虚仮淵の幻1・1~古本屋の~
虚仮淵の幻1・1天金の
この古本屋は春先と夏の終わりにだけ繁盛する。
立て付けの悪い手動扉を開けてくる来客はぽつりぽつり。業者の手による改装をせずに個人の修繕に頼っているのでつぎはぎで野暮ったい個所がちらほらある。
静謐さは図書館を上回る。勉強そっちのけでおしゃべり者がいないからだ。ひょっとしたら図書館の分館で書庫なんじゃないかと思うくらいだ。人が容易に寄り付かぬ独特な雰囲気は逆転の発想でデートスポットになりえるかもしれない。
入口近くには古ぼけた文庫本の棚がずらっと並ぶ。パラフィン紙にくるまれているものや、写植が小さく詰まっているもの、鉛筆で線が引かれ書き込みがされたままのものもちらほらある。貼られたふせん、あるいは表紙の裏に手書きで値段が書かれている。
大半の漫画本は出入りした形跡がない。買い手がつかなさそうな中途半端に古くて黄ばんだものだ。親の世代の髪型と水着をつけた写真集がカバーをかけられて眠っている。老朽化した団地に老いた住人がつつましく住んでいるみたいだ。
ここは大学もよりの古本屋。教授方が指定する教科書、文献を揃えるために学生たちがやってくる。かれらにとってそれらは大層値が張り、かさばるもので、しかも五冊十冊と積み重なってくれば笑えない出費だ。拍車をかけているのがこの地方大学の特色だ。広い視野の基礎教養を育むという題目で行われる未分化の履修過程があり、必要単位を得るのに専攻希望の分野外にも手を伸ばさなければならない。
将来性と食費諸々を天秤にかけた末の、古書を使い回してなんとか安くあげようという涙ぐましい行動だった。
時代は動いても教授陣はさほど動かないため、近場に点在する店を廻ったほうが手っ取り早いのだ。回遊魚や渡り鳥みたいに人々がやってきては前期の教科書を売り、次期の教科書を漁って去っていく。古本屋というより質屋みたいなものだ。
ネットがすっかり浸透して猫も杓子もIOT、注文すれば宅配にきてくれる今となっては時代の波にさらわれてしまいそうなものだがかろうじて持ちこたえていた。
遊びたい盛りの元気な若者にとって平時は馴染みの薄い場所である。勢いこのような場所に通う学生というのは昔気質の硬派な学生、少々変った好奇心の持ち主、変わり者の部類に属するかもしれない。
然は前者の友人に連れられて穴場にやってきた暇な大学生だ。
「やあ、おかえりなさい子安君」
本に囲まれたカウンターに座っている青年が子安然にあいさつした。手にはパラフィン紙つきの古い本。さらさらで柔らかな黒髪を真ん中程で分けている。然の拘りもない安い眼鏡と違い、文豪や伝説的ミュージシャンをフューチャーする洒落者が好みそうな丸眼鏡をかけている。絵に描いた文学青年そのままのいでたちだ。極彩色の光と音にあふれた盛り場よりもセピア色の枯淡な場所がよく似合う。私が店主ですといっても通りそうなほど馴染んでいる。
「ただいま武野。店番やってんの」
「ご主人は野暮用でしてね。ほら先日、地元の番組で紹介されたでしょう。一杯どうですか」
「あ、ほなすいません。頂きます」
武野融は頷くと自宅からもってきた小振りのコーヒーメーカーを操作する。古びた紙と黴じみた匂いと、脇にあるコーヒーの湯気がふんわりと昇る。流れるジャズがゆったりした時間を作っていた。
「出張買取かなんかかな。話始まると長いんだよなあ。まあ語りが愉快な名物店主と常連客の楽しい語らいなんて流れだったもんな。にしちゃあ客足増えねえな。今時分店開けてても誰もこないっしょ。いっそコーヒーも正式なメニューにする? よく知らないんだけどコーヒーミルでごりごり豆を挽いてさ。コーヒーと茶菓子の接待で古い漫画読み放題みたいな。カウンターの前に最中とかきなこ餅とかな」
「僕は居心地がいいですよ。心が和む」
「隠れ家感覚か。な、それなんとかマウンテンって豆?」
「御祝コーヒーのブレンドです」
「本当好きだね、それ。ペットボトル入りに飽き足らず豆買っちゃうとは」
「たまのひと手間が楽しいんですね。さて憩いの場がなくなると残念なので手書きのPOPで貢献しようと思います。良き本があれば簡単な推薦文を一筆ここにお願いしたいんですが」
カウンターの端っこで駅前の本屋やショッピングモールの雑貨屋でみかけるようなPOPカードが地崩れを起こしていた。
丁寧な言葉遣いでしゃべる武野。然は方言のアクセントが混じったラフな口調で応じる。
「俺、字汚ねえからなあ。最近の学生は古典すら読まずに講義にやってくるとは嘆かわしい、なんて教授に発破をかけられたから通ってるだけで。知名度が高い海外文学タイトルから読んでるだけだし、感想文も苦手だわ」
「コーヒーの感想をくれる心持ちでいいんです」
「そか。そりゃ仕方ねえ、待ってる間に探してくるよ。前半かったるけど後半の勢いがはんぱないのが多き気がする。ゴリオ爺さんにでてくる小悪党が主人公を20ページぐらい勧誘するとか、赤と黒のジュリアン・ソレルの純愛っぷりとか。あ、SFでもいい?」
「楽しみにしてます」
然はお勧め本を選定しに本棚へ吟味に向かう。いきなり書いてくれといわれてもすぐに思いつかなかったので本棚の林をゆっくり歩きながらめぼしいタイトルを物色する。といっても友人のように通好みの稀覯本の知識はないし、格調高い文章もひねりだせない。精々悪乗りで茶化して書くぐらいだ。
途中、でんと置いてある未開封の段ボール箱を避けながらゲームの古色蒼然たる攻略本コーナーに寄る。大昔のアクションものは攻略本があってもクリアできるかというシビアさがあるが、こういったものに載っている設定資料集的なものが好きだったりする。
「名物教授は大概この本を熟読しなさいという、リストを作ったほうが受けが良さそうだが。攻略本をお勧めしても、本体がないとだな。無駄っぽさが素敵だな」
時代の流行や喧騒が脱ぎ捨てていった、古くて面白い物が案外眠っているものだ。歴史がばらばらに詰まった本棚の列で時折立ち止まって古本のページをぺらぺらと捲ってみる。この瞬間が実にわくわくする。
しばしばオールタイムベストに名のあがる海外SF二、三冊と目星をつけながら。右や左に堆く立っている本棚を眺めているうちにやがて然は奥まった一角に辿り着いた。流石に精神が未成年はお断りコーナーの物品をレビューするのも、コーヒーをご馳走してくれる友人に悪ふざけがすぎるというものなので入口だけ覗いてパスしようとしたが、開かれた段ボール箱に入った似つかわしくない品が気になった。
物々しい紅い装丁の本。そこそこに分厚い。超有名文学作品の豪華装丁仕様のようなものが場末の歓楽街めいたところに何故。
「これまた凝ってるなあ」
古そうな外見に留め金までついている。頁の縁、天は金色。然はタイトルに目をやった。英語がプリントされたTシャツよろしく、それっぽい雰囲気の装飾文字が入っているものだが、典型例にもれず、文字となにがしかの紋様が描かれていた。
本っぽくない。凝りすぎてむしろわざとらしい感じすらあった。インテリアショップに背表紙はそれっぽいが中空になっていて物がしまえるようになっているものがあり、質感が似ている。洋館を舞台にしたアドベンチャーゲームでしばしばキーアイテムが隠されている類のものみたいだ。今回は別に自己主張の発光もなかったが場違いな違和感に近寄り手にとってみる。 しかしそこそこに重い。中身は詰まっているようだし、本の天と地、小口も指でなぞってみれば実物の紙の質感だ。なんだろうと、留め金に指を引っかけて外そうとした途端、静電気にびりりとやられてとっさに本を落としてしまった。
「いてえ。結構長く続いたぞ季節外れの静電気じゃないよな。ジョークグッズかよ」
このまま中身を確かめないのは癪だ。本の周囲を確認してから、今度は用心しながら留め鐘つまむとパチリという音と共に存外簡単に外れた。
子安然はぼんやり物思いにふけりがちな男だ。友人の武野融と違い広く浅くで、雑多なジャンルが居並ぶ古本屋は着火点に満ちている。
ちょっとしたアクシデントと仕掛けの後、頼まれたことをしばし忘れ手にした豪華装丁本にまつわる空想を膨らませた。近い装丁本を中学校の図書館でみかけたことがあった。映画にもなった古典的大作ファンタジーだ。
「本が重力に逆らって宙にふわふわ浮かんでみたり、秘められたなにかが解き放たれたりすりゃ面白いのになあ」
名状しがたいようで、ファンタジーものでは御馴染みの現象を期待しつつも、人為的な仕掛けや気配を探るように周囲を見回す。もしかして武野の仕込みか?
武野はインテリ然としている一方で茶目っ気と独特の笑いのツボをもっている。けれどこういったいたずらを企む男ではない。物好きなテレビ番組であれば本が話しかけてきたりする展開が待ち受けているはずだが、その際は冷やかさずにあえてのっかるのが大人だろうか。わざわざ片田舎まできてやるロケでもあるまい。
平木でネタに事欠かないといえば心霊、秘宝、埋蔵金の伝説ものだ。CGやネットが発達して、ちょっとしたことで炎上を起こすなどおおらかさがなくなった今日、旬のすぎたコンテンツに思えるが、平木のマジ度というべきか、おろそかに扱うと不味い度は相当高い、と然は思う。県立博物館の展示パネルの受け売りだが、大昔の平木は交通の便が悪くて左遷、流刑地かつ隠れ里の本場だったという。
呪いや祟りを真に受けるつもりはないが、恐ろしいのは人の欲、変に価値あるものを発見して利権争いまでうっかり掘り起こさないでもらいたい。事故多発地帯の怪談はある意味で警鐘といえるのだし。
江戸期は染物を主要産業としつつ、貿易港として栄えた。明治期以降は製糸、薬品業で発展した。 ちなみに朝のローカルニュースが伝えるところ、地域活性化のために観光資源化してやろうと官民で躍起になっているとのことだ。落人の隠れ里が隠れていない頻度であり、忍者屋敷も真っ青のからくり細工が保存されていて、観光名所にする予定であったり、うちの大学でもある遺跡発掘プロジェクトに関わっているらしい。
然も新歓コンパで右のような趣向のオリエンテーリングを隠しイベントに据えたものがあって、怖がりな友人たちが大揉めに揉めてあわや流血沙汰寸前までいった。柄になく止めようとしたせいでいいのを二、三発もらってつっぷしたのが大学デビューと思うとほろ苦い鉄の味が蘇ってくる。結局流血したのは然だけだった。
「曰く付きにしちゃ、出方が地味だもんな平気、平気。呪われる系じゃないさ」
不思議な存在感はある本だ。でもあんまり掘り出し物っぽくないし、大丈夫だと思う。なんとなくが不用心なのだがはてさて。
以前もここで魔導書をみつけたことがあった。学術書の流通が屋台骨の古書店だが、ニッチでサッチなジャンルのものも漂着してくる。大学生なら新聞位読んどけよ、というオールドスタイルの識者と業界の声を真摯に受け止めた成果で、新刊を扱う普通の本屋さんはネット通販や万引きなどで経営が厳しくなっていると小耳に挟んでいる。売れ行きが不透明なチャレンジャーなものを仕入れるリスクとロマンも背負い難い。その点、珍本奇本を探すのも古本行脚の楽しみのうちだ。
なんたらの生き血だとか魔法陣など古色蒼然とした中世の物々しい儀式を記したオカルティストの訳書だったり、歴史資料として錬金術師の書とされるものを紹介したもの、恐怖神話体系を想像した作家たちによる劇中頻出の魔導書の再現したものといったもの。
まずは二週間儀式を試してみような、ありきたりな健康食品の売り文句が真っ先に思い浮かぶ顔ぶれだ。ランプの精みたくコンビニエンスに願いを聞いてくれたそうな即物的効果は疑わしい。
食いすぎて腹を壊しても胃腸薬の利便性すら超えられない。順調に純潔を貫いていけば三十路に差し掛かると異能なり仙力が手に入るとネットでも古典でもいっているので無理をする必要もない、と然は負け惜しみ混じりに思うのだ。「こんだけ妄想で楽しんだらお釣りがくんだろ」
友達が少なそうな彼は味のなくなったガムをいつまでも噛むようにひとしきり独り遊びで間をもたせた。武野氏他に拾ってもらってよかった。大学怪談、便所飯を実行に移すところだった。
然はクリスマスプレゼントの包み紙を破るのに似た期待感を抱きながら赤い装丁の本をめくってみる。
「うーん」
当然というか、残念ながら何も起こらない。
ぺらぺらめくってみる。中身は凝っていた。読めない崩し文字や幾何学紋様、時折、意味深な寓話を秘めた図などが載っている。
「よくできてるよなあ。本に興味のない家族が、映画かなんかで使った備品とか公式グッズも一緒くたにして処分したのかな」
かつて大連作ファンタジー映画がヒットして似たジャンルの作品が大量につくられた時期がある。そういったものかもと勘ぐってあちこちめくってみたりひっくり返して登録商標を探してみるも見当たらない。静電気を起こす仕込み部品もない。
「子安君できましたよ。出来立てには期限がありますよ、お急ぎなさい」
「御祝アンバサダーだな、武野は。タイトルも読めやしない一点ものの感想を書いてもなあ。昔読んだ海外SFのレビューでお茶を濁すとしますか」
然は本を元あった段ボール箱の上に戻し、へいへいと返事をしながらカウンターへと戻っていく。彼の背中で本がばたんと開き、風もないのに頁がぱらぱらとめくれていた。
「お相伴に与ります」
然は言葉だけの謙遜を挟むと、淹れてもらったコーヒーの湯気を吸引する。リラクゼーションたっぷりのいい匂いがする。喫茶店で出てきそうなちょっと高そうなそれをずずずいと口に含んだ。詳しくはないけれど豆が磨かれている、という表現が頭に浮かぶ。
「ほほう。魔導書ですか」
「ありゃっ。武野みたいなタイプは実に非科学的ですねと、けんもほほろに斬って捨てると思いきや」
然は眼鏡をくいっとあげてみせる。下手でもったいぶった真似を受けて、コーヒーの芳香を格調高い仕草で楽しんでいた文学男子はふふと笑った。
「夢があって結構じゃないですか。遊び心というものを忘れてはいけません。学者もファンタジスタなのですよ。雪男、宇宙人、ツチノコ愉快ですね。僕も夢みている話がありましてね」
「意外や意外。守田にも聞かせてやりたいよその言葉。そういえばロジックに通暁した学者先生でも詐欺にころっと騙されるっていう話があるなあ」
然は勢いのまま喋るお調子者の悪い癖を発揮して、自ら進路がわからなる。うへんと咳払いして軌道修正を図った。
「あ、ちょっとピントがズレちゃったか。古い因習の残る田舎で、それに託けた陰惨な事件があったとして、たまたまやってきた名探偵が推理もそこそこにどっぷり信じちゃうみたいな。ん? これでいいのか」
「あらゆるものを疑ってかかるものですが。学求に純真であるからこそ陥穽にはまる場合があるのです。例えば子安君がさる作家の初版本を手元に置きたいけれど手元が寂しい。資金援助をしてくれと頼まれれば僕は疑いもせずに、出世払いとして将来の発展に貢献したと思い笑顔で財布を痛めるでしょう? ところでどうでしたかあの本は。感想が聞きたいです」
「うぐっ体のどこか痛い。夢とロマンというのは絶対、丸本先生関係だな!」
「ご明察。子安君は超能力者ですか?」
「いやいや」
武野のユーモアに然は含み笑いで返す。
「先生はあまりの多作と業績ゆえ、双子、三つ子はたまた五つ子でさらに魔術師であったという噂がありましてね」
「すげえ」
「実際に先生の遺された本を読んでいくと僕もそう思わずにいわれなくなりますよ」
エリートでエクセレントでエレガンスな優等生、武野融の個性。それは郷土の偉人にして大学者丸本海流にぞっこんということだ。首ったけ。
きっと妖艶な美女がベットにもろ肌脱いで入ってきても、彼は同氏の本を読むのをやめないだろう、然はそう思えてならない。大学院過程まで進んでゆくゆくは研究者になりたいらしい。俺は中卒高卒で社会に飛び込む才覚も根性もないのでとりあえず額面の学歴にすがったけれど大違いだと思う。目的意識が高い人は違う。夢を持ってる人はかっこいい。
「丸本海流伝説ね。草稿の字が汚くて読めないんだっけ」
釈迦に説法の心持ちで丸本海流記念館の展示パネルで得たうろ覚え知識で相槌を返す。何を隠そう他県組の然を県立博物館へ案内してくれたのも地元民の彼だ。朱も交われば赤くなるというし、友の影響で卒業する頃には俺もインテリオーラが板についているかもしれない、と然は思いたい。
「両手で筆記しても書き留めたい内容と速度が追いつかなかったからとされています。暗号化したのだ、という陰謀論めかしたユーモアを発揮する方もいますがね」
「なんか多いらしいね。丸本先生がらみの詐欺話。歴史的発見、未発表原稿や私物が真っ赤な偽物だったとか」
「残念ですね。大学のどこかに戦時中の文化破壊的検閲を逃れるために作った秘密図書館があるという話をご存知ですか」
「あったようななかったような」
「先生の机と未発表の草稿があるに違いないんです。いえ是非、あってほしいものです。人類の発展のため」
「なんでかロケット好きだったんだよね」
多分野への関心を抱き、影響を与えたことから平木のダヴィンチの異名があるらしい。これもパネルの知識。資料館があったり銅像が立ったり、二時間ドラマの題材になったり、はたまた大河ドラマの主役になってもらおうという運動すらあるお方は尋常じゃない。
「果てしなき軍拡競争を宇宙開拓競争に挿げ替えたのは先生の功績です」
スイッチが入ると丸本談義が数時間続いてしまう。師匠が型破りだが彼も負けてはいない。教授の講義すら代理を任され、彼のレジュメは裏ルートで取引されるというすでに異端で異例の末恐ろしい片鱗をちらつかせる人物なのだ。
今もその兆候があった。友達だからわかる。
講義の内容が掴みをとるものから、次第に核心を帯びた深淵で複雑なものへ及ぶと彼は生徒の存在すら忘れて熱弁をふるう。結果、今風の無学な生徒どもはもれなく安らかな心になり健やかな眠りにつく。
練達した僧侶の読経が門徒を恍惚と感動へと誘う如く。然も心地よい眠気に誘われて、いつしか腕によだれを垂らしながらカウンターにつっぷしていた。
ああ、そういえば武野は門前町生まれだといっていた。納得。平木は供える菓子も旨かったな。
むにゃむにゃ。
武野の熱血講義はテンポがいい。然を心地よい眠りに誘う。1/fのゆらぎなるものがあるのかもしれない。うとうと舟を漕ぐたびに夢と現の波間をゆらゆらまどろむ。自分は決して不真面目なのではない。ハイエンドな友人がきめ細やかに描画する世界が、こちらに搭載されたCPUやメモリ、グラフィックボードの処理が追いつかないだけなのだ。眠くなってくると心地よくぽかぽかとぬくもってくるものだ。熱をもっているのだ。今の然はファンがぎゅんぎゅん回っている状態が続いていた。眠りとはすなわち冷却機能。カウンターは堅い。風通しのいいハンモックにゆらゆら揺られて眠りたい。
講義の合間に教科書のはじっこで行うのも冷却作業。ひとり○×ゲームをしたり歴史上の人物に落書きしたり、パラパラ漫画に挑戦したり。学校が突然テロリストに襲われた時、昼行燈だけど熟読したマニュアルに従ってきびきびと行動する自分を思い浮かべたり、大胆な服を着た女性に視線がロックされるのもそうだ。いや違う。俺の頭は熱暴走している。
それからの然はよく眠った。
「あの。寝覚めの一杯くださらない」
誰かの声がする。起きなければ。いや待てお客さんなら武野がいる。電話口で暗証番号をお尋ねいたしません、玄関で徴収することはございません、詐欺事案で口酸っぱくいわれているぐらいに女性が声をかけられることはありません。話題を選ばずにいてくれる稲坂以外の女性はどうも絡みにくい。そういえば彼女ならファンタジー世界にロアフレンドリーな存在だ。めっぽう強いし。
邪魔だからどけなければという発想に残念ながら彼は及ばなかった。だから然は夢のほうへ船出した。机は堅いが二度寝は気持ちがいい。
さっき嗅いだ匂いが鼻からすっと入って意識をくすぐる。
「子安君、そろそろおきようか」
「ああ? あれ、寝てた。六時ぐらい?」
つっぷしていた然はしかめっ面をあげた。武野がコーヒーカップをそっと置いてくれる。入口の引き戸を眺めると西日が射している頃だった。
「そうですね」
「日付跨いじゃってない?」
「いえ」
そういうことがあった。古典海外文学の前半巻をかったるいし時代背景が馴染めないなと苦心しながら読んでいくうちにどんどん引き込まれていき、中盤から後半の怒涛の展開にしばし時を忘れていた。で、気が付けば十二時間ぶっ続けで読んでいた。
寝て起きてみれば時計に目をやれば一時間しか経っていない。すっきりしたし得した気分だ。
だが外を見れば雨が降っている。今日は晴れのはずなのに。そういえば明日は急にお天気下り坂、と地方局のお天気キャスターが笑顔で傘を忘れてないでくださいといっていた。
「寝てたわ」
「おはようございます。ではなくこんばんわ」
「我々の業界では晩でもおはようだ。飛行機に乗って日付変更線を越えた気分を味わえたかもしれない」
「違うと思いますよ」
淡々とそして丹念に違う点を拾っていく武野。
「いくら客がこないからってカウンター付近で居眠りはよくなかったな」
「きましたよ」
然は側頭部をぼりぼりかいた。えっ、ああと言葉を探す。見つからなかったので起立して素直に頭をさげた。それからコーヒーを飲もうと思う。気は回らないが気にする質だった。
「すいませんでした反省します。なんか誰かの声がしたと思ったんだよな」
「うら若き女性のお客様が一人だけ。仮装をした」
「あらー」
近所話で町内の新事実を掴んだおばちゃんみたいにすっとんきょうな声をあげる然。カップをとりあげる武野の眼鏡が少し曇る。
今度は念のため、お客さんの迷惑になりやしまいかと店内を見回してから然は尋ねた。
「仮装、どんな? ハロウィンにはまだ早すぎるね」
「水面にきらめく日差しのような銀の髪。膝丈の着物でぽっくりを履いた」
「急にポエマーになった。酔いどれ貴族詩人の書きなぐった愛のポエムは嫌いっていったじゃないか!」
「血税で遊興に現を抜かした恋の歌ですよ。子安君は木っ端うざいと思いませんか?」
「ごめん。ぐうたら大学生は胸に痛い。多分武野が思っているのと違って俺はもてもてなのがうっとおしい。彼が遊興の片手間に仲間と物語りしていなければ吸血貴族も悲しき人造人間も生まれてなかったけどね」
木っ端うざい。丁寧な語りに時折お国言葉が混じるのが彼だ。
「さておき、酔っていなくても思わず形容が浮かぶ愛らしさでしたよ。エルフというものが実在するのであれば、ああいったものなんでしょうね」
「俺の目が覚めるようなとまでいかなかったか。お客さんきたの気づかなかったごめん。しかし膝丈着物のぽっくりチョイスに銀髪ウィッグをしたお客さんが客足の遠のいた古本屋にねえ。見せる相手がいないのに。ちぐはぐだ」
「地元を盛りあげようと、若い方々がそのようなイベントを企画しているようですし、満喫してもらえると喜ばしい限りですね」
「余所者、若者、たわけ者が大事だっけ。地域活性論の抗議のつかみでやってたね。それでどんな顔だった」
「ええ。面立ちは外国の方のようでしたよ。耳は尖ってました。言葉遣いが少しぎこちなかったですし、ついさきほどまで辞書の類や現代用語の本を熱心に読んでらっしゃいました。コーヒーを煎れなければ残り香があったかもしれないですね。美味しそうに頂いてもらってなによりでした」
武野がにこっと笑う。御祝ブレンドコーヒーが幻の女性の痕跡をかき消している。行き交う女性の香水が薫る様はつい振り返りたくなる時もあるが、然の詰まり気味の鼻がむずむずするだけの時もある。
「香料の種類は興味が及んでいないので特定は難しいです」
武野は女性をよく観察しているが声色は淡泊に留まった。冒頭で美辞麗句を並べようとしたものの、恋愛対象というよりも名探偵。それか野鳥の会が主催するバードウォッチングに参加している人みたいに感じる。然ならもうちょっと下世話な目線を投げたはずだ。
「うちはコスプレの帰りに寄る場所じゃないけども。さしづめアニメで日本に興味をもってやってきた留学生かなあ。そんぐらいの人ならもっと有名なはずなんだけど。ぜひ拝見したかった」
「起こすのも気の毒でしたので。店番を頼まれる前からいらっしゃったか、僕が先生の本に熱中していて来店に気付かなかったかですね」
「さっきさ変な本開いたんだけどそっから出てきたのかなあ。さっきのアニメの美少女風コスプレの人。んなはずないな、ごめんごめん。世迷言は聞き流して」
「本から人、よいですね。ただ美女はいらないです」
「……じゃあなんならいいの。美少女? むしろ美青年?」
「君、それは断然丸本先生ですよ」
訝しむ然になにがおかしいのかという顔をする武野。愚問だった。
「先生の著作に魂がこもっていて、講義をしてくだされば素晴らしいと思いませんか?」
「ああ……うん。勉強がはかどるね」
「でしょう! 僕は時々親戚の子の家庭教師を引き受けるのですが至らなさを痛感する度に夢見ますよ! ああ僕は先生と勉強したい。休憩でバウムクウヘンで糖分補給がしたい! 小高い丘で町を見下ろしながら未来の話がしたい!」
武野は両手でカウンターをぐいと押して立ちあがり、指揮者のタクトみたいに握りこぶしを振るう。
のりきれない然はぼんやりした丸本海流の顔を思いだそうとしている。銅像の前で武野が記念撮影をしてくれたのだった。アングルを変えて何十回も撮った。その後は然が武野のスマホのカメラではなく、親戚から借りてきたというフィルムのレフカメラで何度も撮った。彼の部屋にお邪魔したことはないが、引き伸ばされた額縁入りの肖像写真が数葉あるとみていい。
彼に悪いが豊かな毛髪の老人ぐらいしか印象に残っていない。音楽室の額の中に飾っていれば見分ける自信がない。音楽家でなければ老賢者、魔法使いの先生といった容貌だ。
「そうだね。ファンタジーだけど本から出てきたのが丸本先生の精霊だといいね」
「僕は科学者志望ですがあたたかい奇跡は大歓迎です!」
然は気のない返事をもう一度繰り返す。武野は件の本を確認にカウンターからはきはきした早歩きで本の林へ消えていった。
「腹、減ったな」
透明なドアの外の夕日を探しながら然はぽつりといった。
それから間もなく店主が戻ってきて、お礼にいきつけの料理屋の食事券をくれた。