第13話「伊原とエニシ」
「こんな可愛い子を連れてくるなんて、意外」
エニシはカウンター越しにそんなことを言った。
「え……その」
私の隣に座っている伊原は少し恥ずかしそうにうつむく。
いつもは笑いながら「あたりまえじゃないですか、美少女ですから」なんて反応をする彼女なのだが……私は彼女のそんな反応に正直驚いた。
スッと差し出される変わった象の絵のラベルのビール瓶。
ベルギーかどこかのものだったか……彼女は私があまり知らない珍しい銘柄のビールを注文していた。
私は彼女がグラスに瓶の中身を注ぐのを確認して、手に取った黒ビールのグラスに口をつける。
「このひとはいつも頭山くんとか男の子ばっかり連れてくるから」
エニシは少し口の端を曲げる。
女子を連れてくるなんて生意気。
彼女の表情はそう言っている。
まったく……勘ぐられても困る。
頭山含めて三人で来る予定だった。それでやつが「遅れるから先に行ってください」なんて言うから今はとりあえずふたりで飲んでいる。
「あ……そ、その頭山とは同期で……私は彼と同じ中隊の小隊長をやっています」
どうした伊原、なんでか細い声を出す。
「伊原さんね……このひとから聞いているわ」
エニシは私には見せたことのない、綺麗な笑顔を伊原に向け言葉を続ける。
「それにしても女性の将校さんなんて……やっぱり、かっこいい、んー、それにかわいい」
かっこいい。
かわいい。
そう言ったエニシ自身もお世辞ではなく十分綺麗だろう。しかも妖艶とまでいかないが、魅力的な雰囲気がある。
そんな女性に「かわいい」と言われれば照れるのもわかる。
現に伊原は顔を少し赤くしてもじもじしていた。
まったく、わかりやすい若人め。
おっさんは歳食った分、若い女子の気持ちが手に取るようにわかるのだ。
いや、照れるというよりも、エニシの笑顔にのまれているのかもしれない。
「あ、ありがとうございます、え……と」
「あ、うん……私はエニシ、その名前で呼んでもらうとうれしいわ」
彼女はニッコリ笑顔を崩さないままカウンターの奥へ行った。
伊原がさっきの残りをグラスに注ぐ。いつのまにか一杯目は飲み干していただようだ。
彼女が注いだグラスの中は、赤みがかった液体から泡が大量にでて、こぼれる寸前まで膨れていた。
彼女はじっとそのグラスを見つめ、こぼれないことを確認して口を開く。
「副長は常連なんですね」
「ああ、昔なじみかな」
この店も、エニシも。
「そう……ですか……それにしてもあの人……エニシさん、すごくきれいなひとですね」
またボソボソとした声。
らしくない。
そう思う。
彼女は鬱陶しいくらい元気で、無駄に声がでかい。
だが、外ではこうなのだろうか?
必要以上にその声は小さく、いつもの自信満々な感じは影を潜めていた。
今日の飲み会。
頭山が気を使って私たちを誘ったものだった。
先日の学校祭の夜以降――やましいことはしていない――伊原と私の関係は、どこかギクシャクしていた。
もちろん私が意識するようなことはない。
寝返りの結果、いや寝相が悪いせいで、まったく意識することなく彼女の胸にちょっとだけ触れてしまったが、私は全然気にしていない。
訂正。
……ちょっとではない。
それに、気にしていないわけではない。
正直罪悪感を意識してしまった。それでも何か決定的に変わったわけではない。
彼女自身、寝ていたようなので知るはずもないし。
だが、なんとなく前みたいに彼女と馬鹿話はできなくなっていた。
それぐらいの気持ちだったが、頭山によれば伊原と私はだいぶよそよそしい感じになっているようだ。
それにしても気まずい。
いつもの元気な伊原ではない。
……はやく、頭山が顔を出せばいいのに。
その同期であり、この宴会の言い出しっぺであるやつがまだこないため、私はなんとなく気まずくなっていた。
きっと、彼女の性格からいくと男気を出して『どどーん』という感じで、前の状態に戻すことがきると思う。
自分でもいい歳して、胸に触れたぐらいで何をしているんだと思うが、どうも勝手が違う。
ふたり。
どうしてこうなったのか……もう一度振り返る。
……わからん。
まあ、ふたりきりで酒を飲んだことが悪かった……そうかもしれない。
いやいや、なんとも気まずい。
一月前だったら、馬鹿っ話なんかしながらふたりで歩いて、乾杯もできたのだが……。
雰囲気が変わった。
私ではなく伊原が。
上手く説明ができない。
なんというか、服が違う。
ショートパンツにTシャツというのはいつもどおり。
違うのはそれがいつものスポーツタイプではなく、どことなくひらひらしたものがついている。
あと髪型と化粧。
前より少し伸びたショートを整えているし、唇にはピンク色のツヤツヤしたもの……グロスとかいうやつ? を薄く塗っている。
世間一般の女性と同じようにしていた。そして、アクセサリーなんかもつけていたりする。
あの父親の事件以来、妙に女の子っぽくなっているのだ。そして、それも気楽に話すことができない一因でもある。
「今日はみんなで飲む予定だったのに、残念だったな」
私は当たり障りのない会話を始めた。
さあ、こい。
「はい」
「最後に飲んで騒いだのは学校祭の夜か」
「はい」
「今は七月だからもうひと月以上開いてるな」
「はい」
……会話が続かない。
おーい、伊原さん。
いっしょにいつものように会話をしよう。
私はそう思いながら、小皿に入っているナッツを口に入れてぼりぼり噛んだ。
そして沈黙。
しばらくお互いに自分の目の前にあるグラスを見つめている。
ふと横目に見ると、あっという間に伊原はグラスもビール瓶も空にしていた。
私が自分のグラスに手をつける。
やや強めに息を吸い込む音が聞こえた。
「あ……あの」
伊原が言葉を詰まらせる。
「ん?」
私は彼女の方に顔を向ける。
「あの夜は……酔っ払って変なことを言ってすみませんでした」
学園祭の夜のことだろうか。
父親に対するコンプレックスの告白があった夜。
「……まあ、そういう日もある」
自分で言ってて、とても軽薄な受け応えだと思った。
自己嫌悪したため、黒ビールをあおる。
もう少し、なんかうまいこと言えないのか、わたしは……。
「自分は……いや、ボクは変わったと……思いますか?」
その唐突な彼女の問いに対して、即答ができなかった。
どうして、彼女が変わらなくてはいけないのか?
何を変えたのか?
……それがいまいちわからなかったからだ。
例えば彼女の父親から押し付けれれていた弟の代わりとしての伊原なのか。
父親から愛され過ぎていた娘としての伊原なのか。
それから必死に逃げるためにできた、男っぽい伊原のことなのか。
結局、何から変わろうとしていたのか、それはわからないが、一つだけ思い当たることがあるので、正直に私は答えた。
「そうだな……前より綺麗に、というより可愛くなった」
父親が娘に言いたい言葉である。
三和に言ったら「きも」のひとことで終わりそうなので、こわくて言えない言葉。
年の離れた後輩には思ったことをとりあえず言ってみた。
すると伊原はなぜか、空になったグラスに口を付け、垂直になるまでグラスを立てて少し残った液体を口の中に強制的に垂らす。
しばらく、その格好のまま固まる伊原。
「……お、おい、大丈夫か?」
なんだか心配になったので、私はそんなことを言ってしまった。
「新しの頼もうか?」
続けてそんなことを聞くと彼女は「そんなんじゃありません」と言いながら顔を振る。
顔が赤い。
まあ、一気に飲むからそうなる。
そんなやり取りをしているとエニシはカウンターに戻ってきて、伊原の目の前に炭酸水のチェイサーを置いた。
「あら、部下を口説くのはあまりよろしくないんじゃない?」
笑いながら、エニシが口を挟む。そして「同じビールでいいの?」と聞いて伊原がコクンとうなずいた。
「口説くなんて、人聞きが悪い……まるで私がエロオヤジみたいじゃないか」
「ふ、副長はそういう意味で言ったわけじゃないと思います」
さっきまでのボソボソ声は吹き飛び、いつのも声でかぶせる伊原。
なんで興奮しているのかよくわからないが顔が赤い。
「ふーん」
エニシは美しい顔に笑みを浮かべたまま、また奥のほうに行った。
「あ、あの」
「ん?」
だいぶ会話が弾みだしたか。
「あの手紙の相手はエニシさんですか?」
ぶほっ。
奇襲かよ。
私飲んでいたビールが鼻から逆流し、激しく咽る。
涙目のまま「失礼」と言おうとしたが、せき込んで何も言えない。
むしろ言葉の代わりに鼻からビールが出てくる始末……もちろん、そんな醜態をみせないように、慌てておしぼりで鼻を抑えたが、ああ、たぶん見られている。
それにしてもあの手紙。
……まったく、あの手紙と言えばあの手紙だ。
私はため息をつくこともできず、しばらく咽て苦しんでいた。
しばらくして気を取り直した私は伊原の方を向く。
……おっさんをそうやっていじめて何が楽しいんだろうか。
きっと頭山とタッグを組んで、今日はけっちょんけちょんに大先輩である私を貶めようと画策していたのかもしれない。
我慢できずに攻撃するとは……どんだけいじめっこなんだ、伊原よ。
「まず、あの手紙って、あれ? なんだ?」
とぼけてみる。
「副長がこそこそ読んでいる手紙です」
少し落ち着いた声。
なんだか急に元気がなくなった。
やっぱり……この前、頭山が言ってたやつか。そうだ、伊原が落ちているのを拾って机にしまってくれた、そういう話。
「……あまり人の手紙を読むのはよくない」
「掃除の時に落ちていたのでつい、重要な書類と思って」
「いや、あの便箋はどうみても、重要な書類って感じじゃないだろう、なんか可愛らしい模様入っているし」
まて、おっさん。
すっごく乗せられた気がする。
「嘘です! あんなに可愛い便箋が落ちていたらふつう気になりますから! バツイチ子持ちの三十九歳の上司の机の下ですよ、怪しいし、犯罪の匂いもしますし、見るしかないですよ」
伊原、とってもひどいこといってるぞ。こっの。
なんだか雰囲気も職場と同じような感じに。
重い雰囲気がぶっとんでうれしいような悲しいような。
「……犯罪って」
悲しい部分、そこだけは声が漏れてしまった。
「で、エニシさんなんですか」
「それは違う」
「じゃあ、誰なんですか? あんなに嬉しそうに、そして情けないぐらいのニヤけ顔だったら、彼女さんとか……付き合っている方ですか?」
引き続き容赦なく、失礼なことを言われた。
「違う違う」
「笠原先生」
「私の周りの女性を一人づつ言っていけばいいってものじゃーない」
カウンセリングの先生、彼女のような才女が私になんかラブレターを出すわけがない。
「デートしてたのに」
――ほんとこの狭い町だったら誰かに見られてすぐにうわさになるんですよ。
伊原がぼそりつぶやいたのが聞こえた。
「デートじゃない、お世話になっているから、ランチをおごっただけだ」
「それをデートっていうんです」
「あのな、そもそも笠原先生とは筆跡が違う」
「一応分析したんですね」
「……」
墓穴とは。
とりあえず言い訳を考えるために、私はグラスの中身を飲みほした。
「例のラブレター?」
カウンター越しに首を突っ込むようにしてエニシの介入。
ボソッと私の顔の近くでそんなことを言う。
煽るなエニシ。
「エニシさんも知っているんですか?」
「ええ……もう、笑っちゃった」
ケタケタと笑うエニシ。そして少しずれた赤い縁の眼鏡を人差し指で押し上げた。
私は少々むすっとして口を尖らせた。
「あのな、書いた本人は、きっと一生懸命な思いを入れて書いたんだ、笑っちゃいかんと思う」
とぼけても無駄なら、説教おじさん。
エニシは私の言葉を無視して笑い続けている。「おかしい、このひとにラブレターなんて、もう、どうかしてる」なんてひどいことを言う。
……しかし、どうして私の周りの女性は、こうも口が悪いのだろうか。
もう少し優しい世界に包まれたいと切に願う。
「私の予想じゃ、伊原さんが書いたものだと思ってたけど」
伊原はタイミング悪くビールを飲んでいたため、ゲホゲホと咽てしまい涙目のまま顔を赤くした。
エニシは意地悪そうな表情で私を見ながら笑った。
「おいおい、そんな冗談は失礼だよ、伊原だって年頃の女の子なんだから」
「伊原だっては余計です」
彼女の特徴的なアヒル口が尖った。
抗議するときはそんな感じになる伊原。
なんで怒っているのかよくわからないが……別にいいじゃないか、年頃の女子と言っても。
本当のことだし。
エニシのチョップ。
もちろん私の脳天に。
「これは女子を愚弄した報い」
そんな意味不明な解説をいれるエニシ。続けて彼女は伊原に顔を向け口を開いた。
「気をつけてね、枯れた枯れたっていいながら、けっこうエロオヤジだからこのひと……あんまり飲み過ぎないように、危ないから」
「……あのね、そういうこと言わないの」
と言って、私も笑ってしまった。
ふと、隣の伊原に視線を向ける。
彼女はビールのグラスを両手で抱え込むようにして、カウンター越しのエニシを見上げた。
「エニシさんみたいに綺麗になりたいです」
私は笑って「歳とることだな」とエニシの代わりに即答した。
彼女は例の微笑を作ったまま腰に手をやり、カウンター越しに顔を近づけ、上から見下ろす。
「ねえ、次はスピリタス? あなたウォッカ好きよね? グラスになみなみしてあげようか」
いやいや、ウォッカは苦手、しかも九五度ぐらいあるあれを飲んだらしゃれにならない。
「それとも、安い焼酎で割った、オレナミンG? 脳に栄養足りてないみたいだし」
たたみ掛けるエニシ。
大きな声ではないが、淡々としゃべるため、よくわからない迫力があった。
「ごめんなさい」
私はカウンターに額を付けた。
「謝ってもだめ」
「すみませんっしたー!」
私は頭を下げたまま、頭上に両手を合わせた。
「テカテカしてるおでこ……ねえ、そんな汚いものをテーブルに押し付けて……おじさん油がついちゃうからやめて」
チラッと彼女の表情を伺いながらわたしは顔を上げる。
「今日は隣の中隊にいる先輩に少し手伝ってもらったんです」
「若いし、もとがいいんだから、そのくらいの薄い感じがいいと思う」
グラスと氷が触れる音を聞いて、少し口につけるようにして飲む。
女子同士、化粧の話で盛り上がるのを横目で見ていた。
その話題を横で聞いた私が感想を言うとしたら、女性は面倒で大変ですね……ということぐらいかもしれない。
まあ、なにせ化粧品の名前などは聞いても頭に入ってこないから。
「ところで、あの手紙を出したひと……本当に誰なのかわからないの?」
改めて聞いてくるエニシ。
「わからない」
本当にわからないためスパっと答えた。
そんなスッキリ回答をしたというのに、エニシと伊原はふたりそろって訝しげな目を私に向けた。
「いや、本当だって、ただ一生懸命書かれているし、たぶん、三十前後の人だと思うんだが」
「やっぱりエニシさんじゃないですか?」
――だって、こんなに仲がいいのに。
と言葉に続けて伊原がつぶやく。
「違う違う」
私は大げさに否定した。
エニシは笑顔でうなずき「友達よ」と言った。
「そう、少年漫画とかに出てくるような友達」
言い得て妙だ。
……私たちふたりを表すちょうどいい言葉。
私のエニシの不思議な関係は、深い友情。
少年漫画の主人公とその周りの男たちとの友情に近いものがあるんじゃないだろうか。
戦友。
何かを分かち合ったふたり。
体は触れ合っている。
もちろん心も触れ合っているつもりでもある。
でも、それは世間一般の彼氏彼女とかそんなものではない。
まして、夫婦とかそういうものでも。
やっぱり、友達という言葉がしっくりくる。
……しっくりこなくてはならない。
そう私は思うことにした。




