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虚仮淵の幻~冷やし虚淵はじめました~  作者: 浜野海苔雪
第一章~冷やし虚仮淵はじめました~
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虚仮淵の幻1・7~白妙の~

虚仮淵の幻1・7~白妙の~


 うっすらとアンモニア臭が然の服から漂う。ぐしょぐしょの靴の中敷きを引っぺがし、ぶるぶると振って水を排出してみる。安物の靴下を硬く絞ってみれば千切れてしまいそうだ。詰まり気味の鼻でもいたく磯臭い。じめじめする服を春風と太陽で天日干ししたい、彼女の衣服と並べて。


 川の水でびしょびしょになった髪を乱雑に撫でつけながら異世界を一望する。といっても観測可能な範囲は広くない。橋と僅かな岸辺にぽっかりスポットライトが当てられ、後は闇といった有様。当の橋と川岸分も人相の分別にも苦労するぐらい。無明の闇を照らしていた灯篭もいよいよ弱まってきており、このまま周縁部の暗闇に呑まれてしまいそうだ。コンビニもない、車のヘッドライトもなし。現代社会の明るさにすっかり慣れ切った然にはいささか堪えた。

 手元の栞は和紙越し提灯みたいにやわやわと柔らかい光を発している。

 悲嘆にくれてひとしきり疲れた然は散らかした手荷物を回収するため対岸へ戻ることにした。


 溺れずに済んだのは栞の加護だろうしこれだけ濡れてしまえば泳いで渡っても変わりはすまい、とものぐさ者の頭をちらとよぎったが二度目の奇跡が無事発揮されるかは神のみぞ知る。地に足がつくほうが堅い。橋があるなら渡るに越したことはないと思い直す。

 橋の入り口に立った彼は奇声を発した。

「ありゃ?」

 夢と幻のはざまをいったりきたりでぼやぼやしているうちにいかな手品を用いたのだろうか。橋自体がそっくり別物に置き換わっていた。

 鋼鉄やコンクリート、石などをふんだんに用いた雄々しい橋は影も形もない。代わりに大部分が木造で誂えられた線の細い橋が身を横たえている。お陰で同じ川幅を渡しているのに一回りも小さく映った。

 材質が異なるのは何度も作り直した名残だろうか、違和感の強い苔むす石製の親柱を覗き込む。何度も架け替えられる橋、人柱が求められるほどの橋。水害が酷さをおしてでも交通の重要度が高かったのだろう。付近に栞を当ててみれば細かい傷や変色、腐食。更に老朽化の節すら感じられた。刻まれた名前は擦り減って判別ができない。

 食べ物を供えるため幾度も通っていたはずなのに橋名すら知らない。入り口の親柱に銘板もチェックしないなんて。とまれ豹変は川姫がいなくなったことが影響しているのだろう。願いを託された彼女の名前すら聞かずじまいなのだ。


 然は懐中電灯代わりに栞で橋を照らしながらよちよち進む。一歩を踏み出せば体重を受けてぶよんとたわむものだから、たまらず三歩も戻った。車はおろか運動神経の鈍い然は気軽に行き交えそうもない。落人たちの隠れ里伝説の残る東の山間部にかかるかずら橋もあわやのシースルーウォークが楽しめそうだ。度胸がないのに、試すもなにもない。

 怪魚の戯れでぼろぼろにされただけでは説明がつかない、大嵐や洪水を潜り抜けた直後のようなひどい痛みと橋板の脱落があちこちに散見される。辛うじてかけていられる眼鏡の破損具合とどっといどっこいだ。

「渡り切るまでもってくれよ」

 ややあって手すりにもたれかかりながら四歩。それからも恐る恐る土踏まずが安定する場所を探して歩こうとする。板が破れて開いた穴に靴を降ろそうとする寸前で留めた。

 頼りの手すりも壊れている箇所がちらほらあってその都度、肝っ玉を冷やした。

 責め苦に堪えた華奢な木材は然の一人のちっぽけ存在にすら音をあげるが、なおも役割を果たそうとしているようで痛ましい。勝手な解釈にすぎないが彼女が最期までやり通そうとしているのなら、然も感謝しながら渡らなければと思う。

「ひゃあ」

 気を逸らしていると、なにもない手摺に寄りかかろうとしてふらついてか弱い悲鳴を漏らす。

 小さい歩幅でいちいち確認しながら進んだせいでうんとこさ時間はかかったが然は対岸にたどり着くことができた。アドレナリン切れで体の節々が痛みを訴えだす。


 常夜の帳は対岸ぎりぎりまで降りてきていた。転落の危険が減退した解放感で独白が増える。

 然は地面を散らばった荷物をかき集める。

 やまない雨と明けない夜はないという。果たしてここに朝はやってくるのだろうか。彼女にとって自分が訪れた夜明けの光とはとても思えないのであった。

「いつもの地球じゃないぽいんだよな。金星の自転周期は240日くらいだけど」

 白馬の王子様とはいかなくても、例えば地味で目つきが少々悪いのがコンプレックスで勉強も運動もそこそこにこなせて料理が上手で女性受けが良くて、優しさと度胸があるような人物。

 ナップサックへかたぱしから放り込んだが上手く収まらない。まどろっこしいなあと思いながらもぐちゃぐちゃになったものをひっくり返し、順番に詰めていく。二度手間になってしまった。

 転がったペットボトルも忘れず拾う。有象無象の荷物の中でもっとも重要だと思ったのはこれだけだ。へばりついた砂粒を手で払い、硬く絞ったハンドタオルで拭いラベルを剥がす。


 粗方、荷物を回収して立ち去ろうとした然はなにかを蹴っ飛ばした。栞で照らして謎の物体を追う。

「モデルガン、発砲できるからエアソフトガン?」

 フード男の得物。ご自慢の対人外用武器を置き去りにする適当な理由が浮かんでこない。テロリストの路肩爆弾みたいなら蹴っ飛ばした時点で作動していると思いつつ、顔を背けながらスニーカーの爪先ちょちょんと改めて小突いてみても何事も起きない。

 ひょっとしてどこか壊れたから捨てたのかもしれない。警戒を解いた然は手で拾う。

 映像の中でしか知らないものだが実銃より多少なり軽いようだ。詳しい動作形式や区別を知らない。ネットで検索しようにも電池切れ。適当に弄っているうち部品が脱落してかちゃりと地面にぶつかる。驚き、ぴょんと後ろに飛びのいた。爆発はしない。栞で照らすと落ちたのは弾倉のようだ。

「どんくさいなあ。ゴムとか貼ってないのに落としても大丈夫だったかな」

 誤ってリリースボタンを押してしまったようだ。弾倉は空っぽで小さな穴が開いている。銃弾は収まらずBB弾ほど。今度は誤って引き金その他に誤って触れないように注意する。セーフティレバーなどはどちらがロックで解除なのかわからない。

 

 気を取り直して銃を観察する。それはプラスチックを多用した自動式拳銃を細部まで忠実に再現したものだった。実銃の管理がとても厳しいこの国では訓練用の精巧なものを使っていると聞くし、その類の高品質モデルと推測した。目立った破損箇所はないだけに高級品をほったらかしにするとも思えない。単に弾切れで放置したのだろうか。

 川姫の命を奪い、鮫型怪魚に重傷を与えた武器だけに引っかかる。

 栞と異なり特別に籠められた力というか霊威は伝わってこない。使用者の才能が必要、もしくは特別なエネルギーが切れた。はたまた弾側に特別な仕掛けあり。対応弾があれば再利用できるかもしれない。

「こういうものが好きそうなのは誰だっけ。FPSにはまり中の武野、いかにも男兄弟の影響が強そうな稲坂? おじさんがマグナムハンドガンを愛用云々っていってたし。カナダ在住とかかな。ログハウスや車に猟銃を備えつつ、肌身離さず護身拳銃としてもっている、みたいな?」

 その後の話を有耶無耶されたのでよくわからない。密林の蛇、って名前だったかな。ネット検索止まりの然はその大型拳銃が狩猟に伴われるいかつい代物だと知っている。フィクションの世界でも凶悪にぶっぱなすパワーの象徴。男子の心を痺れさせる。

 振りかざされる正義の鉄槌を逃れる術がない然。二度、三度と火の粉が降りかかるかもしれない。弾は入ってないが脅しの種ぐらいで持っておいても損はないだろう。刀に銃に妖怪と、この国も物騒になってきた。某国のお達しか銃器規制が緩まるかもしれない、と武野がいっていた。

「ライフルが命を奪うのではない、人が命を奪うのだ、か」

 瞼を閉じ、丸腰のフード男と勝ち誇って銃を構えるチンピラ風の自分を思い浮べる。セーフティがかかっているぞと不備を指摘されて、確かめている隙にコテンパンに叩きのめされる姿がまざまざと映った。

「配役に違和感なし」


 然は往路でかかった半分の時間で対岸に戻ることができた。川姫が着ていた襦袢の周りは薄赤の水溜まりになっている。傍らに膝を落として襦袢をぎゅっと絞る。ぼたりぼたりと雫が落ちた。

 そうやってかさを増した水溜りを両手で掬ってペットボトルへ移す。数十回以上繰り返せば半分ほどの分量になった。蓋をきつく締めナップサックへそっとしまう。襦袢も不器用に折り畳んでから帯で括ると肩にかけた。

「一緒に帰ろう」

 そう呼びかけたものの、どうやって帰ればいい。外界と断絶されたここで。栞を眺めてみるが光る以外の効能を示さない。フード男がさっさと撤収したのだから出口はあるはずだ。

 とりあえず然は闇の向こうにいってみた。戦々恐々と闇の領域へ踏み出す。いきなり奈落の底に落ちたらどうしようと思ったが、地面は堅かった。踏み固めても崩れない。抜き足差し足、栞で周囲を慎重に確かめようとしたが浮かんでくるものはなし。お化け屋敷の順路を進むみたいにどこで異変にぶつかるのかと肩をいからせながら歩く。

 進行方向の先、さらさら川の流れる音。もしやと出口と思い歩を早めればそれは次第に大きくなっていく。

 ぼろぼろの橋が見える。どうやら反対側の岸に戻ってきてしまったようだ。

「フード男にできて自分にできないはずが……あるな、うん」


 頭をぽかぽか叩いても木魚と同じでぽくぽく乾いた音もせず痛いだけで妙案が浮かばず。夢の語らいからヒントをひりだそうとするがちっとも浮かんでこない。

 体育座りでせせらぎを耳にしながら、ロビンソー・クルーソーみたく途方に暮れる。ひょっとしたらずっと出られないかもと然は思った。追い詰められた瞬間に秘められた能力が覚醒という定番イベントが発生しない辺り、主人公でもないようだ。お客様待遇の自動車教習でさえ遅々として進まぬのに特殊能力に開眼するあてもなく。彼女は幻の世界において人は片割れの鏡で、自分の幻を写しているといっていた。フード男は自信満々で然に投げた半分。

 それが扉を開いてくれないのだろうか。正直、あまり戻りたくはないという気持ちはある。

 合わないサイズの木靴を親切心で薦めてくる世界は疎ましい。いるだけでどこまでいっても迷惑な人間。またそれか。まだそれか。青臭さに鼻で笑った。

 だけど今だけは少し戻りたいとも思っている。

 名も知らぬ女性と帽子の男の静止画像、元いた世界の景色が映っていたが今はもう見えない。帽子男はまだ冷静だったので大事に至らないだろうと思いたい。胸だか胃だかがうずうず騒ぐ嫌な予兆。不甲斐ない身で託されてしまった。心の傷がまた開いたらしい。

 前途洋々を疑わない覆面の自信家と違い、然のどんよりとした不安は晴れない。左手にある灯火をまじまじとみつめ、水面に視線を戻す。

 フード男に代表される善良で勤勉な人々が彼女の断罪を正義と思っているのなら他に遂行する者はいないのだから。

「いつまでも過去にしがみつく人間なら余計に帰って願いを叶えなきゃ」

 川に落ちてやってきたのだからそこへ飛び込んで奥まで潜ってみれば戻れるかもしれない。然は気持ちを落ち着かせようと彼女の冗談を復唱する。

「貴方が落としたのは、金の、それとも銀の……ぎょええ!」


 水面に魚の顔が浮かんでいる。立派なお髭の色彩鮮やかな鯉だ。

 暗い中でも姿形をはっきり認識させるほどで、川姫並に場を仕切るだけの力をもっているらしい。然と怪魚は水鏡ごしで見つめ合う恰好になった。然は警戒対象を発見して固まる猫になる。観光地で泳ぐ鯉と変わらずひれをぴらぴら、口をぱくぱくさせ、然の間抜け面を眺めていた。頭の紋様は人面魚っぽい風合い。赤黒白の三色なので歌舞伎寄り。

 とても平和な光景で然も麩をちぎってあげたくなる。鮫型怪魚にも引けをとらない体格でさえなければ。大きさに見合う餌はない。強いていえば然自身。空腹の人のため火中に身を投げ出すほど人間できていない。

 こいつら非現実らしく活きがいい。次のアクションはなんだ。頭から丸呑み、接吻、あるいは頭突きか。然の総身から汗がどどと流れた。奇妙な沈黙を続ける両者。

 堪えられず視線を逸らしたのは然だった。足元に蜘蛛が這っているのに気付いた時みたく急速に後ずさる。と怪魚も猛烈な勢いで大きな塊を吐き出す。避けたと思ったた然に見事着弾した。


 下敷きになった然は渾身の力でそれを押しのけた。フード男は心配蘇生用の人形みたいにだらんとしている。覆面は剥がれておらず外傷も見当たらない。

 エリートのUターン。彼で駄目なら然はどうやって娑婆に戻ればいいのだ。

 口元に顔を近づけるが呼気は感じられない。

 こんな時は水を吐かせて人工呼吸だろう。然の顔に影がさした。大人しく暮らしていた彼女を一方的に糾弾、挑発し断罪をした無慈悲で憎たらしい男。

「ふへへ……ねえ先輩。死ぬ気の努力の手本をお願いしますよ」

 だらしない無防備な姿を晒したまま、烈火のように有無をいわさぬ反論はない。目を見開き牙を剥く、首筋の血管を筋立たせ悪相を露わに、抑圧された暗くねじ曲がった未整理な思考を吐く。血走った瞳。醜い闇の言葉。

「先輩みたいな巨大恐竜の皆さんには、闊歩する灰色の森林で足元をうろちょろ走り回って暮らす哺乳類のような俺たちはさぞ目障りだったでしょう。巨大隕石が落ちてきたって自己責任、自業自得。適応できなかった奴が悪い。あんたのタフなルールなんですね? 先人は谷に突き落とすのを愛というのでしょう」

 烈火の如き正論は返ってこない。

 癪だけどあの子も助けてあげて、と彼女はいった。然は握りしめていた栞をポケット深くに埋める。

「誰かの世話になり通しの身で自己責任と抜け抜けいい放つ。はい、落ち目になった相手に意趣返しなんて器が小そうございました!」

 然は四の五のいってから決断した。


 彼の命を救えるのは自分だけ。川のほとりにAEDはない。大学図書館から走ってもってきたい。運転教習でとにかく習った通りを再現する。しかし水の吐かせ方は教習内容に含まれていない。機転の利かない然は焦る。

圧迫点の位置が厳密にわからない。

 心臓マッサージ、人工呼吸。重たいトレーニング専用の人形は不気味の谷をもう少しで越えられそうな美しい女性だった。あの異様な細部への拘りこそが我が国らしい。

 断トツの要領の悪さを誇る然にとって自動車教習は地獄そのもの。あんな危険な物体を高速で走らせねばならない地方の車社会め。ウィンカーは出さずとも曲がるぐらい察して当然、それが平木県。川辺曰く交通マナーは最悪最強。なぜオートマ限定にしなかったのかと己を呪う。

「三十回押して、気道確保の後、二呼吸だっけ。男子同士がいちゃこらすると腐女子の皆さんが捗るな」

 気がかりだがとにかくやった。マスクをつけたままなので抵抗は若干なり薄れるがそうもいっていられない。ファーストキスは不本意だった。


 マッサージと人工呼吸を交互に繰り返す。

 期待した反応がなく然の焦燥がいよいよ深刻になりかけた時、フード男がちょろっと水を吐いて身悶えした。今度は間に合った。髪に滴った川の水だか、額の汗だかが混じってもうわかりはしない。

「よかった」

 しかしフード男は弱った腕で然を強引にはねのけた。

「気持ち悪い。どけ」

「それはあんまり」

「よかった、じゃねえよこの低能力野郎」

 上半身を起こした彼は怒鳴る。怒鳴ってからごほごほせき込む。

「まだあんまり興奮しない方が」

 然は背中をさすってやろうとした。しかしまた腕を振り回されたので然は後ずさる。

「触んな。余計なお世話だ。そもそもてめえのせいを助けてやったという素振りが気に食わねえ」

「ああ、はい。すいません。でもまず無事でなにより」

「まずもなにもない。全て自力でやれたんだよ」

 起き抜けに怒るぐらい元気なのは流石といえた。服がずたぼろになるだけで戻ってこれたのは奇跡だ。それによく息が続いたと思う。然は釈然としないが、頭を下げなければ収まりがつかなそうな雰囲気に従った。

「てめえこそ、なんで生きてるんだ」

「運がよかったのかと」

「俺の腕前がよかったからだろ! この恩知らず」

「そうでした。すいません」

「芥川の連中はどいつも糞。俺は選ばれし者なんだ。じめじめした落伍者共の牢獄で慣れ合うつもりはねえ。絶対に脱出してやる」

「俺は鮫っぽい奴に齧られたのに、先輩はほとんど無傷ですね」

「当然の実力だ。口の中からぶん殴ってやったのさ」

「流石です」

 然は腑に落ちていない。性格上、些細な点がどうも引っかかる。不味かったのだとすれば次に襲われるのは、鮫に齧られた然であってもおかしくないが襲ってはこない。


 フード男は胸をさすりながら、川岸から離れ体の半ばを闇に溶け込ませる。

「おい、黙りこくんな。考えがあるんだろう?」

 生唾を呑んだり深呼吸を繰り返す。

「いえなにも。しばらく休んでいた方が……」

「おい。人が調子悪いのにどうして間抜け面のままでぼやっとしてたのか。思いやりはないのかよ」

 そういわれても困ってしまう。おずおずと然は尋ねてみる。

「先輩の具合がよくないみたいなんで早く脱出したいんですけど。橋を渡っても反対側に出るだけで埒が明かないです。岸に沿って歩いていくのはまだ試していませんけど。川底に出口はありそうですか? 落水してこちら側にきたならもしかしたらと」

「ちっ、全部知ってる、使えねえ。川底に光があった。だが奴に邪魔をされた。もう少しで手が届いてたんだ」

 魚影は然たちの周囲から離れない。照明が落ちかけている中でもそいつは川姫みたく特段強い気配を放っている。

 食糞や吐き戻しでもあるまいに、放り出したフード男をまた食うとも思えない。であればかじられた実績のある然が次の標的。なのに一匹目と違い積極的に襲いかかってこないのが薄気味悪い。


「そうだ。貸してやったナイフはどこいったよ?」

 然は言葉を濁した。

「怪魚と死闘をした時、口内にぶっ刺したままです」

「もう失くしたのかよ。訂正しろ。あれは俺が倒した。物を大事にしない野郎だなあ」

「そうでした」

「ったくハイエナ野郎が手柄を奪おうとしやがった。油断も隙も無い」

「それでよくあの会長の覚えがめでたい武野にすり寄ったもんだ。あいつが女に興味がないって噂もあながち嘘じゃないのかもな。夜な夜な可愛がってもらってんのか子鹿ちゃん?」

 エアソフトガンを回収した事実を話すべきか迷う。

「違いますよ。荷物を拾い集めて逃げ帰ろうと思ったんですけどね。役に立ちそうなものはなかったです」

 然は嘘をついた。

「ふん、どうだかな。嘘とサボりはお家芸の子安君。疲れているからって妙な気を起こすなよ。素のスペックで勝てるなんてうぬぼれもいいところだ」

 然が大した武器をもっていないのを確認してからフード男はいった。

「激闘で銃を落とした。いっておくが弾は入ってない。俺は予備をもっている限り、隠しても無意味。他人に頼らないと生きていけない子安君がたった一人で化物魚をいなして川底の出口に辿り着けるのかい? 無能は有能指導者のプランを遂行する他ないんだよ。作戦は成功したろ。そこんとこをよくよく考えてみるんだな」


 言葉裏腹、フード男は弱々しくむせる。まだ悪心は収まらないようだ。

「なんでバッテリーぐらい持ち歩かないんでちゅ。どんな教育受けたのでちゅか」

 携帯の電源が切れているから灯りがないと答えたら、フード男はまたかとため息を発すると胸をさすりながら携帯のライトを上からかざす。

「どうも明るくなりました」

「俺は子安君の友達じゃねーぞ! バッテリー切れたらお前の札を燃やしてやるからな」

「法律違反じゃないですかそれ?」

「真に受けんなタコ! そうなる前に探せって意味だよガイジンか! ニュアンスぐらいわかれ」

 然は発せられた命令に従って岸周辺の地面を這い、手探りで捜索する。

 木の茂みや物陰。拾得物は然の背中なのだからいくら探そうがあるはずもない。

「大丈夫ですか」

「誰のせい? 腕がだるい。もうすぐ疲労骨折するな。気遣ったふりをされても貧乳に色目使われたぐらい癒されない。これが終わったら特別個室に入院したいぜ。幸いナース服は嫌いじゃないんで。丈がうんと短い薄紫色のな」

 煽り文句を真に受けさせて感情を乱され意のまま。そうはいくものかと然は己に言い聞かす。憤懣が顔から洩れる。

「欲しいものがあったら手足をばたばたさせる以外にすることあんだろ餓鬼か。嫌いな相手だろうが互いの利益を考えて動くのが社会人。いいから無駄口叩いてないでさっさと探すんだよ!」

「好きよ好きよも嫌の内」

「心底人様を舐めてんなてめえ。人が真面目にやってんのに茶化して楽しいか。ふざけんな」

 黙っていた然は罵声を浴びせられた。


「鈍間、まだかよ。営利だったら大損だぞ。誰の命中弾が致命傷になったから助かったんだ。命の恩人に報いようという気持ちを示してくれよ、さあ」

「やっぱり落ちたんじゃないですか?」

「だからさあなんですぐ諦めんの。勝手な判断すんの。普通はちゃんと上の指示受けるよ? 必死に頑張って出来るようにします、が正答なんだよ。ああ無理無駄緊急入院。喋ると毒気で耳が腐る。美人ナースにストレス疾患を処置してもらいてえ」

 お目当ての品はナップサックの中だから然は早く諦めて欲しい。フード男は緩慢な然の動きに苛立ちを増している。

這いつくばって両手で探索する然にフード男はエールを贈る。

「少し考えて予想。予測運転だぞう。ちょっとは考えてよ小僧、低気圧発展途上運転試乗お前異常、山の古城うっそう誘う慕情、雨の予報なんか降りそうだ天候不良。風が誘う一層きそう、ワイパ振ろうレインバトル競う。隣歩行車徐行。さあ傘さそう♪」

「おいなんかいえ、素晴らしい俺様へのリスペクトは?」

 フード男は後輩の無味乾燥がもっとお気に召さない。

「あんまり雨が降らない土地からきたのですいません」

「すいませんはてめえの方言かよ。どこ地方だよ」

「大山です」

 面倒臭そうに答える然。灯りを提供する行為を無下にする出来の悪い後輩を視界に入れるのもうんざりしていた。溜まる嫌な唾を吐きながら然に尻を向け川の様子を警戒している。

「通りで腑に落ちた。日本のハレ公こと酷薄無情な大山県民様。やっぱり本土の都会人は田舎者と違って洗練されてるなあ。こんな漂着物を送ってくるとは人が悪い。さっさと探せ甘ったれ。糞魚に尻をかじられたくなければな」


「ナップサックだな。なあ、一生懸命どたばた騒いで真面目を装う天才詐欺師の子安君。本当にないんだろうな?」

 然は肩をびくっと震わせた。獲物を追うことに心躍らせる狩人のようにフード男は畳みかけてきた。フード男はせき込む。

「だから二束三文の教科書と遺品ですよ」

「だから、だと? 誰に口きいてるの。判断を下すのは俺。信頼を裏切るんだな。まともになるのに何年待てばいいんだい、千年かい? 何歩譲歩すればいいんだい、百万歩かな? ねえ、なあ、おい」

 然が傍らに置いていた襦袢を括る帯を強引にひっつかむ。腕を川岸へと伸ばす。襦袢が水に浸かる。

「ならこっちも考えがある。お犬様以下の君らに合わせてやろうじゃないか。そうでるなら相応の対応に変えるだけだ」

「やめてください。遺品に罪はないでしょう?」

「やめない。人道主義者に付け入って死者の尊厳を盾にとるなんてなあ、ハレ公のお仲間らしい常套手段だ。残念あいつは駆除対象の害虫だ。仕方ないだろ、鈍間な子安君が見つけてくれないのだからセカンドプランしかない。大事な遺品を鯉の餌にするのはとても人格者といえないな。そいつの菩提を弔ってやりたいなら本気でやってくれ」

 フード男は襦袢を水に浸けると帯を揺らせば鯉型怪魚が悠々と水面を大きく跳ねた。


「子安君よりずっと使えるじゃん、お前も負けてる場合じゃないだろ。頑張れよ」

 その後も近辺を魚影がうろつき好機を窺う。

 然はいわれた通り、ナップサックを開けて逆さにする。分厚い本が引っかかりながらごとごと落ちていった。その中にお目当ての品もあった。横さらいに拾う。

「予想通り、騙したな。ああ、胃が余計にむかむかしてきやがった!」

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