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虚仮淵の幻~冷やし虚淵はじめました~  作者: 浜野海苔雪
第一章~冷やし虚仮淵はじめました~
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虚仮淵の幻1・4~白い手の~

虚仮淵の幻1・4~白い手の~


 等間隔に近い頻度で促してくるものがある。後頭部はひんやりしていて氷枕を敷いているようで心地がよい。然はこのまま微睡んでいたかったが頬を撫でるものがやまないので根負けし、嫌々ながら目を覚ます。

 覚醒を促していたのはぽたぽたと頬に垂れていた雫のようだった。

 然の顔の真上、覆いかぶさっているのが青白い頬の女でなければ二度寝ができるのに。

 眼を見開き然と視線を合わせている。左右に逃れようとした然の眼球は眼鏡の縁よりもずっと幅広な黒髪で遮られて行き場を失う。濡れそぼった長い髪は緑の藻や紅の水草が絡みついている。こんな辛気臭いクリスマスツリーもあるまい。頬に滴り落ちていた水の礫は彼女の髪や額から生まれいでしとしと注がれているのだった。

 目線が合って情けなく喉がひいと鳴き、じたばたさせたい手足を気持ちを迸らせる。金縛りの最中でやむなく目が開いてしまった際の位置関係に合致する点だらけ。立体音響のお化け屋敷に勝る息遣い。

 しかし然のひっきりなしの督促から遅れること数拍、手足はぎしぎしと軋みながら建設現場の特大クレーンみたいに悠長な稼働を試みようとしていた。体が米袋を載せられているぐらいに重い。

 足指を動かせば靴底がぐじゅぐじゅとぬかるんだ音を立てて滑る。服も水をしっかり吸って肌にまとわりついているみたいだ。石の階段から転げ落ちでもしたぐらいの痛みがある。軽やかに飛び起きて後退など日頃訓練もしていない肉体にこなせる注文でなく、どうにか強張った体を横に転げて落ち延びようと意識を高めるが、然の額を青白い手がびたっと抑えつけられれば体はおろか心も凍る。

 次はどうなる。首を絞められるのかと身を硬くする然。ひやっとしていて人の手とも思われず体熱を奪われていくようだ。しかしいつになっても恐ろしい瞬間は訪れない。てっきり害されるものかと思った冷たい白い手は彼の額や頬を優しくなぞるだけだった。

「もし貴方」

 有無をいわさぬ眼力で睨みを利かせながら女は喋った。

 人を身震させぬではいられない容姿に不釣り合いで怒られるのを恐れながらも目上の人にお伺いを立ててでもしているのかと錯覚させるぐらい、蚊の鳴くようなか細い声は震えている。てっきり不気味な唸りや叫びを聞かされるのではと怯えていたが、相手も自分を恐れているのやもと思えば緊張は幾分ましになった。

「急に動いては駄目」

 語調は平板だがわずかに温もりのありそうな言葉選び。

 民俗学の講義資料でモノクロにプリントされたせいで、ひどく白く不気味な仕上がりになっていた挿絵から、うろ覚えに近い名前を呼び起こす。水棲の女怪。

「川姫」

 然は首をのけぞらせ、くぐもった声をだし、喉の違和感にごぼごぼと蒸せた。

 精緻な美貌がもっと歪んだ気がした。般若の面に移行する前段階のような気がして然はぶるると震えたが、表情は能面のように変わらぬが少し傾けて生じた陰影はもの悲しさを伝える。背中は痛むが頭は柔らかい冷感に包まれ川べりで膝枕をされていたのだと気づく。彼女は表を上げ、然から顔を逸らす。まとわりついた黒髪と白い手が覆い隠した。

「無理もないけれど」

 こんななりでは。消え入ってしまった言葉はそう続いたような気がした。ぽたと落ちた雫が涙みたいで然はいたく気まずく恥じ入ってしまう。ごめんなさいといいかけた然の脳裏に稲光のように言葉と情景が眩く光って消えた。

「お前のごめんなさいは軽いなあ?」

 彼女はやっと瞬きをした。川面は暗く、とぷとぷいいながら流れている。


 前後の記憶がしゃっきりしないままだが、緊張度合いが緩まったせいでこれまで届かなかった川の穏やかなせせらぎが耳に入ってくるようになった。

 周囲の暗幕が取り払われて目に入ってきた情景は間違い探しに似ていた。

 星の光は存外に明るく強い。不揃いの光を星座をなぞらえるには整列しすぎていて、時折大きな箒星が行き過ぎていく。空気による星の瞬きと異なり、空自体がゆらゆらと揺れている。透明度の高い南の海から見上げる空の眺め、もしくはPCのモニターに背景が映り込んでいるようだと思った。

 神社の境内にありそうな苔むし黒くなった大がかりな石灯籠がぼんやり橙色に灯る。心もとない薄明りのはずなのに舞台のスポットライト風に橋を闇に浮かばせている。外縁部は闇が続く。見渡せる範囲は黎明期のゲームに顕著なポリゴンに似た荒さと低い解像度に近い。

 灯りは高い場所にあるが、真の灯心は隠された瞳であるような存在感を放ちながら彼女は然を見守っていた。

 推定川姫は襟をきちんと合わせた白い襦袢を着ている。ざんばら髪を振り乱して片っ端から邪念をばらまくホラー映画の悪霊さながらのいで立ちだが毒気は薄い。

 しかしどう話しかけたがいいものか、彼女は両手で顔を覆ったまま。このまま逃げるべきだろうか。いや怪談のお約束の範疇にいるなら然はほぼ逃げられない。

 お得意の軽薄発言を続けてもう怒りを買いたくないと然は口をつぐむ。どんな目に遭うか不束者の末路を語った寓話たちが脳裏を駆け巡る。

 と川姫が小声で急に何事かをいいだした。

「貴方が落としたのは金の……それとも銀の」

 塞いだ手の平の間からぎょろっと白目が覗く。最中にあっても雫があれだけ滴り落ちたというのに髪は乾くことがない。然は肩をびくりと震わせる。失言から口の重くなっていた然も滝より落差がある振る舞いにぽかんと口を開ける。ややあって冗談のつもりでいっている可能性を見出す。和ませようとしてくれているのかもしれない。その他であって欲しくない。例えば恐怖で張り詰めた肉を柔らかくする下ごしらえだとか。

 いい香りのするハーブの風呂に浸かって、次は岩塩で肌マッサージ。そして熱した鉄板で体を乾かす。恐怖に不釣り合いなふざけた妄想だけ、然のメモリを占有し続けている。どうせ頭からばりばりいかれるなら覚悟ぐらいさせて欲しい。

「貴方を食べてもしかほど美味しくないと思っています」

 大ヒントと思っていい。渾身の勇気をもってお調子者の軽口を繰り出す。

「もしかして、好きなのは十字花のプリン」

 彼女はこっくり頷いた。おっとりと不気味でいるが害意はないと思いたい。


 怨念に凝り固まった幽霊や、妖怪の類ならばこうも軽口をとり合ってくれまい。前時代的ないで立ちでも微妙なニュアンスも通じている。直視を避けたい物騒な外見とお茶目なギャップが然を迷わせる。

「驚いてすいませんでした。まず貴女が夢でないなら妖怪か幽霊という認識でいいですか?」

「私はただの娘です」

 どこをどう見たってただの娘ではなかったが、白状すれば傷つけてしまう。せめて強張った表情を緩めてもっと瞬きをして欲しい。だがもしもそのような素振りがもう必要がなくなってしまったのなら仕方がない。当面とって食われることはない。なぜ彼女に選ばれたのかを探らねば。ならばユーモアで返そう。

「そうですね。甘いものが好きな平凡な橋ガールですね」

 返事がない。然は調子に乗って速攻で滑ったと思った。自分で頬を平手打ちしたい。

 西洋の樹木の精ドリアードは好みの美少年がそばを通ると木の中に引っ張り込むという。ドリアードは魅力溢れる人間女性の姿をしているというが浦島太郎よろしく外と中では流れる時間があまりに違うというオチが待っている。自分は該当しないのはわかったが、念を入れて聞いておく。

「かっこいいですか? 俺」

「ちっとも」

「駄目男に惹かれる質ですか?」

「いいえ」

 ユーモアが失せている。然はこれは夢だ、を頁一杯に書き取りしたくなってきた。

「あれっ?なんで魅入られたのがとんと見当がつかない」

 気に入った男を自らの樹に招きいれる性質ではないらしい。そもそも現代社会の価値観において然の容姿は時代遅れだ。好感を積んでいかねば達成できない快挙を得られるほどのことをした自覚がない。

「私は例え好みの殿方が橋を通りかかってもあばら家に引き込む女に見えますか?」

「ああいえ」

 喋る量がにわかに増えた。ちょっとした落ち度にむっとして、怒りを爆発させて飯粒を飛ばしながら怒鳴る中年男性に困惑して対応しながらも胸にわだかまりを抱える店員を連想した。きっぱり否定された然。残った可能性はなんだ。食うでもなし玩具にするでもなし。見ず知らずの異端者に想われる理由を求めて記憶の押し入れをひっかきますもずきずきと体の痛みが応答するだけ。

「すいませんでした夢だと思ったのつい無礼を。夢ですよね? 取り込まれるぐらいの美貌はないし、食べるつもりでもない。驚かせるつもりもない。ならおぞましいやり口で精を抜いたり、尻子玉を抜きにかかりますか?」

「もしそうならとっくに済ませていますよ」

「妙な話で、じゃあなんで」

「お供えのお返し」


 去年通りかかった橋のたもとのお堂に供え続けていた時期があったのを思い出した。

 然は他力本願の男であるが信心から出た行為ではない。お調子者の人づてに聞いた怪談話を得意げに披露していた。怖がりなある友人が混ざっていたのを知った時はもう手遅れだった。腕っぷしがめっぽう強い彼女は半泣きで怒り、然はあれよと蹴り倒されてリノリウムの床の冷たさを頬で味わうも間もなく、馬乗りにされ泣くまで殴られた。

 例の場面がぱっと眼前に点滅した然はその時の痛みがぶり返し、とっさに両腕を振り回そうとする。手首をぎゅっと恐ろしい握力で掴まれた。やっぱり怨霊、妖怪。然は白黒させながら心中で叫ぶ。

「手の内にあるものを振り回さないでもらえます。危ないので」

 然の左手にナイフが握りしめられていた。見覚えがないものだ。怪我をするのもさせるのも嫌なので持つはずがない。

「これは、なんで?」

「堅く握って離さなかったから。さあどうぞ話を続けて。順を追って思い出しましょう。おぼろげな昔話をしてくれといわれるよりも好きですよ」

 川姫の言葉も滑らかになってきた。捨てられたごみで滞り淀んでいた川がさらさら流れるよう。これもすぐに繋がりそうな話なのに、どうして今まで忘れていたのだろう。あれだけ火照っていた体のうずきは冷感湿布を貼られたみたく落ち着いてきていた。


 そもそも人に分け与えるよりも分け与えられるほうが多い然。お堂に供えるため、人気らしき十字花というスイーツ店へ出向いてはオシャレな雰囲気と客層に威圧されつつも行列に並び、スイーツ詰め合わせを大枚叩いて購入するなど前代未聞だった。

 大いに起源を損ねた友人の機嫌を直してもらおうしただけではない。臆病さで然は彼女を笑えない。兎が超常的な霊威や言霊をおろそかに扱ってならないと厳かに語ったものだから、然にもたちまち恐怖が伝染した。軽々しい話の種にした不敬を後悔、後難を恐れてどうにか、お目こぼししてもらうと策を弄した結果がこれだ。

 ともかく自分は例の橋にいて、当人が目の前にいる。理由はこれだろう。

「人の気も知らないで、面白可笑しく話してすいませんでした」

 開かれた瞼がすっと閉じた。やっとわかったか、なら食ってやるというのか。腕を握った時の怪力は友人以上のものだった。ナイフを突き立てるなどできはしまい。しかしナイフを握っている理由は不明のまま。彼女は然の左手首からゆっくりと白い右手を離す。そして目線を右下に落とし、聞き取りにくいぐらいの小声でいった。

「私、おにぎりを選ぶ時だって勘付かれるようなへまはしませんけどね」

「いや嘘だ。コンビニに幽霊が買いにきたって話聞いたし!」

 然はナイフを握っていない右手で指さし確認した。彼女は追及に肩をびくっとさせた。

「レジ前のお勧めのお菓子も奮発して買ってあげたのに! 内緒にしないなんて」

 ファッション雑誌で流行をチェックする水浸しで長髪の白襦袢は怖さを通り越してシュールさを醸し出している。

「貴女が立ち読みしている姿を見た店員さんはきっと商品補充もできなかったと思う」

然は本日着物コスプレ女性二件目で免疫ができてかけていた。コスプレ? まだ抜け落ちている記憶がありそうなのがとてもまどろっこしい。考察好きの間では知名度をあげて激戦を勝ち抜きたいコンビニスタッフの遊び心による噂の流布、もしくはコスプレで来店した客に着想を得たのではというあたりで落ち着いている。デジタル技術全盛の今、画像を撮られたからといって確たる証拠にもならない。

「もう大学中で定番の怪談になってますよ。先輩方から何度も聞いた。写真撮られてもおかしくない。どうも前後が抜け落ちているんですが教えてくれませんか?」

 しかし彼女は質問に答えなかった。

「私だって弁えて晩遅くに通っています」

「いってるんじゃないですか」

 己の頬に片手を添えて吐息を漏らす。いで立ちは恐ろしいままだが、増えた口数の中身を吟味してみればいたくお茶目な人物に思えてきた。

「いっちゃ悪いですか? 新作まだ食べてないのに」

 伏し目がちな川姫。頬に手を添えてより憂鬱な趣になる。

「ああはあ、門限が厳しい家の娘さんみたいな。もう開き直ったらどうです。聞かれても扮装です、お化け屋敷やってますって通しせばいいのに。もしくは正体を公表して親しみをもってもらえば」

「怖がらせるつもりはないので。退治をしたがりたい方々がいるのでひっそりしています」

「俺は違うんで」

 妖怪の気配をぷんぷん漂わせながら、不便なのだと語る。郷土史を研究する先生方に、歴史の生き証人の彼女を引き合わせれば感涙の涙を流に違いない。生き死にという表現は正確性を欠くけれど。


「久しぶりのお客さんだから、のんびりとたわいのない話をずっとしていたいけど」

「戻ったら百年単位ですぎていそうだから、それは。いやむしろいいかもしれないな」

 むしろ技術的特異点を越えた未来の姿を見聞したいところだった。宇宙旅行やナノ技術、人工知能も発達しているだろうし是非見聞してみたい。水を飲まなさないで行う過酷なトレーニング法や鉄拳制裁で気合をいれる方式が過去の遺物となりつつあるように、自身のポンコツぶりとて未来医学の力で原因がきちんと解明され対応策も編み出されているだろう。

「百年ぐらい居候でもいいんです」

「困りますね。チーズケーキタルトを買ってきてくれない成仏もままならないというのに」

 家庭訪問で用意したケーキをえり好みする子供みたいに口を尖らせて然の苦笑を引き出すと、大人の口ぶりに戻り静かにいった。

「貴方の忘却にも意味があるのでしょう」

「忘却って……神話で冥府に流れる川の定番じゃないですか。落ち着け落ち着けっていってたのはまさか」

「違いますよここのは」

「奪衣婆!」

「私はお婆さんじゃありません。お菓子代もお賽銭からちゃんと捻出してます。貴方は裸でないでしょう」

 くわっと開いた口からにゅっと牙が急成長していく。

 節々が痛む体が隠し持っていた恐るべき俊敏さで土下座に変形して謝罪を行った。

「今回だけは大目にみることといたしましょう。お酒を召した際はくれぐれも度を越さないようにお気をつけなさい。次は噛みます」

「もうしません。お調子者だとよくいわれます。でも酒は好んで飲まないないはず」

 その記憶自体ないが前後不覚になるまでが飲むのはもう懲りたはず。周囲に迷惑をかけた挙句に胃液を吐くまで悶えてその後も二日酔いに悩まされて固く誓ったのだ。

「こちら側にくると酔ったようになる方が多いの。感情の振幅がひどく激しくなって短慮になる。だから貴方が平静になるまでおしゃべりを楽しもうと思ったの。悲しいけれど、もうそろそろ真面目になってもよき頃ですね」

「ああ、こちら側っていいましたよね」

「ええ」

「ああ……」

 漫画やゲームで御馴染みの。自身は知恵と勇気で事態を打開する主人公ではなく、脅威を演出するために存在するやられ役の立ち位置だと思う。怪談とかホラー映画でも冷静さを失ってまごまごするアレ。窓の外になんか迫ってきているのに直前まで日記書いてたり。俺ならドアを開けて逃げるぞ、と思う然。

 けれど泳いでいっても橋の向こうに走っても逃げられなさそうだ。


 洒落が通じる相手で安堵する然。まだなにかを思いだす必要があるようだった。まどろっこしいやりとりを続けてとり戻さないといけないぐらいのことってなんだ。

 薄暗闇に慣れ、随分と落ち着いてきたお陰で今まで気付かなかったものが見えてくる。

 川姫の表情に乏しい顔をじろじろと観察するのに勇気がいったものだが、心なしか初対面時より表情が柔らかく丸くなっている。互いが心を許しかけて印象が変わったからかもしれない。細部をより観察することができた。

 黒い濡れたようなというより濡れている髪、雪のような白い肌というには青ざめた肌、瞬きが極度に少なく真っ黒でメリハリのきいた瞳、こちらが震えそうな青い唇。しかしよくよくみてみれば、彼女を妖怪あるいは幽霊と決めつけていた先入観によるものが強いらしかったのがわかった。

 マスカラやファンデーション、口紅などで薄化粧をしているらしい。頑張って桃色のチークで温かみをだそうとし、唇も同色い系統だが少し違う桃色でぷるんとしている。然に色の詳しい名称までわからない。メイクをしても依然顔色は悪いが相当頑張っている節が窺われた。

「ウォータープルーフ?」

 どうしてこんな時、シュールな疑問を発しているのだろうと然は我ながら思う。もっと他に自身が置かれている状況を理解するための質問があるだろうに。よくよく見れば彼女は思っていたより若く、きりりとした顔立ちだ。一回り上までいかず、精々三つ四つ年上ぐらい。

「コンビニで買ってみました。貴女はウィンターカラーだからアイシーピンクが似合うって薦められて」

「アイシーね」

 初耳だ。アイスみたいなピンクとはこんな色なのか。絵具の色すら覚えるのが困難で、携帯や家電のオシャレなカラーバリエーションについていけない然はたいしたリアクションがとれなかった。この話題は専門外だ。長く続いたとて生返事しかできそうにない。

「定番なんですって」

「はあ」

 着崩さないできっちり裾を掻き合わせている白い襦袢の彼女が横文字を飛ばしてくる違和感。


 川のほとりに腰かけた川姫は少女みたいに細い素足をぶらぶらさせた。爪先にペディキュアが塗られ、ラメが瞬く。

「貴女はやっぱり人柱になった方ですよね?」

「私の身の上より貴方のことを聞かせて?」

 人柱にさせられたのは悔しくなかったですか、なんで了承したんですか、などと続々と尋ねたい然だがやんわりと質問の矛先を変えられた。興味本位で根掘り葉掘り人の事情を聞いたついでに、上から目線の正論を重ねるなんて、芸能レポーターやゴシップ記者、底意地の悪い匿名コメントみたいだったと然は後ろめたくなる。

「俺なんて典型的な駄目人間で話なんか聞いてもただ胸糞悪くなるだけですよ。友人だけは恵まれたからまだ道を踏み外してないだけで」

「ふうん大変ね。踏み外さないようにおっかなびっくり歩くのって。貴方の印象は詰め合わせのケーキの味だった」

「はあ。作った人の腕がよかったんですね」

「選んだのは貴方でしょう」

「はあまあ」

 それでも彼女は答えてくれた。

「あれ以来、いつか立派な神様仏様が私を迎えにきてくれるんじゃないかと思っていたけれど音沙汰はなし。だから物の怪というより、神様の見習いでもしているつもりで身綺麗に過ごしてきましたよ。私は怖がられるのが嫌。誰かを怖がらせる噂よりも恋愛成就の噂を流してくれればよいのに」

「ねつ造はよくないですし」

「実績を作ればいいじゃない、ね。貴方たちが結ばれてくれればいいの」

「えっ」

 無茶をいってくれる。然にとって未来永劫無理な難題かもしれない。貴方たち。繊細で剛腕な友人の前はいつも黒と黄色のテープが貼られている。

 本日の滑りだしは異性、次に酔っ払っていいがかりをつけてくる青年、そして現代科学で未解明な存在と、然にとってハードルの高い相手が続いた。いやむしろ初対面はお調子者の空元気で高いテンションで誤魔化せるが、二度目以降は気分屋の気分の沈降と剥がれていくメッキで維持できず心労が祟るのみ。妙に胸騒ぎのする言葉に触り、然は口に出して繰り返す。

「異性? 青年?」

「楽しくお喋りを続けていたいけれど。水面を御覧なさい。突き落したりしませんから」

 彼女の冗談に促され、川に落っこちそうなぐらいに身を乗り出して覗く。黒いだけだったゆらめく水面に橋の情景が映る。迫る帽子男と後ずさるコスプレ女。全容。風雲急を告げる事態なのを思い出す。

「ふざけた話をしている場合じゃなかった」

 静止画送りみたいにひどくゆっくり遷移していて恐れる結末へなかなか至らない。もしかして時の流れは遅いのか。

 いいがかりをつけてきたのは二人組。フードを被っている奴が突っかかってきた。帽子の方は連れ合いを宥めたが聞き分けがないのでどうにかした。なら狂犬みたいなあいつはどこへ消えた。


「いきなり因縁つけてくるわ、殴って川に叩き落としてくる奴にもやしっ子がどうやって勝てと。彼女が案内板で語れるその人で、神様だか妖怪だかなんでしょう。あいつらを懲らしめてくださいよ」

「プリンのお礼はもう済みました」

「それはひどい。あれだけ供えたのに」

「だらしのない。自力でなんとかしなさい」

 水が滴る髪を掻き上げる川姫。然はしょげる。興ざめもするだろう。

「と突き放してみせてもいけませんね。白状すると私の独力で懲らしめるのは難しいのです。町興しで担がれるつい最近まで忘れられ気味でしたし、信心の力もこれっぽちで細々と暮らしてきました。元が人の身なので格も立派じゃないのですね。たまたま人柱に選ばれただけで、故あって恨みをのんでもいませんでしたから怨念不足です」

「でも普通なってくれっていわれたら嫌っていいますよね。そんなの生贄みたいなもんじゃないですか。いい大人連中がよってたかって口実を考えて人を差し出すなんて。人ひとりで済むなら安いもんだって汚い」

 思わず穿ったことをいってしまったと然は額に手を当てる。

「湿っぽいのは嫌なのです。理解を示してしてくれると助かりますけど同情は欲しくもないものです」

「すいません余計なことを」

「お願いをするなら、私からもお願いがあります」

 切っ先を突き付けられたみたいに然はどきりとして、身を硬くする。団らんをしていた雰囲気が吹き飛んだ。

 特定の存在と契約は大いなる危険が伴うというのがおとぎ話の定番。いやそれよりも自分は人に頼みにされるのを恐れていた。期待に応えられないから。失望させるだけだから。

 流れに逆らう気概を然はもたない。まるきり口だけだ。とろくさい自分は変える側でなくターゲットにされ、庇われてきた側だった。あのヒーロー願望が空回り気味の守田ならやれるかもしれない。滝を登った鯉が龍になる、まともに考えると辻褄が合わないが。

 酒に弱い体質の彼は新歓コンパで一気飲みの雰囲気を醸してきた先輩へ、場が白けるのもいとわずに堂々物申した。彼の九割強は素っ頓狂な空騒ぎだが、残りの一割は眩しい。

 武野なら悲観もそこそこに解法を探して注力するかもしれない。やけに感情が昂ぶるのは川姫のいったこっち側の空気のせいなのか。いやくよくよはいつものことだ。誰だって自分より上手くやる。稲坂兎なら力で虐げられはしないと対抗するだろう。

「いや誰かの頼みなんて」

「やめとけって。こいつにものを頼むとか笑える。頭ふやけてんじゃねえの糞婆? 自分で全部やったほうがよっぽどましな奴なんだぜ。なあ、子安君?」

 対岸。水浸しでべちゃりとなったフードが浮いている。


 フード男は淵を両手でがっきと掴み、力任せにぐいと這い上がる。懸垂もろくにできない然との膂力差は歴然。息苦しくぜほぜほと唸るが顔を覆うマスクは外さないでいる。

「ああ、マジうぜ。なんで将来有望の俺を助けねえでそんな社会のごみを拾うんだよ。やっぱ世の中腐ってるわ」

 せせら笑ったかと思えば、ひと息いれずに恨み言を投げつける。川姫との談話でようやくほぐれてきた体が身を硬くする。どうしよう、という言葉が脳内を埋め尽くす。川姫もすくっと立ちあがり、然にとっていた砕けた態度を硬化させる。

「貴方は私にとって鉄の斧でもないですからね」

「俺を助けなかったのは社会の損失だよ? 浮上を邪魔しやがって。クリーニング代もらわねえとな」

 対岸に陣取ったフード男は落下防止用にかけられた柵の鎖をつなぐ石柱に腰をおろす。首にかけていたゴールドのネックレスを外して尻ポケットに突っ込むと、フード付きの上着を脱ぎ捨て雑巾みたいに引きちぎれそうなぐらいに絞る。

「邪魔?」

 千切れるのではと思うぐらいにぎゅうぎゅうに絞られバシャバシャと水が落ちる。それから服をパンと伸ばして鎖にかける。

 然は川姫を見る。然を横目でちらと見て、はあと小さく息をつく。

「頭を冷やして欲しかったのですがね」

「はあっ!? そいつが膝枕で俺が潜水かあ? うわっ最低、趣味最低。そんなに俺が怖いの?」

「私が命を捧げて守ろうとした橋上で狼藉はおやめなさい、若い人。大人しくお家に帰れるなら見逃します」

「うっぜ。立場逆だから。どぶさらいさせられる気持ち。決めるのも狩るのもこっち」

 一方的な物言いに臆病な然も耐えかねる。声をひっくり返しながらいいがかりをつけてくるフード男に抗議した。

「喧嘩はもうやめてほしい……な。なんでそういちいち突っかかってくるんだ、こっちに来てまで。コスプレぐらいはいいじゃないか。見境がなく喧嘩売るのはやめてくれ。橋の守り神みたいなもんなんだぞ。怒らせないでくれ」

「おいおい自分で考えてみろや雑魚が手間とらせんな。あーあ、だから誰かが懲らしめてやらねえといけねんだよなあ」

 それにしてもこいつはよく喋る。酔ったようになると川姫はいったがフード男も似た状態にあるようだった。これほど虫が好かないというのに手をださずに口でけなすのに終始している。


 妖怪に向かって酔っ払いの脅威を説くのも妙な気がしたが、他にいいようがなかった。

「ああん? バイトの指示は聞けねえのに妖怪のいうことは真に受けるのかよ。女の背中でびくびくしやがって、つくづく困った野郎だな。けっ、あいつも二度と浮かんでこねえようにやりゃよかったのに生ぬるっ。お前らさあ、自覚ないみたいで可哀想だからこの際はっきりいってやるよ。いるだけで害悪な奴って存在する訳。世のため人のため、公共事業でもねえのにまとめて退治してやろうとわざわざきてやったんだよ、うだうだごねて手間取らせんな。まじで俺ら税金投入してもらいてえくらいだわ。つうか勲章もらってもよくね?」

「私は悪さは致しません。貴方たちはそろそろお引き取りを」

 フード男は少し黙った。そしてマスク越しでにやにや笑いを透かしながらいった。

「婆あ顔真っ赤だなおい」

 川姫は絶句の後、口に手を当てて目を潤ませる。

「いきなり婆ってなんなの。確かまだ二十そこそこぐらいだった」

「この人はストレスたまってるのか元から酔ってて、こっちの空気が人を酔わせるなら尚のこと拙い。絡んでくる気満々だから真に受けない方が」

 幽霊や妖怪といった存在となっても、やはり人並みにショックを受けるメンタリティは保持していた。案内板の記述が正しければ相当に古い人物なので、外見は若くてもおばあさんといっても差し支えなかろうが。

「そりゃ数え年か。退屈な講義でやってたわ、昔じゃ大年増だよな。まあこれであんたが目当ての化けもんらしいってのはわかった。賞味期限すぎてるもんは廃棄廃棄」

「いい加減に」

「あ、そういや俺は大学の先輩だから。無礼だぞ。新歓でも講義とかでも見かけたことあるし、まあ目につくんだけわ。あいつの葬式にもいたよな。あいつはすげえいい先輩だったよ。惜しいことした。半里先生も代わりに落ちこぼれのお前が死んどきゃよかったと思ってそうだよな? 俺はそう思った」

 然は主人にどやしつけられた犬そっくりにしょげた。涙がこぼれ、ただううと唸るしかできないでいる。

 オペラ座の怪人が身に着けているような風合いの漆黒のマスクは素性を覆い隠し、どこの誰だか特定できない。

「貴方はわざわざ傷に塩を塗りにくるために落水したのですか?」

 川姫は然を背に庇いながらたしなめる。

「黙れ俺が喋ってんだ! 教わんなかったのか糞婆、人の話を遮るなってよ! なに庇われてんだ情けねえ糞眼鏡かみ砕くぞ!」

 激発してから、ふうと息を整えるとマスク越しに意地の悪い笑みをにへらと浮かべた。

「まあそうだな。傷のなめ合いしてる負け犬どもを塩で清めにきてやったんだよ。マジ見てると苛々してくっからな。こいつのバイト先も、いったんことあんだわ。まじこいつ俺に関わってきすぎで最低。こいつにビールこぼされるわ、注文間違うわ、喫煙席はねえわで最悪。なんであんなことができねえの。そりゃ甘えんなだわ。リーダーにぼこぼこにされるわ。しまいにゃバケツもってずっと立たされててさ。遅刻した小学生にやらせたら炎上するぜ? なにやらしても駄目な足手まといって仲間も陰口するわ。つーかさ、俺らは怠けてないで真面目にやってんの。こういうのがあいつの代わりにのうのうと生きてるとかありえないっしょ。迷惑で我慢ならねえ訳。あんたもこいつなんか頼ってないで、自己責任で後悔しないでやったほうがいいよ?」


 フード男はいったあと、然を威圧しようと声を凄ませた。

 然は記憶をたどろうとする。迷惑をかけた客の中にフード男はいたという。酒に酔った甲高い声に聞き覚えがあるはずだたが。

 涙目になりながら怒りと恐れをない交ぜに握りっぱなしだったナイフを高く振りかざす。素手になれば相手がかさにかかって何をするか知れたものではなかった。橋を渡ってきたら今度こそ躊躇しない。然が痛い目に遭うのはいいが、川姫が傷つく様をみたくない。それならまだ刑務所に行く方がずっとましだ。どうせ俺なんて前科がつかなくったってどうしようもない奴だ。そこまで言葉の洪水がどっと頭を流れた。震えながらフード男にいい渡す。

「鈍間だって、怒るんだからな」

「逆切れ面倒癖え。泣けば許されんのはいい女と記者会見と小学生低学年までだあ!借りパクしたナイフなんか握ってどうしたあ。強くなったつもりか? まさかそんなもんで俺をどうこうできると思ってんの? ミステイクだぜ」

 帽子男はポケットから黒い艶消しプラスチックと思われる塊をだして然にゆっくりに向けた。

 フィクションの世界でよく知っている。アクションヒーローなら雨あられと撃たれても山場まで絶対にあたらないもの。要領よさそうな相手が銃器を構えているなんてもう負け戦は決まったようなものだ。戦力差はさらにひどくなっている。変なことに初めて巻き込まれた最初の敵は倒せそうな雑魚をあてがうゲームのチュートリアルなどはない。最初から潰しにかかってきた。

「っち、使えねえ。いちいちいちいち説明しなきゃわかんねえか。じたばたすんなうっとおしい。案山子みてえにじっとしてるのがお似合いだ。橋の影に隠れるまで鈍間を撃てねえと思うかよ?」

 川の間は数メートルはある。また聞きの知識でいえばだが拳銃の命中率は高くない。しかも娯楽映画でやるように銃を横に倒して構えている。俳優の顔を隠さない見栄え重視のやり方だ。反動が強い銃で流し打ちをするでもないものを、立ちすくむ然をすっかり舐めきっていた。

 加えて現代文明のまばゆい照明よりずっと心もとない灯篭の輝きの下だ。どのルートで非合法武器を入手したかは知らないが、帽子男が律儀に射撃訓練をこなしているとも思えない。橋を渡って距離を詰められでもしなければ早々辺りはしない。だがそれは頭の中だけの目測にすぎない。然は銃口を向けられると足が竦んでしまう。

「いきなり飛び道具はずるい」

 話がまともに通じてないとわかっても然は恨み節をいわずにいられない。フード男は小首を傾げる。然が竦んだのを確認するとすぐさま銃口を川姫へとずらす。

「なんでわざわざ反撃受ける間合いに寄らなきゃなんねえだよタコナス。お前らのへまの尻拭いをずっとしてんの俺ら。今わかった? はなからずっと生殺与奪握っちゃってんの」


「ぐぬ。帰ったら通報してやる」

「正当防衛こっち。化け物とつるんでやがるのはそっち。お前らアウチッ、俺は二の足踏まない正義の味方語るぜ、片をつけ、片づける」

 見え透いた然のやせ我慢に酒肴にフード男は上機嫌でふざける。

「おら婆、黙りこくってやがんな。びびって漏らしちまったのか?」

「なにが正当防衛だ銃なんて。俺を撃ったって妖怪に効かないぞ。あんたは俺より頭がいいから、この人がどうしてここにいるか知らないはずがないだろ」

 フード男は標的を然に変えた。ぱすっとくぐもった嫌な音がする。高く遠くは響かない。すぐに川面に吸われて音が消える。足元に撃たれ派手に飛びのく然にご満悦。

「化け物狩りに特攻武器もってこねえはずねえだろ。まじで頭ガバガバだな。ごみと一緒だ、そんなもん」

「見ず知らずの女性の扮装に因縁つけるわ、善良妖怪でもない銃を撃つわ最悪だ」

「わざわざ妖怪退治しにきてやったんだからさあ。敗者の吹き溜まりに流れてきた屑らしく、もう他人は邪魔すんのもこれっきりにしろや、子安。妙な真似すんじゃねえぞ、化けもん。可愛がってる子安君は弱っちいからなあ、撃たれたらどうかなっちまうかもなあ!」


 川姫は然とフード男の不毛な会話を聞いていたが、然にいった。

「貴方はそのままでいいのですか?」

「まあその通りなんで。いらないんで俺。でも貴女は関わりないので逃げて欲しい。コンビニぐらいはいけるでしょう」

「だから案山子が喋んなって。川に沈んでもう二度と浮かんでくんなよ。面見るとイラッとするんで」

 ぱすっ、嫌な音がしたかと思えば撃たれた鎖がぎぃいんと震える。

「案山子が嫌なら、平木踊りみたいに踊れよキモオタ野郎。なんだよじっとしてないと当てられないだろ。往生際が悪いな。急所を逸れて痛みが長引くだけだぜ。試してみようぜ、ここでお前を人柱ってのにして何か起きるか」

 フード男はいよいよ酩酊を極めべらべらとしゃべる。

 川姫は唐突に声を荒げた。怖気づきしょげる然に代わって激情に注意しろといった当人は青白い頬を人並みの顔色に染めて怒っていた。

「じゃあ私もいらない子なんですけどね。人柱で埋められちゃいましたし。こんな立派な橋建て直しちゃったらもう意味ないですもんね!」

 帽子男は減らず口を叩いていても、然を虚仮にしている最中でも目線を川姫から逸らしていなかった。銃をきつく握りしめた。

「はあ? なにいってんのこいつら開き直りかよ、うわマジだせえ」

 フード男の声に若干の緊張がある。両手で銃をしっかり構え直し、川姫の眉間に狙いを定める。

「情けない。こんな面体隠したままの子供にいわれ放しなんて! まだ生きてるんでしょうがしゃきっとしなさい。いい返しなさいよ。じれったい」

 然は尻を二度、三度と尻を引っ叩かれて伸びあがる。

「いやでも。俺使えない奴なんで」

「納得してどうすんの。だったらもっと頑張んなさいよ、あんなのにいわせておいて悔しくないの」

「でもだって」

「でも、はいらない。あいつ。祟るから」

 眉間にぐぐとよった皺もおっかない。お歯黒をしていない白い歯が、にょきにょき伸びて立派な牙に変ろうとし、指も節くれだち爪が尖る。

「神様が祟るなんて品のない。顔が鬼とか般若になりかけてる」

「じゃあもう神様見習いやめる!」

 川姫がぷりぷりと怒る。怨霊を世に解き放ったら稲坂に物理的に怒られる。ここでしり込みしたら彼女にまた泣くまで殴られる。然はどくどく脈打つ体に多少落ち着いてきたぞと嘘を吐く。

 威圧目的で所持していたナイフは今や然の手にあるが何の役にも立たない。武野なら知恵で稲坂なら勇気でスマートに切り抜けるだろうが自分にそんなものはない。トラウマに深く引っかかる言葉の響きだ。無理だ。勝てるはずがない。大学に受かったのだって奇跡みたいなものなのに。周囲は裏口入学を疑ったくらいしかもコスプレ美人の御相伴なんて、あれがとどめになって運が尽きたかもしれない。


 フード男は片足をパタパタと地面に打ちつけていたが、急に二人から目線を離し携帯を弄りだす。

「なんつうか、こんだけ煽ってかかってこねんなら、とんだこけおどしだったかもしれねえなあ。そうだなあ、どうすっかなあ。そうだ、たまにゃちったあ人の役に立ってみろ子安。俺は和気あいあいとした職場でも後輩思いで有名なんだ。だから、やる気を見せたら許してやらんでもない。妖怪婆を羽交い絞めにしろ。ヘッドショット決めてやるから。退治の手伝いになりゃ橋の女ともども見逃がしてやるよ、どうだ最高だろ?」

「冗談いうな」

 フード男と川姫どちらを信じるかといったら決まっている。

「人間と妖怪、どっちを信じるんだよ。俺がきついことをいうのはお前ができる奴だと思ってなんだぞ。化けもんに騙されんな。どうせボケナスのお前を手懐けておいてから本性を隠して食っちまうつもりだ。正義の味方さえいなけりゃな」

「悪態ついたのはそっちだ」

「そりゃお前の心は歪んでるからな。何事も猶予と期限を決めるのが大人のやり方ってもんだ。二、三分だけ待ってやっから。さっさと決断しろ。っち、鯖弱っマジありえねえわ。スタミナ満タンだっつうのに繋がらねえとかまじねえし糞運営。重いなら無課金どもを消せや。逃げたら躊躇なく撃つからな」

「なんだよあいつ……勝手なこといいやがって。どうすりゃいいんだ」

「ねえ」

 然の服をひっぱる川姫。

「私は一人じゃ橋からあまり遠くへいけないの」


「ねえ。なんで私が人柱になったと思う?」

「こうしてなんか違う役割担ってるくらいだし、きっと特別な力があったんでしょ。俺と違って」

「ないの。笑っちゃうくらいぱっとしない女だった。本当はあの人のもっているものが怖い」

「残念だけど主人公じゃないんで怒ったりしても謎の力に覚醒したりはしない。努力ができるのも才能。逆境をバネにするの才能。どれもない」

「私、撃たれてもいいよ。さっきもいったけどもうお役御免だからね。いつまでもいるなんて気持ち悪いでしょ、私」

「それは違う。俺こそいなくていいんだ。欠陥部品みたいなもんで、いるだけで故障の原因になる」

 うつむく然。水面に映るスローモーションで帽子男がコスプレ衣装の彼女を追い詰め続けていた。吐き気がこみ上げてくる。口だけだ。こんな時でも口だけ。

「意のままにされるのはもう嫌なのでしょ。本当は流れに逆らってでもお嬢さんを助けたいとおもっているのでしょう。やるだけやってみましょうよ。未練を残した幽霊になって延々と苦しみたい?」

「無理いうなよ! そんなもんやったら出来る奴にいえよ! 武野とか稲坂とか守田とか、あの白雨ならなんでこんなことができないの? って平然とやるかもしれないけど! 俺はあいつらみたいな少年漫画の主人公じゃないんだよ!」

 然はいっていて我ながら情けなくて泣けてきた。

「白雨様ならそうね。でも今、彼女と私を助けられるのは貴方しかいない」

「助けられるもんか俺はご都合主義の主人公じゃない! 他人の邪魔でしかない雑魚敵だ。先輩が死んだ時だって、屑の俺が死んだらよかったんだとみんなだって思ってるに決まってる! 物凄い数の人が葬式にやってきて俺は思った。俺が代わりに死んでれば悲しむ人なんていなくて済んだのにって。今だってあの子の代わりに」

「っち。大学生にもなってみっともねえ泣き言。おーい。はやくしろー。タイムイズマネーだぞー。時給換算しろよー」

「それは悲しかったね。私たちは神様と人間の半人前の役立たず」

「買い被りは」

「お願いがあるっていったでしょ。叶えて。私は独りじゃ遠くへいけないけど」

 黙る然に川姫は優しく促す。

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