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陽光と白無垢

 季節は巡って初夏。本日、笹本呉服店は臨時休業である。

 しかし。

 現在、隆臣も市乃も絶賛働いている。

「午前中でよかったですね。真昼間だったら誰か倒れてますよ」

「もう、洒落になりませんよ」

 生地の薄い着物の袂をたすきで纏めた市乃が、ふぅと息を吐く。

「あ、隆臣さん、もうすぐ新郎新婦が戻って来られますから、スポーツドリンクの準備お願いします」

「スポーツドリンク?」

「はい。持ってきた保冷バッグの中に入れてあるんですけど」

 言われて隆臣が荷物を漁ると、確かに小さな保冷バッグの中で三百ミリリットルのスポーツドリンクが二本冷えていた。細身のストローも一本付いている。新婦の口紅が落ちないようにだろう。

 ついでに保冷剤も一個取り出し、市乃の元へと戻る。

 据え置かれているちゃぶ台にドリンクを置き、隆臣は保冷剤を市乃の首筋に当てた。

「ふぇあっ!? ……び、っくりさせないで、ください、もう……」

「ごめんなさい、暑そうだったんでつい」

「何でちょっと笑ってるんですか!」

「いや、なんか、……」

 涙目でふるふるしているのが可愛かったと、今言ったら確実に市乃は膨れっ面になる。それはそれでまた、とは思うが今はあくまで仕事中だ。自重すべしと隆臣は話を変えた。

「それにしても何でスポーツドリンクが?」

「ああ、私の経験上必要かなと思いまして」

「経験上?」

「ええ。昔━━確か中学生くらいの頃だと思うんですけど、着物を着て、今日みたいに外に出て仕事の手伝いをしていたら、熱中症になってばたんと倒れてしまって。新郎新婦が倒れたら大変ですから、持ってきたんです」

 過去の失敗に苦笑いしつつ、何だかんだ気持ちよさげに保冷剤を使っている市乃である。

 そういえば、前に「隆臣さんの手はひんやりしてて好きです」と言われたことがある。基礎体温が高い体質らしいから、暑さに弱く冷たいものが心地いいのかもしれない。ちなみに隆臣は地味に冷え症持ちだ。

 しばし他愛ない会話を続けていると、パタパタと忙しい足音が聞こえてきた。新郎新婦のお帰りである。

「あっつ━━━━━━━━い!」

 溶けたバターのように控えの間に飛び込んできた白無垢の新婦が叫ぶ。隆臣は「おいおい」と呆れ顔になった。

「佳代子さん、お疲れ様です」

「ああ市乃さん! 外あっつかったのよー! こんな季節に白無垢で神前式なんて選ぶんじゃなかったー!」

 文句を垂れながらもその顔は満面の笑みで、園木佳代子━━旧姓・三浦佳代子は市乃から差し出されたスポーツドリンクを飲んだ。


 三浦佳代子は隆臣の伯母であり、隆臣が笹本呉服店で働くきっかけとなった人である。元々笹本呉服店の従業員であった彼女は昨年の秋に交通事故に遭い、甥っ子の隆臣に後を託して入院生活を送っていた。

 そしてなんとその間に、担当医と恋に落ちたらしい。

 退院した日に延々と馴れ初めを聞かされた隆臣はそのいきさつをそらんじることもできるが、伯母の恋愛話を語っても何のメリットもない上にむしろ苦行なので割愛とする。市乃にせがまれたときは仕方なく暗唱したが。

 とにかくそんなこんなで、本日はめでたい祝言の日なのだ。


 続けて帰ってきた新郎と、これからお色直しをして披露宴だ。新郎が紋付袴なのは変わりないが、花嫁の衣装が白無垢から華やかな着物になる。

 よって。

「隆臣さん腰紐二本取ってください!」

「はい!」

「あと帯と小物を椅子の上に! 手が空いたら新郎様の衣装を整えてあげてください!」

「了解!」

 控えの間は即座に戦場へと化した。

 隆臣も市乃も必死に動き回る。披露宴が始まる時間というのは一応決まっており、招待客を待たせる訳にもいかないのでとんでもなく時間がないのだ。

「━━よしっ! 佳代子さん完成です!」

「新郎様もできました!」

「では、いってらっしゃいませ!」

「ありがとう市乃さん! 隆臣も、披露宴来てね!」

 やがて怒涛のお色直しは終わる。

 後に残るのはくたりと壁にもたれ掛かる市乃と隆臣である。

「……隆臣さん」

「……はい」

「これ、年に二~三回ありますから、頑張りましょうね」

「……はい」

「……お腹、空きましたね」

「……空きましたね」

「私達も、披露宴、行きましょうか」

「そうですね」

 市乃はたすきを外し、着物と髪をちょこちょこと整える。隆臣も裾を整えた。もうお色直しはないので、披露宴が終わるまで仕事はない。着物が乱れることも少ないだろう。

 一本の日傘に二人で入って、披露宴の行われる場所へ向かう。

 道中で、市乃がぽつりと呟いた。

「男物と白無垢だけは着たことないんですよねぇ」

 普段は振袖だが、店の広告塔として市乃は留め袖も着る。確かにこの世の着物で着たことがないのは、男物と白無垢くらいだろう。

 自分の肩辺りにある小さな横顔を見て、その少し残念そうな色を見て、隆臣はくすりと笑った。

「男物は分からないですけど……白無垢は、いつか着ると思いますよ」

 今はまだ、きちんと言うことはできないけれど。

 半分ほどからかいが混じってしまうけれど。

 純白を身に纏って、隆臣の隣で笑う市乃が想像できたのは、本当のこと。

 市乃は一瞬目をぱちくりと丸くして、それから頬を赤くしてはにかんで。

「夏じゃない時がいいですね」

 と返してくれた。


 笹本呉服店は明日もまた開く。

 しかし数年後、一週間ほどぽこんと臨時休業になった。

 臨時休業になる前日に、店の奥に掛けられた白無垢を眺めて隆臣と市乃がはにかんでいたことを━━知っているのは、まだ誰もいない。

今までお読みくださりありがとうございました!

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