虚仮淵の幻1・3~白夜の~
虚仮淵の幻1・3~白夜の~
気の許せる友人と古本屋にてゆったりした時を満喫し、引き続いてまったり晩御飯を楽しむはずがあられもない衣装の女性とふたりきり。晴天の霹靂とはまさにこのこと。お化け屋敷の先頭を任された気分、いや緊張感みなぎる戦場に置き去りにされたよう。
ぱっとしない中学高校時代を経て、地元を離れて環境ががらりと変わり遅れてやってきた思春期体験。気の毒な状態らしい彼女をフォローしたいという爽やかな気持ちと裏腹に、これはチャンスだとささやくもうひとりの脂ぎった自分。
事態がどちらの情動に転ぶにせよ、彼はまず対面して話すという経験が圧倒的に不足していた。
おっかない教授の講義前に胃のもたれを感じていたが、あれよりずっときつい。教授は怖いが是か非かははっきりしていて、剛腕な問題定義で学生に考えさせてくるからだ。
彼女は話題を振ってくれないので余計気まずい。相手にリードされてどうにかなっていたんだなとつくづく思う。どちらかが口をもごもご動かしている時間だけが安全地帯。どこを踏めば自爆するかわからない。聞かれてもアピールポイントなしの身がつくづく情けなくなってくる。
然もお年頃、人並み以上に興味関心がある。だが同席しても異性に恐れをなし未だ名前すらも聞けていない現状。
然は普段は実のない話をぺらぺらしゃべくるお調子者だと自覚している。だから勢いに任せてしゃべくればどこかで共通の話題にぶつかるはずなのだ。
引いてしまわない話題をもっていない故に積極的にふっていけない。コスプレをしているぐらいだからそちらへの関心も同胞への理解もあるはずだが彼女のコスプレの元はまだ思い浮かばない。それぐらいはいい当てて彼女を感激させてみたい。しかしこの情報社会、個人のプライバシーに類するものはうかつに尋ねられない。
しかし彼はそれ以上に気分屋で臆病者だった。
自宅に友人を連れてきた飼い主に警戒する猫みたいに総毛立てている。こうなってしまうと軽いジャブも繰り出せない。テレビはゴールデンタイムに入り、バラエティーを放映していた。タレントが軽妙な受け答えをし、観客の笑い声が混じる。可愛いペットの動物番組でやってくれれば可愛いね連呼で乗り切れるのにと切歯扼腕する。生まれ変わりがあるなら然はマンチカンになりたい。足が短くてもと可愛いといわれるからだ。
「大将、せっかくなので杏仁豆腐もらえます? 二つね」
「そんな、悪いですよ」
「いいよいいよ。ご馳走させて」
然は見送りますと自ら提案できないでいる。胃袋を掴む他ない。うわずる声を気にしながら膠着状況の維持を試みてスイーツを追加で頼む。費やすのは古本屋でもらった食事券。お腹が一杯ですといったならお土産にしてもらう勢いだった。
今この時が勝負回。勇気を出して分水嶺を乗り切る。いくら水分補給しても砂漠みたいに乾いた喉で乾坤一擲唐突な自己紹介。
「あ、え、子安といいます。どうも」
HNでもコスプレネームでもいいから名乗ってくれという願いを込めて、直視しかねる彼女に心の中で祈りを捧げる。
「子安さん。ご馳走になっています」
ぺこりと頭を下げた。名乗る予定なし。気負いの一撃はあっけなく跳ね返される。駄目だ、好感度がてんで足りていない。座布団に顔を埋めて隠れたい。初見から基礎好感度が高くて、スリリングに二人の距離が乱高下するのはエンタメ世界だけなのだと改めて知る然。素直に聞けばいいのに聞けない。事情も話してくれないからには軟派みたいでためらわれる。血気盛んな触れ合いを求める男女が夜の街に消え、財布の中身を消して戻ってくる気持ちもちょっとわかった気がした。夜の蝶蝶さんは初期値が担保されているのだ。ゲージの伸び代はお客様次第という幻想を楽しむゲーム。
水をがばがば飲んでは給水機をいったりきたりして浮ついた気持ちを宥めようとしてきたが、そろそろ四杯目ぐらい。相当に不自然だ。いっそ誰かにきてもらうというのはどうだろうか。
「いやあ辛いのを食べたら喉乾いてきちゃって。あ、汲んできます」
口の中でもごもご言い訳をしながら然は座敷席を立つ時、脛を卓に撃ちつけて悶絶した。気づかわしげな彼女に、涙目で平気平気といいながら、まだ半分くらい入っている二つのコップを無理に引き取る。
明快な解決策をだしてくれる武野や四の五のいわずに行動する守田がいてくれない心細さを抱きながら、おのおのが団らんでやがやしている店内を縫い、キャラバンからはぐれた然はオアシスへよろよろと向かう。波風の立たない流れを作らなければ。
魅惑の圧力から解放され頭の温度が下がった然は、多少ましになった思考により最適の該当者をピックアップする。
稲坂だ、同性の彼女なら見送りのハードルがずっと低い。送り狼を考慮させないでよく、護衛役に適任。か弱い女性の背中を狙うごろつきAを素手で軽く制圧した後、警察から感謝状をもらう様まで想像できる。
そうだ、そうしよう。困った時の女神頼み、稲坂権現様。彼女は手と足が先にでるのがご愛敬の、話の分かるお茶目なイイオンナ。事情を話して拝み倒せば一肌脱いでくれるかもしれない。後で迷惑をかけたお礼に甘味を献上するとして……。
早速メッセージを送ろうと然は携帯をつまみだしてつまづいた。画面は黒い。充電切れ。やってしまった。重たくかさばる予備バッテリーなど、教科書の重量に負けて持ち合わせていない。
講義中、ゲームアプリのレベルアップに没頭したつけ。天罰てきめん。
「おお然よ、なんたる様だ情けない」
思わず独り言をつぶやき宙を仰ぐ。ポスターのオドリャンと目が合う。片翼のローカルヒーローも販促のくびきからは逃れられず大きい焼き鳥の串を握っている。共食いだ。ヒーローは困った彼女をサポートしようという人情でなく、お近づきになりたいという下品な目的であがいてい己が身に反省を促してくる。
だがすぐにシズル感を刺激された然は安易な最終手段に逃げようとする。ビールで誤魔化す。だがまだお子様なので苦くて楽しめない。カルピスサワーとカルーアミルクと焼き鳥は合わないかもしれない。
しかし仮にも送ろうという人間が酔うのは差支えがあろう。新歓コンパ時のように酒の勢いで乗り切るは却下。これしきで酒なんて人生の荒波を越えていけるか不安だ。いつだって他人頼みなんだと思い知る。
まごついている然。料理を運び終えた大将は、帰っていった団体客の食器をぱっぱと片づけ、卓を拭き清めながら悩める青少年に助け舟をだす。
「こんな晩だ、うっかり……ように守ってあげるんだぞ。君は君だから遠慮せずに恋愛を楽しめばいいんだ。なあに今回はぱっとしなくても再戦のチャンスを作るからさ、やってみなよ」
ぼんやりしていて途中を聞き逃したが、おおよその意味を理解したつもりで然は頷いてみせる。
無策で戻ってきた然は携帯も動かせない手持無沙汰を誤魔化そうと、インテリアで置かれたルーレット式おみくじ機を汗ばんだ手でじっくりと撫でまわす。小さなメロンぐらいのレトロなアイテムに刻まれた星座表をゆっくりと眺めて、順番に星座を数えて逸話を思いおこそうとする。おうし座。ゼウスが牡牛に化けてエウロペを口説き落とした、だったような。
牛になりたい。
ネットの百科事典ですぐに答え合わせができないのがつらい。ギャルゲーの元祖主人公というべき恋愛遍歴を誇る神を主神に据えるとはギリシアも流石。源氏物語という昼ドラを教科書に載せて勉強する日本に負けていない。
「おみくじ機ですね」
彼女はそういってくれたので、汗まみれでかちこちになっていた然の顔がぱっと明るく輝く。そうだった。女性は占い好き、という手垢のついた俗信がある。然の頭の中で突貫工事のバベルの塔が完成するイメージが浮かぶ。自分でも意味がわからないがとにかく話題が一致するとはなんて素晴らしいのだ。
厳重な囲いを解かれた餓えた籠城兵のように無我夢中、つっかつっかえで途中の内容を飛ばしつつ然はしゃべくった。
「そうそう。よく知ってるね。大将がいうのはかなり昔に流行り喫茶店などに置かれていたものらしくて。近年リバイバルブームでふるさと納税の返礼品に選べるなど郷土の名産として脚光を浴びています。わが県も見習いたいですね。ちがさきにあったのはくじが切れてもう使われていなかった旧式だけど、大将が代替わりする際にインターネットのサイトでたまたま見つけて新規品を購入したんだって」
これ全て各放送メディアの報道をかいつまんで聞かせてくれた武野の功績だ。勢い余って彼の丁寧口調まで真似てしまった。
「存じてましたが本物は初めてです」
まくしたてる然の勢いに彼女は目をぱちくりさせつつも頷いてみせる。レトロ趣味。いい傾向だ。親、祖父母世代の物品は好きだ。手札が増えた。
「あ、そう? せっかくだからやってみよう。百円ね。あ、いいからいいから余興で」
ここぞと然は押し寄せる。小銭だらけの財布から百円をなかなかピックアップできない。
「生まれの星座に百円入れて、下のレバーを弾いてみて」
無事局面を切り抜けたら星座占いで二人の相性を占ってみようと思う乙女な然であった。彼女は戸惑った様子を見せてからコインを投入、然のレクチャー通りに下についているレバーを操作する。おとめ座か。然はあざとい。
すると筒状に巻かれた小さな色紙がぽんと生まれ、同時に透明なドームの中でルーレット台がくるくる回りだす。玉が特定の数字で止まる。たしなやかな細い指が包みを開けて巻紙をほどいていく。
横長の紙に数字の解釈がずらりと並ぶ。然もわくわくしながら符号するご宣託を追う。
「凶。帰りの夜道に気をつけて」
「うげえ」
親切な注意喚起といえばそれまでだが空気を読まない宣託がでてきてしまった。然の下心にとっては追い風だが
ルーレットの中に小人のおっさんも粋な、もとい邪な計らいをしてくれる。どうとでもとれそうな内容がでるものだと思っていたが具体度が高くてことに気まずい。どうせならもっと恋の予感とか、運命の人が見つかるといったふわふわしたものがでてきて欲しかった。
「だ、大丈夫ですから」
うって変わってどよんとした表情をする然を慰めるようにいう。彼女の携帯を使って店の前にタクシーを呼ぶなり、家族友人を呼ぶという選択肢もあろうが、不安にさせてしまった然もやっとのやっとでこういうしかない。
「いや駅まで送るよ。バスなり汽車なり。最悪タクシーだって」
大将はまたよろしくねと、彼女に数枚つづりのお得な割引券を進呈してくれた。彼女がリピーターになれば遭遇する機会が増すということらしい。少なくとも下心を抱く然の来店ペースは激増必至で真心と商才が高度にブレンドされた振る舞いであった。ありがとうございましたの声が、いよいよ本番を控えてもう空蝉になりかけの体に反響を続けている。
なんだかんだでお気持ちだけ、と社交辞令でやんわり断りを入られられる展開を待っていた然。すったもんだを経て想定外の了解をもらってしまった。
然は二重、三重の意味でびくつきながら夜の街へ一歩を踏み出した。外の風が涼しい。しかしアスファルトが不自然に硬いようで歩こうとするればやたらぎくしゃくする。
彼が頬をかなりの捻りを加えて引っ張ってみれば痛覚はかろうじて生きていた。こうして彼女を送っていっているのが信じられない。
とかく俗っぽい妄想を垂れ流して、破裂寸前に膨らませた風船みたいな緊張感を誤魔化そうと試みる。ぱんと割れてしまうか、吸気口の留め金が外れて、するするとすっ飛んでいきそうなのだ。
アクシデントよりも二人で夜道を歩くという状況がどんどん気力体力を削っていく中で、過激な露出よりも危険な意識せざるを得ない衣装が突き刺さる。どばっと解放しているならばどうだこのボディコントロールの日々で磨いたプロポーション、見てくりゃれという強烈な意思の発散が感じられ、曲りなりの克己心を緩和されるというもの。
加えて店内に比べれば暗い街灯りは女性の面立ちの解像度を絶妙に落とし、男児の想像補正を強める効果を発揮する。
この現象について川辺氏曰く、
「高校の時、担任の先生をみたらとても若々しくてスーツが素敵な美人やなあと思ってから、おもむろに眼鏡をかけたらおばちゃんやった」
という逸話より大学内では川辺第二原則と呼ばれている。
独り歩きといったって今時の女性は逞しい。夜道を短いスカートで歩いたって平気なのだ。むしろたまたま後ろを歩く形になってしまった然が恐縮する。急ぎ足をされてしまった際のなんともいえぬ悲しさを思い出す。
しかして彼女の裾もなかなかに短く、冬場でも妥協しない女子高生のプライドじみたミニスカートといい勝負をしている。白いニーハイの足袋が夜目にも際立つ。
良からぬ輩が野に放たれたままだという。やっぱりこんな扮装で出歩くなんて危ない。然がどんなものかと思うのだから、親御さんはもっと心配している違いない。
いかに当事者意識の薄い然とて彼女が翌朝のニュースで被害者としてとりあげられる様など見たくない。武術の心得があり走り込みを欠かさない稲坂嬢ならまだしも、もやしに豚肉が巻きついたような頼りない男がなんの盾になるだろうと不安を抱く。コートをかけてあげ、自他含めて不埒者を刺激しない方策をとりたいが、この頃は暑くなってきていて気の利いたものはない。
「臆病なライオンもとい、害鳥避けの案山子ぐらいになりゃいいけどな」
遠目からなら腰抜けの本性も見抜かれまい。強めの夜風に吹かれながら小声でぼそっと呟く。然は自分が無敵だと思っている年頃の子たちを思い浮かべながら、肩で威風堂々と風を切って歩く真似をした。文句があるならかかってこいの歩法。
数十歩と進んでみたものの、連絡はおろかまだ呼び名すら聞けていない。素性を知らぬまま別れるのが自然な流れが然を支配している。とかく自分は勇気というものに欠けていると思う。だがそれも潔しよし。鼻息荒くがっついた後、己の所業を振り返ると身悶えする苦行を想えば、興味本位で相手に不快感を与える質問をせずともいい。白夜という物語でナースチェンカに片思いした青年を見習い、エスコートに徹しよう。
遅まきながら人並みの気遣いに目覚めそうな然は、若年人口減少で往時の勢いを失った小道を抜け大きな道にでる。コンビニのまっさらな白昼光が出迎えてくれていた。
コンビニが明るく清潔なすっきりした照明なのはあれ自体がショーウィンドーというか宣伝を兼ねているのと、有名な割れ窓理論の応用らしい、どこかの講義でいっていた気がする。はしょっていうと暗かったり、落書きやポイ捨てごみ、薄汚れて破損個所が目立つと治安が悪くなる。都市計画に導入した事例の成果について批判もあるらしいけど。
なんて蘊蓄を披露したものか悩んだが然はやめておいた。散髪屋で順番待ちをしている時に読んだ女性週刊誌に男性が得意な態度で知識をひけらかすのに女性は興ざめしていると載っていたからだ。
「随分と明るくなりましたのね。夜なのに真昼みたいな、いいえ白銀の首飾りみたいな灯り!」
着物の袖をひらめかしながら、くるくると舞い踊りそうな様子で ありふれた光景に素朴な感動を発表する。ファンタジーなコスプレで放たれた台詞はパンチがきいている。
自然風景に感動して、かたっぱしから詩的な表現をしていく赤毛の少女みたいだなときめきようだ。
彼女の感性が爆発したのも無理がない。赤毛の少女は両親と生き別れて天涯孤独、たらい回しにされた末に孤児院へ入られていたところ、本当は男手が欲しいのに自分を引き取ってくれた優しいおじいさんに連れられて、これから住処になる場所へ入った時なのだから。
読書感想文を書くのも苦痛なぐらい、無味乾燥で大した感慨も沸いてこない男だ。昔気質の教授に文学の素養の欠片もないと、くさされて以来なんちゃって文学青年になるべく本を読んでいるが、教養をにおわせる発言はまだまだ底が浅くてこなせない。小学生のいきいきとした読書感想文に負けるレベル。
感性豊かなレディのダンスのお相手は務まらない。同じステージにあがれない然も女性恐怖症のおじいさんみたいにきょどきょどしている。
行き交う車のライト、それに街灯が足元を照らしているだけのありふれた夜。修学旅行でいくような著名な観光地、大都会と比べれば薄暗い。平木はいわゆる平凡な地方都市に属する。いくつか大学が点在する学生の街であるのを差し引いても、道が静まり人々が眠りにつくのも早い。
昔ながらの観光地区や大人の歓楽街こと常灯町を除けば、淘汰を生き残ったチェーン店たちによって似たり寄ったりに塗りつぶされた区画がだた広がっているだけで面白味に欠けている。
然は彼女の生い立ちについて推測を進めた。
辺鄙な平木ですらこんなことをいって灌漑に浸れる彼女はよっぽど山奥の田舎で育ったのだろう。妄想の中の彼女は、日本趣味の外国人男性が陶芸とかそういう文化に触れるため僻地に居を構えていて、コスプレイベントでわざわざやってきた。平木も山間部に落人の隠里という観光名所があるし、そちらの出身なのかもしれない。
疑問は次々にでてきて頭を埋め尽くしそうだが、順次質問して解決していくのは憚られる。
「でも星の光は弱いのね。地上の星が強いから?」
とうとうミュージカルが始まりそうなフレーズを放たれて然はびくりと身構える。恋愛真っ最中ならきっと応じられるのだろう。しかし素面のカラオケは調子っぱずれでしか歌えないのでいきたくない。
いよいよ彼女の田舎暮らし説が濃厚になってきた。
「ああまあ。田舎だからこれでもまだましなんだけどね。山沿いにいけばもっと綺麗な星が見られるって河鴨がいっていた」
アウトドア大好きな友人の言葉から引用。
「流れ星が見つけられないですね」
「はあ」
メルヘンぽい振る舞いはロマンチックなムードを作りたいという意識の表れだろうか。然に向かってかような言葉を発するとは、ひょっとして目が悪いのか。普段は眼鏡でコスプレ用で外しているとか。いやそうならコンタクトがあるじゃないか。期待のさじ加減がさっぱりわからない。
いやしかし俺なんかでそんな気分になるはずがない、うぬぼれるな勘違いするなと懸命に自戒する。だっていきなりではないか。かなわぬ恋に落ちても、上出来なライバルにかっさらわれるのはつらいだけだ。どう受け取ったものか呻吟する然に、彼女はお決まりの質問へ繋げてくる。
「願い事は決めてあります? あ、ほら流れ星!」
鳩が豆鉄砲を食ったように、という言葉がしっくりくる然は吟味なしの返答を迫られる。
「ああ……死者蘇生?」
「え」
不審な顔をする彼女に。然もしまったと言葉を濁す。相手が萎縮しそうな重たいネタをいきなり投げてどうする。それに科学的な流れ星の正体を知っているのに、かぶせるように不可能を願うなんて。
「ああ、えっと平木駅でよかったよね?」
「はい」
彼女はどこが家だと明言しないし、然も聞かない。しかし彼女が心もとなさそうに返答してくるのは伝わってきた。
そりゃまあ行きずりのそれも意中になりそうもない男にあれこれと教えたくないだろうが送り狼にはなるまいと誓った。とりあえず駅まで連れていけばいい。最新の情報端末に慣れていないおばあさんが、親戚の用事で縁遠く不案内な街で目的地にたどり着けるか不安でいっぱいで道行く人に道を尋ねる心地など味わうこともない。今時の若者にそれ以上は余計なお世話、ありがた迷惑なのだ。
田舎の悲しさ、ちょっと中心地から少しでも外れれば武野の帰宅の苦労みたく極端に便が減りはするが、まだ時間が早いので行き場がなくなるまでいかないはず。そうなったら漫画喫茶でもカラオケは厳しいが時間経過の手段はある。
無言の二人は閉店して灯りの落ちた何メートルかを進み、まばゆくライトアップされた橋に通りがかった。橋を含めた周囲は真新しさが残る白主体の綺麗な加工がなされた建材で舗装され照り映えている。然は自身の乏しい知識で検索をかけた結果、御影石張りではないかという信用度に欠ける推定を得た。
川筋も新世紀デザインでウォーキングコースにもなるように整備され、植え込みもシルバー人材の皆さんによる手入れが行き届いている。また踊り場も大きくとっていてミニコンサートでも開けそうだ。あざとくオシャレなベンチも設置してあり演出されたムードは恋人が喜びそうなものだ。前々時代の、たまに深夜に流れるとても古い邦画にありがちな、主人公が暗い橋の下や汚いトイレで悪党たちに袋叩きにされるというような薄暗い印象は縁遠い空間だ。
渡る途中で、然はふと歩を緩めちらと橋桁近くの小さな踊り場をちらりと見た。彼女もつられて視線を落とす。
「花が供えられていますね」
お地蔵さんが祀られた小さなお堂が立っている。併設の賽銭箱はつつましく貯金箱サイズながら、ありふれたデザインだ。角を補強する黒金も真新しい造作でちょこりんと置いてある。
女性を怖がらせるのはどうかと思ったが雰囲気自体はおどろおどしさよりも行き届いた清潔さすら感じるし、なにより然は先の失言を有耶無耶にしたいと願いがあったので、またもや博識で地元案内をしてくれた友人の受け売りをろくすっぽ整理もせず、あちこち欠落させながらまとめて喋った。
「いや民俗学でも境界というのはなんかバリアはっとかなきゃなんないと思わせる場所であってお地蔵さんなんだろうね。平木は落人や妖怪伝説が多い土地柄だから余計にね。人柱伝説がある橋なんだよ。大昔は流れもきつくてよく氾濫してたんだって。溺れた人も数知れずで。博物館の展示でも、平木はずっと暴れ川の治水に手こずってきたみたいだ。橋を架けなおしてもすぐに落ちてしまうから交通もしばしば滞ってた。うんとこさ頑丈なのを作ろうって時に、ええとなんだっけ。なにかの方法で選ばれた人が人柱にされて、工事をしたんだって。この真新しいのは最近また改修工事をしたからで、明るいのも新型照明になったからなんだって。治水が行き届いて、踊り場も拡張されたし案内板も新設されたっていうし。あわよくばプチ観光名所狙いで保全していこうっていうのだろうね」
圧倒されていた彼女だが、軽く頷くとお堂に向き直り静かに合掌した。
「彼女のお陰で私たちが不便なく安全に渡れるようになったのですね」
殊勝な心根の人だ。
例え今風の着物風のコスプレ衣装をまとってちょっとかまととぶった振る舞いをしても、彼女の率直さは絵になる。いかにも少年漫画出身の穢れなきヒロインをトレースした純朴さだな、と思う然。だが頬を撫でる生暖かい風と車の排気ガスが浮ついた気分を台無しにした。
自称文明人の然は人柱について否定的な見解だ。生贄をだしてまでやるもんじゃない。しかも人ひとり埋めたところで効果などないのだから余計にだ。神様とやらが食うにしても、多分雑食の人間は旨くない。供え物がいるなら饅頭などを捧げておけばいいとさえ思う。自己犠牲を尊び過度な美化をしたがる風土が気に食わない。いつの時代にだって姿形を変えながらもそういう雰囲気を醸造して拍手で送りだす連中はいる。自分もその無自覚な構成員かもしれないと思えばおぞましさに吐き気がする。
だが犠牲者のために祈りを捧げる彼女の神妙な面持ちに、ネット掲示板の率直な書き込みに似た揚げ足とりは無粋のようで口をつぐむ。それから自分と仲間を絡めた傍からすれば珍妙ながら然の財布と腹を直撃したエピソードで場を和ますタイミングを待っている。
「たまにお供えしてます!」
皆無に等しいアピールポイントが見つかってよかった。本来ならバレないようにやるのが最高だと思うのだが、永遠にバレなさそうなので自ら開示していく。またよからぬ色気を出すな、と冷静な自分がたしなめるがお調子者の性。
「大学で怪談が噂になっててさ。近くのコンビニで人気がなくなった丑三つ時、店員が品物を入れ替えるのに忙しいタイミングで幽霊がファッション誌を立ち読みしたり、スイーツを買っていくんだって」
「まあ。夜遅くまでやっているのね」
まあ、ときたか。僻地のコンビニは採算がとれないので二十四時間営業でない店もあるらしい。
「ここも田舎だけど元気な学生多いからね。それなりに需要があるんだろうね。それで、また聞きした話を面白可笑しく膨らませて語っていたら、端っこに怖いもの嫌いな子がいて。以後、興味本位でとりあげてすいませんの意味を込めて差し入れならぬ、お供えを」
大泣きする彼女に泣くまで殴られた。双方に謝罪の意を示すため、スイーツの人気店で大量生産効果ゼロの付加価値と糖分がたっぷりついた名物を彼女とお堂の前に供える羽目になった、という詳細は隠しておこう。身から出た錆とはいえ然は不満たらたらだった。
「でも後から来てみるとスイーツが消えてるんだよなあ。やっぱり管理人さんが回収してるのかなと。でも稲坂にいってないけどまた変な噂が流れてる」
「どんな?」
「ウォーキングコースをジョギングしてカロリー消費してる幽霊を見かけたって人がでた。流石にそれはもう落語のオチじゃないんだからと思うけど。自分じゃ、コンビニが客寄せに流した噂が、店員の悪ふざけ、じゃなかったらコスプレした学生の悪戯のどれかと思うんだよね。多分、三つめかな」
肝心の内容について詳細解説を忘れていた。
確か通りかかった旅の者、僧侶、巡礼、巫女が選ばれたと聞いていたがどうだっただろう、何度も通ったのに覚えていないという不謹慎ぶり。案内板の内容を確かめてから物申そうと思い、橋べりにある短い段差を降りて案内板を読み直そうとした。と、足元に転がっていた長めの木の枝を踏んでずるっと滑り、尻もちをつく。
尻をさする間もなく、出鼻を挫かれた然の眼鏡へぽつんと雨垂れがぽつんと落ちる。
「雨? あれ、おかしいな」
天気予報は今日も明日も晴れだったはず。星も月だって隠れていなかった。大気が不安定な季節だが、通り雨が降るなんていっていたっけ。
橋を叩く雨のリズムは乗ってきているし、ざざっときそうな気配がする。自分はいくら濡れても構わないが彼女を濡らすのはよろしくない。また話がややこしくなる。
然だったが、背中の荷物からあせくる。予備バッテリーすら持ち歩かない然が、用心深い友人みたく折り畳み傘を備えておくはずもない。重たい教科書の間をまさぐっても、おまけでもらった豪勢な栞に指がぶつかるだけだ。
あわあわしている然をあざ笑うかのように空にカーテンを引くみたいにすうっと黒雲がやってきて月と星の光を隠す。続いて橋を照らす長寿命を謳う新型照明までぷつりと消えた。新品街灯の不具合など予期していない。
これでもかと生暖かい風まで吹いてくる始末にどっきりかもしれないと疑いをもつ然。
古本屋に変な本もあったし、困ったコスプレの女性が現れるし、やっぱり今日は所々でおかしかった。武野や守田はいつもの異性に興味のない様子だったからさしたる違和感がなかったけれど。考え直してみれば、あんまりにも迅速な撤収ではなかっただろうか。他に誰も余計な助け舟を出さなかったのも妙だし、なにより女性が身を預けるなんて違和感ありまくりだというのに気づかなかったか。
彼女も演者だと考えれば合点がいく。困った美女を知らんぷりできる男は少ない。
地方ロケで急な雨の演出にスクリンプラーまで動員するとは豪勢な。当て推量をしたものの急に灯りが消えたので見つけられないでいた。傍らの棒っきれが転んで視聴者が期待する素朴な学生のリアクションをこなした然。クライマックスを飾るのは噂の幽霊。
しかし予想した幽霊はおでましにならない。代わりに橋の反対側から、現代風のくだけた装いをした怪しげな人物たちが歩いてやってくる。彼女は然と違って落ち着き払い、端に避けて進路を譲る姿勢をみせた。
それぞれフードと帽子を深くかぶっているらしい二人組は途中で立ち止まる。
「人払いしたのに残ってるぜ?」
「たまによくある。もっと遅くくればよかったな」
「どっちだよ」
「同業かもな」
「人じゃない可能性は」
「ないでもない」
然は棒を握りしめたまま段差を登る。彼女の手を引いて立ち去ろうとする。
「逃げて」
彼女は然にそっとつぶやく。
灯りに目が慣れていて、とっさの暗がりで揺らめく二つの人影の顔は判然としない。いっそ安っぽい怪物でネタばらしをしてくれてもよかったのだが。武野が読んだ新聞もアナウンサーのニュースも全部フェイクなのだろうか。あまりに手が込んでいる。もしや通り魔。だがあれは単独犯なのでは。
「おいおい。ガンつけてきてるんだけどあのお兄さん」
若者風のフード男は怒っているというよりも面白がっているようだ。やや高い声、わざと作っているようなソプラノ。
「一般人に手荒な真似はやめとけな」
帽子男の声は低い。年長者の落ち着きがある。
「いや違うかもしんねえし。経験者かもしれねえ」
然は諦めてくれるのを期待した。用事であれば物申してもよさそうなものだ。ネタ晴らしを待つ。 まだ夏は早いのに。タオルケットを出さずにまだ布団をかぶって寝ている春先、大気が不安定になって急に寝苦しくなった時みたく体がむしむしする。
「ちょっと話そうや」
こんな時に限って電源が落ちたままだなんて。不用心の瞬間をよくもついてくれる。フード男はかちゃかちゃと金気がぶつかる音がする。猟奇ぶりを強調する手垢のついた、ぴかぴかと光る刃物をぺろりとする仕草を真似てあざ笑う。一歩引いて様子を窺う帽子の男は狩りをやり慣れた感がした。
「あのさあ。舐めてんの?」
唐突な挑発。
「別にいいです。急いでるんで」
「いやいやいや。へっぴり腰のお兄さんは黙ってて。喧嘩売ってんのかって聞いてんのはその女。ふざけた格好しやがって」
多少目が慣れてきた。どちらも大学構内を歩いていても誰も振り向きはしない没個性な服装をしている。
「早く逃げて。交番かコンビニに駆け込んで」
武術の心得がある友人とは違う。然には精々痛いをページを埋め尽くす勢いで連呼する弱い主人公ぐらいの強さしかない。彼女の前で余裕をひけらかして迫ってくる相手をのすなど夢もまた夢。かといって非力でも悪知恵を駆使するタイプが往々にして得意とするトリック、例えば携帯のフラッシュで目くらましなんて芸当も電池切れでできない。
秘められた力が怒りや窮地で覚醒した試しもない。プレッシャーやしごきでただ潰れてしまっただけだ。
よってできるのは彼女が立ち去ることだけ。
防犯対策に倣って、面倒だと思わせ標的から外れるのが手っ取り早い。然が因縁をつけられても、とられるものは精々小銭ぐらいしかない。携帯は厳しいかもしれないが。彼女さえ逃がせば、然を腹いせにぶちのめしたぐらいでやる気が失せるはずだ。及び腰の然も覚悟を決めた。降ろしていた左腕をあげ棒を構える。
「おい。いい加減にしないと警察を呼ぶぞ!」
「頼む。残っていられても俺は恰好つけられない。逃げてもらったほうが助かる」
「お、やんの。そんなもん握って。やめときなよ、どうせできやしないって」
できやしない。然の腕が強張る。
「こら後輩。やめろって。ごめんねこいつ酔っちゃってるんだわ。気にしないでいっちゃって、おい」
帽子男が止めようとするが、腕をゆっくり振り払い、威嚇を恐れずすたすたと棒の半径内にやってくるフード男。
棒といってもたった30cmぐらい。魔法の杖にもなりやしない何の変哲もない細長い小枝だ。本気でひっぱたいても大した打撃は与えられない。
フード男はせせら笑いながら、ひょいと刃を振るってくる。棒っきれの上から三分の一あたりが切り払われてびゅんと跳ね、くるっと半回転して落ちていく様が然にはやけにゆっくりと見えた。アドレナリン過多でどうにかなっちまっているんだ。
「やっぱすげえな。できんじゃん」
「やめとけって。悪酔いしてるぞ」
帽子男が再三の制止をするもフード男は聞いていない。
「あっ」
背後で盛大にずっこける音が響く。あの走りにくいったらないぽっくりが仇になった。慌てていて脱ぐようにいうのを失念していた。それでもファッション用の足袋でアスファルトの路面を走るのはつらかろうが、捻挫していない限り、とにかく然が邪魔をすれば逃げきれそうだ。
「どうして……」
「あららあ、せっかく彼氏がいいとこみせようとしたのにどん臭え女。どうして、じゃねえし。わかってねえようだからさ、そのいけすかねえ耳、捥いでやるよ」
甲高い裏声で脅してみせる。
「あれこいつら本気でわかってねえの。つくづく無知ではらわた煮えくり返ってるわ。ガイジン俳優にきゃきゃあいってるのはこういう輩なんだろうな。イラつくぜ」
「おい。もうやめとけ後輩」
ジジジと不快な音を立てて照明が明滅する。然はここにきて気づいた。いつの間にやら街の灯りすらも変調していたことに。怯える然に手をださず、くくくと笑う。
「変電機の故障? 大学生一人騙すのにどれだけやるってんだ」
「なに勘違いしてんのこいつ。ポリティカルコレクトネスってやつ。リスクしょって本音を流すわけねーだろ。お兄さんも情弱かあ。だろうねわかるわ、こんなのがいいの?」
男はフードを脱いだ。新聞に載っていたのとは違う人相。いや闇に溶ける暗いマスクをかぶっていて面相は不明。酒でも飲んでいるのかやけにハイだ。後から警察の取り調べを受けても逮捕に繋がりそうな特徴はない。
「お兄さんさあ、生きてるだけで迷惑だって思われてるっしょ。だから今度も人の邪魔すんな」
こいつはどうかしている。物取りじゃない。端から愉快犯。
「ああ? 今この瞬間楽しそうだっただろ! 人生でもうないんだぞ。冗談はやめてくれ。酔ってるならどっかにいってしまえ。あんたも酔いがさめて留置場にいたら嫌だろう。俺よりましな面してるだろうから人生棒に振るぞ」
「なあ。万が一こいつらが這い上がってきちまうってことねえの?」
フード男は顔を後ろに向け帽子男に聞く。こちらもマスク着用で両手をポケットに突っこんだままだ。
「おら、適当なとこでやめとけって。研修終わりにしちゃうよ。俺こそ警察呼ぶわ」
「なんでだよ。悪いのはあっちだし。女、いいね。得意分野だ。でさ、子安君。もう居酒屋のバイトは辞めたの?」
「は?」
訳が分からぬ質問をぶつけられて目を引ん剝く然の表情に男は大笑いした。
「それそれ、そのなんにもわかってないような面をしてて滅茶苦茶怒られてたよね。注文は持てないわ、皿は割るわ。てか隅っこでボコられてたの見せたんだよね。首になっちゃったのか。お兄さんさあ、あんなのもできなくて生きてても仕方ないでしょ」
「だったら。俺が相手なら彼女は関係ないだろ」
「夜道にイチャコラしてる奴がいるなあと思ってたら、役立たずと勘違いブスがうっとしい恰好してて目障りで。どっちも指導してやろうと思ってさ。これただのナイフじゃないわけ」
「貴方はしたたかに酔っています。お帰りなさい」
「おい後輩」
「変なカッコでいわないくれるドブス。んなこと説得力ねえし。叫んでみなよ、無駄だから。110番もOK。試しにやってみな?」
「うがっ」
携帯が使えないことまで見透かしているとは思えないが。ぽいと蹴りだされたスニーカーを腹に受けて然はくの字に折れた。もう悪ふざけ以外の何物でもない典型を踏みすぎて不自然な暴漢。喧嘩慣れしていない然を執拗に、転倒するまで丹念に蹴りまわす。まともな抵抗すらできずに然は地面に這いつくばった。
「じゃあなお兄さん。さしすせそ♪ 人生にスパイスを♪」
「おやめなさい。それ以上、彼に手荒な真似をするのなら私は許しませんよ。若い方」
フード男は獲物の反応に喜んだが、帽子男は鼻を鳴らしただけだった。足を挫いてしまった彼女はぐっと下唇を噛む。
「どう許さねえんだ。教えてくれよ?」
「俺は女をやるからそいつ後よろしく。おい。たたきができるまで待ってろ!」
横たわる然をまたいで帽子男が悠々と通ろうとする。
「まだ雑魚Aが動いてるぞ坊や。ぼっとしやがって。反撃してこれない奴で経験値ぐらい稼げ」
足首を掴んで邪魔をする。フード男はポイ捨てした煙草の火を消すように手首を踏みにじる。
「うるせえ。下ごしらえはしといてやるから二番目でいいだろ先輩。よくほぐしといてやっからよ」
フード男は然にとどめの蹴りを入れておいてから、帽子男の尻を蹴りつけた。
「臭えのは御免だ。代われ。留め任す」
「チームプレーだと連帯責任になっちまうの。あんまりやりたくないんだけどさ、やめないと叱っちゃうよ?」
「やっぱお前いらねえわ。顔すぐ真っ赤にするわ頭ガバガバだわ」
「自己紹介どうも。そのテンションいらねえから」
ナイフで切りかかってきたフード男。帽子男はポケットから両手をすっと抜き静かに構える。身を翻してすっぽかし、左ジャブを入れてひるませた。手から滑り落ちるナイフ。
間髪入れず思い切り右ストレートを顔面にぶちかます。よろよろと橋にもたれかかったフード男にラリアットをしかけ、落とした。バシャンと落水する音。
「おーい、そのナイフの使い方は間違いな。近頃の餓鬼は不況に揉まれて老成してるっていうが……まだだまだな。反省しとけ」
「さてと。ごめんね。うちの若い奴が調子こいて。頭に血が昇っててさあ。でも誰に祈っても助けてくれないもんだぜ。どれだけ能書きたれようがそいつらがまともなら、とっくに救われてるし、災難に遭うこともない。落ち着きたいから一服吸わせてくれ」
這いつくばる然は胸の鼓動と体のずきずきに音を遮られ事態がわかっていなかった。内輪もめのどさくさで飛んだナイフが眼前に転がっている。然は全身全霊の力を振り絞って起き上がろうとした。昔脱臼した時は衝撃で身動きすらできなかったがまだ動く。両腕を突っ張れば打撲の跡がじりじりと熱をもっている。何頁を痛いの書き取りで埋められるだろう。十痛いくらい。危険信号が四肢からぐわんぐわんとひっきりなしに鳴っている。
「ふんぎぎぎ」
意味不明な会話は頭に血が昇っていて考察の余裕がない。だが無防備な背中を晒すのは完全に見くびられているからだ。見くびられなかったためしはない。武野みたく無頓着な人徳と学力が有り余っているせいで、上昇志向の強いエリート連中に危険視されたりもない。
今度の今度こそ正当防衛だ。他人を傷つけるくらいなら自分を切り刻んだ方がましだと常々思うが、今回は彼女を救うため。ナイフの突き方。持ち手を握り、柄頭に手を添えて走った勢いで突く。思い切りいく。だが躊躇が強い。悪夢みたいだがこれはバトル漫画じゃない。章が変わったらけろりと回復などありえない。内臓を痛めてしまうだろう。大量失血。携帯なしで救急車はどうする。過剰防衛で刑務所にいったら、さぞ先輩方に可愛がられるだろうな。然は優柔不断の臆病者だった。
はっとした瞬間に振り向きざまの裏拳を受け、意識が追いついた時はもうアクション映画のやられ役みたいに弾き飛ばされ欄干を体の半分ほどが通過しているところだった。然はスタントマンでもなく、マットが用意されてもいない。川へと真っ逆さまに落ちていく。そのままぶくぶくと水底まで沈んでいく。
「あちゃあ、いい殺気もらって、ついやっちまった」
悲痛な叫びに耳を貸す者はいない。
帽子男は仲間を助けもせず、改めて煙草に安物の使い捨てライターで火をつけ、マスクの開いた口に器用に突っ込んだ。
「だよねえ。ごめんね。おっしゃる通り自衛のつもりなんだけどな。眩しいかっこで夜を練り歩いている、あんたも怖いものがあるって学んだね」
「関係のない人まで巻き込んで使っていい力じゃないはずよ」
「新人研修なんて御免だってのに。あいつがよく人に好んで浴びせたがる言葉があるんだが、自己責任ってやつだ。当分頭でも冷やさせるさ。リングアウトして川から泳いで戻ってこれるか知らねえけど。おっといけねおしゃべりがとまんねえ。どうにかなんないもんかねえ」
「力があったら守れたのに……どこへいってしまったの」
彼女は悲しげにいった。
「俺は女はみんな化け物、調味料で味匂いを誤魔化したくわせものだと思っていてね。で、お姉さんこそ何者?」