空―から―
もくもくと上がる黒煙を見て、犬神は満足そうに笑った。
「……はは、ははは!勝った!消し飛んだ!やっぱり僕の方が優れているんだ。あんな落ちこぼれに、僕が負ける訳がないんだ」
犬神の笑い声は、やけに遠くに聞こえていた。
あんなものをまともに食らえば、どうなるか位灯夜にも分かっていた。それでも黒夜には届いていない。そんな気がしていた。
灯夜は間違っていなかった。
黒煙は徐々に晴れていく。そこで二人は同じものを見た。黒夜が悠然と立っている。体の前に黒夜を守るように、五茫星で描かれた陣が展開させたまま。
「……なぜ、生きている。直撃したはずだ。それに、結界だと。どうして、『魔力』だけでなく、『霊力』まで使えるんだ。そんなこと有り得ないぞ!」
今の犬神は質問ばかりで、うんざりしていた。
「お前には関係ない、そう言ったはずだ。それにしても、それが全力か?期待はずれだな。少しも楽しめなかった。……もういい。終わらせてやる」
犬神を見た。その瞳は冷め切っている。その瞳に見られただけで、犬神は凍りついていたようだ。
黒夜を守っていた結界が消えると、手のひらを犬神に向け、若干腕を左右に広げた。そして、やや前傾姿勢をとる。
その構えには見覚えがあった。
「その構えは……。やめろ!」
灯夜の静止の声は、黒夜には届かない。
「犬神、早く逃げろ!でなきゃ、殺される!」
聞こえないことは分かっていても、言わずにはいられなかった。
犬神は一向に動こうとしない。否、動けないのだ。恐怖という名の鎖に縛られ、身動きがとれないでいた。
黒夜は右足を少しばかり後ろに引き、地面を蹴った。
一蹴りで爆発的な速度を生み出し、一気に犬神との距離を無にする。すれ違いざまに、腹部に掌呈を五発繰り出す。どれも触れるだけのもので、威力があるとは思えない。
黒夜は犬神の横をすり抜け、少し離れた場所で背を向けて止まった。
犬神はしばしの間、立ち尽くしていた。体には痛みはない。動き出し、各所を触れてみるが異常はなかった。
「……はは、なんともないじゃないか。なにが終わらせるだ。少しも終わっていないじゃないか」
犬神の言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
黒夜はゆっくりと振り返ると、伸ばした腕を目線の高さまで上げる。
「……いや、お前はもう終わってる」
中途半端に開かれた手の中には、犬神がいる。
「弾けろ」
手中にいる犬神を握り潰すよう、きつく手を握り締めた。
刹那。
何かが、弾ける音がする。
その音と同時に犬神の目、鼻、口、といった様々なところから、勢いよく血が吹き出す。噴水のように出る血液は、どんなものよりも紅く、人を魅了する。
「これが俺からのせめてもの餞だ。その真紅の華で最後を飾れ」
吹き出す血はとまることない。その様は赤い赤い華が咲き誇って見えた。一瞬、ほんの一瞬しか生きられない華。人間と同じ。彼は最後に美しい華を咲かせ、散って逝った。
少しして、犬神は前のめりに倒れこみ、動かなくなった。
床は雨が降った後の水溜りが出来ている。そう、血の海が。そして、部屋には甘美な死の香りが広がった。
黒夜が出した技は“月砑天明流”の奥義が一つ『赤華鳴動』。
物質の外部にある抵抗を全て無視し、外部傷付けることなく、内部だけを直接破壊するという恐ろしい技である。
見て分かるよう、この技を受けた相手の血の吹き出す様が、赤い華のように見えることから、この名が付いた。
この技を使えるのは灯夜の知る限り、自分と親族。そして、この技を教えてくれた師だけだった。ただ、親族や師が使う『赤華鳴動』は不完全なもので、この技を使いこなせるのは灯夜だけだった。
黒夜の使う『赤華鳴動』は完璧だ。灯夜と同じく、完全に使いこなしている。
灯夜と黒夜たちとの間にあった見えない壁は消えていた。だが、灯夜は一歩も動かず、そこに立っているだけだった。
色々と訊かなければならないことがあったが、今ではそんな気も失せている。
「……少しは目が覚めたみたいだな。マシな顔つきになった」
話しかけられているが、耳を通り抜けるだけである。少しでも気を抜けば、昔のように心の中が空になりそうだった。ただ、そうはなりたくなかった。なぜかは、分からなかったが、必死に耐えた。
「今はここまで。お別れだ……と、言いたいところだが、どうやらそうもいかないらしいな。新しい客人が来たようだ」
チラリと後ろを見る。そこにある空間に綻びが生じているのだった。
サブタイトルは、空ではなく、空と読んで下さい。