1.一人暮らしが始まる
恋人に振られてから一週間が経った。目まぐるしい一週間だったと思う。
卵を割ってフライパンの上に落とす。卵の黄身が端に流れていって、白身が楕円を作らずに不細工に形に広がってしまう。
「あー……。うまくいかないっ!」
フライパンを傾けて修正してみようとするものの間に合わなかった。口に入れば一緒だと気を取り直して塩と胡椒を振る。
実家の母が料理をしていたのを真似するように、ふたを付けて蒸し焼き。
出来上がりのタイミングがわからずに放置していたら、焦げている臭いがして慌ててふたを外す。
「あちゃー」
臭いは裏切らない。やっぱり焦げていた。
黄身は半熟が好みなのに、ハードボイルドな固さになってしまった。焦げているところを避けて食べるしかない。
彼氏から久々にお洒落なレストランに誘われて、期待が高まった。よそ行きのワンピースに、美容室でカットしたばかりの髪に、ナチュラルな仕上がりのツヤツヤで薄いピンク色のネイル。これから起こるであろうことの、心の準備は万端だ。
ワインを注いだ店員が下がると、彼氏が緊張した面持ちで口を開く。
「ゆり……別れてほしいんだ」
「……え? どういうこと?」
「君にはもっといい人がいると思うよ」
ずっと心待ちにしていた一言ではなかった。
結婚しよう。そう言われたらどんなに仕事が辛かったとしても、疲れが一瞬で吹き飛ぶというのに。
「急にどうしたの? 冗談じゃあ……」
「冗談じゃない。別れてほしい」
「そんな……。終わりなの?」
彼氏は静かに頷く。優しい彼氏は私に対する不満は何一つ言わない。
原因はすべて私にある。デート中に仕事の電話がかかってきて、顧客のところへ走っていったこと。残業が続いて、構うことができなかったこと。手料理で胃袋をつかむどころか、包丁の一つも握れなかったこと。
「私に悪いところがあれば直すから」と泣きながら言う時代はとうに過ぎ去った。悪いところがあるのに直せないのだ。
去っていく彼氏を引き留める言葉はなかった。
三十二歳になった私に、恋人募集という市場に今さら参戦することができるのだろうか。
お付き合いをするなら年上がいい。同年代だった元彼とは、私との旅行が先約だったのに、友達を優先されてしまって、結局は上手く行かなかった。高望みはできないとはわかっているけれど、いいなと思った人には既に奥さんや子どもがいる。
ライバルは多い。若さや料理という武器になるものがなく、恋人として選ばれる自信はない。
そうだ、仕事に生きよう。せっかく税理士の資格も頑張って取ったのだから。
「ゆりーっ! いつまで寝てるのよ!」
一階から母の声が聞こえる。時刻は十一時。休日とはいっても、さすがに寝過ぎたか。
床の洗濯物の山から、ジーンズとパーカーを引っ張り出して着替える。
リビングに着くと、テーブルに着席する母と目が合った。
「ゆり、話したいことがあるの。そこに座ってちょうだい」
「……急にどうしたの?」
母の目の前に座る。テレビを消した母は殺気立っていた。母は私にもの申すときがあると、決まって付けっぱなしだったテレビを消す。
「朝もちゃんと起きない。服も畳まない。休日に家事の一つでも手伝うのかと思えば、私に任せっきり。これでお嫁に行くなんてどんな口が言えたの?」
「うっ。ごめんなさい」
正論すぎて何も言えません。
「もう我慢の限界。この家を出て行って、一人暮らしでもしてちょうだい」
「待って、家にお金入れているし……」
「甘い! 一人暮らしって、もっとお金がかかるのよ! あんたってば、母親がいると思えばすぐに頼ろうとするんだから」
母の命令は絶対だ。ソファーで犬と戯れる父は「そんなに厳しく言わなくても……」と言うが、「あんたは黙ってて」とぴしゃりと言う。普段は優しいのに、一度怒り出すと逆らえない。
(……家を出るときは結婚するときだと思っていたのになぁ)
私の考えは甘かったらしい。
悪いことは重なるもので、彼氏と別れたばかりの傷心に輪をかけるように、追い出されるという形で一人暮らしは始まった。
家具を一式揃えると、十年間貯めてきた貯金はガクンと減った。お金はいくらあっても足りないというのは本当だ。実家暮らしでは当たり前のようにあった電気、ガス、水道は、私のお金を動力にして回っている。
飢えをしのぐために、まとめ買いしたカップ麺を食べることにした。忙しいときには手軽で助かるし、味の種類が豊富で飽きない。何よりも安価だ。
親から追い出されたと言うのが恥ずかしくて、会社の人には一人暮らしを始めたことは内緒にしている。
青木会計事務所の朝はミーティングで始まる。たくさんの税理士を抱える会計事務所で、日中は監査で出かける人が多くて皆で顔を合わせられるのは朝。税理士も事務員も全員が出席することになっている。
「……確定申告の資料返却はギリギリにならないように、時間に余裕を持って行いましょう。以上です」
所長の一言で会議が締めくくられて、椅子を引く音がする。始業とともに電話が鳴り、事務の人が慌ただしく電話を取り、監査担当は外に出て行く。
「真島さん。顔色が悪く見えますが大丈夫ですか?」
後輩の福留くんに呼び止められて、疲れを隠すように笑う。
「大丈夫よ。福留くんこそ、残業が続いているけれど、ちゃんと睡眠足りてる?」
「僕は体力が取り柄なので大丈夫です。毎年この時期は忙しいですよね」
「ほんとに。もう少しで終わりだから、もう一踏ん張りね」
期限のある仕事で忙しいのは他の人も同じで、心配をかける訳にはいかない。ましてや監査先のお客様には。営業モードに頭を切り替える。
一日を乗り切ったと思ったら、帰りにどっと疲れが出た。会社から地下鉄で二駅で、自宅の最寄り駅。
毎日登っている地下鉄出口の階段なのに足が重い。手すりに体重をかけようとしたら、今度は手に力が入らない。動け、動けと念じるのに身体は脳の指令を無視している。
不調の原因はすべて自分の中にある。
睡眠時間が最近減っていたからか、毎日のようにカップ麺を食べていたからか……。
ふらっと目眩がして、立ち止まった。すぐ後ろを歩いていたサラリーマンは舌打ちをしながら通り過ぎていく。
「大丈夫ですか、真島さん」
後ろから背中を支えられながら、気遣うように声をかけられた。斜め前のデスクに座っている、福留くんの声だ。
「だ、大丈夫……」
妙に安心してしまって、気が抜けた瞬間に意識を手放した。