ることが出来ないと知ったあと、みーと百竜を想いながら蓋然性を選っていった結果、行き着いたのが百竜のーーいや、まだ大きな疑問はあるのだが。
「主の言うた通り、我は竜の魂なのであろう。そも、我は自身に人格があるなぞ思うて、いやさ、思うことすらしようことなき機能のような存在であった」「百竜は、すべての竜の内に在るのかな? 『千竜賛歌』で呼び掛けることが出来たのは、その証左であるように思える。そうなると、他の竜でも百竜が、若しくは百竜と似た存在が、人格を持つことが、ーーん? そうか、その可能性も、ーーもう昔日にそういうことがあったとか?」「斯様な表現が適切かはわからぬが。我以外の魂は、一度も目覚めたことなく、今以て果てなき夢の狭間に揺られておる。曖昧ではあるが、我の感覚からすると、我は主人格の如き存在なのであろう。もし他竜で我が目覚めたなら、恐らく我に還ってくるであろう」
ん? ああ、いや、これはどうなのだろう。まぁ、ここまで聞いてしまったのだから、たぶん質しても気分を害するようなことはないはず。然らば竜の角に、突貫。
「百竜は、他の竜とは役割が異なる。そうなると、竜としての力や能力はどうなのかな? 魂が分散しているーーその分、力が弱まっていたり制限されていたり、とかはあるのかな?」「ふむ、主は我に興味津々か。悪くない気分だ。主の求めに応じよう」「…………」
……ああ、然てしも別に嫌なわけじゃないんだけど。少し困ってしまう。出逢いのときからそうだったが、百竜の求めが重過ぎ、もとい大き過ぎるのだ。僕に、いやさ、僕自身にそれに相応するだけのものがあるとは思えないので、齟齬が生じてしまっている。
「竜としての力は、能力は、他竜と相違があるようには思えぬ。主人格ゆえか、等分されておるわけではなく、それなりに魔力量はあるが、成竜と比べるに随分見劣りがしよう」
やはり他の竜と魂を分かっている所為か、弊害、ではなく、制限のようなものはあるようだ。然てこそ忽せには出来ないので、最後に聞かなければならないことがある。
「百竜は、竜の魂ーー精神や魔力体のような存在なのかな? みー様の内に在ることで何かしら問題があったり、逆に、外に出て行けるのなら、竜の魂である百竜を失うことで、みー様に影響があったり、とそこら辺がわかるのなら教えて欲しいんだけど……」「くはは、斯様に気を使わんで良い。我が同居することで問題はーー、ああ、あったな。嘗て主に笑顔を向けられたとき、想いが抑え切れぬゆえ、みーが『むりゅむりゅ』と感じようものを味わわせて、みーが主を嫌いになる、決定的な要因を作ってしまった」
……みーの内側に在る百竜からお墨付きを得てしまった。いや、そうではあるのだが、そうなのかもしれないけど、もう少しばかり事実確認に勤しんでみようと踏み込んでみる。
「何故みー様に……嫌われている、かもしれないのか、教えてもらえたりなんかしちゃったりすることはありますでしょうか……?」「世の中とは良くできておる。みーに嫌われている分、我に気に入られている、なぞと思い込んで、満足しておれば良いものを。斯様な主に免じて、何故今以て嫌われているのか、それはみーの心持ちゆえ、明かすことはせぬが、それでは主が哀れ過ぎるで、みーの吐いた嘘を、一つ教えてやろう」「嘘って、『竜饅事件』のとき以外の?」「いや、その『竜饅事件』で合っているが、主が気付かなかったのも無理はないか。主は、姑息な奸計、とやらを用いて、みーを肩車した。然し、思い出してもみよ、主を嫌っておるみーが、素直に肩車されると思うか?」
そう言われると、確かにそんな気がしてくる。コウさんに秘密にする、そのことと引き換えに受け容れてもらった、ではなく、受け容れさせた、いや、どちらも成り立つのかな。みーはその後、嫌がった素振りは見せず、楽しんですらいた。そうさせたのはーー。
「ザーツネルの乗り心地が一等賞」
百竜の示唆を得て至ることが出来た、とは思うのだが、果たして合っているのか。これまでのみーとの触れ合いを思い起こして。疑心暗竜に陥る前に答え合わせをしてしまおう。
「実は、乗り心地が一番だったのは、ザーツネルさんではなくて、ーー僕だったと」
「くははっ、然り、嫌っていよう相手の乗り心地が最高ということで、みーの内でも様々に鬩ぎ合いがあったようだ」
乗り心地が最高、とみーに言われたザーツネルさんは困ったような表情をしていたが、確かに素直に喜んでいいものか判断に迷う。勿論、嬉しくないわけではないのだが。いっその事、デアさんくらいにわかり易くあればと思わなくもないが、……いや、あれは駄目だ。デアさん(アレ)とかエル(ア)タス(れ)とか、序でにクー(あ)さん(レレ)水準になってはならない。
「我が友は、好き者だが、些か感情に斑がある。みーが人の世で生きることを望むのであれば、我が友の、斯かる部分から学ぶことに如くはないのであろうが。我が出来ることは少ない。もう少う主が目を光らせておかねばならん」
そうですね。うちの王様は、おっちょこちょいでちゃっかりしていて、あ~、いや、水竜の息吹のように溢れ出そうになったので、コウさんのうんたらかんたら(おうさまのぼっかん)に言及するのは控えておいて。ただ、目を光らせると言っても、僕だけじゃ足りない。当然、百竜もわかっているだろう。老師やエンさん、クーさんや皆の力を借りて、みーの成長だけでなく、竜が在ることによって起こるであろう軋轢に対処するよう求めている。
ーー重い。百竜の眼差しには、僕にはそれが出来るのだと、信じて疑っていない、澄明で優しい風のような、信頼という言葉では足りない、想いが乗せられていた。無垢な信頼とは、ときに醜き猜疑より心に突き刺さることがある。きっと、百竜の想いを受け止めるだけのものが僕にないから。と諦めた瞬間に、僕は僕でなくなる。前に歩いていくのだと、コウさんに差し出して、一つの帰結を見たときから、僕の覚悟は決まっている。
かちゃ、と開いて、ぴょこっ、と現れて。百竜の属性で部屋が暖まっていたのだろうか、スナの氷髪から、ふわっと冷気が漂う。氷眼は、僕ではなく百竜に向けられていた。
「そこの破廉恥竜。隙を見せれば、すぐに父様を誘惑しようとしますわね。まったく、お里が知れるのですわ。これだから炎竜は、炎を吐くしか取り得がないと揶揄されますわ」
「「…………」」
うっかり視線を下げてしまった僕。然のみやは心付いた百竜の炎眼が、やっぱり自覚していなかったようだ、すってんころりんと転がって落ちると、手の甲が寄せられて、あっちょんぶりけな感じになるが。無言で笠木を掴んだ炎竜は、すっくと立ち上がって。天に向けられた椅子さんは、無表情な百竜に己の運命を悟ったのか、凶器の色合いを帯びる。
「こちらには私と父様の二脚しかないのですわ。相伴したいのなら、自分の椅子は自分で運んでくるですわ」「ーーっ、……っ」「…………」「さっさとするですわ」「ーーーー」
竜腕でぶつけられたら命が危うい感じだったが、父親が大好きな(おもちゃをこわされたくない)娘が、或いは父親で遊び足りない(おもちゃをとられたくない)愛娘が、僕の窮地を救ってくれる。
「ひゃ……」「ていっ」「っ⁉」
呼び掛けようとして開いた僕の口に、百竜の空いていた左手がぶれた瞬間、小さな紅い何かが飛んできてーーごくりんこ。と可愛い感じで表現してみても、事実は変わらない。
「あつっ、熱っ⁉」
喉の奥で硬い物が割れた感触。直後、飲み込んでしまった熱々の食べ物のように、苦痛未満のもどかしさを炎で包んで、体の真ん中くらいまで落ちてゆく。
「はふっ、ぅう……ふぅ~」「ふんっ」
息つく僕を見遣ってから、すたすたと、もしかしたら演技や照れ隠しなのかもしれないが、憤懣遣る方ない様子で椅子を持って歩いていく百竜。
胸の辺りを摩って確かめる。痛みも異物感もない。問題はないようだ。
今の礫のようなものは、コウさんが作った、みーのおやつであるところの、紅玉なのだろう。彼女の魔法の炎がしこたま詰め込まれた、街を滅ぼし兼ねない威力の、超絶危険な代物。本来なら、そんな危険物、闇竜に頼んで、ぽいっ、なのだが。みーには大好物なようで、仔竜から取り上げなどしたら、旧に倍して破滅的な水準で嫌われてしまうかもしれないので、王様には万全の対策を厳命してある。嘗ては、複数の紅玉を一時に食べたら爆発する、などという欠陥食品だったが、今は改善してある。ーー因みに、喉に直接飛び込んできたので、あっちっちなだけで味はわかりませんでした。
然て置きて、二竜を追って隣の部屋に入ると、香辛料と肉の焼けた好い匂いが漂ってくる。見ると、百竜が僕の椅子を動かして、手に持っていた自分用の椅子を置いた。スナの横ではなく、向かい合って座るようだ。然あれば両竜の横に、緩衝材のような役目なのだろう、極力物音を立てないよう卓に着く。
「「…………」」「サクラニル様、サクラニル様。どうか炎竜と氷竜が仲良くする方法がありましたら、お教えくださいませ」「「ーーーー」」「はい、わかりました。自分でどうにかいたします」「「ーー、……」」「残念。教えてもらえなかったから、いただくとしよう」
炎眼と氷眼、先に逸らしたほうが負け、というわけではないだろうが、このままでは埒が明かないので、サクラニルへ祈りを捧げて、見せびらかすように食べ始める。
先ずは、お腹の虫を黙らせる為に、先程から僕を誘惑して止まない、一口大に切られてお皿の上に山と積まれている、こんがりと焼き目のついた肉を頬張る。
「~~っ、やっぱり、今日は美味しく作ったんだね」「熾火に勘違いされるのも癪に障る、と言いたいところですが、一晩漬け込んでおいたものを台無しにするつもりはないですわ」
スナの目的は、美味しく料理する、ことではなく、料理を楽しむ、ことにあるので、見た目は好くても味はーーということが往々(おうおう)にしてある。
炎竜氷竜のにらめっこは続いて。視線を逸らさぬままスナが肉の山から魔法で五~六個の肉を運んで頬張ると、百竜もまた魔法で二個の肉を、と思いきや一個はそのまま口に、もう一個は竜の国自生の菜っ葉の上に落ちて、くるりと肉を包んで、すぃ~と百竜の口に。
「美味しければ、素直に美味しいと言うが良いですわ」「急かすでない。みーと替わるべきか考えておっただけだ」「ん~、みー様がスナの作った美味しい料理を食べれば、……えっと、スナはみー様に懐かれても大丈夫だよ……ね?」「父様は知らないのですわ? 竜には抑えがたい闘争本能というものがありますわ」「そこまで明確なものではないがな。具わった力を揮いたくなる、斯様な衝動ならば大抵の竜にはある」「みー様と仲良くしてくれないと『おしおき』しちゃうよ、と言ったらーー」「そこは娘を甘やかすところですわ。仲良くしたら『ご褒美』をあげる、にするですわ」「ーーはてどうしたものやら。中途に懐くより、正しく氷竜は危険なものであると認識しておいたほうが良いのか。氷のおいたで、みーの心に深刻な損傷を与えてしまっては、目も当てられぬ」
またぞろ険悪な方向に流れていきそうだったので、軌道修正を試みる。
「この汁物は、蒸かした芋を潰して、乳と一緒に煮込んだものかな?」「北方の料理ですわ。他にも幾つか磨り潰して混ぜてありますわ」「こっちは、竜の国自生の食材を炒めたものかなーー、もぐ……って、美味っ」「味付けは、塩だけですわ。魔法料理で、今度の試食会で振る舞いますわ」「ああ、試食会というのは、レイーー」「存じておる。自生の植物を売るに際して、調理法も一緒に、ということであろう。慥か、クーの発案だったか」
和やか、とはいかないが、美味しい料理が僕たちの手を早めて、食卓を明るくする。そこで炎竜氷竜の食べる速度、というか、勢いに違いがあったので尋ねてみる。
「スナがお腹一杯に、満腹になったところを見たことがないんだけど、みー様と何か違いがあるのかな?」「竜は食べたものを魔力に還元するのですわ。みーは仔竜で、熟れていないから、満腹、なんて状態を味わえているのですわ」「食物から得られよう魔力は微々たるもので、竜の本来の機能ではない。と言いたいところではあるが、竜に『味覚』という能力があるゆえ、ーー如何許り意図が込められているのやら」
仔竜であるみーが満腹愉快に夢一杯になるのは、僕たちにとっても僥倖。無制限に食べられるのであれば、食事を味気なく感じてしまうかもしれないし、食べ物のありがたみも薄れてしまうだろうから。まぁ、そこら辺はお菓子の量を制限することで、色々なことを学ばせることが出来ると思うのだけど。
食べることが大好きなみーを慮ってのことだろうか、全種類を少しずつ摘むだけで食事を終えた百竜が、気負うことなく真っ直ぐに僕を見詰めてくる。
「主は、『千竜王』だ」「……はい?」「あら、もうばらしてしまいますわ」
百竜の言葉に、スナは食事の手を止める。炎竜は、構わず炎を吐き出す。
「主も気付いておろう。己が内にある魂に。我が友の成果を待っておったか?」
「ーーそれは、うん。急ぐ必要はないと思ったからね。折角コウさんが調べてくれているのだし、何かしらの結果、若しくは一区切りつくまで待っていようかと。僕が勝手に動いてしまうと、負けず嫌いの王様は拗ねてしまうかもしれないから」
氷焔との出逢いから、ストリチナ同盟国との騒乱まで、それまでの人生の変転を足してもお釣りがくるくらいの出来事が短期間で起こった。起こった、というのは他人事に過ぎるか。中には、起こした、と言っていいものも含まれているのだから。ただ、それは僕に降り掛かってきたというだけでなく、僕の内を揺るがすものでもあった。
ときに、僕は僕でない者になったような、竜を見下ろす位置に立ったことさえあると。
「主と魔力、魔法の相性は悪い。我が友には悪いが、成果が得られるとは思えぬゆえ、頃合いであろう」「そういえば、コウさんも、『魔法で調べなければいけないのに魔法を打ち消してくる』とかなんとか愚痴、ではなく嘆いてたかな」「そうさな。竜としての力を揮える分、そこな氷のほうが近付けるであろうよ」
炎眼と氷眼が重なる間際に、炎氷が終末の謎舞踊を始めないよう言葉を滑り込ませる。
「えっと、それで、『千竜王』というのは、具体的にどういうものなのかな?」「わからぬ」「……えっと」「父様、別にそっちの熾火は言葉と頭が足りないだけで意地悪しているわけではないのですわ。私も炎も、『千竜王』のことは大凡わかっていますわ。そうであると同時に、『千竜王』のことはわからない上に想像がつかないのですわ。無理に言葉にしようとすれば実像を失う、とそうですわね、在るものは在るものからしか得られないのですわ。希求するのであれば、父様が父様自身で描き出すのが一番なのですわ」
これはまた、抽象的な物言いである。然あれど、スナ自身が言っているように、これは意地悪ではなく、精一杯わかり易く説明してくれた結果のものである。つまり、僕の内にあるものは、竜ですら説明に窮するものであると。う~む、答えに近付いたようで、遠ざかったような気分になってしまうのだが、竜にも角にも、聞けるだけのことは聞いておこう。僕がスナを見ると、小さく首肯してから続けてくれる。
「熾火は、『千竜王』と父様を同じ存在として一緒くたに捉えているようですわ。私は、そうですわねーー、父様は私のものですわ。お負けで『千竜王』がくっ付いてきたとしても、気にしませんわ」「ん~、僕の内の魂は、いつから在ったのかな? 僕の内に入ってきたのか、僕のほうがそこから生じたのか、ーーもしかしたら、僕に自覚はないけど、『千竜王』とやらの一部なのかな?」
僕は僕である。と断言できなくなってしまったのが、今の僕の現況ーーなのだろうか。
これまで僕は僕以外の何者でもなかった。それを疑うことさえしなかった。だが、それは揺らいでしまった。真実を、知らぬまま過ごすことが幸せであるとは限らない。
僕が僕でなくなる可能性があるのだろうか。内側に、僕でないかもしれないものがあって、その正体を推し量ることさえ難しい。わからないことは、恐怖を誘発するが、わからな過ぎると曖昧さを紛れ込ませる。みーの内に在る百竜のように、明確な害を受けたことがないから、実感が湧かないのだとは思うのだが。
「父様。今、『千竜王』は父様の内に在りますわ。それが事実だと言うのなら、それ以外のものは必要ないのですわ。後とか先とか、原因とか結果とか、そんなものに煩わされることのないもの、それが『千竜王』というものですわ」
スナが、僕の為にだろう、言葉を選びながら、ふわふわした取り止めのないーー僕の頭の中の、歪で像を結ばない心象に、言葉を投げ込んできてくれる。ふぅ、とりあえず咀嚼はあとに、愛娘の心添えを受け取るだけに留める。
竜にも角にも、とんでもないものであるということだけはわかった。スナのほうが、竜のほうがわかる、と百竜は仄めかしたが、確かにこれは、コウさん(にんげん)では覚束ないだろう。
「主が先ず行うことは、主が『千竜王』であろう事実を受け入れ、自覚しようこと」「と、欲望を延焼させているそこの失火は父様に言い寄ってきてますが、そんな不味そうな事実なんて、みーのお腹に、ぽいっ、ですわ。父様は、自分のことから、手近なところから知っていくのが良いのですわ」「…………」「…………」「ーーーー」「ーーーー」「……はぁ」「「……っ」」
百竜にスナ、まんじりと見遣る二竜にゆっくりと視線を巡らせると、こんもりとしたものが目に付いた。スナの私物なのだろうか、部屋の隅で布が掛けられている。昨日まではなかったはずだがーーと興味が湧いたが、今は炎氷が最重要、と視線を引き剥がす。
こちらの部屋には強化や付与魔法は施されていないはずなので、 あちちのちーでひゃっこいこいになる前に、ぱんっと軽く両手を合わせて、音を鳴らす。
「知る、というと、何から知っていったらいいのかな?」
今のところ、自分が『千竜王』などといったものであるという自覚を持つことは難しいと思うので、百竜には申し訳ないが、スナの提案に乗ってみる。
「ひゃふ、さすが父様、正しい判断ですわ。ーーそうですわね、父様は、攻撃、からやってみるのですわ」「えっと、攻撃って、武器での攻撃?」「そう、その攻撃ですわ。父様は、防御が得意で攻撃が苦手、と思い込んでいるようですが、何故攻撃が苦手なのか、考えたことはありますわ?」「え? それはーー」「今は、そこを掘り下げる必要はないですわ。必要なのは、発想の転換ですわ。父様は、防御や遁走に自分の特性を利用しているのに、どうして攻撃には使用しないのですわ?」「へ? ……えっと」
スナは顔の辺りまで手を上げて、指を軽く内側に曲げた。見ると、木の串が二本、ふよふよ~と漂ってきて、僕とスナの前で停止した。
「父様、串を持つ私の手に攻撃を加えるのですわ。勿論、ただ攻撃するだけでは駄目ですわ。ちゃんと父様の特性を考慮して、攻撃するのですわ」
僕が串を手にすると、何かしら企みがあるのだろう、スナが急かしてくる。
「案ずるより産むが易し、竜は振り返らない、ですわ。とっととやるですわ」
スナが串を構える。余計なことを考える前に、先ずはやってみろ、ということだろう。攻撃が苦手、それを僕に自覚させない、回避する為の何かーーと思慮を巡らせようとして、スナの思惑から外れないよう幾度見ようと愛しさが込み上げる愛娘に意識を向けて。心を満たして、攻撃に伴う雑多なものが入り込む余地がないほどに溢れさせる。
緩急と急激な方向転換、そして撹拌。そうすることで魔力を乱すことが出来る。相手が魔力を纏っているとき、僕に衝撃を与え難い。それらは、裏返すことも出来る、のかどうかは知らないが、防御が攻撃に変わるのだから、なにがしかの変化はあるのだろう。
漏斗を心象。円を描くように吸い込まれる。但し、単調ではいけない。緩急と直線的な動きを織り交ぜて、スナの持つ串に触れる、刹那に、愛娘が僕の串を弾くーー。
ぷす。
「……痛いですわ」
ああ、いや、実際には音なんてしなかったんだけど、って、いやいや、そんな場合ではなく、スナの滑々(すべすべ)の氷を磨いたような指に、中指の第三関節寄りの基節骨の、指の真ん中に、ぶすっと今の感触だと骨すら突き破ってしまったんじゃないかと思うくらい奥までっ。
「って、今すぐ抜かないとっ!」「鎮まれ、主。その程度で氷がどうにかなるはずもなし。して手を抜いたわけではあるまい」「父様に関することですわ、欠片たりとも緩めていないのですわ。さすが父様、私を楽しませてくれますわ。竜は無意識の内に、魔力を纏っていますし、体自体も魔力で強化しているのですわ。『人化』しているとはいえ、竜を貫くことが出来るなんて、父様には『竜たらし(りゅうごろし)』の称号を授与しますわ」
好奇心丸出しで、しげしげと手に刺さった串を検分しながら言葉を継ぐ愛娘。
「父様が所有している、折れない剣とか言う戯けた名前の魔剣は、竜の命ですら還せるほどの碌でもない代物ですわ。ただ、普通の人間では、剣を持てたとしても、竜を傷付けることなんて不可能なのですわ。でも、父様なら適いますわ。ひゃふふ、これで、あの娘と父様、二人になったのですわ」「捻くれて、いやさ、捩じくれておるな、氷筍」
串を引き抜いた瞬間に、傷が癒える。スナは、手傷を負ったのは初めてだったのだろうか、手をぐっぱぐっぱして問題ないことを確認する。仄聞したところ、スナがコウさんと戦ったときは、コウさんの油断や判断の過誤で一方的な展開になったそうだから、然あればスナの初めては僕が貰ったということに……げふんっげふんっ。ーーこれはやばい。そろそろ僕の頭が煮詰まってきたようだ。竜の魅力に魂ごと遣られてしまったのだろうか。
「此度の料理は美味しく作った。されば、そうでないときもある。不味ーー美味しくない料理を作ったときは、如何にしておるのだ。まさか捨てておるわけではあるまい」
スナが、竜が料理をすることに何か思うところがあったのだろうか、答えなくても構わない、そんな感じの独り言めいた物言いで尋ねてくる。
「わかってないですわね、炎。美味しかろうと不味かろうと、料理は全部、父様が食べてくれるのですわ」「ーー何故、そうなるのだ」「想像力、という言葉を燃やし尽くしていないのなら、思い巡らせてみるが良いですわ。自分が作った不味い料理を父様が食べてくれているところを」「ーーーー」「燃えるか燃やすしか能がない炎には分かり難いかもですが、父様が料理を残さない理由ーーそれは、私が作ったからですわ。私を大好き過ぎる父様の、愛がーーそう、愛が! そうさせずにはいられないのですわ!」「……、ーーっ」
ちょっと、いや、それなりに恥ずかしいので、愛、を強調するのは勘弁してください。
いや、まぁ、不味いと言っても、食べられない感じの不味さではないし、何より、可愛い娘の手ずからの料理を残すとか、父親としても人間としてもそんな無慈悲な行いを許容するわけにはいかない。
世の父親たちは、こんな苦行を平然と熟し(うけいれ)ているのか、ーー凄いな。などと悲哀を囲っていると、またもやスナが火種を、もとい雪雲を運んできた。
「そうですわ、そこの不審火の顔を見て思い出したのですわ。父様に伝えることがあったのですわ」「薄……」「はい、百竜、あーん、して」「ーーっ」
話が進まないので、百竜の口元に肉を持ってゆく。もし拒んだら百竜のこと嫌いになるからね、という趣意を明確に、にっこり笑ってあげたら、素直にぱくりと食べてくれる。
これは照れているのか、それとも屈辱に耐えているのか、僕から目を逸らして、無言で過剰な咀嚼中。
「というわけで、何かな、スナ」「……知らないですわ」「えっと、ーーはい、スナ、あーん、して」「…………」「スナも、僕に、あーん、してくれる?」「ーーっ」
機嫌を直してくれた愛娘と食べさせっこ。父娘で同時に、ぱくり。
ふふん、と氷竜が勝ち誇ると、冷えた分だけ部屋を暖める炎竜。これ以上、僕に出来ることはなさそうなので、スナが食べ終えるまで、炎氷にじっと耐えることにしよう。
「ーー昨日のことですわ。竜書庫から帰ってくるとき、いつも通り『隠蔽』を行使して、『飛翔』でーー低空を飛んで人の営みを観察していたら、私に気付いて隠れた者がいたのですわ」「スナに気付いたってことは、相当な使い手?」「通常の『隠蔽』とはいえ、私が行使したのですから、感取できるのは、あの娘の師匠と、他に一人いるや否や、ですわ」「ああ、そこら辺、コウさんは大雑把なんでしたっけ」「そう言ってやるな、主。我が友は、魔法が使えるようなることを優先させたのだ。詮ずるところ、それは正しかった。世界規模での魔力異常を回避しようは、我が友の然らしめるところだ」「ま、それで人種は救われたのですわ。父様も救ったのですから、一応は感謝してやるですわ」「ん? それって、竜は大丈夫だったってこと?」「大丈夫ーーではありますわ。ただ、一箇所に集まって、領域内で魔力の遣り取りをする必要があるので、ーーあまり歓迎しないのですわ」
話の腰を折ってしまった。続けるようスナを促す。
「二人の若い男が、矢庭に隠れたのですわ。勘付いて即座に隠れたのですから、人間水準では侮れないのですわ。でも私からすれば木っ端のようなもの。興味が湧かなかったからーーではなくて、父様に一刻も早く会いたくて、ほっぽってきたのですわ」「ーー若い男、というと、エンさんやエルタスではなくて、国外から来た人かな?」「そうですわね。少し奇妙な感じのする魔力だったので、以前から居れば私の竜鼻に引っ掛かってますわ」
スナと遭遇した二人の男は、随分と心胆を寒からしめたことだろう。然らずともグリングロウ国は、竜の国。竜が居るのは周知の事実なので、通りすがりの竜とか思ってくれる……はず。危険かどうかは知らず、用心するに如くはないので、コウさん、だけだと心配なので、あと老師にも相談を。出来れば、スナに頼らず解決したいところだが。
スナは、今以て氷竜であることを竜の民に明かしていない。人と接する際は、「幻覚」で作った氷の美女ーーレイを変わり身にしている。人と接することを苦手としているようには見えない。う~ん、でも、多くの人と交わることは望んでいないように思える。人と、一定距離を保とうとしているのだろうか。もしかしたら、みーと同じように見られたり扱われたりするのが嫌なのかもしれない。もしスナが大広場に現れようものなら、みー同様に竜の民は挙って集まってくるだろうから。竜の威厳とか体面とかを考慮しているのだろうか。でも、もしそうならみーを野放し、ではなく、自由にさせていることと符合しない。
「主、これを」「ん? これは、書類?」
立ち上がった百竜が数枚の紙を手渡してくる。
「みーが朝早う主の部屋を訪れた理由だ。我が友が届けようとしていたものを、みーが気を利かせて持ってきたのだがーー」「あー、なるほど、コウさんに確認せず、無断で持ってきてしまったんですね。僕が受け取ったので大きな問題にはならないけど。あとは、コウさんが書類を無くしたと思って、慌てるくらい。それもみー様が戻ってくれば解決、と」
百竜を見ると、どうやらそれだけではないらしい、迷った素振りで視線を外したが、緩い風が通り過ぎると、思い直して正面から僕と瞳を合わせてくる。
「ふむ、主には伝えておこうか。我はこれから、みーの代わりに竜の実を収穫して、店に届けがてら説教を呉れてやらねばならん」「……『みー様と愉快な仲間たち』は、今度は何を仕出かしたんですか?」「ーー『竜饅事件』以後、みーは一日竜饅三個という我が友との約束を守っておる。然し、人間というは、愚かなのか知恵が回るのか。みーに試作品を食わせて、批評させておるのだ、ーーほぼ毎日」「あはは……、あー、彼らは一度、断罪してしまっていいですよ。ああ、でも、そのあとで褒めるか何かをしてあげてください」「む? 然るに……、如何なれや教えるのだ、主」「えっと、竜の民の皆はみー様のことが大好きで、百竜のことも大好き。そんな大好きな百竜からきついお説教を貰ったら、彼らの魂は、氷竜より冷たく、地竜より固くなってしまうかもしれない。なので、最後に炎で暖めて、彼らの心に傷を最小限、ではなく、深刻でない水準で留めておいてください」「ーー然様か。主は我が大……、あ、いや、主と我の仲だ、聞いてやらぬでもない」
百竜の言う、僕たちの仲、にはどうも齟齬があるようなので、一度確認しておいたほうが良さそうだ。然てこそ心を竜にして、百竜のほくほく顔をひゃっこ(あお)くしないといけない。
「えっと、僕と百竜って、他人、ではなくて、他竜、なのかな? 良く言って、知り合い。普通に言って、他竜……だよね?」「は……? な、何を言うておるのだ、主っ! 我と魂を絡めた深き繋がりではないか⁉」「ん、ん~、でも、会ったのは、これで二度目だよね。印象的な出逢いではあったけど、僕と百竜の間で何かあったとは思えないんだけど」「っ‼ っ⁇」「ひゃふふのふ。そこの炎が勝手に燃え上がって恥竜になっただけで、突然見ず知らずの他竜に言い寄られた父様の身にもなってみるですわ。私と父様には、運命っぽい宿命の、魂さえ凍えるほどの壮大な馴れ初めがありますわ。それに比べて、いきなり子種を強請るなんて、『変竜』とか『奇竜』とかの称号を呉れてやるのですわ。これに懲りたら、薄汚れた真っ黒くろ~な熾火を父様に擦り付けるのは金輪際止めるですわ」「ぬ、ぅぐっ……、くっ、氷など溶け捲って、薄ら氷になってしまえ~っ‼」
あ、逃げた。よくわからない捨て台詞ーーかと思ったが。
「ひゃぐっ⁉ ひゃふっ、炎など燃え過ぎて、真っ白け~の灰になってるが良いですわ~っ‼」「…………」「「っ!」」「…………」「「っ⁉」」「……あー、はいはい」
どこら辺が竜の琴線、ではなく、逆鱗に触れたのか、スナの竜魂にぐさっと刺さったらしく、追い討ち、ではなく、同水準の悪口の応酬で、炎竜氷竜の仲は古事の通りに、微妙な関係に終始したのだった。
百竜を追い掛けようとしたスナを後ろから抱え上げて、かぷりっ。
ぽひっ。
まぁ、交流ができただけ、「炎氷作戦」は半分くらいの成功ということでお願いします。
さすがにちょっと噛み(やり)過ぎたのか、お返しに噛み付かれてしまった。
どこを噛まれたかは秘密。牙は立てないでくれたので、噛み痕が付いただけで出血はなかった。竜ならぬ愛娘の呪いで、父様は私以外を好きになれなくなるが良いですわ。そう言って、色付いた痕をこしこししながら、愛情で僕を縛り上げる拗ねた氷竜を、尚愛しく想ってしまう僕は、どこかおかしくなっているのだろうか。悪いことではない、と思いたいところだが、僕の内のもののことを考えると、素直に受け取れなくなっている自分がいることを否定することが出来ない。ふぅ、いずれ自らに決着を付ける必要があるだろう。
一応、覚悟の上での先送りを決めたところで、最後の段を上がって屋上に出る。
だだっ広い南北に長い長方形をぐるりと、一繋ぎの欄干が光の在り処を複雑にしている。硝子でできた数千本の、僕の胸くらいまでの高さがある細い棒が朝日に翠緑の彩を添える。翠緑宮の壁と同じ素材で、転落防止用の柵として設置されている。当然、コウさんの魔法で強化されているので、僕が触れない限り、安全性は保証されている。
果たせるかな、屋上は魔法や魔工技術の実験場だったり亜竜の飼育場になったりと有効活用(?)されることなく、いつまでも立ち入り禁止にしておくのも何なので、消極的な理由から、安全対策を施された上で、使用が可能になったのだった。コウさんの魔法で階下には衝撃が届かないよう対策が施されているので、早朝の時間を運動や散歩に充てる人もいる。一つ音をだいぶ過ぎているので、ちらほらと歩いたり走ったり、剣を振ったりと、体を動かしている人たちの姿が散見される。
そこまで詳しくないので正しいのかどうかわからないが、硝子でできた場合は、笠硝子とでも呼べばいいのだろうか。束硝子の柱と、物が落ちないよう一段高くなった覆硝子。木材や石材で造るより安く済むと、許可を出したのだがーーいや、もう何も言うまい、竜の国の名所が一つ増えたと、喜んでおこう。
まぁ、そんな感じで気を逸らしていたのだが。屋上の真ん中だけ黄昏れているような、影も陰も(あんりゅうを)背負ったかのような、見慣れた男の背中を無視することは不可能だった。まるで地の国へと続いているかのような澱みに、足音を立てないよう恐々近付いてみると、竜の国の骨幹とも言える中心人物の一人、竜騎士団団長は、胡坐を掻いて俯いている好漢は、ぼろぼろだった。僕が傍らに立っても無反応である。
「エンさん。何を仕出かしたんですか?」
エンさんにここまでの損傷を与えられるのは、概ね二人で、コウさんとクーさんである。他にも老師やフラン姉妹といった候補はいるが、彼らは基本、ここまでのことはしないだろう。これだけのことをされるということは、そうされるだけのことをしたということ。なんか曖昧にしておかないと怖いので、おかしな言い様になってしまったが、まぁ、そういうことである。ようやっと僕の存在に気付いた、妹たちの兄は、口から言葉を落とした。
「昨日、折檻のあと、治癒魔法んやった。寝ん前にもやった。朝起きてからんやった。体ん中優先させたから外側ぁ見栄えん悪ぃが、そこまでんもんじゃねぇ」
地面にぶつかって、木枯らしのようなものに乗っかって届いた言葉は煤けていた。
二星巡り、それなりに平穏に過ごしてきたというのに、早朝から一悶着あった(ほのおとこおりががっちんこ)。竜の国を造り始めてから、同盟国との騒乱まで、心から拭い去ることが出来なかった、あの、体に纏わり付くような不快さを、朝からひしひしと感じていたのだが。それを助長するかのような言行は控えて欲しい。と言いたいところだが、普段は闊達自在な男の、余りに濃い陰に、言葉を失う。然し、黙っているわけにもいかない。竜の国の屋台骨が崩れるかもしれないのだからーーいや、きっと彼なら、竜の国一の能天気竜天気男なら、僕の内に芽生え始めた予感ごと、疑念を払拭してくれるだろうと、声を明るくして尋ねてみる。
「えっと、具体的に何をしたのか、一から説明をお願いします」「夕方くれぇだったな、ちみっ子ぁ目ぇ回さんでぐるぐる回ん方法教えてくれって来たんだ」「ん? 竜の感覚なら、それくらいわけないと思うんですけど」「ちみっ子ぁ、回んとき気合い入り過ぎちまう序でん余計ん魔力放出しちまってたんだ。でだ、適度ん配分ってやつ、ちみっ子ん仕込んでやった」「それは、とても良いことですねーーそこで終われば。続きをお願いします」「俺とちみっ子ぁ泥んこんなってなぁ、相棒とちび助ん捜したんだがいなくて、ちみっ子ん引き摺られて、仕方ねーから大浴場で洗ってやった」「……それは、仕方がないですね。みー様は、女性陣が身の回りの世話をすることになっていますが、ーーそれだけなら、まだ有罪と決まったわけではありません、まだ……」「そんでなぁ、ちみっ子ん湯舟ん竜掻きで泳いでんとき思い出してなぁ、こー、目ん前通ったちみっ子ん足掴んで、がばっ、と引き上げたんだ」「……ああ、そういえば、みー様は『りゅーはしっこしないんだぞー』とか、……言ってましたっけ」「あー、そーいやぁそんな台詞だったっけかなぁ、ってーわけん確認してみたら穴ぁなくてつんつるてんだったぞ」「……えいっ」「?」「ぅごっ!」
……ふぐぉ、い、痛い……です。
体が自然に動いて、全力で殴り掛かったら、エンさんの拳が迫っていて。見えていたけど、避けられるような体勢じゃなくて、エンさんもまともに当たるとは思っていなかったのだろう、寸止めや力を緩めるなどの措置は取られず、顎を打ち抜かれる。既に顎を上げて、何とか衝撃を減らしたが、もんどりうって背中から倒れる。
「攻撃苦手ってーんは知ってたが、さすがん酷過ぎんぞ、こぞー。一直線で隙だらけ、途中まで攻撃だと気付かんかったぞ」
酷いのかどうなのかわからないことを言われているが、エンさんは事実を指摘しているだけなので、何一つ言い返す言葉はない。僕自身、酷い、というか、酷過ぎることは、突き抜けるような痛みと共に頭の芯まで刻み付けられた。
地の底から湧き出す感じの怒りで、込み上げてきた衝動のまま行動に移ってしまったので、僕も心外、もとい意外だった。防御のことを考えず攻撃したのは、生まれて初めてだったかもしれない。その結果は、有り得ないほど無残なものだった。痺れてまだよくわからないが、舌でなぞって、ぐら付いている歯がないことを確認する。
「さすが団長、と言っていいのか迷うな、今のは」「確かに、素人過ぎて、論評に困る。周期相応と言えばそれまでだが、竜の国の枢要なんだから、あまり恥ずかしい姿は見せんでくれ」「団長相手だと辛いだろうから、俺が練習相手ーーと指導してもいいが……?」
仰向けになった僕に、困ったような顔で、優しさ半分哀れみ半分の言葉を掛けてくれる筆頭竜官と黄金の秤隊の副隊長。
「でなー、足持ち上げたら、湯舟ん中顔突っ込んじまうことんなってなぁ。慌てたちみっ子ぁ属性解放しちまって、湯沸騰しちまった。そんとき知ったんだが、水通すと駄目みてぇでな、全身火傷だったってーんに、ちみっ子溺れさせたからって、お前なんぞいらん、って天の国から蹴落とされんくれーんは、ぼこぼこんされちまった」
……エンさんは勘違いしているようだ。「つんつる事件」のことは聞こえていなかったのだろう、オルエルさんとザーツネルさんも心得違いをしているようだ。
まだ顔の下半分の感覚が不明瞭だが、顎を動かして、言葉も発してみる。魔法が効かない僕には治癒魔法も効かないので、問題があるようなら、あまり頼りたくはないが、薬師の技能を併せ持つ老師に頭を下げるとしよう。
「……ぅふ、んー、えも、エンはんの沈い具合あ、そえ……それだけ、じゃあ、ない感じですえど、他に、何があったんですか?」
最後のほうで、舌の使い方がわかってきた。言葉を喋るのに、舌というのは意外に重要なのである。例えば、舌の先端が傷付いていると、舌が適切に動かず、上手く喋れなかったりする。とうっかり舌を噛んでしまった昔日の失敗談を思い出している場合ではなく。
男三人で囲んで、合図。同じてくれた二人とともに、エンさんの苦手そうな沈黙攻撃を食らわせてみる。ここで、効果があったのか俯いていたエンさんが顔を上げる。
切実さを孕んだその表情が、事態の深刻さと不吉さを告げてーーいなかった。
「……朝起きてな、腕ん違和感あって、見たら、おちびくっ付いてた」「「「…………」」」
おちび、とは、コウさんと同じ周期頃のーーもとい、見た目の周期が同じくらいの女の子、シャレンの渾名である。その名を聞いて、四人の男は様々な理由から沈黙した。然のみやは最年長の矜持だろうか、筆頭竜官が言葉を選んだ末に、竜騎士団団長を祝福する。
「ーーおめでとうございます」「おっちゃん、打ん殴っていーよな、いーよーな気ぃすらぁ、そーしねーとおっちゃんが不幸にー」「ひっ、しっ……周期が上の男の沽券に懸けて、問題解決に全身全霊竜も頷く活躍を期するので、詳しい事情をばっ」「……そーなんか?」
二人の男が色んな意味で取り乱しそうになって、危うい均衡で崩壊を免れる。
まだ正常の範囲に留まっている僕とザーツネルさんが目を合わせて。経験豊富であろう彼に振るが、嘘と韜晦は侍従長と返してくるので、更に後ろ暗くて軽薄で酷薄で薄情で邪竜な……あ、いや、そこまで彼の目が語っているわけじゃないんだけど、ああ、もういいや、これ以上自分と向き合って落ち込みたくないので僕が引き受けるとしよう。
「エンさんの言い様と、能力に鑑みて、今日が初めてということではないでしょう。シャレンは、『隠蔽』を使うなどして、毎日のように果敢に挑み続けた。恐らくは、魔法の向上の為に、老師の黙認というか承認というか公認な感じかもしれませんが、序でにフィア様が、数少ないお友達の為に積極的な支援をしているのかもしれませんが。……えっと、誰もが通る道、ということで?」
くっ、駄目だ、上手く纏められなかった。兄貴分に支援を要請する。
「慥か、あの子は母親の病気を治すことを目標に据えているんじゃなかったかな。恋愛にうつつを抜かすより、魔法の鍛錬に打ち込むようフィア様ーーじゃなくて、誰かから叱って、もらうか?」「ああ、いえ、これは老師から聞いたんですが、シャレンは尖った才能の持ち主で、先ずはその尖った部分を伸ばして、全体を引き上げたほうが有益と判断したようです。治癒魔法にだけ取り組んでも成果は得られないと」「なるほどな。治癒魔法だけで治せるなら、フィア様かグロウ様がもうやっておられる、か」「ええ、フィア様は、十周期は持たせると約束していました。つまり、それだけの長い目で見ないといけないわけです。そして、シャレンは老師の指導のもと、順調に、或いはそれ以上に才能を開花させて、勘の鋭さでは竜の国一であろうエンさんの警戒網、ではなく感覚を潜り抜けて、寝床に至ったとーー」「「ーーーー」」
エンさん以外の三人が、体の深いところから持ってきた溜め息を吐く。
情熱と恋情が噛み合うと、こうまで力を発揮するものなのか。ここまで来ると、もう、エンさんの側の問題だと思うのだが、妹だけでなく周期が下の女の子に弱いという欠点なのか美点なのかが発覚して以降、生暖かい目で見守られている団長をどうしたものか。
「あー、あれだ、おちびん母親がなぁ、『娘ぇお願いします』って、血ぃ吐きながら脅し……頼んできてなぁ、変な魔法薬渡されたんで、じじーん見てもらったら、『惚れ薬ん一種だね、世ん中にゃ往生際って言葉ぁあんよ』って醜ぇ笑顔で言ってきやがった」
シャレンの周期頃には、すでに彼女を生んでいたという母親の後押しは、実感が伴うだけ恐怖も一入、もとい断り難い気不味さがあったことだろう。
「……、ーーあ」「「ーー? ……っ!」」
最初に気付いたのは、オルエルさんだった。エンさんの背後だったので、次いで僕とザーツネルさんの視線がーーすすすっと頭を下げていったミニレムに。背中に悪寒が走ったらしい「火焔」は、振り返ろうとして、気配を感じ取ったのだろう、その場で固まった。
「「「「⁉」」」」
ずずずずずぃぃぃ~~。
然ればこそ、言葉で表現しようとしたが、上手くいかなかった。
ふぅ~。仕方がないので、事実だけを語るとしよう。屋上の欄干の向こうからミニレムが、ひょいっ、と顔を覗かせた。東側と西側の壁から、数百、或いは千を超えているのか、隙間なくぴったりくっ付いた感じの距離感で、端から端まで一斉に、僕たちに視線を向けてきた。エンさんの背後で、三体のミニレムが欄干の向こうから飛び出して、笠硝子に見事に着地。鷹の意匠の、いかした外衣を纏う六形騎。更に二体の六形騎が飛び上がってきて、並んだ三体の上に、たしっ。最後の六形騎が、まだ山脈からあまり離れていない太陽の位置より高く跳ね上がる。組まれたミニレムの塔の頭上、肩車されている女の子が、頂点に君臨。陽を背にしたシャレンの紫晶の瞳が、目標を捉えた刹那、手が振り下ろされる。
「「「「「!」」」」」「「「「「‼」」」」」「「「「「っ⁉」」」」」「「「「「っっ⁇」」」」」「「「「「っっっ⁈」」」」」
エンさんは居なくなった。シャレンも、ミニレムも、居なくなった。連れて行かれた。
ーーそれがすべてで、それ以上の描写は控えることにしよう。ーーはぁ、……怖かった。
「……それで、彼女はいつからミニレム使い(マスター)ーーで良いのか? あれは、フィア様からミニレム使用の権限を頂いている、と判断すれば良いのだろうか」
奥歯に物が挟まったような物言い。自己の精神を立て直す為に、そのような過程が必要だったのだと、僕もまた現世に舞い戻る為に、オルエルさんの問いを利用する。
「魔法に魔法を重ねる『重』という技法があります。それ以外に、魔法に魔法を込める『響』という技法があるのですが、ミニレムにはこちらが採用されています。その『響』ですが、フィア様は全容を解明しているわけではありません。老師は『これは、禁術にしたほうが良いのかもしれない』と仰っていました。クーさんは『これは、たぶん魔工技術と相性が良い。心象を要とする魔法とは合わない』と危惧していました。
ミニレムは初めからシャレンに懐いていました。それは日増しに助長しーー試しに、フィア様とシャレンが同時に自分の許に来るようミニレムに命令してみると、十回中十回、シャレンの命令に従いました。この事実を受け容れたフィア様は、ミニレム隊隊長の栄誉をシャレンに授けました。ミニレム使い乃至ミニレム王ーーシャレンは、フィア様だけに留まらず、竜の国での、二人目の、事実上の一国を滅ぼせる存在になりました」
国崩しに相応する力の持ち主。対外的には、翠緑王と竜の国の侍従長がそれに相当、抑止力となっているのだが。実際には、竜の国の侍従長にそんな力がないことは言を俟たない、のだが、シャレンにミニレムが居るように、僕には愛娘が居る。彼の氷竜の感興をそそる内容なら、たぶん力を貸してくれるんじゃないかなぁ、とか、まぁ、ここら辺は心がざわめくので曖昧にしておこう。それと、ダニステイル。「千竜賛歌」のあと、コウさんが快復した合図として、魔法を空に放ってもらった、或いはぶっ放すことを許可したのだが。彼らの魔法もまた、国崩しに匹敵するものだった。……ふぅ、どうしたものか、竜の国には危険物が四つも存在するのだ。その上に、竜が在る。他国からは、みーとミースガルタンシェアリ、延いては「千竜賛歌」を想起して他竜の存在まで想定されることになるだろう。どうしてこうなった、と大声で叫びたい気分である。
竜の国の脅威を量れない為か、ここ二星巡り、他国との軋轢は生じなかったが、これからもそうであるとは限らない。手を替え品を替え、裏表、硬軟、面倒や厄介を含んだ接触が増えていくだろうことはーー僕とカレンとエーリアさん、〝目〟の見解は一致している。
「製造者、若しくは創造主であるフィア様が手に余ると判断しているなら、ミニレムを人々と接触させるのをーー、控えさせたほうが……、う~ん」
筆頭竜官であるオルエルさんは、私情を交えず、竜の国の行く末を思案する。実務での手堅さと、大らかな人柄から竜官や部下たちの信頼も厚く、また僕に直言できる数少ない人物として竜の民から信任も信認も得ている。……あれ、なんだか涙が出てきそうだ。
安易に効果を求めて、堅実とか清廉とか人と人との間にある暖かなものを脇に追い遣って、正しい道ではなく、近道に、楽なほうへと流れてしまった僕が悪いのだろうか。
オルエルさんといい老師といい、自らを偽ることなく、在るべき姿で。ーーああ、やっぱりここなのかなぁ。自らを糊塗すること、嘘を吐くこと、それらを有用な手段と考えている時点で、う~ん、でも、釦を掛け違えたとはいえ、僕が僕らしく在ること、それを偽ってまで……。はぁ、駄目だ駄目だ。これまで幾度となく惟て、納得するだけの答えを得られていない。竜の巣穴巡りは、時間を置いてからのほうが良竜と出逢えそうだ。
「やるのなら、成る丈早くだろうな。もしかすると、今がぎりぎり引き返せる分水嶺なのかもしれない。いずれフィア様が問題を解決するまでの限定的な措置と説明して……」
正しい答えと、間違っていない答え。その狭間で迷うように、ザーツネルさんも頭を悩ませる。戦士としての精悍さと、若くして懐の深さと柔軟さを兼ね備えるに至った、二枚目と言っていい男振りの副隊長は、竜騎士の中で一、二を争う人気(主に女性たちから)がある。因みに、エンさんは満遍なく、ギルースさんは子供たちから人気を集めている。
僕にとっての良識的な兄貴分。彼もまた、僕に対しての歯止めになっているということで、枢要や竜の民からも一目置かれている。
オルエルさんとザーツネルさんが屋上に居るのは偶然ではない。騒乱後、一星巡り経つ頃には、侍従長である僕が竜の国の枢要に伝達する際の、竜官側の窓口がオルエルさんに、竜騎士側がザーツネルさんになっていた。そして翠緑宮の屋上が解放されてからは、早朝の運動がてら小会議だったり情報交換や共有だったり、と相成ったのだった。
竜騎士は、翠緑宮に居室を構えていないのだが、侍従長に対する役割から、例外的に翠緑宮に住まうことになった。ただ、それは表向きのことで、他にも理由がある。ザーツネルさんの希望で、近しい者しか知らず、オルエルさんでさえ耳にしていないのだが。
「「…………」」
然て置きて悩める二人の大人に、心ならずも僕から贈り物をしなくてはならない。強制的に受け取ってもらうので、逃げ場を塞ぐ為に、階段のある側に移動する。
「危険なミニレムを、今すぐ排除しなければならない。オルエルさんとザーツネルさんがそのように考えるのは至極尤もだと思います」「ザーツネル君、私は嫌な予感しかしないのだが」「奇遇ですね、オルエル竜議。今すぐ二人でとんずらこきましょう」「竜地の天竜がどのような場所かは、御二人ともご存知ですよね」「「…………」」「傷病者や病人、生活に支障のある老人など。他に、身寄りのない子供たちを『竜の家』で受け入れています。そうした子供たちの中には、酷い扱いや、惨い、としか言えない状況にあって、深く深く、心に傷を負った子が含まれていました」「「ーーーー」」「後に知ることになる女の子の名前は、サーフ。城街地で汚泥に塗れるように打ち捨てられていた子供です。サーフが意識を取り戻したとき、そこは天竜の、竜の家の一室でした。サーフは、獣のような声を発し、人を、或いはこの世界それ自体を拒絶しました。絶望という言葉を発することが出来る人間は、本当に絶望しているのでしょうか。サーフは、食べることは愚か、水さえ口にせず、光の届かない暗がりで死を待ち望んでいました」「「ーー、……」」「天竜で彼らの世話をしてくれている職員は、その多くが嘗て自らも苦境に陥り、呻吟し、辛酸を舐め、耐え忍んだ末に、竜の国に遣って来た人々です。だからこそ、親身に、必死に、尽くしてくれる彼らには感謝で頭が上がりません」「「……、ーー」」「そんな彼らですら諦め掛けたとき、一体のミニレムが遣って来て、サーフに寄り添いました。ミニレムは、寄り添うだけで、何もしません。それは、サーフの、最後の一滴だったのかもしれません。ミニレムに体を預けた彼女の口が微かに動きました。ミニレムは水を染み込ませた布を差し出し、サーフは口に含みました。その水は、コウさんと老師が施した特別な水で、サーフの命を繋ぎました。水を、やがて食べ物を、ミニレムの手から与えられたものだけ、受け取るようになったサーフ。ミニレムは、ずっと彼女の側に居ました。職員の姿を見るだけで、声を聞くだけで、暗闇に呻き声を零していたサーフは、ミニレムに手を引かれて光ある場所に。ミニレムに導かれて部屋の扉の前まで行って、ーー小さく、掠れていましたが、自分を助けようとしてくれた職員たちに、サーフははっきりとこう言いました。『ありがとう』と」「「ーーっ」」「それから少しずつ少しずつ。言葉を交わし、触れ合い、心を通わせていきました。終には部屋から出られるようになり、今では職員たちの手伝いをするようになったそうです。もうしばらくしたら他の子供たちにも会わせてみるようです」
雪解けの無垢な色合いのような微笑みに慈愛を添えて、風の心地で二人に差し出す。
「然う、サーフの傍らにはミニレムが、今も変わらず寄り添っています。彼女にとってミニレムは兄妹のようなーーいいえ、もはや自分の半身と言っていい大切な存在です。ーーというわけで、オルエルさんとザーツネルさんにお願いします。ミニレムはとても危険な存在なので、問題が発生する前にサーフから取り上げてきてください」「……っぎ、この、こんちきしょうめっ!」「くぅっ、邪竜ですら泡ぶくぶくだぞ⁉ 屁の邪竜だぞ⁈」
地団駄を踏んでしまいそうな勢いの二人だが、居回りの目というものがあるので、早々の鎮火に努める。この小会議、ただでさえ「悪巧み」なんて流言飛語がーーいや、ときどき悪巧みのようなこともしているので、まったくの嘘というわけではないのだけど。
「始めは、竜の民に親しんでもらえるようにと、額に番号を刻むことを許可したのですが。個体を識別できるようにしたことが、まさかこれ程にも親愛を育むことになろうとは。いやはや、今更ミニレムを竜の民から遠ざけようとか、もう無理ですから。竜の国の生活に溶け込んでいますし、『回るミニレム』とか『ミニレムの尻尾』とか、噂になったりもしているようですし」「は? ミニレムの……?」「ん~、『回るミニレム』は聞いたことがあるな。手紙の集配をしてるミニレムで、受け取ったり差し出したりする前に、転っと一回転するんだそうだ。そのとき、誰かから貰ったらしい帽子が落ちそうになるんだが、それを押さえる仕草が実に様になってるとかで人気者らしいな」「はい。あと『ミニレムの尻尾』ですが、これは実際にミニレムに尻尾が生えているわけではなく、ミニレムの後を追跡するミニレムのことを指して、そう呼んでいます。尾行しているらしいミニレムの行動はばればれなんですが、対象となっているミニレムは、まったくミニレム(しっぽ)を気にしていないそうなんです。また、尻尾を付けたミニレムは、毎回違う個体だそうです」「はぁ、で、そのミニレムは何故そんなことを?」「はい、明確な理由はわかっていません。謎解きが好きな人たちの間で話題になっていて、一番支持されているのは、ミニレム(しっぽ)は仲間の稼動診断をしているのではないか、というものです。一番人気なのは、最愛の伴侶を見つけようと探し回っている、とかですね。今のところ、番いのミニレムは確認できていませんが」「なるほど。診断であれば、尾行されていても気にしない、と」「ええ、因みに、フィア様も尻尾の役割はわからないそうです。ミニレムは、フィア様の命令はだいたい聞くのですが、そういった個々の重要なことに関しては、黙秘だったり従わなかったりといった事例が報告されています」「命令を聞かない、というのは、逆に凄いことなのかもしれんな。命令を聞かなくて良い命令を出している、は違うか」「そういえば、フィア様が倒れられたとき、団長ーーグロウ様がミニレムの指揮……なのか? 引き継いだはずなのに、六形騎は騒乱でドゥールナル卿に味方して、グロウ様の『結界』を攻撃してたっけな」
さて、シャレンの愛欲……ではなく愛徳、でもなくて、ああ、もう、普通でいいや、恋情を拗らせたらしい「シャレン襲来」ーーは、なんか語呂が悪いな、「襲来のシャレン」のほうがいいだろうか、って、そうではなく、余計な時間を食ってしまったので、この話題はここで終わり、と。あとは、エンさんの健闘を祈るに止めておこう。
「余談、というには長くなりましたが、では小会議、摺り合わせを始めましょうか。今回は二人に知っておいて欲しいことがあります。何かありましたら、先にどうぞ」
顔を見合わせて、ザーツネルさんが首を振る。頷いたオルエルさんが、顎に手を遣って、真剣なのか困っているのか、窺うような調子で尋ねてくる。
「下世話なことではあるが、筆頭竜官として把握しておこうかと思ってね。国の大事に繋がるかもしれないので、顛末を確認しておかなければ。ーーということで、リシェ君は、その後、『蒼の姫』とはどうなったんだい?」「っ⁉」
ひゃっこい⁉ と内心の動揺を誤魔化してみるがーーって、そうではなく、いきなり何を言うかと思えば。まぁ、確かに、国にとっては忽せに出来ないことなので、役目を果たそうとしているオルエルさんの為にも、気は進まないが、きちんと話しておかなければ。
「見たところ、婚約はしてないようだな。侍従次長の様子から、そんな感じはしてたが」
ザーツネルさんが由有り気な視線を向けてくる。
はて、何故ここでカレンが出てくるのだろう。ああ、そうか、不誠実なことが許せない真っ直ぐな彼女から、気色取るところがあったのだろう。
「蒼の姫」とは、サーミスール国の王妹、エルナースさんのことである。快晴の高みの空より澄み切った美貌から、民の間で称えられて、異称として定着したらしい。僕も直接会ったことがないので確たるものではないのだが、サーミスールの民は知らないのだ。彼女の本性……もとい、奔放、ではなく、活動的なところを。
「……エクリナス様は、エルナース様に婚姻の話をしたそうです。通常なら、王からの命を拒むことは出来ないのですが、『兄様のあんぽんたん! 遊びに行ってくるよ~』との書き置きを残して出奔したそうです。ドゥールナル卿が警戒網を敷いているので、直掴まると思うのですが、手紙には、五分五分、と書かれていました」「「…………」」
遠くない内にエクリナスさんは竜の国を訪れることになる。それまでは逃げ延びてください、と何処かの御転婆娘さんに、それとエルシュテルに祈っておく。
「……良かったじゃないか、リシェ君。君に相応しい相手のようで」
ちょっと動揺した挙げ句の皮肉であると信じたい。口を開きかけていたザーツネルさんのほうは、もうこの話は終わり、ということで、邪竜が笑えば何とやら、で黙らせることにした。のだが、ここまで来て話さないわけにもいかない。どうも「襲来のシャレン」から流れがおかしなものになっている。
「騒乱後、竜の国に、たくさんの申し出がありました。先ずはカレンですが、ドゥールナル卿が『エクリナス様とカレンの仲は良好』という噂を流布したので、クラバリッタを始めとして、彼女に一目惚れした諦め切れない人々からの求婚が、両手の指では足りないくらいありました。次に、ちょっとややこしいのが、クーさんです。彼女ほどの女性を娶るのであれば、正妻でなくてはなりません。ですので、若くして妻帯している有力な貴族や王族はこれに当たりません。中級以下の貴族と、腕に自信のある者。多くはサーミスールからのものなのですが、武の誉れ高き国であることが熱意を高めてしまうことに。
美人であるクーさんを娶る、それだけで十分な祝福でしょう。ですが、彼らには、他にも大きな祝福があるのです。彼の国にとって、女性とは護るべき対象です。然し、最も尊いとされるのが、共に轡を並べる伴侶です。希少、というだけでなく、隔絶した強さと華麗な容姿の、奇跡的な存在。彼らからすると、正に至宝と同義。
そして、彼女を娶る、ということは、彼女にーー高貴なる女性に認められる、ということです。それだけの人物、ということで周囲から一目置かれ、出世にも影響することでしょう。そういうわけで、収拾を図る為にも、あのような事態になったとーー」
余りにも求婚の数が、彼の国でのクーさん人気が過ぎたので、エクリナスさんと相談して、武を尊ぶサーミスールらしい解決方法を模索。果たして、武闘大会が催されたのだった。他国からの参加者も募って、予選が行われて。勝ち残った十人の屈強な男たち。
勝利すれば、クーさんを嫁にできる。という流言を真に受けた男たちは、己の名誉と魂を懸けて挑むが。本選でクーさんは、十人相手に闘い、それなりの苦戦の末に全員を打ち倒した。あとは、「自分より弱い男を夫とすることはない」というクーさんの、真しやかな発言を捏造して完竜。その後、模擬試合が二戦執り行われた。
王様対宰相。ドゥールナル卿に鍛えられたエクリナスさんの強さを知らなかったサーミスールの民は仰天したらしい。互角の勝負は、最後に経験の差が出たのか、クーさんの辛勝だった。王様を見せびらかす、もとい王の力を示す、自らの策が嵌まって、にやりとしたドゥールナル卿が、最後の相手を務めて。
全盛期の自分と同じくらい強かった。その後、研鑽を怠っているはずはないから、それ以上だろうね。と「〝サイカ〟の懐剣」であるところの老師の見立て通り、クーさんは歯が立たず、武の国の面目を保って、大会は盛況の内に幕を閉じたのだった。
「残りは、エンさんです。彼の薫陶を受けて『厄介者』が『心得者』になったということで、英雄級の扱いで称賛振りは凄まじくーーキトゥルナ国は、本気でした。竜の国に調査員を送り込み、竜騎士団団長を綿密に調べ上げました」
ここで一拍。ここから先、言葉にするには、ずしりと重たいものがあるので、遠くの空を眺めながら、何でもないことのように語ってしまおう。
「エンさんは、妹思いの、優しい兄です。そして、みー様と大の仲良しです。それから、シャレンの『好き好き攻撃』から逃げ回っています。ーーその結果、調査員たちの見解は一致しました。エンさんは、シャレンより周期が下で、みー様くらいの周期頃の女の子が大好きなのだと、彼らは誤解してしまったようなのです。王様と魔法団団長の命令で仕様がなくキトゥルナを訪れたエンさんを待っていたのは、たくさんの小さな女の子。彼の嗜好を反映したらしく、王族や貴族から選抜された、みー様のような活発な幼女、もとい子供たち。キトゥルナの本気度は竜並みだったようで、エンさんと縁を結ぼうと、男の娘まで投入したそうです」「「…………」」「そんなこととは露知らず、エンさんは子供たちと仲良く遊びました。子供たちと泥んこになって遊び回り、剣も教えたそうです。体の弱かった子が元気になったと、更に名声を高めることになりました。彼に随伴した(くっついていった)シャレンが奮闘しましたが、エンさんを好きになった子供は数知れず」「「ーーーー」」「そんな裏の思惑など心付くことのない罪深いエンさんは、快い風の爪痕を遺して、キトゥルナから立ち去りました。『爆焔の治癒術士』の憂き名とともにーー」
僕らの代わりに、風が泣いてくれている内に、脱臼する勢いで次に移るとしよう。
「とまぁ、皆大変だったんですけど、これから話すのは、大変なことをしてくれた人のことです。誰あろう、クーさんです」「で、宰相様は、今度は何を失敗したのかな?」「その前に、税について話さなくてはなりません。ご存知の通り、氷焔の資金が尽きるので、一回目の徴税を行うことになっています。必要なことだとわかっていても、税など払いたくないものです。それ故、竜の国の運営資金がなくなり、皆の助けがなければ国が成り立たない。ということを実感してもらい、不満の解消、ではなく、抑制に努めようとしているわけですが。ーーここで問題が発生しました」
クーさんは、一見万能なように見えて、その実多くの弱点を持ち、何もない場所で転んだり、物忘れや勘違いだったり、うっかりな感じの失敗をちょくちょくする。
「氷焔の資金は、クーさんが管理していました。そして彼女は、一桁、勘違いしていました」「……つまり、思っていたより資金は、残っていたーーと?」
一縷の望みをかけて、オルエルさんが声を詰まらせるように尋ねてくるが、幸運の女神エルシュテルの信徒である彼に、タルタシアの静かなる闇の混迷を差し出す。
「気付いて、確認しに行ったとき、氷焔の資金は、もう、ありませんでした。すっからかんです。思い込みというのは怖いですね。見ればわかるのに、有る、と思い込んでいたクーさんは、無い、ことに気付けませんでした」「って、ちょっと待った侍従長っ、じゃあ今、竜の国はどうやって回してるんだ⁉」「いやいや、慌てるな⁉ 表面化していないということは、どこからか調達だか融通だかしたということなのだから、問題はないというわけではないということははっきりしているはずだっ!」
下手すれば国が傾くどころか倒れてしまう事態に取り乱す御二人。「おしおき」三回を通告されたときのクーさんの逃げっぷりと、いい勝負である。然てしも有らず二人を落ち着かせる為、ゆっくりと穏やかな口調で顛末を話すことにする。
「お金が無くなりました。解決方法は幾つかありました。一つは、みー様から借りることです。北の洞窟にある竜の雫を貸してもいいと、みー様とクーさんの間で、合意のようなものがありましたから。でも、フィア様とみー様の間に、お金に関する事柄を差し挟みたくなかったので、これは却下しました。人の領分を守る、ということで、フィア様が魔法で鉱物資源などを掘り漁ることも却下。それと、これですがーー」
僕は、二人に見せる為に持ってきておいた皮袋を取り出して、紐を解いて中身を見せる。
「「っ⁉」」
あまり大っぴらにするものでもないので、やはり気になるのか、遠目でこちらを窺っている竜の民から隠すように懐に戻す。
「えっと、これは、氷竜様から貰ったものです。好きに使っていいと。でも、僕もお金に関する問題を、スナ(ひょうりゅう)は気にしないでしょうが、ーーそうですね、僕はこの関係を大切にしたいと思っているので、竜の国に係わることにだけ使わせてもらっています」
騒乱の際、ストリチナ同盟国の情報を齎してくれた商人の謝礼に、竜の雫を五個、使わせてもらった。それを皮切りに、人脈作りや竜の国の印象操作などにも使わせてもらっている。スナは竜の国に居るのだから、住み良い環境作り、という名目ーーは言い訳になるだろうか。このままではいけない、と僕なりに考えて、実行はしているのだが。
「噂にはなっていたが、やはり炎竜様だけでなく、氷竜ーー様も竜の国にいらっしゃるのか」「え? 噂って、そんなものが?」「あー、氷竜様が居ることがわかっていたリシェ殿の耳には届かなかったのかもな。『千竜賛歌』のとき、竜区の、竜の頭の方角から氷竜が飛び上がっていったと、一時噂になったことがあるんだ。真偽は不明、ということで、その後下火になったが」「……そうですか。そろそろ頃合いなのかな。でも、どうするかは、氷竜様の御心しだいなので、それまでは、秘密、ということでお願いします」
ザーツネルさんにはある程度伝えてあるので、オルエルさんに要請する。
「みー様から借りず、フィア様の魔法を行使せず、氷竜様の財宝を充てているようには見えない。となると、結局資金はどうしたのかね」
はぁ、到頭言わなければいけないようだ。勿論、最初から言うつもりだったのだが、その為にスナの竜玉も持ってきたわけだが、いやいや、言い訳する暇があったら、さっさと吐露してしまおう。
「えっと、サーミスールから、エクリナス様から借りました……個人的に」「は? それは、どういうことで?」「個人的、ということは、竜の国がーーということでなく?」「はい。僕個人で借りたので、竜の国に直接被害が及ぶことはないーーはずです。えっと、僕は騒乱の前後で、エクリナス様に、その……、借りのようなものをたくさん作ってしまったような気がするので、こう、中途半端な感じよりも、どうせならちゃんと借りてしまえー、という勢いで。そして、きちんと完済することで、なんかふわふわした感じの罪悪感も消してしまえればなぁ、と愚考したしだいです……」
どうしたことか、言葉を継ぐほどに、頭が重たくなって下がってゆく。
「リシェ君。それ、誰かに相談したかい?」「……いいえ」「そうか……、覚えておくが良い。身を滅ぼすときは、一瞬だぞ。そして、大抵そのときまで気付けない」「……はい」
僕の惨状を見兼ねたのか、教訓めいた言葉で諭してくれるオルエルさん。このままでは落ち込むばかりなので、その先を語ることにする。
「フィア様からは、『リシェさん。頑張って返してくださいなのです』と嬉しそうに突き放されてしまいましたが、クーさんの取り成しで、僕の信用で国が借りた、ということになったので、……そういうことで」「んー、問題ないように聞こえるけど、サーミスール側が完全に善意でやってくれたわけじゃないんだろうしなぁ」「竜の国との、優先的な交渉権ーーこれくらいで手を打ってくれれば良いが。どうもあちらさんの目的は、リシェ君個人に貸したことからもわかるように、君にあるようなんだが、竜にも角にも、いっそあちらの思惑に乗って、『蒼の姫』を娶ってしまったらどうかね?」「ひ、筆頭竜官っ、そこはちょっと勇み足ではないかとーー」
何やら慌てたザーツネルさんが、オルエルさんの体を押して、三歩後ろに下がって、僕に背を向ける。それから、どうやら内緒話の開始のようである。
「オルエル殿、そこはフィア様とか、……カレン殿とか、色々あるので、せっつかないほうがいいような」「カレン殿はエクリナス様と縁があるようだし、サーミスールーー特定の国との結び付きを強固にするのは一つの手だと思うが」「あー、えーと、そのー、竜の国は、普通の国と違って、あまり政略のようなものを人間関係に持ち込まないほうがーー、って、何で俺がこんなことまで気を回してんだ⁉」「ふむ。確かに、国の為にと、逸り過ぎたかもしれんな。それなら、先ずは確認してみようか」「……というと?」
さて、小声で話している二人であるが、居回りが静かなので丸聞こえ。どうも二人の会話は噛み合っていないようだが、一応の決着を見たようで、くるっとこちらに顔を向けたオルエルさんが、その地位と役割からか、真剣な顔で質してくる。
「美人で御転婆、と聞くが、特に悪い噂もない。『蒼の姫』との婚約を拒否する理由はないと思うのだが、それとも誰か意中の相手でもいるのかい?」「……、ーー」
ーー意中の相手、と言われて先ず思い浮かんだのは、愛娘だった。たぶん、意中という言葉が正しく僕の内側に響かなかったからだろう。だから、一番大切な存在は誰か、ということになって、答えは、スナ。これは、僕にとっても意外だった。僕にとって、兄さんも掛け替えのない存在のはずなのに、はっきりと優劣がついていた。僕の中で、兄さんが二番目になっている。勿論、大切であることに変わりはない。ただ、スナが、それより上に、魂の奥まで入り込んできてしまったというか。上手く表現できないのだがーー。
「言われてみれば、嫌ということはないですよね。んー、別に結婚したいと思う相手がいるわけじゃないですし。ーーあれ? どうして僕は嫌だと思ったんでしょう?」
あれ、ちょっと本当にわからなくなってきたので、人生の先輩方に尋ねてみる。
堅蔵の自覚のある僕ではあるが、異性に興味がないわけではない。然あらば周期頃の男の子でもあるし、興味は人並みにはあると思うのだが。氷焔に所属してからは、周期が上で美人のクーさんに、何度もどきりとしたことがあるし、「やわらかいところ」対策のことがなければ、もっとコウさんに惹かれていたかもしれない。でも、こう、内側から燃え上がるような、自らを焦がしておかしくするような、そんな衝動を感じたことはない。スナを愛しいと思う気持ち、これは恋情とは違うと思うのだが、僕の内に明確な物差しがなく、どうもあやふやではっきりとしない。
「……オルエル殿、ここは慎重に」「あ……と、あれ? リシェ君は、こちらの方面に関しては、子供……なのか」「はい。未熟、と付けてもいい水準で」「レイ殿やカレン殿と居て、普通にしていたから、熟れているものかと。〝目〟なのだから、当然そちらの知識なども豊富、とかではないのか?」「よ~く思い出してください。カレン殿の空回りっぷりやリシェ殿のおかしな言行を。宰相は、あれだし、フィア様の家族観も……普通とは少しばかり違うようですが、フィア様周辺はグロウ様に任せておけばいいとして、侍従長の未熟なところは俺たちで補ってやらないと、下手すると国が滅びてしまうかも……」
またしても、だだ漏れである。焦っているだけで、僕に態と聞かせようとしているとかではないと思うのだが。竜にも角にも、二人が僕の為に頭を捏ね繰り回してくれていることには感謝するが、これをお節介と思ってしまうのは、僕が子供だからだろうか。
「ーーむ? リシェ君がいないぞ」
「階段かっ、っていうか、またか! 逃げるのは卑怯だぞ、侍従長⁉」
なので、ここは子供っぽく、僕の特性を利用して、嫌なことからは逃げることにしたのだった。
「あ……」
階段を下りると、然も嫌な人間に会ったという顔で声を漏らす王弟。そして、「王弟の懐剣」さんは、シアが僕に気付く前に、弟のような少年の背中に退避完竜。元々僕にはそっけない感じだったけど、……それなりに悪意も向けられていたかもしれないけど、レイ(スナ)に苛められて(おもちゃにされて)からは、接触自体を拒まれるようになってしまった。シアが居れば逃げないだろうと、もっけの幸いと状況を利用させてもらうことにする。
「朝からシーソがここに居るということは、ああ、王様に捕まったシア様を連れ出しに来たってわけか。シーソ連れで今もここに居るということは、僕に用事があるのかな?」
幾つか可能性があったが、無表情娘のシーソよりはだいぶわかり易いシアの、最後に残した嫌いな食べ物を口に入れなければならないような表情から、いや、自分で言っていて哀しくなってくるのだが、少年らしい感情の発露を源泉に予測してみたが、当たったようだ。何かを諦めたらしいシアの後ろから、少女の、悪意を含んでいるようなのにまったく感情が込められていない、慣れてしまうと意外に耳に心地良い、抑揚のない言葉の羅列。
「シア、きをつける、おそろしいひと、あたまのぞきま」
ふぅ、なんというかかんというか。こわいひと、が、おそろしいひと、になったわけだが、まぁ、違いを探ることに意味はないのだろう。などと考えていると、シアが難しい顔をしていた。どうやら僕に何か言いたいことがあるようなので、急かさずに、少年の後ろの少女を観察する。この周期頃だと、性差は少ないようだ。身長は、わずかにシーソのほうが低いだろうか。竜の国での生活のお陰だろうか、それでも痩せているが、以前よりはふっくらとした印象の少女。鋭い心象のある少年と並べてみると、もしかしたらシーソのほうが体重があるような、そんな気がしてくるのだが、実際はどうなのだろう。
「侍従長ーーリシェさんは、人の頭の中を覗けるんですか?」
シーソに気を取られて、質問の内容に面食らったが、シアの真面目な様子から、茶化さず答えることにする。何より、少年の考えていることに興味があったので、なるべく(「千竜王」とやらの所為で、自身に確信が持てないので)正しい情報を開示するよう努める。
「いえ、僕には出来ません。誰かが僕の思考を覗くことはあっても、その反対は今まで経験したことはありません。それに近いもの。『浸透』と呼べるもので、フィア様と老師の魔法を体感、知覚したことはありますが、思考までは流れ込んできませんでした。魔法でそれは可能かもしれませんが、老師はその類いのことを研究することを禁じています。竜であれば、人間より鋭い感覚を以て、わずかな所作から意味を見出すことが出来るかもしれません」「あ、……い、じゃなくてっ、そんな詳しく説明してくれないて、いいです」
先程とは逆に、面食らったシアが慌てて両手を振る。シーソが後ろで何かしているのだろうか、思ったより早く平静を取り戻した少年は、確認するように言葉を発してゆく。
「ーーリシェさんは、初めて会ったときよりも、能力が上がった、のか、成長した、のか、そんな風に見えます。以前、竜の民は、リシェさんは心が覗ける、そんなことを言ってましたが、そのときは、それは本気の言葉じゃなかったです。
でも、騒乱が終わった頃から、本当に心を覗かれているんじゃないか、と怖がっている人を、何人か見てきました。ーーだから、時間のあるときに、考えてみたんです」
理知的な眼差しが向けられる。ここは何も言わず、少年の言葉を待つ。
「リシェさんは、自分と同じくらいの相手には、全力です。でも、自分の能力を過小評価しているのか、自分より下の相手にも全力でやっているように見えます。見透かされたり、行動を読まれたり、普通の人は、わからないことが怖いんです。皆に全力でなくて、下の人たちには、半分くらい、手加減をしないと、……今は、怖がられたり嫌われたりだけど、このままだと、拒絶になって、竜の国から出て行かないといけなくなるかもしれない」
……これはしたり。いや、そんなことを言っては失礼になるだろう。シアは、城街地にいた頃から、子供たちを守る為に、どうすればいいのか常に考えていたはず。
どうやら僕は少年を侮っていたらしい。シアの才は認めていたが、短期間でどうにかなるものではないと思っていた。シーソの天佑とも呼べる能力に助けられてきたと、誤解ーーしていたのだろうか。そうなると、二人の関係は、また別の見方をすることが出来る。
「シア様とシーソは、幼い頃からではなく、城街地で出逢った、のかな。シーソの、シア様への懐きっぷりから、たぶんシーソをシア様が助けるような何かをした。といっても、シア様がシーソを助けたとなると、シーソが諦めていたーー」「いやなひと、シアがいま、いったばかり、じかくなくたにんの、こころあばく、やっぱりたいへんなへんたい」
シアの肩から目を覗かせて、無表情で断言してくる。ぐぅ、いやいや、駄目ですよ、シーソ。女の子が変とか態とか言ったら。出来れば叱りたいところだが、実際にやったら疚しさを隠す為としか受け取られないだろう。くぅ、さすがはシアに、意地悪と言われるだけのことはある。然あらばスナに告げ口ーーなんてことは、しませんよ? そんな頑是無いこと、するはずがないじゃないですか、ねぇ、くっくっくっ。
「みがわりになるシアは、いいシア」
然ても、心を暴く、とシーソは言ったが、彼女のほうはどこまで見えているのだろう。これから話すことの、どこまでを予測しているのか、ーーちょっと試してみようか。
「シーソの身代わりで、シア様は、僕のところで働いていただけるんですか?」「いやなひとは、だめなひと」「そうですね、僕のところは若干変則的なので、オルエルさんのところのほうが確実に力を付けられるでしょうね」「だめなひとは、わるいひと」「とはいっても、シア様は今の時点で、過剰と言えるくらいに学んでいます。なので、加えるなら、これから話すことを検討してからということになるんですが」「わるいひとは、いいひと」
あ、媚びた。まぁ、それは言葉の上でのことだけだが。ふむ、尻尾は見せたようだが、捕まえさせてはくれないようだ。然らば遊びはこれくらいにして、説明するとしよう。
「竜の国は、魔法使いの国、とも思われています。竜、という存在だけを突出させるよりも、魔法、という要素で薄めたほうがいいと、僕と老師で結論付けました。これは、以前から検討していたことですが、竜舎で子供たちに魔法を学ばせる、その為のより良い方法を模索していました。フィア様は、魔法のことになると見境、ではなく、少々のめり込み過ぎてしまうので、こちらも、フィア様の意見を参考にしつつ、僕と老師で詰めました。竜舎で子供たちに教えるのは魔法の知識。魔力が安定したあと、治癒魔法を修めてもらうことになります。攻撃魔法と違って、治癒魔法であれば、概ね危険はないですからね。その後、魔法をもっと覚えたい、研究したい、という子供たちがいれば、より専門的なものを学んでもらおうと、準備やら体制やらを整えているところなんですがーー」「いいひとは、りゅうのひと」「シーソには、魔法を教える師範か、魔法乃至魔工技術を磨いて欲しいと思っているんだけど。勿論、これは強制じゃない。ーーでも、そうだね。シーソがどこまでわかっていて、今の言葉を発したのかわからないけど。シーソが何故、そこまで頑ななのかは詮索しないけど、僕のほうからは差し出しておくよ」
シーソと話していて、釈然としない、欲求のようなものが突き上げてきた。それを知る為にも、一度、衝動のままに吐き出してみようか。
「シーソ。僕は、『千竜王』だ」
僕の気配に触れて。女の子は見上げて、躊躇いは一切なく、素直な言葉で言祝ぐ。
「シア、やっぱり、こわいひと、ざんねんなびょうき、かかってる」
……ぎゃふんっ。いやいやいやいやいや、ちょっと待ってくださいっ、シーソさん⁉ 僕の内にいるかもしれないとかなっている奴なのかどうなのかわからないのが、しゅぽんっ、って感じで遥かな奥底まで戻っていっちゃったような感覚がしたようなしなかったような⁈ うぎぃ……、はぁ、ふぅ、ふ~、うん、ちょいとちょろっとちょこちょこと落ち着こうか、僕。先ずは、シアが何か言いたそうなので、先手を打つが上策。
「シア様には、基礎的な魔法の知識を身に付けていただきます。〝サイカ〟の里で、魔法に関して、おざなりにしてしまったことを後悔しています。魔法を学んだとて、コウさんには追いつけません。ですが、魔法を識らなければ、近付くことは敵いません。何を学ぶのか、どこを目指すのか、それはシア様の自由です」
色々誤魔化したかったので、思いっ切り真面目に、誠実に、少年の未来について騙る、ではなくて、語る。考えてみた、と先にシアは言ったが、それは自身の将来にも及んでいたようだ。ふと、彼の姿に、懐かしい姿が重なった。
「ーーサキナや皆は、二巡り前くらいからシーソに剣を教わっています。皆は、話し合って、誰かを助けられるような人になりたい、と思ったようです。その為には、先ず自分の身を守れるだけの、強さがなければいけない、と考えて……、それは無力で、無為だった、押し潰されるような、何かを拭い去らなければいけない、そうしないと前に歩いていけない、ーー自分で考えて、学んで、好きなこと、やりたいことが見つかった子もいます」
まだ慣れていないのだろう、自分で思ったことを、正しく伝えられないでいる。もどかしさを抱えながら、未熟さを思い知りながら、それでも前に進まなくてはならない。
「ーーーー」
ーーそこには。僕の前に、僕がいた。
兄さんと出逢った頃の僕。僕には僕が見えていなかったけど。きっと兄さんは、今僕が見ているような、ーー不意に、兄さんと眼差しが重なったような、不思議な感覚。これは幻視で、でも心地良くて、懐かしくて。帰りたい、なんて望んではいけないというのに。
僕がシアやシーソに何かしてあげようとするのは、兄さんへの憧れなのかもしれない。恩返し、のようなものなのだろうか。兄さんから受け取ったものを、誰かに渡したい。
コウさんが望んだ、竜の国という場所は、知らず知らず僕の願いに沿うものだったのか。 ああ、何だか、自分が年寄りになってしまったような、いや、子供でいられた時分を振り返りたいような、甘酸っぱさに引き摺られていると、シーソに先手を打たれてしまった。
「こわいひとに、かんしゃしてなくもなくもない、でもたすけ、じゃなくなくて、よけいなおせわ、いらない」「あー、はは、うん、わかった。子供たちの稽古、僕のほうから竜騎士に要請したりしないよ」「あたしとシア、かんしゃ、はしてないけど、きにかけてるの、しってる、だからだから、できるはんいの、おんがえし、してあげなくもない」
シーソらしい台詞を、ぽんぽん投げてきてから、男の子の背中から出てくる女の子。
相変わらず、無表情で何処を見ているのかわからない、存在感の希薄な少女。自然体、という言葉ですら欠伸をしそうなくらいの、不自然さを伴わない歩き方で近寄ってきて。
折れない剣を鞘から引き抜いた。
「ひつようは、かくにんのりゅう、やっぱり、おーさま、かんちがいしてる」
嘗て、折れない剣に触れて苦悶を得たことがあるシアが、平然と剣を持っているシーソに、驚愕を通り越した、唖然とした表情を向ける。対策を施せば、自分やエンさん、老師なら持つことが出来る。と以前クーさんがそのような類いのことを言っていたが、シーソの魔力操作の能力は、彼らに匹敵するのだろうか。
がしゃん。
僕とシアが、シーソの一挙手一投足から目を離せなくなっていると、彼女の手から何の前触れもなく折れない剣が落ちた。そして、無言で崩れ落ちるシーソを、シアは何らかの予兆を感じていたのだろうか、彼女が膝を突く手前で抱き留めた。魔剣、と呼ばれてしまっている危険物なので、転がしておくのは危ないので、早々に拾って鞘に収める。
「おんなのこの、あつかい、しらないシアは、わるいシア、おーさまに、きらわれるかも」
シーソの言葉に釣られて見てみると、少女を支える少年の手が、周期からして何もおかしいところはないだろう、真っ平らな場所に触れていた。
「はぁ、ほら、そんなこと言ってる余裕があるんなら、自分で立て」
シアは、シーソの腕を自分の首に回させて、手を放す。これだと、少女が少年に抱き付いている、という格好になる。
「おや、珍しく、シア様が意地悪ですね」
意趣返し、ということではないだろうが、珍らかな光景に尋ねてみると、シアは胡乱気な瞳を僕に向けて、溜め息を吐いた。
「この程度のことが意地悪になるのなら、僕とシーソの関係は、こんな風になってません」
「らくちんちん、シアはいいシア、シアなシア、よきにはからえ」
羞恥心を醸すことも、言葉を乱すこともなく、完全に体を預けてしまうシーソ。信頼、なのか別のものなのか、竜にも角にも、深いところで繋がった感じの、絆が感じられる。
そのとき、シアが惟るような仕草を見せて、観察するような視線を僕に向けた。どうやら、何かしら直感が働いたらしい、邪竜侍従長を見るカレンと同じ輝きを瞳に宿していた。
「リシェさん。僕は用事を思い出したので、シーソをお願いします」
シアは、シーソの両肘の下に手を当てて、くいっと持ち上げると、すっと後ろに回って、脇の下から手を入れて彼女を支える。どうそ、贈り物です(訳、ランル・リシェ)。と差し出されたので、当の然、遠慮なく受け取ることにする。
「はい、了解しました。恙無く、シーソはこちらでお預かりしておきます」
然てこそシーソを貰おうとしたら、世の無常をまったく集めていない顔の女の子が、まるで生まれ立ての竜のように、って、いや、生まれたばかりの竜なんて見たことないんだけど、つまりは、それくらい稀有な状況と言うべきか、ぷるぷるしながら退避行動を取っていた。二人の男の意見は、完全に一致した。シーソを、余すことなく、眺め遣る。
「シーソが表に兆したのは、みー様が攫われたことを伝えに来てくれた、あのとき以来かな」「実は、子供たちに対しては、もう少し緩いんです。その分、僕に皺寄せがきているような、……気はしますけど」「ああ、それは、甘えているんですね」「……え?」「シーソのような子にとって、それはとても重要なことです。これは僕が言わずとも十分にわかっていると思いますが、シーソの弟として、十二分にお姉さん振らせてあげてください」
すでに嫌われている僕に、恐れるものなどな何もない。……いや、嘘です。強がりです。関係改善は望むところだけど、いつもやられているし、このくらいならいいだろうと、からかい未満、皮肉未満の、……ああ、やっぱり仕返しが怖いからなのか、ちょっと生温い感じの意地悪を、結託した男どもがしてみたのだが。シーソのぷるぷるが、止んだ。
「「…………」」
どうやら、完全に復調したらしい。無表情のシーソにじっと見られて、何かを感じ取ったらしいシアが、ひっ、と悲鳴を漏らして、一歩退いた。その感情を宿さない顔が、すーと斜め上に動いて、僕に向けられる。明日、殺す(訳、ランル・リシェ)。明日は、明日になったら明日になるので、明日という日は永遠にやってこない。然しも無し、ということにして、にっこりと笑顔を浮かべてあげたら、もう一度折れない剣を抜こうとしたので、シーソが前に出た分だけ、僕は後ろに下がる。
「おーさまに、あることないこと、つたえること、けってい、それと、さっきいった、おーさまのかんちがい、はなしたくなくなった、けどはなす」
「えっと、ごめんなさい。よろしくお願いします。どうぞ、御指南のほどを」
わざわざシーソが手に取ってまで確かめた事柄。重要なことである可能性が高いので、低姿勢で、というか僕自身のことなのだから、今更かもしれないが、真摯な態度を取る。
「おーさま、つくったけん、よくできてた、もくてきどおり、こわれないけん、そのものだった、でも、まけんになった、おーさま、じぶんのしっぱいで、そうなった、おもってるけど、ちがう、そうなったげんいん、こわいひと、りゅうのひと」「僕が持つことで、壊れない剣がおかしくなってしまった、ということ?」「もってみてわかった、りゅうのひと、けんからまりょく、すいとってる、そしてそれ、じょうたいかした、まけんになった、こわいひとのせい」「うん、僕の所為、ということはわかったけど。ここまでしたってことはそれだけのことがあるから、とは思うんだけど、実は思ったほどでもなかったのかな?」「それ、どうおもうか、りゅうのひとの、じゆう、なにかあるなら、たいてい、そのままじゃない、そのままにしないが、けんめい」「ーーシーソから見て、そういう意味で、以前の僕とは違うところ、何かあるかな?」「こわいひと、もっと、こわくなった」
空の雲が流れていくように、シアの後ろまで歩いていくシーソ。そして、もう話すことはない、とばかりに姿どころか気配まで薄れてゆく。然ても、無駄だろうが、気に掛けている、と思ってはいてくれたようなので、最後に強要、もとい要請だけはしておこう。
「二つ音から会議だから、シア様の補佐としてシーソも参加してね」「考えて、おかないこともない」「うん、風竜の間以外はレイが徘徊しているかもしれないから気を付けてね」
「はい。これで今日の分は終わりですね」
僕の、侍従長の執務室に寄って、カレンと打ち合わせ。早目に王様の執務室に押し掛けて、コウさんをせっついて、予定を消化させる。今日は五日目なので、やらなければならないのだ。竜の民から王様と認められて、精神が安定した所為か、以前よりも魔力が溜まり難くなった。詮ずるところ、王様は逃げたり誤魔化したり先延ばししたりするようになった。三日くらいなら問題なくなったので、僕も仕事が忙しいときなどは、きつく求めたりなどしなくなったのだが。さすがにそろそろ抜いておかないとよろしくない事態になる。
「そういえば、今日、夢を見ました」「……いきなり何なのです」「ああ、気にしないでください。『やわらかいところ』対策の前振りですらない、ただの世間話のようなものですから」「…………」「実は僕、幼い頃、お姫様に会ってみたい、って思ってたんです。そういえば、コウさん、姫様とか、呼ばれてましたよね」「ーーーー」
大丈夫な日数が増えた所為か、尚往生際が悪くなった、身体的にあまり成長が見られない女の子、もとい精神的には、……やっぱり特段記載することは、ないような気がする。
王様は王様のまま、みーはみーのまま、変化がゆっくりゆったりなのは、きっといいことなのだろう。魔法以外は普通であるところの王様の、王の執務自体は減っていった。国としての体裁が整ってきたから、これは予想通り。予想外だったのは、仕事が減るにつれて、コウさんの疲労の度合いが増したことだ。コウさんは、おこちゃまである。重要なことなので、もう一度言おう。コウさんは、紛う方なく、おこさまである。と言いたいところだが、二十四くらいの周期かも知れず、四十手前の周期かも知れず。まぁ、何が言いたいかというと、好きなことに熱中してしまう、ということである。大人もそうではあるが、子供の熱中の熱々(あつあつ)具合は、炎竜にも負けないような気がする。
以前は時間を食っていた、魔法方面に関する竜の国の管理を、フラン姉妹やミニレム使いのシャレンに委譲することが出来るようになって、空いた時間を魔法の研究に費やすことになって。徹夜して、会議をすっぽかして、クーさんから「おしおき」されるに至って、すっかり忘れていたが、それって侍従長の仕事じゃないかと、まぁ、色々あって、コウさんの残念な部分を、侍従次長に叩き直してもらうことにした。といっても、やったことは、一巡り寝食を共にする、だけのことなのだが。その間、みーは、シーソやシャレンといったお友達との交流を楽しんでーー経験を積んでもらった。それなりに甘やかされて育ったコウさんがどうなったかは、言わずもがな。「おしおき」よりも効いたみたいである。
「実は僕、あまり趣味とかなかったようで、給金の使い道が生活方面にしか向かってなくて。そこで二日前、衝動買いというものをやってみたんです。で、これがそのとき買ったものです」「……前振り、なのです?」「ほら、おっきいですよね。コウさんの姿が隠れてしまいます。触ってみてください、手触りもなかなかですよ。クーさん作の、みー様の服を念頭に、意匠をしたようです。使い道は何でも、好きなように使ってください、って店員さんが言ってました」「リシェさんは、薄い緑色が好きなのです?」「え? ん~、そうですね、僕は三寒国の出身です。雪の後に生える植物の色と風の匂いは好きです。雪の白さも嫌いじゃないですけど、色で言うなら、やっぱり寒さの解けたあとの若草色に軍配が上がります。ああ、それとーー」「……?」「コウさんの翠緑の瞳は、大好きですよ」
然てまた「やわらかいところ」を刺激する為に、準備を始めるとしよう。
「……も、もう、何度もその手は喰らってきたので、……動揺なんて、そんな子供っぽいことなんて、しないのです」「はい? コウさん、どうかしましたか?」「ふぁ……ぐっ」
よくわからないことを言ってきたので、聞いてみたが、なぜだろう、みーのおやつを掻っ攫っていった氷竜を見送るような目で見てくるのだが。あれ、もしかして気付いているのだろうか。だが、予定に変更はないので、「目隠し作戦」続行である。「いないいないりゅう作戦」とか「空っぽ作戦」とか候補はあったのだが、ある意味、偽装ということで、「目隠し作戦」でいいかな、と決定した次第。
風に揺れる原っぱの心象がある、正方形の布を折って、三角にする。その頂点から、くるくる~、と巻いて、軽く押さえて。布を小指の長さくらいの幅の、帯状にする。これで簡易的な目隠しの陥穽、ではなく、完成である。
「で、どうしますか? 自分でやりますか? それとも僕がやりますか?」「ふぉ……、もう始まって……。ふぅぐっ、わけわからんちんのリシェさんは、王様に対する優しさというものを、竜の民の半分くらい身に付けないといけないのです!」
ここら辺の遣り取りは、恒例のものである。素直でない王様は、もとい侍従長に対して素直になれない女の子は、先ず反発から入ることが多い。ここで攻撃性を発現しないよう、からかい過ぎないようにするのが骨だ。
「これは、僕が買った、若草色の布です。部屋に置いておいたり、懐に入れて運んだり、そんな感じで僕のものになりました。というわけで、今この布には、新たな役割を与えました。それは、コウさんの目を隠して、見えないようにする、という、名誉ある役割です」「…………」「僕としては、まだ僕の温かさが仄かに残っている、この目隠しを、他人に巻かれるほうが、効果的で捗るのではないかと、愚考する次第です」「……っ、ーーっ」
ゆっくりと手を伸ばして、布を手に取ろうとすると、ほぼ反射的に布を奪い取るコウさん。あとは無言で、無表情で、じっと見詰めるだけである。然のみやは抵抗しても無駄だと諦めたのか、嫌なことは早く終わらせよう、と勇んで、ぐるりと巻いて、頭の後ろで結ぶ。布を傷付けない為か、強く頭を締め付けたくないのか、或いは両方か、軽ぅ~く結わえている。さて、準備完竜。では、最初の確認。卓の上の紙を一枚、音を立てて拾って、コウさんに向けると、彼女の頭が釣られて少しだけ動く。
「そうでした、ここ、間違いがあったんですよね。ここの文章ですが、あ、そうでした、この指、何本ですか?」「三本なのです」「そうですか、三本ですか」「ーーっ!」
見えていないはずのコウさんの視線を紙に誘導して、意識を引いて。空いた左手の指を三本立てて尋ねてみればーー王様大正解です。はぁ、ほんとにこの子は……。
「もはや、引っ掛けでも何でもないような、こんなことに引っ掛かるなんて、この先、王様の仕事を熟していけるのか、心配になってしまいます」「け、気配を読んだの、です?」「大丈夫です。別に言い訳は必要ありません。何故なら僕は、コウさんが普通に魔法を使う分には、それを感知できないからです。勿論、『浸透』(ふれている)なら別ですが、今回の『やわらかいところ』対策では、そういうわけにはいきません。なので、助っ人を呼んであります」
優秀な竜耳には、僕らの会話など丸聞こえ。がちゃっ、とあえて大きな音を立てて、絶好の時機で愛娘が入ってきてくれる。
「スナさん⁉」「ーーどうして、スナだとわかったんですか?」「ま、魔力でわかったのです……?」「そうですか、さすが竜の国一の魔法使いです。でも、当然ですが、ここからは魔法は、ーー禁止ではありません。コウさんの魔法は、あまり精密ではないとの噂があるので、魔法に精通したスナを騙くらかすのは、物凄く難しいことだと思います。クーさんから了承を貰っています。幾らでも魔法を使って構いません。でも、使っていることがばれたときは、その回数分、『おしおき』だそうです。なので、どしどし魔法を使ってください。因みに、『おしおき』の執行者は、ばれた回数によって、変わるそうです」
助っ竜と呼ばずに助っ人と呼んで細工したのだが、王様の迂闊さはそんな水準ではないらしい。はぁ、もう少し頑張って欲しいものだが、変に鋭いコウさんは、コウさんらしくないというか、まぁ、「やわらかいところ」対策には都合がいいし、しばらくはこのままの駄目っ娘な女の子のままで、色んなところが成長するのを期待して待つとしよう。
「父様、こんな楽しそうなことを独り占めしていたなんて、いけずな父様ですわ」
僕を責めている割には、楽しげで、邪悪な笑顔も可愛らしい、僕の愛娘。
「ーー父様? ふぃっ⁉ リシェさんは、スナさんの父親だったのっ、なのです⁈」
「ひゃふっ、見るですわ、父様。この娘のみっともない醜態を。ほらっ、頭を叩いてやりますから、もっと面白いことを、その口からどばどば漏らすが良いですわ」「ふゅっ……」
本当にやりそうだったので、というか、有言実行の娘は実際にやってしまうので、後ろから抱えて、持ち上げてしまう。すると、何故かスナが、びくっ、と体を震わせる。
何だかよくわからないが、愛情表現として、スナの頭を、僕の頭で軽く撫でてあげる。
「スナ、右手、離すね」「……『浮遊』使ったので、大丈夫ですわ」
壁際まで歩いていって、椅子を一脚、笠木を掴んで持ってくるのは辛そうだったので、背凭れに二の腕を当てて、座面の下に指を入れて持ち上げる。王様の執務室にある椅子なので、恐らくはクーさんが選んだのだろう、それなりに見栄えのいい、しっかりとした造りをしているので、ーーあ、スナにお願いすれば良かったと、今更ながら気付いたのだった。後の祭り、竜の祭り、ということで、卓の前まで運んで座ると、自然僕の膝の上にスナが座ることになる。コウさんの反応はない。ということは、魔法は使っていないようだ。
「主旨の説明から始めましょう。これから先ーー」「ちょっ、待っ、なのです! なんか色々説明が必要なのです! リシェさんが意地悪なのは、世界の法則だから仕方がないので諦めたのですっ、このままだと魔法が爆発で、爆発が魔法してしまうのですっ!」
ふむ、目隠ししている所為なのだろうか、視覚を奪われることによる混乱は、思考力まで影響を及ぼしているようで、普段の迂闊さの他に、支離滅裂な要素も加わっている。
「ふふっ、父様には、寝物語を聞かせてもらっているのですわ。ですから、そこの娘のことも知ってますわ。父様は、ちょっとその娘を信用し過ぎですわ。それは、この娘が父様の命の恩人だから、ということですわ?」「えっと、それは……あるかもね。コウさんが助けてくれなかったら、僕は今、ここにいないわけだし」「そうですわね、父様は一度心を許した者には通常以上に心を預けてしまうのですわ。だから、気付けなかったのですわ」
また、然かと思えば、コウさんの、必要以上の力を込めて閉じられている、むずむずなお口が教えてくれる。目隠しの下で、目を逸らしているのだろうか、顔がゆ~っく~り~と横を向いてゆく。スナは愛娘ではあるが、性別は男でも女でもない。竜は、その役割からか、一個で完全な生命とされている。「分化」で性別を獲得することが出来るらしいが、詳しくは聞いていない。然てこそ二重の意味で、寝物語、という言葉は正しくないのだが、スナの機嫌を損ねたくないので、流してしまうとしよう。
「巨鬼と戦った、ではなく、逃げ回っていたときのことはーー、うん、確かに、疑ったことはなかった、かな」「父様なら、疑って掛かれば、すぐに答えに辿り着きますわ。ですから、私から言ってやりますわ。父様が、クーから聞いたという話。巨鬼は常ならず、魔力を纏った魔物でしたが、全部がそうではなく、五体に一体くらい、魔力を纏っていない魔物がいたということですわ。父様が始めに戦った個体は、運が悪いことに、魔力を纏っていない相手だったのですわ。そして次に、父様を襲った二体目ーー」「ああ、そうか。その二体目が魔力を纏っていない個体だった蓋然性はあるけどーー、ふむ、そうなると僕を助けたのは、助けたように見せ掛けたのは」「ふふっ、父様の考えた通りですわ。二体目は魔力を纏っていたので、父様が攻撃で損傷を受けることはなかったのですわ。なら、何故あの娘がそのようなことを、わざわざしたのか。ふふりふふり、答えは簡単ですわ。そっちの娘は、父様に恩を売っておきたかったのですわ。父様が氷焔に所属してから一巡り後、兄と姉の命令で、こっちの娘は父様と係わらざるを得ない状況になりますわ。その前に、優位に立つことが出来る、命の恩人、という立場を手にしようと、碌でもない策を講じたのですわ」「う~ん、確かに、僕はコウさんに感謝したし、一定の配慮をしていた。コウさんの策が上手く嵌まったということか。はっはっはっ、これは為て遣られましたね」
コウさんの性格を、存分に知った今では、まぁ、それこそ、今更の話である。然し、それは僕にとってのことで、僕とスナの姿を見ることが出来ないコウさんは、事実が暴露されて大変そうである。然は然り乍ら、この度は、魔力放出だけを求めることが目的ではない。説明をただ聞くだけでなく、理解してもらう為に、どうやって落ち着かせたものか。
「あっ、思い出したのです。お礼を言わなくちゃ、なのですっ。リシェさんの姉の人の、レイさんという凄い美人さんのことなのです」「……えっと、レイがどうかしましたか?」「騒乱のとき、治癒術士な感じで、お世話になったのです。……それと、とっても優れた魔法使いと聞いているので、その、出来たら、お話したいな、と思ってるのです」
嗜虐、という言葉を体現したような表情の愛娘を後ろから抱き締めて、それは後でのお楽しみでね~、と頬に手を当てると、僕との接触を好んでいるらしい竜娘はすりすりと擦り付けてくる。コウさんとレイが会ったのは、いや、居合わせたのは、コウさんの快復後の、翠緑宮の表口。あのときは慌ただしかったので、レイのことに気付かなかったのだろう。そして、その後も接触はない、と。いや、直接ではなくとも、魔力的な接触はあったはず。然し、レイはスナの「幻覚」で生み出されたもの。魔力自体は、スナのものなので、彼女は気付けなかったーーん? でも、会おうと思えば会えないことはない、となると。
「コウさん。何を隠しているんですか?」「ひっ、人聞きが悪いのです! 魔法使いの耳は、良い耳なのですっ」「……別に、隠すことではないと思いますけど。レイに、魔法を教えてもらいたかったんですよね?」「ふぉ、……ふぉんなこともあるかもしれないのです」「序でに言うと、恥ずかしがることでもないと思いますけど。因みに、レイの魔法の、どの辺りが、コウさんの琴線に触れたんですか」「ーー師匠から聞いたのです。レイさんは、シーソさんを抱えて、地面を滑っていったのです。私も、魔法で同じことが出来るのです。でも、私には、レイさんのように、地面を傷付けずに滑走するのは無理なのです」「魔法を使えば、コウさんにも可能ーーなんでしょうけど。僕には、その辺のことは詳しくわかりませんけど、きっと魔法の技術とか、熟練度とか、レイのほうが数段、上だったと?」「……ふぎゅ」「人見知り、はだいぶ直ったので、尻込み、なんでしょうかね。得意の魔法で、人に教えを請う。コウさんの魔法は、威力に於いて他の追随を許していませんが、技術的に未熟なところが、大雑把なところがある。つまり、教えてもらっても、上手くできる自信がないんですね。えっと、中級くらいまでの魔法なら問題なく使えているんでしょうから、そこは虚心坦懐に、恥も外聞もかなぐり捨ててーー」「ひゃむっ」
スナが僕の指を甘噛。あむあむあむあむ、と以心伝心。どうやら僕は、娘から愛情の深さを試されているらしい。指を噛むときの強弱や速さ、ちろちろと触れてくる舌の、冷たいようで生暖かい、背筋を震わせた、不快なようで甘い刺激を伴った……。
「父様は、まだここの娘を買い被っていますわ。女心、ではないですわね、甘ったれた、未熟でこまっしゃくれた、ただの背も度量も小さな(ちんちくりん)娘なのですわ。あそこの娘は、魔法以外は、人より劣っている部分が盛りだくさんなのですわ。でも、誰にも負けない魔法があったから、自身の心を偽り、誤魔化すことが出来たのですわ」「「…………」」
……コウさんに関する、割と真面目な話のようなので、竜にも角にも、スナの唾液で、ひんやりした指を……げふんっげふんっ、いや、乾くまで触れないように、心掛けます。
「ふふっ、そこに現れたのがレイ。どんくさいそこらの娘と違って、社交的で華やかで、洗練されていますわ。その知性に加え、料理を始めとして、芸術分野に至るまで、称賛以外の言葉を聞くことはない、完璧という言葉の具現。魔法という絶対の盾が壊されたとき、あれらの娘には、現実が突き付けられたのですわ。レイのほうが女として格上、心がすかんぴんでは比較の対象にすらならず、みすぼらしさだけが際立ち、これまで直視せずにいられた、魔法で相殺することが出来ていた、あらゆることが白日の下に晒され、自らの分、というものを、魂の底まで刻み付けられ、思い知らされたのですわ」「「ーーーー」」
王様は、俯き加減である。もう誤魔化そうとかどうとか、そんな気力もないようだ。目隠しぷらす真綿で首を絞めるような(ひとえにじじつだけをかたる)スナで、当人は気付いていないらしい、どんどん頭が下がっていって、鼻が卓に接触して。頭を上げるでなく、額を付けて、体から力が抜けて、動かなくなってしまった。魔力放出には至らない。スナではなく、僕が見破って語ったなら、「やわらかいところ」を刺激することが出来たかもしれない。然う、今回は、ここが重要なのである。スナには大凡のことは伝えてあるので、先ずは軽く、試して(いじめて)みたのやも。
「……、ーー」
落ち着いてもらうつもりが落ち込んでしまったが、まぁ、似たようなものか、ということで先程話しそびれてしまった主旨の話をしよう。
「これから先、僕が他国へ赴いたり何らかの面倒事に巻き込まれたりするなどして、しばらく竜の国に戻ってこれない事態が発生するかもしれません。間接的というか、コウさんの側の意識の問題というか、これから幾つか試してみようと思っています。例えば、手紙を残しておいて、それを読んでもらいます」「……そんなことで、どうにかなるのです?」
コウさんの頭が、ぴくっ、と揺れたが。未だ卓に突っ伏したままである。さて、次の言葉は、顔を上げてもらえるくらいには意表外な内容だと思うのだが。
「例えば、その手紙には、コウさんを賛美する、アニカラングルに捧げるような、詩が書かれています。とっても恥ずかしい台詞とかが、ふんだんに盛り込まれています。或いは、手紙には指示が書かれていて、その通りに動いてもらいます。クーさんに告白したり、老師に甘えるものだったり、猫の真似をして、みー様に可愛がってもらう、というのも捨て難いですね。僕の命令で動かされることで、効果があるかもしれません。他にも、『遠観』の窓を通しても問題ないかとか、確かめてみようと思っています」
んぎぎぎぎぎぃぃ~~、と女の子はご開帳、ではなく、お目見え、も違うような。竜にも角にも、精神的な疲労の所為か、椅子に凭れ掛かった魔法使いにとって、これからの予定、「やわらかいところ」対策の進化、もとい深化は、寝耳に水竜だったようだ。
僕の言葉を正しく理解したらしい、頬がほんのり赤くなっているが、コウさんは自覚しているや否や。通常なら、それを指摘して、「やわらかいところ」を擽るところだが、以後の効果が薄れてしまう可能性があるので、心を竜にして話を続ける。
「というわけで、今回の『やわらかいところ』対策は、スナにやってもらいます。僕は、じっと、ここで見ています。そう、見ているだけです。僕に見られることを意識することで、コウさんにどんな変化があるのか、見極めるのがこの度の肝要です」「……お断り、させていただくのです」「そうなると、一竜増えます。見ているのが、僕だけでなく、みー様乃至百竜にも同席してもらうことにーー」「竜に喰われろ、なのです……」「はい。了承いただけたようなので、さっそく始めるとしましょう」
然あらばスナを抱っこして、コウさんの目の前、卓の上に座らせる。
「ふぃっ⁉」
本能的に、だろうか、コウさんは身を引こうとするが、背凭れがあるので、ぐっと体が上がって。足を滑らせて、ぽすんっ。卓に座って足をふりふり、舌なめずりーーまではしていないが、獲物を甚振る準備は完竜。これからのお楽しみの予感に震えて、僕の可愛い竜娘のお顔が、人様に見せられないものになっている。
「ひゃふ、時間は十二分にありますわ。先ずは色々質問するので、きびきびしゃっきり答えるのですわ。答えるのが遅かったら、氷竜ヴァレイスナの華麗にして冠前絶後なる魔法で、『やわらかいところ』以外の、色んなところを刺激してやるのですわ」「それは楽しみだね。視覚を奪われると、それ以外の感覚は鋭くなるようだから。見えないことで予測出来ないから、効果的なんだろうね」「ふぇ……」「ひゃふっ、ひゃふっ、ひゃふふふっ」
椅子から離れた僕の意図を酌んで、怯えるコウさんの耳の中に、氷竜ならぬ邪竜の笑声を詰め込むスナ。さすがに、ちょっと可哀想かなぁ、と思いつつ。魔法使いの悲鳴を聞きながら歩いていって、扉を開ける。あとはよろしくね~、 と手を振ると、死者も甦る勢いで可愛がってやるのですわ~(訳、ランル・リシェ)、とまるで結婚式の花嫁のような幸せそうな笑顔で、両手で振り返してくれる。スナのお尻に、竜の尻尾は生えていないようなので、コウさんの冥福、もとい清福を祈っています。
ーーぱたん。