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虚仮淵の幻~冷やし虚淵はじめました~  作者: 浜野海苔雪
人物・用語紹介(仮)
2/15

虚仮淵の幻1・0~平木の~

虚仮淵の幻1・0~平木の~


 地方都市は早く眠る。車の往来も失せた橋のほとり。苔むした灯篭はつましい光で俺たちの輪郭をしぶしぶ照らしている。外縁はひっそりと闇に溶けて不明瞭。俺は町の清掃活動に勤しむ。

「――、――、――」

 対岸に立ち尽くし、飽きもせず情けなく呪いの言葉を投げかけてくるものがある。川幅の広い対岸に陣取っていても耳元に吐息がかかるのと変わりない。川のほとりに寝床を構える女怪のねとつく視線。俺はうっとおしい蚊を払うように手を振る。

 御大層に頭から水を被ってびしょ濡れで白の長襦袢。非常灯にも劣る光量の中では半透明のポリ袋からはみ出た粗大ごみに映る。鬼火といっていいひんむいた眼、水草まみれの黒髪。柳の木でも植えてあれば古典に則ったいっぱしの幽霊。有名な幽霊画に沿っているが脚はある。意外性の乏しさに苦笑いすらこぼれ失神にほど遠い。追い払うつもりでいるならもっとましななりをしてこい。それとも妖怪の括りのつもりか。大学者が両者の違いを定義したと民俗学の講義で紹介があった。幽霊は意中の相手がいればどこへでも出張して丑三つ時に訪問する、妖怪はテリトリーに侵入した者なら誰彼構わず黄昏時など境界上の曖昧な時間帯に出る。

 所詮古い区分けで、幽霊然とした風貌で恨み言をたらしながらも出現場所と時間帯が特定されている。どちらの特徴も有することは前以て読んだ資料の通り。

「なんでだよう、なんでだよう。いきなりやってきてなにするんだよう」

 連中のぼやきは悪い言霊が込められていると教わったが実例が転がっている。奴の傍らにうずくまる若い男はさっきから泣き喚きお仲間の命乞いを繰り返す。

 駄々をこねる餓鬼でも苛立たせない。決めるのは俺であってお前ではない。怨霊のしみったれた昔語りと泣き落とされた軟弱者の擁護など今更耳を貸してやるつもりなどない。俺はイヤホンを耳に繋ぐ。音楽プレーヤーから流れるポジティブなフレーズは負け犬の言葉を寄せ付けない。

 返答は引き金でする。銃声は橋に茂る草むらに吸われて反響を起こさない。わざわざ近寄って殴るまでもない。大学生は銃でいい。マズルフラッシュで俺好みに明るくなった。廃ホテルの住人から仕入れた特注品は異形にも効果を示す。弾を埋め込まれたごみ袋はふらふらよろめく。淀んで薄汚れた川そっくりの血がごぽごぽ溢れ、たらたら流れる。

 青白い面に載った目玉をひんむいて執拗に呪いをかけても全てが徒労だと理解を始めた化け物は前傾姿勢をとる。

「この橋に巣食っているんだろ。隠れても俺はまたくるぞ。生活圏に勝手に蠢くもんがあると不快なんでな。逃げてもいいが、そのちっぽけな堂は残っちゃいない」

「……」

「そいつを盾にしてみろよ?」

 助け舟を出してやる。そうしても躊躇なく撃つ。相手は水妖。川に潜んだものを探すのは非効率。放流させるつもりはない。岸に留め置くか敵意を向けさせてあちらからのこのこやってくるようにしておきたい。

 躊躇する女の形へ四度、五度と立て続けにトリガーを引けばその度、奴は欠けていく。的確な射撃で後一歩が踏み出せない。川に逃げられないジレンマに癇癪を爆発させきいきいと耳障りな恨み言を立てる。耳に水が入った違和感があるが臆するところのない俺を倒す決定打に成り得ない。口をぱくぱくさせながら、お得意の水中にもいけず裸足を震わせることしかできない化物女を冷然と見下す。

「三十秒待ってやったがてめえらの御託は五秒で聞き飽きてたよ」

「……」

 わざわざ指導してやる俺も人がいい。

「うじうじ暗いこといってないでさ、ゴー・アヘッドだろ」

 化物が苦し紛れに投げてきた石ころは避けるまでもない。フードを掠って飛んでいき、からころと乾いた落下音を響かせるだけで終わり。唐突に発射音が途切れた。

「おう? しまった! 弾がないだと」

 大仰に銃を見直す仕草をする俺。おまけに引き金を空引きする素振りまで付け加えてやった。手札を切り終えたらしいと踏んだ途端、みじめな歓喜にわなわな体を震わせる。

「やれやれ。人の不幸を喜ぶようになっちゃ終わりだな。何年先まで祟ってくれる予定なんだ? 百年、千年か?」

 


 ーーその日の夕方。おんぼろ雑居ビルの三階、せせこましく薄暗い探偵事務所。俺は講義の帰りに面接を受けていた。

 室内で出迎えた男は無精ひげで帽子にサングラスを被っていた。安っぽくてかてかした合成皮革の回転椅子に浅く腰掛ける。薄手のジャケットに手を突っ込んでプラスチックの安物ライターと真ん中が凹んだソフトケースを机に置く。一服やる前に灰色のデスクを滑らせてよこしたのは白と黒の殺風景で角が折れた名刺。俺は大して読まずにしまった。

「よくきてくれました。俺もさっき帰ってきたところだ。吸える場所が外になくってね。ほとんど税金なんだからそいつで優良喫煙スタンドでも作ってくれないかね。君もやる?」

「やりません」

「いいことだ。かけつけ一本だけ、許してくれよ」

「どうぞ」

「すまんね。本数は減らしていってるんだがストレスが溜まるとつい」

  灰皿に異なる銘柄の吸い殻が雑魚寝している。崩れたファイルを片隅にまとめ、手動シュレッダーを床に降ろし用地を確保する。卓上の小型吸煙器のスイッチをつけるとブーンとファンが回る音と緑色の作動ランプ。壁を黄ばませ布地に染み込んでいるのを見れば喫煙歴が知れた。

「ささ、そこらにソファに座って。実入りのいいバイトなんだけどハイリスクハイリターンの極みでね。自己責任になっちまうからこその報酬っていうのを含み置いて欲しいね。犯罪の片棒を担ぎはしないよ。何分危険なもんだから誰でもやれるもんじゃない。君を一目見た時から出来る奴だと直感してるからもう八割方採用なんだけど、残り二割分を気楽に面談をさせてもらっていいかな?」

「よろしくお願いします」

 俺は一礼してから腰かけたソファはリサイクルショップで安く買い叩いただろうおんぼろで、破れた箇所を間に合わせの黒テープをべたっと貼って補修した跡が元の色とそぐわず貧相さが目立つ。ハイリターンを謳う奴がエレベーターもついていないかび臭いビルの三階で無精を晒す現状を俺は胡散臭く思っていた。

「ところで君、街でタレントを見かけたら嬉しくして撮影したものをUPしちゃいたくなる?」

「浮かれやしませんよ」

「うちは秘密厳守なんだ。風評被害ってのが一番困るのよ。案件処理後は密やかに風化させていく。火消しにしくじるとクライアントが煩いからな。友達や恋人に自慢してみたり、ネットで煽ったり書き込みは控えてくれ」

「はい」

 慎ましやかに機器の鼻先で貧乏くさい吸い方をしたが、パワー不足の吸煙機が収めきれなかった紫煙はバニラの甘ったるい匂いをさせる。人心地ついた男はどうも、と礼を述べる。

「さあてと誰の紹介だったかなと」

椎平しいらさんの紹介できました」

「ああ……」

 ひとしきり一人で楽しむと男はサングラスを机に置く。帽子を脱ぎ、木製の帽子掛けにさっと投げたが外れた。俺は黙って拾いにいく。

 再開発からも忘れられた場末のビル群の窓に張った探偵社のポスター越しに深まる夕暮れが照っている。

「おっとありがとう。コーヒーいる?」

「お気遣いなく」

「まあそういわずに煙の迷惑料と思ってさ。さっき買ってきたぴかぴかの御祝ブレンドだぜ。地産地消に協力したまえ」

 ロゴが入った紙袋のテープを開封する。アルミパックのドリップバックを破り、鼻にくっつけて忙しく香りを嗅ぐ。

「そうですか。頂きます」

「そうこなくちゃな」

 男はぎいぎい煩い椅子を立ち、むき出しの蛇口で場違いに真新しく清潔そうなパールカラーの電子ケトルに水を注ぎ、赤色の作動ランプを灯す。それから照明のスイッチを入れる。

 よれよれのシャツとネクタイ。無精ひげ。短髪にカットしたものを理髪店に行きかねてぼうぼうに伸ばしているような野暮ったい長髪。三十前半の中肉中背。白日に晒された男の側が面接で落とされそうなだらしない恰好をしていた。信用度は身だしなみ相応といったところ。


「椎平・バークレーさんから。あの人また活きのよさそうなのを寄越してきたね。繁忙期の兆しがあるんで即戦力が欲しかったところで助かるよ。接点見えてこないけどホテルでスカウト?」

 ようやくここにきて俺が提出した履歴書に目を落とす。

「はい。実体を知らずに怯えるなんてつまらないでしょう?」

 連れがいい出して聞かなかった肝試しに俺は渋々ついていっただけだ。

「本当に出るって噂が立ってるらしいね。あんなホテルに夜な夜な忍び込むなんて度胸がある。まあ、君らぐらいの年で威勢のいい余所者なら……」

「あれは本名ですか?」

 幽霊はいなかったが実体付きの胡散臭い輩がいた。違法薬物でも取り扱っているなら通報してやろうと思いもしたが連中が取り扱っていたのはもっと奇妙な品だ。効果を確かめる機会に乏しそうな代物。

 男は黒のカップホルダーを二つ出し、パステル地の紙コップが連なったビニール筒をひっくり返す。

「聞いてみた?」

 ケトルから軽快なメロディが流れ、ランプが赤から青に変わる。

「しらばっくれました」

「あら残念、好感度不足だね。家賃払ってるって噂だけどな。ようし沸いたぞ。こいつはクランの仲間からお勧めのブレンドでね。入門編のアソートパックだ。赤、青、茶どれがいい? 緑もあるな」

 ブレンド名は披露せず色だけだったが俺は直感で選ぶ。

「赤ですね」

「お似合いの色だ」

 近く製造終了となる古いタイプの照明器具は経年劣化でじぃじぃと気にし始めれば耳障りな振動音を起こしている。



 川岸から去らず悠長にうろたえている俺。これっぽっちの疑問も抱かず川にざぶんと飛び込む化物。

水面をすっと滑る影はこちらへやってくる。案の定、雑魚が餌に食いついた。例えもっと暗くても目測を誤ることはないだろう。あまりに邪念が強いせいで姿を隠しても気配を消しきれない。

 さっさと逃げれば寿命が延びたものを。実力を測り損ねたのが運の尽き。

 哀れみすら覚える俺の眼前で、奴はほんの一息で伸びあがってきた。流石に腐っても化物、自ら釣られるとはご苦労な跳躍力だ。岸に捉まることも蹴ることもしないでほぼ垂直に浮上してくる。

 直に吐息を浴びればじめついた奴らの瘴気が黄砂よりも速やかに喉を蝕んでいくようだ。急に物事に対する考え方が悲観的に傾くのを感じて俺は三歩後ずさる。全てが上手くいかなさそうで、全てが否定され通す不安。頭で炭酸を零したみたいにしわしわ広がっていく恐怖は過呼吸を誘う。青白い面にひんむいた眼玉。忌まわしいぎざぎざの歯。化物の悪相は見下げ果てる。

 腰を抜かした俺に覆い被さり、首根っこを両手で捕まえて得意の土俵に引き摺り落すつもりなら当ては外れだ。俺は水泳の最中に悠々と予備弾倉を装填し終えていた。

 呪詛が蔦みたいに指へ絡みつくが、眉間へ特別製をありたけ叩き込む。

「どうしてなんでずるい」

「またそれかよ。改心しないもんだ。恨むのは不甲斐ないてめえ自身だ」

 そいつは結局恨み言から前に進めずに派手な爆ぜ方をしてフードを汚しながら死んだ。体液の飛沫は冷たく、川の水並に臭く俺をげんなりさせる。名残は川べりにもたれかかった長襦袢。今は泥水よりもコーヒーが飲みたい。

「延々引き伸ばしたにしてもあっけない幕切れだった。あんたらにゃ一生わかんなかったんだろう。それも終わりだ」

 見開きで戦闘を終わらせて次のページで美酒に酔い女を抱く。陰気はなし。これが主人公ってもんだろう。明るい場所へ戻りたい。



 コーヒーは思っていたより旨かった。砂糖は入れなかった。クランで紹介したという奴はセンスがいい。

「君、そっかあ。平木民かあ。それで肝試しとは、いやあ大した度胸だよ。ご家族からあれこれ迷信を伝え聞いている地元の子なら若さを差し引いても不味そうなものにうっかり近寄るまいとするもんだ。他県の子よりもずっと強く遊びの冷やかしでも後悔するかもしれないと思うんじゃないかな?」

「ええまあ。連れが他県だったんで。平木がそういう土地柄っていうのはガキの頃から祖父母から聞かされてましたけど、ああいう噂は古いものと関係がないと思ったんで。もしいたら指導してやろうと思いました。面白いじゃないですかゲームのバグっていうか裏面を遊ぶみたいで」

「座右の銘とか聞いていい?」

「ゴー・アヘッドです」

 顎を撫でさすりながら男は感心した。

「ほほう、うちは相手が相手だけにポジティブじゃないとやってけないんでね」

「メンタル強いんで」

「十年物の怨念とかヤバかったなあ。この前、学校で若い命を絶った子の捜索はつらかった。子供はいないけど依頼主側や弁護士の身勝手な言い分が小憎らしく思えたぐらいでね。ビジネスでなければ憎まれ口でもきいてやろうかと思ったぐらいだ」

 コーヒーに意識が向いて男は履歴書をやる気なさそうになぞりながら、因果な稼業で自身の善性をアピールする。

「ああ、あの高校ですか。小中ならまあともかく、高校生になってまでいじめってダサいすね」

「だろう?」

「いじめさせる隙を晒すのも問題ですけどね。まあ他のクラスの連中の進学に迷惑でしょ。自然界の草食動物に比べたら親に飼われている俺らはほんの火の粉ぐらいでしょ。学校の祭壇って噂を中学の時聞いたんですけど、あれ本当ですか?」

「ん、あれは嘘じゃなかった」

「へえ。句一句さんも?」

「うん。しかしよくその若さで割り切っちゃえるねえ君。余程自信ありとみた」

「俺、間違ったこといってます? 勝つか負けるかの生存競争でしょ。ないっすよそんな余計な感情を抱いてる暇は。余裕っす。」

 俺がきつい視線を浴びせると男は先に顔を逸らした。

「いいや。最近ちょっとのことで追い詰められちゃう感受性が強い子が多くて、ちゃらんぽらんなおじさんは気の毒になっちゃうくらいだよ。俺らは相手の土俵に率先して飛び込んでいくスタイルでね、きついとこ結構あるから。慈悲深い奴ほど神経が参っちゃって長続きしない。前通ってた子は他人の痛みに敏感ないい奴だったけど、弱り目に祟り目で入院しちゃったからね。可愛くて優しいナースさんが看護してくれるのが救いだよ。しかもスケート丈が短い! 俺も怪我したらあそこへ送ってくれ。あの心的外傷はなかなか治せないんだけどね」

「幽霊やってる奴らって要は甘えでしょ? 逃げずに鍛えてきたんで。もう戦う前から負けている相手にやられるのがわからないですね」

「いい方は荒いけどふてぶてしさが頼もしいね。劇中でタフな闘いをやってもエンドロールじゃ明るく酒を飲んで女と気楽に関われる。少年漫画みたいな明るくてガッツのある人材を求めていたんだ。ほうこれはすごい、全国大会出場。表街道を邁進するところをなんで胡散臭い駅裏の路地にきちゃうんだもんなあ。わかんないもんだな」

「郷土愛ですね。糞みたいなやつらがいるって思うと腹立つじゃないですか」

「他県の子向けのもんだからこれはいらないなあ」

 男はスチールのデスクに並んだファイルから出してきた単色刷りのイラストが入った二つ折りのパンフレットをしまおうとしたが、俺はざっと目を通しておきますといった。

~まもろう平木!~

・平木は昔、交通の便がとても悪かったので古代より風光明媚な貴人の左遷地、中世は落ち人の隠里が……。



 汚れた水溜りに浮かぶ長襦袢からは、在るだけで漆黒の闇でも注意を引き付けてくる強い穢れは感じない。これでもう妖怪はいない。試験は合格だ。後は帰って報告するだけ。穴の開いた長襦袢は送り雛よろしく川に流す。スニーカーの爪先にそれをひっかけた矢先、豚野郎が鳴いた。

「なんて真似をするんだ」

 襲われているところを助けてやったのに哀れな男が俺に盾突く。片隅でガタガタ震えていたのに急に憤って立ちあがる。

「彼女がなにをした。事情も知らないでいきなりくるなり攻撃するなんて」

「許せないといったのか、別に女と呼んだ化け物を庇いもしなかったが? 終わってからいうなって」

「どうして撃ったんだ」

「塵を掃除するのに理由があるとでも? いるだけで迷惑なんだよ。人間の足手まといと同じでな」

「俺はあんたみたいなのが嫌いだよ」

 いい年して泣き叫ぶ男は嫌いだ。助けてやったのものを、化物に短い間に依存していたらしい。

「赤ん坊でもない癖に泣けば許されると思ってないだろうな。末路を見ていただろ? 四の五のいうなら奴と同じだ」

「俺はあんたが許せない」

 そいつは俺から奪っていたナイフの刃を向けた。血迷って橋を向かって切りかかるつもりでいる。次から次へと。俺は確信する。こいつを別の場所で見知っている。責任転嫁、逆恨みが得意な奴。

「そうかよお前憑かれちまったか。外に出せないな」

 俺が敵と認識した相手を許すとでも。奴はもう人間じゃない。ならばやることは決まっている。掃除の手間が増えた。



 地元民にとっては取り立てて驚くほどもない事例を書き連ねたパンフレットを目で追ううち、念願の一文に行き着きついた。俺は音読してみせる。

「――私たちは皆さまの心の平穏を守ります」

 男はふっと笑う。

「漫画みたいな謳い文句だろ? 知り合いが考えた文章なんだけどそれ。実際は誰もしたがらない地味な町内のどぶ掃除みたいな重労働なんだけどね。深夜逆転気味になるし。そこんとこクライアントのケアや地道できつい尾行が続く探偵業と似てるわ」

「学生なんでありがたいです」

「恨みを深く抱えて熟成させている場所へ出向いて、揺さぶり起こせば呪いを真っ向から被る羽目になるし」

「害虫駆除に似てますね」

「そうだな。コンプライアンスから手柄も誇れないし。色々難しいのよ」

「でしょうね」

「胃腸は頑丈? 残酷描写に耐性は?」

「作り物には慣れてるんですけどね」

 赤のコーヒーは野暮ったらしい男と違って赤の袋のコーヒーは豆を磨きぬいて作ったすっきりした味わいだ。

「失礼ですけど聞いてもいいですか?」

「個人情報はやめてね」

「ハイリターンとおっしゃいますけど羽振りよくなさそうなんですけど」

「ああ……高級外車を乗り回したり、常灯町で豪遊もしない、ビルの上層に住んでもないもんな。暴利をむさぼる詐欺まがいの悪徳業者と違うんでね。うん慈善事業だよ。君への報酬は約束するから。オドリャンみたいなヒーローさ。俺はオドリャン、片翼の雄鶏!」

 腕を振り回して大見得を切った。

「陰気でイタいんで一話で切りました。あんなのよく見れますね」

「あら。安っぽい子供っぽいと思ってみているうちに情が移っちゃたんだよなあ」

「ダサいです」

「この手の話題は掘り下げないでおこう……流行りの話題を仕入れとくんだった」

 趣味の不一致で男はしょげる。俺は共通の話題になりそうなものを探した。

「警ら団が組織されるのは本当はこちらの理由じゃないんですか? やるんでしょ、昔みたいに鬼退治」

「ああどうだろうね、大手を振って妖刀を持ち出す口実ともとれるけど。そんなのよりうちに補助金とかくれないかなー。商売敵になっちまったら嫌だな」

「公家は現地に出向かない代わりに、武士は陰陽師の下請けみたいな真似をやっていたんですよね。現地で妖怪退治を繰り返すうちに力と信用を得たという」

「だったっけ。あれさ平和と自由を愛する人に評判悪いよね。国会は大荒れでしょ。野党がつまらんスキャンダルを引っ張ってきては足止めだよなあ……じゃあやる気満々の君に面倒事について書かれた誓約書を進呈しよう」



「ちーす。深夜にいたいけな乙女を呼びつけるんじゃないですのよ。おーい。きてやったぞ」

 下宿のドアを開けるなり彼女は近所を憚らない音量でいった。やってくる学友を待つまでの間、住み着く玄関と直結した狭い台所を吟味すると母親みたいにいった。

「食器ぐらい片づけなさい……ぐう。プロテインがいるぅ……」

 きりっと決めた彼女の腹が鳴る。

「ぷう」

 出迎え側は屁を放つ。間が悪かった。ご立腹の彼女は反射的に家主の頭をはつった。

「生体楽器によるジャズセッションと思えば」

「腹ペコなんだよ! そっちは満腹か! たったアイス三個で餓えた野獣の檻にほいほいきてやったんだぞ!」

「二つで充分ですよ」

 慌てて向きを揃い直されたスリッパに眉を潜める。

「うげえスリッパ汚ぇ。土足で上がりたい位だよ。いつだって暇でしょう。セルフネグレクトの気があるな。あんたの悩みは杞憂なんだから相談しなさいっての」

 猫科の猛獣の赤ん坊を彷彿とさせる丸みを帯びる骨太で高密度の肢体は弾力に富み柔軟。明るく元気、好奇心旺盛で子猫みたいに大きな瞳をきょろきょろさせる。髪はショート、カラーコンタクトのオッドアイがより猫めいた可愛らしさを演出している。腕に凝った三連ブレスレットをはめている以外は至ってシンプルなトレーニングウェア。ショートパンツに両手を当て、相手の勘違いを訂正する。

「なぁにじろじろ見惚れちゃって。ごろにゃーしていいのは未来の旦那様だけだよ。手ェ出したら、ひっかくぞ?」

「だが一部は平均値だ」

 うっかりモノローグを漏らしてしまい、三発ほど平手打ちを受けた。友人の求めに応じて日課のわざわざジョギングを中断してまできてやったのに失礼な奴だ、とこぼした。

「なんだよ……くそう、セクハラ野郎の軽口をこれぐらいで許してやるなんてあたしもお人よしだなあ。やっぱり純潔の朝雪みたいに無垢だから……っていつもの眼鏡どこいった。眼鏡がないとあんたって認識できないんだけど」

 稲坂は携帯で級友をパシャリと撮影し、身体的特徴をなじられた意趣返しをする。

「うわ、写真写り悪化してる。新聞に載っても違和感ないわ。でなによ緊急事態って。眼鏡かけな? てかさいつもかけてるのにどうやったらなくすの?」

「眼鏡は置いといていい」

「あんたって見習うのはいいけど武野の隣で背伸びして小難しい本読んで気障ったらしくしてみたり。あの新書は時代によってラベルの色が違うんですよ、とか受け売りしちゃったり。あれさ賢い方の眼鏡だから絵になんだからね」

「豆知識をおすそ分けしたかったんだって」

「臆病ライオン君は頭でっかちなんだから、まず心身を鍛えよう。だからあたしに師事するのです。月謝はスイーツでいいから」

「熱い勧誘は次回でいいんで」

「はあ、今うさのこと美少女じゃなくて筋肉ゴリラ扱いしただろ」

「マウンテンゴリラはとても繊細でストレスで下痢したりする。ゴリラさんに失礼、ふごはっ」

「うさはとってもデリケートだよ!」

「急用なのに……拳が飛んでくる。それともう少はつけな……なんでもないです」

「すぐ口に出すのやめ。で、今度はなんで泣きついたの。武野を差し置いて兎ちゃんをお呼びってことはレポート提出じゃないね。じゃあゲーム? 詰む前に検索ぐらいしなさい。どれどれ、アクションパートなら……あれ?」

 部屋を覗いた兎は絶句した。ありうべからず光景が広がっていた。

「どうなのよ!」

「そうなんだよ。俺にもよくわからないんだよ。酷く酔った後みたいで」

「通訳が必要か? 日本語で詳しく話せな。でないと物理で吐かせるぞ。なんであんたが部屋に女を連れ込むんだ。犯罪だぞ」

 端切れの悪い相手に、兎は強く促した。

「なんで即犯罪になる。不条理だ」

「他に弁明はなし。よし確保!」

「冤罪だあ。俺にそんな蛮勇あるもんかあ」

 ぱきっという音を立てて兎のブレスレットがひとつ外れた。兎は手首をみて生真面目な顔でいった。

「あの子はなに?」



 長々、細々と書かれた誓約書を要約すれば何事かあっても責任はもたないということだった。

「了解しました」

 男は床を蹴って椅子をぐるりと回す。

「即断か。あー俺にも自信に満ちていて顧みない頃に戻りてー。とまあ蒙るかもしれない不利益についてだけど瘴気にやられて心身不調になったり、あっち側から戻れなくなったり、最悪とり殺されたりするんで。俺がさせないけど」

「同情しなければいいんでしょ。ちんたらせずにぶち殺してやりますよ」

「君ぐらいの人物がうちにきてくれるなんてもったいないぐらいだ。というかなんできちゃったの。平大生なら、ゆくゆくはO2グループにいけるのに。親孝行できるのに。俺と大違いだわ。お守り袋もお母さんが持たせてくれたんだ?」

「平大入ってO2以下はまあサボってる人間なんで。ここで終わるぐらいならそれぐらいの人間ってことで。俺は終わりませんけど。これは彼女からです。まあ平木民なんでおろそかにしないですけど、自力でもぎ取るもんだと思ってるんで他力本願はしません」

 男はサングラスをかけ直した。

「ああ……君やっぱり眩しいよ。俺暗い場所にずっといるからじめじめしたのがデフォルトになっちゃってんだ。むしろ今度俺も合コン参加にして若さと明るさを取り戻したい。君なら美人女子大生を紹介してくれるよね?」

「採用してもらえるなら。暗闇に巣食っている、ろくでもなしを成敗したいんですよ。だって胸糞悪いでしょう?」

 ふう、といい二杯目のドリップを準備する。

「あっちでもその意気が続くといいけどねえ?」

「はい? ネットで群がって口だけ正論いうやつらじゃないですよ俺。早速いきましょうよ」

 聞捨てならない文言だ。俺を疑う口ぶりで無駄話を続ける。この男は見る目があるのだろうか。あいつの売り物を使えばすぐのはずだ。こいつができる程度が俺にできないはずがないのに勿体ぶりやがって。やけに悲観的な物言いもイラつかせる。

「当然です。作業の流れを教えてもらえますか?」

「そんなに慌てないで。資料読んだでしょ。日を置いて冷静になってそれでもと思ったら、再度意思を連絡してくれればいいから。現地研修はそれから。試験という名の研修は次にして酒でも奢ろう。それにおじさん多少なり落ちてる気分をリラックスして切り替えたいんだよな。法律変わって合法だよな?」

「はい。俺はやることやる前から飲みは好きじゃないですね」

「いや適応テストだよ。君が酔ったらどうなるか非常に気になっていてね」

「変わりはしませんけど」

「本当に? 克己心があるようだけど周りの人はどういってるかな。飲みの席でちょっとした事件があったりした?」

 居酒屋で俺の頭にビールをぶっかけて泣きべそかいた下級生店員との一件を思い出した。あれは相手が悪い。

「特にないですよ」

「じゃあネットに書き込みをする時、後輩に接する時はどんな論調が多い? 薄着の女性を見た時は? つまらない相手にかっとさせられた時の対応は?」

「だらしないのが多いんで間違っているのをおかしいというだけです。自制心のない奴らと同じに見えますか?」

「いやいや。若さゆえの無鉄砲はあると思うけどさ。抑圧が解かれた極限の精神状態に置かれる場合があるんでね。今は俺も気さくで面倒見のいいおじさんだけど、現地じゃ面倒くさがり屋のぶっきらぼうになっちゃう」

 それは元々ではないか。

「やわなメンタルじゃスポーツはできませんよ。問題ありません。随分回りくどいじゃないですか、みなまでいうなら実地で見定めてくださいよ。地元にずっと住むんでよくしていきたいという想いに嘘偽りはないんで」

 だらしのない恰好の男は俺をじっと射すくめた。それから手をぱんと叩いた。

「そうかあ。人手も足りてないし、是が非か見極めようじゃないの。若いっていいね……そんぐらい尖っていれば、多少削れて丸くなったら丁度いい塩梅になるかな」

「ありがとうございます」

「じゃあ。研修というか、見学というか。いくだけいって雰囲気味わってみるかな。護身用具はあの人から入手してるか」

「はい。専用と聞いたので早く使ってみたいですね」

「勇ましいね。あちら側で妙なのに遭遇しても慌てない。大方が寂しがりやとか構ってで、お客さん相手に饒舌になるから無駄話を続けて正体を探るといい。ぽろっと弱点語ったりするから。人間の姿をしている者がいても注意すること。俺らもあの空気を吸うとハイなってわけわからんことやらかすのも厄介だ。だから同業者に出くわしても油断してはいけない。自前のスマホはあんまり使わない方がいいかもな、受信しちまうから」

「ホラー映画の間抜けな登場人物じゃないんですから。いっそリボンを付けたナットでも投げたり、ラジオやデジカメでも持ち込みますか?」


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