思慕の櫛 後編
「隆臣さん、利子さんの連絡先ってご存知ですか?」
と市乃が聞いてきたのは週開け、大学での昼食のときだった。
日替わり定食の小鉢をつつきながら、隆臣は「そりゃまあ」と答えた。ちなみに本日のメインは生姜焼きである。
「なんか連絡あるんなら言っときますよ?」
「あ、じゃあお願いします。時間のあるときでいいので、旦那様と一緒にうちの店に来て下さい、と」
「わかりました。この前の櫛の件ですか?」
「はい」
ふふっと意味深に微笑んで、市乃は親子うどんを啜った。咀嚼しながらにこにこ笑う。つくづく美味しそうに食べる人だな、と思いつつ隆臣は小鉢の胡麻和えをたいらげた。
一般企業に勤めている父の休みは基本的に土日の週休二日制なので、二人揃って店に来るのは日曜の午前、開店前になった。
この日ばかりは隆臣も早く出勤して待つ。
そわそわと落ち着かない気分で手持ちぶさたにいると、勝手口が開く音がした。出ていた市乃が帰ってきたのだ。
「ただいま帰りましたー」
淡い黄緑にピンクの花を散らした着物姿の市乃は、小さな紙袋を抱えて部屋に戻ってきた。ふわりと甘い香りがする。
「お帰りなさい」
「はい。あの、隆臣さん。ご両親って甘いものお好きですか?」
「両親ともかなり好きですよ。和菓子系は特に」
「よかった。近所に有名な大判焼きの屋台が来てて、ついいっぱい買っちゃったんです。こしあんと粒あんと白あんと桜あんと……あと鶯あんもあって。焼きたてですから、ちょっとお先に頂いちゃいましょう。隆臣さん、どれがいいですか?」
「あ、じゃあ白で。お茶いれますね」
「ありがとうございます」
大判焼きを供にしばらくのんびりした時間を過ごし。
やがて、店の玄関扉が音を立てて開いた。
「お邪魔しまーす」
来客の正体は勿論、今日も相変わらず豹が好きな利子と、隣で怪訝な顔をする隆臣の父━━秋臣である。
腕を組んで現れた二人に、市乃が「ふふっ」と微笑ましげにひそやかな声を上げたのが、隆臣としては妙に気恥ずかしかった。
奥の部屋に向かい合って座り、とりあえず全員で茶を啜る。
話を切り出したのは市乃からだった。
「さて、改めまして本日はご足労いただきありがとうございます。先日預からせていただいたこの櫛なのですが……」
正絹の白布に包まれた飴色がそっと場に出される。
途端に秋臣が激しくむせた。
珍しい、と隆臣は咳込む父の姿を眺める。明らかに動揺から茶が気管に入ったと思われるが、大抵のことは冷静にこなすこの人物がここまで動揺するのを見たのは初めてかもしれない。
市乃は何となく悟っていたように笑顔をキープしている。
「どうしたのよ、あなた」
「い、いや……な、んでそれがここに」
「掃除中に見つけて持ってきたのよ。欠けてたし」
「なっ……!」
「え、駄目だったかしら。もしかしたら浮気の証拠かと思って」
「するわけないだろうがそんなもん! 少しは信用しろ!」
「だって二十年連れ添ったら流石にあなたは飽きてくるかなーと……思ったんだけど」
「誰が飽きるか!」
「……うふふっ」
「息子の職場で痴話喧嘩始めんじゃねぇよ……」
申し訳なく市乃を見やれば、市乃は市乃でにこにこ笑っている。仲いいですねぇ、と隆臣に耳打ちした。
小首を傾けながら、市乃は静かに言葉を紡ぐ。
「この櫛、見覚えがあったので少し調べてみたんです。そうしたら二十年前の資料にこれと全く同じものが見つかりました。その頃は毎年夏祭りに出店をしていて、そこで売っていたものだ、と。……旦那様。もしかしなくてもこの櫛は」
そこで言葉を切った市乃に、秋臣は溜め息を吐きつつ頷く。
「やはり。……隆臣さんから伺いましたが、お二人は二十年前にご結婚なさったそうですね。正直申し上げて、この櫛はさほど高価なものではありません。ですがお二人が二十歳で結婚し子を成されたならば、あまり手を出そうとは思えないものでしょう。それでも旦那様はこれをお買い上げになった。……おそらく奥様への贈り物として。それに気づいて、私、少しお節介心が疼いたんです。奥様、少し耳を貸していただけませんか?」
「え、ええ……」
身を乗り出した利子の耳に、市乃が何やら囁く。すると見る見るうちに利子の目が見開かれていった。
心なしか頬紅の色が濃く見える。
「ねえ旦那様。伝えることって、とても大事ですよね?」
言うが早いか市乃に腕を引かれた隆臣は慌てて立ち上がる。
「え? 市乃さん?」
「隆臣さん、ちょっとお散歩付き合ってください。十分くらい」
「え? 今ですか?」
「今です」
「……? いいですけど……」
何が何やらさっぱりのまま、隆臣は立ち上がり市乃に連れられる。
これ以上は野暮ですよ、と部屋を出てから市乃が悪戯っぽく笑っていた。
***
後は若いお二人で、ならぬ後は年上のお二人でというこの状況。利子は内心で「えええぇぇ」と呻いていた。
なかなかの食わせ者ではなかろうか、あの子は。
こりゃ尻に敷かれるわねと考えて、ふと隣の夫を見る。
こんな照れたような拗ねたような子供っぽい表情は、何年ぶりに見ただろう。
「……ねえ、あなた」
「……何だ」
「そういう表情すると、本当に隆臣にそっくりね」
「お前こそ、口元が緩むとそっくりだろう」
そうかしら、と笑う。
何だかんだ愛息子ももうすぐもう二十歳。つまりは二十年、利子は秋臣と連れ添ってきたのだ。それを思うと奇妙さを混ぜた感慨が胸を満たしていく。
「ねえ、あなた」
「……何だ」
「あなたは、あたしが嫌い?」
秋臣が目を瞬く。そして見るからに不愉快そうな顔を作った。
こんなところも隆臣とそっくり。
「そんなわけないだろう」
ええ、勿論知ってる。そう利子は笑った。
「信じてくれたらよかったのに。きっとあたし、喜んで跳ね回ったわよ。隆臣がドン引くくらい」
「それでも……なんだか、嫌じゃないか」
「気にしいね、もう」
言いつつ利子は飴色の櫛を取り出した。
欠けた歯が見事に修復されたそれには、可愛らしくも流麗な字が綴られたメモが添えられてあった。
『どんな苦しみも乗り越えて、どんな試練も耐え抜いて、美しい貴女を愛しましょう。
この櫛をデザインした私の母が、込めた祈りです。』
先程利子が市乃に囁かれたのと全く同じ文言。
「……二十年だし、記念にどこか旅行でも行きましょうか。和服が合いそうなところに」
答えの代わりに、利子は秋臣の腕に収められた。ああ本当に、あの子は察しがいいのねと今頃どこにいるやら分からない息子の上司に尊敬の念を抱く。
何だかんだ二十年、この腕は愛おしいままだ。
***
「別れの暗示?」
「はい」
近所の茶屋にお邪魔した隆臣は、きょとんとした声で市乃に問い返した。
「歯が欠けた櫛というのは、得てしてそういう意味を持ちます。おそらく隆臣さんのお父様はそれを知らずに、欠けていたことで安価になり、かつ先程言ったあの櫛のコンセプトを聞いて購入を決めたのでしょう。そして後でその暗示を知って、渡すに渡せなかったんだと思います」
「はー……。何ていうか……自分の親の事ながら甘酸っぱいというか……」
「ええ。なんだかもどかしくて可愛らしくて、ついお節介を焼いてしまいました」
不意に、市乃のもどかしいという言葉に隆臣は引っ掛かった。
……何だ。
親譲りじゃないか、今のこの距離感も。
思うと苦笑が浮かぶ。甘酸っぱいだの可愛らしいだの、今は二人とも人のことなんて言えないじゃないか。
行き着いた思考と、茶屋に他の客がいなかったことが、ぽんと隆臣の背中を押した。
向かいの席に座る市乃の顔を手招きでこちらに寄せ、黒髪の合間の小耳にそっと口を寄せる。
「市乃さん。……好きですよ」
内緒話のように落とした声は、互いに同じ感情があるのだと悟れていたから言える言葉を響かせる。
距離が離れて隆臣の目に映ったのは、真っ赤になった市乃の顔だった。見られていることが分かった瞬間に顔を隠される。
心の準備が、とか細く訴えられて口元が緩む。
やがてある程度落ち着いたらしい市乃が、隆臣に手招きした。
「……私も、……好き、です、よ」
ああ確かめられたと、幸福感が広がっていく。
今度の定休日、二人でどっか出かけませんか? 隆臣がそう言うと市乃は恥ずかしそうに頷いてくれた。
市乃の頬のほてりが冷めるまで待って、二人は並んで茶屋を後にした。
余談だが━━
数ヶ月後、利子から隆臣に電話が来て。
「市乃さん。……俺、弟か妹ができたらしいです」
「わあ! おめでたですか!」
と、隆臣は一緒に遅めの朝食をとっていた市乃と一騒ぎすることとなる。
今はまだ知るよしもない、ちょっとした未来の話だ。
ちなみに櫛にあしらわれていた蝶は、風水で「美しい」という意味を持つらしいです。
そこから櫛のコンセプトの「美しい~」に繋がる感じです。