蒼雲学園
校舎は五年ほど前に改築されたばかりで、まだ真新しい。その立派な造りは、学校というより城を連想させるものだった。
下駄箱で靴を履き替えていると予鈴が鳴る。予鈴を聞いた灯夜は、心の中で遅刻せずにすみそうだ、と安堵した。そんなことを思っていると後ろから声を掛けられた。
その声は濁りなく透き通っている。そして、美しく静かであったが、はっきりと聞き取ることのできる声だった。
灯夜は声の主が女性であることを瞬時に理解した。
「おはよう」
灯夜が振り返ると、見知った顔がそこにあった。
彼女は紺のブレザーに赤いネクタイ、チェックのプリーツスカートという装い。これはこの学園指定の制服で、他校からの人気も高かった。
彼女の背丈は、百六十五センチ前後。整った顔立ちには、少し幼さが残っている。腰辺りまで伸びる絹のような黒く美しい髪。その髪と同色の黒い瞳。すらりと伸びる肢体は、余分なものがついていない。和を感じさせる雰囲気を持ち、大和撫子という言葉がよく似合う少女だった。
灯夜は一瞬惑ったが、すぐに返事をする。
「おはよう」
と、挨拶の基本として彼女に目を合わせて言った。
目が合った瞬間、本当に一瞬ではあったが、彼女の目に昏い光が宿るのを感じた。
灯夜は気のせいかとも思ったが、素直に聞いてみることにした。
「何かあったの?」
「別に。なんでもないわ」
彼女は、感情を表に出さず、素っ気なく答える。
灯夜は、違和感を覚えつつもこれ以上の詮索はしなかった。彼女は靴を履き替えると、足早に教室に向かっていってしまった。後を追うようにして、二人も教室に向かう途中、社が話し掛けてくる。
「確か、彼女同じクラスの神凪静流だよな?」
「ああ、そうだよ」
「やっぱりそうか。にしても、美人だよな。神凪ってさ」
社は嬉しそうに話している。
「そうかな」
確かにかわいいというよりは、美人だ。しかし、灯夜にとっては、あまり興味のない話だった。そんな灯夜のことは気にせず、社は話し続ける。
「しかも、成績優秀で『力』も学年トップレベル!世の中、平等じゃねーよな」
「まあ、その辺は言えてるね」
適当に返事をする。
「俺たち凡人にも分けて欲しいくらいだよ」
「僕は凡人でも、お前は違うだろ?『力』だって使えるじゃないか」
灯夜はやや不満げに言った。
「悪い、悪い。そんなつもりで言った訳じゃないって」
社は顔の前で手を合わせ謝っている。
灯夜が気にしてないというと、その行為を止め、別の話題を振ってきた。
「そういえば、神凪に挨拶されてた、ってことは知り合いなのか?」
「ああ、神凪とは幼馴染なんだ。言ってなかった?」
社は一瞬驚いた顔をした後、羨望の眼差しで灯夜を見る。
「初めて聞いた。でも、いいよな〜。神凪と幼馴染なんてよ。代わって欲しいくらいだ」
そんな社の言葉に灯夜は首を振った。
「社の想像してるようなもんじゃないよ。幼馴染って言っても挨拶するくらいの関係だからさ」
それを聞いた社は、その場に立ち止まり、肩を落とした。それもそのはずで、社は灯夜を通して静流と御近づきになろうと目論んでいたのだが、それが脆くも崩れ去ってしまうという予想外の展開を迎えたからである。
そんな彼の様子に気を留める事無く、灯夜は歩き続ける。
しばらくその場で立ち止まっていた社は、灯夜が先を歩いていることに気が付き、走って彼に追いついた。
「一人で先に行くなんてひでーぞ。こっちはショックを受けてたってのに」
追いついた社が不満そうに言う。
「だって、待ってたら遅刻するだろ?」
置いていくことが、さも当たり前のように言った。
社は納得していなかったようだが、敢えて無視した。ここで、彼の言い分を聞いているような時間がなかったからだ。
二年生の階である三階の廊下に出たところで、社が再び話し掛けてきた。彼の顔には先ほどまであった不満の色はもうない。
「そういえば、今気が付いたんだけど、神凪がこんな時間に登校って、すげー珍しくないか?」
「そうかな。よく知らないけど」
「でも、あの人、俺より学校来るのいつも早いんだぜ?それにクラスの奴らも早いって言ってたし」
確かに社は自分より早く登校することが多い。だから、彼の言っていることは正しいだろう。しかし、彼女も人間。サイボーグなどではないのだから、一日くらい遅刻ぎりぎりに登校することもあるはずである。必要以上に気にすることもなかった。
それより、なぜ社は静流のことになると小さなことでもこだわるのか疑問に思ったが、その疑問を口にすることはなかった。
教室に入ると見慣れた光景が広がる。
生徒が三つほどのグループに分かれ、話をしている。特に変わったところはない。どこの学校でもよくある光景だった。ただ、それは外見上の話ではあるが。
このグループのメンバーは滅多なことがない限り変わることはない。なぜなら、このグループはクラスの中での階級を表しているためである。このことは、誰かが決めたわけではなく、気付けばいつの間にかそうなっていた。
教室の真ん中から窓側辺りを陣取っているのが、最も権力のあるエリートグループである。それらのほとんどが成績優秀で、家柄もよく、『力』も強大なものを持っている生徒で構成されていた。
教室の前の廊下側に広がっているのが、普通グループで、本当に普通な奴ばかりが揃っている。普通といっても、学年で最も優秀な生徒が、集まっているこのクラスにおいての話である。他のクラスにいけば、十分に優秀な生徒ばかりなのだ。また、彼らはエリートグループに入るため、日々ゴマをするという習慣がある。
最後のグループは、後ろの隅にいるもの達である。彼らは通称“歩く屍”と呼ばれている。彼らの多くは、この学園のレベルの高さについていけず、大きくプライドを傷付けられ、踏みにじられ、立ち直ることが出来なくなった生徒だった。
そのせいもあって、生きているのか、死んでいるのか、分からないような状態に陥っているので“歩く屍”と呼ばれている。
どのグループにも属していないのが、灯夜と社、そして中立派と呼ばれる静流だけである。
灯夜と社は、最初から孤立していたので当然の結果であった。ただ、静流は違っていた。
静流は三百年続く由緒正しい家柄の娘であり、才色兼備で身体能力も高い。その上、静流の扱う『霊力』も強大で、学年でもトップクラスだった。
静流には十分過ぎるほど、エリートグループに入る資格があった。事実、グループの中に入ることが、しばしばあった。しかし、彼女はそこに居続けるということはせず、あくまで孤立していた。このこともあって、彼女は中立派という位置づけをされている。
そんなグループを一通り見たところで、灯夜と社は自分の席に向かった。
社の席は廊下から二列目、後ろから二つ目にあり、灯夜の席は窓側の席で、前から三つ目にあった。
灯夜は席につき、教科書を用意すると窓を眺め始めた。決して外の風景を見たいわけではない。ただ、自分のすぐそばの会話を聞きたくがないために窓の向こうを眺めているのだ。
しばらくすると、本鈴のチャイムが鳴り、担任である田中史子が出席簿を脇に抱え入ってきた。
史子の年齢は不詳だが、見た目は若い。性格は明るく、ユーモラスで親しみやすい先生だった。しかし、最初の自己紹介で、このクラスのノリの悪さに見事に玉砕されてからは、大人しくなっている。誰しも地雷を踏みに行く、などという自殺行為はしないものだ。
そんなこんなで、今日も史子は静かに出席を取り始めた。
一通り出席を取り終わると、お決まりの連絡事項を告げ、教室を出て行った。
担任が出て行っても誰も立とうとはせず、座って次の授業の準備をしていた。
灯夜も誰とも話すことなく、ただ窓の向こうをぼんやりと眺めていた。授業が始まってもしばらくはそうしていたが、いい加減飽きがきたので、視線を教室に戻す。
授業の科目は世界史。真剣に講師の言葉に耳を傾けている生徒は少ない。大体の生徒は聞き流している、といった印象を受けた。どうやら今日も欠席者はいないらしい。
(よくサボリがでないな)
密かに驚嘆した。毎度のことではあるが。
(ま、一回サボったら、戻る気なくなりそうだしな)
などとくだらないことを考えつつ、ノートをとり始めた。
そんな退屈な時間はのろのろと過ぎていくのだった。