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花繋ぎ 後編

 西川菫花が再び笹本呉服店を訪れたのは、依頼から五日後、今年の初雪がちらつく日のことだった。

 畳敷きの部屋に案内して茶を出すと、丁寧な所作でそれに口をつける。面持ちがやや緊張しているように見えた。

 隆臣も斜向かいに座って待つと、ややあって障子の奥から市乃が現れた。

「お待たせしました」

 同時の満面の笑みに少なからず緊張が解けたのか、西川の肩から力が抜ける。市乃は西川の前に座ると、抱えていた浴衣二枚をそれぞれ置いた。

 西川が訝しげに首を傾げる。

「あの……お願いしたのは一枚だったと思うのですけど……」

「ええ。確かにご依頼の品は一枚です」

 市乃が片方を指し示す。

 初めて見る方のそれに、隆臣は素直に感嘆した。

 凄まじいカビは見事に消え去り、淡いピンクの地に白と紫の花を咲かせている。真ん中に一本白の通った細長い緑は何かの葉だろうか。

 紫の花は見覚えがある、もう一枚の浴衣にあしらわれているものと同じ━━つまり菫だ。しかし白い花は見たことがない。

 丸く長い花弁が六枚結ばれた、可憐な花だ。

「こちらがお直しした浴衣になります。そしてもう一枚、この浴衣は西川様のお母様が当店で仕立て、引き取られずに保管されていたものです」

「そんなものが……」

「代金は既にいただいていましたから、西川様にお渡しするべきかと思いここに並べました。状態も確認済みです」

 西川の視線が浴衣に釘付けになる。表情には驚きの色が濃い。

 数秒の沈黙が落ち、市乃が再度口を開いた。

「ここからは私の推測ですが━━お直しした浴衣、こちらはおそらく、西川様のお母様が西川様に贈られたものだと思われます」

「……え?」

 初耳だ。隆臣も内心で西川と同じリアクションをしていた。

 市乃は懐から桜色の袱を取り出すと、開いて中身を西川に渡した。葉書サイズの紙だ。

「それはこちらの浴衣の袂に入っていたものです。母子家庭だったと伺いましたから、入れたのはお母様で間違いないでしょう。和歌が一首したためられていました」

 息を吸う微かな音。


「折り鶴や 一夜の草の 傍らに 彼方時行く 愛し礎」


 銀の糸を震わせたような、透明な声が空気に溶けた。

「私、気になって考えてみたんです。この唄の意味と、それが何故この浴衣の袂にあったのか」

 美しい余韻に聞き惚れていた隆臣の耳に、打って変わった凛々しい声が飛び込んできた。

「この浴衣にあしらわれているのは、折鶴蘭と菫です。和歌の『折り鶴』が折鶴蘭から、『一夜の草』が菫の別名である一夜草から来ていると考えると、ぴたりと二つが繋がるんです。……そして、『蘭』と『菫』の組み合わせはもう一つあります」


「西川様、あなたとあなたのお母様の名前です」


 ━━あ。

 と声を上げかけてどうにか堪える。頭の芯を電撃が走ったような衝撃が抜けた。

 先日見た顧客情報には、注文書には、確か━━。

「お二人の名前は、『蘭子』と『菫花』。和歌に当て嵌めると、ようやく意味が解けました」

 市乃が愛しげに睫毛を伏せた。

「……『私はあなたの傍で、あなたが未来の時を歩むための愛しい礎となりましょう』……この浴衣はきっと、お母様の願掛けなのだと思います。いつか自分が形を無くしても、いつまでも我が子の傍らで我が子を守れるようにと」

 西川は目を見開いて、━━少しして、その双眸から静かに雫を滴らせた。くしゃりと歪んだ顔が俯けられる。

「……そしてもう一枚の浴衣ですが、この浴衣が作られたのは一九六八年です。その頃、あなたはお子様を授かってはいませんでしたか?」

 無言で西川の頭は縦に動いた。

「私はお子様に関しては何も存じ上げておりませんが、ただ一つ。この浴衣は、菫と蓮華があしらわれています」

 市乃の言葉の意図するところは隆臣にも理解できた。

 市乃はそれきり口を閉ざした。

 話す者の居なくなった部屋で、掠れた呼吸音だけが隆臣の鼓膜を浅く撫でた。


   ***


 ━━昔から、神仏をあまり信じない母だった。

 信じなくてもあの人と同じ墓には入れるわ、と笑って。

 きっとどれだけ祈っても縋っても叶えてはくれなかったのだろう。物心付いた時には既に父は戦死していた。

 母が望みや願いを口に出した覚えが無いのは、その過去が一種のトラウマとなっていたのだろう。


 そんな母が、願掛けた。


 形を無くしても傍らに。

 過去も己もあなたの礎となりますように。

 あの人と私からの、最後の願い。


 ━━ねえ。

 ちゃんと歩んで来たわよ。

 傍に居るんだから見てきたでしょう?

 ねえ、叶ったのよ。

 あなた達という礎から、私は私の愛しい花を育めたの。

 

 ありがとう。


 私も願ってる。


 滲んだ菫花の視界に、花の色が柔らかく揺らめいた。


   ***


 いつの間にか雪も止んだ笹本呉服店の玄関の先で、隆臣と市乃は西川を見送っていた。

「ごめんなさい、ご迷惑を……」

「いえ、そんなこと。こちらこそごめんなさい、勝手にべらべらと」

 西川は首を横に振った。

 目こそ腫れぼったくなっているものの、晴れやかに笑って二枚の浴衣を抱きしめるように腕に抱えている。

「帰ったら……着てみます。娘と一緒に……」

「はい、是非」

 照れくさそうにはにかんだ西川は隆臣達に一礼すると、くるりと背を向けて歩き出した。

 しかし数歩進んだところで足を止め、振り返る。

「あの……今度、またお伺いしても構いませんか?」

「ええ、もちろんですが」

「浴衣の仕立てを、お願いしたいのです。蓮華と……桃の花をあしらった……子供用の」

 その意味を理解したとき、隆臣の顔はほころんだ。胸の奥に温かい水が広がっていく。

 市乃もとろけるような微笑を浮かべた。

「承知いたしました。お待ちしております」

 二人揃えてお辞儀をする。

 ゆっくりと頭を上げて、西川のピンヒールがアスファルトを打つ音が聞こえなくなるまで、隆臣と市乃はその場に立っていた。

「……ああやって、受け継がれていくんでしょうね」

 隆臣はぽつりと呟いた。

 親から子へ、そして更に先へ。いつかどこかで途絶えてしまうとしても、そこまでの礎は過去のささやかな想い。

 消えてしまうことはけして無い。

「そうですね」

 雪は止んでもまだまだ凍り付く空気に、市乃の呼気が白く溶ける。

 赤くなった指先を揉みながら、市乃は隆臣を見上げた。

「……鈴原さん、知ってましたか? 折鶴蘭って、実は蘭じゃないんですよ」

「え? でも名前に蘭って付いてますよね」

「ええ、でもどちらかというとユリの仲間になるそうなんです。……私がさっき話したことと合わせて考えると、少し不思議だと思いませんか?」

 言われてみれば確かに不思議だ。

 親子二人の名前の花をあしらいたかったのなら、そのまま蘭と菫で問題ない。仕立てた時代に日本に蘭がなかったとも思えないし、どうしてわざわざ折鶴蘭にしたのか。

 市乃の黒瞳を見返すと、市乃は我が意を得たりと頷く。

「あの浴衣が仕立てられたのは一九四六年です。その前の年、一九四五年に何があったのかはご存知ですよね」

「終戦……ですよね」

 一九四五年八月、日本のポツダム宣言受諾による無条件降伏で大戦が終結した。昭和天皇の玉音放送が流れた十五日は、終戦記念日として現在にも戦争の惨禍と慰霊、平和への祈りを伝えている。

 ━━平和?

「あ」

 終戦記念日のニュース映像が頭に蘇る。

「そうか、折り鶴……」

「その通りです。平和の象徴といえば鳩やオリーブなどがありますが、折り鶴もその一つでしょう。つまり、あの浴衣と和歌にはもう一つ……我が子の生きる長い未来が、どうか平和でありますようにという願いも込められているんでしょうね」

 ほんとに私の推測でしかないですけど。頬を軽く指で掻きながら、市乃は慌てて付け加えた。話の始めにも言っていたことだ。

 人の想いに確証など無い。感情の当人でさえあやふやなものを、ましてや他人が推し量れるはずが無い。

 隆臣は「大丈夫、わかってますよ」と微かに笑った。

「にしても笹本さん、すごいですね。俺だったら和歌とか入ってても意味考えたりしませんよ」

「私も普段だったらしませんよ」

 市乃は口元に袖を持っていき、しとやかに笑った。

「ただ……呉服に関してだけは、特別なんです」

 華奢な両手を合わせ、器の形を作る。

「私は呉服は単なる『着るもの』ではなく、人の過去や感情の器だと思っています。……完全に私のエゴだとは分かっていますが、込められたそれが誰かへの想いなら、伝わっていないままに朽ちていくのを放っておくなんて嫌なんです」

 綺麗な横顔に滲む確固たる理念。おっとりした雰囲気の中にも、強くしなやかな芯があることを思わせる。

「かっこいいですね」

「そう……ですか?」

 隆臣をちらりと見て、市乃が嬉しそうに笑った。

「冷えますし、そろそろ入りましょうか。今日新しいお茶買ったんですよ」

「どんなのですか?」

「柚子茶です。あったまりますよ」

「え、聞いたことない……」

「じゃあ飲んでのお楽しみで」

 草履が敷石に擦れるささやかな音。土間に足を踏み入れる。

 看板娘と従業員一人の老舗、笹本呉服店。

 この店に小さな客がやって来るのは、そう遠くない未来の話。

前後編の分量バランスがうまく掴めておりません・・・。

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