第17話「おせっかいおじさんと二人」
缶ビールと乾き物。
天幕の中で、我々――私、頭山、伊原――は缶ビールで乾杯をしていた。
七月末の山はとにかく虫がすごい。
人間の燻製みたいに蚊取り線香を炊いても、薄暗く光っている電球の周りでは、蛾やよくわからない虫たちがバタバタいいながら回っていた。
白山の山中に今日は泊まっている。
今度三年生の山地機動訓練があるので、その偵察がてらテント泊をしていた。
夜は訓練というわけではないので、酒宴をするのが恒例。
ビールもどきの缶を開け、乾杯をして、三人でわいわいと仕事の話から始める。
酔いもいい感じにまわり、どんどん馬鹿話に花が咲き出していた。
曰く、隣の中隊の真田中尉という女性は、その中隊の軽薄そうな軍曹とできてるらしいとか、うちの中隊長は飲むとただのエロオヤジになるとか、まあどうでもいい話だ。
そんな中唐突に頭山が私に質問をしてきた。
「陸軍大学校って行く価値あるんですかね」
私は最期の一滴を搾り取ろうと、ちょうど顔を天井に向け、缶のお尻をトントン叩いていたところだった。
「陸大?」
「そうです」
「わからん」
私はビールにも飽きたところなので、紙パック入りの焼酎を取り出し、自慢のチタン製シェラカップに半分くらい水を入れた後、焼酎を注いだ。
「俺は行ってないからなあ」
そう言ってから、ゴソゴソとクーラボックスから取り出した氷を入れる。そして、焼酎に口をつけた。
次に伊原があっけらかんな顔をして口を開く。
「総学生長が今更何を悩むんだ」
頭山は統合士官学校の成績が優秀な者しかなれない総学生長をしていた。
「伊原、お前こそ陸大目指さなきゃならないだろう」
少し口を尖らせて頭山は抗議する。
総学生長……そんなレッテルでものを言われるのがいやなのだ。
「ボクが陸大? なんでだよ」
「そりゃ、親父が将軍……」
「おい、頭山」
私は二人の会話を遮った。
悪気はないのだろう。
ついうっかり彼女の父親のことを口に出してしまったことに頭山自身も気付いたようだ。
申し訳なさそうな顔をしている。
彼女の父、伊原元少将。
先日、不祥事で退職した男。
彼女はビールをぐびぐび飲んで、ぷはーとわざとらしく言った。
「父の事は気にするな、ごめんな、いじわるく言っちゃって」
逆に謝る彼女。
それ一つ取っても、彼との間に深い友情があることが窺い知れる。
あくまで友情。
頭山はゲイであり、彼女もそれを知っている。そして、私の予想では彼女はそのことを知っている上で彼に惹かれているはずだ。
なんとも歯がゆい。
可愛い部下二人を前にして、困った顔しかできない自分。
できればくっついて欲しいものだが。
――元々そういうふうにできている。
ふとエニシの声が脳内で再生された。
そうだ、元々そういうふうにできているんだから、それは私の独りよがりな願望でしかない。
「いや、悪かった」
律儀に頭山も謝った。
「ボクはあまり偉くなりたくないんだ、正直」
「そうだったな」
ふたりで頷く。
「俺も」
彼は缶ビールを飲み干して、それを器用に片手で潰した。
「俺を受け入れてもらえる組織じゃないから、この少年学校に配置になったのもそういう差し金だったと思う……士官学校時代にさ、信用できると思っていた教官に相談していたんだ、そのことを」
彼女は無言でうなずいた。
「でも、そこから話が漏れたんだろうね……ある日、学校長に呼ばれて『治せ』って言われたんだ」
士官学校の学校長はうちの学校とは違って陸軍中将。
つまり相当なお偉いさんである。
「『頭を冷やせ、総学生長だろうが』だって……病気扱いをするんだよ、あいつら」
伊原が、頭山の肩に手を置く。
「言いたいやつに言わせておけばいいんだ」
「ああ、経歴には書いてないようだけど、総学生長経験者が半分後方部隊みたいなところにいれば『何かある』と思われる、世間体で差別はできないから、そういう人事をしたんだろう」
「でもさ、同期でここにいれるんだから、よかったじゃないか」
彼女は彼の肩から手を離す。
「ここはとても居心地がいいし、やりがいもある、それに勉強にもなる……それなのに、ここがそういうレッテルを貼られることが……俺がいることでそういうレッテルを貼られることが腹立たしい」
「それは自意識過剰だよ」
「お前だって、伊原、成績そこそこいいのに」
伊原はちらっと私を見る。
「ボクは希望してきた」
彼女は缶ビールに少し口をつけた。
「前も言ったけどさ、女のボクが第一線の戦闘部隊に入るとしたら、ここの半分学校の部隊しかないから……師団隷下の歩兵連隊には入れないのは知っているよね」
彼女は一息つく。
「あの父親が望む、後方支援部隊で出世していくということをしたくなかったんだ」
「ああ、そうだな、そうだったな」
何度も話したことなのかもしれない。
確かめる様にふたりは言葉を続けた。
「ボクは心許せる同期と一緒に勤務できるから、十分満足」
なんだこれ。
おい、もうくっつんこしていいんじゃないか、このふたり。
……まてまて。
落ち着け、おっさん。
まあ、でも天幕内の空気がなんだか、しんみりしてきた。
うん、あれだ。
どうもこういう雰囲気は苦手だ。
私は「もったいない」とオーバーに声を出した。
空気を読まない選手権があったら、全国大会の石川県代表ぐらいにはなれるだろう。
「伊原はもっと上がれると思うけどなあ、何気に頭いいだろう」
「何気にが余計です」
ぷんすかした顔をする伊原。
大人になった方がいいと思うぞ。
「窓際の見本の私が言うのはなんだが、可能性があるんだから目標もってがんばった方がいいと思う」
ああ、私はなんて模範的なことを言う上司なんだろう。
ほんと、素晴らしい。
完璧な諭し方。
偉い、私。
でもなぜか、そんな完璧な私を頭山が睨んでいる。
「……ボクは」
少し遠慮しがちな伊原はそこで言葉を止める。そして缶ビールの新しいものを開けた。
「できれば、好きな人と一緒になって……それから一緒に勤務したり、いや……辞めてから家庭に入ってもいいとも思いますが、迷惑じゃなければ、働いたり……あ、でもそれは軍隊以外ですが」
ちょっとうわずいた声の伊原。
おいおい、どうした。
伊原、君がもぞもぞ話をする姿なんて、見たことがない。
私の研ぎ澄まされた第六感が働いた。
なるほど、そうか、そうだよな伊原。
あれだけ男っぽくしていたのはあの父親のこともあるんだろうけど、頭山の気を引くために「男」を意識していたと私は見ている。
あの事件以来女の子してきたのは、正々堂々そっちで勝負をかけることだったということだな。
今確信した。
おっさん読んだよ、女の子の気持ち読んだよ!
ならば、今宵は決戦。
「あーなんだ……そろそろ発電機の燃料終わりそうだから、入れてくる」
どっこらしょ、そんな言葉を言って立ち上がろうとした。
手で制する伊原。
「燃料なら自分がさっき入れましたが」
伊原。
空気を読め。
私は君のために去ろうとしているんだぞ。
「酔いが回る前に満タンにいておけば安心」
私は鼻歌交じりに言った。
酔って機嫌がいいから先輩が燃料入れに行くんだぞーっとアピール。
「副長、そんなこと俺に任せてください」
おい頭山、なんで邪魔をする。
おっさんが若い二人の時間を作ってやろうとしているのに。
「いや、たまにはこういう雑用をすることが、おっさんのポリシーなんだ」
自分で言っててよくわからない。
「副長にやらせると心配なんです」
空気を読まない頭山がそんなことを言う。
「何が?」
「ガソリンと灯油間違いそうで」
「失礼な」
おいおい、さすがにそこまで馬鹿じゃないぞ。
昔、ペットボトルにいれたガソリン混合油の茶色いのをウーロン茶と間違えて飲んだことはあるが。
もう、へとへとで。
とにかく水分欲しくて。
ラベルついたままのに入れるのが悪い。
いや……そんなことはどうでもいい。
「まて、私が行くといったら行く」
「いいから年寄りは座ってて下さい」
この野郎……。
「トイレついでに行ってきますから」
そういうと私がつかもうとする手を払い――ぺシッてハエを払うかのようにして――のけた頭山は「漏れる漏れる」といいながら天幕から出て行った。
「せっかく……なあ」
私は伊原に申し訳なくなった。
ため息をつきながら困った顔を彼女に顔を向ける。
まったく、あの野郎。
私の精一杯の気遣いを……人の親切心がわからんやつめ。
ぐびぐび。
やけ酒みたいに飲んでしまう。
というのは言い訳。
ふたりきりになって気まずい空気が流れていたから。
なぜか頭山はなかなか帰ってこない。
無言の二人はどうしようもなく、ただ飲むペースが速まった。
私が紙パック焼酎をもう一度自慢のシェラカップ――チタン製!――に注ぐと伊原が唐突に声を出した。
「あ、あの」
「お、おう」
伊原も飲み過ぎだ。
顔が真っ赤だった。
「あの……」
言葉に詰まった彼女を正面から何気なく見る……そして、つい、凝視してしまった。
ああ、いや……まあ。
ついそういう目で……意識してしまった。
彼女のカーキ色のTシャツが少し汗ばみ、そしてうっすらと下着の線が浮き出していることに気付いたから。
私はそんな自分に気づき慌てて目をふせる。
すると次は緑色の短パンに目が行き……筋肉質だがスラッと伸びる足に目が行ってしまった。そしてまた同じように「いかんいかん」と自分の中で葛藤したうえで目を横にそらす。
奇襲だ。
あの伊原がそういう雰囲気になっているのは奇襲だ。
さすがの私も気付いてしまった。
もちろん私は慌てることことなく、心乱すことなく対応できる大人である、うんあである、であるか?
……できなかった。
情けない。
相当慌てた。
これじゃセクハラで訴えられてもしょうがないと思うぐらいチラ見する。
ああ、そうだ。
ごめん。
性欲だ。
節操のない性欲だ。
私は娘がアパートに来て以来……もう三ヶ月以上エニシとしていなかった。
正直、あれだ。
もう、どうしようもない言い方をすると、たまっている。
そういうことだ。
いい歳なんだから……と思う。
かわいがっている部下に、しかも上手くくっつけようと思っている片方に……少しでも欲情してしまっている自分が情けない。
いや、少しどころではない。
あの日の胸の感触なんかも思い出していた。
……ここは話をそらそう。
「最近どうなんだ」
いや、何言ってるんだ。
どんだけベタなんだ……おい。
「……え、いや、仕事ですか?」
「あ、仕事もプライベートも、あと頭山もだな」
さりげなく頭山。
ほら、おっさんやればできるじゃないか。
「プライベート……」
「そうだ、好きな人がいるんだろう」
「います」
即答だった。
「お、うん、どうなんだ? 私の知り合いなら、協力するからな……これでもキューピット野中と言われるぐらい、あいだを取り持つのは上手いからな、任せろ」
ウソである。
自分で言ってて嫌になるキューピット野中とか。
どこの男優だ。
できる限り伊原と頭山はくっつけたいが、男女のあいだを取り持ったことなんて一度もない。
「笠原先生」
「え?」
「笠原先生と付き合っているんですか?」
奇襲。
驚かず、冷静に、対応するべし。
奇襲が成功するのは、その最初の効果を持続させるからだ。
冷静に対応すれば、ただ先手を取られたにすぎない。
「か、笠原、先生? あれだな、美人だし、いいと思うけど、あれだ、私はおっさんだろう? 今更、お付き合いというのは恥ずかしいし、あれだ、彼女が嫌がるだろう」
私は冷静だ。
同じ接続詞を連続して使うはずがない。
「笠原先生はきっと副長のことが好きだと思います」
「いや、それはないだろう? あれだよ、仲良くしているのは、あくまでカウンセリングの間であって……あれだから、そこの点で信用しているだけでな……いや、端から見るとそう見えるのか、あれだもんな……気をつけないと、先生に迷惑かかるよな、あれだから……う、うん」
冷静だよね。
「私も副長が好きです」
そうか。
好きか。
……じっと目を見る伊原。
「好きです、副長」
……私は彼女のふっくらした唇をぼんやりと見た。
すきですふくちょう。
伊原が私に対して好きですと言っている。
ほんとうに言っている。
あれ?
私はもう一度目を落とすと彼女の短パンから伸びる太ももからサンダルの間に見える足の先まで真っ赤になっていた。
「わかった、まて」
「……何がわかったんですか?」
「わかった、あれだ! 私も伊原も頭山も好きだ……部下として最高の人間だと思う!」
無駄に力強く言ってみた。
そうもしないと雑念――主に性欲――が振り払えない。
「……ボクは人間として、副長が好きなんです」
「ああ、そうだな……うん人間として君たちは素晴らしい、うん好ましい、うん」
「すぐに、母親にもなれるようにがんばります、上手くできるかわからないけど……きっとミワちゃんにもお母さんが必要だと思います」
彼女が立ち上がりその長身を折り曲げる。
真っ赤な顔のまま、座っている私顔を覗き込んだ。
私は彼女のTシャツの首元が広がり、その奥の下着をつい見てしまった。
慌てて目をそらす。
……そんな私に気付いたのか彼女は緊張した顔を一瞬だけほぐしたように見えた。
「副長は、背の高い女はだめですか?」
「いや、そんなことはない、中身が重要だ、この歳になると」
「スポーツブラばっかりもっている女は嫌いですか?」
「そんなことはない、健康美健康美」
顔が近づいてくる。
私は必死に堪える。
これ、どうやっても……私に言い寄っているとしか思えない。
それを打ち消す否定情報を一生懸命探しているがまったくない。
だめだ。
いかん。
でも……しょうがないよ。
最近エニシとしてないから。
たまってるし。
してくれないエニシも悪いし。
エニシも最近相手してくれないし。
それに相手もそういっている。
据え膳なんとかっていうじゃないか。
おい。
そんな言い訳してどうする。
いかん。いかん。いかん。
いっその事、抱き寄せて本気かどうか試してみようか。
押し倒して……。
その唇を奪い。
そのスポーツブラの間に指先を差し込んで……。
……。
……っ!
ムキャーーーー!
「よし! 星が見たい! 見るぞ!」
彼女はキョトンとしたまま固まった。
私は立ち上がり、スルスルと天幕の外に向かう。
いわゆる逃亡。
逃亡者野中。
外にでる。
七月というのに思ったよりも肌寒い。
そうして天幕からずかずかと離れていった。
興奮した心を冷やす……少しは気分転換になっただろうか?
空を見上げると、曇り空で星ひとつ見えなかった。
「副長、卑怯者ですね」
「お前なあ、どうしてそういう大切なことを先に言わない」
「え? 何が」
「伊原のことだ、お前が仕組んだんだろう」
「バレました?」
「バレましたじゃない」
「いいと思うんですが」
「なにがいいんだ、伊原はな……父親のことで冷静になれなくなっているだけなんだ。あのショックで父親的な『私』を求めているだけだろう」
「それは考え過ぎですよ、あいつは前から副長を」
「あー、まて……いいか? ああいう未来のある子をだな、私みたいなのが……ダメだろう」
「そんなの関係ないでしょう……人が人を好きになるというのは」
「関係あるんだよ、高校生じゃないんだから」
私は頭をぽりぽりかいた。
虫がまとわりついてくるのを払いつつ。
「俺は」
言葉の間が開く。
彼の表情はあまり見えない。
「あいつに恋をしてもらいたいんです」
いつもよりも少し感情的なくせに静かな声で話す。
「俺が信用している、大切な二人が付き合うんだったら、そういう経験をあいつができるなら」
「経験をさせる?」
「まともな恋をして、まともな男と付き合う……」
いろいろな虫の鳴き声が、反響している。
「あいつが、俺と付き合ったときに辛い思いをさせてしまったから」
付き合っていた?
「士官学校で、あれを治そうとして、付き合ってみたことがあるんです」
彼は俯く。
「もちろん、やっぱりうまく続けれなくて、俺が正直ゲイだって言って、それで……今みたいに友達を続けているんですが、でもあいつはあれから、そういうことは一切無くて」
そうか。
私はため息をついた。
彼と彼女の間にあったことを私なりに想像する。
「すみません、よくよく考えたら、自己満足ですよね」
そうだ自己満足だ。
「人の心の中はよくわからん……でも、伊原はきっとお前の事が好きなんじゃないか? たぶん、私にああいう態度をとったのも、お前へのあてつけだと思う」
「それは……ちが……」
困ったことにこいつは鈍感。私は彼の言葉をつい遮る。
「だから、伊原もお前も冷静になる必要がある」
もちろん俺も。
「あんまり抱え込むな」
私は天幕に戻ろうと回れ右をし背中越しに言った。
「自然体で行けよ、自然に好きなものは好きだと思えばいいんだ……無理やり自分を殺す必要もないし、無理やり大切な人を幸せにしようとがんばらなくてもいいじゃないか?」
私たちは天幕に戻り、酔っ払ってベットで眠っている彼女を見下ろす。
おなかを出して寝ていたので、そっと寝袋を上からかぶせてやった。
そのとき少しだけ彼女の胸に触れてしまったので……まあ。あの感情がでてきてしまった。
いかん。いかん。いかん。
そんな葛藤を見せることなくベットに横たわり目を閉じる。
「電気消しますよ」
頭山がそう言って「今日はすみませんでした」とひとこと言った。
私は彼女の寝息を聴きながら、あの胸の感触を忘れることに専念した。




