第10話「伊原と父親」
伊原の父親がセクハラで懲戒処分を受けてからひと月。
五月もいつものように過ぎ、六月も半ばに差し掛かっても何も変化はない。
そう……伊原が少しだけ身ぎれいになったというか、女性っぽくなったというか。
……まあ、この話をエニシにしてみたら皮肉な表情で「その伊原という子に失礼ね」と言われ、女性の気持ちがわかっていないとか、そういう説教を受けた。
――今まで女性ぽくなかったと言っているのといっしょよ。
そうも言われた。
確かに、それじゃあ失礼だったかもしれない。
――博三のことだから、口に出さなくてもそういうのって相手に伝わっているんじゃないかな、あーあ。
ととどめも刺された。
大丈夫、そこまで私も馬鹿じゃないから、伊原に失礼なことをしていない。
……いや、あの父親の件でなんとなく話し辛く、そして別の意味で気を使ったひと月を過ごしていた。
だが、あの件についていえば、帝国陸軍内……身内とはいえ、セクハラ少将の名前は伏せたままだし、こんな地方都市のしかも小さな部隊だ、ひとりの将軍がどうなろうと、あまり関係ないし、もちろん話題にもあがらない。
それでもなぜか、いつものように振舞う伊原を危うく感じていた。
そんなことで学校は新年度が始まって二ヵ月以上が過ぎ、学校祭というイベントの時期を迎えていた。
年に一度のお祭り。
学校……駐屯地が一般人に開放される一日。
軍人たちが出す屋台、学生達の文化祭のような出し物、そして装備品の展示などで賑わっていた。
このお祭りは昼と夜の部がある。
昼は今言ったような内容だが、暗くなってからは体育館でダンスパーティーをする学生と、その裏で焚き火をしながら酒盛りをする大人に別れる。
なかなか地域でも人気のイベントで、家族ずれ、それから周辺の高校生などが遊びに来ていた。
高校生は間違いがあってはいけないので「高校の制服」限定であるが。
そういことで私も娘に「せっかくだから遊びにおいで」と誘ってみたが、言うまでもなく断られた。
――お母さんの手伝いをするバイトがある。
とか言っていた。
せっかく家族割引券を使って、二中隊名物の炭焼き鳥うどんを食べさせてやろうと思っていたが、仕方がない。
家に来て三ヶ月が過ぎたが、まだまだ父親と娘という関係にはほど遠い。
そんな祭りの当日、私はぶらぶらとイベント会場を巡回していた。
一応、肩書だけだが「学生会指導官」という名目がある。
何かイベントがあればその計画書にぽちっとハンコを押すだけの役目だが、イベントがうまくいっているか確かめるため、一応まわっていた。
もちろん、何もやっていないが。
大通りにでると、いわゆるコスプレをしている学生が私の隣を通り過ぎていく。
パタパタと走っているのは金髪の留学生。
サーシャ=ゲイデンとかいう、ロシア帝国の貴族の娘。
まあ、日本という国はひどいもんだと思うのは、そんなばりばりのロシア正教信者に神社の巫女さんの服を着せているのだ。
しかも、狐耳つきで。
その後を追っているのは、戦国武将のような格好をした男子。
落ち武者なんだろうか、ハゲのカツラを被ってるし、無駄に甲冑に矢とかが刺さっている。
ひとごみを駆け抜けるふたり。
「こらっ! 学生! 大通りで走るな!」
鋭い声で指導が飛んでくる。
「すみませんっ」
落ち武者男子がそう答えるが、サーシャを追っかけて行く方を優先してその場を去っていった。
「……ったく、一中の学生は」
指導を無視された気分になっているのは伊原少尉だった。
「まあ、お祭りだから、な」
私がそう言って近寄ると、訝し気な目つきで私を見下ろしてきてため息をついた。
……何度も言うが、私より数センチ背が高いとはいえ、彼女はペーペーの少尉である。
私の様な古手大尉に向かってやるような態度ではない。
帝国陸軍伝統の鉄の上下関係もここには存在しないようだ。
「副長は甘いと思います」
「そうかなあ」
「そうです」
「まあ、ほら、まわりの目もあるし」
ぐいっと右腕を突き出す伊原。
腕の赤い腕章には『指導員』という漢字が書いてある。
「毎年、高校生間のトラブルだってあるんです、私たちがしっかりしないと、浮かれた学生達が何をやるか……それに部外者も、ほんの少しですが、ナンパ目的とかそういうことで来ているのもいますし」
「まあ、ナンパぐらいいいだろう、夜のダンスパーティーなんて公認合コンみたいなもんだし」
「そーゆー表現はやめてください、なんか卑猥です、特に副長がいうと」
「……傷ついた」
「傷ついてください」
私ががっくりと首を落とすと、彼女はクスっと笑った。
「言い過ぎました」
少し柔らかな声。
「だろ?」
「やっぱり言い過ぎてません」
「……」
「副長、暇ですよね、というか暇で間違いないですよね、巡回指導の手伝いしてください」
彼女はそういうと、クルリと回って私に背を向けて歩き出す。
私の返事なんてそもそも必要ないらしい。
まったく、先輩というものに対して最近の若い奴は。
だがそんな悪態をもちろん口に出しても言えず、とぼとぼと私は付いて行くことにした。
それにしても……ふと気づいたが、彼女の後ろを歩いていると甘い香りが漂ってくるのだ。
去年はいっさいそういうものはなかった。
まあ、女性特有の香りはあったが、それに付け加えるものはなかった。
なんの香りかは詳しくないし、あまり興味もないのでわからない。
だが、二〇代前半の女子が付ける様な、そういう類の香水か何かであることはわかった。
そんなことを考えながら歩いていると、少し人気がなくなった一角に、ここの学生達の制服ではない男女が何か揉めているような光景が目に入った。
女子一に男子二。
いや、一方的に男子が言い寄っているような。
まあしかし外の高校生たちどうしのもめ事だ、さっき伊原がやったような指導はできない。
だが、困っているとしたらひとりの大人としてあの女子を助けないといけないだろう。
私は目を凝らす。
金澤中央女子高校の制服。
そういえば、娘の三和も同じ制服だ。
女子の特徴ある髪型。
いわゆるツインテールといわれる……そう三和もそういう髪型。
そういえば、三和はバイトがあるから来ないとか言っていたが……まて、あれが三和で、父親とに嘘をついてまで来ているということは……ひ、秘密のデート!
私はぐるぐると脳ミソを回っていった。
ってことは、父親にも言えないような濃い関係!
三和ひとりに対し男ふたり。
……な、なんですとっ! 男がふたりとか! そ、そんな乱れているのか昨今の女子高生は!
まさか、我が娘もそんな乱れた関係をしているとか。
私は気付いたら走っていた。
お父さん、小学校の運動会で必死に走る。
まさにそんなダッシュである。
「……こんのっ! エ……」
ロませガキがっ……と叫ぼとしたところでやめた。
むぎゅ。
三和は私の腕に抱き着いてた。
「パパ」
確かに娘はそう言った。
しかも、そこそこ甘い声で。
「は?」
私は気が抜けたような声をだす。
「パパと来てるから」
三和がそう言うと、男子高校生ふたりは「なんだ、家族ずれかよ」とか言いながらその場を去っていった。
ふたりの姿が見えなくなった瞬間、私を弾き飛ばすように三和は距離を置いた。
パンパンと制服の袖を叩いて埃を払っている。
ばい菌でも付いているような仕草で、必死に叩くその姿を見て私は流石に傷ついた。そんな傷心の私に気を使うこともなく、袖に鼻を当ててクンクン匂いを嗅いで点検していた。
それを何回か繰り返すうちに、ある程度して気が済んだのか、いつものように冷たい視線を私に向けてきた。
「勘違いしないでね、野中さん」
「ん? ああ」
「バイトする前に、騒ぎを起こしたらまずい」
確かに私を軽々と投げ飛ばすぐらいの腕っぷしだ。
あの達人級の武術武道を習得している母親の娘である。
相当仕込まれているに違いない。
それでも、あの男子から言葉だけで追い払おうとしていたのは、何か理由があってのことなんだろう。
「あれ? お母さんといっしょじゃ」
「いっしょだけど、今は別々」
「……そうか」
娘は相変わらず無表情のまま、でも少しだけ眉をひそめたのがわかった。
「お母さんに会いたい?」
私は即答できなかった。
ちょっと首を傾げる。
でも、無視できる質問ではない。
「できれば会って話はしたい、三和の事を聞きたいから」
だが、学校に来てても会わないということは、そういう意味だとわかっている。
「ふーん」
謝りたかった。
許してもらえるとは思えないが、ここまで三和を育ててもらったことを、何もしなかったことを謝りたかった。
「あの、副長」
伊原が申し訳なさそうな声で話しかけてきた。
「あ……すまん、勝手に動いて」
「いえ、いいんです、お身内の方だったんですね」
さすがに高校生とはいえ、部外者を前にすると、外行きのしゃべり方と声になっている伊原。
「野中さん、このひとは」
三和があの日女性ものの下着やゴムの箱を見つけたのと同じような声色で質問してきた。
「同僚の伊原少尉、同じところで勤務している」
「ふーん」
興味があるのに興味がなさそうな声を出しているが、三和は伊原の姿を下から上まで遠慮なく観察していた。
「あの、例の娘さんですか?」
「ああ、春からうちで下宿している娘の三和だ」
私がそう言うと伊原はペコリとお辞儀した。
「はじめまして、伊原真といいます、お父様の後輩で、いつもご指導していただいてます」
三和はギュッと口を閉じた。そして、少し唇を震わせながら返事をする。
「……はじめまして、野中さんがいつもお世話になっています」
ペコリとお辞儀を返した。
「ほんと、可愛い女の子ですね、こんな子が娘にいるとか、うらやましいですね」
にっこり笑う伊原。
「ま、私は父親らしいことは何もできていないんだが、な」
私は三和の頭に手を置こうとしたが、軽く右手で払われてしまった。
たぶん、すごく情けない顔を私はしてしまったと思う。
「そういうことするから、父親は女の子に嫌われるんですよ」
伊原が笑った。
私は口を尖らせ、何か言い返してやることにした。
「……べ、別に、そういうこと気にしないし」
私は強がることで精いっぱい。
三和は相変わらずムスッとした表情で、私を見上げていた。
まだまだ野中さんは続いてしまうようだ。
私はそう確信していた。
学校祭の昼の部も、なんだか過激派が入って来たかなんかでバタバタ警備はしていたが、とりあえず無事に終了したようだ。
まあ、無事といっても、何人かけが人が出たようだ。だが、祭りを中止にすることはなかった。
だいたいこういう場合はすぐに中止にするものだが、うちの学校長――大隊長でもある――はスマートな考え方をしているので、中止してもしなくても何も変わらないという結論で祭りは続けられていた。
そんなことで、夜の宴会も盛り上がっていた。
約束通り、二中隊の宴会スペースに笠原先生をゲストに呼んで、あとはただの酒盛り。
先生とは少し話しをしたが、こんな枯れたおっさんよりも、独身の彼女にはもっと若くて将来のある将校や下士官と話をしてもらった方が、有意義な時間を過ごせると思ったので、私はそうそうに退散していた。
そんなことで、私は酔い覚ましに散歩をしている。
それに中隊長への気遣いもある。
もちろん階級は中隊長の方が上だが、陸士――陸軍士官学校――は私の方が先輩だ。
律儀な方なので、何かと私を立てようとするのだ。
それに甘んじるわけにもいかないので、私は悪くないタイミングで席を空けていた。
しばらく歩いているうちに、宴会の時間も過ぎていく。
片づける兵隊たちの喧噪が静かになってきたころ、私は将校室のとなりの個室――倉庫的な空間――に入っていった。
今日の寝床である。
私は手に持っている焼酎と紙コップやつまみが入った袋を置くとカビ臭いマットに横たわった。
たぶん駐屯地に泊まるのは私ぐらいだろう。
すでに日付が変わってしまっている時間帯に酒の匂いをぷんぷんさせて帰る勇気はなかった。
これ以上娘との関係を悪化させるわけにはいかない。
そういうことで、ごそごそと自分の荷物から寝袋を取り出すと、掛け布団のようにして横になった。
私は目を閉じると、嗅覚が敏感になりマットのかび臭さが少し気になる。
だが、酔っているせいもあってふわっとした気分になっていった。
うとうとしていると、ギギーと金属が擦りあう音が聞こえる。
誰かが扉を開けたようだ。
それにしても、老朽化が酷い学校だと思う。
もう何度油を差しても、この扉はそんな音をたてるのだ。
そのまま誰かが近づいてくる気配がした。
私の他に泊まる将校か下士官がいるのかもしれない。
私はゆっくりを目を開けた。
「副長……」
妙にくすぐったくなる高音、そんな特徴のある声……伊原だった。
彼女はそのまま私の足下のマットに腰掛けた。
カーテンのない窓から、外の水銀灯の明かりがほのかに入って来ているため、薄暗い中で表情が少し読み取れる。
私は上半身を起こすした。
「ちょっとお話……いいですか?」
彼女にしては珍しく、慎重な口調だ。
「どうした? ……まあ、明日は休みだから、一杯やるなら付き合うが」
私は枕元にある焼酎を引き寄せ、二つの紙コップにそれを注いだ。
彼女はありがとうございますと言って紙コップを持つ。
「水、ないから、ちびちびいこうか」
度数の低い二十度の焼酎。
そのせいかストレートでも飲みやすい。
「かわいい娘さんでしたね」
今さら何を? 私はその質問の真意が読めなかった。
「まあ、かわいいと思う」
正直に答えた。
「……した、ことは……ありますか?」
私は焼酎を噴き出しそうになった。
噴き出す前に飲み込んだため、むせ返ってしまう。そのため液体が鼻に周り、鼻血のように焼酎を垂らすことになった。
たぶん、めっちゃ汚い。
「な、な、な」
私は思いっきり動揺してしまった。
思いもつかない質問だったからだ。
そんな私の反応に対して、伊原の表情は一瞬固まる。そして寂しそうな笑顔になっていた。
「あの、キスとかそういうのを……です」
最初からそう言えばよかったのにと私は思ったが言わなかった。
でも、彼女のあの言い方は確かに違う意味の「してる」にしか聞こえなかった。
……いや、最近私自身、エニシとしていないから、そういう意味で聞こえてしまったのかもしれない。
もう、四十手前だというのに、まったく性欲ってやつは恐ろしいもんだと、私は改めて思った。
まあ、いろんな感覚をおかしくする。
「あ、ああそっちか」
「え、あの、まさか、副長、娘さんに手を出して……」
「ば、バカヤロウ、そういうことをする訳ないだろう」
ゲホゲホっとむせる。
このため私はしばらく胸を叩いていた。そして落ち着いてから私は話始めた。
「そんなこと親としては最悪な所業だ……地獄に落ちてもおかしくないぐらいに、そういう事件とか、虐待とか聞いたことがあるが、ありえないと思う……娘に対して、そういう感情になるはずがない」
一瞬。
そう一瞬だけ彼女の表情が固まった。そして元の表情に戻る。
「ちょっとからかっただけです」
「お前なあ」
彼女は目を伏せて、焼酎のコップを見ている。
「小さいころ……まだ一緒に暮らしていたころにチューはしていたし、お風呂もいっしょに入っていたよ」
別れるあの日まで、まだプニプ二していた三和をぎゅっと抱きしめる度に幸せを感じていた。
「お風呂に……高校生になっても入っていたら、おかしいですよね」
私は即答をさけて、考えてみた。
今の三和とお風呂。
ありえない。
もし、別れることがなく一緒に暮らしていたとしても、胸が膨らむ前には、そういう親子の付き合いは避けていただろう。
でも、この子はどうしてこういうことを聞いてくるんだろうか。
……そう……だよな。
「人によって差はあると思うが、私は入らないと思う」
全否定しない。
そう答えないといけないと思った。
私の言葉を聞いたあと、彼女は何も返さなかった。
何か考え込むような、何か確かめる様な、そんな風にして彼女は紙コップに口をつける。
静かな倉庫部屋、その中でふたりの焼酎を飲む音だけが響いた。
「私は、娘の親として何もしてあげれてないんだ」
私は口を開いた。
もしかしたら、彼女が聞きたい話じゃないかもしれない。
でも、きっと苦しいからここに来たんだと思う、娘の親である人間の話を聞きたい、聞いて欲しいと思っているんじゃないだろうか。
「十年近く空白があるし……娘を心から愛しているかと聞かれても、愛してるなんて……そう言ってしまうことがおこがましいことだと感じるから、答えられないと思う」
何を言っているか、何を言いたいのか自分でもわからない。
「娘だって、父親に対してどう接すればいいかもわからないんだと思う……ただ血が繋がっている、それだけなんだから」
でもさ、血は、呪縛そのものだとも思う。
そうでなければ、一人暮らしの四十手前の男の家に来ることはなかっただろう。
「父親がどんなに悪いことをしていたとしても、すべてを否定する必要はないんじゃないか」
「……」
彼女はじっと紙コップの中身を見つめている。
「……最低な人間だと思います」
静かに、ゆっくり彼女は言葉にする。
「父は最低なんです」
涙声。
「ずっと目を背けてきたのに、ぼ、ぼくは……」
私よりも背が高いはずなのに、ぎゅっと自分の体を抱え込むようにして、少し震える伊原はとても小さく見えた。
しばらくそのまま震えている。
息を整えて彼女は口を開いた。
「ボクは嫌いにならないといけないのに、あの人のことを嫌いになれない」
振るえる声。
「最低な人間なのかもしれないけど、ぼくのことを娘として愛していたからこそ……」
それからは言葉にならなかった。
声を立てずに泣いていた。
私は、思う。
弟の死、離婚、娘を弟の変わりに育てようとした父親の願い、そして、娘への愛情。
罪悪感。
彼女の父親の気持ちはまったく理解できないが、きっと、他人にはわからない様々なこと――例えば彼女自身の罪悪感、劣等感、焦り、責任感、そして父親への愛情――の積み重ねにより、捻じ曲がったものになっていまったんだろう。
したことがありますか。
彼女が隠そうとしたが隠せきれなかった。
あの一瞬の沈黙の奥にある、どうしようもない感情を汲み取ってしまったから、感じてしまったから。
そう考えた。
もしかしたら、伊原の父親は彼女を男に育てきれなかったことを認めようとしたのかもしれない。
その行為は父親として最低なことであり、犯罪として裁かれるべきことだと、私は思う。
だが、それだけじゃないのかもしれない。
小さく抱きかかえるようにして震えながら泣く彼女をじっと見ながら私はそう思った。
小さな空間。
私がずいぶん昔に無くしてしまった家族の空間。
けっきょく、伊原のことを、家庭のことを理解することもできないし、しようとも思わない。
わかったふりをする方が、ひどいことだと私は思うからだ。
私は紙コップがだんだんとふやけていくのを感じながら残りの焼酎をすすった。
一時間ぐらいそんな状態が続いていた。
あの一日の喧噪が嘘のように静かな夜。
ふと、涙目のまま伊原は顔を上げた。
それから私の目を見て口を動かす。
「ありがとうございます」
と、小さな声だった。
いつのまにか彼女の体の震えは止まっている。
私はそのことに気付いて、彼女の声にうなずいた。
「父のことはもういいです」
薄暗くて、笑顔なのか泣いているのかわからない顔。
言葉とは裏腹にその声に力は入っていなかった。
□■■□
三和が小さい。
あの頃の姿。
そんな幼い日の娘とお風呂に入り、そのプニプ二した体を洗っている。
「三和のおしりはすべすべしてるなー」
と触った瞬間、今の三和がキッと私を睨みつけグーで殴られる。
「ヘンタイ」
私が「違う、違うんだ」と叫んだところで目が覚めた。
目を開けるとカーテンの無い倉庫の窓から青空が見える。
夢で感じた殴られた痛み。
唇につくそれは生暖かい。
舐めると鉄分の味がした。
私はゆっくりと右手でぬぐう。
血だ。
そして手でぬぐうとき、強く握られた立派な拳を私の顔からどかしたことに気づく。
私の左手ではない。
左手は夢の中で三和のお尻を触っていた。
そうだ、ほら、今もフニフニしたものを触っている。
ぱっと左を見ると、よく知っている人間が寝息をたてていた。
体が大きい割りに可愛い寝息。
私は反射的に左手を引き抜こうとする。
だが、振動を与えると、とても危険なことになると思ったのからやめた。
状況がさらに悪化する危険性を感じていた。
伊原の胸の上になぜか私の左手が置かれていたからだ。
ふにふに。
夢の中の動きをつい際限してしまう。
しまった。
ああやっちゃった。
どうしよう。
変な汗がぶわっと全身からでた。
もう、セクハラどころではない、下手すれば準強姦罪だ。
そこまで思いつめながら私はゆっくりと首だけを起こし自分の衣類を見た。
大丈夫、制服のままだ。
脱いだ形跡もない。
次に、寝ている伊原の格好を見る。
大丈夫、うん、大丈夫、制服のままで、まったく脱がせた形跡もない。
では……。
ゆっくりと、今年一番の集中力を使って、貼りついている左手をゆっくりを剥ぎ取った。
……それにしても。
この子は……横に寝ている人間に裏拳をかますとか、いったいどんな寝相なんだ。
私はそろりそろりと寝袋を引っ張りながら寝ている彼女との距離を稼いでいく。
少しでも誤解を与えるような状況を作ってはいけない。
昨日はあれから飲みなおし、いつの間にか眠っていただけだ。
記憶は飲んでいる途中でなくなっている。
焼酎のビン。
そんなに飲んでいない。
大丈夫、酔って記憶がない間に、いかがわしいことをする量ではない。
だいたい、ああいう行為をやって、記憶にないとかありえないだろうと常々思っていた。
あれだけ運動すれば、さすがに酔いも醒めると思う。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
昨日は朝早起きだったから、いつの間にか睡魔に負けてしまったのだろう。
そうだ、そうに違いない。
うん、大丈夫。
私はやっと安堵のため息をつく。そして、そそくさと逃げるようにして倉庫を出ていった。
まあ、家に帰らないといけない。
早朝というのに家に着くと、三和はすでに普段着て起きていた。
「野中さんおはよう」
珍しく娘から声をかけられた。
いつもは私が挨拶を先にする。
まあ、そうしないと無視されたままになるから。
「三和早いな」
テーブルの上にはヨーグルト。
朝食中だったようだ。
「お酒臭い」
「ごめん」
素直に謝り、そして私は少し離れてソファーに腰掛けた。
近づくと嫌われることは目に見えていた。
「昨日はお母さんと会って楽しかったか?」
「普通」
彼女は関心なさそうにテレビを見ていたが、ヨーグルトを食べ終わったらしく、皿を台所の流しに置く。
「夕方の宴会で隣に座っていた」
唐突に娘が口を開く。
何を言い出したのか、私は理解できなかった。
「茶髪で黒縁眼鏡の女の人は誰?」
……え、笠原先生のことか? ええ?
なんでこの子が宴会のことを知っているのか……もしかしたら、体育館のダンスパーティの方に参加していたのかもしれない。
金澤中央女子高校の学生も招待されていると聞いていた。
「で、誰?」
三和はあさっての方向を見てしゃべっている。
こっちを向いてくれないからその表情は読み取れない。
「私のカウンセリングをしてくれている先生だよ」
「ふーん」
冷蔵庫から野菜ジュースのパックを取り出しながら娘は続けて聞いてくる。
「ベリーショートの背の高い女の人は?」
「えっと……」
「ふたりの高校生に絡まれたときにいたひと」
「同僚で後輩」
「知ってる」
自己紹介してましたよね、じゃあなんで聞くんだ。
「どういうひと?」
「だから同僚」
「ふーん」
どんな意図で聞いているのかさっぱりわからない。
「あと、野中さんを見つめていた眼鏡をかけて胸がおっきくて髪の長い二年生の人は?」
「誰だよそれ」
「ふーん」
そんな学生は知りません。
眼鏡で胸が大きい学生なら数人いるが、私を見つめるという行為がありえない。
それにしても、三和はよくも私の周りの女性をチェックしている。
伊原以外はどこで見られていたのかも検討がつかない。
改めて私の娘はあの瓜生絵里の娘でもあることを思い出した。
忍者の郷だっけか、実家は……。
やれやれ、結婚したときはもう引退しているなんていったが、娘も巻き込んであの稼業を続けているのか。
私はため息をついた。
女手ひとつで娘を育てようというのだ。
しかも慰謝料も貰わず。
危険なことをするななんて言えた義理ではない。
まったく、私は相変わらず自己中心的な人間だ。
なんだかため息をついてしまった。
私は立ち上がり、食器棚からグラスを取り出す。
冷蔵庫の中の野菜ジュースに手をかけた。
「それ、私の」
「知ってる、ありがとう」
一応お礼をいってグラスに注ごうとした。
「だから飲まない」
私は娘を見つめて笑い、無視してグラスにそれを注ぐ。
「あ」
「ケチ」
私は子供のような言葉とともにグラスの中身を一気に飲み干した。
「ちゃんとまた買ってくるから、な、私の娘はジュースの一本や二本でケチケチしない子のはずだ」
ちらっと見てみる。
拗ねた顔で私を睨んできた。
「そんな顔ばかりしてたらブスになるぞ」
そうだ、この子が年長さんだったころによく言ってた台詞。
改めて大きくなったなぁと娘をぼーっと見てしまった。
「う、気持ち悪い」
「まって」
親に気持ち悪いとは何事か。
ここは父親の威厳をだな。
「三和のことがかわいくてかわいくてたまらんから、じーっと見ているんだ、それを気持ち悪いとは、お父さんは悲しいよ」
「それが気持ち悪い、こっちを見ない」
「……」
私は肩を落とし、それから冷蔵庫の中にあるほうじ茶の茶色い茶葉を急須に入た。つづいて沸騰したてのお湯を注ぎ、しょげ返ったままソファーにもう一度座った。
「ところでうちの学校祭りは、ほかに何か楽しいことあったのか?」
私は目逸らしながら、話をはじめる。
一瞬ゴミ虫を見る様な目つきに見えたから、まともに受けるのを回避した。
きっとそれを受けたら私のガラスのハートが割れてしまう。
心を修復できる自信がなかったので、目を伏せたままにしていた。
「ちゅーをした」
……。
「ちゅー?」
「ちゅー」
「誰と?」
「男の子」
「どこの?」
「野中さんの学校の」
……。
「ちゅちゅちゅうを、ちょ、ちょっと、あ、その三和は、高校生、そう高校生なんだぞ、ま、まったく早い、早すぎる……もしかして、あの二人組か! やっぱりキュっとしとけばよかった……ちくせううう……え? 違う……いや、ちょっとまて、なんでちゅうなんかを、その男と、うん、付き合っているのか? いや、その前にデートはしたことあるのか? ちゃ、ちゃんと健全なお付き合いなんだろうな、ん、その前にお父さんにその男子を合わせないといけないだろう……それでもちゅーはだめだ、ちゅーって、口付けだろう……いや、ほっぺにちゅーぐらいならゆ、許せるけど、もー、いや、なあ」
「口付け」
「だよなあ、口付けだよなあ、ちょっと、お母さんはいたのか、なあ、お母さん止めなきゃだめだろう……絵里いい頼むよおい……おおい、私のかわいい三和が他の男にちゅうだななんて、いや、最近は私にもしてくれてないし、いや、そもそもお父さんにはほっぺにちゅうしかしてなかったし……いやそれよりも、その男と付き合うとか、彼氏がいるとか聞いてないし、いやお父さんは認めないからな、そんな高校生の男子なんて猿だからな、モンキーだからな、性欲の塊だからな、うちの三和をそんな野獣に渡してたまるものか、くそう、名前を教えて、大丈夫、悪いようにはしない……ちょっとお灸をすえるだけだから」
あわわわわわ。
「付き合ってない」
「付き合ってないのにちゅーはしません!」
「しました」
「ど、どうして?!」
「仲直り」
へ。
「お母さんが喧嘩した男の子と仲直りするにはちゅーをしたほうがいいというから」
お母さん。
瓜生絵里。
そういうことを平気で娘に吹き込んで、その姿を見て笑うような性質だ。
元夫だったからよくわかる。
「あのな、三和」
「何?」
「ちゅーはだめだ」
「どうして」
「ちゃんと好きな人じゃないと、ちゅーはしちゃいかん」
「あの男の子の事は好きだけど」
「ただ好きとかじゃなくて、結婚していいとか、それぐらい思うならなあ」
娘は首をかしげる。
「結婚したら本当に愛してるってこと?」
「そうだ、結婚を前提にお付き合いするんだったら、お父さんはちゅーもそれ以上のことがあっても、許すかもしれない……いや、許すかどうかはわからないけど、ま、許してもいいかもしれないし、ケースバイケースだけど、いや、もうお父さん何を言っているかわかんないよ」
娘はじっと私を見た。
「でも、お母さんと野中さんは別れた」
これがハンマーで頭を殴られた衝撃……というのだろうか。
「……」
声を出そうとしたが、枯れた空気しかでなかった。
三和は真剣な表情だった。
「本当に愛していた?」
「それは……」
「それは?」
「ごめん、わからない」
わからない。
愛していた。
過去形になってしまうそれが本当の『愛』だったかどうかなんてわからない。
愛は不変なもの。
なら、偽者の愛だったのかもしれない。
でも、私は偽者の愛の結果が三和だったとは絶対に思いたくはない。
だから、わからないとしか答えられなかった。
三和の恋愛の価値観は、私たち親の行いが大きく関わってしまっている。それは暮らし始めたこの短い時間で十分理解した。
世間一般様の普通とは違っている。
私のせいだ。
私の……。
ため息をつこうとしたがそれを呑み込む。
責任は私にある。
嘆息してなんになる。
……伊原真の父親はそういった責任をどう取ろうとしたのだろうか。
そもそも責任を感じることもなかったから、実の娘にあんなことをしてしまっていたのだろうか。
耐え切れずに、職場でセクハラとかくだらないことをやってしまっていたのだろうか。
それとも、ただのクソ野郎だったのか。
娘はグラスを片付け、リビングから出て行くと思った。
だが、違った。
ぐいっとソファーに座っている私の前で腰をかがめて顔を近づけてきた。
急な動きだったので、私は少し身構えてしまった。
「お酒臭い」
それだけ言った。
「だから、ごめんなさいって」
私の正面に立って。
クンクンとワザとらしく嗅ぐまねをする。少し考え、間を置き、訝しげな表情で私に言った。
「背の高い女の人の匂いがする」
私はあわてて制服の匂いを嗅ぐ。
もちろんわからない。
だが、あんな感じの朝を迎えてしまったという事実があるため、私は焦りを隠せなかった。
「ちょっとまて、お父さんはお仕事の延長で同僚で後輩の伊原少尉と飲んだだけなんだ……女性だから、香水とかも付けるだろうし、匂いってのはうつるものなんだ……だからな、いかがわしい事はぜったいにしていないからな、うん、お父さんは健全が制服着ているような、お堅い人で通っているんだ」
もうさっきから自分で何を言っているのかわからない。
娘は意地悪そうに笑って「嘘」といった。
「匂いなんてわかるわけがない」
私は口をパクパクするが言葉がでない。
「ふーん、ああいう女の人が好みなんだ」
「ち、ちがう」
「女のカンは甘くないからね、お父さん」
決して世間一般で娘が父親を脅す言葉ではない。
だが私には十分効果があった。
待ちに待ったお父さんという言葉が、脅し言葉に含まれていたのだから。




