どこまでも...どこまでも
その日、空は黒く燃えていた。
雷鳴の轟く空の下、私は教会の掃き掃除をしていた。
訓練も終わり、夕の祈りを捧げるまでの静かなひととき。
その静寂を、血の匂いが裂いた。
「……?」
鋭い金属の臭い。風に乗って、祭壇の裏手に流れ込んでくる。
私は慌てて裏口に回り、そして、見た。
倒れていたのは、人ではなかった。
角の生えた額、銀の鱗に覆われた皮膚、背中に折れた翼。
その姿は、まさに伝承で語られる「悪魔」、
中でも最も忌まわしき“龍の娘”そのものだった。
全身に裂傷を負い、右腕は千切れかけ、呼吸も浅い。
でも、ただの怪物には見えなかった。
彼女の顔は、あまりにも――
哀しそうだった。
「手当てをします。傷口を見せてください」
「……やめろ。触れるな」
「動かないで。命に関わります」
「人間……私を見て、恐ろしくはないのか?」
「少しは。でも、今はあなたの方がよほど弱って見える」
「……お前は愚かだな。私は龍の眷属。
王都を三度滅ぼしかけた、伝承にある“災いの悪魔”だぞ」
「ええ、知っています。
でも、助けないのは人として間違っているとも、教わりました」
「お前は……」
「私の名前はリィナ。修道院で見習いをしています。
貴方の名前は?」
しばらくの沈黙の後、彼女はぼそりと呟いた。
「……セレズ。
龍の名を持つ、災厄の子。
そして、悪魔と呼ばれ続けた孤独な命」
私は彼女の傷に薬を塗りながら、微笑んだ。
「セレズさん。あなたは、今日から私の客人です。
人であれ、龍であれ、命は平等。
私の祈りの中で、あなたも同じように癒されますように」
その瞬間、彼女の目が、わずかに揺れた。
数日後、セレズの傷はほとんど癒えていた。
だが彼女は、教会の片隅から出ようとしなかった。
「……恩は、返す。だが、私を慕うな」
「どうして?」
「私の中には、毒がある。
触れ合えば、いずれお前も傷つく。
この鱗の奥には、王国を壊した罪が染みついているんだ」
「でも、それをあなたが望んだとは思えない。
貴方の目は、今まで助けを求めていた人のそれだった」
彼女は言葉に詰まり、私から視線を外した。
「それでも、私は悪魔だ」
「じゃあ、私は悪魔に恋をした愚か者でいい」
「……なんだと?」
「あなたを見て、あたたかいと思った。
あなたの声を聞いて、泣きそうになった。
これはもう、祈りじゃなくて、願いなんです。
――あなたに、生きてほしいっていう」
私は震える指先で、彼女の鱗に触れた。
固く、冷たく、でもなぜか、どこか懐かしい温度だった。
その夜、セレズは初めて、夢の話をした。
「私はね、海を見たことがないんだ」
「え?」
「昔、旅人が言っていた。
空のように広くて、風のようにしょっぱくて、
月の光が落ちてくる場所があるって。
……私は、そこに行ってみたい」
「……じゃあ、行きましょう。ふたりで」
「私が背に乗せて?」
「いいえ。今度は私が、あなたの手を引いて。地を踏みしめどこまでも、どこまでも。」
「……ばかだな、お前は」
「何度でも言ってください。私は、あなたが好きです」
セレズは泣いていた。
龍の娘が流したその涙は、銀色に光っていた。
次の日、教会が騒然となった。
王国の聖騎士が、伝承の“悪魔”の生存を知り、討伐命令を下したのだ。
「……逃げてください、セレズさん!」
「逃げるのはお前の方だ。私は、お前を巻き込むわけには――」
「いいえ!」
私は叫んだ。
「貴方が悪魔だって構わない!
貴方が人を傷つけた過去があったって、構わない!
私は、貴方の隣で笑いたいだけなんです!」
セレズは目を見開いて、そして、私を抱きしめた。
「……今の言葉、死ぬまで忘れない。
例え私が悪を裂く刃に貫かれても、
お前の“好きだ”だけは、ずっと、ずっと覚えている」
私は答えた。
「でも、貫かせませんよ。
悪魔に恋した修道女は、案外しぶといんですから」
ふたりは、夜明け前の空へと消えた。
信仰も、血も、伝承も超えて――
ただ、生きるために。