第16話「臆病者と残された者」
第一〇九少年学校という場所で勤務する将校は出世と無縁な者達が多い。
直接学生と接する少尉や中尉はまだマシな人間を連れてきているが、大尉以上は何かしら、経歴に傷を持っていると見ていい。
私なんかはそんな窓際のお手本的存在だ。
だから統合士官学校で総学生長――成績優秀者が選抜される――に選ばるぐらいに成績優秀でピカピカな頭山少尉が、ここに存在することはとても不思議なことだった。
陸軍大学校選抜試験に一発合格して、エリートコースを歩むと見られている男だ。
同期のライバルたちは、優秀な中隊長や大隊長に囲まれ、陸大受験の心得を教授され、仕事の合間――中には仕事もせずに――試験合格のために勉学を励んでいることだろう。
しかし彼はまったくその素振りを見せない。
本当の上澄み液はたいして勉強もせず陸大に合格すると耳にするが、まさに頭山はそういう人間だった。
彼の机の上には陸軍教範のかわりに、私なんかには読めない分厚くて難しそうな本が必ず一冊置かれていた。
それが一日から二日足らずで新しい本に変わる。
かと言って、その勤務態度からすると、その本をいつ読んでいるか分からないぐらい朝早くから夜遅くまで学生教育に真摯に取り組んでいる。
もしかしたら出世なんて考えず今を一生懸命生きているだけなのかもしれない。
ただ単に私が彼の努力に気付いていないだけかもしれない。
上澄み液特有のそういう『らしさ』を見せることはない。
とにかく自然。
彼が偉くなったら部下になっていいと思う。
そういう男。
頭山浩一という男は。
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少年学校の学生たちの日課は普通の高校生とは違う。
午前中は一般的な高校生が受けるものと同等の授業があり、教鞭は一般の教師がとっている。そして午後に軍人として必要な教育や訓練をしている。
単純に一般高校生の半分しか勉強をできていないのだが、学生の偏差値は私立公立合わせても北陸トップレベルだった。
もちろん、元々偏差値の高い子供たちを選抜して学校に入れているというのもあるが、他の理由もあった。
寮生活で自習、食事、起床も消灯も時間が決まっているような規則正しい生活。
睡眠時間を削って夜中に勉強することは規則違反になるため勉強は夜の自習時間のみ。
一般の高校生に比べ勉強時間は少ない。
だが、別の見かたをすれば学生が集中して勉強できる環境と言える。
ダラダラ勉強するよりも効果的なのかもしれない。
そういう環境の良さも影響していると言われる。
そしてもう一つ。
午後の訓練で『座学』と言われるもの――軍人としての知識を入れる教育――まさに今私が行っている『戦術教育』の学生たちの態度が一番の要因だと言われている。
私が教壇から見ているその光景。
机に突っ伏した頭、頭、頭。
一学年の子供達の頭。
睡眠。
しっかりここで休んで、自習時間の勉強の準備を整えているのだ。
七月末、野外での訓練とは違い冷房が効いて寝やすい環境。
私はそういう子供たちに対して、自分でも面白くもないと思う『戦』の原理原則ついて教えている。
さっきから、首がカックンカックンしている女子。
たまに開く目。悲しいかな死んだマグロの目をしていて、私が話す内容にまったく興味がないというのが一目で分かる。
「戦というものが終わるのはどちらかの戦意を破砕したときだ」
そこの女子、あくびをする時は口を抑えなさい。
「意志と意志のぶつかり合いだからこそ、人、物、金が多ければ多い方が有利になる……まあ、当たり前のことなんだが」
首、折れない? 一人バックドロップでもするんじゃない? そう心配になるような眠り方をしている男子。
「こちらが劣勢……つまり、人、物、金がなくても勝つために重要なのが『集中』、戦力というものは以前話したが、火力、機動力、防護力といった有形の戦力と、個人、部隊の士気や能力といった無形の戦力を合わせたものだが……もちろん限りがあるので、大事なところ『決勝』で、ドカーンと敵より強くなるように集中すれば、敵に勝てるわけだ……まあ、当たり前のことなんだが」
カクン、ガシャン。
白目を剥いたカックン女子が机上の『中村』と書かれたネーム札を勢いあまって落とす。
……とりあえず、落とした名札は起きて拾おうか、中村風子くん。
私はホワイトボードに青丸のマグネットを八個、赤丸のマグネットを十個面と向かうようにして、それぞれを縦一列に貼り付けた。
「それじゃ、青組が『集中』って観点で赤組に勝つ方法を考えてくれ、だれでもいいから発表」
ずらっと目の前に並んだ、やる気の無い頭。
まあ、こんなこと知らなくても高校生はやっていけるからどうでもいいけど。
「それじゃ、上田」
首折れ男子の首が心配なので、カックン男子の上田次郎くんにちょっと起きてもらおうと思った。
「は、はい」
すたすたと前に出てきて、青組のマグネットを赤が並んだ上に被せるように動かし『T』の字にした。
これだから、この子達はすごい。
日露戦争で連合艦隊が行ったT字戦法と同じ考え方だ。
「横に並んだ青が八で赤の先端が一になるような態勢にして各個撃破するってことだな」
「はい」
「素晴らしい」
「は、はい」
あったまいいなあ、やっぱり。
「他」
しーん。
「中村」
カックン女子に当てる。
「わかりません」
「早っ」
まあいいよ。
そういうのお父さん嫌いじゃない。
じゃ、次行こうかな。
すっと挙がる白い手。
たぶん、ロシアからの留学生のゲイデンちゃんだったか。
おかっぱ金髪のおでこは赤丸がついている。
さっきまでうつぶして寝ていたからついたのだろう。かわいい顔が台無しである。
「ゲイデン、じゃあ答えてくれ」
「人を形して形すこと无ければ、則ちわれは専まるも敵は分かる。我は専まりて壱と為り、敵は分かれて十と為らば、是れ十を以て壱を撃つなり」
孫子かよ。
君、ロシア人だよね。
「お、おう……そうだな、孫子の勢篇にあるものだな」
「虚実篇です」
青い瞳に侮蔑の色が入っていた。
ついでに腕を組み教官に向かって勝気な態度である。
「具体的に説明してくれますよね、教官」
流暢な日本語、それがより一層この子の生意気さを引き立てる。
「ごめんなあ、正直勉強不足なんだ……たぶん、それが言ってることは『表面的には情報を入手して敵の態勢を解明する反面、自己の意思はしっかりと秘匿、それで敵さんは手の内が読めずにどっから攻撃してくるかもわからんから、戦力をあっちこっちに置くしかない……で、こっちはそれを知ってるもんだから、弱点に戦力を集中して、各個撃破するってこと』でいい? まあ言ってることは、当たり前だね、ふーんのお話なんだけど」
「もっと軍人らしい言葉で説明して下さい」
留学生、しかも高校一年生に日本語の使い方で怒られた。
「それじゃ、どうやって今みたいな、このTの字になるようにもっていくかなんだけど」
私はホワイトボードに情報、機動力、火力と書く。
「ゲイデンが言ってくれたように、情報の優越が第一で、次に機動力、動かないといけないから……もちろん、それを邪魔するために敵は火力、パンパン撃ってくる……それを邪魔して敵を動かさないようにするためこっちもパンパン撃って黙らせる、そういうことで火力も重要なんだ」
すでにわかりません女子の中村は眠っている。
「でも、赤組が十で青組が八ではそもそも火力が弱いから、例えばT字になるように動くことは難しい」
私はホワイトボードから青いマグネットを三つばらばらに置いて、赤を三つずつ動かす。
「青の五が残りの赤の一に攻撃すれば、楽勝で一を潰せる……まあこれを繰り返せば赤はどんどん減っていく、そこで重要なのがこれをするために、赤三を引き付ける青の一、これを三箇所」
マグネットを動かし赤三つと青ひとつの組み合わせを三つ作る。
「もちろんガチで戦うと、やられちゃう……と、いうことで有利な地形や準備時間を戦力化してから戦う『防御』の概念が生まれるんだ」
上田の首が折れた。
「だから、攻撃を有利にするために防御があるという見方もできる、防御は戦いの目的である勝利に直結するわけではなく、あくまで補助手段だから、攻撃に重きを置くような戦闘思想なのが、帝国陸軍の伝統」
次にホワイトボードに奇襲と大きく書く。
「奇襲ってのは奇術とかペテンとかではなく、赤組が予期しない、時期、方向、手段で攻撃しちゃうことと思ってくれ」
赤マグネットの上の部分に山、下の部分に断崖絶壁の海岸を描く。
「例えばこの高い山、冬は雪で閉ざされ、とても歩いてはいけないような所や、船をつけれないような断崖絶壁の海岸があれば、別の正面に戦力を準備するだろう」
青いマグネットを赤組の上下に動かす。
「こんなところに敵がきたらびっくりするだろう、このびっくりが大切なんだ」
留学生を見る。
「サーシャ・ゲイデン」
「はい」
「上田が好きか」
「な……」
鳩に豆鉄砲の顔と言うのだろう。この少女のせっかく整った顔立ちがもったいないことになった。
ちなみにカックン男子の上田に気があるということは噂で聞いている。
「上田は好きだと言っていたぞ」
「えええっ」
死んだマグロの目に光が灯り、なぜかガタッと机を揺らす中村。
折れた首が元に戻り、なんか名前が呼ばれたなーぐらいで目を覚ます上田。
「な、驚いたら人間は一瞬止まるだろ」
私は立ち上がったままの留学生を無視して「これが奇襲の醍醐味なんだ」と言った。
赤のマグネットの周りを、自由に青のマグネットを動かす。
「そういう隙を一気に突いて、次から次に手を打って弱点を突き進んでいくんだ……これこそ言うは易しの世界なんだがね」
私はホワイトボードのマグネットを片付け文字を消す。
顔を赤くした留学生はじろっと私を睨んだままである。
なんだかやってしまった感が。
あれ? もしかして図星だった?
人の青春に土足で踏み込んでしまったのかな。
ま、いいか。
青春、青春。
「じゃ質問なければ終わるけど」
教室にある時計の針は終了時刻より二〇分ほど手前を指している。
こんな授業、ダラダラやっても効果ないから、まあいいんじゃないだろうか。
別にサボりたいわけではない。
「教官は、二十年前の戦争を体験したと聞きました、大活躍だったとお聞きします、ぜひ奇襲の成功例を教えてください……こんなくだらない奇襲ではなく」
留学生が今度は手を挙げることもなく質問。
なんだか、おかっぱの金髪が少し逆立っているような気がする。
「んー、そうだなあ、大活躍も何も負けるは逃げるはの記憶しかないんで、奇襲を受けた戦例を」
私は、緒戦の関東の話をした。
まだ帝国陸軍が完全防勢だったころの矢板。
塹壕の連なる陣地線で受けた奇襲。
敵がいつの間にか防御陣地に浸透――部隊が小さい部隊に分かれて、陣地に隠密に潜入して、後方で合一する機動の要領――してから攻撃を受けた話をした。
あの時の恐怖は今思い出しても鳥肌が立つものだ。
前を見て銃を構えているところに、突然後ろから敵が現れた時のショック。
誰かが「下がれ」と叫んだ時にはパニックになり、自分の持ち場を捨て後ろの敵に向かって行った。
結果は正面からも敵が押してきて、一気に陣地線が瓦解し、部隊全体が敗走することになってしまった。
そういう話をして、授業は終わった。
そして、ひとり。
私はひとり教室の教官用の椅子に座って動けなくなっていた。
震え、貧血。
自分の手が土色になっているのが分かる。
あの時、私は同期を見捨てた。
「持ち場を離れれば、味方は総崩れだ」
と叫ぶ彼。
逃げよう。
もうだめだ。
逃げよう。
みんな行ってしまったと私は叫ぶ。
彼は同じことを繰り返す。
「逃げるな、臆病者」
最後に聞いた言葉。
私が死に物狂いで走り、転び、地面を這って、ボロボロになりながらなんとか部隊の主力に合流できたとき、もちろん彼の姿は無かった。
ただ、敵にあっという間にあの陣地を奪取されたという話を聞いただけだ。
……最近は聞こえなくなっていた彼の声。
――逃げるな、臆病者。
やってしまったなあ。
と私は途方にくれた。
こんなことで囚われるとは。
まったく、しばらくは眠るのが怖くなってしまうじゃないか……。
生々しい彼の叫び声が私を罵り続ける中、私は震える左手を右手でギュッと握った。




