第28話「伊原真と呪縛」
夜は砲声が止んでいた。
ずっと鳴り響いていたため、初日は仮眠を取らなかったという兵士もいた。
三日経つと慣れるもので、そういう声は聞こえなかった。
眠ることは大切だ。
しっかりローテーションを組んで、戦いつつ眠らせないといけない。
戦場であっても眠らないと三日以上持たず、判断力を失って意味不明な行動をとるものを何人か見てきた。
逆に、暇さえあれば眠る奴は強かったし、歩哨――監視役――に立ってもしっかり起きていた。
幸いそんな被害を受けたことがないが、疲れ切った兵士が歩哨に立っていて、眠ってしまい、敵の襲撃を受けて壊滅状態になったとか聞いたことがある。
二十年前の戦場では、私がいた部隊でも『歩哨で眠った』ということで銃殺刑にされた者もいる。
静かな夜。
三分の一に仮眠を取らせている。
私もその三分の一なのだが、なんだか静かすぎて眠れなかった。
二十年前もそうだ。
もっと長い時間、あの地獄の騒音の中にいた。
負傷して、後送された野戦病院で不眠症になったことを思い出す。
静かな夜というのは、不安にさせる。
死んでしまったんじゃないかとかん違いさせる。
……病んでるな。
そう思う。
まったく敵も『当たりにくい』夜は、弾を節約しているようだ。
空挺作戦が成功した当初は、どんどん弾薬も空輸できていたせいか、敵は湯水のように射撃をしていた。
ここ最近、連合軍の航空作戦が有利に進んで、敵の輸送機を完全に遮断したため、敵は補給ができない状況になっているらしい。
効果が低い夜間射撃はやめているようだ。
その夜、私はけっきょく眠れず、中隊を離れ横尾のところに顔を出していた。
若い大隊長伝令が「軽歩一中隊長の野中少佐がこられました」と横尾が乗っている装甲指揮車の中に伝える。
何かしゃべった後「どうぞ」と言われ、装甲車の狭いハッチをくぐり中に入った。
途中、鉄帽越しだったが、ハッチのでっぱりで頭を思いっきりうち「痛った」と言いながら笑うと、伝令くんも笑っていた。
「狭いな、ここは」
私は鉄帽を脱ぎながらそう言って頭を撫でる。
「気を付けろよ、と言おうとしていたんなだが」
横尾は笑った。
それから私は真面目な顔をして中隊の状況を報告する。
そうしているうちに、伝令くんが温かいコーヒーを出してくれた。
「あんまり長居をするわけには」
私が遠慮しようとしたが、横尾は少し情けない笑顔で遮った。
「まあ、そう言うなよ」
コーヒーに口をつけると、私が事務室で何度も失敗した、あのまずいインスタントの味がした。
「まずいだろう?」
横尾が笑う。
「ああ、まずい」
私は苦笑して頷いた。
横尾はこういう飲み物にはうるさい人間のはずだ。
「あいつは、他のことはよく気が利くが、コーヒーだけはだめなんだ……」
「指導しないのか?」
「モスクワにきたら、こういう味のコーヒーが合ってる気がしてね」
私は笑った。
同じことを考えていたからだ。
同期、中佐と少佐――しかもなりたて――との違いがあるが、そういう共通した感覚があるのはうれしい。
私はコーヒーを一気に飲み干して、ありがとうと言って小さなテーブルの上に置く。
「まだ、来ないのか?」
そして一番聞きたかったことを聞いた。
「旅団もわからないと言っている」
予定の五日間はとっくに過ぎ、今日で八日目だ。
反撃部隊はまだこない……私はため息をついた。
しょうがない。
二十年前と同じ。
絶対に戦場でしてはいけないこと。
期待。
願望。
「明日が潮時だな」
私がそう言うと、横尾は布張りの椅子に座って腕を組んだ。
私も同じように座る。
「これ以上は下がれないというのが、大隊の考えでいいよな」
「ああ、そうだ」
「なら、明朝の攻撃はできる限り抵抗するが、今の陣地も二日目だ……敵もだいぶ偵察しているようだし、配置もばれている、明日あたり真面目な攻撃が始まると思う」
「そうか」
「預かっている兵士を八人も死なせてしまった……それに、ほとんど帰ってきたが、まだ一部行方不明の分隊がある」
「ああ」
「あと、負傷とかで下げたのも合わせて戦力は八割を切ってしまった」
横尾は寝ていないのだろうか、目のくまが酷い。
私は立ち上がり手を差し出す。
彼は私を見上げた。
そして気づいたのだろうか、神妙な顔になった。
「さよならだ」
「ああ、さよならだ」
血管が浮き出るぐらいに強く握り締めた握手。
私はもぞもぞと体を動かし、装甲車の狭い空間で体を出口に向けた。
「……野中」
私はどうしたと言う顔をして振り向く。
「いや、お前のところは……怪我人をすぐに下げて、遺体もしっかり回収できている……ありがとう、よくやってくれた」
私は軽く頷くと、小さく敬礼をして外に出た。
「潮時か……」
厚手の外衣の襟を閉じる。
星が輝く五月の寒空を見上げ、日本のことを思い出した。
三和ごめん。
こればっかりはどうしようもない。
スーパーお父さんなんて言ったけど。
自分ひとり生き残るわけにはいかない。
電話でもいいから、話がしたかった。
君に謝りたい。
笠原先生は元気だろうか。
頭山や伊原は元気しているだろうか。
伊原。
好きな人はできただろうか。
ちゃんと、できているだろうか。
あの日の夜。
君は一歩でも前に進めたんだろうか。
伊原……。
あの日の夜……。
――少しでも副長の思い出に残るようなことをすれば、少しでももっと近い存在になれば、未練を残して、戻って来てくれますか。
泣き声のようでもあった。
いつもの生意気を言って私に頼みごとをするような感じでもあった。
そして、少し彼女にはまったく似合わない淫猥な囁きのような息遣いだった。
ただ、その声がこそばゆかった。
背筋がブルッと震えるように感じさせた。そして私を硬直させた。
「もう少しだけ、いっしょにいてもいいですか?」
それが意味することは十分承知している。
断るべきだというのもわかる。
だが私はその場では「わかった」と返事をしてしまい、彼女はその震える手が私に触れた。
私は少し躊躇したが、互いに触れているその手を離し、彼女の背中に触れていた。
指先でゆっくりと背筋をなぞるように触れる……そう、いつもエニシにしていたように。
触れた時のエニシは息が漏れるような声を出して、そして少しだけ顎を上げるようにして、全身をちょっとだけ震わせる。
――弱いと知っているくせに。
と耳元で囁くように抗議をする。
そう、エニシの場合。
……ああ、わかっている。
彼女は彼女ではない。
ただ、熱を帯びた体で俯く目の前の女性は、伊原だ。
……。
私は背中に触れていたその手を離し、肩に手を動かす。そして、抱きついている彼女を離そうとした。
離そうと、離そうと……離せない? あれ? あれれ?
「だめです」
あ、そういやこの子レスリング経験者だった。
がっつり組まれていた。
「いや、まて、理性があるうちにだな」
ギリギリギリギリ。
もがけばもがくほど締まってくる。
「離、しま、せん」
いや、死ぬから。
内臓破裂で死ぬから。
理性も戻りましたから、いろんな意味で逆流してるから。
「ちょ、ちょ……」
声がでない。
「その折れそうで折れない態度にイライラしてきました」
アヒル口が尖っている。
「は、は……な……し……」
「い、や、で、す」
「……っ」
「これでチャラにしますから」
彼女の締める力が抜けた瞬間だった。
それとは対照的にふんわりしたものが私の唇に触れ、離れたあとは少ししっとりした余韻が残る。
ぱっと飛びのくように離れた彼女は、いつもの将校室と同じように少し生意気な表情で私を睨んだ。
よくころころと表情が変わる子だと思う。
「やっぱり、チャラにはしません……足りません」
足りない。
もう少し、何かあるのかと私の中の男の子が性懲りも無く期待してる。
もう、そんな自分が情けなくなってきた。
でもさ、伊原は私にとっては魅力的な女の子なのだ。
これが部下じゃなければ、こんなに親しくなければ、押し倒して性欲を満足させていると思う。
親しくなければ……。
そう、私たちは別のベクトルで近づきすぎた。
彼女は一歩踏み出す。
「ぼやきます、聞いてください」
と言ってきた。
「頭山にも昔抱きついたことがあります……ご存知ですよね、統合士官学校時代にボクたちが付き合っていたこと」
「ああ」
頭山はゲイである自分を受け入れられずに、異性愛者になろうとして伊原と付き合ったことがあると言っていた。
たぶん、互いに傷つけるような結果になっただろう……それでも、ふたりの関係が崩れなかったことを考えると不思議でしかない。
「あいつだけじゃないんです……ボクも彼を利用しようとしていたんです」
ボクも彼を利用しようとしていた。
あの日、学校祭の夜にひざを抱えて泣いた伊原。
あの時『父のことはもういいです』と言った彼女。
そう簡単に消せるはずがない過去。
あれを話した時と同じ声色。
「それに気づいていないから、ずっと一方的に、ボクを一方的に傷つけたと思っているんです」
彼女は少し躊躇したのか、少し沈黙した。
「……試したかったんです、父親以外に抱かれても、ちゃんと感じることができるか……変じゃないかって」
私はゆっくりうなずくことしかできない。
「結局、どうしてもあいつはできなくて、ベットで『ごめん』って言われて」
自虐的な笑顔。
「頭山だけが私を傷つけたって思い込んでるんですよね」
彼女はフフっと小さく鼻で笑った。
「私もまったく反応してなくて」
どういう表情をしていいのかわからないので私は微妙な表情をしていたと思う。
ただ、何か言おうとしたが、何も言えずに私は黙ったままだった。
そんな私に対し、ただ聞いてくれればいいんですと彼女の目は言っていた。
「ただ、学校祭の日……副長は知らないかもしれませんが、眠ったまま私のおっぱい触っていたって……知ってました?」
ぶっ。
「いや、すまん、記憶に……」
覚えてます。
起きた瞬間に飛びのきました。
「酔ってましたもんね」
いつものようにセクハラ上司を蔑む表情はしていない。
んでも、お酒のせいにはできないご時世だから、もう、ほんとごめんなさい。
「すまん、それは悪かった」
謝る私に対して微妙な顔のまま「反応しちゃったんです」と言った。
私はさすがに耳まで赤くなるのを感じた。
年甲斐もなく照れてしまった。
むしろ中学生みたいな恥ずかしがりかたをしてしまった。
部下で毎日顔を合わしている年頃の女の子に「反応した」と言われてしまったのだ、そりゃたまらん。
「今だって、抱きついただけで熱くなるし、キスしただけで膝が……」
ぐっと顔を近づける。
「副長に抱きついた時に言ったことは、言い訳です……ただ、熱くなったから、抱いて欲しかったから、もっと感じたかったから……ただのボクのわがままです」
私の中の男の子が、私の中の紳士をバックドロップ。
そして耳元で「ボクの中のお父さんを忘れさせてください」と彼女は言った。
人間耐えれるのも三回まで。
いや、まだこの波は二回目。
いや、ちょっとまてもういいじゃないか。
こんなに言っているんだし。
私の中の紳士は頭打って泡吹いてるし。
もう、伊原に恥をかかせちゃいかんだろう。
……。
ムヒャー!
「よし! もう大丈夫だ!」
近づく彼女を引き離すようにして、私は満面の笑みで彼女の両肩を叩いた。
「うん、感じたんだろう、な、うん、よかった、心配することはない」
彼女は口を半開きにしたまま私を見ている。
「もう大丈夫だってことだ、さっき伊原が言ったことは解消されているってころだよ、だって反応したんだから」
父親の呪縛から。
「あ」
彼女は少し納得した顔をした。
「よし、うん! 今日は帰ろう、もう帰る! 決めた」
私は彼女の手を引っ張り、タクシー乗り場へと向かおうとした。
よく聞こえなかったが、彼女は私に何かを言ってその手をスッと離した。
「やっぱりダメでした?」
私はため息をついた。
「ダメなんかじゃない」
私は自分の股間に手を置いた。
「さっきから、私の腰が引けていたことに気づかなかったか」
伊原は私の手を見ていた目をとっさに逸らし赤くなった顔を横に背ける。
私はなんだか、そのアヒル口を尖らして照れる顔が妙におかしく声を出して笑った。
「……最低です、人として」
そういった顔は仕事でよくみせる怒った顔ではなかった。
その表情は、涙目になっているのに泣いているのか笑っているのか怒っているのかわからないものだった。




