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39歳バツイチ子持ちだが、まわりの女に煽られる。  作者: 崎ちよ
第5章  お父さん、決意す
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第22話「野中と伊原真」

 あのことを話すべきか迷った。

 三和にちゃんと話すべきか……。

 まだ決まったことではない。

 それにまだ話すべきことじゃないし、なんというか、娘に仕事のことを話してもしょうがない気がした。

 しょうがないというのは、興味を持ってもらえないし、理解できないだろう……という意味だ。

 軍隊のことなんて一般人に話してもどうしよもない。

 戦場のことを私が絵里に話せなかったのと同じで。

 話しても伝わらないという諦めと、話して伝えてどうするという思い。

 なんというか、仕方がないことだった。

 もう少しちゃんと決まってから。

 ……転勤になってしまうかもしれない。

 そう伝えればいいと思った。

 もし私が行くことになったら、別のアパートで一人暮らしができるように物権を探せばいい。

 高校一年生でも、ひとりぐらしぐらいできるだろう。

 母親である絵里も県内にいるようだし、大丈夫。

 心配ない。

 ……いや、少し通学に手間がかかっても絵里の所に帰るのが一番かもしれない。

 そう、行くことを前提に考え出している自分に驚きつつも、そうなんだろうな、と納得もする。

 同期の横尾から連絡があったあの日から、たった三日のうちに大隊長室に呼ばれ転属の話をされた。

 大隊長にはあくまで参謀本部からの『感触取り』であり、この件は組織の要求でもないから断るのは簡単だと説明された。

 そりゃそうだ、横尾の私的なオファーなんだから。

 そんなものを『参謀本部』を持ち出して、一介の中佐が遠隔操作できるんだから、横尾の力はすごいと素直に思った。

 電話でも話をしたが中央勤務も長い分、顔が効くらしい。

 さすが同期トップなだけある。

 何はともあれ大隊長はお前に任せる、ということだった。

 ということだ。

 ぶっちゃけ、この学校で私の存在なんて窓際も窓際。

 いてもいなくても変わらないから、私という人材はタダで出せるんだろう。

 大隊長からは返事を一週間以内にしてくれ、と言われた。

 最近はロシア帝国周辺の話題でマスコミも盛んになっていた。

 ソヴィエト連邦の極東軍が西に向かっているとか、極東艦隊も縮小され、西に集中しているという噂。

 国境付近のロシア帝国の州政府がいくつか、ソヴィエトへの編入を望んで紛争が起きつつあるという話もでている。

 とにかく、ひと悶着ありそうな情勢。

 もちろん、東西に分裂した時から数十年間続いている小競り合いみたいの延長的なものなので、ああまたかという意見もある。

 だが、それにしては軍が動き過ぎている気がする。

 それにポツリポツリとしか入らないが、ソヴィエト内で大規模な粛清があり、連邦政府の顔ぶれがほとんど変わったという話もある。

 それに、この国の動き。

 私たち庶民の知らないところで大きなうねりが起きている可能性は高い。

 やれやれ。

 (いくさ)が近い、のかもしれない。

 そんな事を考えているうちに急に激しい頭痛に襲われた。

 大隊長室から退出して、そのまま逃げるように給湯室に入った。

 ――なあ、今度は置いて行くなよ。

 ――早く片付けないと、どんどん次の便も入ってくるんだ! 早くやってくれ!

 語りかけてくる彼ら。

 ――逃げるな、臆病者。

 ――なんだ、あんた生きていたのか。

 ああ、まだ生きている。

 まだ。

 生きている。

 私は蛇口を目一杯ひねり、滝のように流れる水に頭をつける。

 ――なあ、今度は置いて……。

 ――るな、臆病者……。

 ああ。

 逃げない。

 やっといける機会がきたんだ。

 ――早くやってくれ……。

 ――だ、あんた生きてい……。

 まだ。

 ああ。

 もうすぐいく。

 垂れてきた水が鼻に入り、咳き込みそうになるようなツーンとした感覚に襲われる。

 ああ、もうすぐいく。

 私は蛇口を戻し、静かになったシンクに飛び散った水滴を見ながら取り出した手ぬぐいで髪を拭き、顔を(ぬぐ)う。

 そうしていると、鼻に水が入ったせいでべっとりした粘膜が鼻から垂れた。

 耳の奥が膨れる感覚がして、それが痛く感じるぐらい思いっきり鼻をかんで水に流した。

 給湯室で鼻水を垂れ流すなんてマナー違反だよな、と思いつつ最後に手ぬぐいで鼻を拭くと、少しだけ血がついた。

 ふうっと息を吐いた。

 ああ。

 頭痛が消えた。

 いつのまにか頭痛は消えていた。

 私は踵を返し、そのまま大隊長室に戻ることにした。



 中隊長に転属の件を報告した。

 通常は中隊長から私にくるのが(すじ)だが、将校の人事は大隊長が直接やるのが通例だった。

 そういうわけで、私は直属の上司に大隊長室であったことを話した。

「自分が言うことはありません」

 中隊長はそう言って立ち上がる。

「野中さんの意志で決めて頂ければいいと思います……ただ、行ってしまったら、伊原とか頭山とかいった若いものが寂しがるでしょうね」

 と、本人も寂しそうな顔をした。

 この律儀な上司にお世辞だとしても、そう言われたのは嬉しい。

「でも、ぶしつけですが、いち後輩という立場からものを言わせていただくと……野中さんが行けば、あっち兵隊のためになるんじゃないかと思います」

 私の士官学校の後輩にあたることを気にしていつも遠慮がちな中隊長。

 だから、いつもと同じように敬語だった。

 もちろん着任した時は敬語を使わないようにお願いしたことがる。

 だがやめない。

 最近は逆に言い過ぎるはよくないと遠慮して「敬語はやめてください」ということも諦めている。

 彼はお辞儀の敬礼をしてきたので、私はそれを返すようにお辞儀した。

 転属の辞令は私が決めてしまったので、数日後にはでるらしい。

 正式なものが出る前に中隊の後輩達に対しては早めに話す必要があると思い、その足で将校室へ向かった。

「転属するかもしれない」

 と将校室で小隊長たちに言うと、彼らはあっけに取られた顔をしていた。

 そして、すぐに頭山は真顔に戻る。

「遠征旅団の……第三混成大隊ですか?」

 カンが良い頭山が間髪を入れずに聞いてきたから「ああ」と言った。

「まだ、正式に決まったわけじゃないが」

 その言葉で将校室の空気が重く変わった。

 他の小隊長も神妙な顔つきになる。

「モスクワ行きですか」

 いつもと違うトーン――とても慎重な言葉とテンポ――で頭山が質問する。

「わからん、ただ可能性はあると思っている……向こうからは何も聞いていない」

 そうだとは言えない。

 すべて水面下の話なのだ。

「本当……ですか?」

 ガタっ。

 机に体をぶつけ、痛がりつつも慌てて立ち上がる伊原。

 いつものアニメ声よりもかすれた感じの声。

「……」

 私がいつものように「そうだ」と言おうとしたが、そのまま固まってしまった。

 兎のように目を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな伊原の顔を見てしまったから。

「……そんな、どうして」

「実戦経験のある将校が欲しいそうだ」

「……だって、まだ……傷が……病気があるじゃないですか」

 伊原は直接的な物言いをする。

「それでも欲しいって」

 私は笑顔を作っていた。

「三和ちゃんはどうするんですか……」

「母親のところに戻ってもらう」

 伊原が詰め寄る。

「断るべきです!」

「組織の……」

 私はなんとなくそこで言葉を止めた。

 きれいごとをこの子達に話したくはなかったから。

 組織の要求ではない。

 このオファーには強制力も何もない。

 別に私がいく必要もない。

 代わりはいくらでもいるはずだ。

 そうだ。

 正直になろう。

「私の意志だ」

 つい、腕を組んでしまう。

「向こうの大隊長が私を欲しいという……それに私も行きたい、だから決まった」

 ……そうだった。

 ああ、そうなんだ。

 私は戦場に行きたい。

 もう一度行ってやり直したい。

 給湯室で気付いたその気持ち。

 やり直したい。

 そんな自分の欲求のために、あの地獄にもう一度身を置きたい。

 だから私はちゃんとみんなに話すことにした。

「まだ早いが……みんなお世話になった、ありがとう」

 私は深々と頭を下げた。

 ……今の表情を誰にも見て欲しくなかったから。

 どんな顔をしているかわからない。

 でも。

 きっと心から軽蔑されるような。

 そんな表情をしているかもしれない。

 私は少し時間が経ってから、いつもの自分に戻っていることを確かめてから頭を上げた。


 その日の夕方。

 私は頭山と伊原と三人で食事をすることになった。

 ――転属前に散々面倒かけたんですから、飯と酒ぐらいおごってください。

 と頭山が生意気にも行ってきたからだ。

 そして、なんとなく予感はしていたが、頭山からメールが来て『散々その気にさせたんですから、先輩としてちゃんと後始末して下さい』とだけあった。

 私はやっぱりそうかと、ため息をついた。

 ――責任ね。

 若いふたりが一方的に(はや)し立てたとしか思えないが、先日の天幕の中での一件はまんざらでもなく、ついつい狼になりそうな自分がいたのも真実。

 確かにケジメをつける必要はあるだろう。

 十八時の約束。

 待ち合わせ場所に現れた伊原の格好は袖のないピンクをベースに細かい花模様がついているワンピースだった。

 それはやや胸が強調され、そのの下からふんわり広がるような服。そして、化粧も自然な感じ、春よりもやや長めになった髪の毛の効果もあって、正直かわいいと思った。

「変ですか?」

 彼女はおずおずと聞いてきた。

「いや、髪伸びたな、と思って」

 私はつい、思っていることと別のことを口にした。

 それ以上のことを言うと、また彼女を傷つけることになる。

 頼もしい後輩だと思う。

 彼女はやや過激だが仕事もできる。

 やや過激だが性格もいい。

 そしてプライベートではこれ。

 正直、伊原は素敵な女性だと思う。

 彼氏になった人間は幸せだろう。

 いっぽう私は八分丈の綿のベージュのパンツに、半そでの白シャツという格好だ。

 まあ、なかなか不釣合いな格好だと苦笑するしかない。

 その夜は香林坊(こうりんぼう)の近くにあるスペイン料理屋に予約を入れていた。

 私たちは店に入り、個室に案内された。

 コース料理を頼んでいたので、前菜が数種類出てきたところで「これはイタリア料理とどう違うんだろう?」と私が軽口をたたく。

 それに対し彼女は苦笑していた。

「たぶん、パエリアかパスタかの違いじゃないですか?」

 料理は詳しくないのでよくわかりませんが、と暗い店内のせいもあるだろう。

 彼女はとてもおとなびた感じ、それでいて魅力的な笑顔で答えた。

 手に持っていたフォークを置き、紙ナプキンで唇を拭いてから、彼女はよくわからない名前の――お手ごろだった値段のを適当に頼んだ――赤ワインを口に含んだ後、私をじっと見つめた。

「好きです」

 私も食事をやめて、フォークを置いた。

「待ってていいですか」

 昼と同じく、彼女は瞳を潤ませる。

「それはだめだ」

 向かい合ったアヒルを思わせる唇が震えている。

「私みたいなおっさんのために、君の貴重な時間を使っちゃだめなんだよ」

「ボクは使いたいと思っているんです」

 じっと私を見つめる潤んだ瞳は弱々しくはない。

 むしろ力強い芯のあるものだった。

「私はひとりの女性を大切にできるような人間じゃないんだ、欠陥品なんだよ……病気の事は知っているだろう……それで三和の母親とは別れたんだ……それだけじゃない、根本的に私は人を愛するということができないんだ」

「嘘です」

 彼女はいつもと違って静かに、そしていつもと同じく力強く、そう言った。

「嘘じゃない」

 私はそんなありふえれた返ししかできなかった。

「欠陥品とか、疾患とか、人を愛せないとか……言い訳じゃないですか」

「言い訳……?」

 自分の唇が少し乾いたのがわかる。

「副長は……大切な人がいるのに、目を(そむ)けているんじゃないですか?」

 私は耐え切れず目をそらしてしまった。

「嘘じゃない……もう、誰かを大切にしようなんて思えないんだ」

 彼女は、少しため息をついた。

「嘘じゃない、なんて……ないです」

 ないなんて、ない。

「そうじゃないと副長はこんなに人に優しくなれないし、こうやってちゃんとボクをふってくれませんよ」

 ――そんな荒んだ心を持った人だったらここにいません。

 と彼女は呟く。

「よく……わからないんだ」

 私の口からでた声は、思ったよりもかすれていた。

「すまない、伊原の気持ちに応えることはできないんだ」

 自分で言ってて最低だと思う。

「頭山が言ってました」

 彼女は目を伏せた。

「副長と山に行ったときに寝言でうなされては『待ってろ』って言っているって」

 待ってろ……か。

「ボクも頭山も心配なんです」

「心配?」

「きっと笠原先生の方が詳しいと思いますが」

 彼女はワインを口にする。

「死にたがっているようにしか見えないんです……ここ最近の副長は」

 ――死にたがっている。

 私は戦場に行きたいだけだ。

 行ってやり直したいんだ。

 臆病者の私を。

 でも私は……。

「……それは誤解だ、私はそんなことを……」

 私はなぜか、言葉をそこで止めてしまった。 



 店を出て、彼女をタクシー乗り場まで送ろうとして、しばらく無言で夜の繁華街をふたりで歩いた。

 人通りが少ない場所で彼女は立ち止まり、私の方を向いた。

 そう思った途端に彼女は私に抱きついてきた。

 ヒールのせいだけでなく彼女は私よりも少し背が高い。

 間近に彼女のアヒル口が見えた。

「ボクはわがままなんですよ」

 ――あと、諦めも悪いんですと、濡れた唇が動く。

「気持ちよくふってもらえたし……」

 彼女は意識して胸を押し付けているのかもしれない。

 ただ、そういうことになれた女性に比べ、とてもぎこちなく、そしてワザとらしい感じがする。

 なんとなく、私はそんな伊原の不器用さがあまりにいつも通りなので、少し安心してきた。

 余裕ぶって、自分のペースで話しているつもりなのかも知れない。

 だが、彼女の顔は羞恥で真っ赤になり、そして体は震えていた。

 ただ、すごく火照っているのはわかる。

「死にたがっている副長を見るのは」

「……」

「ボクは嫌です」

「なあ、そんなに、見えるか?」

「ええ」

「どうして」

「とてもさっぱりした笑顔が最近でています」

 さっぱりした笑顔。

「思い残すことはないという笑顔」

「そうかな」

 彼女は涼しい顔から一変して、くしゃっとした泣き顔になる。

「だって……急に副長が遠くにいってしまったようで、頭山もボクも不安で……いつもの副長に戻ってきて欲しくて……」

 ――少しでも副長の思い出に残るようなことをすれば、少しでももっと近い存在になれば、未練を残して、戻って来てくれますか。

 泣き声のようでもあり、いつも生意気を言って私に頼みごとをするような声でもる。

 いや、彼女にはまったく似合わない淫猥な囁きのようにも聞こえた。

 ただ、私はその声をこそばゆく感じ、背筋がブルッと震えてしまったことは確かだ。

「もう少しだけ、いっしょにいてもいいですか?」

 それが意味することは十分承知している。

 断るべきだというのもわかる。

 だが私はその場では「わかった」と返事をしてしまった。

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