第21話「野中大尉と横尾中佐」
娘の三和はあまりしゃべらない。
今でも私に対してはよそよそしい。
ほとんどがむすっとした表情。
会話。
一応挨拶はするようになった。
簡単な会話はする。
その言葉の端々に侮蔑の感情が含まれているのにも慣れた。
気に食わないことがあると――基本私が無神経なところが悪いのだが――母親仕込の忍術か武術かで暴力を振るう。
決して私をお父さん――前にそれぞれ一度だけ『パパ』『お父さん』と呼ばれたことはあるが――と呼ばない。
しかし、それでも時々。
時々は、あの幼い年長さんだった三和が見え隠れする。
そう……私に抱きついていたあの頃と同じような雰囲気が。
もちろん、娘はすぐに隠そうとする。
それもまたうれしい発見なんだが。
……隠す、そう。
他にもある。
数ヶ月同居して、気になることがある。
娘は怪我が多いとか、腕に包帯とか、切り傷があるとか。
最初はイジメでもあっているのかと心配――もっとも、いじめられている兆候とか信号とかそういう感情的な何かを読み取るほど、我々の間で父娘の交流が存在しないという問題はあるが――したが、そういう兆候はない。
陸軍少年学校の文民教師である小山先生に頼んで、その教員同士の伝手を使って金澤中央女子高校に探りを入れてみたが、そういうのはないようだ。
次に、何かの武術の部活でもしているのかと思ったが、洗濯物を調べると、道着が入っていたことはない。
何度かスポーツブラとか運動着とかそういうのがないか確かめたこともある。
部活に行っているとしたら毎日洗われるはずだが、そういうのもない。
したがって部活はしていないのだろう。
あまり、そういうことをこそこそ調べていると、変態か何かと間違えられる。
先日娘の洗濯を見ていたことがバレて、怒られるよりも何か遮断される気分を味わった。
お父さんは、君の洗濯物をそんな目で見ていない。
だいたい下着を見たから欲情するなんて、十代ぐらいまでだというのに。
あれは好きな相手が身につけている状態だから価値があるもので、それ単体では意味をなさない。
つまり、娘がつけている状態だったら価値があるわけで。
いや、まて。
違う、そうじゃない。
別に三和の下着姿がどうのこうのいう訳ではない。
発育がいいと、男が寄ってこないか、とか。
下着が派手になったら男ができた証拠じゃないか、とか。
そんなことを気にするぐらいだ。
まあ、そんなことはどうでもいい。
どうでもいい。
どうでもいいか?
よくない。
心配になってきた。
お父さん、心配になってきました。
……まあ、そんなことを繰り返すのも辛くなったので、三和にちゃんとその理由を聞いてみた。
先日面と向かって聞いてみたが『お母さんの手伝い』『バイト』と言い放って、それからは話をしてくれなかった。
まあ、学校でイジメとか、男の影がなければ心配しない。
うん、大丈夫。
男の影はない。
私の戸棚にある避妊具を見て、ああいう態度をとるぐらいだ、まさかカバンのなかに常備なんてしていないだろう。
だから、大丈夫。
それに、しつこく質問して何度も部屋に篭られたことがある。
余計なことは聞かないという処方箋を身につけている昨今だ。
それに……それ以上聞くのも、私にはそういう資格がないような気が最近している。
お母さんの手伝い。
そう、私には権利がない。
母親とのことを聞く権利がないのだ。
そんな後ろめたさがある。
それでもとりあえず、母親の絵里といっしょにバイトなら心配ない。
絵里は見た目が派手で妖艶で、男慣れしているように見えるが、そういう分別はある。
……はずだ。
いや、確かに、ところどころそういう方向でぶっとんでいるところがあるが。
まあ、大丈夫だろう。
大切な娘だ。
変なことはさせてないはず。
不意に。
ふと、恥ずかしい話を思い出す。
娘が年長さんだったころ。
――何して遊んだ?
――楽しかった?
――お友達と仲良くした?
と質問ばかりしていた。
今と変わらずあまり話をしてくれなかった。
娘は少しばかり言語障害があった。
確立された治療法なんかもなく、話しかけてくださいと医者に言われていた。
だから、何かを期待してしつこく聞くくせがついていた。
娘が来た当初、そのままの感じで会話をしてしまったのはそのせいだ。
もちろんその結果、お年頃の娘は「うざい」と言って部屋に消えることになったんだが。
ネットでちらっと見た嫌われるお父さんの理由。
まさに自分のやっていることはそれだった。
だが、学習能力の低い私は何回かそれを繰り返し、そして頭を抱えて後悔した。
そう、今よりも過ごした時間が長い幼い頃の三和の方が印象が強い。
私が妻と子を捨てた――つもりはないが、結果的にそういうものだったと思う――あの日までの娘の姿が。
妻だった絵里が娘と私を天秤にかけ、娘を優先したあの日まで。
あの日、三和はとても小さくて、そして無邪気だった。
あまり覚えていない……というのが正直なところだ。
当時住んでいたアパートからふたりが出て行く光景はもやもやとした記憶のみ。
あの時期はまだ病気が回復できず、まるで画面が切り替わるような錯覚――普通に見えていた世界から急にコントラストが強くなって目に刺さるような痛みが走る感覚か、またはフォーカスがずれたような、ぼやけてつかみどころのない不安に襲われる感覚のどちらか――の中にいた。
あの時は、後者だったんだと思う。
ただ、背中を見て。
不安に襲われ、後悔して、時間が戻って欲しいと願って、自分が妻にしたことを責めて、泣いて、そして、絶望した。
妻だった女性は、感謝してもし尽くせないほどの恩がある。
あんな私を支えてくれた。
娘のことを優先するまで、ずっと我慢してくれた。
絵里、君は強い。
私の看病を続けてくれたことも、生活費の負担も断り、三和を連れて去って行ったこともそうだ。
それなのに、私は何もすることもなく、あれからただなんとなく息をして、生きている。
絵里、私はやっぱり弱いままだ。
三和が私のもとに来てくれた今も変わらない。
……いや。
変わった。
変化している。
前よりも目に刺さるような痛みを感じることは減った。
前よりもつかみどころのない不安に襲われることは減った。
絵里。
君はどうして三和を私に合わせたんだ。
まだ、私を助けようとしているのか。
それとも……。
君は……。
……。
□■■□
将校室の温度計はきっかり二十八度を表示している。
私は制服袖を全開にした状態で、冷房の噴出口に腕を置いた。
ふわぁと上着の中に冷たい空気が充満し、熱が溜まっていた背中を冷やす。
「はうわぁぁ」
つい私は快感いっぱいの声を漏らしていた。
「いい歳したおっさんがそんな声を出さないでください」
大先輩に向かっていつものように暴言を吐く男はいつもの頭山。
私は大尉。
君は中尉。
しかも統合士官学校は十期以上先輩。
「わからんのか、すーっとするあの紙タオルでだな、ささっと拭いた後にこれをやると、たまらんということを、うおお」
私は、腋の下にある爽快感に打ち震えながら説明をした。
「今年に入って、六回目のやりとりです……もう少し別の説明してくださいよ、面白くない」
「お前な、どうして私が面白いことを言わなければならないんだ」
「それなら、気持ち悪いおっさんの喘ぎ声を昼間っから出さないでください」
――気持ち悪い。
を強調する頭山。
「まあ、まて、ちょっと頭山もやってみろ」
私は手招きをして「命令だ」と言う。
彼は「私物命令に従う義務はありません」「だいたい、大げさなんですよ、副長は」といいながら冷房に近寄った。
「うおおぉぉ」
頭山も声を上げる。
「ええやろ、ええやろ」
「……やばいっす」
「だろ、たまらんだろ」
大の大人ふたりが冷房の噴出口でわいわいしている風景。
閉めきった室内の外からは蝉の鳴き声が遠めに聞こえている。
男ふたり、快感にもだえる夏の日。
「いいかげんにして下さい」
アニメのようなかわいらしい声で抗議をする伊原が現れた。
アヒルのような口が尖っている。
「あのな、伊原もこれをやってみろって……まじやばいから」
私は彼女に手招きをした。
「お断りします! 副長みたいなダメ人間になる所業です、それは」
冷房に頼るなんて根性が足りない。
なんて言う子だ。
長身の彼女を見上げるので、何もなくても物理的に上から目線で言われるかたち。
そのせいで伊原に言われると、本当にダメなおっさんになった気がする。
私は頭山を押しのけ――もちろんゴミを見るような目で蔑む彼を無視し――伊原を手招きをして「命令だ」と言う。
彼女は「私物命令だす上司なんて最低ですね」「だいたいリアクションがワザとらしいんですよ、ふたりは」といいながら、冷房に近寄った。
彼女は制服の袖を全開にして、なぜだか恐る恐る冷房の噴出口に手のひらをかざした。
「……んっ……あぁっ」
背中を少し震わせて、普段の彼女からは聞いたことの無い声を上げた。
私は慌てて伊原を押しのける。
「ちょ、どんな声を出しているんだ」
「え? 思ったよりも気持ち良かったので」
キョトンとする伊原。
「まだ、お昼……そういう声を出しちゃいけません。ほら、お父さんびっくりしちゃうからね、なあ、頭山」
頭山はほおけた顔をした後、ニヒルな顔で笑いつつ「何、顔を赤くしてるんですか」とからかう。
あ、やられた。
と思い伊原を見ると、ニッと笑った後、上半身を曲げて上目遣いで「副長、発情しました?」と聞く始末。
「えっち」
「すけべ」
と、伊原、頭山の順で私を責め立てる。
「くっそう、純粋なおぢさんをいじめやがって」
おじさんと言ったら負けている気がするので、すこし濁したが、まあそんなことはどうでもいい。
私はせっかく引いていたにも関わらず、ぶわっと冷汗をかきながら若い二人に対して、有効な口撃もできなかった。
だから「くそう」「やめろー」と連呼した。
だって、めちゃくちゃ恥かしいじゃないか。
そういうやり取りをしているうちに、電話が鳴る。
すばやく伊原が受話器をとった。
「もしもし、二中隊将校室伊原少尉です、はい……あ、もう一度所属とお名前を、第三混成大隊長……失礼しました……はい、野中大尉、います、代わりますか? 暗号電話……番号は、はい、わかりましたそちらにかければよろしいですね? はい、失礼します」
彼女は左手の人差し指で受話器を置く場所を押す。
相手にガチャッとした音が聞こえないようにするためだろう。
ういうことは娑婆で当たり前のことなんだろうが、軍隊内でやっている人間はほとんどいない。
こういうところは意外と繊細な子だと、あらためて関心した。
「あの……」
「私か?」
「第三混成大隊長……横尾中佐から暗号電話で話したいと」
電話番号の書いたメモを伊原から渡される。
「なんで、帝国陸軍虎の子の遠征旅団、しかもその大隊長から電話が……知り合いですか?」
頭山が聞いてくるが「ん? さあ」と答えた。
混成大隊。
この帝国陸軍は一九四九年の一年にわたる内戦で東の極東共和国が独立して以来、国土防衛に重きを置く編制になっている。
しかし、大陸のコミンテルン陣営と帝国も加盟している防共陣営の緊張が高まる中、二〇〇〇年以降に、歩兵、騎兵、戦車、砲兵、後方支援が大隊規模で一体化され、迅速かつ独立的に機動展開して戦闘ができる遠征軍的な部隊を創設した。
第三混成大隊もそのうちのひとつである。
そして、横尾中佐。
統合士官学校の同期。
私とは正反対、我々の期一番の秀才。
出世頭。
親しい、親しくない……お互いの結婚式に出席するぐらいの仲だから親しい部類になると思う。
私は詮索してもしょうがないので、大隊唯一の暗号電話がある部屋に向かう。
それだけのための部屋。
こんな電話はそう使うものでもないので、人の出入もなかったのだろう。
どことなく古い空気で淀んでいるような部屋だった。
なんにしても冷房もなく、蒸し暑いため、さっそく背筋にかいた汗が数回流れ落ちた。
私はメモを見ながら番号を押し、そして電子音を待った。
『もしもし、第三混成大隊長の横尾中佐です』
「お久しぶりです、一〇九少年学校の野中大尉です、お電話いただい……」
ため息が聞こえる。
『野中、敬語なんてやめてくれ、寂しいじゃないか』
「立場がありますので」
『この電話を聞いている奴はいない』
「まあ」
『いいから、同期として話をしたいんだ……横尾と野中で』
そういう奴なのだ、横尾は。
「……どうした? わざわざ暗号電話なんかで」
『筋違いの話をするからな……普通の電話じゃ話せない』
「筋違い?」
『人事の話だ、それを引き抜きたい男に直接するのは筋違いだろう』
「……」
『結論から言う、俺のところの中隊長をやってくれ、軽歩兵補助服装備の中隊で』
「どうして?」
『実戦経験のある中隊長が欲しい』
「実戦って、負け戦しか知らない私だ……しかも一度後送されたような身だ」
『一度撃たれた人間は、勇敢にはならない、更に臆病になる、危機が迫った時に躊躇する』
彼は私が言おうとしたことを口にした。
『十分わかっている』
「わかっているなら、私は使い物にはならな……」
彼は私の言葉を遮った。
『わかっていると言っているだろう、だから欲しいんだ、俺の可愛い兵隊を少しでも、できる限り失わないような手を打ちたいんだ』
「まさか、モスクワ行きか……?」
『ああ』
二十世紀初頭まであったロシア帝国の領土も今はモスクワとその周辺だけになっている状況である。
そのほとんどがコミンテルン陣営のソヴィエト連邦に支配されている。
軍事力については最新鋭兵器の揃った質のロシアと旧式だが大量の装備と兵が揃った量のソ連で同等と言われている。
そして今、東西の国境付近では互いの国境配置部隊が増員されるぐらいに緊張感が高まっていると聞いている。
帝国政府もマスコミでは静観するとしているが、一部のうわさでは海空軍と遠征旅団を派遣する準備をしているという。
『あるとすれば、来年の春だ』
彼はゆっくり言葉をつなげる。
『我々が出るとすれば、北の海が凍る前……急だが、九月末から十月頭だろう』
「なら、なおさらじゃないか……今更不定期で私がのこのこそっちに行ったとしてもそんな短期間じゃ、中隊をまとめる前に出発することになるだろう……」
『向こうに行ってからは猶予がある、それに今の若いエリート中隊長じゃ戦えん』
お前こそ、若いエリート中隊長をやってきたんじゃないのか、とツッコミを入れようとしたが、やめた。
『俺はな、俺自身がそうだからわかるんだ……野中達と違って、あの戦いで前線に出ることなく休戦まで行ってしまったからな』
「実戦経験者なんて、ただ頭がおかしくなってしまっただけだよ、私のように」
『聞いている、だからこそなんだ』
「英雄とか言うなよ」
『……』
「士気は上がるかもしれないな」
『不安なんだよ、今の若いのは』
「私たちよりは頭も良いし、骨もあると思うがね」
彼はまったくな……とつぶやいたようだ。
『もう何年もこの国は外で戦闘をやっていないかわかるだろう』
約五十年だ。
この国は外国で戦をやっていない。
建前でいうところの内戦は二十年前にやっているが。
『ロシア帝国を守ることが我が帝国を守ることだということを、頭ではわかっても納得はできないものが多い』
世の中それだけ単純にできとけばいいんだがね、と彼は言う。
『わかっているだろう、兵隊はわかりやすくないといけない。簡単、明快、単純
、そういう世界じゃないと命は張れない』
「……」
『だから一度でも命を張った男が欲しいんだ』
「……話はわかった、でも即答はできない」
『少年学校の副中隊長だろう、野中はそんなとこにいる人間じゃない……あとは、人事系統で動かさせてもらう、もう参謀本部の人事部のお偉いさんは口説き終わってるがな』
「えらく幅が利いている」
『参謀本部勤務も長いからな、顔が利くんだよ』
「さすがピカピカ」
『茶化すな、また会える事を期待してるよ』
彼はそう言って電話を切った。
話の内容は置いといて、何にしても同期と話をするのは楽しい。
あの二十年前の東の侵攻で生き残った数少ない同期なんだから。
「戦か」
い、く、さ、か。
と私はゆっくり言ってみた。
さて。
どうしたものか。
いささかよくわからなかった。
「行きたがっているのか?」
独り言で自問してみる。
行ったとしたらどうなるのか?
なぜ、断らない?
学校は……私がいなくてもどうとでもなる。
三和は。
頭山、伊原、笠原先生、中隊長やその他の同僚、そしてエニシの顔が浮かぶ。
私はため息をついて、ひとりひとりのことを考えてみた。




