今日も君の味噌汁を飲みたい
「……ん、いい匂い」
朝、キッチンからふわりと香る出汁の香りに誘われて、私はゆっくりと目を覚ました。
誰よりも朝に弱い私がベッドから起き上がる唯一の原動力――
それは、同居人の彼女が作る味噌汁だった。
「おはよう、奈央」
「おはよ、ほのか。起きたばっかで寝癖すごいよ」
「……知ってるけど言わないでほしい」
奈央は苦笑いしながら、鍋をかき回している。
髪をひとつに結び、薄いエプロンを身にまとって、まるで新妻そのものだった。
……いや、ちがう、落ち着け私。新妻じゃない。シェアハウスだ。
同居人。大学の先輩と後輩。
たまたま趣味と食の好みが合っただけ。
――それだけ。
……の、はず。
*
奈央は、見習い女優だ。
朝は早く、夜は遅く、スケジュールは不定。
それでも、私の朝ごはんだけは毎日用意してくれる。
「朝ごはん食べないと、大学で倒れるよ。女の子が倒れるのはドラマだけで充分」
そう言って、ほのかは必ず味噌汁を用意する。
出汁は昆布と鰹。具材は日替わり。
豆腐とわかめだったり、大根と油揚げだったり。
今日はじゃがいもと玉ねぎ。どこか懐かしい、実家の味。
私が初めてそれを食べたとき、思わず泣いたことを、彼女は今も笑いながらからかってくる。
「そんなに泣くなんて思わなかった。味噌汁のCM狙えるレベルだったよ、あれ」
「……うるさいな。でも美味しかったんだもん」
「ふふ、なら今日も泣かせられるよう頑張ろう」
冗談っぽく言うけれど、その声はどこまでも優しい。
この人が家にいてくれる。それだけで、私の日々は明るい。
*
「ところで奈央、今日もオーディション?」
「うん、昼からね。ちょっとしたCMのワンカットらしい」
「……がんばれ」
「うん。帰ったら味噌汁作ってよ」
「え?」
「私も、ほのかの味噌汁飲みたいなーって」
私はしばらく黙ってしまった。
味噌汁はいつも彼女の担当だったから。
逆に、私の料理は不安要素しかない。
「……ほんとに言ってる?」
「うん。だって、毎日あげてるだけじゃバランス悪いじゃん。たまにはもらわないと」
そう言って、奈央は私の額をつんと指で押した。
「先輩にだけ、甘えさせて」
その言葉に、思わず胸が鳴った。
甘えさせて、なんて。
そんなの、もう恋人が言うやつじゃん――。
*
夜。
私は人生で一番慎重に、出汁を取った。
みそも三種類を混ぜて、奈央の好きな合わせ味に仕上げた。
具は豆腐とあおさと、さつまいも。
少しだけ、優しさの味がするように。
「……ただいま」
玄関のドアが開く音がして、私は一瞬固まった。
次の瞬間には味噌汁を手に持って、玄関へと小走りしていた。
「おかえり!」
「わっ、出迎えが全力……あ、でもいい匂い」
「うん、頑張った。私の全力の、はじめての味噌汁」
奈央はコートを脱ぎながら、目を細めた。
「……ありがとう、ほのか。めっちゃ嬉しい」
その声が、ちょっとだけ震えていて。
私は知ってる。
オーディション、きっとダメだったんだ。
でも、そんなことは言わない。
私はただ、味噌汁の椀を差し出して、笑った。
「ほら、泣いてもいいよ。味噌汁のせいにしてあげるから」
奈央は、ほんの少しだけ涙を浮かべて、笑った。
「……ほんと、ずるいな、ほのかは」
「うん、ずるいよ。でも、好きってそういうことだから」
言葉がこぼれた。
もう、隠さない。
奈央は、驚いたように瞬きをして、
そして、ほんの少し照れた顔で、味噌汁をすすった。
「……おいしい。だから、ずっと飲みたい」
その一言で、私はまた泣きそうになった。
今日も、君の味噌汁を飲みたい。
できれば明日も、明後日も、ずっと――。
こういう明るい百合も良いなと思いまして。