捧げる音色
王都レオニスの宮廷には、ある噂が静かに広がっていた。
「月の夜、銀の髪を揺らし、男装の女楽師が弦を弾く」
「その旋律を聴いた者は、心が鎮まり、夢の中へ誘われるという」
癒しの調べ。
まるで魔法のような、眠りの楽曲。
それを奏でるのは、若き宮廷音楽家――ユーフェリア・リゼット。
王の側近にして、剣術も舞もこなす才女。
ただひとつ、噂のなかに語られないことがあった。
――彼女が、その旋律を奏でるのは、たった一人の姫のためだけだということ。
「今宵も……来てくれたのね、ユーフェリア」
かすれた声が、薄暗い寝室に響いた。
大理石の柱に囲まれたその部屋の奥、天蓋のついたベッドに、ひとりの少女が座っていた。
その人こそ、王国第一王女――アメリア・フィオリーナ。
病弱ゆえに公の場には出ず、まるで塔に閉じ込められたように育った彼女の、唯一の愉しみ。
それが、ユーフェリアの奏でる音楽だった。
「姫君のご要望とあらば、夜の帳を越えてでも」
「相変わらず口が上手いのね」
アメリアはくすりと笑った。
ユーフェリアは恭しく一礼し、膝をついて楽器を構える。
古のリュートに似たその楽器は、彼女の指先に触れた瞬間、優しく震えた。
そして――夜の調べが、静かに、優雅に、流れ出した。
アメリアは目を閉じる。
音が、ふわりと身体を包む。
誰にも触れられない孤独な肌を、そっと撫でるような旋律。
「……ねえ、ユーフェリア」
「はい、姫君」
「あなたの音には……魔法がかかっているの?」
「さあ。もしそうなら、それはきっと――」
彼女は少し言葉を区切り、静かに微笑む。
「……あなたを想う、私の魔法でしょう」
アメリアは目を開けた。
金の瞳が、揺れていた。
「そんなことを言って、私をどうしたいの?」
「何も。
ただ……今夜も眠れぬ姫に、安らぎを捧げるだけです」
「……ずるい人」
アメリアはそう言って、微かに笑った。
その笑顔は、花がほころぶように脆く、でも確かな温度を持っていた。
ふたりの逢瀬は、誰にも知られず、夜ごと続いていた。
音楽と沈黙のあいだに揺れる、熱と感情。
だが、宮廷という名の牢獄は、すべてを許してはくれない。
王はアメリアに婚姻を命じた。
隣国との同盟のため。
それは王女としての、逃れられぬ運命。
「あなたは、黙って私を祝福するつもり?」
アメリアの問いに、ユーフェリアは静かに首を横に振った。
「できるなら、奪い去りたい。
音楽も剣も捨てて、あなたと共に逃げたい」
「でも、できない」
「ええ。
私は王に忠義を誓った音楽家。
そして、あなたはこの国の光」
沈黙が落ちる。
やがて、アメリアがそっと顔を寄せた。
触れるか触れないかの距離で、囁く。
「……だったら、せめて。今宵だけは...私の愛しき人に。」
唇が、触れた。
それは甘美で、あまりにも哀しい口づけだった。
翌日、ユーフェリアは姿を消した。
王宮からも、歴史からも、音もなく。
アメリアだけは知っていた....彼女が姿を消した理由を。
残されたアメリアだけが、夜ごと、幻のように奏でられた音楽を夢に聞くという。
眠れぬ夜に、その調べを想い出すたび、
彼女は目元を濡らしながら、そっと微笑む。
――あの人の魔法は、まだ、私の中で生きているのだから。
すいませんまたシリアスになってしまいました。