花繋ぎ 前編
寒さ厳しい師走。
街路樹は己の身に色とりどりの電飾を纏い、年に一度の聖夜に向けて宵闇をきらびやかに彩る。白い吐息に光が細かく反射して、それはいつかテレビで見たダイヤモンドダストによく似ていた。
飲食店が多いためか、昼夜を問わず賑やかな街の経済の心臓部。
しかしそんな喧騒から路地一本入ると、驚くほど静謐な通りに出ることになる。
味のある木造建築が並ぶ、城下町のような風景。何も知らずに迷い込めば、タイムスリップしたかと思ってもおかしくないだろう。
その通りの一画に店を構えるのが、『笹本呉服店』だ。
明治維新の動乱を耐え抜き、戦火をもくぐり抜けたこの老舗は、今年で創業百七十九年を迎える。書庫を漁れば水野忠邦の名が出てきたと言うのだから驚きだ。
棚に雑貨が並ぶ土間から一段高くなった框に腰掛け、笹本呉服店唯一の従業員である鈴原隆臣は欠伸を噛み殺していた。
最後の客は二時間前だったか。今日は天候がいまいちだからか、いつもより客が少ない。
大学の課題も終わってしまったので、することは特に無い。隆臣はぼんやりと自分の着衣を眺めた。
麻の葉というらしい、花にも見える菱形の組み合わせ。黒地に白で染め抜かれたその模様は、裾や袂から身頃にかけてグラデーションのように淡くなっている。
着物や浴衣の類は見た目には涼しげだが、着てみると案外そうでもない。隆臣は冬物に更に羽織を合わせているので、つい眠気が差すほどの保温性は備えている。
「鈴原さん」
思考かふやけてきた絶妙のタイミングで名を呼ばれ、振り返ると奥から上半身を乗り出す着物姿の女性が見えた。といっても店内には彼女と隆臣しかいないので、呼ぶのは彼女だけなのだが。
笹本市乃━━笹本呉服店の看板娘であり、隆臣にとっては上司にあたる。同時に大学で同じサークルに入る同学年生でもある。
市乃は可憐な顔をほころばせた。
「お客さんも来ませんし、お茶にしましょうか」
「あ、はい」
草履を脱ぎ、奥に向かう。
畳敷きの部屋の中央にちゃぶ台が置かれ、茶菓子のがニつ載っている。隆臣はえんじ色の座布団に正座した。
市乃が盆の上で濃いめの緑茶を注ぎ、定位置に座ってから隆臣は湯呑みに口をつけた。僅かな渋みと深くに広がる甘さ。休憩時間のお茶は毎日の習慣だが、飲む度にやっぱ高いんだろうなーと思う。
「今日はあんまりお客さん来ませんね」
「そうですね。まあ、毎年この時期は少ないですけど」
市乃もゆっくりと茶を啜る。
「そうなんですか」
「ええ。正月用や成人式用に着物を仕立てる方はもう注文を終えてらっしゃいますし、結婚式の時期でもありませんから」
確かに今から仕立てても間に合わないし、今はどちらかと言えば結婚式よりその前段階の時期だ。プロポーズ商戦に呉服業界というのは考えにくい。
「その分来月は忙しいですよ。覚悟してくださいね」
大学内で一ニを争うほどの美人に悪戯っぽい笑顔を向けられ、隆臣は曖昧に返事をした。ごまかすように茶菓子を口に放り込む━━この人は不意打ちで可愛いことがあるから微妙に困る。
「そういえば、佳代子さんの具合はどうですか? 最近お見舞いに行けていなくて……」
「伯母ならめちゃくちゃ元気ですよ。ギプスが蒸れるとはぼやいてましたけど」
隆臣の伯母、三浦佳代子が交通事故に遭ったのは二ヶ月前のことだ。元々笹本呉服店に勤めていた伯母は自分の入院により市乃が一人になることを心配し、大学生で比較的時間に余裕がある隆臣にピンチヒッターを依頼した。
昔からお世話になってるし、給料も出るしと了承したは良いものの、だ。
「それにしても驚きましたよ。まさか鈴原さんが佳代子さんの甥御さんだったなんて」
「俺も驚きましたよ。笹本さんの実家で働くことになるなんて」
世の中案外狭いんですねぇ、と市乃が笑った。
その時、土間から扉が開く音がした。
「すいませーん」
「はい」
市乃がぱたぱたと土間へ駆けた。隆臣もその背を追う。
「いらっしゃいませ」
木床に膝を突き、市乃と同時に頭を下げる。市乃ほど綺麗なお辞儀はできないが、ここ二ヶ月で背筋は伸びた。
「どうぞおかけ下さい」
会釈して框に腰掛けたのは、初老の女性だった。すらりとした細身のパンツルックで、短い髪に軽くパーマをかけている。
手には風呂敷の包みを持っていた。
「初めての方ですね。本日はどういったご用件でしょう」
「それが……」
女性は包みを床に置き、結び目を解いた。
布━━いや、浴衣が長方形に折り畳まれている。
隆臣は目を丸くした。
所々にある染みはカビだろうか。やや掠れた柄を上書きして、まるで自分達こそが本来の柄であるかのように色をくすませている。
隣の市乃を窺うと、表情がひび割れようとするのを堪えて変な顔になっていた。それでも流石に看板娘、すぐに引き締まる。
「こちらは?」
「早めの煤払いをしていたら、納戸から桐箱に入った状態で出て来て……。滅多に入らない場所でしたから、いつからあったのかはわからないのですけれど、こんなものが添えられていたのです」
浴衣の下に入れてあったらしいそれを、女性は丁寧に取り出して市乃に渡した。隆臣も身を寄せて見る。
いくらかくたびれていれど、一目で上質と判る和紙。それは包み紙だったらしく、中には二つ折りにされた紙があった。
「拝見します」
市乃がそっと紙を開けた。
『山崎様方浴衣 一九四六 十二 三 仕立て上がり
笹本呉服店、店主 笹本達彦』
女性が困り果てたように首を傾げた。
「おそらく母がこちらで仕立てて頂いたものだと思うのですが……母はとうに他界してしまってますし、母子家庭でしたから、聞くあてもなくて」
「……確かに当店で仕立てたものですね。これは渡し票です」
市乃は紙を元通りにしまい、女性に返した。
「母は物持ちの悪い人でしたから、形見と呼べるものがほとんど無いのです。ただこのままではどうすることもできないので、こちらにお伺いしたのですが……」
つまり━━これを何とかできないか、と。
従業員歴二ヶ月、新米ペーペーの隆臣には判断できない領域の話だ。
浴衣の状態を確かめた市乃が、一息吐いて顔を上げた。
「承知いたしました。費用は行ってみなければわからないのですが、よろしいですか? 二万はいかないと思いますが」
「はい。よろしくお願いします」
「少々お待ち下さい。鈴原さん、注文書を」
「はい」
奥の引き出しから注文書とペンを取り出し、「名前と電話番号をお願いします」と女性に渡す。
女性は達筆に『西川菫花』と書いた。読みはニシカワスミカ。
「こちらもお預かりしてよろしいでしょうか」
市乃が見せたのは浴衣に添えられていた例の紙だ。西川菫花はこくりと頷いた。
「ありがとうございます。では、お直しが完了しましたら連絡させていただきます」
西川菫花は、最後に深くお辞儀をして去って行った。
浴衣を抱えた市乃に、隆臣は怪訝に尋ねた。
「それ、元通りになるもんなんですか?」
できるから受けたのだろうが、にわかには信じがたい。
「できますよ。見たところカビが主でしたから、取り除いて修復すれば元通りにはなります。今は良い洗剤も開発されてますしね」
「へぇ……」
ふと、雨の打ち付ける音が聞こえた。古めかしい木枠の窓から外を覗くと、灰色の雲がとうとう泣き出している。
「降ってきましたね」
「今日はもう早終いにしましょうか」
「そうですね」
「お茶、冷めちゃってるでしょうね。これ離れの職人さんに持っていってから、新しいの入れますね」
「ああ、じゃあ俺が行きますよ」
「ありがとうございます」
市乃から浴衣を受け取り、隆臣は離れへと繋がる勝手口へと向かった。
閉店作業を終え、着物から着替えた隆臣は今日の売上と顧客情報をまとめていた。
笹本呉服店で、パソコンを使用する事務作業は主に隆臣が行っている。
というのも市乃は生粋の機械オンチで、パソコンなど扱おうものなら「うぅ……」と涙目になって最終的には何かしらのミスをやらかす。勤めて三日で見かねた。
合間合間にちびちび飲んでいて空になった湯呑みに、市乃がおかわりを注いでくれた。
「ごめんなさい、任せちゃって」
「もう謝んなくていいですよ。こういうの得意な方ですから」
「スマホならまだ使えるんですけど……」
入力を終え、ページを閉じる。
「これって相当古いデータも入ってるんですね」
「みたいですね。十年ほど前に母が作ったシステムですけど、書庫の渡し票まで漁ったと言ってましたから」
だとしたらあの浴衣も。
受けた衝撃が頭に気まぐれな考えをよぎらせた。
「あの浴衣に付いてた渡し票、お客さんの名前って何でしたっけ」
「確か山崎様だったと思いますが」
山崎。検索をかけてみると、見事ヒットしたのは二件だった。一体どっちだと一つずつ開いてみる。
「ん?」
「どうかしましたか?」
「いや……」
画面を市乃に向ける。
「これ、二件とも同じ人ですよね」
記されている名前は、どちらも『山崎蘭子』。
市乃は食い入るようにじっと画面を見つめ、頷いた。
「一件は一九四六年十二月三日━━あの浴衣の渡し票にあった日付ですね。内容も浴衣の仕立てですし、今日お預かりしたものだと思います。もう一件は……」
隆臣が渡したマウスをぎこちなく動かし、市乃は画面をスクロールした。
「あれ?」素っ頓狂な声が飛んだ。
「これ、お客さんにお渡しできていませんね」
「そんなことってあるもんなんですか?」
「いえ、滅多にないことです。一九六七年三月、浴衣の仕立て……連絡はつくも、受け取りに来ず。前金にてとありますから、お金が払えなかったという訳でもないようですし……」
ちょっと保管庫を見てきます。ぱたぱたと駆け出した市乃は、三分としないうちに浴衣を一枚と呉服用のハンガーを抱えて戻ってきた。
「ありました」
手早くハンガーに掛けられ近場のラックに吊されたその浴衣は、四十年以上前のものとは思えないほどにしっかりしていた。
近寄って見ると、白地にあしらわれているのは二種類の花だ。滑らかな流線形をした薄ピンクの花弁が二段に重なった花と、その周りに散りばめられた紫の小ぶりな花。
「この花、なんですか?」
「蓮華と菫ですね。……不思議な組み合わせですね」
「そうですか? 綺麗なもんだと思いますけど」
「ああ、違うんです。季節感というか」
「季節感」
隆臣は首を傾げた。花といえば春に咲くイメージが強いので、得に違和感は無いのだが。
「鈴原さん、国語で季語って習ったでしょう?」
「……覚えがあるにはありますが」
「俳句や和歌と同じように、呉服にも季節があるんです。例えば桜の着物ひとつ着るにしたって、まだ蕾の固いような時期には早すぎますし、満開の時期には野暮になってしまいます。この浴衣に関して言うと、菫は春の花、蓮華は夏の花ですから、季節が混ざっていることになります。まあ、単に好きな花をあしらったというだけかもしれませんが……」
それでも何か引っ掛かるようで、眉尻を下げて腕を組む市乃。隆臣にはてんで分からないが、呉服店の看板娘としての第六感が囁いているのだろうか。
「とりあえず、この浴衣はお直しの品と一緒に西川様にお渡ししましょう。お代もいただいてることですし」
「お母さんの形見が少ないって言ってましたしね」
隆臣は座布団に戻り、パソコンのシャットダウンにかかった。
何故か持ち主に置き去りにされた浴衣は、それでも尚鮮やかに存在感を放っていた。
***
翌日、閉店後。
「鈴原さん、ヒトヨグサって知ってますか? 一夜の草って書くんですけど」
例によって隆臣が事務作業をしているときに、市乃が思い出したように尋ねてきた。
ヒトヨグサ。一夜草。頭の中の植物図鑑をめくってみるも、その名は記載されていない。
「……すいません、知らないです。調べますか?」
「お願いします」
入力作業を一時中断し、インターネットで『一夜草』を検索。一番上に表示されたサイトを開く。
「あ、ありました。菫の別名らしいです」
「菫、ですか。……」
違う声で繰り返された同じ名詞に、━━はて。
菫って、つい最近どっかで聞いたような。
サイトに貼り付けられていた一枚の写真が、隆臣の思考を滑らかに導いた。
紫の花弁を五枚繋げた、小さな花。
昨日見た、二種の花の浴衣にあった。
「昨日から菫に縁がありますね」
呟くと、市乃が「ええ」と頷いた。
「と言うより……菫が縁を持ってきた、のでしょうか」
「へ?」
独特の表現に遠慮会釈なく間抜けな声を出した隆臣に、市乃はふふっと小さく笑った。
「いいえ、何でもないです。……そういえば、たいやき買ってあるんですけど、食べません?」
「……いただきます」
「なんだか小腹空きますよね、この時間帯」
市乃は手に持っていたらしいメモをちゃぶ台に置くと、障子の奥へと消えて行った。
視線を画面に戻すまでの道のりにあったそのメモに、隆臣はふと目を留めた。
『折り鶴や 一夜の草の 傍らに 彼方時行く 愛し礎』
リズムからして和歌だ。流麗な楷書でしたためられている。
一読みしてそれ以上は興味を引かれず、さて仕事の続きと隆臣は『一夜草』のサイトを閉じた。
初めまして、樹坂あかです。
ほっこり読んでいただけたらな、と思います。