風と水
「くっ」
雫に平常心は戻らない。それでも、戦うことは決して止めなかった。
「集え、姿形が見えぬもの、されど全てを切り刻むもの、我は空、そして風、万物を食らう暴君なり、しかとその身に我を刻め」
黒夜の周りに風が集まり始めた。無風だったはずの部屋に穏やかな風が流れ、時が経ち暴風に変わる。髪や服がその風に煽られ揺れている。術者を傷付けないためか、やはり中心の風は弱い。ただ、纏っている風は凶悪で残忍だ。主たる術者への干渉を許そうとしない壁だった。
雫も負けじと詠唱する。
「時に激しく身を流し、時に穏やかに身を包む、命の源たる水流よ、その姿は万物、我が矛に盾になれ」
二人はまたしても示し合わせたかのように、同時に詠唱を終えた。
「スリットブレス」
「旋輝・龍刃陣!」
黒夜の纏う風の強さが増す。
雫が投げた霊符に大気から水蒸気が集まり、一気に三頭の巨大な水龍へと変貌した。黒夜に咆哮し、すぐにも襲い掛かってきそうな勢いだ。
「行け!」
雫の命に従い三頭の竜が三方から突進してくる。
黒夜は一頭目の体当たりを軽やかにかわし、距離を詰めた。それを二頭の竜が邪魔してくる。先程と違い数が多い分、動きが制限された。しかし、そんなことは知ったことではなかった。黒夜を食らおうとする竜に渾身の一撃を加える。暴風を纏った攻撃は何の抵抗もなく竜を破壊した。その勢いを殺すことなく、もう一頭も破壊する。最後の一頭は黒夜の後ろ。追いつくはずもない。後は、がら空きになった雫を倒せば終わり。黒夜は腕を振りかぶり、雫を討つはずだったが、またしても邪魔が入った。今日はやけに邪魔が多い。 振り返ってみると、竜が腕を咥えていた。
「なに」
風の防御壁を破り、腕をもぎ取ろうとしている。腕に意識を集中させ、右に体を捻り、振り払う。その反動を利用し、そのまま左回し蹴りを繰り出した。
バシャ。
水が砕ける音がして、竜も形を失った。だが、飛び散った滴が集まり、すぐに再生した。
「水は叩いた位じゃ、消えないわ。どんな形にもなれるんだから」
もう一頭の竜もすでに復活している。最初と状況が変わらない。いや、不利になっているといった方がいいだろう。黒夜の攻撃は全て受け流される。
「それにこういう使い方だってあるのよ!」
雫が指差すと、一頭の竜が突進してきた。黒夜は身構えたが、龍は明後日の方向に向っていく。それに気を取られているところに、もう一頭が頭上から襲い掛かってきた。迎撃のために拳を繰り出す。
「砕!」
黒夜の拳が届く前に龍は砕けた。
(まさか)
考える前に回避行動に移る。砕けて水滴となった水は、数千もの針となって黒夜が立っていた場所に降り注いだ。
その光景を見て黒夜は、冷ややかに笑った。
「驚いたよ。まさか、そんな使い方もあったなんてな。でも、俺に二度目はない」
今の一撃で決められなかったことを後悔しろ、とでも言いたげな物言いだった。
強く手を握り締め、『力』をその一点に集める。体中に吹いていた風が両腕に凝縮された。黒夜は走り出す。狙いはもちろん雫だ。小細工なし。力で押し切るつもりだった。
雫を守ろうと迫り来る龍に拳を突き出した。圧縮され球体状になった風は龍の頭から粉々に切り裂く。再生すらさせない。触れたものは粉々に切り刻まれ、みな水蒸気と化していた。一頭を完全に蒸発させ、そのまま進む。
雫は咄嗟に最後の龍を呼び戻した。攻撃するかと思いきや、龍を盾に変化させ、受けに回った。なかなか機転が利く。
バァーーーーン!
凄まじい音と共に水が弾けた。雫も勢いに押され吹っ飛ぶ。辛うじて受身を取るが、黒夜の拳に触れたのか、そこら中にきり傷がある。幸い致命傷には至らなかったものの、出血が少々多い。長期戦は厳しい状況だった。
ぽたぽたと滴る血液は、次第に水溜りを作る。雫は黒夜から視線を離さない。
「どうした?もう終わりか?」
少々がっかりした声で黒夜は言う。
「……まさかこれ程とは思わなかったわ」
これは黒夜に対するせめてもの抵抗だ。
そんな言葉を無視して、黒夜は言った。
「……どうやら、本当に気付いてないらしいな」
「どいうこと?」
「お前、迷いがあるだろ。『力』の使い方がまるでなってない。安定してないんだよ。だから、これ程までに差が開く。本当はもっと強いはずなのにな」
肩を竦めて見せた。
「そんなこと、私に言ってどうするの?」
「さあな。それは自分で考えろ」
あくまで白を切るつもりのようだ。
(私が迷ってる?そんなはずない)
そう思ってみるが、上手くいかない。どうしても静流が灯夜が頭に浮かぶ。そして、二人を天秤にかける自分がいる。どちらが大切か、と。
(だめよ!今はそんなこと!)
頭を大きく振って、考えを追い払う。
(今は黒夜をなんとかしないと。でも、どうやって)
思考してみる。そして、ある二つのことが思い浮かんだ。今の状況で最も有効な手段だ。その内の一つはとっておきだった。絶対に見破ることは出来ないはず。雫は必死に心を強く保ち、黒夜を睨みつけた。