狐が嫁入り
その日、村はしとしとと春雨に濡れていた。
里の外れにある大きな屋敷――
代々続く名家、**篠ノ森家の娘が、“嫁をもらう”**という知らせが流れ、
村人たちは酒樽を出して浮き足立っていた。
けれど、肝心の“嫁”は誰なのか、誰ひとりとして知らない。
婿ではなく、嫁。
それだけでも珍しいのに、篠ノ森家の一人娘・椛様は、
「人間には興味がない」と常々口にしていた人物だった。
だからこそ――
その日、門前に現れた白無垢姿の少女に、村中がどよめいた。
狐面をつけた、銀髪の女。
「……狐じゃないか」
誰かが小声でそう呟いた。
けれど、それは嘘ではなかった。
白無垢の下からのぞくのは、銀の尾。
耳は、風に揺れてぴくぴくと動く。
間違いなく、この“嫁”は、人ではなかった。
「ようこそ、篠ノ森家へ。……ああ、よく来てくれたね」
広間で待っていたのは、当主の娘――椛。
黒髪を結い上げ、男物の紋付き袴を身にまとい、
優雅に、けれどどこか楽しそうに、狐の娘を迎えた。
「こちらこそ……お招き、光栄に存じます」
白無垢の裾を持ち上げて一礼したのは、
**紗狐**と名乗る、山に住む古き狐の娘だった。
椛は目を細めて、笑った。
「やっと来てくれたね。毎夜、夢にだけ現れて。
私を焦らすだけ焦らして……罪な子だよ、まったく」
「夢に入ったのは……主様が、私を呼んだからでございます」
「ふふ、それならもう、責任を取ってもらわないとね。
この私、篠ノ森椛の“嫁”になるってことは、簡単じゃないよ?」
「ええ。命尽きるまで、尾を一つずつ捧げても構いません」
「……その覚悟、うれしいね」
ふたりは微笑み合う。
まるで契りを交わすように、
指先がそっと重なった。
それは、誰の理解も得られない、
ひとつの“嫁入り”のはじまりだった。
夜になり、村人たちはささやいた。
「狐が人に嫁いだそうだ」
「逆じゃないのか」
「いったい、どういう因縁が……」
けれど、真相を知る者はいない。
屋敷の奥。
ふたりだけの部屋に、あたたかな灯りがともっていた。
「……緊張してる?」
「少しだけ」
「ふふ、大丈夫。私は貴女を抱かないよ」
「え……?」
「今はまだ、ね」
椛はからかうように微笑んだ。
そして、紗狐の面に手を添える。
「そのお面、もう外していいよ。
今日からは、私以外に隠す必要なんてないんだから」
紗狐は小さく頷き、面を外した。
あらわになった顔は、
あまりにも美しく――どこか儚げだった。
「……貴女に、初めて会ったときから、ずっと惹かれていた」
「それは……私も」
「じゃあ、今夜はただ、隣で眠ろう」
「はい。……主様」
「呼び方も、明日からは“椛”で」
「……はい、椛様」
灯りが消える。
でもふたりの距離は、確かに近づいていた。
数日が経ち、村はすっかり“狐の嫁”を受け入れていた。
紗狐は礼儀正しく、気配りもでき、
時には人ならぬ力で、庭の花を咲かせたりもした。
椛はいつも彼女の隣にいて、まるで“世界がふたりきり”であるかのようだった。
ある夜、ふたりは満開の桜の下を歩いた。
「ねえ、紗狐。私、ふと思うことがあるの」
「はい?」
「貴女は長生きする。
私は人間だから、先に死ぬよ。
それでも……私を選んで、良かった?」
紗狐は黙って、彼女の手を取った。
「私は、貴女の時間が欲しかった。
この手のぬくもり、声の色、風の匂い。
すべてが愛しくて――失うことさえも、美しいと思えるほどに」
椛は、そっと抱きしめた。
「なら、死んだ後も夢に出てよ。
また焦らしてくれたら、喜んで追いかけるからさ」
ふたりの唇が触れた。
桜が風に舞い、月がその影を照らした。
誰にも理解されない、
でも誰よりも確かに愛し合うふたりの物語。
――こうして、狐は人に嫁いだ。
ただの嫁入りではなく、魂の契約として。