第25話「父と娘」
七月も終わりごろ。
学校で事件が起こった。
水泳訓練のため部外で宿泊していた一年生の学生達。
その中のひとり、ロシア帝国からの留学生のサーシャ=ゲイデンという少女――前に授業で私につっかかってきた金髪娘――が暴漢に襲われた。
コミンテルン陣営の工作員らしいが、極東共和国ではなくソヴィエト直属のものだったらしい。
帝国陸軍もロシア帝国貴族のお嬢様を預かっているところなので、護衛のSPをわざわざ国が雇って配備したり、ロシア帝国自体も似たようなもの雇ってたようだが、敵は巧妙に隙をついてきたようだ。
不幸中の幸いではあるが、いっしょにいた学生や近くにいた教官連中ががんばったお陰で命は別状もなく、軽症だけですんだという。
だが、ゲイデンが怪我してしまったことは確かだ。
わが国に過失があるかないか。
そんなことで上層部は揉めているようだ。
それにわが国の人間が襲ったといううわさもあるらしい。
だが、こういう案件は大炎上するものと思われたが、そうはならなかった。
炎上をくいとめるため怪我をしたゲイデンや日本に滞在しているその兄が立ち回った成果が出たとも聞く。
実際はロシア帝国がそれどころじゃなかったということもあるのかもしれない。
なにせ目と鼻の先に一触即発の国内問題を抱えたロシア帝国である。
そういう情勢も手伝ったんじゃないだろうか。
だが国内は違う。
厭戦気運が高まりつつある。
今、出征すれば隣の極東共和国を刺激しないか。
今後もっとひどいテロが起こるんじゃないだろうか。
二十年前の記憶が蘇りつつある世論。
それでもロシア帝国と我が国の関係は変化することはなく、遠征旅団の派遣準備は着々と進めれられていった。
ゲイデンには悪いが彼女の命ひとつでは、今のロシア帝国の問題になるレベルではなかったようだ。
ちょうどそのころ、我が家でも異変が少しだけあった。
三和の足や腕に頭目でもわかる、あざを隠していたという事件。
いつもは短パンキャミソールの娘がまだ残暑厳しいこの季節にもかかわらず、急に長袖のものを着ていたのを見た私。
直感というのだろうか。
お父さんパワーというやつだろうか。
何か嫌な予感がしたので、娘の袖を無理やりめくりあざを発見したという事件。
代償として私の顔面にも数箇所あざができたことは割愛するが、何があったのか聞いて、娘はまったく答えてくれない。
殴られたせいもあるかもしれないが、私はひとつとんでもない考えを脳内でめぐらせてしまった。
立ち眩みの症状がでて壁に手をつく。
婦女暴行。
まさか、そんな……。
いくら凶暴とはいえ、娘は女子なのだ。
力の強い男に組み敷かれたとしたら。
怒りの感情が腹の底から湧き上がる。
だれだ!
だれがっ!
「三和、まさか……」
と言った瞬間、思いっきり綺麗な上段回し蹴りが私の後頭部を襲った。
あのな、下手すりゃ脳しんとう起こして死ぬからね、これ。
辛うじて足と頭の間に左手を差し込み、クッション代わりにしたが衝撃はすごい。
「キモイ想像」
お父さんは感激している。
心が通じ合ったんだ。
おお、やるな……私がスーパーお父さんになる日も近い。
「最低、最悪、娘をそんな目で見るなんて」
まあ、そんなことを言うぐらい元気があるなら大丈夫か、と私は心を落ち着かせる。
だが私はあの痣を見るたびに気が気でなかった。
結局、理由を聞くこともできず、娘の態度に悶々とするばかりだった。
そんなある日、テーブルの上の携帯から無機質な呼び出し音がなった。
まわりから馬鹿にされるが、面倒くさいので着信音はデフォルトのままである。
見慣れない電話番号が携帯に表示されたのを見て、不審な思いのまま通話ボタンを押す。
おっさんだから、変な電話があっても切ればいいだけだから、何もビビることはない。
「もしもし」
『もしもし』
女性の声
『博三くん?』
「……そうです」
私を下の名前で呼ぶ人間はそういない。
エニシぐらいだろうか。
だが、彼女とは明らかに違う声。
『お久しぶり』
「あの、どちらさまで」
電話の向こうの人は少し笑った気がする。
『絵里』
私は数秒間固まってしまった。
十年前から一度も聞いていたない声。
「えり? ……えり……絵里!」
はじめは違ったが、だんだんと夫婦だった頃のイントネーションで『絵里』と発音していた。
『そんなに驚かないで、三和だってそっちに居座っているんだから、母親が挨拶するのは当たり前でしょ』
それにしてはだいぶ遅くないか。
「いや、君から電話がかかってくるなんて思わなかったから」
『迷惑?』
「正直、君の声が聞けてうれしい」
素直にそういう言葉が出た。
横浜へ……そしてモスクワへ行く前に聞いておきたい声だった。
『何それ』
そう言って電話の向こうで少し考えるようなそぶりが伺えた。そしてため息が聞こえる。
『ねえ、博三くん、もしかして、三和と離れるようなところに行くの?』
「ああ、三和から聞いていると思うけど」
少し間が空く。
『なるほどね、少し状況が掴めた』
まるで、初めて私の異動のことを聞いたような口ぶり。
「え? 何が?」
『鈍感』
「いや、何がだよ」
『ねえ、どうして十年も離れていたのに、いまさら父親なんでしょうね』
唐突な問いに、私は彼女がなぜそういうことを聞くのかと考えてみる。
でも、よくわからなかった。
『たぶん、博三にはわからないと思うけど』
「どういうことなんだ」
『教えない、なんだか無性に腹が立つから』
意地悪そうな笑いがスピーカー越しに聞こえた。
私をとりまく女性は昔からこういうのが多い。
『で、どこに? ん、答えはわかってるけど、モスクワね、遠征旅団の』
「三和に聞いたんだよな?」
念押しで聞いて見た。
『相変わらずね、野暮なところは』
とだけ彼女は答える。
『あなたに教えられることは少しだけだから、ヒントをあげる』
と、また意地悪な感情を含ませた声で彼女は言葉を続けた。
『三和はね、あなたと離れたくないんじゃないかな……そのために人の命だって犠牲にしようとしていたんだから……母親の仕事も邪魔をして、下手すれば私が失業者になりそうな邪魔を』
聞いてる? と、彼女は私を促す。
私は「あ、うん」と答える。
言葉の意味がうまくつかめないのだ。
なんなんだ、仕事って……命を犠牲にするって。
『ごめん、ちょっと愚痴も入ったんだけど、細かいことは考えないで』
彼女はそう言うとため息をついた。
『それだけ三和はあなたといっしょに居たいということなのよ』
「……」
私は混乱していた。
三和の怪我、絵里からの電話、そして命を犠牲にするとか、仕事を邪魔するとか……。
『あの子の心の発達は思ったよりも遅いみたい……もしかしたら小学生ほどなのかもしれない、見た目はお姉さんになったけど、考え方がどこか幼いし、短絡的なところがある……私の責任も大きいかもしれないけど』
彼女は一気に焚きつけるように話を続ける。
『今ね……今、面倒見ているのは博三だから』
また、今か。
『ねえ、異動はどうしようもないかもしれないけど、ちゃんと三和と話をしてから出て行ってね』
――父親なんだから。
と最後は弱く、寂しそうに言った。
通話が終わったことを伝える電子音。
しばらくそのまま、私はその音を聞いている。
今。
今か。
まただ。
私の今。
電子音が耳から入って脳に突き刺さるような痛みを与える。
それでも耳から離すことができず、私はそのまま固まった。
……。
空虚で、いろんなものを置いてきた空っぽの今じゃないか。
……。
何か大切にできるものがあるんだろうか?
……こんな私の今に。
こんな私の中に。
なんにしても、娘としっかり話をしなくてはならない。
絵里からの警告を私は素直に受け取ることにした。
私が帰宅すると、ソファーに座っている娘を目が合う。
「三和、お父さん……話すことが」
すばやく立ち上がる娘。
そのまま一瞥もすることなく部屋の方へ向かう。
「三和!」
つい大きな声を出してしまった。
それでも娘は止まらない。
部屋のドアノブに手をかけたときだった。
私ははっきり、しっかりと言葉を口にした。
「絵里と……お母さんと電話をした」
ドアノブの手がそのまま固まった。
娘はそれから手を離し、ゆっくりと私の方を向いた。
鋭い視線が私に刺さる。
なんだろう。
怒りを含んだ視線
でも冷たさが強いため、強い感情は入っていない。
私を睨んだまま娘はソファーに戻る。
「どこまで……」
娘の少し震えた声。
「詳しいことはわからない……三和が危ないことをしたことは聞いた」
私は彼女に対面するように座ってそう言った。
更に鋭い目つきで睨まれる。
「また勝手に……」
「なあ、どうしたんだ一体、お父さんは心配で……」
「……いつも、いつも、いつも」
三和はヒステリックにツインテールにしているゴムを左、右と順に引きちぎった。
私が見たこともない娘の感情の爆発に呆気にとられ、ただ見ることしかできない。
バサッと両方で束ねられていた髪が顔にかかった。
「勝手に!」
娘は立ち上がる。
「三和、お母さんと何があった?」
完全に目が据わっていた。そして少しあごを上げて私を見下ろしている。
「お母さんとまた、勝手に決めた」
「何を決めたって……」
「あの時も勝手に決めた」
「あの時って」
「お父さんが私を捨てた日」
お父さんが私を捨てた日。
……あ。
……ああ。
……やっぱり、そう思っていた、そう感じていたのか。
「また、捨てる……勝手に」
すまない。
本当に……。
「捨てるとかそういうことじゃない」
「わかってる」
いつもの無機質な感じでなく感情が入り込んだ声。
「わかってる……わかってるわかってる」
と娘は機械的に繰り返す。
「あの時は私が小さすぎて何もできなかった……今は大人以上に力も持っている、自分で解決できる、自分で解決する、そうすることにした」
娘は少し笑った。
口の端だけがもち上がる笑み。
「なんとかしようとした、でもお母さんが邪魔をした」
いつも冷静な娘はそこにいない。
むき出しの感情を込めた視線。
はじめて感じるその空気。
「なあ、よくわからないんだ……そこで人の命を犠牲にしようとしたとか、しないとか……お父さんに教えて欲しい」
何がおかしいのかわからないが、娘は急に声を出して笑い始めた。
「あのロシア娘が死ねば、お父さんはモスクワに行く必要がなくなる、なくなるはず、なくならなくてもいい、なくならなかったら別の方法をみつければいい、とりあえずやったことだから、だから次は……」
娘は一歩、また一歩、私に近づいてくる。
「たったそれだけで、また元の生活に戻れる」
また一歩。私はじっと娘を見据え立った。
「お母さんが邪魔さえしなければ」
「三和」
「お父さんが捨てた時は何もできなかった……でも、今はできる」
「三和」
「もういい! 勝手にあんたたちが決めて、私を一人にする、そんなのはもういい!」
「わかった……わかったから」
「また捨てる! 私を捨てる! モスクワに行くから!」
「いいんだ、もう」
私は娘の肩に手を置く。
「私が悪かった、三和に……こんなに……こんなに寂しい思いをさせているなんて思わなかったんだ」
「ふざけるな!」
「そうだ」
「何もかもあんたたちが!」
「ああ、お父さんが悪……」
激痛が走ると同時に私は仰向けに倒れ、そして天井を見上げていた。
そこにぬうっと現れる、ぼさぼさになった髪。
そう、娘は肩に置かれた私の手首関節を一瞬で極めていた。私はその痛みから逃れるために、自ら無意識に受身を取っていた。
マウントポジションをとるようにして娘が私の体の上に乗る。
「このまま、お父さんが動けなくなったら、モスクワにも行かないし、私といっしょに暮らせるよね」
見下ろす娘の目が見開く。
笑顔。
みたこともない笑顔。
そのかわいらしい表情がおどろおどろしさを倍増させている。
「ふふふ」
笑いながら私の首元にすうっと拳を握り絞めてた右手をあてがった。そして親指を半分だけ立てるようにして、喉仏の下に押し当てた。
私はたまらず咳き込み、もがいた。
「お父さん、動いたらついちゃうからね」
「足を折ったら動けなくなるよね、腕がなかったら料理もできないよね」
「……」
「私がいないとだめになるよね」
私はじっと娘を見上げる。
「ねえ、お父さん」
娘は私の首筋におでこをぺったりつける。
「もう置いていかないよね」
もう置いていかないよね。
もう捨てないよね。
いつもの三和に似つかわしくも無い妖艶ともいえる笑顔。
私はその奥にある幼い娘の泣きじゃくる姿を重ねてしまった。
重なるイメージが脳内に突き刺さる。
……。
ああ、私は君の父親だ。
だから。
だからこそ、正直に言わないといけない。
お互いに縛ったらだめなんだ。
だから、ちゃんと言うことに決めた。
「私は三和がなんと言おうと行くことに決めた……申し訳ないが、お父さんを放してくれないか?」
笑顔が固まり、そして醜く崩れていく。
あの可愛い顔がここまで醜悪になるかという顔。
私は、自分たち、親の行った……娘を気づかないままどれだけ傷つけていたことに今更気付く。
業の深さ。
自分の愚かさに吐き気がする。
だが……。
「いつも」
娘の両手が首にかかる。
「いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも……」
あまりに感情的になっているのだろう。
急所をつくことも忘れ、頚動脈を絞めることも忘れ、ただ、力任せに私の首を絞めてきた。
力任せ。
そう、技術がなければただの女子高生の力だ。
私は娘の腰に手をやりそのまま持ち上げた。
上半身を起こす。そして私も力任せに娘を抱き寄せた。
昔遊んでいたあの日。
ひざの上に乗せて高い高いをしていた。
そういう状態にして、大きくなった娘を抱きしめたの。
「すまん、三和を傷つけたことを許してくれとは言わない」
言葉を続ける。
「ただ、三和の事を愛してる……これだけは間違いない」
そう、それは間違いない。
ただいっしょにいることが愛ではないと思う。
それじゃただの相互依存じゃないか。
一方的な言い訳だとわかっていても。
それじゃ、私も娘も救えない。
「だって」
涙声。
「だって、お父さん死んじゃったら」
声にならず、死んじゃったらもう、会えないと泣き崩れた。
私はその背中をさすり「勝手に死ぬって決めるな」と言った。
私はそのか細い肩を掴んで、涙と鼻水でベトベトの顔と向き合う。
ああ、なにも十年前を変わってないじゃないか、と実感する。
「俺はスーパーお父さんだ」
ぐっと右手の拳を固める。
昔からある、ダサいガッツポーズ。
「戦争のひとつやふたつで死ぬような父親じゃない……三和の彼氏は追い払うし、孫にはやめろと言われても小遣いを与え続けてやる」
そんなこっ恥ずかしいことを。
私は胸を張って言ってしまった。
ぽかんと口を開けた娘に対して。
カッコ悪いガッツポーズを見せつけながら。




