第29話「野中博三とエニシ」
結局。
次の日。
私は死んでいなかった。
今日の朝。
夜空の星が薄くなるころ、敵の砲弾が降ってきた。
攻撃前の制圧射撃だろうと思っていた。
応急的に掘った穴の中に装甲車を突っ込み、砲弾の直撃に怯える。
破裂音と地響き、そして榴弾の破片が装甲に弾かれる音を聞くたびに、生きていることを実感した。
痛み、恐怖心による確認。
榴弾の破片が装甲車に当たり響く金属音はおぞましいし、近くに弾が落ちたときは頭が割れそうなぐらいの衝撃をくらう。
何度か耐えた。
こんなのをあと数日間受けていたら、頭が狂ってもしょうがないんじゃないかと思う。
いや、すでに狂っているのかもしれない。
二十年前に。
永遠に続くと思える着弾の音。
だが制圧射撃はいつもより早くやんだ。
いつものように敵は堂々と正面から突撃してくるものだと思っていたが、敵は潮が引いたようにいなくなっていた。
そう、まんまと敵は後退していた。
大部分の敵は昨日のうちに離脱をしていたようだ。
目の前にいたのは敵の殿。
朝の射撃で我々が穴に引きこもっている間に、その部隊も逃げ出したんだろう。
見事に嵌られたらしい。
私は一応「敵が後退のための離脱を始めたようなので追撃しますか?」と、やりたくもないことを大隊長の横尾に意見具申しようとした。
そんなことは十分承知しているのだろう、横尾は『部隊は動くな、追尾斥候を出して、接触を維持』という指示を先にしてきた。
お腹いっぱいなのは上も同じだということだ。
私はさっきまでの射撃で受けた中隊の損害を確認する。そして並行的に追尾斥候と二小隊長の創作部隊を出す指示を出していた。
そうしているうちに、戦場の状況が断片的に判明してくる。
味方の反撃部隊がやっと到着し集結しはじめたらしい。
どうやら本当に敵は後退をはじめたらしい。
そのふたつが確認できた。
その頃になると、大隊長の横尾から新しい命令が下達され『現在地において警戒』という任務を付与された。
下がる敵に追い回しす追撃でもなければ、付かず離れずの接触線の維持でもなくただの警戒。
気力も補給も尽きた状態。
まあ、旅団長も懸命な判断をされたようだ。
とりあえず気は抜けないが、派手なドンパチはない。
部下を失う確率も低い。
態勢を整えるにはちょうどいい任務。
私は各小隊を回り、警戒の態勢をあれこれ指示しながら、元気な奴を選び捜索隊を派遣する準備した。
迷子の二小隊、未だ見つかっていない小隊長以下二名を探さなくてはならないからだ。
大隊長には「ちょっと離れたとこまで斥候してきます」と言って許可をもらい、中隊のことは副中隊長に委任して出発することにした。
ケツは明後日の朝。
反撃部隊の攻勢開始までに見つけなければ、味方の弾でやられるかもしれない。
なんにしても、時間との勝負だった。
だから今、私たち捜索隊は暗闇を利用して敵中に潜り込んでいる。
敵も馬鹿じゃない。
我々の反撃が来るとわかっているから、斥候を狩ったり、私たちがやったように反撃を遅滞させるための部隊がうめこまれている。
こっちは六人。
優先するのは捜索。
誰一人残さない。
必ず連れて帰ると約束した。
なんというか。
安っぽいが……そのためには中隊長として死ぬ覚悟があった。
どこまでも続きそうな平原。
昼間はさすがに動けないので森林内に隠れ夜を待つ。
その間は交代で昼のうちに眠ったり、軽歩兵補助服の整備をしていた。
「ああ、例の彼女さんか?」
古谷伍長がじっと見ていた写真を覗く。
「まあ、正確には妻ですが」
と爽やかに彼は笑った。
出発前にいろいろもめたので『例の』なのだ。
所謂『でき婚』。
出発直前の横浜。
そこで例の彼女さんの親ともめにもめ、見かねた私は彼といっしょに相手の親に頭を下げにいった。
ばたばたと入籍だけは済ませてここに来ている。
彼は「俺に何かあったら悲しませるだけなので無事に帰ってから入籍したい」なんて言っていた。
だが私は「もし、君が死んだら生まれてくる子供はどうするんだ、入籍しておけば、金の保障は付く」とひどいことを言って説得した。
古谷はイケメンでかつ少々……いや、だいぶチャライ男で、そっちの方向では有名なのだが、写真に写る『妻』はとても真面目な感じのする女性で不釣合いに感じた。
「幼馴染というやつで……小中って同じだったんですが、向こうは頭いい高校いって、俺は、ほら馬鹿高校いったもんだからそれっきりだったんですが、たまたま地元帰ってみたら、たまたま話をしようってことになって、たまたま、あれで、やっちゃって、ま、たまたまできちゃって……」
たまたまが多い男、古谷。
「小学校の頃とか、地味な子だったんですが、小さい頃からの付き合いでいじめとかそういうの受けてたのを助けたりとかしていたらしいんです、俺」
――覚えていませんが。
と彼は笑う。
「やるな、君の嫁さん」
私は笑った。
「え、どういう意味ですか?」
「いや、いい……気にするな、いいよ」
キョトンとする彼を尻目に、私は水袋のチューブをくわえ水を飲む。
「ところで、中隊長がたまにチラチラ見ている写真見せてくださいよ」
俺のばっかじゃないですか、と口を尖らせてぶーぶー言ってくるので仕方なく見せる。
例の家族会での集合写真。
「このエロ親父!」
間髪入れず非難轟々の古谷。
「そう言うと思った」
「なんスカこれ? 水着の女の子いっぱいの集合写真」
「前の職場で小隊長たちとプールに行ってだな、集合写真ってやつだ」
「いや、おかしいでしょう、この茶髪のおっぱい大きい人とかどう見てもシャバの人だし、このちっこい可愛い子とか高校生でしょ」
「家族会なんだ」
小さい子供がいるからわかるだろう、いちいち大げさな……と私は文句をつける。
「にしてもうらやましい、こんなに女がいる職場だなんて」
「学校ってのはそういうとこなの」
「この背の高い人は」
「小隊長」
「この茶髪眼鏡さんは」
「学校の職員」
「このちっこい可愛い子は」
「私の娘」
「この眼鏡の美人は」
「友達」
「だれが本命ですか」
「ばっか! この」
にししし、と意地悪く笑う古谷の頭を思いっきり叩いた。
脳みそが入っていないのか、ポコンといい音が響く。
「娘命だ馬鹿野郎」
――ああ、俺も娘でも息子でも早く会ってみたいなあ。
と古谷はポケットの写真に触れながら呟いていた。
無事に帰れれば。
一瞬だが、古谷は捜索隊に入れなかった方がよかったんじゃないか、と思う。
いや……。
遊撃もあって、体力も、そしてカンもいい。
全員、何かしら事情を持っている。
能力を見て決めた人選。
私は雑念を振り払った。
あと二時間。
あともう少しすれば動くことができる暗さになる。
私は目を閉じる。
あと一時間。
体力を温存しないといけない。
そうだ、その前にもう一度。
もう一度、暗くなる前にあの写真を見ておこう。
あれから一年近く経ってしまった。
この写真を撮った日から。
さて……私はポケットに写真をしまう。
いくら補助服を着ているとは言え、夜はまた歩かないといけない。
目を閉じた。
眠ろうとしていると、エニシのあの震えた声が頭の中で蘇ってきた。
あの夜。
ずっと思い出さなかったあの記憶。
金沢を出る前に彼女と会った。
最後の夜。
ふと、私は眠りにつきながら、その記憶の中にゆっくりと浸っていった。
□■■□
「約束が違う……」
ベットに横たわるエニシ。
彼女はそう言って息を飲んだ。そして、ひざを抱えるようにして背中を向けてしまう。
約束。
――キスはしない。
そんな言葉を交わしてはいない。
暗黙の了解のようなもの。
ふたりがこうした関係を繋げる中で、いつのまにかできた約束。
でも、決して。
決して破ってはいけない。
破った瞬間、いろんなものが崩れてしまう。
そんな約束。
それを私は破った。
衝動的に、ではない。
そうすることが正しいことだと思ったから。
そうしようと思っていた。
エニシは自宅に呼ばなかった。
いつもと違う。
待ち合わせをして、軽く食事をとり、それからそういうホテルに向かった。
派手ではない場所を一応選ぶ。
それでもなんとなくそんな設備があることをお互いに恥ずかしがりながら、体を重ねた。
そして、一番熱くなった時、私は彼女の唇をゆっくりと吸った。
「エニシ」
「……」
超えてはいけない線。
彼女が年上のパートナーとの関係を維持するため、我々が超えてはいけない線。
「私の……」
彼女の汗ばんだ背中に触れ、そして後ろから抱きしめるように彼女を引き寄せた。
彼女の頭が私の胸の部分に触れる。
「私のそばに、いてくれないか」
少し震えるエニシ。
それから彼女は私の胸に熱を持ったおでこをつけたまま沈黙した。
火照った体が冷めそうになった頃、彼女はゆっくりと頭を私の胸から離し、そのひんやりした手を私の胸に押し当てた。
「ダメ……」
絞り出すようなかすれた声だった。
「うん」
私が予想していた答え。
「あの人を裏切ることはできない……」
「うん」
私はただ頷く。
彼女は顔を伏せた。
「私を拾ってくれた……もう、どうしようもなくなっていた私を拾ってくれた、恋人として愛してくれた、娘みたいに可愛がってくれた」
顔を上げた彼女。
今まで見たことがない表情。
彼女は泣いていた。
「……卑怯」
振り絞る声。
「ああ、卑怯だ」
私は穏やかにそう答えた。
「馬鹿」
彼女はそう言いいながら、私の胸に当てた手に力を入れる。
「しょうがない、バカだから」
私はゆっくりとそう言った。
「馬鹿……馬鹿」
唇を合わせた時。
いつものように背中に指を触れた時以上に彼女は反応していた。そして、最後はいつもより深く震えているように見えた。
「ひとりだけ告白して……すっきりして……そんな顔して、本当に……卑怯」
私を見上げるエニシの表情はよく見えなかった。
「君も言ってくれれば、すっきりすると思うけど」
少し意地悪を言ってみる。
今日ぐらい。
結果はわかっている。
だから悪くないだろう。
「言えるはずがないでしょう」
「そりゃそうだ」
少しため息がまざる。
わかりきった答え。
わかりきった結末。
それでもよかった。
私はもう一度彼女を抱き寄せようとする。でも、やはり彼女は少し伸ばした手で、ゆっくりと私を押し返す。
私は諦めの気持ちもこめて黙って押し返された。
わかっていた。
いや、万が一があるかもしれないと期待はあった。
宝くじが当たるぐらいの期待。
違う。
そんなんじゃない。
そんなことはどうでもいい。
結果とかそういうわけでなく、とにかくこの気持ちを伝えたかった。
友情以上に想っている、と。
愛している、と。
彼女はまた膝を抱えるにして、逆方向を向く。
「いつ……モスクワに出発?」
「今月中……かもしれない」
繋がりたかった。
いっしょにこれからの人生を送りたかった。
君の事をもっと知りたかった。
もっともっといっしょにいたかった。
でも……。
「失恋したぐらいで……いい年して……」
そんなことを言う彼女も泣いていた。
「泣いてなんか……君だって」
堪えた。
声が震えるのを、堪えたはずだった。
「変なの」
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
はじめて見たエニシの姿。
「お互い様」
私はきっと汚い顔をしていると思う。
涙も、鼻水もたらして。
ぐしゃぐしゃにしてるはずだ。
お互いに、変な顔で。
そして涙声でからかい合う。
「さようなら」
「さようなら」
最後は手を振って。
ホテルから少し離れた大きな路地に出て。
まわりの目を気にすることなく、ちゃんとさようならと言った。
涙目で、笑顔で。
こうして、私の三十九歳の恋愛は終わった。




