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佐伯悠馬は胃が痛い

佐伯拓海の場合~父のやらかし話~

作者: 雪森蓮

「佐伯悠馬は胃が痛い」の、

悠馬君がほぼ全部諦めてトップを爆走しているとき、

かねてから疑問だったことを父親を問い詰めて聞いた話。


佐伯拓海さんはわりとエリート刑事の「はず」だったけど、

性格に問題がありました。

エドワードと拓海は、ソファに並んで座り、昔のどうでもいい話をしていた。

学生時代の失敗や、今となっては笑い話にしかならない出来事。

悠馬は向かいの椅子に腰掛け、紅茶を飲みながら、それをなんとなく聞いていた。


「……そういえばさ」


悠馬の声は、あまりにも自然だった。

会話の流れを断ち切るというより、延長するような響きで。


「昔の話って言えば。

僕、初めて外国に来たの、結構突然じゃなかった?」


一瞬、空気が止まった。


エドワードの目が、わずかに泳ぐ。

そして無意識のように、隣の拓海を見た。


拓海は――固まっていた。

瞬きを忘れたように視線を一点に固定し、数秒遅れてから不自然に笑う。


「あー……そんなこともあったな」


声の調子が、明らかにおかしい。


「まあ……知らなくてもいいこと、ってのはあるだろ」


その言葉で、悠馬は確信した。

怪しい。しかも、かなり。


悠馬はすぐには突っ込まなかった。

 カップをテーブルに置き、首をかしげる。


「ふうん。そんな感じなんだ」


拓海が、ほっと息をつくのが分かった。


「じゃあ、いいよ」


その一言で、完全に油断した空気が流れた――その直後。


「自分で調べるから」


拓海の肩が、びくりと揺れた。


「確かさ。僕、五歳くらいの頃だよね。

 父さん、まだ刑事やってたの」


エドワードが、目に見えて焦った。

拓海を見る。

首を振る。

“やめろ”と、必死に目配せする。


けれど、もう遅かった。


 拓海は、しばらく何も言わなかった。

 挙動不審に視線を彷徨わせ、指先でカップを弄び、最後に小さく息を吐く。


「……待て」


 その声は、弱くも強くもなかった。

 ただ、逃げるのをやめた人間の音だった。


「それは……俺が話す」


エドワードは何も言わず、黙って背もたれに深くもたれかかった。

悠馬は、ただ頷く。

拓海は、少しだけ背筋を伸ばし、遠いところを見るような目をした。


「刑事をやってた頃の話だ。正直……褒められたもんじゃない」


その一言で、悠馬は理解した。

これは“やらかし”だ。

しかも、家族ごと国を越えるほどの。


拓海は、ゆっくりと続けた。


「だからな。知らなくてもいい、って言ったのは……嘘じゃない」


それでも話す、と決めた人間の顔で。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


拓海はしばらく黙っていた。

観念した、というより……逃げる選択肢を頭の中から一つずつ消していった末の沈黙だった。


エドワードは何も言わない。

ただ、拓海の横顔を見ている。


先に口を開いたのは、悠馬だった。


「……別に、盛らなくていいから。事実だけでいい」


拓海は小さく息を吐いた。


「刑事をやってた頃の話だ。俺は当時、いくつかの事件を並行して追ってた」


淡々とした口調だった。

まるで、もう何度も頭の中で反芻した説明をなぞるように。


「反社絡みの金の流れ。

 表向きは別件だが、裏で同じ名前が何度も出てくる。

 それだけなら、珍しくもない」


悠馬は何も言わず、ただ聞いている。


「だが途中で気づいた。

その繋がりの中に、警察内部の人間が混じっていた」


エドワードが、わずかに眉を動かした。


「癒着だ。情報が流れ、捜査が逸れ、都合の悪い書類が消える。

 ……見てはいけない繋がりだった」


 拓海は、そこで一度言葉を切った。


「本来なら、ここで上に上げる。

 組織で動く、それが正解だ。だが…」


自嘲気味に、口角が歪む。


「でも俺は、待てなかった」


拓海は、正式な報告を上げなかった。

正確には――上げる前に、動いてしまった。


記録に残らない形で、過去の捜査資料を洗い直し、

関係者の動線を自分の頭の中でつなぎ直す。

誰が、どこで、何を知っているか。

そして、誰が“知りすぎているか”。


その中に、妙な空白があった。


事件とは直接関係のないはずの情報。

家族構成。年齢。

通っている園や学校の名前。


「……来てるな」


そう呟いた時には、もう答えは出ていた。


狙われるのは、自分じゃない。自分は、まだ盾になる。

だが――子供は違う。


悠馬は、何も知らない。

名前だけ。“刑事の息子”という、ただそれだけの肩書き。

それが、牽制にも、脅しにもなる世界だと、

拓海は嫌というほど知っていた。


正式に上に上げれば、動く人数が増える。

時間がかかる。情報も、必ずどこかで漏れる。


……間に合わない。


そう判断した瞬間、拓海は切り替えた。


守る対象を、捜査から外した。

職務から切り離した。

国ごと。

「飛ぶしかなかった」


拓海は、淡々と言う。


逃げたんじゃない。……連れて行ったんだ」


それが、刑事として終わった瞬間だと分かっていながら。


 拓海は、しばらく俯いたままだった。


「……全部、俺のせいだ」


 言い切る声だった。

 自己卑下というより、事実確認に近い。


「お前らが、長いこと日本に戻らなかったのも。

 こっちで生活を固めたのも。全部、その続きだ」


悠馬は、少しだけ眉をひそめる。


「……戻らなかった、んじゃなくて?」


拓海は、小さく首を振った。


「戻れなかった」


短い言葉だったが、重みがあった。


「俺が動いたことで、表向きは全部処理された。

 でもな、裏は違う。完全に切れた繋がりなんて、そう簡単にできない」


視線を上げ、悠馬を見る。


「日本に戻れば、必ず誰かが動く。それが確認なのか、

報復なのかは分からない。だが……可能性がある限り、戻れなかった」


悠馬は、すぐには何も言わなかった。

ただ、静かに聞いている。


「だから俺は、こっちを選んだ。

遠くに行くことを。距離で、時間を稼ぐことを」


拓海は、苦く笑う。


「父親としては、正しかったかもしれない。

 でも刑事としては……最悪だ」


そこで、エドワードが口を開いた。


「今だから言えるが」


その声は落ち着いていた。


「当時の判断としては、最善に近かった」


拓海が、わずかに目を向ける。


「君が上に上げていたら、“守られる対象”は増えたが、

同時に“知られる人数”も増えていた」


エドワードは続ける。


「君が選んだのは、組織の正解ではない。

 だが……家族を含めた現実的な選択だった」


悠馬は、ゆっくり息を吐いた。


「……なるほどね」


納得と、割り切れなさが混じった声だった。


「じゃあさ。僕が知らないまま育ったのも、

 意図的だったんだ」


拓海は、はっきり頷く。


「知ってたら、顔に出る。

 癖も、動きも、全部な」


 少し間を置いてから、付け足す。


「……今だから言える話だ。

 あの頃のお前には、絶対に言えなかった」


沈黙が落ちる。けれど、それは重すぎるものではなかった。


時間が、ようやく追いついた沈黙だった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


悠馬は、しばらく何も言わなかった。


理屈は、分かる。父親の判断も、当時の状況も。

それが最悪を避けるための選択だったことも。


理解はできた。


けれど。


納得は、できない。


悠馬はカップを持ち上げ、もう冷えきった紅茶を一口飲んだ。

味は、よく分からなかった。


「……守ろうとしたのは、分かるよ」


声は落ち着いていた。感情を抑え込んだ、というより、

整理しながら話している声だった。


「でもさ。守られてる側は、何も知らないまま連れて行かれて、

理由も分からず環境が変わって、

それを“当たり前”として生きるしかなかった」


拓海は、何も言わない。


「それって……守られた、って言っていいのかな」


問いかけではなかった。自分自身への確認だった。


「分かるんだ。父さんが間違ったとは思ってない」


一度、言葉を切る。


「でも、納得はしてない」


その一言に、空気が静かに張りつめた。


エドワードは、悠馬の横顔を見て、何か言いかけて、やめた。


拓海は、ようやく口を開く。


「……それでいい」


掠れた声だった。


「分かってもらえるだけで、十分すぎる。納得まで求める資格は、俺にはない」


悠馬は、ゆっくり息を吐く。


理解と納得は、同じじゃない。

それを知ったまま、大人になる。

それが、自分の立ち位置なのだと。


その夜、悠馬は初めて、“守られていた過去”を

そのまま肯定できない自分を、否定しなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


すでに起きてしまったことだ。

今さら責めても、関係が壊れるわけじゃない。


悠馬は、そのことをちゃんと分かっていた。


父親が選んだ判断も、当時としては最善に近かったことも、

理屈では理解できる。


それでも。


納得は、やはりできない。


(……そのせいで、こっちは毎日胃薬飲む羽目になったんだぞ)


口に出すほど子供でもないが、

胸の奥に沈めるには、あまりに生々しい実感だった。


拓海のやらかしは、思っていた以上に深く、広く、

………そして厄介だった。


善意で、

焦りで、

自分一人で抱え込んで――

結果として、家族ごと巻き込んだ。


守られていたのは事実だ。だが、その守り方は、

人生の形を歪めるには十分すぎた。


悠馬は、ゆっくり息を吐く。


(……やっぱり、父さんはクソ親父だな)


愛情がなかったわけじゃない。むしろ、ありすぎた。


だからこそ、

判断を誤り、

境界を越え、

「自分が止まるべき線」を見失った。


――似ている。


ふと、別の顔が浮かぶ。


(ノアは)


きっと、似たようなことをやらかしかねない。

拓海に似ている。

頭が回って、行動が早くて、

「待つ」という選択を後回しにするところが。


善意で踏み込み、正義で線を越え、

………気づいた時には戻れなくなる。


(……多分、いつかやる)


だからこそ。


(鎖を、つけておこう)


逃げられないためのものじゃない。

暴走しないための、重りだ。


一人で抱え込ませないための線引き。

「ここから先は、一緒に考える」という合図。


自由に動けるからこそ、

止める手は、最初から用意しておく。


悠馬は、父親のやらかしが

自分の思っていた以上の“やらかし”だったことを、

改めて噛み締めた。


そして同時に、同じ轍を踏まないために

何を残すべきかを、はっきりと理解した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


その夜、悠馬は一人で考えていた。


もし、父が――

拓海が、もっと普通の人間だったら。


暴走せず、

独断で動かず、

何事もなく職務を終え、

ただの刑事として、ただの父親として生きていたら。


自分はどうなっていたのだろう。


小学校も。

中学校も。

高校も。

大学も。


すべて、日本で。違和感も説明も必要なく、

「そういうものだ」と受け入れられる環境で。


何かを背負う理由もなく、

誰かを守る覚悟を求められることもなく。


今の年齢――二十五か、二十六。

そのくらいの自分は。


胃薬を片手に書類を睨み、

自分より遥かに年上の人間たちと

毎日のように会議を重ねる必要もなく。


隣に、ノアの姿もない。


もっと軽くて、

もっと鈍くて、

もっと「普通」の人生。


………それは。


『それは、もう佐伯悠馬ではないのではないか。』


悠馬は、ふっと息を吐いた。


違う道を想像すればするほど、そこに立っている自分が、

どうしても現実味を持たない。


あの父のやらかしがなければ。

あの選択がなければ。

あの逃避がなければ。


今の自分はいない。


納得はできない。今でも、できない。


それでも。


(……結果として、これが最適解だったのか?!)


答えは出ない。

出るはずもない。


ただ一つ確かなのは、この人生が、

”選び直せない地点”まで来ているということだけだ。


悠馬は、胃薬を口に含み、書類に視線を戻した。


『絶望感を、完全には隠しきれないまま。』










本編?の「佐伯悠馬は胃が痛い」もよろしくお願いします。


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