プラトニックな恋を
春の気配は、まだほんのりと冷たい。
でも、私はそれを心地よく感じながらキッチンに立っていた。
時計は午前六時。
まだ外は薄暗く、静寂が部屋を優しく包んでいる。
今日の目的はただひとつ――
「花見に行く、ふたりのお昼を用意すること」。
普段なら起きるのは七時過ぎの私が、
恋人を驚かせようと、めずらしく一時間も早起きしてしまったのだ。
「さて、やるか」
キッチンに立つ自分に、小さく呟く。
早起きの理由はもちろん、里奈の笑顔が見たいから。
私と里奈は、大学時代のサークル仲間だった。
付き合い始めたのは卒業してしばらくしてから。
そして今では、こうして同じ屋根の下、ささやかながら幸せな日々を送っている。
プラトニックな関係。
でも、それで充分。
一緒に暮らす中で感じるあたたかさが、何よりも愛しいから。
「よし……おにぎり、サラダ、玉子焼き。デザートに苺。うん、完璧」
仕上がったお弁当を見て、ひとりごちる。
春色のランチクロスで包んで、隣に小さな水筒も添えて。
「……まだ寝てるかな」
時計を見ると、もうすぐ七時。
里奈がいつも目覚める時間だ。
音を立てないように寝室のドアを開けると、
そこにはぐっすりと眠る彼女の寝顔。
まっすぐな前髪、少しだけふくらんだ頬。
柔らかな寝息が、私の心を撫でる。
「……おはよう、まだだけど」
私は小さな声で囁いて、彼女の髪を撫でた。
触れただけで、朝がもっと優しくなった気がする。
「里奈、起きて。今日は花見に行く日だよ」
ゆすってみると、彼女はふにゃっと目を開けた。
「ん……んん、なに……もう朝……?」
「うん。お弁当も作ったよ。着替えて、準備しよっか」
「え……お弁当? いつの間に……え? え? 凄すぎない……?」
「ふふ、びっくりした?」
「びっくりするよ……っていうか、尊くてしんどい……」
寝ぼけながら顔をくしゃっとさせて、
でもうれしそうに微笑むその表情がたまらなくて。
私は、何でもないふりをしながらそっと顔を背けた。
「……尊いのは、里奈の方だよ」
「なにそれ反則……」
そう言って、彼女は腕を伸ばして私を抱き寄せる。
「朝から可愛いとか、ほんと無理……」
「里奈の方が可愛いでしょ。寝癖ついてるよ?」
「それは今は見逃してほしい……」
ベッドの上で、笑い合う私たち。
それだけで、春がもっと好きになりそうだった。
公園に着いたのは、十時過ぎ。
桜はちょうど八分咲き。
風が吹けば、ひとひらふたひら、花が舞う。
私たちは人の少ない木の下にレジャーシートを敷いて、
手作りのお弁当を広げた。
「わあ、ちゃんとお花見弁当だ……。えっ、可愛すぎない!」
「里奈が喜ぶかなーって思って」
「喜ぶに決まってるでしょ。
今日、100点満点どころか500点くらいあげたい気分」
「そんなに?」
「うん。ていうか、付き合ってるのに全然慣れない。
嬉しいっていうか、毎日初恋みたいっていうか……」
私は笑って、
でもほんの少しだけ胸の奥がじんとした。
たぶん、それは私も同じ気持ちだったから。
「ねえ、未来の話とか、まだあんまりしてないけどさ」
「うん?」
「このまま、こういう毎日が続いたら、幸せだなって。
……そしたらいつか、本当に桜が満開の日に、手を繋いで、同じ名字で歩いてたいなって」
言いながら、自分で照れてしまった。
でも、里奈は笑ったあと、そっと私の手を握ってくれた。
「それ、全部、叶えよう」
「……うん。がんばろうね、ふたりで」
手のひらの温度が、どこまでも優しかった。
満開の桜よりも、私の心を満たしてくれる。
そのあたたかさこそが、日々の中にある、いちばん確かな愛だった。