思慕の櫛 前編
年度末のテストやレポートをどうにか消化し、隆臣と市乃は無事に学年を一つ上げた。四月、桜の蕾も綻ぶ頃である。
笹本呉服店では卒業式シーズンも終え、後は子供の入学式用に色留袖を借りに来る奥様方がちらほらと来るだけだ。よって必然的に団欒の時間も増える。
市乃と向き合って茶を啜り、隆臣はふうと息をついた。
「……なんか、眠くなりますね」
「そうですね」
市乃もどこかとろんとした目をしている。
それも当然だろう。保温性抜群の着物に温かい茶、窓から差し込む午後の陽光。眠ってくださいと言わんばかりだ。
薄緑の着物を纏う今にも意識が飛びそうな市乃をぼんやり眺め、隆臣はふと考えた。
そういえば、今の自分達の関係の名前は一体何なのだろうか。大学の同期、上司と部下━━確かにそうなのだが、それだけでは言い表すに足りない気がする。というのも、最近お互いの態度が少しずつ少しずつ変化しているのを感じるのだ。
もどかしい時期に入ったというか何と言うか。
隆臣自身、惹かれているのは分かっていた。ただでさえ綺麗で愛らしいのに間近でその凛とした芯の強さを見せられて、落ちない奴はいないだろう。
一方の市乃だが、ここのところ特に心情が見えてきたように思う。こんなふうに二人で過ごして会話を交わしていると、そういう関係っぽいなと思うことがたまにある。そして隆臣がそう思うとき、市乃は大抵耳や頬をじんわりと桜色に染めているのだ。
まるで互いに間合いを窺っているような、微妙なバランスがある。
自覚して、相手にも同じ気持ちがあると窺えるなら、欲しいと願うのは当たり前だろう。
ゆえに、隆臣は溜め息を落とす。おそらく市乃の恋愛偏差値はさほど高くない。隆臣も恋愛に関して取り立てて巧くはないが、少なくとも市乃よりは遥かにキャパシティがあるだろう。どうこの均衡を崩すものか。
緩やかに思考を深めていくと、遮るように店の引き違い戸が開く音がした。
「すいませーん」
途端、隆臣はビシリと固まる。
この世で最も長く聞いた女性の声が、朗々と店内に響き渡ったのだ。
「あ、はーい」
「っ笹本さんちょっと待って!」
「え?」
立ち上がろうとした市乃を制し、隆臣はそうっと土間を覗いた。
後ろでまとめた焦げ茶の髪に、一歩間違えれば市乃より若く見えそうなほど恐ろしく歳に合わない童顔。そして着ているトップスにはネコ科の猛獣の柄がそれはそれは堂々とプリントされている。
マジか、と隆臣は顔をしかめた。
「鈴原さん? お客様じゃないんですか?」
「…………ええと……その……」
「たーかーおーみー!! いないのー!?」
「……え? 鈴原さん、あの」
「……ごめんなさい笹本さん……あれ、うちの母親です」
市乃がきょとんと目をしばたたく。
ままよと腹を括り、隆臣は土間へと出て行った。
「……母さん」
「あら隆臣。いい着物じゃない、よく映えてるわよー。あんたが七五三のとき以来かしらね、和服姿なんて見るの」
「無駄話はいいから帰れよ。ってこら、何で写真撮った!?」
「記念よ記念」
「息子の職場にそんなノリで来るな!」
勢いのままに怒鳴ってから後ろの市乃に気づく。柱に寄り添うようにしてぽかんと親子の会話を見ている。
母が「あら」と何かを言おうとしたのでそれを遮り、隆臣は市乃に手招きした。渋面をなるべく和らげてから紹介の文言を告げる。
「俺の母です」
「鈴原利子と申します。いつも愚息がお世話になっております」
「これは高いところから申し訳ありません、店主の笹本市乃と申します。こちらこそ、鈴は……た、隆臣さんには大変お世話になっております」
「ありがとうございます。これ、つまらないものですが」
「いえ、とんでもない。どうぞお収めを……」
「いえいえ、いつものお礼ですからぜひ」
「……では、有り難く頂戴いたします」
日本の遠慮がちな伝統を眺めつつ、隆臣は頭を下げた市乃のうなじが赤いのに気がついた。理由も分かったが母親の前で口元を緩めてなるものかと必死に堪える。
お茶入れますのでおかけになっていてくださいと菓子折りを持って立ち去る市乃を見送り、隆臣は利子をジトリと睨んだ。
「帰れよ」
「やーよ。今日はちゃんと用事があって来たんだから」
「用事ぃ?」
「それより市乃さん、美人さんねぇ。ああいうのを器量よしさんって言うのかしら。立ち振る舞いも綺麗だし、さぞモテモテなんでしょうね。あー、あたしも大学入り直そうかしら。いやいっそ高校から? このとんでもない童顔もそうすると活かせるかしらね」
「頼むからやめろ、親父が犯罪者と間違われる」
「お待たせしましたー」
盆に湯呑みと茶菓子を載せた市乃が戻って来たので二人して黙り、神妙な顔をして茶を啜る。
舌を転がる茶の渋みで隆臣が思考を落ち着けていると、市乃が利子をおずおずと見ていることに気がついた。いや、正確には━━利子の着ている服か。
「……いい豹ですねぇ」
「あら分かる!? 趣味が合うわね市乃さん!」
「この滲み出る野生がいいですよね。毛並みの感じとか」
「そうなのよー!」
妙なところで気が合ったらしい。
改めて考えれば謎な光景である。恋人未満な女の子と自分の母親がこうしてほのぼの茶を飲んでいるのだから。
まあ早々に帰っていただこうと決め、隆臣は利子に話を振った。
「で、用事って何だよ母さん」
「ああそれね。実は……」
利子は鞄を漁ると、白いハンカチに包まれたものを取り出した。開けて市乃に見せる。
それは飴色の艶を持つ櫛だった。アクセサリーとして使うものらしく、金と銀の蝶がひらりと舞っている。
しかし。残念なのが、真ん中の歯が一本折れていることだ。
市乃はハンカチごと丁寧に櫛を受けとると、驚きを交えた表情で深く観察を始めた。
「これは……」
「昨日家の片付けをしてたらね、主人の引き出しから出てきたのよ。壊れてたし捨てた方がいいかとも思ったんだけど、随分ずっとそこにあったみたいだし。隆臣が呉服屋さんでバイトしてるって聞いたから一回持って行っちゃおうって来たの」
市乃はしばし沈黙し、ゆっくりと利子を見据えた。
「利子さん。この櫛、少し当店で預からせていただきたいのですが……よろしいでしょうか」
「え? ああ、構わないわよ。どうかしたの?」
「いえ……」
仕事のときはいつも利発な市乃が言葉を濁しているのを、隆臣は物珍しく見つめた。本当に、どうしたのだろうか。
その日はそのままお開きになって、利子は小首を傾けたまま帰っていった。
裏の部屋へ戻る道すがら、市乃がぽつりと呟いた。
「今年の新作にヒョウ柄を取り入れてもいいかもしれませんね」
「どこまでうちの母親に影響されてるんですか、笹本さんは」
「いえ、元々若者向けにいいかなぁと考えていたので。何と言いますか、パワフルな感じが案外マッチするかなと思いまして」
「ああ……」
確かにそれならいいかもしれない。着て行く時と場所にはやや悩むかもしれないが。
「それにしても、利子さんお若いですね。一瞬隆臣さんの妹さんが来たのかと思いました」
「童顔なんですよ。両親揃ってもうすぐ四十です。二十歳で俺産んでますから、確かに若いっちゃ若いですけど」
「そうなんですか。道理で……」
言いつつ市乃が手のひらの上の櫛を眺めた。その飴色を見て、隆臣は首を傾げる。
「それ、べっ甲ってやつですか?」
「いえ、違います。これはプラスチックですね。ですがかなり上手に作られていますね、ぱっと見では判別が難しいです」
隆臣からするとじっと見ても判別が難しいのだが。それもそのはず、小物も手広く取り扱っている笹本呉服店の店主の審美眼に、半年にも満たないバイトが敵うはずもない。
市乃がこの櫛の何に引っ掛かったのかは分からないが、そこも何か隆臣には分からない領域の話なのだろう。
それより。
「……あと」
「はい?」
「俺も『市乃さん』でいいですか?」
はたと固まった市乃の頬が、じわーっと上気していく。
もどかしいけれど愛おしい幸福な感覚に久々に浸りながら、隆臣は小さく笑った。
おそらくあと2、3話で完結するかと思われます。最後までお付き合いいただけると嬉しいです。