沛雨
「ここで待ってて」
ドアの前に立つと、灯夜はそんなことを言った。
なにがあるか分からない以上、足手まといを増やす訳にはいかず、一人で入っていくことにしたのだ。
教室の中は静まり返り、どこかよそよそしい。辺りを見回すと、右奥にある席にぽつりと座る少年を見つけた。
少年の気配は酷く薄かった。存在自体が、希薄になっているという印象を受ける。
その少年の近くまで歩み寄ると、軽く肩を叩いてみる。反応はない。今度は肩を強く揺さぶってみた。流石に気が付いたのか、ゆっくりとこちらを向くがその目は虚ろだった。もう一度肩を揺さぶり口を開こうとすると、虚ろだった目が正気を戻し始める。目を見開くと、立ち上がって両肩を強く握られる。
「おい!僕のことが分かるのか!?分かるなら、僕の話を聞いてくれ!頼む!」
必死に訴えかけてくる声は、喉が枯れるまで叫んでいたのか、しゃがれていた。
「な、僕ことが分かるんだろ?黙ってないで、なにか言ってくれよ!」
肩にかかる力が増し、大きく揺すってくる。とてもじゃないが、この状況で話をするのは無理だ。
灯夜の都合など、知らぬ相手の感情は高まっていった。
「話を聞けって言ってるだろ!僕はお前なんかより、ずっと優秀なんだ。エリートなんだ。そんな僕を無視するなあああ!」
肩にあった手は振りかぶられ、灯夜に襲い掛かろうとしていた。怒りに任せた大振りの一撃だ。その怒りの籠もったパンチを軽くかわし、クロスカウンターの要領で右ストレートを打ち込む。少年は吹っ飛び、転がって壁に激突した。
灯夜は大人しくなった少年を見下ろす格好になる。
夕子たちが慌てた様子で、教室に駆け込んでくる。
「どうかしたの?」
少年を横目で見ながら言った。
「別に。なんでもない」
「なんでもないって、大声もしたし、凄い音もしたよ」
「ただ、こいつが襲い掛かってきたから、それを止めただけだよ」
「襲われたって……。月代君は大丈夫なの!?どこか怪我とかしなかった?」
ここでの出来事を想像したのだろう。不安そうな顔をした。
「平気だよ」
その言葉に安心すると、すぐ傍で倒れている少年に気を向けた。
「犬神君!」
夕子より先に声を上げたのは早苗だった。
「一体どうしたの?どうしてこんなところなんかに……」
「……分からない。ピアノを弾いていたら、鏡に中に吸い込まれて、気が付いたら、ここにいたんだ」
手加減した甲斐あって、意識は失っていないようだった。頭もすっかり冷めたようで、多少は冷静になっている。
「それに、ここから出ることもできなかった。その上、おかしな体験をさせられてたんだ」
「おかしな体験って?」
奇妙な言動に首を傾げる。
「さっきまでここにいたはずの連中が、僕を無視すんだ。話しかけても、触れても、なにをしても駄目だった。まるで、僕の存在が否定されてるみたいだった」
話しかけているというよりは、独り言に近い。
三人が犬神の心配をするなか、またしても灯夜は一人考えていた。
(どうして、今まで精神が崩壊しなかったんだ。例え、完全に崩壊しなくても、多少の後遺症は出てもおかしくない状況だった。それに、回復も早すぎる。あんな短時間で立ち直れる訳がない)
灯夜の思う通り、おかしな点が多かった。犬神だけでなく、他の三人も一時間も経たないうちに、元通りになっていたのだ。
精神のダメージは物理的なダメージとは違い、放っておけば完治するものではない。その受けた傷の度合いにもよるが、専門的な知識によって時間をかけ癒されていくものである。
それなのに四人が、四人ともほとんどなんの手も加えず、回復していた。偶然というには出来過ぎていた。
更に思考を巡らせようとすると、肩を叩かれる。今日は邪魔されることが多い。
「月代、どうしたんだ。考え事か?」
「いや、なんでもないよ」
「それならいいけど、あんまり無理するなよ」
返事の代わりに水と食べ物を渡す。そして、犬神に食べさせるよう言った。頷いた円は早速、犬神に貰った水と食べ物を渡すことにする。
こんな安いもの、と文句を言っていたが、残さず平らげていた。食べ終えたところを見計らって、お決まりの質問を投げ掛けた。
「犬神は神凪のこと、なにか知ってる?」
四人の間に緊張が走る。皆、俯き口を利こうとしない。全員なにか知っているのは確かだった。だが、それを訊くことはできない。灯夜はこの時も、訊き出すことはしなかった。
ここに留まる理由がなくなった以上、ここにいることに意味はない。また一人、教室を出る。放っておいても、きっと来るだろうと思っていた。灯夜の予想通り、彼女たちは遅れてついてくる。大方、女三人に説得され犬神もついてきたのだろう。
声を掛けることもなく、灯夜は二年F組を目指し、歩を進めた。
12月に入り寒くなってきましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?クリスマスに大晦日と行事が多い月ですが、風邪には気をつけて下さい。今年も後僅かですが、よろしくお願いします。ちなみに沛雨はハイウって読みます。よかったら、辞書を引いてみて下さい。では。