会
二人は、なにもしゃべらないまま、見つめ合っていた。その間、彼女の顔に変化はなく、感情を読み取ることはできなかった。教室は沈黙に支配されている。ただ、沈黙といっても重いものではなく、むしろ、心地のよいものだった。
その均衡を破ったのは静流だった。
「どうしたの?」
まるで、迷子をなだめるような優しい声である。
灯夜はそんな様子を不思議に思いながらも答えた。
「分からない。目が覚めたらここに居たんだ」
「そう」
「しかも、どういう訳かここから出れない」
困った表情を作る。
「ここから出れなくてもいいんじゃない」
あっさりと言い放つ。
「え、どうして?」
「……」
静流はなにも答えない。
灯夜はこれ以上なにも訊けないと考え、質問を変えてみる。
「神凪はここにはどうやって……」
「それより月代君。私と話をしてくれない?」
静流は灯夜の話を遮るように言った。静流の態度に引っ掛かるが、ここはおとなしく従うことにした。
「話って、どんな話?」
「なんでもいい。なにか話して」
「なにか話せって言われても、急には思いつかないよ」
「それでも」
有無も言わせぬ口調で言われ、仕方なく灯夜は話し始めた。学園のことや社のこと、家での生活、色々なことを話した。
静流はそんな話を熱心に聞き、頷いてみたり、質問してみたりとよくしゃべっていた。
「まあ、こんな感じかな」
「こんなに話をしたのは久しぶり」
「僕もこんなに話したのは久しぶりだよ」
そんな言葉を聞いて、静流は言う。
「……まだ、人を避けているの?」
「…………」
静流は返事を静かに待っている。
灯夜は静流のことを見ると、観念したように閉じていた口を開いた。
「そうだね。避けていると思う」
「そう。……やっぱり、あのことがあるせいなの?」
「それもあるけど、別の理由もあるかもしれない」
「おかしなことを聞いて、ごめんなさい」
「別にいいよ」
灯夜は言いながら、自分の気持ちが沈んでいくのが分かった。
そんな灯夜の表情を見て、静流は少し考えてから言った。
「ところで、この世界のことどう思う?」
「この世界って、僕たちが、今いる世界のこと?」
「そう」
灯夜は突然の質問に困惑している。
「どうって言われても、分からないよ」
当たり障りのない答えを返す。
「それじゃ、質問を変えましょう。この世界は素晴らしいと思わない?」
「そんなこと言われても、何もないところじゃないか。それに、ここは普通じゃないよ」
不満げに言うが、静流は気にも留めず、話し続ける。
「あっちの世界に比べれば、マシよ。静かで、争いもない。どう、私と一緒にここに居てくれない?」
静流の言葉は、どこか冷たく感じられた。
「ここじゃ何もできない。それに食料もなしに生きていけないよ」
多少の皮肉を込めて言う。
実際、灯夜の言っていることは正しかった。この世界では三階のみが存在し、他の場所には行くことができない。それに加え、この階に食料となるものは、水道水を除いてなにもない。こんな環境では、人は数週間と生きてはいられないのである。
しかし、彼女はそんな事実を、物ともしないような笑みを浮かべた。
「そんなこと、心配しなくても大丈夫よ。欲しいものは、なんでも手に入るから」
何を言っているのか分からなかったが、静流は構わず続ける。
「食料なら、ほら」
そう言って灯夜の後ろを指差した。
後ろを振り返ってみると、そこには大量の食料が、山のようにある。
(さっきまで何もなかったはずなのに)
灯夜は驚きのあまり、その場で固まってしまう。
そんな様子を見ていた静流は、満足したように笑い、得意げに続ける。
「他にも出せるわよ。例えば、ベッドにお風呂、テレビに冷蔵庫なんかもね。どう、これで生活の心配はなくなったでしょ?」
静流が願う度、願ったものが出現する。あまりにも現実離れした光景を目の当りにし、灯夜はひたすら沈黙するしかなかった。
「これで分かった?心配なんて、なにもしなくていい。私とここにいれば、なんでもできる」
話を続ける静流は、普段の物静かな彼女と違い、どこか生き生きしている。こんな静流を見るのは、初めてだった。
灯夜はしばらくの間黙っていたが、意を決したように閉じた口を開く。
「確かに、ここにいた方がいいのかもしれない……」
「なら、私と一緒に―」
「でも、それはできない」
静流に続きを言われないよう遮る。
「ここは僕たちがいるべき場所じゃない。明らかにおかしな世界だ。留まるより、どうにかして脱出しないと」
そう言うと静流に背を向け、教室を出ようと歩き出す。廊下に出る寸前で足を止め、振り返った。
静流は俯いており、歩き出す気配は、まったく感じられない。仕方なく、声を掛けようとした瞬間、静流はゆっくりと顔を上げた。
その表情を見るや、喉を締め付けられる感覚に襲われた。全く声が出せない。こんなことは初めてだった。
静流は怒りと憎しみに満ちた目で、こちらを見ている。
灯夜はこの目を知っている。もう何年も見ることはなかったが、忘れたことは一度としてない。幼き頃、幾度となく浴びせられた視線だった。
何も言えない。いや、言わなかった。口を開いてしまえば、何を言い出すか分からないという想いがあったから。
静流の瞳に宿る強い負の光が、輝きを増していくのに対して、灯夜の瞳からは光が失われていく。灯夜の瞳から完全に光が、失ったのを待っていたかのようなタイミングで、静流は話し始めた。
「あなたなら分かってくれると思ってた」
独り言のように小さな声だった。
灯夜は何も言い返すことができない。
ややあって、
「でも、違った。あなたもみんなと同じ」
灯夜はまるで時が止まったかのように、突っ立ったまま静止している。いつの間にか、静流の手に刀が握られていることも、こちらに歩み寄って来ていることにも気付かずに。
静流は灯夜の目の前まで来ると、ゆっくりと刀を頭上に構え、重みを感じさせないようなスピードで振り下ろす。
凄まじい速さで、刀と額の距離が縮んでいく中、静流が涙を流しているのが目に入った。稲妻に打たれたような感覚が灯夜を襲う。それと同時に今までのことが、嘘のように意識をはっきりと保てるようになった。しかし、すべてが遅すぎた。
かわすには、あまりにも時間が足りなかった。あと一秒。それだけあれば、かわすことが可能だったが、残念ながら残り時間は、一秒の半分もない。そして、刀が額に触れ、真っ二つにされる瞬間、目を閉じた。
次に目を開けた時、目の前にいたはずの神凪の姿はどこにもなく、額を触れてみるが、傷らしい傷はまったくなかった。
辺りを見回すと生徒たちが昼食をとっている。
現在の状況を見て判断すると、夢とは到底思えなかったが、どうやら夢だったらしい。当分の間は、何もする気になれないほど気分は最悪で、ただ座っているが精一杯だった。
それから後のことは、あまり覚えていない。気が付くと授業が終わっており、いつの間にか家に着いていた。
その日、灯夜はほとんど眠ることができなかった。