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いつか、どこかの、恋模様。

かわいい子犬を飼い始めたと思ってたのは俺だけで、世間的には年端もいかぬ幼気な女の子を飼ってることになっていた。

作者: 未紗 夜村

 まずは俺について話をしよう。


 といっても、今更改まって語れるような事柄があるわけでもない。全てにおいて無難で普通、容姿平々頭脳凡々。時たま嬉しい事があれば程良く笑ったり、そこそこ腹を立てる事もあれば極々稀に泣いたりする事もある。「やれやれ」なんて言って世を俯瞰するほどに達観しているわけではないが、さりとて「気合いがあれば何でもできる」と声高に叫べるほど生に対して熱意を抱いているわけでもない。


 そんな感じで、かつて小学校を卒業した俺は、あっという間に中学校も通過して、そうこうしているうちに高校・大学も終わりを迎え、気がついてみれば社会人になっていた。さざ波のように寄せては引いていくぬるま湯の間をたゆたっているうちに知らずここまで辿り着いてしまった俺は、これからもきっとゆらゆらふわふわしながら、ふやけて溶けて日々の狭間へ消えていく。そんな人生を是とすることも否とすることもなく――というより是でもあり否でもあるという日和見的な感想を胸に、俺は今日もぼんやり生きるのだろう。そのはずだったし、そうする予定だ。


「はぁ……」


 社会人生活三年目の秋。在りし日とこれからの己を想って郷愁とも諦観ともつかないものに侵されていた俺は、迫る出勤時間とその他にちりちりと尻を焼かれながらも、自宅の便座から立ち上がる元気を捻り出せずにいた。


 すっかり秋めいてきた今日この頃、すきま風が存分に幅を利かせているこのボロい一軒家においては、便所でズボンを下ろして冷たい便座に腰掛けるという行為はそろそろキツいものになってきている。そこを乗り越えてようやく用を足し、無機質な陶器が良い感じに温もってきた今、今度は立ち上がるのが酷く億劫になっていた。億劫だと思う心はさらにダウナーな気分の呼び水となり、さらに眼前にあるちょっとした面倒事から逃避したいと思う気持ちが、冒頭の至極どうでもいい独白へと繋がったわけだ。


 ここまでの駄文を律儀に読んでくれた諸兄には申し訳ないが、現在の状況を率直に一言で表したいと思う。



「働きたくないでござる」



 重い腰を持ち上げて居間へと戻ってきた俺は、年中出しっぱなしになっているコタツに潜り込んでようやく人心地ついていた。これまた四六時中付けっぱなしになっているアンティーク物のブラウン管を漫然と眺めながら、リモコン片手に各局のめぼしい女子アナを漁る作業に没頭する。


 現在の時刻、午前八時十三分。通勤時間を考えると、始業に間に合わせるにはそろそろ出ないと些かマズい。だというのにスーツへ着替えるのも寝間着を片付けるのもそこそこなままで、ひたすら女の子の胸を追い続ける俺。


 まあそれでも、いつもであれば、遅刻ギリギリには会社の自席に滑り込んでいるところではある。働くのは確かに面倒だが、休むことで後日嫌みを言われる事になるのはさらに面倒だ。だからなんだかんだでこの数年間、電車の遅延以外では遅刻も欠勤も無かったわけなのだが――今日に限っては、本当に遅刻か、ズル休みの可能性が濃厚になっていた。


 理由は幾つかある。まず一番大きいのは、言うまでもなく、単純にものすっっっっごく働きたくないということ。そして第二に、さっきから時折思い出したように雨戸を叩き続けてるお天道様の落とし物のせい。 


 最後に、一番小さな第三の理由。それは、


「なあ。俺はもう結論を伝えたはずだよな。そろそろ、何か言うことはないのか?」


 未だ対面で黙りこくったままの少女に、ちらりと目を向けて言い放つ。


「……言う事、ですか」


 消え入りそうな。空間にも記憶にも残らない、ともすれば幻聴とでも勘違いしそうな声音で反芻し、しかしそれきり再び押し黙ってしまう。


 少女、というよりは童女に近いかもしれない。どう見ても中学生以上ではないだろう。今さっき風呂を使わせてやったが、ほんのりと上気した肌からも、腰まで伸ばした艶やかな黒髪からも、学校指定と思われる体操着の胸元から覗くささやかな膨らみからも、香り立つような色気はまだまだ感じられない。雨に濡れたままだった彼女の制服やら下着やらを洗濯機にぶち込んでやった時には流石に少し危なかったが、親戚のガキの世話をしていると思えば無事に平静を保つことができた。まあ、学生時代の俺だったら躊躇うことなく脱ぎたての衣服に鼻をこすりつけて「ロリこそ七つの海の至宝クンカクンカ!」と叫びながら軽く射精でもしていたところだろうが……生憎、こちとらリアルな女性に幻想を抱くことを辞め、僧侶も裸足で逃げ出すほど女っ気の無い人生を送ってきた身である。共学だったのに一切女の子と接点が持てないまま過ごした小・中・高・大の学生生活、そして人生で始めて接点を持てた会社の経理の娘に勢いで告白しようとした矢先、その娘が同僚の女子と「あの人、なんかキモいよね」と盛り上がっていたことを知った現在進行形の社会人時代。そんな俺にとって、女性というのは最早色恋の対象ではなく触れたら即死する異次元の物体でしかなかった。


 今目の前でうつむき続けている少女についても、俺にとっては迷惑そのものでしかない。それでも無理矢理追い出すことをしないのは、彼女が女性と呼ぶには些か幼かったことと、勧めたコタツも座布団も使わず畳に正座を続けている謙虚さが理由だ。謙虚というよりは、よく知らない相手にこれ以上本題以外での余計な借りを作りたくなかっただけかもしれないが、正月に顔を合わせる親戚のガキ達による傍若無人な振る舞いの数々を思えば、無駄に自己主張してこないだけまだマシかと思えた。


 マシかと思えたが、嘘だった。俺が先刻きっちり伝えた結論に対して、彼女は未だ納得した様子を見せていない。自己主張しないくせに頑固とか、酷く扱いに困る。


「……あのさ。仕方無いから、もう少し言葉を足させてもらっていいかな」


 全く進展しない状況に業を煮やして、声が思わず苛立ち混じりになってしまう。少女がびくりと肩を跳ねさせたが、それに気付かないフリをして続ける。


「俺はさ。働きたくないんだよ」

「……働きたく、ない?」

「そう。働きたくない。仕事はもちろんそうだし、それ以外の事も基本的にはそう。年数回の帰省やら、日用品の買い出しやら、家の掃除やら毎日の料理やら洗濯やら……基本的には全部面倒だし、働きたくない。でもやるよ、やらなくちゃならないから。そういう『必須な面倒事』ってのは、きちんとこなすのが、最終的には一番楽だから。だけど、そういうのじゃない――『やらなくてもいい面倒事』なら、俺は絶対やらない」

「……えっ……と。そう……なん、ですか」


 俺の偏った理屈を理解できないのか、少し疑問符混じりではあるが、しかしちゃんと相づちを打ってくれる。真摯に受け止めようと努める姿勢は評価するが、だからといって俺の結論が変わるわけではない。


「義務であってもしたくない。義務じゃないなら尚更だ。だから俺は――キミの『願い』を、拒絶する」


 誤解の発生する余地がない、二度目の断言。彼女は一瞬息を飲み、ここで始めてまともにこちらへ顔を向けた。


 綺麗。そう言って差し支えない、整った顔立ちだった。今はまだ愛らしさの方が色濃いが、ゆくゆくは『美しさ』が芽吹いていくであろうと確信させる雰囲気がある。やや吊り目がちで一見キツそうに見える事から、内気な性格とのギャップで苦労してそうだな、などと益体のないことを考える。


 彼女にはきっと、笑顔が似合う。だから、彼女が笑っている所を見たことがない俺は幸運だった。もしそれを見てしまっていたのなら、俺は彼女を御願いをきちんと断ることができなかっただろう。


「……これが、俺の結論なんだ。三度目はもう言わない。わかったら、出て行ってくれるか。傘は玄関にあるやつを適当に持っていってくれ。返しに来る必要もない。……だから、二度と会うこともない。申し訳なく思う必要も、腹を立てる必要もない。『今日は、最初から何も無かった』。ただ、それだけだ。以上!」


 言い切った俺は、反論は許さないとアピールするために、さっさと立ち上がって軽く背伸びをした。胸中にあるのは、面倒事からの開放感と、その陰に押しやった、ほんの少しの心残り。……いいんだ、俺は間違っていない。やるべき最低限の事も、言うべき重要な事も全部終わった。これでまた、クソみたいに平凡で、だがそれ故に安心と安全が約束されている日常へと還ることができる。この子を見送ったら、会社に遅刻の電話を入れて、さっさと着替えて、電車に乗って。会社に着いたら、軽く謝りながら何事もなかったように仕事に入る。そのまま定時まで働いて、そこそこ残業して、帰り道で適当に追加の食材買って、ようやく家に帰って飯食って風呂入って布団に入る。その頃には、朝のことなんてすっかり忘れているだろう。そう、それでいい。


 俺にとって、非日常的なイベントに憧れや夢を見ていい時間は、とっくの昔に終わっているのだから。


 ――だけど。


「……嫌、です」


 彼女はきっと。まだ、そういう『自分にとって都合のいい奇跡』に、夢を見てもいい時間の中にいる。


 予想外の返事に一瞬何を言われたのかわからなくなりながら、無意識に彼女を見下ろす。そして、不安げに揺れがらも決して逸らされることのない瞳に迎え撃たれた。


「……いや、なんです……。……どうしても……いや、だから……。だから……どうか、お願い、します」


 彼女はきっと、愚かではない。自分の願いがいかに馬鹿げているのかも、そして俺がその願いを拒んだことも、きちんと受け止めることができている。


 だから、こんなにも怖がっている。自分がどれだけ弱い立場にあるのか、理解できてしまっているから。


 だから、怖くても嗚咽を噛み殺す。涙がただの逃げでしかないことも、そして俺には通用しないであろうことも。そして何より、今自分にある唯一の武器は、自分の意思を誠心誠意伝えるきちんと伝える事だけだと、きちんと理解しているから。


 そうして積み重ねられた幾多の理解の上に、「それでも」と、彼女はどこまでも独りよがりで傲慢な願いを口にする。



「どうか……わたしを、抱いてください」



「おいこらちょっと待て。どこから出てきたその言葉」

「?」

「『?』じゃねーよ。なんでいきなり抱いてとかいう話になるの? 俺達今そんな色恋とか肉欲の話してたっけ? してないよね? してたとしてもそれ俺の脳内での話だよねどっからそんなキミを抱くとかいう話が出てきたのっていうか意味わかってる? いやさ、キミのお願いって全然違うじゃん。もっと簡単なやつだったじゃん」

「簡単……なんですね」


 ……墓穴掘った。あまりに予想外な台詞が来たせいでうっかり本音が零れた。ええまあ、そうです、断る理由が「やりたくないからやりません」でしかないわけだから、裏を返せば「物理的に可能不可能で言えばぶっちゃけ可能」なわけなんです。出逢って二時間未満の未成年女子を抱くことと比較したらそれはもう、


「簡単に決まってるだろ……。たかが『捨て犬の世話をしてくれ』なんてお願いは」


 そうである。延々引っ張ってきた彼女のお願いというのは、彼女が道端で拾っちゃった子犬の世話をしてくれ、というお話だったのだ。


 流れはこうだ。すっかり冷えてきた今日この頃、家の便器の冷たさに戦慄した俺は、会社の暖房便器恋しさに珍しく早めに家を出ようかと思い立った。だが外は生憎の雨、はっきり言って早めに会社行くなどという社畜紛いのことをする気が全く湧いてこない。どうしたもんかと思いながら玄関先でぼんやりしてたら、庭の片隅から誰かのくしゃみが聞こえた。泥棒かと思って見に行ってみたら、『拾って下さい』とペンで書かれたザ・捨て犬ダンボール&茶色い子犬と、それを全身使って必死に隠そうとしている少女を発見。少女は口下手なのか事情をろくに説明しなかったものの、「学校行く途中にズブ濡れの捨て犬を見つけたから、ひとまず雨露凌げそうな廃屋(つまり俺の家)に避難。でもそこには人が住んでたので、慌てて隠れた」という状態であったことを把握。仕方無いので濡れたままの彼女と犬を家に上げて風呂につっこんだり服を洗濯してやったことで『良い人』認定された俺は、その流れで「ウチでは飼えないので飼って下さい!」「絶対NO!」の応酬へ。そして少女は「私を抱いてください」と言いました。ホワイ何故? たかが捨て犬の世話なんかとはランクと次元が違う事象が発生してね?


「……この子のお世話は、『たかが』、なんかじゃありません……!」


 少女は俺を睨みながら、膝の上で暢気に眠ったままの子犬を抱き締める。……ああ、確かに今のは俺の言い方が悪かった。


「それはわかってるよ。すまん、言葉が足りなかった。『たかが』ってのは別にそいつを軽んじたわけじゃなくて、俺にとってはその程度は簡単だって意味で……」

「……簡単。二度言いました」

「ああもう……。そうだよ、簡単だよ。ここは俺の……っていうか俺の爺さんの残した持ち家を俺がもらった形だから、犬飼おうが猫飼おうが問題ないし。犬一匹養う程度には稼いでるし。仕事を定時で切り上げて世話しに帰ってくるってこともできるっちゃできる。そもそも俺犬好きだから、世話自体望むところって感じでもあるし。ところでそいつの抱き心地どんな感じ? ちょっと耳の裏とか触らせて……なんだよ、その目は」

「……いえ。べつに」


 少女はじっとりとした目を向けてくると、おもむろに子犬に頬ずりし始めた。ずるい。俺もそいつに頬ずりしたり肉球ぷにぷにしたり一緒に山行って山菜採ったり公園で追いかけっこしたり喧嘩したり一緒に寝たりしたい。


「……本当に、好きなんですね……」


 俺は一体どんな顔をしていたのだろうか。少女はふっと小さく笑うと、すすっと摺り足でコタツに潜り込んだ。……いや、もうなんか気勢削がれちゃったから、さっさと帰れとか言わないけどさ、コタツ入るのは別にいいんだけどさ? これたぶん、さりげなく居座ろうとしてる。全然さりげなくないけど。状況が自分の有利に傾いてるのを確信してやがる。


 少女はしばらくぬくぬくとしたあと、ふと首をかしげた。


「……犬が好きで、飼うこともできる。なのに、どうして、さっきは?」

「さっきとか過去形にするな。『やらなくていいことはしたくない』ってのは、紛れもなく俺の基本スタンスというか行動理念だからな。まぁ、今回の場合これは適応されないから、嘘と言われれば嘘なんだけど。でもだからって、まだそいつを飼うって決めたわけじゃないぞ」

「……『まだ』? まだ、なんですね? あと何押しくらいでいけますか?」


 もうやだこの子こわい。何か語る度にどんどん落ちていく。


 俺も少女に習って再びコタツにもぐりこむと、今までで一番近くに少女の顔があった。少女はもう無理に目を合わせようとせず、気恥ずかしさからついっと虚空へ目線を彷徨わせる。そんな彼女の顎の下から覗く、子犬のあどけない寝顔。……今すぐスマホで撮ってプリントアウトして職場に飾りたくなるのをぐっと堪えながら、俺はもう「ああ、詰んだな」と思いながらも内心を吐露した。


「飼うことはできる。できるけど、それでもやっぱり俺も仕事してる身だからな。そいつに構ってやれる時間は、かなり短くなる。ひとり暮らしのOLが寂しさを紛らわせるのに犬を飼う、なんてのもよくある話だから、俺が気にしすぎなのかもしれないけど……それでもやっぱり、どうせ一緒に暮らすなら……『家族』になるなら、できるだけ一緒に居たいし、寂しい思いはできるだけさせたくない。だから――」


 寂しい思いをさせるくらいなら、最初から飼うな。そういうことだ。


「………。……そう、ですか……」


 少女は、俺の言葉をどう受け取ったのだろうか。胸に抱いた子犬をそっと撫でながら、どこかぎこちない微笑みを浮かべた。


「……さっきは、ろくに説明もしないで、頭ごなしに拒絶して悪かったな。腹の中で思ってることなんて、言わなきゃわからないだろうに」

「……いえ。わたしも……本当、勝手なことばかり……すみませんでした。……本当に、すみませんでした。わたしの方こそ、この子をことを、全然考えてなかったんですね……」


 ……にわかに冷え込んだ場の空気に、ちくちくと心が痛む。これはあれだ、ミスったな。心境を正直に話したことに後悔は無いが、少しタイミングが悪かった。今更「まあどうせ俺の考えすぎだし、実際飼うとなれば絶対に寂しい思いをさせないようあの手この手を尽くしますけどね! というわけでそいつ飼うわ」とか言いづらい。


 ひとまず話題の転換を――そう考えて、さっきのことを思い出す。


「そういえば、あれはどういう意味だったんだ?」

「……あれ、ですか?」

「いやほあら、あれ。さっきの……なんていうか、刺激的というか、びっくりというか」

「……『わたしを、抱いてください』?」


 少女も思い出したのか、少し恥ずかしそうに台詞を再現した。俺がわざとど忘れした風を装って幼気な女の子に再度恥ずかしい台詞を言わせた感じになっちゃったけどけしてわざとではない。というか、この反応からして一応知識はあるっぽいな。


「そう、それ。なんであのタイミングでいきなりそういう話が出て来たんだ?」

「それは……あの、本当にすみませんでした」

「いや、特に責めてるわけでもないから、謝られても。ただ脈絡なさ過ぎたから、純粋に疑問だっただけで」


 少女はただでさえ小さな体をさらに縮こまらせながら、申し訳なさそうに口を開いた。


「あの……。さっきの、『寂しい思いをさせたくないって』お話を聞くまでは、『面倒だから』っていうのも勿論あるでしょうけど……、『どこの誰だかわからない、赤の他人のお願いは聞けない』とか。『自分にメリットがない』とか、そういうのもあるんじゃないかと思って……しまったので……」

「思ってしまったので?」

「しまったので……。他人じゃなくて、恋人になって、その上でカラダを見返りとして差し出せば」

「スタァァァァァァ―――――――ップ! それ恋人っていうかセフッ……アウトぉ! 限りなくアウトォ!」


 早熟……! 予想を超えた早熟具合、最早爛れているぞ昨今の子供! え、最近はこれが普通なの? 俺がウぶなだけなのん?


「ともかく、わかった。わかりたくないがわかった。その話はナシだ。跡形もなく消え去った。いいな?」

「え……、でも、それじゃあこの子は……」

「そんな泣きそうな顔すんなよ……。すまん、もう体裁どうでも良いから言うわ。そこで暢気に寝てるチビすけはきちんとウチで飼うから。会社の昼休みとかでもできる限り帰って相手するから。何なら仕事中でも抜け出してくるから。ていうか自宅勤務の仕事にでも転職すっかな……。それでもダメなら、寂しさに負けない強い子に育てるし。それいほら、俺が居ない時に世話してくれるアテもあることですし? とりあえずこれで問題ないだろ? というわけで、ほれ」


 少女の返事を待たずに、子犬の両脇に手を差し込んでひょいっと持ち上げて自分の膝に乗せる。


「おっほ、あったけぇこいつ……。これからの時期は毎晩抱いて寝たくなるな。病みつきだわぁ」

「……あっ、あのっ? ……えっと、本当にいいんですか? って、その顔を見てると今更ですけど……」

「今更だな。フッ」


 きりっと言い放ってみたら、フッと笑い返された。その実態がなんだか嘲笑のような気がしてならない。


 少女は大きく息を吸うと、胸のつかえたとれたかのように弛緩しきってごろんと仰向けに寝そべり、長い溜息を吐き出した。


「よかったぁぁぁぁ……。本当に、ありがとうございますぅぅぅぅ……。えがったぁぁ、えがったよぉぉぉぉ……」


 えがったて。そう思ったが、実に良い笑顔なので水を差すことはしなかった。感謝してるのも喜んでるのも、こっちだって同じなんだけどな。こんな機会でもなければ、犬なんて絶対に飼おうとしなかったし。


 ともかく。これで一件落着、だな。終わってみれば何のことはない、みんなにとってWIN-WINの結果だったな。


 チビ助の喉をこりこりかきながらにやにやしてると、少女ががばっと跳ね起きた。


「あっ、あの、でもでも、仕事抜け出すとか転職とか、なんだかけっこうな大事になってませんでしたか!?」

「大事……か?」

「大事ですよ! 人生に関わる一大事じゃないですか!」


 マジでか……。俺今の会社に一ミリたりとも思い入れがない不良社員だから、全然そんな気しないんだけど。元々やりたい仕事じゃなかったこともあるけど、あの受付の女の子にキモいと思われてたのが決定打だったな。いや、決定的なのはそこじゃなくて、「いいな」って思ってた子が裏でそういうこと平気で言ってたりするんだなっていう、俺の人の見る目の無さへの絶望というか……ハハハ……はぁ。


「まあ、いいじゃん」

「……あれ、なんだか落ち込んでます? や、やっぱり仕事、大事ですよね? で、でも、まさかその子をまた捨てっ……とか言いませんよね!?」


 受付嬢のことを考えてたら、今更ながらに目の前にいるこの子も女なんだよなと改めて思い出した。この子も、成長したらああいう異次元の物体エックスに成り果ててしまうんだろうか? あるいはもう染まりかけ? 彼女が本気で感謝したり喜んだり心配したりしてるように見えてしまうのは、既に手のひらの上で転がされてる証拠なの?


「だ、大丈夫ですから! もしお仕事なくなっても、わっ、わたしが養いますから! その子にも絶対に寂しい思いなんてさせませんっ! だから、おっ、お願いします……捨てないでぇ……!」


 ……この見当違いなこと言って顔面ぐちゃぐちゃにして身を乗り出して泣きついてきてるアホの子は、なんかもう、あれだ。この子に騙されるようなら、俺、本格的に終わってる気がするなぁ。


「心配するな」


 少女の頭にぽんと手のひらをのせる。きょとんとして至近距離から涙目のまま見上げ来る少女に、できる限り力強い笑顔を向けて宣言してやる。


「家族が増えるんだ、人生の一大事になるのは当たり前だろ? 例え何があろうと、俺が絶対、一生、大事にする。んでもって、俺のことも大事に思ってもらえるよう頑張る。だからさ、何も心配するな。泣いてるよりは、笑ってる方がよっぽどいいぞ?」


 俺なんてもう、このチビ助との愛と温もりに溢れる添い寝生活を思うだけで笑いが止まらんぞ。


「………」


 思わず口の端がにやけてしまう俺とは対照的に、少女はなんだか呆けたようにぽかんと口をあけていた。なんだろう、反応が薄い。怪訝に思って顔の前で手を振ってやると、ようやく我に返ったのか、対面にすとんと腰を下ろした。そしてじっとこちらに視線を投げてくる。


「……どした? まだ何か不安か?」


 予想した反応と違いすぎてむしろこちらが不安になってきた。


 しばらく様子を伺っていると、少女は不意に立ち上がり、部屋の片隅に起きっぱなしだった自分の鞄を抱き上げた。こちらに向けられた背から、謎の感情が滲んでいる。


「お、おい? なんだ、何か言ってくれ。正直怖い」

「……、学校、わたし、行くです。……放課後、また、ここ、来るです」

「何故カタコト。……おい、ちょっと待てって!?」


 少女はそのまま玄関へダッシュ――しようとしたのだろうが、しかし玄関の場所を覚えていなかったのか、しばらくその辺を高速で行ったり来たりしていた。しかも何故か顔面を鞄に埋めているので、そこかしこにごつごつとぶつかりながらピンボールのように弾けている。なんかわからんが、怖い。


 ともあれ、今はやるべきことをやらんと。彼女の洗濯物、はまだ乾燥機が稼働中か。じゃあとりあえずコレだけでも。


「おじゃましましたっ!」


 ちっ、玄関見つけやがったか!


 俺は急いで彼女の後を追い、サンダルをつっかけて表の通りへ出た。もう雨はあがっていて、なかなか気持ちの良い青空が広がっている。俺もこれが終わったらチビ助の健康診断行って、午後からはできれば仕事すっかね。扶養家族もできたことだし。


「――おい、一度だけでいいからこっち見ろ!」


 道の果て、曲がり角に差し掛かろうとしている彼女に叫ぶ。彼女がちらりとこちらを振り返ったのを確認して、俺は高らかに腕と足を掲げ、大げさなオーバースローから超スローボールを放り投げた。


「え? わ、わわっ?」


 少女は突然の事態に慌てながらも、放られた物をお手玉しながらキャッチする。


「もし時間あったら、俺が居ない時でも、チビ助の相手してやってくれ! お前が母親みたいなもんなんだから、そんくらいはアテにしてもいいよな!?」


 一般の通勤時間帯から大分遅れているせいで人通りが少ないとはいえ、ここは住宅街だ。そこら辺の奥様方にも聞こえてるかもしれない。PTAに通報されたらやばいので、俺は彼女の返事を待つことなく家の中に引っ込んだ。


 だから、俺は知らない。



 その時、『ウチの鍵』を受け取った少女が、どういう顔をしていたのか。

 ましてや、彼女がそれから、どういう気持ちで――



 ――今日、この日まで、俺達と共に有り続けたのかを。

この作品を読むことで、少しでも「面白かった」という気持ちになって頂けたのなら幸いです。

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[良い点] もっと読ませてぇ‼︎ 続き、続きを所望する‼︎ もうこれ大爆笑劇的ビフォーアフターですってこれ なんて言うの、この余韻?余韻が凄いんだって‼︎ 名前が一切出ないのもなんかこう…良いですね!…
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