誘発
浩二は身体のだるさに仕事を休んだ。
社会人ともなれば身体がだるいなどと言う理由で無暗に有給を取るのは感心できることではないのだが、流行している感染病の可能性があることを課長に伝えるとあっさりと有給を取る事が出来た。一週間前の出来事である。
その二日後、浩二は流行に流されずにこやかな笑顔を部署の仲間に振りまきながら出社した。五日前の出来事である。
それから四日後、浩二は職場で突如発作を起こして死亡する。享年二十三歳であった。昨日の出来事である。
そして今日、俺は浩二と対面した。彼は沢山の花が敷き詰められた木製の棺に眠っている。
彼の親族や友人たちは先に最後のあいさつを済ませたようで部屋には式に遅れた俺と浩二が眠る棺しかなかった。
大学生活を共に過ごし、その後同じ会社に勤める事になり一年目。彼は突然死んだ。一番死にそうにない奴が死ぬ、という迷信を彼は証明してしまったのではないかと思われるほど、彼は早々に死んだ。
あまりに速すぎる終わりに不思議と悲しみも湧いてこなかった。それよりも呼びかければ蘇るんじゃないかという気さえする。
「浩二」
言ったと同時にけたたましいメロディ音と共にポケットに入っている携帯電話が震える。そのタイミングの良さにまた驚く、携帯を取り出し画面に表示された名前を見る。相手は俺と同じく式への出席が遅れる正輝だった。
「どうした」
電話に出る。しかし、返事はない。
「おい、聞こえるか」
電波が悪いのか、部屋のドア近くまで移動してみるが何も聞こえない。
仕方なく電話を切る。またかかってくるかもしれない。外に出ようとドアの取っ手を掴む。
声が聞こえた。苦しそうにうめく声だ。
取っ手を掴んだまま声がした方に振り返る。
振り返って、自分の見ている光景を疑った。
棺の蓋がゆっくりと開いた。中から両手でしっかりと持ちあげ蓋が床に落ちる。床に落ちた衝撃が地面を伝わり、足元がかすかに揺れる。
棺の周りには誰もいない。棺に入っているのはあいつだ。
蓋を持ちあげていた両手が棺の端をしっかりと掴む。
ゆっくりとそれは上半身を起こし、こちらを見た。
「浩二」
名前を呼ぶ声に応答するように浩二はうめいた。
浩二は乱暴に身体を動かし棺から出ると、一歩、一歩ゆっくりとこちらの方へ歩いてくる。
身体が大きい理由からサイズがなくピチピチに着せてあった白装束が少しはだけていた。生前の浩二なら大声で文句を言った後、これまた大声でその服を破り捨てていただろう。
だが浩二は気持ちの悪いうめき声を上げながら涎を垂らし、ゆっくりとこちらへ近づく。その姿はホラー映画に出てくる生きた亡者そのものだった。
演技じゃないのか? そう思いたくなるほど、浩二はそれにしか見えない。
あまりにも現実からかけ離れ、仮想の存在と合わさった友人を眼の前にして唇を噛む。もしこれが現実なら、酷いことはこの後に起こる。彼が俺を貪り食べるという生きる亡者の見せ場とも言えるシーンがまだ待ち構えている。
浩二との距離が二、三歩ほどになる。
ドッキリでしたと言うならこのタイミングだぞ。
浩二が大きく口を開けながら肩を掴み、冷たい感触が肩に広がった。
その瞬間、自分の中で曖昧だった思いが確信に変わった。彼は死んでいる。完璧に。
俺はいつの間にか携帯の代わりに握っていた祖父の万年筆を、首元に噛みつこうと大口を開ける浩二の頭に突き刺した。皮膚の内側に凝縮されていた血液が勢いよく飛び出す。普通の人間なら痛みに地面をのたうち回るだろう。しかし、浩二はそれでもなお噛みつこうと必死に肩を掴む。俺は万年筆をから手を離し、勢いよく胸を蹴った。浩二は大きく後ろに倒れ込み、動かなくなった。
俺は乱れた呼吸を整えながら側面に万年筆を刺した浩二を凝視していた。
彼は本当に死んだのか。刺さり具合が甘かったんじゃないか、と最早疑う余地もなく、俺は彼を化け物の一つだと考えていた。
呼吸を整えようと深く息を吸いこんでいる内に部屋を取り巻いていく死臭に気付いた。臭いは万年筆を刺した箇所から広がっているようだった。死という現実を臭いにして突きつけられた俺はすぐさま部屋を出て、そのまま逃げるように式場から駐車場に走った。血の付いた手で車のキーを差し込みドアを開ける。そして運転席に座り自身が眼にした光景と行為に頭を抱えた。
浩二は確かに死んだ。人のペースを考えない部長が受けた無茶な仕事を、文句を飲み込み、苛立ちを押さえこみながら処理していた俺の隣で浩二は死んだ。
今年の春に彼女と買いにいったというスーツの胸元を掴みながら、激しく痙攣をおこし、俺に助けを求めながら死んでいった。だが苦しむ浩二に俺はなにもする事ができなかった。救急車が来るまであいつの横で必死に名前を呼び続ける。空しい行為。そして、目に焼き付いているのは浩二の苦しみに悶える表情ではなく、スーツを掴む手に異常に浮かびあがった血管。
そこで彼の生前の顔が思い出せない事に気づいて酷く愕然とした。
俺が思い出せる彼の顔は涎を垂らしながら俺に喰らいつこうとする顔だけだった。
逃げるようにして車に乗り込んでから少しして、式場から喪服の集団が駐車場側にやってくるのが見えた。苦痛に顔を歪ませる者、衣装を真っ赤に染める者、一番多かったのは恐怖に顔を引きつらせる者だった。
その一団が近づいて来て俺はいつでも車を動かせるようにエンジンをかけ、汗ばむ手でハンドルを握った。
何か、とても嫌な予感がした。胸を締め付ける痛みとは違う。心臓がむき出しになった様な緊張感。浩二が突然動きだしたのと似ている。恐怖じゃない、これから起こる事への不安が身体全体を包んでいる。
一団は早々と車に乗り込むと我先にと出入り口の方へ向かっていく。時々ぶつかりそうになり狭い駐車場内でクラクションの音が響く。
クラクションの音に混じって誰かが車の窓を叩いた。俺は身体を震わせ助手席の窓を見る。浩二の父親だった。俺はほっとした気持ちと浩二を手をかけた罪悪感から窓を開ける手が震えた。
「順ちゃん、逃げろ」
浩二の父が叫ぶように言う。やはり表情は恐怖で引きつっている。
「一体なにが」
「いいな、とにかく逃げるんだ」
それだけ言うと近くのワゴン車に乗り込み駐車場から出て行った。後部座席に血まみれの浩二の母親が乗っていた。
彼は浩二のあの姿を見ただろうか。見たとしても彼はそれを信じようとしないかもしれない。とにかく今はここを出よう。
辺りを見ると車は殆ど残っていなかった。ゆっくりと車を動かし出入り口へと移動する。そしてふと、バックミラーに何か白いモノが映っているのが見え、それを確認するため眼を細める。人だった。ふらつきながら苦しそうにこちら側にやってくる。後部座席の方を振り向く、よく見るとちらほらと他にもふらつきながら歩く人がいた。
彼らは置いて行かれたのか。どうして。
そう思った先こちらに一番近い位置にいる白い服を着た人の顔を見てすべてを理解する。前かがみにハンドルを握り直し、急加速で駐車場を出た。
バックミラーに写っていた男の頭には何かが刺さっていた。