罠
灯夜経ちは廊下の角を曲がり、下駄箱の前を通る。その先は直進するだけだった。
ただ、下駄箱までは問題なく進むことができたが、その先はそうもいかなかった。長い廊下を歩いていると、徐々に景色が変わっていく。
「あれ、ここってさっきの家庭科室じゃ」
気付いた頃には、戻ってきている。
「なんで。道は間違ってなかったのに」
円も困惑していた。
「ここじゃ、常識は通用しないらしい。もう一度行ってみよう」
二人は頷いて同意した。
だが、今回も同じ結果に終わった。下駄箱までは問題なく行けるのだが、その先のある一定の場に行くと、どこかに飛ばされるのだ。何度やっても結果は同じだった。
二人に疲れが見え始めた頃、少しばかり状況に変化が生じた。再度飛ばされ、やってきたのは、二階にある化学実験室の前だった。
微かだが、辺りには異臭が漂っている。
どこからか声が、大きな叫び声が聞こえてきた。
「助けて!誰か、ここから出して!」
助けを呼ぶ声だった。声は化学実験室から漏れてきている。聞き覚えのある声だった。
「……この声。ゆかりの声だ!」
「うん。間違いないよ。助けなきゃ!」
灯夜は、助けに向かおうとする二人の前に立ち塞がった。
「ちょっと、どいてよ!ゆかりが、死んじゃうかもしれないだろ!」
「そうだよ、月代君!お願い、そこをどいて!」
二人の抗議の声は、聞き入られることはなかった。
「だめだ。どかない」
「そんな!どうして!」
「行っても無駄だからだよ。それに、今行かれると、僕が困る」
本音だった。他の全員が生きているか分からない以上、静流についてなにか知っているだろう二人を失う訳にはいかない。二人は、そんな灯夜の気持ちに気付く様子もない。
円は脇を通り抜けようとするが、腕を掴まれ、全く進むことができなかった。
「離せって、月代!お前があいつら恨んでるのか知らないけど、助けない訳にはいかないだろ?」
状況を分かっていない二人を止めるには、この状況を説明し、納得させる他なかった。
「落ち着いてよ。あそこにいるのは蒼崎じゃない。それに、今助けに行ったら、全員死ぬことになるかもしれないんだ」
「なんでそんなこと分かるんだ!行ってみなきゃ、分かんないだろ!」
円の怒りが静まることはない。これほど激昂している姿は始めて見た。
「……におい」
「え?」
腕を振りほどこうとする力が緩む。
「においだよ。この辺り、少しだけど、ガスのにおいがしてるでしょ?」
二人は意識を鼻に集中させる。本当に僅かではあるが、確かにガスのにおいがした。
「本当だ。ガスのにおいがする」
「ガスのにおいが、するのは分かった。でも、なんで、それがゆかりを助けられない理由になるんだ?」
まだ理解できていないようだ。仕方なく、説明することにする。
「このにおいは、あの実験室の中から流れてきてる。扉や窓が閉まってるのに、においがするってことは、あの中にガスが充満してるって証拠だ。そんなところに扉を開けに行って、あの鉄でできた扉に触れたり、開けたり、物が落ちたりすると、静電気が発生する可能性がある。静電気が発生したら、充満してるガスに引火して大爆発になるよ。だから、行かない方がいいんだ」
「で、でも、それは可能性だろ。静電気が必ず発生するって訳じゃない」
冷静さを取り戻しつつあるが、猶も食い下がる。
そんな円に灯夜はあっさりと止めを刺した。
「確かに、さっきの話は可能性でしかない。でも、それ以外にも理由はある。あんなガスの充満したところじゃ、大声を出すことも、意識を保つことだって難しい。それにも関わらず、彼女は未だに叫んでる。普通の人間には、あんなことできないよ」
今度は完全に沈黙した。
「これは僕の考えであって、不動や石渡の考えじゃない。もし、僕の話を聞いても、行きたいと言うなら、今度は止めない。自分の考えを相手に押し付ける気はないから」
話は終わりだとでも言うように、掴んでいた腕を離した。
彼女たちは悩んでいた。本当はすでに答えなんか出ているのに。二人の足を止めているのは、部屋の中から聞こえてくる、ゆかりの声だった。今も悲痛な叫びが部屋に鳴り響いている。
心の中で謝ると、後ろ髪を引かれつつ、二人は灯夜の後を追いかけた。灯夜を挟んで横に並ぶと、ワイシャツの袖をそっと掴んだ。まるで、辛さの重みを持ってもらうかのように。
それから三人には一切会話はなかった。元々、あまり口を利かない灯夜に加え、よく話すはずの二人が黙ってしまったからだ。
今は三人とも保健室に行くことだけを考えていた。一階に下り、進むと問題の場所に差し掛かる。三人とも、今度こそ辿り着けることを願っていたのだった。




