第0章 序章
突然ではありますが…
「あなたにとって…
何よりも辛い事はなんですか?」
もしも…このような問い掛けを突然、
誰かにされたとしたなら…
あなたなら…どのように答えますか?
それは…
誰しもがきっと…
このような答えを
口にするのではないでしょうか?
それは…
中村澪「最愛の人を喪う事。」
確かに…それはそうなのですが…
急に現れていきなり涙を流しながら
正解を話してしまったこの子について
紹介します。
この子は…
九州の太宰府天満宮に奉られている氏神様の切なる願いにより異世界転生を果たした中村澪という名前の子です。
太宰府天満宮の氏神様と言えば…
現世に生を受けていた頃
の名はあまりに有名でございました。
その名は…菅原道真。
澪「菅原道真なら
遣唐使を廃止にしたあの人…。」
そう、時は西暦894年〈=彩華が学生だった頃はこのように習いましたが今では年号は覚えなくても構わないとされております。〉菅原道真は遣唐使の役人に選ばれましたが遣唐使の危険性を時の帝に上奏し遣唐使は廃止されました。
彩華「894《はくし》に返すよ、
遣唐使。」
語呂合わせで歴史上重要な出来事を覚えていた彩華はさておき…話を本題に戻しますと…
澪「最愛の人…」
最愛の人とは…人によって個人差が
勿論あるものでございます。
彩華「私の喪いたくない存在は、
家族と好きな人です。」
その存在は、家族だったり
友達だったり仲間だったり
恋人だったり推しだったりと様々。
ちなみに推しと言うのは…
自身が応援している人の事で
ファンみたいなものでございます。
推しの説明はさておき…
澪の最愛は…誰かと申しますと…
澪「私の最愛は…知盛様でした。」
澪の場合は知盛の正室である武藤鳴海の急逝により継室として嫁いだ夫である平知盛の事でした。
平知盛は、
平清盛の4男に当たる人物で母親は、
清盛最愛の正室である高階明子…ではなく…高階明子の幼なじみであり平家一門の血を受け継ぐ人物であり明子亡き後、継室として清盛の事を支え続ける人物でございました。
時子自体は優しくて芯の強い一門の事を誰よりも重んじる女性でしたが…異母弟がいつも問題を起こし時子の事をひどく悩ませておりました。
それは…
平時忠「平家に在らずんば人に在らず…。禿達よ、平家に対する不平不満を口にした者達を成敗してしまえ…。仕事をしてくれるならば…食べていけるだけの金と食べ物を渡すぞ…。」
平家物語の大変有名な冒頭部分である〈奢れる平家は久しからず…〉と言われる由縁を産んだのは殆どこの男。
ちなみに禿は、
戦により父母を喪い身寄りを喪った子どもらの事で時忠は平家に対する不平不満を鎮圧する為に彼らを雇い…これによって平家に対する不平不満は日に日に増す事となりました。
時子「何であなたは平家一門の名声を奈落の底へと突き落とすような真似をするの?お馬鹿!」
時忠「まさか…この年齢で姉上からお馬鹿などと呼ばれるとは…」
時忠の嘆き節やらぼやきやら…はともかく話が脱線してばかりなので話を本題に戻したいと思います。
その前に…
人が最愛を喪うと当然の事ながら…
その人と共に刻むはずだった時間は…
突然…奪われてしまう事となります。
何故ならば…
最愛の人を喪うという事は…
その人は現世での生を終えてしまったという事になります。
澪「知盛様。」
澪がどれだけ知盛の名を呼んでも
知盛の声が澪に聞こえる事はなく…
知盛がもう現世に居ない事を実感する度、澪の大きな目からは止めどなく涙が溢れてしまいます。
澪「…知盛…様…」
どうして澪の夫である知盛が命を落とす事となったかと申しますとそれには複雑な時代背景がございました。
知盛の父親である平清盛と
その宿敵である源義朝は先祖代々…
勢力争いをしておりました。
平忠盛「先祖代々ではなく…勢力争いのきっかけとなったのは私と為義の時代から…であるな。」
また突然…現れたこちらの人は、
平清盛の父親で武士として初めて殿上人の仲間入りをした平忠盛でした。
もう既に故人ではありますが、
時代背景を説明するには…仕方ないのでそのまま進めます…。
源為義「…源氏と平家の仲が悪いのは先祖代々であるぞ…?ちなみに私はそなたから為義と呼び捨てにされる程親しい関係ではない。」
こちらは源義朝の父親である為義で
源氏の頭領をしながら検非違使の長官にも任命されておりました。
検非違使とは現在の警察であり、
検非違使の長官は代々源氏がしておりましたが為義はそれも不満でした。
為義「中央では平家の事を大事にし過ぎて…源氏を田舎侍と侮っている…」
ちなみにこちらは保元の乱で義朝により討たれておりますが時代背景を語る為に仕方ないので出て貰いましょう。
そんな源氏と平家の争いは…
父親の代から息子達の代になってもなくなる事はありませんでした。
清盛「父上から受け継いだのは…家督とこの戦いを平家の勝ちで終わらせるという切なる願いだ…」
義朝「それに関しては私も同じ。
源氏の勝利でこの戦いを終わらせるという切なる願いとその為に必要な源氏の家督だ。」
総帥である平清盛が率いる平家一門は陽のあたる場所を歩き…頭領である義朝が率いる源氏は陰しかない場所を歩く事となりました。
両者は…常日頃からありとあらゆる事で火花を散らしていました。
時代背景はこの辺りにしまして…
源氏と平家の争いにより最愛を喪った澪が涙で枕を濡らしながら見る夢は…いつも同じ夢でございました。
澪「知盛様…」
もう知盛が澪の元に戻って来ない事を知りながらも…その名前を呟きながら寝るので…夢を見るのは必然と言えばそれまででございますが…
それはともかくとして…
いつも夢の中で澪は…
長門国赤間関壇ノ浦〈=現在では山口県下関市関門海峡にある浦の事。〉で大海原を浮かぶ船の上におり…キョロキョロと周りを見回しながらある人を探しておりました。
澪「葵…。
知盛様を知りませんか?」
澪がたまたま近くにいた侍女の葵に知盛の行方を尋ねると葵は…
葵「武藤の方様、総大将たる方は、
戦の全てを把握する為、大体皆様、船首にいらっしゃいますが…激戦の中で船首に向かわれるのは大変危険な行為ですので十分気を付けて下さい。」
葵のお陰で探している人の場所を
見つけた澪は急いで船の船首へと向かいました…。
するとそこには…
知盛「九州へ行く道を塞がれた?
だから何だ!斯くなる上は平家の意地を見せここで最期の花を咲かせるのみ…ではないか!」
平家にとって最後の頼みである
太宰府のある九州への海路を義経の異母兄である範頼とその部下である船団が塞いでしまい…事態は既に緊迫状態となっておりました。
しかし…
澪「知盛様…!」
知盛に逢いたくて逢いたくて仕方ない澪からすれば…緊迫状態など知った事ではありません。
今すぐ愛しい知盛に飛びつきたい心境ではありましたが…知盛は緊迫した状況報告を受けたばかりで澪に背中を向けたまま…考え込んでおりました。
なので…
澪「知盛様。」
澪は知盛に声を掛け知盛が後ろを振り向いてから少し控えめに抱きつきましたが…
知盛「澪?いきなり抱きつくと蹌踉めくから…少し控えめにして欲しいな…。」
何故だか苦言を呈されてしまい…
澪は僅かな違和感を感じました。
いつもの知盛なら…
知盛「澪!」
くるっと回ってワン!ではなく…
くるっと回ってギューッとそれはそれは力いっぱい澪を抱きしめるのに…
澪『あら?控えめにしたはずなのに…何だか反応があの方みたい…』
何だかこちらの知盛は、
いつもの知盛ではなく…
澪はどちらかと言うと身内以外に
モテる事のないあの方を思い浮かべて
しまいました。
平宗盛「私は…平家の総帥である。
総帥だからこそ一門の絆を強める為、一門の女性を妻に迎えたまでの事。」
あの方とは…知盛の同母兄ではあるものの女性からの人気が極めて低すぎる平清盛と時子の間に産まれた宗盛の事でございます。
時子「時忠のように言い訳ばかりも可愛くないけれど開き直るのも可愛くありませんよ。」
時子の嘆き節と宗盛の開き直りは
今の澪には関係ないのでさておき…
こちらの知盛は澪が違和感を感じる程いつもの知盛とは違っておりました。
例えば…
知盛「まだ…辛うじて生きているというのに澪は僕に兄上みたく水泳をしろと言うのかな?」
いつもの知盛ならば…兄であり総帥でもある宗盛に度々困らせてはいるものの宗盛を悪く言う事などありません。
澪はいつもの知盛ではないと感じながらも知盛の隣にいられる事が嬉しくて多少の違和感は目を瞑りました。
すると…
平宗盛「知盛ー!後の事は頼んだ。
俺は宝飾品を守らなければならぬから…忙しいんだよ…色々と…。」
長きに渡る源氏と平家の戦に終止符を打つための戦が始まろうとしているのに平家の総帥であるはずのこの男は、
知盛「兄上、もう既に九州へ行く海路は源範頼の軍勢によって塞がれておりまする…。逃げる事は叶いませぬ…」
全てを知盛に丸投げして、
九州に逃げる事しか考えておらず…
二位尼「逃げる事しか考えてないで重衡のように武士らしい最期をむかえなさい…!重衡がその姿を見たらなんと言うでしょう…」
良い歳をしているのに…
清盛の死後、出家して二位尼と名を改めた還俗名・平時子からお叱りを受けてしまいました。
宗盛「誰だ?母上をこの場にお呼びしたのは…。重衡の名前を出されると皆が動揺してしまいます…。」
宗盛は今は亡き同母弟である重衡の名前を言われるとさすがに動揺したのか皆の事を引き合いに出しました。
二位尼「動揺しているのは…宗盛でしょ?重衡の命を救う為にありとあらゆる手を考えても良かったものを…」
二位尼が重衡と呼ぶのは一ノ谷の戦いで知盛の代わりに源氏の捕虜となり…命を落とす事となった宗盛らの同母弟で清盛の5男でした。
宗盛が三種の神器と引き換えに重衡を帰すという交換条件を拒絶した事が命を落とした主な理由でございました。
時子と宗盛の間に生じた軋轢はともかく…一門同士でこのような内輪揉めを起こしているようでは…
源範頼と義経の連携が行き届いた異母兄弟に太刀打ち出来るはずもなく…
勝敗は…あっという間に決まり…
宗盛「…戦は終わった…。
潔く先の総帥〈=今は亡き清盛〉と清子、教子の元へと向かう事にする…」
狩衣…現在でいうところのスポーツウェアを戦場で着用している常識外れのこの男にも取り柄は1つだけございました。
それは…
宗盛「能宗と清宗は…無事か?」
いつもは武将としても総帥としてもどこか頼りないのに子ども達が絡んで来ると一気に強くなるのが宗盛です。
清宗「父上、私も能宗も無事です。」
宗盛にとって最初の妻だった清子が産んだ清宗は15歳となり元服の儀式〈=現在の成人式〉も終わり大人の仲間入りを果たしました。
清子は高齢出産だった事もあり
持病の肺疾患を悪化させる事となり
清宗の元服した姿も見られぬまま…
命を落としてしまいました。
能宗は継室として迎えた教子が産んだ子でしたがこちらも高齢出産であった為産後の肥立ちが悪く能宗を産むとすぐ命を落としました。
清子、教子、2人の妻が望んだ事は、
乳母に託さず男手1つで息子達を育てて欲しいという切実な願いでした。
宗盛「妻の願いも叶えられぬ者は、
男ではない。」
妻子に対する愛は溢れんばかりのものを持っている宗盛なのですが…
宗盛「…俺は平家の総帥として優美に凛々しく振る舞わなければなるまい。だから…鎧などは着られぬ…」
これは戦であると言うのに
宗盛は鎧を着る事を頑なに拒み…
その父親を見て育った清宗と能宗も
真似をしなくても良いのに狩衣で出陣をしておりました。
しかし…
壇ノ浦の戦いでの総大将は
知盛であるもののこの男は…自分でも口にしている通り平家の総帥です。
それ故、源氏に捕まるなんて事になったらそれこそ前代未聞でございます。
そのため…
「御免被る!」
宗盛、清宗、能宗は…痺れを切らした配下によりまだ冷たい春の海へと船上から突き落とされました…。
清宗「父上、冷たすぎます。」
宗盛「…では…源氏に捕まらぬよう
寒中水泳でもするか?」
能宗「はい、父上。
異母兄上。」
こうして狩衣姿で海に飛び込んだものの狩衣は軽いので浮いてしまい死にきれなかった宗盛父子は寒中?水泳をする事になりました。
源義経「無様を晒すあの男が…
まさかの総帥とは…平家も落ちぶれたものよ…」
源氏の総大将を務める義経からは、
軽蔑され実の弟である知盛は、
知盛「兄上、春の海では寒中にはなりませぬ。確かに水温は低いと思いますが…。」
宗盛の呟いた寒中水泳の寒中がどうにも気になるようで船上で何故かそこだけを突っ込んでいました。
澪「…知盛様、突っ込むべきはそこではありませぬ…。そもそも戦に狩衣で出陣する事自体間違いでは…?」
知盛にとって最愛の妻である澪は、
冷静にそこを突っ込んでいました。
宗盛「…おーい!俺はいつまで泳いでおれば良いのだ…?」
宗盛が大声で叫ぶと船に引き上げたのは味方である平家ではなく…
源氏の兵士・弥兵衛「平家の総帥とその息子達を捕まえたぞ!一兵卒とも本日でサヨナラだな。」
義経に雇われた一兵卒である弥兵衛。
義経「弥兵衛!良くやった。異母兄上に頼んで源氏の配下に加えて貰うから楽しみにしておれ。」
義経は大喜びですが知盛と時子は、
情けない宗盛の姿に今にも恥ずかしすぎて顔から火が出そうでした。
知盛「…兄上…。清宗、能宗。平家の公達が無様を晒してはなりませぬ…」
こうして宗盛、清宗、能宗親子以外は皆、鎧などを海へと飛びこむ前に着込みました。
時子「陛下、海の底にも都はございますので共に参りましょう。」
知盛と宗盛の母親でもある二位尼…還俗名・平時子も高倉帝に入内した娘・建礼門院徳子の産んだ安徳帝を抱いたまま宗盛の集めた宝飾品を懐に詰めて重石代わりにして春の海へと飛び込んだのでした。
知盛は源氏に捕まった総帥である兄・宗盛の代わりに総大将としてその全てを自身の目に刻み込んでいました
知盛「澪、そなたは見てはならぬ…」
隣で悲しみのあまり顔を歪めている
最愛の妻・澪の目を優しく塞ぎながらも知盛はその全てを見つめていました
澪「知盛様、自身の一族が春の海へ飛び込む姿を見るのは辛くないのですか?」
澪とは違い微動だにしない知盛に対して澪はある質問を投げ掛けました。
すると…
知盛「辛くないはずがなかろう。辛くても僕は総大将としてこの現実を受け入れなければならぬ…。僕が指揮を任された戦で皆の命が散ったのは紛れもない事実なのだから…」
知盛は総大将としての覚悟と威厳を瞳の奥に宿しておりました。
但し…
宗盛と清宗・能宗よりも
勇気がなかったものがおりました。
それは…
時忠「寒いのは勘弁じゃ…
義経殿、そなたに側室として我が娘を娶って頂きたいのだ…」
知盛にとって母方の叔父に当たる・
平時忠でございました。
時忠の娘・真理「…どうして私が一族の仇に嫁がなければならないのでしょうか?」
時忠の娘であり真理は極めて不服そうにしておりましたが義経は美女にとても弱い事もありまして…
義経「ふむ…。仕方あるまい。私にとって美女は必要不可欠だからな…」
こうして真理は何よりも自分が大好きな時忠に利用されてしまい父親の助命と引き換えに義経の側室となりました
真理「碌でなし!」
父親のせいで犠牲となった真理は、
極めて気の毒ではありましたが…
知盛には為す術などありません…。
そんな中平家一門の中でも壮絶過ぎる
最期を遂げたのは知盛の従弟である平教経でございました。
平教経「義経、どうせならば…
そなたを道連れにしてくれる!」
小柄な義経と大柄で力の強い教経では
速さでは義経に敵わないのは一目瞭然ではありましたが…窮鼠猫を噛むとも申しますので少しでも可能性があるならば…と知盛も僅かな可能性にかける事にしました。
しかし…
義経「側室を得たばかりで逝けるか?」
義経は強気で美人な側室・真理を迎えた事で更に強くなりました。
真理「…父上の身勝手な望みで貴方の側室になっただけなのだから貴方が逝くなら逝かれても構いませんわ…。念の為に申しますがお逝きになられるなら1人で逝かれて下さいね…。」
義経「…そこまで言われては意地でも振り向かせたくなるな…。では…そなたが振り向くまで生きるとするか。」
義経は船と船を軽々と飛び越え、
教経とはかなりの距離を取りました。
教経「斯くなる上は…
お前達を道連れにしてくれん!」
教経は土壇場で平家から源氏に乗り換えた阿波水軍の水夫達を2人抱えると
阿波水軍水夫・太朗「助けてくれ~!」
阿波水軍水夫・次郞「おらには産まれたばかりの娘と可愛い妻がいるんだー!」
教経の両腕で悲鳴をあげる水夫達でしたが教経はそんな事お構いなしに船の錨を背中にくくりつけると2人の水夫達を道連れに海の中へと飛び込んだのです…。
義経「恐ろしき兵だな…真理のお陰で死なずに済んで幸いと言ったところだな…」
知盛「…教経…。」
こうして平家の船上に遺されたのは、
澪「私達だけが遺りました…
これからどのようになさいますか?」
知盛、澪、佐武郎〈=後の知宗〉咲樂のみとなりました…。
すると…
知盛は真っ直ぐ前を見据えながら…
知盛「僕は総大将として見るべきものは見た…。今は潔く一門の皆の元へ逝くべき時ではないのだろうか…?」
平家一門の意地を貫くためまだ冷たすぎる春の海への入水を選びました。
澪「知盛さん、私も共に…」
知盛の継室である澪も鎧を3枚重ねて
入水する仕度をしている知盛の隣で、自らも鎧をつけようとしたのですが
知盛「ならぬ、
そなたは死んではならぬ…」
知盛は今にも泣き出しそうな声で
澪の手を自らの手で包むようにすると今度は澪が泣き出してしまいました。
澪「…どうして…?」
知盛は澪の涙を優しく拭いましたが…
澪はその瞬間…
澪「知盛様…!」
自身の発した声に驚き、
夢の途中で目覚めてしまいました。
澪がまさかと思い自分の目の辺りを指で触ると瞳が濡れておりました。
澪「お願い…逝かないで…」
澪は壇ノ浦の戦いで最愛の夫を
喪ってから時が止まっていました。
澪は許されないと知りながらも…
ある言葉を口にしていました…。
澪「知盛様、お願い…側にいて…」
もし死後の世界があるならもうそこに向かっているはずの知盛のためこのような言葉を口にしてはなりません。
それを知りながらも澪の心は
知盛の事を想い焦がれていました…。
だけど…
澪「…」
澪の命は1人のものではなく…
澪に生きて欲しいと願う全ての人間のものでございました…。
そんな毎日の繰り返しで…
時は西暦1185年06月24日。
澪「…知盛様…!」
知盛が壇ノ浦の海に身を投げた…
西暦1185年03月24日から同じ夢ばかり見て目覚めてを繰り返す澪でしたが…彼女のそんな様子に心を痛める者がおりました。
澪…元々は現代を生きる女子高生だったが何者かにより大阪難波駅のホームで突き飛ばされ命を落とした事を不憫に思った学問の神様、菅原道真により平安時代へと異世界転生を果たした女性であり平家滅亡に殉じまだ寒い春の海へと身を投げた平知盛の継室であり最愛の妻だった。
それは…
武藤頼平『…どうすれば澪を助けてあげられるのだろうか…?』
武藤頼平…平知盛の正室だった武藤鳴海の実兄であり澪が知盛の継室となる際、兄貴分となり支える事を約束したものの…本当は、
それ以上の気持ちを持っていました。
心と身体はやはり裏腹なもので…
こんな事をしてもダメだとは思いながらも…
気づいた時には澪が休む部屋の襖を乱暴に開け泣きじゃくる澪を抱きしめておりました。
しかし…
澪「…知盛様…。」
叶わぬ恋に苦しむ頼平の気持ちを裏切るように澪の唇は…知盛の名を呟くのでございました。
武藤頼平「…澪!しっかり致せ。
ここは京にある我が屋敷ぞ…!」
しかし…
武藤頼平「…澪!」
こちらもどうやら夢だったようで…
目覚めた後の後味の悪さと来たら…
頼平「極めて気分が悪い…。」
それはさておき…
源平合戦が終結してから3ヶ月の時が流れ初夏の気配を感じるこの頃は、
京の都は夏もまだ先だと言うのに
毎日焦がれる程の暑さでした…。
結羅「お坊ちゃま!さっさと飛び起きて下さりませ。朝餉の器がいつまでも片付けられず…迷惑しております!」
目覚めた後の後味の悪さと茹だるような暑さにうんざりしていた頼平でしたが乳母である結羅の大声を聞き結局、飛び起きる事になりました。
頼平「…結羅…。どうして私が飛び起きなければならんのだ?そう言えば…鎌倉に向かう準備をせねばならぬが澪は…相変わらずか…?」
長年京の都で暮らしていた頼平でしたが鎌倉に幕府を開いた源頼朝に仕えるため御家人として鎌倉へと向かう事となっていましたが澪の身を案じるあまり出立するのを延ばしておりました。
結羅「最愛の人を喪えば…
その人の時間は止まるのですよ?」
結羅…武藤頼平の乳母で今は亡き武藤頼兼の側室だった。その為、頼平も母のように思い慕っている。
頼平「…生きている人間は死んだ人間には敵わぬ。生きている人間は歳を重ねて老いていくが死んだ人間は死んだ年齢のまま歳を重ねる事はないのだから…な。」
結羅「お坊ちゃま、年寄りみたいな発言はお辞め下さりませ。生きている人間にも出来る事はあるんじゃないですか?きっと…」
頼平の年寄りみたいな発言はさておき
澪の時間は結羅の言う通り…あの日から止まっていました。
澪「…」
澪は頼平の部屋の隣室にある客間から
外に出る事はなく…昼夜問わず真っ暗な部屋の中で今は亡き最愛の人を偲んでいました。
そんな澪の心に寄り添おうとずっとその傍を離れず近くに控えているのは…
亜樹「澪の方様、少しはお食べになられませんと…体力が持ちませぬ。京の夏は身体に堪える暑さですよ?」
亜樹…知盛と澪が祝言を挙げた時から澪に仕えている古参の侍女。
佐武郎と咲樂の乳母代わりもしており
基本的に休む暇のない忙しさではあるものの…
澪「亜樹にばかり頼ってしまい…
本当にごめんなさいね。」
澪の気持ちが少しでも前向きになればと願いながら今日もその心に寄り添っておりました。
亜樹「澪の方様、勿体なき御言葉にございます。しかし…亜樹の事を思われるならば少しでも口にして下さりませ。亜樹は澪の方様のお身体が案じられてならないのでございます。」
亜樹と澪の話が聞こえたようで
頼平はまた頭を悩ませてしまい…
頼平「鎌倉殿〈=源頼朝〉から早く出仕せよとの檄がこれでもかと言わんばかりに届くのだが…結羅、今は鎌倉に行かぬ方が良いのではないか?」
すると…
頼平の発言に対して結羅は、
自らの唇に人差し指を当てると…
結羅「主となられた鎌倉殿に逆らってはなりませぬ。澪様の事は私と亜樹にお任せ下さりませ。万事、頼平様が望まれるように致しまする…。」
澪と頼平の為に万全を期す事を約束した結羅ではありますが…あの日の事はあれからどれだけの月日が流れようとも忘れられそうにありませんでした。
何故なら…
結羅「長門国まで澪様をお迎えに行くと聞いた時には血の気が引きましたよ。本当に…頼平様は困ったお方ですね…」
結羅の心配などお構いなしの頼平は、
隣室の客間ばかりを気にしていました
澪「頼平様、御迷惑をお掛けました。」
頼平「澪、その事はそなたの責任でなく私が助けたいと思ったから助けに行ったまでの事だ。」
そんな澪…中村澪は今から03ヶ月前、
壇ノ浦にて非業の最期を遂げた平知盛の継室であり武藤頼平の父親である武藤頼兼の猶子でもありました。
そんな澪は知盛の事を誰よりも愛していたので決戦の地である壇ノ浦にて
最期の瞬間を迎えようとしていた
知盛の腕に縋りつきました…。
澪「如何なる時も私は知盛様のお側にいたいのでございます…」
しかし…
知盛「ならぬ…そなたは生きてくれ…
子ども達には母が必要だ…」
知盛は澪達が生きる事を願い
1人まだ冷たい春の海へと飛び込み…
自らの命を絶ちました…。
澪「逝かないで…知盛様…」
すると…
頼平「帰ろう、澪。
子ども達と共に私が当主を務める武藤家の屋敷へ…。」
知盛の配慮により迎えに来ていた頼平と子ども達を連れて京に戻った澪でしたが子育てが出来るような精神状態ではありませんでした。
澪「頼平様、もし鎌倉に向かわれるなら私を鎌倉殿の元へ連行して下さりませ。私は夫の元へ逝きたいのです…」
鎌倉殿とは頼平が新しく仕える事になった源頼朝の事ですが…平家の武将達の血が繫がる事を許せないようで…
落ち武者狩りに力を入れていました。
すると…
頼平ではなく頼平の乳母である結羅が
何故このような事を口走ったのかは
定かでないのですが…
結羅「澪様を連行するなど今は亡き大殿がお聞きになられたらどれ程悲しまれてしまうか分かりませぬ…」
今は亡き大殿〈=頼平の父親であり先代当主となる武藤頼兼。〉の話を持ち出したのですが…これには頼平も困惑の色を隠せませんでした…。
何故ならば…
頼兼は後ろ盾のない澪が、
知盛の元へ再嫁するためだけに…
清盛から便宜上猶子として迎える事を強制されただけで名前だけの親と言った立ち位置でございましたので…
もし生きていたとしてもそのような反応をするかと言われれば…頼平でさえも小首を傾げてしまう程でした。
但し…
頼平からすれば奈落の底に突き落とされてしまう程の絶望になってしまう事は今の澪に言うべき言葉ではない事は頼平とて理解していました。
だからこそ頼平は…
結羅の言葉にも何も返さず…
頼平「…」
思わず黙り込んでしまいました。
澪はそんな頼平に対しても構わずに
思った事を口にしました。
澪「…どうして何も仰せになられないのですか?」
澪から強い口調で問われた頼平は、
澪の真正面に座り…澪と真剣に向かい合う事にしました。
頼平「澪は知盛殿の元に逝けたら満足かも知れぬが遺された者達は如何するのだ?」
頼平は下を向いてばかりの澪の両肩に手を置いてその瞳を見つめながら…
澪の心に問い掛けておりました。
亜樹「…なりませぬ、澪の方様…
知盛様はきっと悲しまれまする…。
最期の願いを澪の方様に託されたのですから…。」
頼平の言葉に亜樹は共感し、
今にも泣き出しそうになりながら…
澪の事を引き止めました…。
知盛『澪は子どもらと共に生きるべきだと僕はそう思っている。』
澪が思い浮かべた知盛は、
澪と子ども達の幸せだけを考えて
優しく微笑んでおりました。
澪「知盛様…。」
頼平は澪の事を想うが故に、
敢えて厳しい言葉を澪に告げました。
それは…
頼平「澪が連行なり出頭なりの道を選べば鎌倉殿は子ども達を探し…その命を奪うは必至ぞ…。それでは知盛殿は浮かばれぬ…ではないか…」
それと…
亜樹「澪の方様、みつ殿に託された知忠様の事をお忘れになられたのですか?」
亜樹から告げられた知忠という名前を久しぶりに聞いた澪は…知盛を喪った事で自暴自棄になっていた事もあり…
漸く思い出しました…。
それは…
知忠「母上様、どうか健やかにお暮らし下され…。自分もみつと共に穏やかな暮らしを致しまする。」
知盛と澪にとっては次男にはなりますが鳴海と知盛の間に産まれた知章を含めると正式には三男になる知忠という息子の事でございました。
澪「私が鎌倉殿に連行されたり鎌倉殿の元へ出頭すれば恐らくみつに託した知忠の存在も明るみに出るでしょうね…」
亜樹と頼平は澪の言葉に頷き、
澪は今まで失っていた生気が蘇ってきたような不思議な感覚を覚えました。
それと…
澪「佐武郎、咲樂」
1歳の乳飲み子である佐武郎と5歳になる咲樂の命も風前の灯火となるは…
必至…。
知盛『咲樂は何だか澪に似ている気がするよ…。佐武郎はもしかして僕かな?』
戦の時は優雅で気品ある話し方を心掛けている知盛でしたが家族の前では…砕けた話し方をしていました。
澪「知盛様…。」
頼平と亜樹、それに結羅は澪のために心を砕き説得を重ねました。
頼平「澪、知盛殿が最期の瞬間、澪に託した願いを…澪が知盛殿を愛した証として世に産まれた子ども達を守り抜く事も澪が親としてすべき事ではないのだろうか…?」
結羅「お坊ちゃまにしては良い事を仰せになられました。結羅が訂正すべき点が少しもないだなんて…」
頼平「結羅、その言い方はとても心外に感じるんだけどちなみに私の事を心から誉めているのかな?結羅…。」
結羅がひと言余分な事を口にして
頼平を怒らせた事はさておき…
澪「頼平様、申し訳ありませぬ。2度とこのような言葉は口に致しませぬ…。結羅と亜樹もごめんなさいね。」
澪は頼平と亜樹、それに結羅がした説得のお陰でこれからの人生を生きぬく覚悟を決めました。
頼平「それなら私も結羅から嫌味を言われてまでも澪を説得した甲斐があったものだ…。」
結羅「嫌味ではありませんよ、私なりにお坊ちゃまをお誉めしていたまでにございます。」
亜樹「結羅様、咲樂様が嫌味を真似ては困りますので咲樂様の前では控えて下さりませ…。佐武郎様はまだ1歳なので…覚えられないとは思いますが…。」
咲樂「…佐武郎にしては…
良くやったわ…偉いわね…」
亜樹の隣で咲樂は佐武郎相手に
嫌味な褒め方を実践していました。
亜樹「…咲樂様、
佐武郎様はまだそれが嫌味な褒め方だと覚えられないので大丈夫ではありますがそのような事を覚えてはお嫁の貰い手がなくなってしまいます。」
しかし…
亜樹が幾ら真剣にその将来を案じているとはいえまだ咲樂は5歳なので…
咲樂「亜樹の話は時折難しい。」
完璧に理解するのはまだまだ難しいようでございました。
亜樹「…それはですね…」
亜樹が咲樂にも分かるように
切々と語る隣で澪は1つだけ腑に落ちないところがあったので頼平に尋ねる事を決めました。
それは…
「…どうして頼平様は私のような敗将の妻にそこまで心を砕いて下さるのです?」
そもそも頼平は今は亡き武藤鳴海の兄であり元々澪と祝言を挙げるはずだったのは知盛ではなく頼平でした。
しかし…
武藤家との絆を重視する清盛により
頼兼は娘である鳴海の死後すぐに… 澪を猶子として迎え知盛の継室にせよと命じられてしまった事で諦める努力を強いられてしまいました。
但し…
頼平『本気で好きになったら諦めろと言われても諦められるはずがない!』
まだ、澪への想いを諦めきれない
頼平はある条件を澪へ提示しました。
それは…
頼平「それを知りたいならば
私と…契約恋愛をしないか?」
現代で生きていた事がある澪ですらも聞き慣れない契約恋愛というもの。
澪「私と契約恋愛をして頼平様の利になる事などあるとは思いませぬ…。」
頼平「澪が私と契約恋愛すれば私はいつも澪と共にいられるし鎌倉殿には我が許婚と説明すれば澪や子らの命は救われるではないか?」
澪は最初こそ戸惑いましたが、
今は亡き最愛の夫・平知盛は、
知盛『澪、生きてくれ…。
生きて子らと共に未来へ命を繋いではくれぬか…。』
澪と子ども達の幸せだけを願い
その手を離したのです…。
澪「知盛様…。」
それと鎌倉に行き頼平と行動を共にするならば…鎌倉殿に気に入られてはならない理由がありました。
それは…
頼平「鎌倉殿の女好きは、
筋金入りだと御家人皆が噂している。」
頼平の主人になる頼朝は、
御台所である北条政子が懐妊しているというのに亀の前という愛人を御家人の屋敷に囲い…怒り狂った政子により手痛い仕返しを受けた程でした…。
そんな目に遭っても懲りない頼朝は、
たくさんの浮き名を流しては政子を苛立たせておりました…。
そんな噂を聞けば聞くほど頼平は、
愛しい澪の事が気になって仕方なく
契約恋愛の話を持ち出したのです…。
本当は…
頼平『契約恋愛ではなく本気で恋愛したいのだが傷心の澪にそんな話出来るはずもない…』
そのような事を望んでおりましたが、
澪の事を想うが故、頼平は自らの願望を口にする事はせず自らの心の中で呟くだけにしておく事にしました。
すると…
澪「…そこまで私と子ども達の身を案じて下さるのならば…是非…」
こうして頼平と澪は
契約恋愛をする事となりました。
頼平は知盛の事を愛する澪も、
知盛の想い出ごと愛する事を決め
咲樂の事も今は亡き父親ごと愛する覚悟を決めていました。
1台の牛車に乗りすし詰め状態に近い状態となっていた頼平一行が京の都を後にしたのは…それからひと月後の7月24日の事でした。
澪「これからは…頼平様を父と同じように敬うのですよ、咲樂?佐武郎。」
1歳の佐武郎はさておき5歳の咲樂からすると…納得の出来る話ではありませんでした。
咲樂「私の父親は平知盛です。」
澪「咲樂!」
咲樂の言葉に澪が感情を露わにすると頼平は悲しげに顔を歪ませながらも…
頼平「構わぬ。」
頭では咲樂の死んだ父親に敵わない事など知ってはいましたし覚悟はひと月前に決めたはずでした。
しかし…
気持ちの上では簡単に納得出来ないのも事実で人間の感情というものは複雑なものだとまざまざと…思い知らされてしまった頼平なのでした。
しかし…
頼平と澪の運命をここまでややこしくしてしまった元凶は…
平家が誇るトラブルメーカー兼
ムードメーカである…こちらの方でございます。
平時忠「トラブルメーカーとは誰の事だ?まさか…私ではあるまいな?」
そう、今は亡き平知盛にとって
母方の叔父・平時忠でした。
時忠「命ばかりは助かったものの流刑地での生活は雅でないな…」
今は真理のお陰で命だけは助かりましたが息子共々流刑地におり全く雅とは言えない生活をしている時忠でしたが
知盛の身に起きた悲劇に関しては、
時忠の行いに問題があったと言わざるを得ませんでした。
知盛と鳴海、頼平と澪が筋書き通りに結ばれていたなら頼平もこのような苦痛を味わう事もなかったのですが…
時忠「私の義兄である先代の総帥にも大きな原因があったではないか?全て私の責任にするのも宜しくないのではないか?」
時忠は限りなく不機嫌そうですが、
そろそろ物語を語らせて頂きますね…
では…
時忠「大いに不服じゃ!」