逆転
雫は完全に結界が組み終わると、脱力した。
「やった……わ。……騙し打ちの成功ね」
よほど体力を消費する術なのだろう。憔悴している。
しかし、作戦は成功した。見事に騙し討ちをしてやった。これで、黒夜は結界から出ることが出来ず、留まることしか出来ない。
神凪家は四季と共に生きる一族だ。その自然界の力を借り、作り出す結界は世界でも屈指のものだった。雫はその結界が破れるとは到底思っていない。
結界の中にいる黒夜を見る。
雫の期待した顔はそこにはなかった。
「大したもんだ。その歳で、こんなものまでマスターしてるなんてな」
首を左右に動かし、周りを見てから、
「それに、普通なら体力のない分結界の効力が下がる。だけど、お前は自分の血を使うことで、それをカバーしたみたいだな」
そう言った。
「確かにこれ程強固な結界では、並みの術じゃ破れないな」
「……当たり前よ。これは最上位とまではいかなくても上位の術。簡単に破れるようなものじゃないわ。今のあなたでも無理よ」
正論を口にする。
雫は黒夜との戦いの中で、彼の限界を予想した。その上で、大丈夫だと感じたからこそ、この結界を張る作戦を考えたのだ。
黒夜は腕を垂らし、自然体をとる。そして、目を閉じ、大きく深い呼吸を始めた。それを三回繰り返した後、ゆっくりと目を開いた。
何かが起こる。そんな気がした。
「……デバラート・グレッセ・アヒヨイト(如何なるものも破壊せし、不減の者よ)――」
雫は唐突に紡ぎだされる言葉に困惑する。何を言っているのか分からなかった。
灯夜はこの台詞に覚えがあった。過去にどこかで、これと同じ台詞を本で読んだことがあった。だが、どんな内容か思い出せない。
なおも黒夜の解読不能な呟きが続く。
「――クレセント・ドヴィアルア・モナソル(その力を持って、この世の全てを喰らい尽せ)――」
黒夜が拳を頭上に掲げる。
「ゾジヒット(砕けろ)!」
頭上に掲げた拳を地面に叩き付けた。
轟音が響き、床が割れる。
くもの巣状に張り巡らされた亀裂が、その威力を物語っていた。
結界とは指定された空間全てに効力をもたらす。つまり、地面も例外ではない。その地面を砕くということは、結界を破ることと等しかった。
「なっ」
雫が驚きの声を上げた。
「ヴィネカルト・オゾカテ・プディクス(夜空に遍く星々よ、空を割り、地を砕け)。デアルト・カボン(混沌の淵よりい出し)……」
すかさず、黒夜は詠唱する。
そこで、ようやく灯夜は黒夜のしていることが分かった。
彼は魔法の中でも最も古く、強力な古代魔法を駆使していた。この呪文を覚えたのは、子供の頃だ。家に保管室に忍び込み、書物を読み漁った時に見た記憶がある。その時に読んだ中にこの呪文と同じものがあった。
古代魔法は普通の魔法と違い、桁違いな威力がある。しかし、それに見合うだけのリスクを背負わなければならなかった。そのリスクは二つある。一つは強力すぎて制御が出来ず、身を滅ぼす可能性があること。もう一つは、『力』の消費が激しく、使い勝手が悪すぎること。
この二つのリスクから古代魔法を使う術者は、遥か昔に消えていた。それでも、この魔法を使おうとする者もいるらしく、この時代まで様々な文献だけが残っていった。その文献の一つが月代家にも在ったという訳だ。
全てを思い出した灯夜は雫に向って叫ぶ。
「それは古代魔法だ!今の雫じゃ対抗できない!逃げろ!」
犬神の時と同じ。逃げろとしか言えない自分が酷く無力に感じた。
言われた雫の耳に灯夜の言葉は届いていなかった。そして、無謀とも言える行動に出ようとする。
「くっ」
何を唱えているのかは分からないが、このまま黙って待っている訳にはいかない。詠唱が終わる前に止める。
雫が駆け出そうとした刹那。
目の前にいたはずの黒夜が消えた。
「騙し討ちが、お前だけの専売特許と思うなよ」
その声は背後から。
「デライド(消えろ)」
振り返ることも、恐怖を抱くことさえ許されない。
雫は眩いばかりの閃光に飲み込まれていった。