虚仮淵の幻1・5~白玉の~
虚仮淵の幻1・5~白玉の~
「出来ない者同士、知恵と力を出し合って協力しましょう。背負ってるものを見せて」
「勉強道具だけだよ。打開できる武器なんて都合よく持ち歩いてなんて」
「いいから。あの人に私の力は預けません。充分お強くて独力で全てが出来るのでしょうし」
然は理由を尋ねるがナップサックをひっくり返す。重たくかさばる教科書がどさどさ落ちる。後はノート、筆記用具。飲み干したけれどゴミ箱を見つけられなくて入れっぱなしの、底に少し残ったペットボトル。彼女の反撃に使えそうなものはどこにもない。
フード男は二人の悪あがきに欠伸を漏らす。水面に映る帽子男をみて舌打ちした。
「ちっ、ったく。ミサイルでも積んでりゃいいよな。人がそれ以外か見定めんのに時間かかりすぎ。人でも胸糞悪いハレ公なんかやっちまえばいいんだ。こりゃ俺がおっさんの上司になる日もすぐだな」
解せぬと大げさに肩をすくめるフード男。付近にある小石を蹴って川に落とす。
「おーい、おばさん。男見る目ないね。なんで甘やかせてつけあがらせるかね。そういう奴は突き落として学ばせなきゃ。お互いにみっともない傷の舐め合いはやめとけよ。そういうの一番ムカつくんだわー」
川姫はフード男に返事をしない。ひっくり返した荷物から使えるものがないか探しながら然を諭す。
「気にしないで。天秤みたいに心が揺れ動く場所だから。いくら大義名分があっても黙って狩られてやるもんですか。人様が見守っている橋に押し入ってきて狼藉をしたと思えば庭先までやってきて、失礼よ」
「あいつが正義の味方で、俺が野放しになっていた小悪党で」
「ここは夢と現の挟間。心の奥底に隠していた本音が強く出るもの。酔っ払いに絡まれたと思いなさいな。真に受けたってやめはしないでしょう」
「そんな」
「貴方や私も多分悪酔いしているのよ。独りきりで悲しい夢を見ているつもりになっている」
然は苦虫を潰したような顔をする。力を培ってこなかった身を悔いていた。
「貴女を連れてあの鬼みたいな奴から逃げられるならそうしたかった。今更なんですけど、心の中で川姫さんて呼んでるんですけど、橋姫さんとか雌河童とか候補で読んだ方がいいですか?」
「あれは……白玉かしら?」
川姫はふと宙を見上げ、口元に細い指をもってくる。
「え?」
唐突な言葉。然の脳内辞書がぱらぱらめくられるが真面目な状況に当てはまりそうなものがでてこない。まさか白玉団子ではあるまい。
「食べてみたかったの。あの店先の見本、平安貴族の飯盛りみたいなのね。あんな大きいのは通えるお店に置いてないから」
「ああ、そっち。パフェみたいな?」
「そうそれ」
「白玉はトッピングのひとつですけどね。それってとっかかりになるのかな……。コーンフレークとかアイスとか、チョコやらてんこ盛りにしてるのがありますね。今のシーズンだとどんなフルーツが載るっけ」
「貴方とね。一人じゃ恥ずかしいから」
顔色の悪さとぎょろめの恐ろしさと強張った頬で無理に口角をあげていた。
「なれ合い結構子安君。けど景気づけに食われちまうぞ?」
フード男の煽り文句にぎょっとする。今度はわざわざ便所座りにシフトしてこちらの話に聞き耳を立てていた。
それは誤りだと思う。しかし少しでも反応してしまったのなら自分のせいだ。こんなものがあるから自分は外見で、重箱の隅をつつくような粗探しで人を判断するのを楽しむようになるんだ。ぼやけてしまえ。然は乱暴に眼鏡をむしりとった。
砂嵐混じりの低解像度の裸眼視力は然が認識できる世界を阻め隔絶させる。当たり前というものが取っ払われて不安になる。しかし映る彼女はおっとりした優しいお姉さんといった風情でにこりと笑いかけてくれている。
「無視すんな? おーい。負け犬同士慣れ合って楽ちそうでちゅね。忠告を聞かないから成長できねえんだ。俺の悪口いってるんだろ。戸締りしない管理不足のおばさんが悪い。ゴリラが裁判長でも勝訴できる自信あるわ」
干していた服を身にまといフードを被る。
「けっ、まだびちょびちょかよ。速乾じゃねえとか使えねえな。だがよう。ぶち潰すって前のルーティンは大事でよ」
「あった」
「え?」
「それを引き抜いて」
然は指さされた先を見る。分厚い教科書が夏の蛍ほどの淡い光を発している。かなりの抵抗を感じながら、漬物石並のいかつい本から挟まっていた栞を引っこ抜く。薄い金属でできていて角度や温度、太陽光など諸条件で表面の紋様が変わるとても凝った品だ。古本屋で記念にもらったノベルティ。
ピークタイムを乗り越えて休憩中のちがさきの若大将は、栞を裏から見たり表から見たり、灯りにすかしたりしながらこう評していた。
「子供の頃に集めていたキャラクターもののキラカードみたいだ。前から復刻ブーム流行ってるよな。最新技術でレトロを表現しましたってところ?」
「今もありますよ! 大将」
隣で飯を食っていた守田が反応する。頬にチャーハンをくっつけたまま、びしっと立ちあがると煌めくカードを外連味溢れるポーズと共に披露しようとした。けれど弾みで食卓に膝をぶつけて呻いている。然たちは彼が気を取り直すのを待った。
「俺は負けん。オドリャンが108とコラボしたキラカードです! ご照覧あれ! 正義の鼓動が木霊します」
守田からカードを借りてしげしげと眺める大将。然も若大将の隣からカードを覗く。ビニールケースに収納している辺り、とても大事にしているようだ。ご当地ヒーローは守田がしてみせたのと同じポーズを決めていた。派手な鶏冠と尻尾をサンバカーニバルで踊っていても違和感がない。
「煩悩の数を英語読み? カードゲームみたいだね。最近のは凄いんだろ、チップとか入っててホログラムがでるんだって。高そうだなあ。子供が生まれてせがまれたら大変そうだわ。買ってやらなかったら友達から仲間外れにされそうだし」
生まれていない子供の心配をする大将。
「あー。確かにそうですね。クリスマスの玩具商戦みてると大変そうですもん。変身ヒーローの玩具の数ときたら。なあ守田」
然は頷いてみせるが内心は結婚できるはずもないと後ろ向きに考えていた。
「様々な形態に変身するためのキーアイテムが大量に売られています。ロボットものもしかり。コレクション魂を刺激しますね!」
「なんだそうです。とにかく化身しまくるとか、手足も武器もてんこもりとかインド神話めいてカオスだなあ」
「ほうほう。へえ、うちも親子、孫と二代、三世代でご贔屓にされるよう昼も夜も張り切ってるんだが」
彼は複雑だといいたげにため息をつく。意味深な発言に然は想像を逞しくしたがあえて触れないでおいた。人生のパートナーを得るなど羨ましいこと限りないが独り身には独り身の、夫婦には夫婦の悩みがあるのだろう。
「あー俺の頃もあったけど。で108というのは煩悩の数だけ変身ヒーローものなのかな?」
「いえ108はカードゲームです。つまりオドリャンも109人目の好漢認定なんですよ。己が身を燃やしながらも飛ぶ不死鳥の如く! 俺もかくのごとくありたい」
「体育館でスライディングしてたね。体操服を摩擦熱で溶かして」
「バーニング……バーニング……ぐっ! しっくりない」
必殺技名が思い浮かばないらしい。熱いのは自分だけの気がする。
「俺は安全無比なのがいい。長距離ミサイルのスイッチだけ押す係とか」
「否。必殺技はリスクと背中合わせであるから燃えるのである! 己の拳を用いるから相手の痛みが伝わるのだ、互いに痛みを受ける間合いで応じるからこそ。バーニング……博士いい言葉はないのか、思いにドイツ語で」
武野は食後の読書に夢中だった。守田に脇を擽られても平然としていたが再三再四の要求にようやく重い腰をあげる。
「たーけーのー」
辞書をぱらぱらぞんざいにめくり彼は命名した。
「ハクセブランド、どうでしょう」
「おう、いいぞ! 次から叫ぼう!」
「どんな意味?」
読書に戻ろとする武野に然は小声で尋ねる。
「すね肉、火事です」
「おう……」
文法も無視して単語だけ抜き出した気がする。守田はこれからもすね毛が焦がしそうになりながら技名を叫ぶだろう。彼に守田ほどの情熱はないらしい。
「痛いのは嫌だ。エンタメの中だけでいい」
「おい子安! この冷ご飯め。貴様はいつも熱量がたらんのだ。炒しようぜ!」
「茶? いや殴られる方が絶対痛い。俺は褐色矮星みたいなもんなの。パワハラかと」
「ああ……子安、諦めるのがはやいぞ。いつか貴様の心をぐっつぐつに煮込んでとろとろ叉焼みたいにしてやるのが俺の友情だ!」
「守田怖い」
「燃やしながらってロケットだねそれ。百二十まで生きて土星旅行したいっていう子もいれば。キラキラした奴は子供受けがいいんだろうね。おじさんになってくると凄く文字が読みにくくてね」
和気あいあいとした掛け合いが懐かしい。何十年の前のようだった。
然は今こそカードゲームに登場するような強力なヒーローの出現を願わずにいられない。
DNAの二重螺旋を思わせる二頭の蛇が交錯するデザイン。川姫はこんな玩具を持ち出してどうするつもりなのか。栞からヒーローは浮かんでこない。
川姫が促すので然は栞を手渡した。
「あるところにあるものね。思い出のよすが」
「ネタの神がついているといわれるくらいで。やけに意味深な出来事が連続してこじつけたくなったり。なんなんですこれ」
手のひらで凝視してから強く握る。
「ずっと勇気がなくて」
彼女の在り様が変質してしまうもの。彼女が重大な決断をし、なにがしかを自身に託そうとしている。きっとフード男を退ける秘策。両肩をぐいぐい掴まれて揺さぶられたでもしたようだ。
「最期の挨拶じみたもんはやめません。まだ初対面でろくに話も信頼関係もなにもあったもんじゃない。そいつで重大な決断をするみたいですけど説明も受けてすらない。いっそ二人で逃げましょうよ。川に落ちるなり、スポットライトの外までいけば早々素人が拳銃を当てられるもんじゃないはずで」
ためらう然。
「あら。随分と大胆なこというのね坊や。私と手をとりあって駆け落ち?」
「茶化さないでください。おぶってでも人目につく明るい場所へ」
相手が橋を走って渡って追いつかれるまでに元の場所に戻ってコンビニに逃げれば、度を越した悪ふざけが防犯カメラに映る。妙な場所の空気に酔ってどこか頭のねじが緩んでいる今はともかく、ずる賢そうなフード男の頭がしゃっきりしてくれば証拠が残る真似はしないはずだ。
「まあ。おばさんは汁気を含んで目方が重いからやだわ」
フード男が大声で割り込む。
「まてまて血迷うな。訂正の機会をやるよ。武器を捨てて投了しろ。そしたらそいつをお家に帰してやっから、ようく考えてみろな? やけっぱちになっても妖怪風情が勝てはしないぜ。やけっぱちで駄馬にかけて万馬券狙うのか? なあ人はよ逃げるとずっと逃げ続ける羽目になる。追うのをやめはしない。寝床に戻ってきて安らかに眠れる日が訪れると思うなよ。すぐ諦める子安君と違って、喰らいついたら離さない。必ずものにするのが俺のやり方だ」
「逃げ慣れてる!」
「開き直んな愚図。追われる価値すらなかったからだろ」
「企むなよ。お前らみたいにずるしか考えない奴がいるせいでシステムがややこしくなっていくんだ。所詮、俺とお前らじゃ見てる景色が違うんだな。人の未来を背負う俺と人の足を引っ張るお前らは相いれない。真面目で善良な俺たちをせせら笑うろくでなしがうじゃうじゃと。ごみは大人しく処理場にいって焼却されるべきなんだ」
「あの人もね生きているから色々あるんでしょう。居酒屋で喋っているおじさんたちのぼやきと似たり寄ったりだもの」
「え、居酒屋にも出没? 結構自由だなあ。貴女の名前も聞いてないのに」
緊迫した雰囲気にあってお茶目なことをいう川姫に然は声を震わせながら茶化す。いつまでも続きそうな会話はくぐもった発射音で途切れた。蛍が川面を飛んだよう。川姫が肩をどんと押されたようによろめく。
「そうだったね。酔ってると紛れやすいのね。おーい姉ちゃん、顔色悪いぞー元気に行こうやー、ってね。私は……」
彼女は肩を抑えながら笑った。
「くどい。いくらべらべら喋ろうと誰が支配権を握ってるんだろう? 川底がお似合いなうじうじ共の傷の舐め合いで陰った俺の心がちったあ明るくなったぜ。いつだって幕を引けるんだっつうのを理解してくれたかい」
音といいプラスチックの蛍光弾じゃないか。こけおどしだと然は安堵したかった。
「なんだ、エアガンじゃないか。脅かして」
フード男は顎でしゃくって見てみろよと促す。妖怪か幽霊かは知らない。それでも血はつつと足元まで滴たって足元をぴたぴたと濡らしている。栞を強く握りしめた拳にまで血が降りてきているのに彼女はぺろっと舌を出す。
「平気」
「でも血が。もう勘弁してくれ。なんでだ。彼女が悪さをしたのか」
然はしゃがんで両手で耳を塞ぎ、叫んだ。
「そりゃこっちの台詞。なあ、相談した結果がそれかよ。なあ、お前らみたいな低民度が真面目で善良な俺らの血税を無駄遣いしておいて? なあほら、これも税金、これもだ。もっとましな使い方があんだろう、え!?」
フード男は小さなお堂や人柱伝説の来歴を記した展示版を銃で撃ちまくる。ばちっと硬い音を立てて展示版が凹む。蛍光弾は然の近くにもひゅんひゅん風を切り飛んでくる。単に改造という生易しい言葉で済まされない。中学の時にやんちゃな学友に素肌へ撃ちかけられた時も痛かったがまるきり別物。
体が小刻みに震わせている然。
「とってもとーぉっても不愉快で不条理で理解も我慢も限界だ。どうして俺らが尻拭いさせられなきゃなんねえの。なんでどうして why? why?」
流れ弾が放り出された教科書を抉る。無事なものを手繰り寄せると眼前に掲げて気休めの盾にした。川姫はふらつきながらも臆せず立っている。せめて相手の狂態が続き、激情の赴くままに残弾を浪費してくれと願うしかない。
もし幸運にも打ち尽くしてくれたら。橋を渡って斬りかかろうか、それとも暗がりに向けて逃げるべきか。運動神経皆無で靴の紐すら結ぶのに手間取る然。ナイフぐらいで荒事に慣れたフード男との差を埋められるのかと思い悩む。
逃げおおせたとしてその後どうする。川姫がどこまで縄張りを離れて行動できるか不明瞭だがコンビニにいけるぐらいなら。然が橋で妨害をして彼女に逃れてもらえばいい。異様なこの場所の仕組みはまだ理解しきれないが家主と思しき彼女ならなんとかできよう。
しかし諦めないと断言した。行動半径を抜きに考えて下宿で匿えても相手はこちらの名前まで知っている。然側はマスクをつけてフードを被った相手の素性がわからない。
一時的に逃げても彼女の居場所は他にない。妖怪だか幽霊か知らないがしがらみがある。
「子安君、柵は川中に杭を打ち、横に木や竹を渡して流れを遮る仕掛けという意味があるというのを最近知りました。上流からの鉄砲水や流木の衝撃を和らげて橋の守る役割があるそうです」
思案がまとまらなず怯える然の前に川姫が立つ。柵になろうとしている。然は恐れと無力感を噛みしめた。いわれ放しでいる自分自身に頭にきた。いっそナイフを掲げて突進してやろうか。
「腰抜けどもが棚上げにしてやってたのを甘えやがって。俺が執行してやるよ。凶器を探してよからぬことを企んでたのを確認した。オーケイ。もうそれだけで充分だ、更生の余地なぁし。平木が夢の島になっちまう前にリサイクルできないごみを片づけねえと!」
「あらそう」
「伏せて」
然は彼女の袖を引っ張ろうとする。片膝立ちしようとするもがくがくと揺れて困らせる。
「じっとしていて」
ぴしゃりといいつけられる。
「そんな」
「雨はいつかやむのでしょう?」
「流行歌の常套句なんて。晴れは正直好きじゃない。眩しすぎる。しとしと雨ぐらいが読書にいい」
「これ大事にしてね。貴方の願いが叶うかも?」
「え? 待って説明を……」
血が滴った栞を然に差し出す。まるで形見分けというように。込めた思い出もなく形見にもなりはしないのに。不意に乱射が止んだ。フード男が引き金をカチカチいじるも弾は出ず。銃を鼻面まで寄せてみる。
「ほらほら」
「弾切れかあ!? あのアマ、足元をみやがって。糞悪徳業者。真面目にやらねえ奴らがマジで多くてイラつくわ。あんだけ誇ってる日本人の美徳はどこいった。撃てねえじゃねえか。まじクレームだわ。あれかさっさとぶっ壊れねえと買い替え需要がねえからか。苛々させんなもう適当な真似は許さねえ!」
弾倉を落として執拗に踏みつけた。原因は弾切れだと思われるが怪奇な磁場で酔わされているからなのか然たちを無視して怒りをぶつける。
「じゃあね」
「待って。やっぱり逃げよう。俺が頼りなくたって、友達の知恵を借りれば必ず」
武野なら、稲坂なら、守田なら。自分ならという選択肢がない。
「白玉よ、約束ね」
川姫はにっこり笑う。とても優しい表情で。だから余計に不安になる。
「ああ、いやホイも、御祝いのコーヒーも。たくさん美味しいものがある。だから待って。いかないで」
川姫はすらりと飛び込む。血潮は車のテールランプみたいに流れた。
人柱になった橋と同じ距離を泳ぎ、常人はずれの跳躍力で対岸にとりついた。
フード男が狼狽しながら後ずさり尻もちをつく。あれだけ強気で罵っていたのに見る影もない。脚をもつれさせながら立ち、背を向けて駆けようとするが足元にさっと流れた波が邪魔をして転んだ。川姫が袖を降ろせば波は川へ返る。
「うわああ……川に引き摺り落とそうってか。待てよ第三者だ、弁護士呼ぶ。示談にしよう。暴力反対。じっくり腹を割って話し合えばわだかまりは解ける」
芝居がかった仕草に然の不安は増す。あっけない幕切れ。然は一抹の不安を覚えた。
杞憂であって欲しい。強張った足をぎくしゃくと無理に前後させて無茶な突撃に橋を渡ってはせ参じようとする。急ごうとするも足首に鉄球付きの鎖をつけられたみたいに重い。
「追っちゃいけない」
川姫は度々の銃撃で傷ついた体から異端の力を絞り出しながら裸足でひたひた歩む。黒く沈んでいた髪色はターコイズに似た青緑の光彩を発している。
「貴方を逃せばあの子を狙いますね」
「くるな、くるなって。飴やるから、やるからなっ、やめろったら化物。陰気が移る」
「もし、よばいにいらしたお方。白けさせないでくださいね」
鬼気迫る形相で長く鋭く延びた爪でフードを降ろす。それからマスクに手をかけた。
「よせやめろ。身元を特定するんじゃねえ。発言の自由を侵害するな。プライバシーを守れ。素顔を晒して呪うつもりなんだろ、えこの怨霊が?」
立て続けの銃声。
ごぼごぼと口から血を垂らした。最初は白襦袢にぽつりと赤い斑点が浮いただけだった。それぞれが大きく広がって繋がり朱色に染めていこうとしていた。
「ふう、爪を隠すのって案外疲れるのな。白地に赤ってのはやっぱり見栄えがするよ。しかしどぶ川ぐらいに汚え血だな、心が腐ってると血まで淀むんだろうな?」
フード男はそれでもよたよたとやってくる川姫を横柄に足蹴にした。
「下手に逃げられたり、小賢しい真似をされると手間なんでな。タイムセールに群がるばばあみてえにちょろいぜ。おい子安君。止まれ」
「やめろ!」
「ゃあめろぅ! じゃねーよ。動くなっていったら一歩も動くな」
唇を突き出して間抜けさを強調した口真似。握りしめたナイフは敵まで到底届かない。
「二匹でかかれば一厘ぽっちの勝機が生まれたのにな。ほら君がまたどん臭いせいで誰かが割を食った。誰かを悲しませた。クラス対抗の体育祭や文化祭で子安君みたいに足手まといが絶対何人かいたのを思い出すぜ。リレーが成り立たないんだよなあ」
転倒した川姫を踏みつけ、後頭部に銃を突きつける。
「ああ……有害な煙をばらまく煙草人間は言葉でいってもわからないんだった。俺がこいつにもう一声かけたら確実に終わりだぞ。優しいからヒントをやる。鬼じゃないんでな。やる気と根性を示してくれたら、考慮してやってもいいんだが?」
「本当に?」
「お前と違って俺は嘘はつくはずないだろ。そこに木があるな。自主的に首括れ? むしろ鮫の餌になれっていいたいけど塵芥の川に住めなさそうだからな。こんなのがいるぐらいで」
「なに?」
「この煙草、なかなか火が消えねえなあ」
スニーカーの底で頬を踏みにじる。
「やめろって」
「それが目上への態度かあ? こんなチャンス二度とないぜ。化物風情に鼻の下伸ばす哀れで必死な子安君。お前がくたばればこいつが助かる。命乞いすんなら命がけでやるのが筋ってもんでしょう。社会舐めんな。なにかを得ければなにかを手放すんだよ! よし、それが嫌なら穴を掘って首まで埋まれ? 大地の養分になって緑化に貢献しろ」
「俺は」
「はい、まず四の五のいわずに土下座。命救えるなら面子に拘ってる場合じゃないっしょ。謝罪ひとつひとつに誠意が伝わってこないよ。死ぬ気になってやってみて。ほら応援してるから頑張れ」
「わかった。縄か掘るものを」
「わかりました、だろ。行動で示せ。つったくようてめえは人がくたばれっていえば、はいそうですかっていうのかよ。もっと自分で考えねえのかよ。糸のこんがらがった操り人形かよ! とろ臭くて頭くるぜ。縄がない? なんで俺が用意する流れなんだ。とっと探してもってこい」
フード男は銃を何度も撃ち、川姫の頭をぐいと踏み潰した。ばしゃり、然は縁日の水風船が潰れた音を聞いた。
「おっと、ついかっとなった。弱っ」
薄い血溜りに大量の髪の毛と朱に染まった襦袢が浮かんでいる。フード男は襦袢を足ふきマットと同じ感覚で使う。泥まみれの足形がくっきりと残った。
「ちっ、スニーカーが汚れたじゃねえか」
然は栞を硬く握りしめ、歯を食いしばる。しかすぐに腰の力が抜け、橋の上に跪いてぽろぽろ涙を流す。
「子安君さあ仏の顔も三度なんだよ。君はどうやら人をおちょくって楽しむのが好きらしい、つまらん殺生をしちゃったよ。瘴気をまき散らす邪悪の塊みたいな奴だ。もっとましなのが通りかかったら哀れな最期にならなくて済んだのになあ。例えば、あの一本気な白雨が意固地になられたなら俺もヤバいと思うしさ」
フード男は鼻を鳴らして然に銃の照準を合わせた。
「おい愚図野郎。まだ泣いてるのかよ。バイト先でも葬式でも泣いて謝ってたっけ。はっきりいって糞だな。泣いて許しを請う自分に酔うなよ。女もちゃんと守れない。またお前が生きてたせいだろ。マジで人の足を引っ張るためだけに存在するんだな。前世はゲームの雑魚キャラだったんだろうな」
「あの人は、あの人は! 俺はごみでもあの人はごみじゃないだろ」
激昂する然はナイフを振りかざして駆けてくる。
「目標がわざわざ近寄ってくるとかおめでてえ」
フード男は冷めた調子で吐き捨てて銃を撃つ。弾は外れたが気にしない。
「あ、なにいってんの。お前共々人間じゃねえよ。大量発生して困ってるくらげや外来魚未満。泣いたり怒ったり、はあ!? って感じだよ子安君。女なんていくらでもいるんだからよ。まあお前に入れ込む女はもう現れねえだろうけど。残念だったなあ。まあでもよかったよクズカップルが成立して、足手まといの遺伝子が残っちまうと困る。しっかしよう、志願したといっても選ばれし俺がなんでごみ当番だよ。お前みたいなのがいなくなって世の中少しは綺麗になると考えれば清々しい気持になれたらいいよな」
フード男は然をうっちゃって川面を眺める。粛々と続く窮地の構図が変わり映えせずに流れている。
「あーもうとろい。化物を潰した以上、子安君と関わってもタイムロス。その玩具を置いて逃げろよ」
「これ?」
栞から手のひらに暖かな拍動が伝わってくる。誰かと手を握るというのはこんな感じなのかもしれない。彼女の名残なのかもしれない。
「ああそれな。手間取らせるなよ。弾がもったいない」
「どうやって使う?」
然は栞になにがしかの奇跡があると信じた。必死に念じても何事も起きない様をしばらく眺め、ほらみろといって冷笑した。
「おいおい敵に聞いちゃうとこか。それ駄目っしょ。まだやるつもりとは驚きだチンパン君。とっくに心折れたと思ってたぜ。のびしろも潜在能力もねえよ。だけどよ茶番は終わり。頼みの綱がぷっつり切れたってのに。地力が違うのもわかんねえか、頑張るの使い道間違ってるぜ」
降ろした銃を構え直していた。
「勝ち確定ならいつまででもご機嫌に喋っていられたのに慌てて何発も撃ったろ。雑魚認定した奴にやられるのが怖かったのか? 実は弱い奴しか倒せなかったり」
「俺煽り耐性あるんで。なんの論破にもなってないし。まあいいけどゼロ同士が足し合わせても1には届かんぞ?」
「もしかして使い道を知らないんだ。ダサいな」
「あっそ」
フード男は然に数度発砲した。
然はがくんと膝をつくとひっくり返り動かなくなった。
「弾が効くのは化物限定っていってたな。虫みてえに手足をひくつかせて、くたばったりやがって気持ち悪い。俺は人外退治をした。あーまた社会に貢献したなあ。ゆくゆくは国民栄誉賞で勲章受章もんだな。人間も間引きをしないといかんな」
つかつかと橋を渡り然のところまで歩み寄る。ぞんざいに爪先で収穫物を改める。
「こいつの元まで歩くのですでにかったりぃ。ちっ、どこに隠した。しっかり握ってればいいのによ。あーうぜ。俺を怒らせんな。俺が悪いみてーじゃねえか」
ポケットを探るが見つからない。脅して透かして出させることもできない。
然の口が膨らんでいたのに気づく。
「子安だるー。野郎の唾液とか最悪だわ。つくづく根性ひん曲がってら」